カテゴリー「19 基地の町「立川市」」の16件の記事

2012年2月22日 (水曜日)

立川駅北口西地区第一種市街地再開発事業

 近年、JR立川駅周辺は、どんどん発展し変化している。2012_54238540_0
 しかし、立川駅西側の「第一デパート」がある西側地区は雑居ビルが多く、米軍立川基地があった当時同様に雑然としている。

 最近、ここが再開発区域に指定されていると知った。
 これを「立川駅北口西地区第一種市街地再開発事業」と言うそうだが、この計画の中で、一部計画が変更になったと言う。

 それは地下部分を1階から二階構造とし駐車場を設けるという。
 これにより、ビルの延べ床面積は5万7800平方メートルに、事業費は約220億円となる。
 出来れば、この地下を利用して、車が南と北に自由に往来出来たら利便性が高くなると思った。それに、車が通行出来る南北道路が出来れば、駅周辺の慢性的渋滞緩和策になる。

 工事のスケジュールは2012年3月には権利変換計画認可申請を行い、6月に既存建物の除去工事、11月ごろに本体工事、15年11月ごろの完成を目指す。
 再開発の施行地区は、立川市曙町1・2丁目と柴崎町2・3丁目、施行区域面積は約0.7ヘクタール。
 ヤマダ電気を組合員として認めたと言うから、この開発地区に出店するのだろう。

これまでの計画】                           
立川駅北口西地区第一種市街地再開発事業の概要
◆ 所在地-東京都立川市曙町一丁目、二丁目、柴崎町二丁目、三丁目の各地内
◆ 階数-地上32階、塔屋1階、地下1階
◆ 高さ-約130m
◆ 施行区域面積-約7,000㎡
◆ 敷地面積約-約5,900㎡
◆ 建築面積-約4,700㎡
◆ 延床面積-約55,563㎡
◆ 用途-共同住宅(9階~32階)、商業施設(地上1階、3階~5階)、オフィス(6階・7階)

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2011年10月15日 (土曜日)

2011.10/15 第88回箱根駅伝予選.結果

20111015
  来年1月2日と3日に開催される第88回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の予選会が、今日10月15日、東京・立川市の陸上自衛隊立川駐屯地を午前9時30分スタートして、国営昭和記念公園にゴールする20キロのコースで行われた。

 本大会出場が決まった9校は、
 〈1〉上武大〈2〉山梨学院大〈3〉国士舘大〈4〉東農大〈5〉神奈川大〈6〉帝京大
 
〈7〉城西大〈8〉中央学院大〈9〉順大
  だ。
 昨年、このブログに載せた「10/16箱根駅伝予選会の結果
  http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-dc21.html
に多くの方々が間違って訪問されたようなので、今年、平成23年10月15日の結果も併せて掲載しておくことにした。

雨中を激走、上武大など9校が箱根駅伝本大会へ
    http://www.yomiuri.co.jp/sports/ekiden/2012/news/20111015-OYT1T00304.htm
 第88回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝=関東学生陸上競技連盟主催、読売新聞社共催)の予選会が15日、東京・立川市の陸上自衛隊立川駐屯地をスタートして国営昭和記念公園にゴールする20キロのコースで行われ、1月2、3日の本大会への出場権を40校が競った。
 20年ぶりに雨の中での開催。途中で雨も上がり、山梨学院大のオンディバ・コスマス(4年)が全体の1位でゴールした。本大会出場が決まった9校は次の通り。
 〈1〉上武大〈2〉山梨学院大〈3〉国士舘大〈4〉東農大〈5〉神奈川大〈6〉帝京大〈7〉城西大〈8〉中央学院大〈9〉順大(順番はタイム差などによる)
(2011年10月15日15時25分  読売新聞)

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2011年6月11日 (土曜日)

立川断層の話題

 久々に立川断層のことが話題になっている。
 実はこの断層のことは、かなり前の発見された当時から知っている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110610-00000003-jct-sociF034_ichi
 立川断層は、埼玉県入間から東京都青梅市、立川市を経て府中市に至る断層帯。
 1975年に発見されたばかりの断層だ。

  平均活動間隔は1万年から1万5千年前後とされ、一番新しい活動は約1500年前だったと聞いたことがあるが正確なことは知らない。
 この活動予測から逆算すると、数千年は大丈夫とされていた。しかし、3月11日発生の東日本大震災で、この予測に大きな狂いが生じた。
 それくらい東日本大震災は、日本全体が乗っているプレートに大きな影響を与えたようだ。

  立川断層帯は、武蔵野台地を東西に走る道路や鉄道、そして玉川上水などを横切ることになる。
 この玉川上水は、羽村市の多摩川で取水され、武蔵野台地の緩やかな傾斜を利用して西から東へと流れている。
 ところが、立川断層は東側(都心方面)が西側(多摩地区)に比べてやや高くなるようなズレ方をしており、武蔵野台地と逆勾配となっている。

  この逆勾配を玉川上水を造った玉川兄弟は見事に乗り越えた地点がある。
 その地点は大曲付近だ。Eq_plate
 ほぼ直線の玉川上水が、大曲付近では弓のようになっているが、これは立川断層を迂回させた地点だ。
 ただ、玉川兄弟が台地の高低差を立川断層と認識したかは不明のようだ。

  それから立川市には、米軍立川基地跡地に「立川広域防災基地」が、立川断層のほぼ真上に造られた。
 滑走路の長さ 1200m の飛行場、医療施設、備蓄倉庫等を備え、空輸による人員・物資の緊急輸送の中継・集積拠点、自衛隊、東京消防庁、警視庁などの援助隊の運用・受入拠点として、南関東地域における災害応急対策活動の中核拠点として機能する。
 ここに造られた目的は、都心に直下型地震で首都機能が失われた場合、国や都の災害対策本部予備施設として使用される。総理大臣官邸(危機管理センター)・中央合同庁舎第5号館(災害対策本部本部長室)・防衛省本省(中央指揮所)・東京都庁舎(東京都防災センター。東京都総務局総合防災部)などがある。
 最近移転したばかりの、東京地方裁判所立川支部や立川市役所などは、立川断層帯の真上といっていい。

 このような重要施設を、なぜ、わざわざ危険な断層帯上に造ったかとすると、立川断層の活動周期からすると数千年は地震はないと予測したからと聞いた。
 約30年前、この場所に移転する直前の関連施設に勤めていたことがあったが、そこで、このような説明を受けたことがある。
 それが、今回の地震で大きく予測が狂ったことになる。

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2010年10月16日 (土曜日)

10/16箱根駅伝予選会の結果

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 第87回東京箱根間往復大学駅伝競走の予選会が10月16日、立川市の国営昭和記念公園~陸上自衛隊立川駐屯地~立川市街地を中心に開催された。
 この予選会は、20キロのコースで行い、各校上位10人の合計タイム順にまず6校の本戦出場が決定する。そして、残り3校は関東インカレポイント制との併用により選出され、残り一つは、本戦出場を逃した大学から選抜した、関東学連選抜チームとなる。
 その結果は次のとおりで、大東大など名門校が本大会への出場を逃した。

予選会の放送日程
 10月16日(土) 第87回箱根駅伝予選会~日本テレビ 15:30~17:00
 10月17日(日) 密着!箱根駅伝予選会 明かされる真実 BS日テレ23:00~23:54

