カテゴリー「09  おもしろ地名」の24件の記事

2011年2月 1日 (火曜日)

「恵那雑巾」の精神を忘れるな

 この言葉は自分に言い聞かせていることで、他人に押しつけるつもりは毛頭ない。

 「恵那雑巾(えなぞうきん)」という言葉をご存じだろうか。2011_1
  30数年も前、岐阜県恵那出身の同僚から教わった。
 以後、ひそかに真似て自分の処世訓にして来たが、その精神を会得出来ず平凡な人生を歩んでいる。
 一方、恵那出身の同僚は当初は目立たなかったものの着々と地位を固めつつ、能力を発揮する姿を目の当たりにした。
 きっと、故郷では「恵那雑巾の精神を忘れるな」と言われて上京したのだろう。

 「恵那雑巾」の由来は、明治41年編制された岐阜県岐阜市にあった帝国陸軍68連隊(幸3704部隊)(通称ロッパチ)の軍隊生活から生まれた。
 兵隊達は、掃除の時間になると要領のいい兵隊は楽に掃除のできるほうき等の用具を競って持ったという。
 しかし要領の悪い恵那出身の兵隊達は、いつも最後に残った雑巾を持つことが多かった。ここから、「雑巾がけをするのは恵那人」となったとされたが、愚直な姿勢は徐々に周囲に認められる存在になった。

 岐阜県恵那の所在地は現在の恵那市ではない。
 昔からの「恵那」は美濃国恵奈郡と呼ばれた地域で、現在の長野県木曽郡全域も含まれたそうだ。
 この辺りは土地鑑がないので深入りしない。
 「恵那雑巾」は、いろいろな思いを込めて、良い意味でも悪い意味でも恵那人気質として使うようになった。
 要約すると、
 1 岐阜県恵那出身者の気質・生き方・在り方を言う。
 2 要領が悪く、愚直で他人を疑うことを知らない恵那人を蔑視する意味もあった。
 3 自虐的な意味もあるが、結果的に周囲に認められる人物になった。

 我が家の子供たちにも、掃除をするときは「楽な箒や掃除機より、雑巾を持て」と話して送り出しているが、その精神を理解できるまでは何年かかることやら。
 もっとも当方も、今もって会得できずにいるのだから人のことは言えない。

 簡単に言えば、人が嫌がる仕事、つまり雑巾がけのような仕事もバカにしてはならないのだ。

恵那の地名由来と「恵那雑巾」
  http://baba72885.exblog.jp/11661478/

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2010年9月23日 (木曜日)

面白地名・比丘尼(びくに)交差点

 高速・関越及び東京外環の大泉インター付近の練馬区三原台3-31先に、比丘尼(びくに)交差点や比丘尼橋、比丘尼公園がある。202_2
 ここは、帰省や東京外環を利用する際は良く通行する。
 そのたびに「色っぽい名前の交差点だ」と、うんちくを語ってしまう地点だ。ただ、この辺りは昔は農村だった所で、ここまで比丘尼は色商売に来ていたのか疑問だった。

 「比丘尼(びくに)」は、尼と間違えられるが純粋の尼ではない。
 尼の格好をした売春婦で、夜鷹の一種と言われる。きっと昔は、この辺りにも売春目的の「比丘尼(びくに)」が出没したのだろうと思っていた。
 今回、この項を記述するために調べて見ると、
 この近くに「真福寺」という寺があって、この寺には、美人尼僧が住んでいたそうだ。そして、この尼僧の面倒をみていた善兵衛という名主と恋仲になった。しかし、その恋は成就せず、尼僧は白子川に架かる橋から身投げをし、その近くの橋が「比丘尼橋」と呼ばれるようになった。交差点名はその隣だからだろう。
Bikuni
  右写真は、「写された幕末」(石黒敬七コレクション)
 「比丘尼(びくに)」
 木綿布子に黒羽二重の頭をかくし、加賀傘という出で立ちの歌比丘尼。勧進・勧進と薄化粧をし頒歌を唱えて売色しながら流れ歩いた。熊野伊勢は尼形売女の大本山、古くから多数(数千)の比丘尼を管轄し歳供を受け、一山富むほどの大繁盛を来たした。
 比丘尼のコスプレのイメージが浮かばなかったが、この貴重な写真でようやくつながった。
 それから、  
 遊郭と神社仏閣は、神世の昔から深い関係にあったとされるが、この辺りからも証明されそうだ。
 右下段の写真も、、「写された幕末」(石黒敬七コレクション)からの一枚で、巫女は、賽銭を多く集める役目と信者を惹き付けるために売色も厭Mikoわなかったという。
 この写真は、奈良の某神社の巫女達だが、色を売る大切な仕事があった。明治6年に表向きは禁止になったとされる。

