カテゴリー「07 処刑・遊郭/江戸時代」の28件の記事

2011年12月 3日 (土曜日)

遊佐町の恩人「南町奉行・矢部定謙」

 11月29日付けの産経新聞「決断の日本史」コーナーに、「1841年12月21日 南町奉行・矢部定謙、罷免さる 水野忠邦に抗議の「絶食死」と題して掲載された。Photo_4

 「南町奉行・矢部定謙(やべ さだのり)」は、「天保義民事件(三方領知替え事件)」を鎮静した一人でもある。
 「天保義民事件」とは、天保11年(1840年)に庄内藩主酒井忠器らに出された「三方領知替え」に対して、庄内藩の領民が反対運動を展開した事件だ。
 この詳細は、藤沢周平の小説『義民が駆ける』で全国に知られるようになった。また矢部定謙(やべ さだのり)のことを紹介した中村彰彦著の「天保暴れ奉行」もある。

 事件は、「荘内藩」を長岡に、「長岡藩」を川越に、「川越藩」を荘内に移すという三方領地替えを幕府から突如国替を命じられたことに端を発する。
 荘内藩は、藩主や藩首脳、本間光暉、遊佐・升川の佐藤藤佐らが善後策を練る中、荘内藩農民たちは、「百姓と雖も二君に仕えず」との筵旗を掲げて、江戸に上り、諸大名や幕府役人に直訴を試みる。
  当時の江戸町奉行は矢部駿河守だった。
 佐藤藤佐(とうすけ)翁は取り調べで、三方国替えの間違い訥々と説明した。矢部駿河守はその訴えの誠実さに感激し、その口述書をとり閣議の席で朗読し、藤佐(とうすけ)翁の取調を停止し、農民等に有利な裁決を下した。
 当時、百姓一揆は打ち首と決まっていた。

 当然、幕府の意向に従わなかったとして、天保13年矢部駿河守は、伊勢桑名藩松平家に幽閉され、幽閉中、断食で抗議しつつ55歳で逝去した。Photo_3
 庄内藩は危機を脱し、その24年後の元治元年(1864年)には、江戸市中警護の功により2万7千石を加増され、石高は16万7千石に達したが、その財政の豊かさは20万石以上といわれた。

 遊佐町江地の「玉龍寺」には碑があり、農民や矢部らの正義を貫いた行為に感謝し、その勇気を讃えた「戴邦碑祭」が毎年行われているほか、遊佐町蕨岡上寺の大物忌神社境内の「荘照居成神社(1840建立)祭神・矢部駿河守定謙公」においても例年「荘照居成祭」が執り行われ矢部駿河守を偲んでいる。
   この幕府をも動かした遊佐町農民の熱き血汐は、今に受け継がれているはずだ。
 なお、升川の佐藤藤佐の長男は、順天堂大学の創始者「佐藤泰然」だ。
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  決断の日本史100
1841年12月21日 南町奉行・矢部定謙、罷免さる
 水野忠邦に抗議の「絶食死」

2011.11.29 07:49
 絶大な権力を握る人間からの命令に叛(そむ)くには、よほどの勇気と覚悟がいる。
 江戸後期、老中・水野忠邦の「天保の改革」に文字通り、命を懸けて反対した人物を紹介しよう。江戸南町奉行をつとめた旗本、矢部定謙(さだのり)(1794~1842年)である。
 若くして才覚を認められ、堺奉行や大坂西町奉行などを歴任し、のち乱を起こす大塩平八郎とも交わった。天保7(1836)年、勘定奉行として江戸に戻り、同12(1841)年4月には江戸市中の行政や司法を担当する南町奉行へと昇進した。
 この時の同僚が北町奉行の「遠山の金さん」こと遠山景元(かげもと)である。そして2人の上司は12代将軍・徳川家慶(いえよし)の信任を得て老中首座となった水野で、天保の改革を開始したのだった。
 贅沢(ぜいたく)を禁じて風俗を取り締まり、商業上の特権をもつ株仲間を解散させた。貨幣を改鋳し、江戸城と大坂城の周辺10里(約40キロ)にある大名・旗本領を取り上げて幕府領とする「上知令(あげちれい)」などが具体的な政策である。
 それらの多くは現実から遊離し、庶民や旗本を苦しめるものだった。矢部と遠山は反対の意見を述べた。水野は2人の抵抗に手を焼き、更迭を決意した。しかし、遠山は将軍の覚えがめでたいため、矢部を標的とした。
 謀略家の目付、鳥居耀蔵(ようぞう)を使って5年も前の些細(ささい)な行動をとがめ天保12年12月21日、奉行罷免に追い込んだ。そして翌年3月、「御家断絶」の処分を下し、伊勢桑名藩にお預けとした。剛直な性格だった矢部は食事を取らないまま、7月27日に亡くなった。
 天保14(1843)年閏(うるう)9月、水野は各方面からの批判を浴びて失脚した。矢部の冤罪(えんざい)は晴らされ、家は再興された。いま世間を騒がせているプロ野球球団の「お家騒動」の関係者にも聞かせたい話である。(渡部裕明)

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2011年5月 4日 (水曜日)

江戸の名残を探す

 週に一度は、都内を廻るよう自分に義務づけている。
 廻るコースに同一性はなく、実にバリエーションに富んでいることが嬉しい。
 正に仕事と趣味を兼ねた贅沢な時間でもある。
  