総合結果
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/other/athletic/live/2010101601.html
1位 拓殖大学 10:11:39
2位 國學院大學 10:15:46
3位 帝京大学 10:16:22Running01s
4位 中央学院大学 10:16:40
5位 上武大学 10:17:49
6位 東海大学 10:20:10
7位 日本大学 10:19:26(3:35)
8位 神奈川大学 10:21:27(0:30)
9位 専修大学 10:22:46(0:45)
ここまで箱根駅伝出場権獲得--
10位 法政大学 10:24:35(3:00)
11位 大東文化大学 10:25:44(2:15)
12位 亜細亜大学 10:26:52(0:40)
13位 順天堂大学 10:29:56(3:40)
14位 国士舘大学 10:31:57(3:25)
15位 松蔭大学 10:36:26(0:10)
16位  創価大 10:38:17
17位 流経大 10:41:28
18位  平成国際大 10:42:58
19位  麗澤大 10:43:05
20位  関東学院大 10:50:09
21位  武蔵野学院大 10:57:17
22位  東京経済大 10:59:55
23位  慶大 11:12:43
24位  東大 11:16:35
25位  東京学芸大 11:23:03
26位  立大 11:24:20
27位  学習院大 11:24:24
28位  国際武道大 11:31:31
29位  筑波大 11:32:41
30位  東京理科大 11:34:18
31位  横浜国大 11:46:19
32位  筑波大大学院 11:46:42
33位  千葉大 11:54:24
34位  東大大学院 12:00:14
35位  防衛大 12:01:17
36位  駿河台大 12:06:23
個人成績
1位:ジョン・マイナ(拓大) 58分23秒
2位:ガンドゥ・ベンジャミン(日大) 58分43秒
3位:早川翼(東海大) 1時間00分03秒
4位:長谷川裕介(上武大) 1時間00分12秒
5位:荻野皓平(國學院大) 1時間00分12秒
6位:小林光二(中央学院大) 1時間00分16秒
7位:谷川智浩(拓大) 1時間00分17秒
8位:仁科徳将(國學院大) 1時間00分26秒
9位:中村亮太(帝京大) 1時間00分26秒
10位:堂本尚寛(日大) 1時間00分34秒

第87回東京箱根間往復大学駅伝競走には、
 既にシード権を獲得している、優勝: 東洋大学、2位: 駒澤大学、3位: 山梨学院大学、4位: 中央大学、5位: 東京農業大学、6位: 城西大学、7位: 早稲田大学、8位: 青山学院大学、9位: 日本体育大学、10位: 明治大学
 これら10校と今回の予選会9位までが出場する。
インカレはインターカレッジの略称。
 「学生のオリンピック」と言える。日本インカレが頂点にあるので、「関東インカレ」とは関東地区にあたり「関東学生陸上競技対校選手権大会」になる。大学対校戦の意味合いがある。

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2010年7月 5日 (月曜日)

「立川」昭和20年から30年代-Ⅱ

「立川」-昭和20年から30年代
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-7c9e.html
からの続き
          中野隆右(たかみち)編(ガイヤ出版)
第一章敗戦
第一節:駅前に広がる闇市 
第二節:闇市をつくった人々 
第三節:いわゆる第三国人とは
第四節:闇物資の出所
第五節:基地と横流し
第六節:犯罪が犯罪を呼ぶ世相
第二章夜の市長
第二節:基地の街の風俗
第三節:パンスケの語源
第四節:基地の女
第五節:夜の市長
第六節:中野喜介氏という人物
第三章軍 都
第一節:鉄道開通と飛行場の開設
第二節:運送業の始まりと祖父田郎
第三節:市制の施行と戦時体制
第四節:空襲
第五節:砂川というところ
第四章基地の街
第一節:基地で財をなした人々(1)~小佐野賢治氏と立川~ 
第二節:基地で財をなした人々(2)~くず鉄・繊維・闇の酒~
第三節:基地の街の酒場とアメリカンハウス
第四節:基地の営業許可http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-04-11-20
第五節:基地の街で流行る商売
第六節:基地が育てたジャズメンたち 
第七節:夜の市長と立川短大の設立
第五章競輪場
第一節:夜の市長と競輪場問題
第二節:パンパンと不正選挙
第三節:夜の市長のもうひとつの顔
第六章独立と復興
第一節:独立と復興
第二節:燃える川
第七章戦後の終焉
第一部:街の変貌
第二節:夜の街
第三節:選挙違反

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第二節
 闇市をつくった人々
  敗戦直後、昭和20年の日本は、戦時中に引き続き統制経済の下で配給制が敷かれていた。敷かれてはいたが、質、量ともに決定的に足りず、それだけで命をつなぐことなど思いもよらぬことだった。しかもそれは敗戦からのち、日を経るにつれて酷くなっていた。
 この状態は数年続いた。いや、歴史として振り返れば数年続いたに過ぎないが、その時代を生きる人々にとっては、それはいつ終わるとも知れぬことであった。
 白根氏は敗戦後バーテンとして勤務した米軍基地で、“こんな笑えない滑稽な話”を闇いている。
 「やはり基地に勤めていた私の知り合いから間いた話です。基地に働きに来た一般の労務者が、たまたま時間外に米軍の食堂へ行ったんだそうです。そうしたら食堂の人が休憩で誰もいなかった。見ると棚の上に何か知らないけれども饅頭みたいなものが置いてあったんだそうです。それは実は日本人の従業員の人が、ネズミが出るっていうんでネコイラズを仕込んであったものだったんです。それを知らずにその労務者は、パンか饅頭だと思ってそいつを食べて死んじやってね。そんな馬鹿なことがありました」
 そんな時代だけに、闇市では、前節で触れた嗜好品もそうだが、なんと言っても食料品が多く扱われた。敗戦の翌年から立川基地内で美容院の経営にたずさわり、現在も立川駅近くで美容院の営業を続けている住田義弘氏は、当時の闇市の姿を次のように振り返る。
 「当時は経済統制で一般には物がない時代でしたが、闇ではいろいろな物が手に入ったんです。たとえば闇市には、ぜんざいなどもありました。ただ、ぜんざいといっても砂糖が自由に手に入らない時代だったから、甘味は無かったんですよ。砂糖など、もちろん正規には手に入りませんでしたから。酒なども配給でしたが、実際に配給されるのは1カ月あたり五合くらいのもの。それでも配給があれば喜んだものです。米も統制だったので、寿司屋などでも米は客が持ち込むという体裁で営業していました。米でも野菜でもみんな闇。千葉や埼玉などから、みんな必死の思いでかついで運んできたものです」

 主食の米などまでもが、闇でなければ足りない。そこで近郊・近県の農家などから手に入れてくるわけだが、それが大変だったというのは、もちろん運ぶことについてだけの話ではない。なにしろ統制経済に違反する闇物資の取り扱いは、もちろん違法。これは厳しい取り締まりの対象であって、ばれればその場で没収されたし、当然処罰の対象となった。
 ただしひとくちに違法と言っても、取り締まりは物によって軽重があったようで、「米はうるさかったが、魚はあまりうるさくなかった」(住田氏)という。