 売春が合法だった時代のことを、現代の視点で語ることは難しいが、最近の中・高校生まで援助交際という売春をする時代と、どっちが健全な社会なのだろうか。

日本巫女史/第二篇/第四章/第一節

第一節 熊野信仰の隆替と巫道への影響



■新宿区本塩町14にある「比丘尼坂」「三陽商会」の横。

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2010年8月21日 (土曜日)

面白地名・遊佐町「唐船場」

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 ↑写真の左・中央付近が吹浦小学校。

 山形県遊佐町吹浦海岸近くに「唐船場」(とうせんば)という地名がある。
 場所は、国道7号吹浦バイパスとブルーラインが立体交差する辺りだ。
 ネット上の地図で「唐船場」を発見できたのは、グーグルだけだったTosenba

 もっと正確には、国道7号線とブルーラインの立体交差を十六羅漢方向に曲がると「吹浦小学校」があるが、この小学校の裏手に、旧道の「南光坊坂」がある。
 この辺りに江戸時代、外国船を見張る「唐船場」があったはずだ。正確な位置は知らない。

 この辺りは、鳥海山が噴火して溶岩が流れて盛り上がった「吹浦山」の一角だ。そして溶岩が海に流れ込んだ先端が十六羅漢がある海岸となる。Photo
 綾瀬はるか主演の映画「ICHI」のロケ地になった吹浦の「鳥海山大物忌神社」から見ると北側の高台に位置している。それに吹浦小学校も、昨年、松岡錠司監督作品の『スノープリンス 禁じられた恋のメロディ』の撮影が行われている。
 晴れた日には、日本海が遠方まで見渡すことが出来る。
 
 「唐船場」は、「唐船番所」或いは「唐船遠見番所」とも言われ、外Ichi国船を見張るために各地に設置された。最初は、江戸時代初期の家光の鎖国令に基づいて全国的に置かれたそうだが、日本近海に外国船が出没するようになった寛政年間(1789~1800年)に復活し、幕末まで機能していたようだ。

 因みに、庄内では、鶴岡市加茂今泉(加茂水族館近く)にも「唐船場」があったというし、宮城県石巻市の牡鹿半島では「唐船御番所公園」として整備されている。
 宮城県のように、「唐船場」があった場所を「見晴台」にするなど分かり易くすれば、歴史の勉強の場所になると思うのだが・・・・・・。
 
 また、山形県庄内海岸で北朝鮮不審船が問題になった昭和40年当時は、西浜海岸の松林近くに櫓を組んで、不審船発見の見晴台が作られたことがあった。

Photo

http://maps.google.co.jp/maps?q=%E9%81%8A%E4%BD%90%E7%94%BA%E5%90%B9%E6%B5%A6%E5%94%90%E8%88%B9%E5%A0%B4&hl=ja&tab=il&btnG=%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%82%92%E6%A4%9C%E7%B4%A2

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2010年8月 3日 (火曜日)

面白地名・鶴岡市の「古郡」

 山形県鶴岡市の「古郡(ふるごおり)」は歴史のロマンを感じさせる地名だ。
 正に「地名は土地の履歴書」だ。Photo_2

 7~8世紀に律令制が整備されていく過程で、北海道を除く全国を60余りの「国」に区割りし、その「国」を数カ所の「郡」で区分していた。
  山形県や秋田県辺りは、「出羽(いでは)」と呼ばれたが、これは「越の国」(新潟の上越市)からの出先としての「出端(いではし)」の意味だという。(※「越の国」の国分寺跡は未発見)
 和銅2年(709)7月1日、律令政府は諸国に命じ、蝦狄(えてき)を成敗するための兵器を、「出羽柵(いではのき)の「征狄所」へ船100嫂運送したと記録がある。