 先日は、浅草橋~神田~紀尾井町~青山の四カ所に行く必要があった。Kanda
 10数キロあり、普通なら電車やバス、地下鉄を乗り継ぐのが普通のコースだが、全て歩くことにした。
 神田では、鎌倉橋、神田橋、御宿稲荷などに足を止める。

 鎌倉橋辺りは、昨年、NHKで放送された「まっつぐ鎌倉河岸捕物控~ 」の鎌倉河岸があった場所でもある。
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-0199.html
 今では、江戸の名残を見つけることは難しい。
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-9591.html
 それから、「神田橋」の皇居側には、「庄内藩酒井左衛門尉(さえもんのじょう)」の上屋敷があった場所だ。左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職の一つ。
 平家追討では「源義経」が左衛門尉に任ぜられている。
 「庄内藩」は、神田橋の護りを担当していた。
 神田橋は、江戸城にかかる橋の中でも最も重要に橋だった。

 幕末、庄内藩は幕府から江戸市中警備を命じられ、「新徴組」を預かることになる。
 「新徴組」の屯所は、JR飯田橋駅から徒歩数分、飯田橋1-9辺りにあった。
 「新徴組」は、清河八郎が作った浪士組が元になった組織で、主に江戸市中の警戒、海防警備に従事する。
 このほかに「新整組」と名乗った組織もあり、江戸市中取締りにあたり、戊辰戦争では「新整隊」と改称して官軍と戦った。
 つまり、新撰組新徴組、新整組は兄弟組織のようなものだ。
Photo
  東京では警察官を「おまわりさん」と親しみを込めて呼ぶが、その語源は「新徴組」にあった。
 「新徴組」を江戸庶民はこう歌った。

 ♪酒井左衛門様お国はどこよ
  出羽の庄内鶴ヶ岡
  酒井なければお江戸は立たぬ
  御回りさんには泣く子も黙る
 
 それにしても、内濠川の上の高速道路は景観を大きく損ねている。
 1963年、東京オリンピックの前に首都高速道路が建設され、それ以降、せっかくの江戸の景観が台無しとなってしまった
 当時は、戦後の経済復興だけが目的で何も考えず進めたのであろう。
 今となっては、どうしようもない。
 石原都知事が嘆くのもわかる。

  

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2011年3月 5日 (土曜日)

地名「今川」は戦国の名残

 最近、久しぶりに荻窪・今川に行く機会があった。
 「杉並区今川」は、戦国~江戸の歴史、そして名門の栄枯盛衰を肌で感じることが出来る土地でもある。
 世に名高い「桶狭間の戦い」は、織田信長の天下統一への第一歩となった戦だが、敗者・今川家の、その後のことはあまり知られていない。
 この「杉並区今川」は、敗者・今川家の終焉の地でもある。

 戦国時代名を馳せた今川家が、江戸時代は徳川家康の庇護を受け、「高家・今川氏」として存続したが、明治10年11月3日最後の当主範叙(のりのぶ)の死をもって断絶した。「高家」とは、江戸幕府の儀式や典礼を司る役職のこと。
 今は、菩提寺「観泉寺」にその歴史を見ることができる。
 「今川家」は、足利将軍家に世継が無い場合は「吉良家(斯波家)」から、吉良にない場合は「今川家」から将軍を出すと言われるほどの名門だ。
 輿に乗ることを許された特別の家柄で、太りすぎで馬に乗れないとされるのは偽りだ。

  しかしながら、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に破れ、事実上没落した今川氏は、天正10年(1582年)以降、今川氏の旧地といわれる近江国野洲郡長島に5百石を家康から与えられた。
 更に、家康の江戸入城に従って江戸入りして、品川御殿山辺りにも屋敷地が与えられ、父・氏真に先立って没した範以の子直房以降は、武蔵国多摩郡上井草、下井草、上驚宮村及び豊島郡中村(杉並、練馬、中野区内)が知行地であった。
 今川の南に位置する下荻窪村は服部半蔵の知行地であり、これは江戸の町中に、別の国があったのと同じだ。まるで、ローマの中にあるバチカンに似ている。
 そして、この名残は地名「今川」、そして、菩提寺「観泉寺」に残る。
 
 徳川家康が今川家の面倒を見たのは、家康が竹千代と呼ばれた当時、11年間も今川氏の人質として駿府へ送られていたことが大きく関連していることだろう。
 
  武蔵国多摩郡上井草、下井草、上驚宮村及び豊島郡中村の知行地内では、今川家に裁判権もあったのは当然であり、「斬首の刑」は観泉寺の北側で行われていたという。

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2010年10月 7日 (木曜日)

酒田甚句で伝わる遊郭の繁盛

♪日和山 沖に飛島 朝日に白帆
  月も浮かるる 最上川
  船はどんどん えらい景気
 今町舟場町〈いままち、ふなばちょ〉 興屋〈こや〉の浜 毎晩お客は
  どんどん シャンシャン
 シャン酒田は よい港 繁盛じゃおまへんか

♪海原や 仰ぐ鳥海 あの峰高し
  間〈あい〉を流るる 最上川
  船はどんどん えらい繁盛
 さすが酒田は大港 千石万石 横づけだんよ
 ほんまに酒田はよい港 繁盛じゃおまへんか

♪庄内の 酒田名物 何よと問えば
  お米にお酒に おばこ節
  あらまぁ ほんに すてき
 港音頭で 大陽気 毎晩お客は
  どんどん シャンシャン
 シャン酒田は よい港 繁盛じゃおまへんか