いずれにせよ闇物資の取引は、その入手、搬送、そして取り締まりの目をかいくぐっての街への搬入と、どれもが苦労の連続であった。しかも当時の都市生活者にとっては、それ無くして生活は成り立たなかったのだ。
 このように苦労して街に運び込まれた闇物資は、あるものは運び込んだ人々の家庭で自家消費され、またあるものは闇市の店頭に並んだ。このように人口から出目まで違法行為によって支えられた市場を取り仕切っていたのは、前にも触れたように、平時には表舞台で活躍することはないアウトローたちであった。
   闇市をその営業形態から露天商と見れば、伝統的にはテキヤの扱いとなる。
事実そうしたケースもたくさんあった。だが、闇市を現実に取り仕切る面々が、昔ながらのテキヤの出身ばかりだったかというと、必ずしもそうではなかったようだ。では、彼らはどこから現れたのだろうか。
  当時の事情に詳しいさる事精通氏の話から、まずはその一例を探ってみよう。話は、日本の敗色が濃くなった大戦末期にさかのぼる。
 「日本の戦争不利で何か情勢が不安だと、世の中にそんな空気が伝わったころのことです。いつの世も同じですけれども、そのころにも愚連隊みたいな人たちがいました。若い血気さかんな人たちです。その当時は愚連隊とは言わず、義勇隊と呼んでいたんですが」
 ここで語っていただいた事精通氏-仮にA氏としよう-は昭和3年、戦後立川市と合併する砂川町の生まれ。戦時中は市内にあった日立の工場で「産業戦士」として働いていた。まだ十代のころのことだ。当時、軍都として栄えた立川には、立川飛行機“通称「立飛」”をはじめ、多くの軍需工場が稼動していた。ここで言う義勇隊は、こうした戦時下の工場で使われていた言葉のようだ。

  「戦時中、その義勇隊、つまりは愚連隊で、なおかつどうにも手がつけられないのは、満州のほうへ炭鉱送りにされた。でも、まあまあどうにか内地にいてもいいようなやつは、残っていた。ただ、それだけでは締まりがつかないのでボスを決めて、そのグループを抑えさせたわけですよ。戦争の終わりごろの立川飛行機の義勇隊の隊長、つまり立飛の愚連隊のボスは岡部さんでした。岡部さんは、あの当時にもう二十いくつかでしたが、戦争には行かず、立飛にいました」
 岡部さんとは、のちに市会議員となる岡部寛人氏である。混乱期の戦後の立川にあって、ある意味、市議会の要として活躍することになる。A氏の話は続く。
 「その岡部さんの兄弟分に、高松町で土建屋さんをしていた方がいました。この方は朝鮮出身の方です。その以前、立川にはいわゆるヤクザの組がありましたが、
戦争が終わるころには組長はもう年をとっておりました。それで終戦になると、ちょうど朝鮮入とか台湾入の方は三国人として有利な立場に立ったでしょう。
結局、この土建屋さんが、組の二代目の跡を継いで、それで作ったのが、立川の駅前から中武の角までの露天商街(闇市)。テキ屋の親分みたいなことをやったわけですね。今でこそテキ屋とか愚連隊というのははっきり分かれているけれども、あの当時はもう、ごっちゃでしたからね」
 立川における闇市成立のひとこまである。どんなことでも、その背景には必ず人の動きがある。教科書的には、「戦後、各地の焼跡には闇市が発生し・上で片付けられてしまう闇市の成立にも、各所、各所に必ず個別の事情、そしてそれを支える人の存在があった。

第三節 いわゆる第三国人とは
  ところで、ここでA氏の話に登場したご三国人について簡単に触れておこう。
明治43年の日韓併合条約で日本領とされた朝鮮“併合当時の正式な国号は「大韓」”は、昭和20年8月のポツダム宣言の受諾による日本の敗戦によって、独立を約束された。一万敗戦当時の日本には、2百30万人におよぶ朝鮮入が在留していたと言われるが、彼らの法的な地位については、実は、はなはだ曖昧なところがあった。
 米・英・中の連合国主要三国によって発せられたポツダム宣言では、その第八項において、日本の領土は、「カイロ宣言は履行されるべく」としたうえで、「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並に吾等の決定する諸小島に局限されるべし」と規定されていた。
 その二年前の昭和18年に、やはり米・英・中三国によって発せられたカイロ宣言では、「千9百14年の第二次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満州、台湾及び膨湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還」とあり、また「暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される」とされた。
 すなわち、日本が明治以後周辺に拡張した領土のすべてはかつて帰属した国々へと戻されることとなったのである。
 加えて、このカイロ宣言は、「前記三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」として、朝鮮の独立について触れていた。では敗戦当時、現に日本国籍を有していた彼らの日本での法的地位はどうなるのだろうか。
 
  そもそも日中戦争以来八年間戦った中国は、もとより対日戦勝国であり、中国人は戦勝国民であった。そして今の今まで日本国籍を有した台湾系中国人もまた、中国人である以上当然のごとくみずからを戦勝国民と考えた。
 だが、同じ旧日本国籍保有者である朝鮮人の場合はどうか。彼らはたった今「解放」されたのであって、日本と交戦状態にあったわけではない。かといって「解放」された彼らが敗戦国民であろうものではなかろう。つまりは当事国でない「第三国」の人ではないか・・・。
 「三国人」、あるいは「第三国人」という呼称は、そもそもはこうした文脈で生まれた。それが別の意味合い“蔑称のような”をもって受け止められるようになるのは、もっと日時を経てのことである。
 ところで日本を占領した連合国サイドでは、彼らの存在は、どう受け止められていたのだろうか。日本占領の基幹を担ったアメリカは、昭和20年12月、東京のマッカーサー司令官に、「米国の在日難民に対する政策」として、次のような指令を送っている。

  最高司令官は、台湾系中国人と朝鮮人を軍事上の安全の許すかぎり解放民族(liberated people)として取り扱うべきである。彼らは本書面に使用されている『日本人』という用語には含まれない。しかし、彼らはいままで日本臣民(Japanese sub・Ject)であったのであり、必要な場合は、敵国民として取り扱ってもよい。彼らは、もし本人が希望するならば、最高司令官の定める規則によって帰還されうる。しかし優先権は連合国民の帰還に与えられる・・・台湾系中国人の帰還に関して、米国政府は中国政府と協定すべきである・・・台湾系中国人と朝鮮人は敵意のある日本人から保護すべきである。最高司令官は日本の行政機関が台湾系中国人と朝鮮人の帰還するまで、事実上、彼らの保護、安全そして福祉のための適当な措置をとるようにすべきである。(『米国の対在日朝鮮人占領政策』金太基より)
 
あるときは「解放民族」、必要な場合は「敵国民とはあまりにもご都合主義的で理解に苦しむが、そもそもアメリカの対日占領政策における台湾系中国人、朝鮮人の取り扱いの根底にはこのような曖昧さがあったのである。しかし、台湾系中国人も朝鮮人も、みずからを「戦勝国民」、あるいは「解放民族」としてとらえ、その処遇を求めた。
 そして、こちらは明らかに「敗戦国民」である日本人も、複雑な心情を抱えながらも、そのようにとらえていたのである。事実、当時の日本人の目には、次のように映っていた。
 「日本が敗戦になると、中国や韓国の人は戦勝国として特別待遇になったから、それこそ何をやってもよかった。闇のことなどでも、警察でも取り締まられなかった。省線の電車でも進駐軍の特別車両に乗っていた」(他出、住田氏)
 一方、先に引用した研究報告『米国の対在日朝鮮人占領政策』のあとがきで、韓国の研究者である著者は、占領政策の中での台湾系中国人と朝鮮人の位置付けとその変遷をこう分析している。