 しかし、この「出羽柵」の正確な場所が分かっていない。
 現段階では、この鶴岡市「古郡」が最有力視されている。
 「古郡(ふるごおり)」は、藤島町が鶴岡市と合併する前は、「東田川郡藤島町古郡」だったが、現在は「鶴岡市古郡」と地名変更されている。

 「出羽柵」の近くには、船100嫂を停泊できる「潟湖」があったとみられる。
 庄内平野はかつて「潟湖」だったところだが、当時の潟湖の広さが分かっていない。
 現在の「古郡」は最上川から10㎞ほど離れているが、直ぐ近くには「池神社」、「皇大神社」の古い社殿があるのが面白い。

 また、『続・日本紀』によると、和銅7年(714)から養老3年(719)までに、東海・東山・北隆三道の民が4度にわたって出羽国に移され、累計1200戸に及んだという。
 庄内は、「出羽郡」「田川郡」と「飽海郡」となり、更に「陸奥国」に属していた「最上郡」、「置賜郡」の5郡で「出羽国」となり、ほぼ現在の山形県の広さになった。

 更に180年も経った頃、、
 『日本三代実録』の887年(仁和3年)5月20日の条に、「国府は出羽郡井口地にあり」とあるが、「井口国府」とは、酒田市の「城輪柵」とする見解が有力だそうだ。

 当時、朝廷と蝦夷の抗争がこの辺りで頻繁にあったものと推測されている。
 明白なのは、朝廷側が侵略、それに蝦夷側が抵抗していたもので、アメリカの西部開拓当時の白人とインディアンの抗争と同様であろう。
 アメリカでは「西部劇」というが、日本の場合は「東北劇」か。
 そんな映画を鶴岡の映画村で作って欲しいものだ。

 追われる判官・義経を応援したい気持ちを「判官贔屓」という。
 これは、義経に寄せる東北人の心情とされるが、その心の奥には「滅び行く蝦夷に対する心情」が交差しているとの話を聞いたことがある。

海面が7m上昇した東北の地形は
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/267_data/index15.html

Photo

 

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2010年8月 2日 (月曜日)

面白地名、酒田市生石「登路田」

 山形県酒田市生石(おいし)に「登路田(とろだ)」という面白い地名がある。
 「地名は土地の履歴書」と言うが、正にそのとおりの地名だ。
 静岡県静岡市の「登呂遺跡」と関連している。
 いずれも、稲作水田の遺跡が発見されているが、残念ながら静岡の「登呂遺跡」のように有名な場所ではない。

 「登路田」の由来は、「ドロ田」「トロトロした田」、つまり低湿性の水田だという。
 大昔は、「たんぼ」を「どろ田」とでも呼んでいたのだろうか。
 山形県庄内平野にある酒田市生石の「登路田」からは、縄文時代晩期(紀元前1300年~紀元前950年)の稲作水田の遺跡が発見された。
 「生石2遺跡」と呼ばれている。
 昭和60年、発掘調査したところ、縄文晩期の土器とともに、福岡県の弥生時代前期の遠賀川(おんががわ)系土器が発見されているところから、稲作技術とともに九州から伝わったものと推測されている。
 酒田市生石の「登路田」は東側の山寄りの345号線沿いにあり、庄内平野でも早目に陸地化した場所だったと思われる。
 以前は何度か車で通りがかったが、別の道路が良くなってからは通行していない。

 それに「生石(おいし)」もまた面白い地名だ。
  大沼浩編著 『荘内地名辞典』では 『石材の産地としての伝播地名』とある。
 東平田の山寄りで、矢流川が下り、生石神社が祭られている。生石は、地名として近畿・中国地方に見られ、古く人名にもある。ここの生石は、石材の産地といわれ、神社の勧請による伝播地名であろう。


  因みに、縄文時代は今から約1万6500年前に始まり、約2千3百年前に終わった。
 その約1万3千年間を 「縄文時代」と呼ぶ。
 かなり長い期間だ。
 縄文時代には土器の製作と矢の使用が始まり、ムラが作り始められた。
 縄文時代の「縄文」は、土器に縄の模様を入れた時代を基準にしている。