 と「酒田甚句」に歌われるが、江戸時代から明治にかけての北前船交易による酒田湊の繁栄ぶりが伺える。
 歌詞の、「毎晩お客はどんどんしゃんしゃん」と、御大尽達の宴会三昧の様子がつたわるとともに、「ホンマに酒田はよい港」「繁昌じゃおまへんか」との京言葉からは、当時の酒田が京都との深い交流を示している。
 因みに、今町、舟場町 興屋〈こや〉の浜、三カ所の色街は
   ◎船場町は日和山公園の東側、菊水旅館付近
   ◎今町は現在の日吉町辺り
   ◎興屋の浜(高野浜)は現在の北新町辺り、当時は酒田の郊外
 にあったようだ。
 文化10年(1813年)、まず船場町と今町が公許され、次に高野浜も公許されたが、明治27年の庄内大地震後、高野浜一ヶ所に統合されたとある。
 そして、どこの遊郭の近くには、申し合わせたように稲荷神社があった。江戸時代は「梅毒」などの性病が猛威をふるったそうだ。
 何の治療法もなく、「稲荷信仰」が唯一の頼りだった。
  ▼村社稲荷神社(北新町2-12-10)。
   ▼三居稲荷神社(三居倉庫敷地内)
  ※江戸の吉原遊郭には郭を囲むように5箇所も稲荷神社があった。
 それから、北重人著『汐のなごり』は、湊町の水潟(酒田)を舞台にした遊女の話だった。

大泉逸郎/酒田港
http://www.youtube.com/watch?v=lB6Gs-HHqB8
 作詞 : 木下龍太郎   作曲 : 大泉逸郎
 白帆が頼り 北前船は
 止まるも行くも 風まかせ
 お前が見送るヨ- 酒田港
 紅花積んで 浪花を目指す
 行く手は遠い 西廻り

村社稲荷神社(北新町2-12-10)辺り。


■例年8月上旬の酒田大花火大会の前日には、「酒田港まつり・酒田湊甚句流し」が行われている。

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2010年10月 3日 (日曜日)

江戸~昭和の遊郭と岡場所

 このブログで何項目か「遊郭や岡場所」に関して記載したが、随分詳しいと思われたのか、数名の学生から卒論の情報収集に利用していただいた。
 それは嬉しいことだが、残念ながら年齢的にも利用した体験がなく、内容は先輩から聞いたことや著作物からの間接情報なので説得力に乏しい。

 それに「遊郭」は売春防止法により昭和33年に廃止されているから、この当時20歳位の方が遊んだとすると、現在70歳以上の方なら体験者もいるだろうから、直接体験談を尋ねたらと回答した。 今思うと、20歳過ぎの方がマイナーな分野に挑戦するのだから、もっと調査に協力するなどの積極さも必要だったと思っている。

 今回は、あと一歩調査のヒントとなる情報を提供しようと思う。
 江戸時代、幕府公認の遊郭・吉原は『本場所』と呼ばれ、それ以外は『岡場所』と呼ばれていた。大相撲は「本場所」や「茶屋」制度など、遊郭の真似をしたと言われる。
 岡場所の娼妓は一般に「子供」と呼ばれ、その子供にも幾つかの種類があり、妓楼(茶屋)に抱えられている「伏玉」、通いの遊女である「呼出」に分けられ、更に呼出は娼妓置屋に属する人と、出居衆と呼ばれた自前の娼妓がいたという。
 現在の非合法の売春も、きっとこのような方式を参考にしているはずだ。

 『岡場所』は江戸では日本橋から一つ目の宿場町である「品川・内藤新宿・板橋・千住」(江戸四宿)が有名だが、本郷の根津神社隣など最盛期には100カ所近くあった。
 それに「岡場所」は「吉原」と比較して代金も安く、気軽に遊べる場所として利用されたという。 
■しかし、倹約や思想統制が行われた「寛政の改革(1787~1793年)」で、
 菎蒻島(霊岸島)、あさり河岸、中洲、入船町、土橋、直介屋敷、新六軒、横堀、大橋、井ノ掘、六間掘、安宅、大徳院前、回向院前、三好町、金龍寺前、浅草門跡前、新寺町、広徳寺前、どぶ店、柳の下、万福寺前、馬道、智楽院前、新鳥越、鳥町、山下、大根畠、千駄木、新畑、白山、丸山、行願寺門前、赤城、市谷八幡前、愛敬稲荷前、高井戸、青山、氷川、高稲荷前、卅三間堂など55箇所が取り潰しになった。
■更に、「天保の改革1842年(天保13年)」で残存していた27箇所が「品川・内藤新宿・板橋・千住」の四宿を除いて全て取り潰しになった。
 それは、深川仲町、新地、表櫓、裏櫓、裾継、古石場、新石場、佃、網打場、常盤町、御旅所弁天、松井町、入江町、三笠町、吉田町、吉岡町、堂前、谷中、根津、音羽、市ヶ谷、鮫ヶ橋、赤坂、市兵衛町、藪下、三田の岡場所だった。
■このように、取り潰しや新たに開業する場所もあり、その時点で何処何処にあったのか正確に知ることが難しい。
 面白いのは、幕末の1868年(慶応4年)公許による根津遊廓があったが、近くに東京帝国大学が出来ると教育上から、1888年廃止され深川の洲崎に移転させられた。
 また、大正時代には政府非公認の私娼街、向島の玉の井があったが、戦後は「鳩の街」としても賑わった。
 この「鳩の街」は、永井荷風の「春情鳩の街」、「渡鳥いつかえる」、吉行淳之介の娼婦の街を描いた「原色の街」驟雨(しゅうう)」などで全国的に有名になった。
 ※参考文献は石橋真国『かくれ里』、石塚豊芥子『岡場所大全』、此花十三枝など。