  解放民族としての法的処遇を要求する在日朝鮮人や台湾入と、在日朝鮮人や台湾人は依然として日本政府や警察の管轄下にあるという日本側との対立は、戦後初期から生じはじめますます激しくなっていった。GHQは、占領初期つまり1945年の段階まで在日朝鮮人の法的地位を明確にすることができず途方に暮れていたが、1946年の初め頃から、日本政府の上に君臨する日本の統治者として、そして日本政府の要求を受け入れ、「解放民族」で小数の異民族集団である在日朝鮮人に対して徐々に厳しい見方を持つようになった,その結果、日本政府の要求および占領上の都合で、在日朝鮮人を日本政府の管轄下におくため、「解放民族」=「外国人」としてよりも「敵国人」=日本人として取り扱う政策をとり始めた。

  ともあれ、「解放民族」となった彼らは、少なくとも敗戦当初において「敗戦国民」たる日本人とは違った立場で行動し得る。束の間の自由を得た、あるいは得ようとしたことは事実であろう。

第四節 闇物資の出所
   ところで、闇市について語るならば、当然、そこで流通していた闇物資について語らねばなるまい。当時間で流通していた物資には、前節までで触れたように米軍から流出した物資や、近郊農村などからの食料品以外に、実はもうひとつの大きな流れがあった。
 それは、旧日本車の軍需物資である。
 戦時中の日本は国民は窮乏していたが、なにしろ戦争遂行のために商工省を解体し、軍需省という役所が設置されていたくらいで、車は多くの物資を確保していた。また敗色が濃くなり、本土決戦が射程に入ってくると、文字通り、国内生産の比重は、すべてが民需から軍需へと移っていた。
 それらの膨大な物資は、どこへ行ったのか? 前節で語っていただいたA氏が戦後の立川基地で垣間見た光景を語る。
 「立川の飛行場はアメリカの被害には全然遇っていなかったでしょう。だから、すべての資材なんかみんなあったわけですよ。終戦後もそっくり残っていたわけですよね。それを車は全然取りにこないで、そのままになっていた。私たちがたまたま基地の残務整理でアメリカ軍に徴用されて使役に出た時、ある倉庫をのぞいたら、新品の日本車の飛行服とか、飛行隊の半長靴だとか、日本刀だとかがかなり残っていました。それはもう必要のないものだから、山積みにされていましたよ。日本はもう何もない、何もないと言っても、やっぱり飛行場あたりには結構あったわけです。それはそれなりの設備が整っていたし、資材もあった。それがいずこかへみんな消えている」
 軍が各所に確保していた物資の中には、戦後配給されたものもあり、私も軍用品の雑嚢が配給になったことを記憶している。
 だが、中には戦後所在不明となったものも多く、いわゆる「隠匿物資」として全国で大きな問題を引き起こすことになる。敗戦後の昭和21年から内務政務次官として隠匿物資の調査にあたった世耕弘一代議士は、後に次のように書きのこしている。
  ちょうど、この時、机の上に積み上げられている書類に、ふと私の目は止まったのである。
-それは、日本軍が本土決戦を行うために蓄積して置いた、あらゆる物資がそのまま残されている『明細報告書』である。
 私はハッとしてむさぼるように、その書類に目を通した。
 「これだ、これだ、この書類の通り全部が温存されていなくても、このばく大な物資を民間に放出すれば、日本人のニケ年間の生活は保証出来るゾ……」
私は書類の一頁一頁をめくるたびに、心の中でそう叫んだ。
 そこで早速、私は部下に命じて詳しくこの物資を分類検討させた。その結果、当時の物価に換算して六千億円の残存物資があることを確認した。
この当時は大型タオルを一枚50銭、ダイヤモンドは1カラット2千円(現在は20万円以上)と見積もったのであるから、現在では当時の諸物価の十倍としても六千億円というばくだいな物資である。
   『未発表・隠匿物資摘発の報告書』人物往来 特集  昭和31年12月10日号)
  文中、現在とあるのはこの手記が雑誌に掲載された昭和31年当時のことだ。
平成の現在では、いったいいくらになるものだろうか。とにかく途方もない金額でる。世耕代議士は、次にこれらの物資の現状把握に入る。ところが、次に大変な難問題にぶつかった。残存の軍需物資の種類、数量は一応確認してみたものの、物資は全国に分散保管されていて、果して現物はあるのか、どうか、これの確認方法をあれこれ考えた末、全国の府県知事に指令して物資を確認させようと思った。そこで、すぐさま内務省の幹部にこのことを相談したが、てんで問題にしてくれない。仕方がないから、私は内務政務次官の名で各府県知事に文書で照会したが、なんと一県も物資のあることを報告してこない。ただ、申し合わせたかのように、左様な物資は最早ありませぬ、という至極簡単な返辞ばかりである。
  役人に任せておいてはらちが空かないことを悟った世耕代議士は、「よし、官僚が協力しないのなら、民間人を動員して、とにかく当たってみよう」と、独自の調査に乗り出した。世に言う『世耕機関』である。
 この過程で世耕代議士は、占領軍司令部のマーカット少将から呼び出され、「自分の方で現物を確認しているものでも三千億円近くもある」と告げられている。
  旧軍需物資は終戦直後日本政府が、どうせ進駐軍が来たら没収されるのだからとして、現地で自由に処理させたのである。ところがマッカーサー元帥から指令が出て、旧日本軍需物資は、そのまま保存を命ぜられた。それであわてて散在したのを取り集めて、あらためてリストを作り、政府から司令部へ提出したのである。それがざっと三千億円くらいにのばった。
  その後、この『世耕機関』は隠匿物資の摘発に乗り出すが、その手記によると、隠匿の中には、かなり大掛かりなものも多かった。
   こういう物資の隠匿者は来年の三月は危機だといわれたのに、・・・・街には食に飢え、裸足で歩いている人がいるのに、何十万足という軍靴を、山村の私設倉庫に隠して、ただひたすらに私利私欲の盲者になっている有様であった。
また、この外に毛布やキャラコ綿布など当時の物価にして数十億円にのぼる物資が、暴力と権力を背景にして、一部の悪徳者たちによって保有されていた。
  これらの摘発に際しては、「ある時は大金庫の中で調査しているうちに締め込まれたり、大倉庫の中にはおり込まれたり」といったことがたびたびあり、それは「まるで西部劇じみた嘘のような冒険」の連続だった。そして、「まったく私自身が殺されなかったということは不思議なくらいであった」と述懐している。