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なぜ「東北地方」と呼ぶのか

 なぜ、「東北地方」と呼ぶかご存じですか。Map_canvas_3
 
 古代から幕末まで、「征夷大将軍」という絶対権力者が「東北の地」を征伐する役目を担っていた。
 征夷大将軍の「」は、蝦夷(エミシ)の「」だ。

 古代律令国家の支配地域は、出羽国陸奥国の土地、エミシの土地を征服することによって拡大してきた。
 この「征夷大将軍」に代わって権力の座に就いたのが、薩長土肥を中心とした「明治政府」だった。

 東北地方は本当に「東北」に位置しているか。
 長く疑問に思っていた。
 首都東京から見た「東北地方」は、東北(45度)方向でも、北北東(22.5度)でもない。山形県の鶴岡や酒田市は、首都東京のほぼ真北にある。

 それでは、なぜ「東北地方」と言うのか
 京都、鳥羽・伏見の戦いから始まる「戊申戦争」において、侵攻する官軍側の進軍路、向かう方向、侵攻する方角を指していた。
 京都から主戦場となった会津は、ほぼ45度の東北に位置している。
 答えは、京都から45度方向が「東北」だった。
 さらに追加説明するなら、「東北」は陰陽道では艮(うしとら)、鬼が出入りする方角で、万事に忌み嫌われた方角だ。この縁起の悪いこの語を、薩長が意識的に使用したものであろう。実に、当時の薩長の意地汚さが見えてくる。
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 また、「東北の地」を「みちのく」と言うことがある。
 「道の奥」に由来し、古代国家の東山道と北陸道の奥地を指しているが、歌枕では陸奥にのみ用いて出羽には用いなかった。

 東北の地は長い間、大和朝廷から見て最果ての地、野蛮人が住む土地、或いは植民地としての土地、武力征服の土地と見られてきた。 
 そして、幕末、「薩長政権」に対抗した「奥羽列藩」の敗北が、近代の歴史に陰を落とす結果となり、ハンディを負うことになった。
 「奥羽列藩」の奥羽は「陸」と「出」の総称であり、ごく普通に「奥羽地方」や単に「奥州」と言えばいいのに明治政府はそれを避けた。
 そして、「戊辰戦争」で負けた東北地方は「賊軍」として、政治・経済・産業、地下資源の利益、道路、鉄道網、港湾などのインフラ整備など、全ての面で明治政府から東北蔑視、差別の対象とされ現在に至っている。

 現在でも、関西や東京の企業の労働者確保としての進出が目立つが、これら企業は、東北自体の生活基盤を安定させ発展に寄与することは少ない。
 「東北の後進性」は意図的に作られたのだ
 日清戦争、日露戦争、大東亜戦争時には、東北出身の兵隊は意識的に危険地帯に配備されている。当然ながら、指揮官、将校は薩長土肥出身が占めた。
 「一将功成りて万骨枯る」と言うが、万骨は東北の兵隊達だ。

 三大関所の一つ「勿来(なこそ)の関」は、中央から見て「こっちに来るな」と3seki_2言う意味だからひどい話だ。
 この考えは現代社会にもあるのだろうか。
 正式に質問すれば、誰でも「そんなものは、無い」、「負け組の被害者意識が強すぎる」と言うことになる。

 歴史に、「もし(IF)」は禁物だそうだが、これが逆だったら、東北地方にどんな歴史が形成されたであろうか。

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2010年7月28日 (水曜日)

象潟の「女傑・神功皇后」伝説

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 ↑上の写真は秋田県南端の象潟(きさかた)。
 田圃の中に点々と見える濃い緑色が島々だったが、1804年(文化元年)6月4日の大地震で、約2m隆起して古・象潟湖は陸化し消滅してしまった。Dewanokuni
 芭蕉の訪問は元禄二年(1689)のことで、これは芭蕉が眺めた景観ではない。
 一例だが、中央下の大きな緑部分に「蚶満寺」、その直ぐ下に能因法師が三年間隠栖した「能因島」があった。やや左上がTDKにかほ工場。