 他にも、戦後、立川に進駐軍がやって来ると、立川駅の北と南に遊郭が誕生する。
 ここは、深川の洲崎の遊郭業者がやって来た。
 立川駅北側の錦町は白人、南側の羽衣町は黒人を相手にする所だったという。
 このようなところまで人種差別があったことが面白い。
 また、多摩地域では浅川近くの八王子市田町には、約150メートルの大門通りには十数軒の妓楼が並んでいたが、家並みに今も面影が残る。

 なお、福生駅東側に今も赤線と呼ばれる地域があることや、線、線、線地域のことは別の機会に触れることにしたい。
----------------------以下は引用-----
  丹野顕著「江戸の色ごと仕置帳」から
全国の遊郭
 ところで、幕府公認の遊郭は江戸では吉原だけであるが、日本全国では4代将軍家綱の寛文期(1661~1673年)で、次の25ヵ所があった。
武蔵浅草新吉原
伏見柳町
越前敦賀六軒町
和泉堺南津守
播磨室小野町(室津)31mgvp4ervl__sl500_aa300_
長門下関稲荷原
薩摩山鹿野(寄合町)
京都島原
奈良鳴川(木辻)
越前三国松下
摂津兵庫磯の町
備後鞆有磯町
筑前博多柳町
大坂瓢箪町(新町)
大津馬場町
越前今庄新町
石見温泉津稲町
安芸多太海
肥前長崎丸山町
伏見夷町(撞木町)
駿府弥勒町(嶋)
和泉堺北高洲町
佐渡鮎川山崎町
安芸宮島新町
薩摩樺島田町(肥前?)
 ※『洞房語園』 江戸中期の随筆。2巻。庄司勝富著。享保5年(1720)成立。

 このほか幕府は1718年(享保3)以後、主要街道の宿場には旅籠一軒につき二人の飯盛女を置くことを許した。彼女たちは旅人の給仕をし、さらに床での相手もした。
 宿場の伝馬経費の負担を軽減するために許可したもので、とりわけ江戸の玄関口にあたる品川(東海道)・内藤新宿(甲州街道)・板橋(中山道)・千住(奥州街道)の四宿は伝馬経費が莫大だったので、一軒に二人という制限をはずした。
 なかでも幕府の公用が最も多かった東海道品川宿は1764年(明和こ、宿全体で500人の飯盛女を認可した。当時、品川宿には大小93軒の族籍があったから、一軒平均で五人強の売女を抱えることができた。
 土蔵相模のような大旅籠は他の族籍の権利を買い取って、数10人の飯盛女を抱えていた。1843年(天保14)の取り締まりのとき、品川宿全体の飯盛女の人数を確認したところ、500人のはずが1348人もいたという。
 しかし、江戸にあふれていた男たちの欲求を満たしたのは、幕府の許可を得た遊郭の遊女や四宿の飯盛女よりも、その何倍もいた隠売女をはじめとする私娼たちだった。
 江戸には有名な岡場所だけでも84ヵ所もあり、隠売女とよばれる身を売る女が各所に群居していた。
 さらに遊軍の私娼には、踊子をピンとすればキリの夜鷹まで、さまざまな私娼かおり、また私娼ではないが湯女風呂水茶屋楊弓場(射的場)の女など、風俗営業の女たちもしばしば私娼と同様のサービスを売り物にしていた。
 一口に私娼といっても、さまざまな営業形態があり、料金体系も雲泥の差があった。宮武外骨の『笑う女 売春婦異名集』(1921年刊)には、日本古来の娼婦の呼び名が450余り紹介されていて、彼自身の調べでは、このうち公娼は82語、私娼は316語とある。他は古名や公私不明である。異名の大半は江戸時代の私娼である。
 江戸時代に多くの女性がわが身を売った経緯には、彼女たちをとりまく職業事情がある。
-----------------------引用終わり----

向島の玉の井、戦後の「鳩の街」と呼ばれた辺り

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2010年9月23日 (木曜日)

面白地名・比丘尼(びくに)交差点

 高速・関越及び東京外環の大泉インター付近の練馬区三原台3-31先に、比丘尼(びくに)交差点や比丘尼橋、比丘尼公園がある。202_2
 ここは、帰省や東京外環を利用する際は良く通行する。
 そのたびに「色っぽい名前の交差点だ」と、うんちくを語ってしまう地点だ。ただ、この辺りは昔は農村だった所で、ここまで比丘尼は色商売に来ていたのか疑問だった。