  これらの隠匿蔵物資は、「旧軍の物資を終戦のドサクサまぎれに、その関係者や軍需会社が横領して隠匿しているものが主」だったが、中には「マ司令部が進駐と同時に一旦差し押えた旧軍関係の物資のうち、日本国民に適当に処分配布せよと命令して日本政府へ返還したのをそのまま官僚が悪用したもの」もあったという。
 ところで、旧日本車の物資の中には、空襲の激化が予想されるようになった際、被害を避けるため軍の倉庫から周辺各所へ分散保管されたものもあった。「軍都・立川」においても、この物資の「疎開」は大規模に行われていた。
 立川の場合、飛行場の周辺部の農家の蔵などへ、軍の依頼によって預けられている。ある家はリヤカーのタイヤ、ある家へは缶詰、あるいは戦闘機の椅子といった具合に分散収容されたのである。袋詰めの食料が預けられた家では、蔵にアリがわくといったこともあった。
 ちなみに、砂川の我が家では、砂糖をお預かりしていた。これらの物資は官物であり、「いずれ軍から連絡があるまで保管せよ」ということであったから、どの家も律儀に保管していた。そのうち軍そのものが解体してしまい、これらの物資は、取りに来る人がいなくなってしまった。
  もっとも、中には敗戦後になって軍人が家に現れ、持って行ったものもあったようだが。前出のA氏は、この辺の事情をこう語る。
 「戦後になって、関係者も何もかもみんな分散しちゃったでしょう。だから、その関係者で、どこに何か隠匿してあると知っていた人は、自分で必要なものだけ取って、軍のトラックか何かを利用して、そのまま田舎へ帰っちゃったなんていう話も聞きます。農家のほうは預かったわけだから、軍から来たと言えば、別にそれをいやとは言えない。だから集めて、どこかヘドロンしちゃったわけです。たとえば自分の家へ持ち帰ったとか」
 もちろん、回収に現れる人がなかった場合も多く、それらはいずれかの時点で、預かり主の農家自身が処理することになった。ちなみに我が家の場合、預かっていた砂糖は、食品問屋へと消えた。いずれにせよこれらの膨大な物資がその後どう処理されたかは、預かった家の人以外、(あるいは持って行った人がいた場合、その人以外)知る由もないのである。
結局、闇市に流れたものも幾分かはあったと考えるべきかもしれない。

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2010年6月26日 (土曜日)

「立川」-昭和20年~30年代

 6月26日は、1968年(昭和43年)、小笠原諸島がアメリカから本土復帰した日だ。
 42年前のことで、殆どの人が忘れている。
 更に1972年に沖縄が、その5年後の1977年(s52年)には、立川基地が返還された。他に、奄美群島やトカラ列島も返還されている。
 このように、
 戦争で占領された土地や島が返還されたことは、世界史上皆無といわれている。 
 その認識がないと、沖縄や他の地域が返還された有り難さは理解できない。

 18年前フィリピンの「スービック基地」から米軍撤退例はあるが、これはフィリピン議会がアメリカとの基地提供条約更新を批准しなかったためだった。案の定、米軍が撤退すると、中国共産党軍がフィリピン近海の環礁に上陸し基地が造られてしまった。
 このような事例もあり、
 無節操に語ると、民主、社民、共産党等の左翼政党と同等にみられる。
 反論もあろうが、戦争後、共産国の中国やソ連ではなく、自由主義国・アメリカに占領されたことは不幸中の幸いだったと思う。Photo
 さて、
 かつて、「基地の街」として知られた立川の街は、現在、JR立川駅周辺から基地跡地にかけて大きく変貌した。
 最近では、米軍基地の名残を見つけること自体が難しい。
 出来ることなら、米軍基地のメインゲートくらいは保存して欲しかったものだ。
 隣の国立市では、どうでもいいような駅舎の保存運動があるのと正反対だ。
 立川は米軍基地が存在したことを、負のイメージと思っているのであろうか。

 ただ、立川市が今も昔も一番有利なところは、地の利と思う。Image0010
 地理上は東京都のほぼ中心、比較的平坦な土地、都心までの程よい距離感、そして鉄道網(交通網)にある。
 中央線・青梅線・五日市線・南武線が接続する要衝だ。
 人が集まれば、同時にカネも物資も動くことになる。
 すると、商工業が自動的に発展する。
 しかし、この街も長い期間「基地の街」として、今の沖縄のような存在を強いられ、街の人々も大なり小なりの影響を受けていた。
 市民には、今もそれをハンディに思っている人達がいる。

 そんな、立川市の変遷を紹介したブログがある。
 「知の木々舎」--くらしの中へ句読点--
 私たちは、文化活動の目標を、立川に軸足を置いた新たな生涯学習を展開することにしました。その合い言葉は、「学んで広げる立川の輪」です。
 とある。
 今回紹介したいのは、立川市教育振興会理事長・中野隆右(たかみち)氏編の、「戦後立川・中野喜介の軌跡」だが、立川市の戦後の秘話が語られている。
 現在、半分程度がネット上で紹介されている。

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まえがき
 昭和20年8月15日の終戦により、大正時代以来、陸軍航空の要として知られTachikawaた軍都立川の機能は停止した。
 一転して米軍の進駐を迎えた立川のその後は混乱を極めたが、終戦の処理に追われる日本政府は、地方都市にまでは手が回らなかった。地方都市の行政は、もはや地元の市民が担う以外に術はなかったのである。
 そんな中、立川市民はいかにして自分たちの街を守り、発展させていくかを考え、自主的に行動して新しい立川の街をつくり上げていった。私が本書で触れたかったこと、それはこうした市民のバイタリティー、そして立川が東京都に対し、どんな役割を果したかである。
 そしてバイタリティーあふれる市民の典型として、立川市の再建の中心を担った中野喜介氏の昭和20~30年代の活動を追ってみることにした。
 昭和20~30年代は、市の編さんした資料も少なく、また市民もあまり話題にしない時代である。一般の評論では、立川は「悪の巣窟」のように書かれている。そしてしばしば中野喜介氏は、その頂点にいる人物として紹介されていることが多い。
 だが、私は彼らが活躍した時代こそが、本当の立川の生き生きとした時代であると思っている。
 現在、立川には昭和記念公園が開園し、またモノレールが通り、多くのビルが建っている。しかしながら、そのほとんどは立川の、地元の人々とは無縁なところで作られてきたものである。中野喜介氏らが活躍した昭和20年代、30年代には、そうではなかったのである。その時代は、地元立川の人々が、街のために、そして自分を含めた周囲の人々のために街づくりを手がけていたのだ。そんな時代の立川を描いたこの本が、現在の立川の市民のみなさんに、市民の中から自分たちの手による将来を見すえた街づくりを考えるきっかけになってくれれば幸いに思います。     中野隆右(なかのたかみち)