 芭蕉が「奥の細道」で訪問した最北の地、秋田県最南端の「象潟」には、「古刹・蚶満寺」「九十九島」「神功皇后伝説」など面白い歴史がある。
 直ぐ南に隣接の山形県庄内地方の歴史とも深く関連している。最も、ほぼ秋田県、山形県は「出羽国(でわのくに)」と呼ばれ、一つの国だった。今回は、三韓(新羅、百済、高句麗)を征伐した「神功皇后伝説」に触れる。
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 仲哀(ちゅうあい)天皇の妃、日本史上最強の女傑「神功(じんぐう)皇后」を架空と見るか実在と見るかは、今も意見が分かれる。
 根拠は、三韓征伐は四世紀とされるのに、夫の仲哀天皇の即位期間が192~200年とされ、余りにもかけ離れていること。それに、仲哀天皇の父は日本武尊であることや、神功皇后の超人的活躍などを上げるようだ。
 また、日本書記では神功皇后日巫女(ひみこ)としている。
 今のところ、否定意見が強いが考察するのも面白い。
 ただ、ここで神話を細かく詮索しては面白みがなくなるので拘らないことにしたい。

 さて、「神功(じんぐう)皇后」の陵墓は「象潟」にもあるとされる。   松尾芭蕉の「奥の細道」は、
  「月日(つきひ)は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年(とし)もまた旅人なり」
と始まるが、象潟辺りで
 「江上に御陵あり、神功皇后の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなるゆゑあることにや。」(岸辺に御陵があり、神功皇后の御墓だという。寺の名は干満珠寺というが、ここに神功皇后が来たという話は、いまだかつて聞いたことがないが、いったいどういうことなのか)というくだりがある。
 「奥の細道」のコース近くに住んでいたこともあるが、「江上に御陵あり、神功20107i皇后の御墓といふ---いかなるゆゑあることにや」、この箇所が随分と気にしながら育った。
 学校の先生は「芭蕉が分がらねのに、俺もわがらね」と話していた。

  神功皇后は、三韓征伐のときに暴風雨に遭って漂流し象潟にたどり着くが、身籠っていた神功皇后は象潟で男子を生み、象潟で半年暮らした。男子は後の応神天皇(在位270-310)になったという伝説があるが、当然、実話と見た方が自然と思う。

  そして、象潟には8世紀建立の「蚶満寺」という古刹がある。P1
 蚶方法師という僧が、「神功皇后」の霊夢を見て「皇后殿」を建立したのがはじまりだという。その後の853年(仁寿3年)慈覚大師が東北巡錫に来たときに再興し、「干満寺」と名づけ、その後1257年、北条時頼が訪れ、寺名を「蚶満寺」にした経緯があるという。

  幾度も立ち寄ったことがある古刹だが、次回の帰省では再度シッカリ訪問したい。

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http://www.mapion.co.jp/m/39.2177238888889_139.911445_7/

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2010年7月20日 (火曜日)

面白地名・無音(よばらず)

 山形県鶴岡市に、「無音」と書いて「よばらず」と読む地名がある。
 昨年5月、
 「鶴岡市無音(よばらず)で2009年5月24日、山形県猟友会鶴岡支部会員の50代男性がカラスを駆除するために発射した散弾が民家の窓の網戸を突き破り、台所にいた女子高校生(17歳)がけがをした事件で、散弾は田んぼの水面で跳弾し網戸を突き破ったとみられることが分かった。県猟友会有害鳥獣対策部が明らかにした」
 と新聞報道があった。
 このとき、「よばらず」と読む地名があることを、はじめて知った。

 「よばらず」は招かない交際しないの意味がある。
 地名の名付けは言葉遊び的に、「声を立てない」、「声をかけない」、そして「無音」と当て字されたのだろう。
 つまり、その村には「声をかけない村」、「近所付き合いの悪い村」を意味しているというのだが、自分たちの村をわざわざ「近所つきあいの悪い村」などと命名するだろうかと疑問が残る。
 ただ、村八分のことを調べた際、村八分は単に村内部だけのことではなく、村全体をもつまはじきにした例があったことを知った。