 「比丘尼(びくに)」は、尼と間違えられるが純粋の尼ではない。
 尼の格好をした売春婦で、夜鷹の一種と言われる。きっと昔は、この辺りにも売春目的の「比丘尼(びくに)」が出没したのだろうと思っていた。
 今回、この項を記述するために調べて見ると、
 この近くに「真福寺」という寺があって、この寺には、美人尼僧が住んでいたそうだ。そして、この尼僧の面倒をみていた善兵衛という名主と恋仲になった。しかし、その恋は成就せず、尼僧は白子川に架かる橋から身投げをし、その近くの橋が「比丘尼橋」と呼ばれるようになった。交差点名はその隣だからだろう。
Bikuni
  右写真は、「写された幕末」(石黒敬七コレクション)
 「比丘尼(びくに)」
 木綿布子に黒羽二重の頭をかくし、加賀傘という出で立ちの歌比丘尼。勧進・勧進と薄化粧をし頒歌を唱えて売色しながら流れ歩いた。熊野伊勢は尼形売女の大本山、古くから多数(数千)の比丘尼を管轄し歳供を受け、一山富むほどの大繁盛を来たした。
 比丘尼のコスプレのイメージが浮かばなかったが、この貴重な写真でようやくつながった。
 それから、  
 遊郭と神社仏閣は、神世の昔から深い関係にあったとされるが、この辺りからも証明されそうだ。
 右下段の写真も、、「写された幕末」(石黒敬七コレクション)からの一枚で、巫女は、賽銭を多く集める役目と信者を惹き付けるために売色も厭Mikoわなかったという。
 この写真は、奈良の某神社の巫女達だが、色を売る大切な仕事があった。明治6年に表向きは禁止になったとされる。

 売春が合法だった時代のことを、現代の視点で語ることは難しいが、最近の中・高校生まで援助交際という売春をする時代と、どっちが健全な社会なのだろうか。

日本巫女史/第二篇/第四章/第一節

第一節 熊野信仰の隆替と巫道への影響



■新宿区本塩町14にある「比丘尼坂」「三陽商会」の横。

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2010年9月 1日 (水曜日)

「新徴組」と山形県遊佐町の関係

 「新撰組」の兄弟組織「新徴組(しんちょうぐみ)」のことをご存じですか。
 「新徴組」を江戸の人は御回りさんと呼んだことが、お巡りさんの語源になっていることや「新徴組」隊士が山形県遊佐町と関係していることを紹介したい。

 関係した新徴組隊士は、越後国福井藩士中川清閑の次男で、「中川一」と言う。
 中川一は、明治になると江戸から鶴岡に入り、後に遊佐郷北目に居を構え、北目村の戸長になる。晩年は、吹浦の菅野(すがの)に移り、自宅に道場を建て剣道や薙刀を教えていたが明治25.8.11、70歳で没する。
 菅野に「高橋泥舟揮毫の墓碑が残る。
 長男・中川寅三は遊佐郷・高瀬村の村長となり、長女・は、遊佐病院「点字音譜の祖」佐藤国蔵先生の妻になった。

 実は、このことは「遊佐ゆかりの人々」を読み返すまで知らなかった。
 この本は、10数年前に父親が郷里から持参してきたもので、軽く目を通してはいたが、この箇所は記憶に留まっていなかった。
 松本良一.菅原傳作著 「遊佐ゆかりの人々」で、「中川一」の項目は遊佐町史編纂委員を務めた菅原傳作氏が担当し、遊佐病院の佐藤克也先生に取材したとある。

 まず「新徴組(しんちょうぐみ)」のことに触れると、京都守護職に就いた会津藩の元で活躍したのが「新撰組(しんせんぐみ)」で、こちらは有名過ぎるほど有名だ。Photo
 しかし、江戸市中取締りに就いた庄内藩の元で活躍した「新徴組」(約169名)は殆ど知られていない。
 新徴組も新選組も、山形県庄内町出身の清河八郎が結成した「浪士組」が母体。
 つまり兄弟組織となる。
 
 「新徴組」の屯所があった場所は、JR飯田橋駅から徒歩数分、千代田区飯田橋1-9-7先、目白通りの歩道に、「新徴組屯所跡T0_1の碑がある。かつて、徳川四天王・庄内藩17万石の江戸屋敷があった近くでもある。当時は外堀に「飯田橋」は掛かって無かった。

  
  幕末、薩摩藩の殺人、強盗、放火などのゲリラで江戸の治安が悪化すると、幕府は庄内藩に江戸市中取締りを命じた。
 当時の薩長は犯罪者集団だったのだ。
 京都守護職の会津藩同様大変な負担だったという。
 庄内藩は、更に江戸の護りの補助的組織として「新徴組」を充実させることになる。
 「新徴組」は1番組から6番組まで6組の編制で、各組は肝煎が一人づついて肝煎の下に小頭5人、小頭の部下は4人、つまり1組は肝煎以下26人の編制だった。
 中川一は6番組の肝煎だったという。
 因みに、新撰組1番隊組長・沖田総司の義兄・沖田林太郎は新徴組の小頭で、沖田総司の姉ミツと屯所で暮らしていた。また、中川一は、新撰組組長・近藤勇とも手紙をやり取りしていた形跡があるという。

  庄内藩預かり「新徴組」の活躍を、江戸の人々は、
 「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」、
 「酒井なければお江戸は立たぬ御回りさんには泣く子も黙る」、
 「カタバミはウワバミより怖い」(カタバミは酒井家の家紋) などとうたわれた。
 警察官を「お巡りさん」の愛称で呼ぶが、この御回りさん語源となったという。
 