「立川」昭和20年から30年代
          中野隆右(たかみち)編(ガイヤ出版)
第一章敗戦
第一節:駅前に広がる闇市 http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2009-05-09
第二節:闇市をつくった人々 
第三節:いわゆる第三国人とは
第四節:闇物資の出所
第五節:基地と横流し
第六節:犯罪が犯罪を呼ぶ世相
第二章夜の市長
第二節:基地の街の風俗
第三節:パンスケの語源
第四節:基地の女
第五節:夜の市長
第六節:中野喜介氏という人物
第三章軍 都
第一節:鉄道開通と飛行場の開設
第二節:運送業の始まりと祖父田郎
第三節:市制の施行と戦時体制
第四節:空襲http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-01-25-5
第五節:砂川というところ
第四章基地の街
第一節:基地で財をなした人々(1)~小佐野賢治氏と立川~ 
第二節:基地で財をなした人々(2)~くず鉄・繊維・闇の酒~
第三節:基地の街の酒場とアメリカンハウス
第四節:基地の営業許可http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-04-11-20
第五節:基地の街で流行る商売
第六節:基地が育てたジャズメンたち 
第七節:夜の市長と立川短大の設立http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-05-21-2
第五章競輪場
第一節:夜の市長と競輪場問題
第二節:パンパンと不正選挙
第三節:夜の市長のもうひとつの顔
第六章独立と復興
第一節:独立と復興
第二節:燃える川
第七章戦後の終焉
第一部:街の変貌
第二節:夜の街
第三節:選挙違反
第四節:戦後の終焉

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2010年5月 9日 (日曜日)

立川市の出羽三山供養塔

Photo_2

 東京都立川市は山形県庄内地方の立川とロータリークラブ同士の交流がある。
 地名が同じとの単純な理由だそうだ。
 ところが、この立川は、江戸時代当時から出羽三山詣で別の意味で交流があったことを知った。

 立川市若葉町三丁目・医療法人「新緑会」の五日市街道に面したところに、「出羽三山供養塔」がある。この供養塔の横には文政年間(1818~1829)の刻みがあり、200年近く前に設置されたことを知ることが出来る。 Photo_3

 出羽三山は山形県庄内地方にある「月山、湯殿山、羽黒山」を言うが、山岳信仰の地として古い歴史がある。
 崇峻天皇の皇太子・蜂子皇子の開山だ。
 「出羽三山」の三山には紆余曲折があり「鳥海山、月山、葉山」を言う時代もあった。ところが天正年間(1573年から1593年)ころ、葉山が慈恩寺との関係を絶ってから衰退し、一時は「月山、羽黒山、鳥海山」を指していたが、間もなく「月山、羽黒山、湯殿山」を指すようになり其れが固定し現在に至っている。
 この三山詣では、江戸時代は相当に活発だったようで、関東各地からも「出羽三山講」や「奥講」などの講中が結ばれ、多くの参拝者を集めていたそうだ。
 講中が結ばれているところは、集落の代表者数名が毎年参拝に行ったという。
 立川市の「出羽三山供養塔」はその痕跡だろう。

 この立川市若葉町辺りは、江戸時代に玉川上水が引かれてから五日市街道沿いに新田開発された村で、Dscn3843戦後まで「砂川村」と呼ばれた地域だ。
 「砂川村」は、天王橋辺りの一番から小平方面に進むに連れ、二番、三番、阿豆佐味天神社辺りは四番、そして、砂川八番という交番付近、砂川下新田の田堀は九番、砂川前新田は十番の順に開発が進んだという。
 また、この番号は年貢の徴収単位であり、集落単位に組頭が置かれていたそうだ。「出羽三山供養塔」は砂川村全体のものか、砂川前新田(十番)辺りだけのものかは分からない。
 ただ、山形県との古いつながりに感慨深いものがある。

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2010年5月 1日 (土曜日)

立川市出身・はいだしょうこ

 歌手の「はいだ しょうこ」さんは実にユニークな方だ。Img035
 子供達に大人気だ。
 ご本人は最近まで知らなかったが、父上の拝田正機氏は東京都立川市の名士だ。
 現在、ミュージカルアカデミー ドリーム学院長
 前は、玉川上水駅近くにある国立音楽大学の准教授でもあった。また、立川市地域文化振興財団評議委員や文化振興推進委員を務めていた。現在も委員かは知らない。
 「はいだ しょうこ」さんは、元宝塚歌劇団員で、当時の芸名は千琴(ちこと)ひめか。娘役として星組に在籍。
 退団後、NHKの「おかあさんといっしょ」に出演していたこともあってか子供に大人気だ。
 母親も声楽家でミュージカルアカデミー ドリーム学院、声楽コース講師。
 姉は歌手だが薬剤師の「はいだあきこ」、
 家族揃って音楽一家だ。
 
「はいだ しょうこ」さんの面白い話題
絵がへた
 番組内で「スプーのえかきうた」とともに、描いたスプーの絵があまりにも異様であったため、「スプーのえかきうた騒動」があった。
一輪車に乗れるが自転車に乗れない
 自転車はハンドルがあるから乗れないという。
 今月の歌「ぴかぴかじてんしゃ」で生まれて初めて自転車に乗った。
 撮影後の映像を見て「あ、私、自転車に乗ってる!」と感動したという。

歌手「はいだしょうこ」のプロフィール』
 幼少期より作曲家の故中田喜直氏のもと、童謡を学びながら、コンサートやCDにも参加。小学6年生の時には、全国童謡コンクールでグランプリ賞受賞。その後、国立音大付属高校、声楽科を中退し、宝塚音楽学校に入学。
 宝塚音楽学校を「オペラ部門主席/ポピュラー部門最優秀歌唱受賞」など優秀な成績で卒業。宝塚歌劇団入団後には、わずか4年目にして公演フィナーレをソロで飾るエトワールに異例の大抜擢。正確なリズム感に加えて、表現力豊かで伸びやかな透き通る歌声は、観客を魅了し、高い評価を受けた。宝塚歌劇団を退団し翌年には、NHKの未就園児向け番組「おかあさんといっしょ」の【第19代うたのおねえさん】に就任。
 在任中の5年間は、番組のレギュラー出演をはじめ、全国で開催されるファミリーコンサートやイベントに多数出演。
2008年3月【うたのおねえさん】を卒業後は、長年の経験で磨き上げたバリエーション豊かな歌唱技術と、天性の美声、誰からも愛される人柄を兼ね備えたプロフェッショナルな歌手として活動をスタートする。
1979年3月25日生まれ、東京都出身、血液型A型
1988年 : 全国童謡歌唱コンクール グランプリ賞受賞
1996年 : 国立音楽大学付属高校を中退し、宝塚音楽学校入学
1998年 : 宝塚歌劇団入団(第84期生)〈千琴ひめか〉として、宙組「シトラスの風」で初舞台
2001年 : 星組公演「ベルサイユのばら2001」で初のエトワールをつとめる
2002年 : 宝塚歌劇団退団
2003年 : NHK「おかあさんといっしょ」第19代・うたのおねえさんに就任
2008年 : うたのおねえさんを卒業し、歌手として再出発  

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2010年4月28日 (水曜日)

ロッキード事件と立川市

 政商も 街も時効か 春霞む
 基地の街 つわものどもの 夢のあと
 
 基地の街「立川市」の秘話Ⅳとして、
 30年前の「ロッキード事件」は、立川市も舞台だったことを紹介する。

 4月27日は大きなニュースとして、時効制度見直し案の成立、小沢幹事長の検察審査会の起訴相当との報道が流れた。
 これらの報道から、小沢幹事長の師、田中元総理が関与した「ロッキード事件」のことを思い出した。
  「ロッキード事件」が発覚したのは1976年(昭和51年)2月で、元・内閣総理大臣田中角栄が、ロッキード社からの裏金収賄容疑で逮捕されたのは1976年(昭和51年)7月27日、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴された。