庄内地方の地名
 庄内地方の地名の由来を調べるのに便利だ。
 無音(よばらず)鶴岡市(藤島)
 『招(よ)ばらず。隣村との付き合いを好まなかった村』
 東栄の京田川左岸の村。よぶは招く、招待することで、よばらずは隣村との境を隔てて交際しないこと。よぶを呼ぶと解されて、よばわらずとも書かれた。
 無音はむおん、音をたてないことではなくて、ぶいんと読み、やはり交際しないことである。昔、羽黒山領で、他村と分け隔てがあったのであろう。
 とある。

酒田市の面白い地名
生石(おいし)、鵜渡川原(うどがわら)、柏谷沢(かしやざわ)、
古荒新田(こあらしんでん)、茨野新田(ばらのしんでん)、
遊摺部(ゆするべ)、四つ興野(よつごや)、注連石(すみいし)、
東風当田(だしあてだ)、輿休(おこやすみ)、注連石(すみいし)
こあら(旧・古荒新田)、局局(つぼねつぼね)、柏谷沢(かしやざわ)
砂越(さごし)

鶴岡市の面白い地名
五十川(いらがわ)、堅苔沢(かたのりざわ)、
葈畑(からむしばたけ)、我老林(がろうばやし)、三瀬(さんぜ)、
青龍寺(しょうりゅうじ)、
道形(どうがた)、手向(とうげ)、外内島(とのじま)、
新形町(にいがたまち)、茨新田(ばらしんでん)、
一日市通(ひといちどおり)、文下(ほうだし)、
矢馳(やばせ)、無音(よばらず)、早田(わさだ)
五十川俣(いそかわまた)、文下(ほうだし)、
朝暘町(ちょうようまち)、田圃興屋 (でんぽごうや)、
箕升新田(みますしんでん)、楪(ゆずりは)、手向 (とうげ)、
砂谷(いさごたに)、八ツ興屋(やつこうや)、押口(おさえぐち)
葈畑(からむしばたけ)

庄内町の面白い地名
廿六木(とどろき)、 主殿新田(とのもしんでん)

遊佐町の面白い地名
遊佐(ゆざ)、吹浦(ふくら)、女鹿(めが)、後藤寺田(ごとうじだ)、
直世(すぐせ)、落伏(おちふし)、舞台(ぶだい)

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2010年7月18日 (日曜日)

面白地名「飽海」は阿古の海

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 酒田市松山地区(旧松山町)の、「眺海の森」に立つと庄内平野を一望ができるが、最上川の流れとともに、かつて、平野は海だったことをイメージできる。
 事実、最上川や月光川の河口に近い平野部は近年まで湿地帯だった。

 庄内平野北部を「飽海(あくみ)郡」という。Map_021
 以前は、遊佐町・八幡町・松山町・平田町が飽海郡だったが、三町は平成17年酒田市に合併し、今は遊佐町だけとなった。
 飽海は、「阿古の海(アコノウミ)」」が転じたといわれる。
 この根拠は、「秋田県由利郡には、飽海郡に阿古之入江と称する南北二十里江海があり、阿久美(後世:飽海)の名称は、之から起こったという」所伝もあるという(日向川水害予防組合「日向川史」)。

 庄内平野は南北約100㎞、東西約40㎞、殆どが標高20m以下の平坦地だが全般に地盤が弱い地域だ。
 平野面積は約53,000ヘクタール、内37,400ヘクタールが水田。平野は「扇状地」といって、最上川の河口に開けた平野部からなっている。
  地盤が弱いのは、庄内平野に今も流れる最上川や日向川、月光川などの河川が運ぶ大量の土砂が堆積して出来た土地だからで、このような平野を沖積平野と呼ばれている。 
 酒田は昔の文献に「砂潟」と書かれているが、日本海側では、「象潟」、「新潟」、「八郎潟」「十三潟」などが、この同例であろう。

 また、庄内平野は数千年前まで海だったが、次第に陸地になり、堆積物も泥質から砂質に変わってきたことが地質調査で判明している。
 しかし、陸地になるまでには長い歳月を要した。20107