 さて、江戸の街の維新(革命)前夜は、西郷隆盛指揮する薩摩のゲリラ約500人が、薩摩藩邸を拠点にして、殺人、強盗、放火などの犯罪行為で攪乱していた。
 この方法は共産革命と酷似していたと言われ、目標とした国をゲリラなどで人心を不安に陥れ、幕府(政府)への信頼を失わせ、治安や統治機能の混乱に乗じて、そこに革命支援国(薩摩)から軍隊を呼び寄せる方式をとった。
 「新徴組」は御回り中、ゲリラ犯人が薩摩藩邸に逃げ込むところを目撃する。そして、慶応3(1867)年12月25日、庄内藩と「新徴組」は共に「薩摩藩邸を焼き討ち」を実施するが、これが戊辰戦争の引き金になる。
 薩摩藩邸焼き討ちを取り上げた教科書などは、だから戊辰戦争が勃発したと一方的に庄内藩が悪いように教えるが、その前に、薩摩藩は悪事の限りを働いていたことであり、庄内藩は犯罪の取締り過程で焼き討ちを断行したことを間違えてはならない。

 いずれにしろ、薩長の挑発で戊辰戦争の火ぶたは切られるが、初戦の「鳥羽・伏見の戦い」で、幕府軍は薩長連合軍に惨敗し、将軍は恭順する。幕府軍が敗北すると「新徴組」は庄内藩士と共に庄内へ帰国する。庄内藩に編入された新徴組隊士は、湯田川の旅館や民家37軒に分宿、隼人旅館を本部として部隊を再編した。
 再編した新徴組は 慶応4年7月20日付で編成された庄内藩兵第四大隊に付属、秋田・矢島藩との戦い「椿台の戦い」等に従軍するなど、新政府軍相手に連戦連勝の奮戦をするも、最終的に庄内藩も降伏することになる。この余力を残して降伏した庄内藩に対して西郷隆盛は寛大な処置をしているが、その背景の一つに江戸市中取締りにあった庄内藩に、多大な迷惑をかけた反省もあったとされる。

  明治に入ると、庄内藩士約3,000人は松ケ丘の荒れ野開墾事業に着手、新徴組も参加するが、「新徴組」は関東周辺の出身者が多く、慣れない土地での開墾生活は苦痛を強いられ次々に庄内から脱走した。明治14年7月当時、開墾事業に着手していた名簿には、元新徴組の隊士はわずか11名しか記載されていないという。

 ようやく「新徴組」の隊士の一人「中川一」のことになるが、文政6年1823年生まれで越後国福井藩士として誕生している。天保9年1839年、16歳で武者修行を志し江戸に上る。楊心流柔術や新陰流剣術を修業する。楊心流柔術の戸塚彦右衛門が没後は京橋に道場を開いた。当時、清河八郎の献言で幕府の浪士を集めて、京都の勤王浪士を制圧する案が採用される。「中川一」もこれに応募している。
 ここからは、遊佐病院の元院長・佐藤克也先生の談となる。
 「中川一」は吹浦・菅野に移ると宅地に道場を建てて、剣道、薙刀を教えていた。
 長男・寅三は高瀬村の村長となり、長女・は、遊佐病院「点字音譜の祖」佐藤国蔵先生の妻になっている。

 遊佐町は人口15,594人(2010年7月1日)の小さい町だが、剣道場が「高瀬道場」、「さわらび道場」、「西遊佐道場」、「菅野道場(正式名不明)」、また宮田Kendo01の石垣茂左ヱ門家の「眞武館」など5~6箇所もある町で、当然、剣道人口が多い。
 当然のように剣道が強く、全国大会レベルで活躍している子供達が何人もいる。この基盤には中川一が造った剣道場があったことも、その一つと思っている。
 また以前、遊佐病院のレントゲン技士に中川先生がいたが、この関連も気になる。

 それから、なぜ気安く克也先生などと呼ぶかというと、当時、遊佐病院の医師は4~5人いたが、全員佐藤姓なので、街の人達や患者は下の名前で呼ぶのがImages普通だった。
 当方が怪我で通院していた当時は、この先生方の家族関係は分かっていたが、関係を聞くのは気が引けた。
 この程度の知識なので、克也先生が国蔵先生の孫なのかひ孫に当たるのかハッキリしない。
 最後に、「新選組」に比べ「新徴組」のことは知名度が低く、いずれ歴史から消え去る運命にあるかも知れないが、「新徴組」の隊士の一人が遊佐の町に色濃く血を残していることを知って欲しいものだ。

 鶴岡市居住の作家・佐藤賢一も「新徴組」を書いた小説が新潮社から発売されたようなので、この本も早めに読んでみたい。

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山形県遊佐町・酒田市の剣道場(主なところ)
高瀬道場
      
代表者 菅原清作
      〒999-8523 遊佐町大字当山字福の中55-7
      電話 0234-72-2215
真武館 代表者 石垣 伸
      〒999-8432 遊佐町庄泉後藤寺39松本俊洋方
      電話 0234-76-2328
さわらび道場 代表者 阿曽 到
      〒999-8317 飽海郡遊佐町大字小松字丸川戸39
      電話 0234-72-3415
西遊佐道場 代表者 綱渕和之
      〒999-8438 遊佐町大字比子字服部興野80
      電話 0234-75-3734
本楯剣志会
      
代表者 池田善彦
      〒999-8134 酒田市大字本楯字南広面3-9
      電話 0234-28-2283
池田道場
      
代表者 池田善彦
      〒999-8134 酒田市大字本楯字南広面3の9
      電話 0234-28-2283

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2010年8月31日 (火曜日)