 親中国反米路線をとる田中角栄総理に対するCIAの工作とも噂された。
 背景は今と似ている
 そして、児玉誉士夫、小佐野賢治らの大物が、政治の裏舞台で暗躍していることを国民が知ったのはこの事件からだった。
 今回は、この事件に関連した重要証言を紹介する。

 既に時効になったことだが証言者の口は堅い。
 どこから刺客が現れるか分からない事件だからだ。
 当方もこれ以上触れることはない。
 しかし、この証言が当時判明してたなら、裁判の行方を左右したことであろう。
 政商が暗躍した街・立川も今は昔の面影を見ることが少ない。Plc1006140834003p2
 
証言1~「昭和52~3年当時、丸紅の檜山廣社長は立川市内に隠れ住んでいた」、「この隠れ家を探し出して、元NHK議員を案内した」
証言2~「檜山邸を訪問した目的は、億単位の現金搬送だった」、「田中角栄のパシリだった」、「写真は檜山の家の前で撮影した。真夏だった」
証言3~「小佐野賢治は立川の緑町辺りに住んでいた。小佐野の弟は立川駅南口辺りに長く住んでいた」、「小佐野の兄弟は何人かいた」、「小佐野と檜山の直接の関係は知らない」Image
証言4~「基地があった当時の立川は悪いことをして稼ぎたい連中には、いい条件が揃っていた」、「ある程度稼ぐと立川から動いて、余所で偉そうな顔している」 、「米軍からの横流し、売春宿の経営いろいろだ」

檜山廣(ひやまひろ)の横顔
 檜山廣(1909年12月18日~2000年12月25日)、丸紅中興の祖と言われる。
 茨城県生まれ。旧制水戸中学校を経て、1932年東京商科大学(現一橋大学)卒。1952年丸紅飯田(現丸紅)取締役、1964年社長、1975年丸紅会長、1976年取締役相談役。
 ロッキード事件に絡み国会で証人喚問された。
 証言内容は虚偽として偽証罪で告発された。実刑が確定するも、高齢のため執行停止となり収監されないまま死去。
田中内閣は
 1972年(47年) 7月6日 ~1974年(49年) 12月9日首相在職通算886日。

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ロッキード事件の概略と問題点、波紋など』
ロッキード事件とは
 米国航空機会社ロッキード社による、民間航空機売りこみに伴う国際的汚職事件で昭和51年1976年2月、米国上院議院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の「ピーナッツ100個」等ロッキード社による不法献金の証拠資料公表は、政財界を震撼させた。
 チャーチ委員会で、ロッキード社のコーチャン副会長が日本政界への賄賂の必要性を教えたのは丸紅の檜山広会長、大久保利春専務であると証言、丸紅を通じて日本政府高官へ200万ドルを渡し、その際に国際興業社主の小佐野賢治も非常に助かったと証言した。
 事件の発端は昭和47(1972)年9月1日の田中、ニクソンのハワイ会談だった。既に前年から日米間の貿易不均衡が米側から強く指摘されていた。この年の1月の佐藤・ニクソンの日米首脳会談の際に通商産業大臣として参加していた田中は、スタンズ国務長官から対米貿易収支の巨額な黒字減らしの通商交渉の開始を求められていた。
 この通商交渉に積極的に動いたのが総理となった田中だったが、チャーチ委員会でロッキード関係者の証言から、ロッキード製トライスターの日本売り込みに多額の賄賂が流れ、その一部が田中角栄に送られたことが判明した。
 田中は1976年(昭和51年)7月27日に逮捕されたのち、8月16日に東京地検特捜部に受託収賄と外為法違反容疑で起訴され、その翌日に保釈保証金を納付し保釈された。
 他に佐藤孝行元総務庁長官や橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕される。
裁判の争点や問題点、波紋等
①米国での証言は、共犯者に免責を与えた上で得た供述だ。
 この制度を日本の法律は想定していないので証拠能力はない。
②証拠資料は米国にある。
 米国の証人を日本の裁判所に呼んで、偽証罪を適用することを前提にして証言させない限り裁判が成り立たない。
③民間の航空会社が航空機の選定をする際に、政治家に職務権限は無い。
④しかし軍用機は別。児玉誉士夫はCIAのエージェントで、ロッキード社のセールスマンだった。防衛庁が国産化を検討中の次期対潜哨戒機が、ロッキード社製に変更された。
⑤最高裁は嘱託尋問調書には証拠能力がないとし、事実上の田中角栄無罪判決を下した。
⑥内閣総理大臣は国家元首であり、国家元首が任期中に行った決定を裁判になじまない。国会で追及するのが筋だ。
⑦アメリカが親中派の田中角栄潰しのために仕組んだ陰謀である可能性が高い。
⑧76年2月中曽根康弘・自民党幹事長(当時)は米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」と要請している。

昭和のカリスマ ロッキード事件
http://www.youtube.com/watch?v=2IyvKABiTuY&feature=related

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2010年4月25日 (日曜日)

基地の街「立川市」の秘話 Ⅲ

 フロムカム 今も昔も 楽しませ

 JR立川駅北口の一級地にある「フロム中武」は、平成20年11月、「立川屋台村パラダイス」をオープンさせた。
 この屋台は、若者にも「レトロ感覚がいい」と人気があるという。

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 立川市は 昭和52年(1977年)に立川基地が帰還されるまで「基地の町」と言えば聞こえはいいが、実際はアメリカの占領下にあったような街だ。
 現在では、基地跡地や立川駅周辺は近代的に開発が進み、返還前の面影を見つけることは難しい。
 このような中、市民の中には戦後の混乱期から昭和30年代の「立川らしさ」を懐かしむ声が上がり、これを聞いたフロム中武は近くに「立川屋台村パラダイス」を開店させた。
 この屋台村は、立川市教育振興会理事長・中野隆右氏が経営に携わっているが、かつての「立川パラダイス」は米軍相手のキャバレーで、中野家の養子・中野喜介氏が経営していた店だ。
 このパラダイスは「特殊慰安施設協会」指定の店だった。Tachikawa_2
  簡単に言えば、米兵向けのパンスケ(売春婦)がいる慰安所だ。
 ようするに、「立川屋台村パラダイス」は、養子に入った中野喜介(朝鮮名・孫應)氏が経営していた「立川パラダイス」を懐かしんで付けた名称だ。

 中野隆右氏は著書、「立川」(昭和20年から30年代)の中で、
 「中野喜介氏は別名・川辺応棟、本姓は、孫。名は應棟。
 出身地は忠息清南道。父の名は、孫海成、母の名は雀達山。つまりは生粋の朝鮮籍の孫應であり、立川にやってきたのは成人してのちのことで、喜介氏が妻(朝鮮籍)とともに養子として中野家の養子となったのは、敗戦から4年後の昭和24年1月のことだ。立川パラダイスが開業した旧陸軍獣医資材廠の土地は、砂川の大地主であった中野家の地所であった。中野家と川辺応棟(中野喜介)氏とは、以前より親しく往来があり、のちに川辺氏は中野家と養子縁組を結び、喜介を名乗ることになる。」
 と暴露している。
 ここでは、「まえがき」と「駅前に広がる闇市」を紹介する。