 概ね2千年前から徐々に陸地になってきたと見られるが、弥生、古墳、平安時代に何処まで海だったかは不明だが、大小の湖沼群の存在が推定されている。
 その湖沼群は河川に繋がっており、大洪水があると庄内平野の大部分が長期間水没したという。事実、最上川の酒田付近には、東禅寺沼など近年まで、幾つかの沼が存在していた。 
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  庄内地方の古い伝承にも、「阿古の海」と呼ばれた巨大な内海があったと伝えられている。
 庄内町狩川駅の南側には「阿古屋」という地名もある。
 つまり庄内は、のような状態、あるいは潟湖(せきこ)のようなものが想像される。
 
 庄内平野の北部を飽海(アクウミ→アクミ)郡と言うが、これは阿古の海(アコノウミ)が転じたと言われる。
 そう言われれば、最上川両岸は、随分と海抜の低い土地のようだ。
  それから、その内海には島があったとも伝えられている。
  
 地名にも、蕨岡、藤島、米島、楸島、平津、海老島、豊岡、飛鳥(あすか)、郡山、等、島や丘、或いは湊だったと思われる地名が存在するがヒントになりそうだ。
 古来、「」は「湊」を現す地名と言われる。
 庄内町に「添津」という地名があるが、庄内海岸に「」の付く地名はないのに、庄内平野東側の山寄りに何カ所か見られる。

 「地名は土地の履歴書」と言われるが、これらを整理したら面白いことが分かりそうだ。
 また、蝦夷が往来したというい古代の道路を、律令国家になると「官道」として使ったというが、この「官道」は庄内平野ではまだ判明していないという。

 このような知識で、遠い過去の庄内平野の姿を想像するのも面白い。
 
■等高線がある地図「地図閲覧サービス

庄内地方の地名
 庄内地方の地名の由来を調べるのに便利だ。

■この情報は「最上川河口史」から
http://www3.ic-net.or.jp/~shida-n/b_tokita/b_tokita.html

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■鳥海山から庄内平野を見下ろす

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2010年6月 9日 (水曜日)

おもしろ地名「日暮里」

 太田道灌が、新しく掘を造ったから「新堀(にいほり)」、それが「にっぽり」と転じ、漢字は「日暮里」と書かれ、更に、漢字の意味合いから「日暮らしの里」と呼ばれる。2010_6
 そして、新堀の土を盛り上げたところが、「道潅山」と呼ばれているのだという。
 他にも諸説あるようだが、以前、この界隈で仕事をしているときに地元の人からは、このように教わった。
 現在「道潅山」と言われる場所は、荒川区内のJR西日暮里駅隣接の高台で諏訪神社(西日暮里3-4-8 )から西日暮里公園辺りとされている。
 この辺りは「道潅山」の地名のとおり高台で、諏訪神社境内からは東北線往復の汽車や貨物列車が良く見えた。
 18歳で上京の折りに利用した急行は「鳥海」だった。
 当然、この列車の時刻表は頭に入っている。
 よく「鳥海」が行き来する時刻に合わせて「道潅山」に登ったものだった。
 特に、冬の季節は列車の屋根に雪を積んで入ることから、その列車は直ぐに判別が付いた。石川啄木は「ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人込みの中に そを聞きに行く」と上野駅に通ったそうだが、
 これを真似るなら、「ふるさとに 行き来し汽車 屋根の雪 道灌山に そを見に上る」だった。
 幾度も帰郷に利用した「鳥海」だったが、1982(昭和57)年上越新幹線開業で姿を消した。

  因みに、江戸は徳川家康入城後に大きく開けたが、江戸の街に家康の逸話は少ない。ところが家康の100年以上も前の、1457年江戸城を造った太田道灌の逸話は至るところに残っている。
 有名なところでは、
 高田馬場には「七重八重 花は咲けども 山吹の みのひとつだに なきぞ悲しき」の「山吹の里」の逸話。
 皇居には道灌公時代の堀「道灌堀」(ここは見られないはずだが)。
 江戸城の本丸造営にあたり「平川天神」を移した「平河町」。
 荻窪には道灌公らが、石神井城の豊島氏攻撃の戦戦祈願し社殿の修復や献木した「荻窪八幡宮」等々。
 じっくりと巡ってみたい。

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