山形県・酒田の処刑場

 以前、東京付近、つまり江戸の処刑場に関して調べてみたが、山形県庄内地方、庄内藩当時の処刑場のことも気になった。
 調べると江戸時代までは、今の時代では考えられないような罪で、簡単に処刑は執行されていた。現代社会に当てはめるなら、犯罪者の半数以上が処刑場送りではないかと思う。
江戸時代の罪と罰一部
親への傷害→磔か死罪
主への傷害→晒し又は市中引廻しの上磔、死罪 Photo_2
尊属への傷害→死罪
師匠への傷害→死罪
殺人強盗 →市中引廻しの上獄門
傷害強盗→ 死罪
追はぎ→ 獄門か死罪
十両以上の窃盗→ 死罪
十両未満の窃盗→ 重敲の上入墨
空巣→重敲きの上入墨
普通の詐欺→窃盗と同じ扱い
依託品取逃がし→死罪
官名詐称→死罪
拾得物横領→過料


酒田の刑場
 酒田の刑場は、旧・酒田西高校近くの酒田市北新町7番12号付近にあった。
 ここでの最後の処刑は、幕末、官軍と戦った庄内三烈士といわれた、
 ○ 佐藤桃太郎(遊佐町升川、佐藤藤佐の孫)、
 ○ 関口有之助(岡崎藩士)、
 ○ 天野豊三郎(幕臣)
 の3人だった。
 今町の刑場跡には受刑者の霊を弔う地蔵があり、首切り地蔵と呼ばれていたが、明治35年、「善導寺」境内に移され、現在は赤子(せきし)地蔵と名づけられ、子供たちの成長を願うお地蔵さまとして信仰を集めているという。
 また、処刑前に宿とした米屋町の九郎右衛門は、自分の菩提寺の林昌寺境内に髭髪(しゅはつ)碑(遺髪を埋めた碑)を建立して、3烈士の御霊を弔っている。
 また、「三烈士碑」は酒田市相生町2-4-20 妙法寺公園にある。
   ※碑の篆額は林董(ただす)(元外務大臣、旧幕臣・伯爵、佐藤藤佐の孫)

 最後に処刑された「佐藤桃太郎」のことは、荘内日報の「郷土の先人・先覚」ページに、詳しく紹介されている。

嘉永元~明治2年 刑場に消えた3烈士の1人
  http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp181.html
   佐藤 桃太郎(本名は喜惣司、嘉永元~明治2年)
 遊佐郷升川村(現遊佐町)出身、三方国替えで活躍した佐藤藤佐の曾孫に当たり、祖父は江戸詰めの庄内藩医・佐藤然僕。
桃太郎は通称で、本名は喜惣司。幕臣として旗本格。陸軍奉行・支配評定所の書物御用役。幕府解体のとき箱根などに転戦。敗れて庄内に脱出し、八ツ興屋(現・鶴岡市)に逃れてきた。しかし、捕えられて酒田に身柄を預けられ、明治2年4月21日、酒田で処刑された。19歳だった。一説には22歳ともいわれている。
鶴岡の処刑場
 キリシタンが弾圧された江戸時代初期には、庄内藩でも1626年に200人以上の切支丹が追放され、1629年に鶴ヶ岡髪谷地刑場で10人、酒田刑場で10人、鶴ヶ岡大山刑場で5人が、火あぶりや斬首によって処刑されたとの記録があるが、正確な場所は不明だ。
 一番可能性が高いのは、赤川河川敷とされる。
 藤沢周平も漠然と記載していた。

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2010年8月29日 (日曜日)

武器で結びついた薩摩と長州

  今日8月29日、日曜日は、「龍馬伝」“薩長同盟せよ”がある。 
 坂本龍馬をあつかった英雄伝は、つくられた虚像だという。
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 小説、ドラマでも、真実をある程度を知ることが大切と思う。
 作家・吉村昭は自書「ひとり旅」で、薩長は武器で結びついたもので、龍馬のことは史実ではないと一蹴する。

 龍馬はただの土佐の郷士(半農半士程度の身分)、あの当時、藩士ではない者が薩摩藩長州藩という、一つの国同士を仲介することは有り得ないと批判している。
 他の作家も、龍馬は精々武器商人グラバーの助手程度の役割と評価している人が多い。
 「亀山社中」も、グラバーと香港に本社があった「ジャーディン・マセソン商会」が武器を密輸するために作ったダミー会社とされる。
 そして、「大型蒸気船ユニオン号」は、名義を薩摩藩、実際の運用は長州藩、乗員は「亀山社中」という複雑な契約をとり、上手に「長州藩」に引き渡している。このようなことは、元々商取引の知識がない坂本龍馬の案ではないと言われる。
 なお、「ジャーディン・マセソン商会」 は、近年では「マンダリン・オリエンタルホテル」等の経営で知られる。

 このような歴史物は視聴者も、史実をある程度知っておくことが大切と思う。
 小説がドラマ仕立てになると、史実として見てしまう傾向が一層強く、それが、間違った人物像が定着することは、もっと怖い。
 そのいい例が、
 司馬遼太郎坂本龍馬、吉川英治宮本武蔵と言われ、新撰組も、戦後暫くは悪役でしか登場しなかったが、近年ようやく正しい評価を下されるようになったとされる。
 吉川英治の「宮本武蔵」には、今東光が歴史をねじ曲げた小説だ」と強く批判していたことを思いだす。