『立川(昭和20年から30年代)中野隆右著
 まえがき
 私は、戦後立川の激動の中に生きた異色の男・中野喜介の軌跡を追ってみたい。
 1905年、日本統治時代の朝鮮・忠清南道に生まれ、来日して工業学校に学び、その後立川市で生計を立てた。立川が、TACHIKAWAとしてアメリカ軍基地であった一時期、中野喜介には夜の市長の異名があった。
 書かれることない「影」の部分に生きた67歳の生涯だった。
 昭和20年8月15日の終戦により、大正時代以来、陸軍航空の要として知られた軍都・立川の機能は停止した。一転してアメリカ軍の進駐を迎えた立川のその後は、混乱をきわめた。
 終戦の処理に追われる日本政府は、地方都市にまでは手が回らない。地方都市の行政は、もはや地元の市民が担う以外に術はなかったのである。
 そんな中、立川市民はいかにして自分たちの町を守り、発展させていくかを考え、自主的に行動して新しい立川の街を作り上げた。そしてバイタリティー溢れる市民の典型として、立川市の再建の中心を担った中野喜介氏の昭和20年から30年代の活動をみることにした。
 昭和20年から30年代は、立川市の編纂した資料も少なく、また市民もあまり話題にしない時代である。一般の評論では、立川は悪の巣窟のように書かれている。そしてしばしば中野喜介氏はその頂点にいる人物として紹介されることが多い。だが、私は彼らが活躍した時代こそが本当の立川の生き生きとした時代であると思っている。
 駅前に広がる闇市
 「軍隊から復員して立川に帰ってみたら、、駅前は闇市でした。」
 敗戦の年の立川の町の光景をこう語るのは、明治30年代から北口駅前の通りで、呉服商を営んできた丸屋呉服店の3代目の当主伊藤平八郎氏だ。昭和20年8月、岐阜県各務原の航空廠で敗戦を迎え、敗戦に伴う残務処理に時間を費やしたため。帰郷できたときはすでに12月になっていた。
 見慣れた駅前通りには、大戦末期の建物疎開にかかった我が家はすでになく、かつて店があったあたりには闇市が広がっていた。目の前に広がる闇市、戦時色が濃くなって以来、日増しに強化されていた統制経済に風穴を開けたこの闇市には、ここ数年影を潜めていたはずのアウトローたちが、新たな主役として大手を振って闊歩していた。
 いや、彼らこそが、このにわかに出現した市場の統率者である。加えて闇市を包み込むように周囲に広がる立川駅の町並みには、軍隊帰りの伊藤氏には、見慣れない種類の店も目についた。それは進駐してきたアメリカ軍関係者を相手にする土産物店だった。
 大正時代には、陸軍の飛行場が進出してきて以来、「軍都」として発展してきた立川は、今度はアメリカ軍の進駐で、「アメリカ軍基地の街・、立川」へと姿を変えていた。そして、「基地の街に出現したこの見慣れない商売が、皮肉なことに、旧日本軍の航空基地から復員したばかりの伊藤氏にとり、しばらくの間、生活の手段をうる手だてとなるのだった。
 「駅前のこのあたりも進駐軍相手の土産物屋でいっぱいでした。私なども農家に行っては、羽子板やお雛様を買い集めてきて、それをアメリカ兵に売りました」
 呉服商と言っても、なにしろ当時の東京は焼け野原。東京近郊の街立川も、市の中心部での空襲の被害こそ比較的軽微だったものの、経済は崩壊し、市民の生活は混乱の極にあった。
 とても呉服どころではないという世相だった。
 自然、ビジネスの対象は新たに現れた権力者集団であるアメリカ軍関係者に映る。彼らは当時の日本人から見れば、上は司令官から下は一兵卒、軍属に至るまで治外法権の存在であり、また日本人より「お金持ち」だったのだ。
 やがてこうしたアメリカ軍関係者との接触は、伊藤氏にも一つのビジネスももたらすようになる。アメリカ軍基地から出る商品を扱うヤミ商売である。
 「日本人には入れない基地の中からアメリカの軍人が持ってくる、シュガーやラッキーストライクを手に入れて売ったものです」
ただ、この少々ワイルド商売にはそれ相応のリスクもあった。
 「シュガーだといて、持ってきたものが実は塩だったり、それはだまされたこともありましたよ。でも、生活しなければならないからやめるわけにはいかない。私くらいの年配の人は、そのころはみんなヤミ屋をやっていたんですよ」
 ところで物事と言うのは何でもそうだが、続けるうちに徐々にエスカレートしてくるものだ。もともと法の網をかいくぐるこの商売、だんだん大胆なことが当たり前に行われるようになる。
 「アメリカの軍人は最終基地内の購買で買ったものを持ってきていたようです。でも、しまいには、倉庫から持ち出してくるようになりました。だから持ってくる時には、手で提げてくるのじゃなく、それこそトラックやジープでドカンと持ってくるようになったんですよ」
 こうして、「基地の街立川」は、物のない当時の日本で、アメリカでの闇物資が手に入る街として知られるようになった。
 「当時の立川、アメリカ軍基地の町として全国的に有名でした。
 物も情報も、アメリカから入ってくるのだから、他の街より何でも早かった。コカコーラ、ラッキーストライク、オイルライター……奴らアメリカの軍人に頼めば何でもございだった」
 アメリカ軍基地内のバーで、バーテンダーの仕事を覚え、立川で半世紀にわたる営業を続けるバー「潮」のマスター、白根宗一・通称ジミー氏も、アメリカ軍から出る闇商品について、こう振り返る。
 「たばこ、お酒は、やっぱり闇屋さんでしたね。闇屋さんが暗躍して、あちこちからくすねてはどんどん持ってきてね。これには当時こういう洋酒はまだ、完全に純然たる形で出回っていなかったということもあります。立川にいる人は、こういう闇の商品が手に入るから、ちょっと地方へ行くのに、お土産に舶来品を持っていくとすごくと喜ばれてね。外国タバコなんかでも、こんなものはめったに据えないって、何しろお砂糖だってなかった時代に、チョコレートがあったんだから」
 闇市ではもっと高級な商品を手に入れることができた。
 「それから時計とか。貴重品だったもの。
 あのころは、南京虫なんていうのがありましたね。
 あの当時、パンスケと言えば、みんな南京虫をやっていたものね。
 こんな小さな時計でしたが。
 またあれがなんとも言えない。
 パンスケがそういうものをねだるわけですよ。
 今じゃオメガだ、ローレックスだ、男はグローバーだなんて言うけれども、あんなメーカーのものはそもそも市中に出回っていませんでした。一般の店にそういう時計なんかが入ってきて、商品として身につけるようになるのは、ようやく昭和26、7年のころでしょう。
 ところが立川では、基地の街という特殊な事情で、出回っていた。」
 パンスケとは、アメリカ兵を相手に売春を生業とする女性のことである。
 当時、「基地の街・立川」にはパンスケがあふれていた。
 アメリカ軍人は、物資の供給者であるとともに、日本人にとっての有力な顧客としても定着していたのである。
 ただし彼が買う商品は、物とは限らなかったと言うわけなのだが。
 こうして新たに「基地の街、立川」」が出発した。
 いったん3万5000人近くにまで激減した人口は、基地の存在から再び増加に転じ、戦後10年の間に、元の6万人を上回る回復を遂げることになるが、それはまだのちの話だ。

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