 作家の吉村昭は、「歴史を究める」こと、そして「定説をくつがえすのも、作家の務め」だと、暗に批判する。
 更に、「私は、史実というものはそのままなのドラマですと。ですから、史実を書いていると、それが小説になるのです。」と語る。
 昭和42年「高熱隧道」を発表以来の読者だが、吉村昭の徹底した調査力からして、当然ながら全面的に支持している。

■吉村昭著「ひとり旅」に
 「武器で結びついた薩摩と長州」という項目がある。
------------------------------引用-41qdmb3d0il__ss500__2
  長州藩もそのころ、下関海峡を通過する外国船を無差別に砲撃していたのです。
 これも先ほど言いましたように、尊王攘夷ですね。
 外国の勢力に負けないぞということを誇示するために、無差別に砲撃していたのです。
 それで、外国も怒ってしまって、アメリカ、オランダ、フランス、それからイギリスなど、連合艦隊が下関へ行ったのです。
 そして、長州藩と戦闘をしましたが、長州藩が惨敗。
 大砲や青銅砲なども随分持っていかれてしまって、今アメリカなどに展示されたりしていますけれど、そのようにして長州も全く負けた。 
 
 そのときに、井上馨(※長州藩)と桂小五郎(※長州藩医・和田昌景の長男、後に木戸孝允)が長崎に行きまして、グラバーというイギリスの商人と交渉して、「銃と大砲を輸入したいんだ、頼む」と言いましたGlabarのですが、そのころは長州征伐というのがありまして、幕府は長州だけには売るなと、外国商人に圧力をかけていたのです。
 それで、だれも長州藩の要求にこたえなかった。
 桂と井上は、たまたま長崎に来ていた小松帯刀(薩摩藩家老)のところに行ってなんとかして欲しいと。

 小松帯刀(薩摩藩家老)は快諾し、分かった、薩摩の名義を貸しましょうと。
 それで、どんどん輸入なさいと。
 二人は大喜びして、そして長州藩は外国の銃砲、それから軍艦まで輸入したのです。
 その、薩摩が斡旋したということを、長州藩の藩主とその息子さんがお礼状を送っている、鹿児島に。ともかく斡旋していただいてありがたいKomatsu_tatewaki01
 薩摩藩と長州藩で幕府を倒すことに全力を挙げましょう
 そのような礼状が行っているのです。
 つまり薩摩と長州が結びついたのです。
 薩長同盟というと、坂本龍馬が斡旋したことになっているのですが、坂本龍馬は土佐藩藩士ではなく、郷士です。
 坂本龍馬が両方を仲介して薩長同盟を結ばせたといわれていますけれどもそのようなことは史実にないのです
 一人の人間が薩摩と長州、今のアメリカとソ連のようなものですが、それを中に入って
話をつけるなどありえない。
 一番最大のものは武器なのです
 武器で合致してしまった。
 それで、この薩摩・長州が新鋭銃、新鋭の大砲、これを輸入して、そして幕府と対抗す
る。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍は一万五千人、薩長のほうは四、五千なのですね。
 それで圧勝してしまったのです。


  

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2010年6月11日 (金曜日)

お茶にまつわる艶っぽい話

 「相撲茶屋」のことを調べていたら、「お茶」という言葉には意味深なことが色々あることに気づいた。Tea_ti1
 「おを引く」、「出合屋」、「番」、「おっぴい」、「おの子さいさい」、「っきりぶし」、「おを濁す」、「壺」、「釜」、「臼」等々、「お」を使った言葉が随分と多い。
 これらの殆どに艶っぽい話がある。
 江戸時代は嗜好品の種類が少なく、酒、たばこ等と並んで「お」も貴重で珍重された。
 「おタイム」は大切なひとときで、そこには男女の出会いがあったのだろう。
 本当のお茶の葉を売る店は葉茶屋、茶店は水茶屋、掛け茶屋。他は皆、色茶屋。

■「おを引く」は、遊郭に来た客に出すお茶を出すのは売れない遊女の役目。
■「おちゃっぴい」は、おしゃべりな女で客がつかない遊女のこと。
■「茶番」は売れない遊女の役目で、その茶番が演じた他愛のない演し物が茶番劇。
■「上がり」は、「お」のことだが、遊郭言葉で「上がり花」の略。
■「出合屋」は、今のラブホテルのこと。
■「待合屋」は、布団が準備してあった。
■「色屋」は、出会茶屋、待合茶屋の総称。
■「茶壺」は、数人が円陣になり、両手に指が入るくらいの輪を作り、鬼が人差し指をその手の輪に差し入れながら歌う。遊郭で客が遊女を選ぶ時の遊び。
■「茶釜」にはでたらめという意味があるらしい。
■「茶臼」とは女性が上。

 このような知識が頭に入ると、女性に「お茶しませんか」などと言われたら、それこそ「ドキッ」としてしまうかも。
 そんな場合は、適当に「お茶を濁す」以外にない。
 しかし、「宵越しの茶は飲むな」とも言うし。
 つまり、が出たら直ぐにいただけということか。
 それは、どのようなでもか。
 なに、「臍で茶を沸かす」だと。
 話を茶化すな。
 まぁ、こんなところか。
 最後は真面目に、「」の呼称は世界で「チャ・チャイ」系統と、「テ・テー」系統の二つの系統しか存在しないという。世界共通語らしい。

 

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