カテゴリー「13 藤沢周平 関連」の18件の記事

2011年6月 9日 (木曜日)

藤沢周平原作、映画「小川の辺」

   山形県鶴岡市出身の作家・藤沢周平原作で、主に山形県庄内地方で撮影された映画『小川の辺』が、7月2日から全国で公開されるそうだ。
 公開に先立ち、
 6月18日(土)、19(日)には山形県で先行公開される。
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 そして、主演の東山紀之による舞台挨拶が、
 6月18日(土)は、MOVIE ON やまがた
 6月19日(日)は、山形ソラリス、ワーナーマイカル米沢、イオンシネマ三川、鶴岡まちなかキネマ
 でを開催することが決定したという。

 この映画を多少なり、勝手に紹介させていただくが、
 いい作品であることは間違いない。
 それは藤沢周平原作だからだ。
 全国公開は7月2日だ。
 必ず見に行く。
 公式サイトhttp://www.ogawa-no-hotori.com/index.html

日本人の心を描く藤沢周平珠玉の名作、堂々の映画化
 
http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=11420
 決して斬ることのできない絆で結ばれた、ある兄妹の運命とは――。
 東山紀之が、さだめに揺れる武士の悲哀に挑む。国民的作家・藤沢周平。
 数々の書籍がそれぞれベスト&ロングセラーであり、その時代小説に描かれる下級武士らの心は、現在にもつながる精神性をもっている。
 2008年の「山桜」、2010年の「花のあと」に続き、またひとつ藤沢文学珠玉の傑作が、映画に生まれ変わる。

東京都多摩地区で上映される映画館
 
東京都立川市曙町2-8-5 - シネマシティhttp://movie.walkerplus.com/th257/sc156230.html

 MOVIX昭島   http://movie.walkerplus.com/th119/
  JR青梅線昭島駅北口すぐ モリタウン内

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2010年10月 5日 (火曜日)

周平原作「小川の辺」映画化

 藤沢周平原作の映画「小川の辺」が、篠原哲雄監督により山形県で撮影が開始された。ロケは湯殿山や鳥海山、山形市の山寺や馬見ケ崎などで行うそうだ。514krnnbefl__sl500_aa300_
 原作の「小川の辺」は、単行本「海坂藩大全」(文藝春秋刊)、文庫本「闇の穴」(新潮文庫刊)に収められた短編小説。42枚84ページの1時間程度で読み切れる内容だ。

■ 「小川の辺(ほとり)」あらすじ
 海坂藩藩士(戌井朔之助、いぬいさくのすけ/東山紀之)は、主君の命を受け、妹(田鶴/菊地凛子)の夫(佐久間森衛/片岡愛之助)を討つことを余儀なくされた。
 戌井朔之助の葛藤と、その妹に思いを寄せる若侍(新蔵/勝地涼))の苦悩がみどころ。
  妹の田鶴自身が剣術遣いでもあり、もし刃向かえば兄は妹を斬らなくてはいけない。
 朔之助が佐久間を探す道中に付き従うのは、戌井家に仕える若党の新蔵。
 新蔵は朔之助や田鶴とは兄弟同然に育った仲。News
 新蔵は田鶴に主従関係以上の思いを抱いていた。
 妹を思う兄と、愛する人を死なせたくない新蔵。
 二人の男の心情は、田鶴との再会によって揺れる。
 橋の下で豊かな川水が軽やかな音をたてていた。

 キャストは、東山紀之、菊地凛子、片岡愛之助、尾野真千子、松原智恵子、笹野高史、西岡徳馬、藤竜也、勝地涼 ら。
 菊地凛子の茶髪から黒髪への変化も面白い。

 篠原哲雄監督は、「藤沢先生が描く日本人の高潔さや潔さ、美しさを表現したい」との意気込みを示したという。
 この映画づくりは国内でも例のない、地元マスコミが連携した「オール山形」方式での製作される。製作に参加するのは、山形新聞と、山形放送、山形テレビ、テレビユー山形、さくらんぼテレビ、ケーブルテレビ山形のテレビ5局。「メイドイン山形」。
 映画作りの新たなモデルケースだそうだ。
 2011年初夏に全国で公開。まだまだ先だが楽しみだ。

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2010年7月17日 (土曜日)

「鳥刺し」遊佐町のロケ地は

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新宿バルト9で、映画「必死剣鳥刺し」を観てきた。Image_1
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a662.html

 予想通り、映画には見覚えのある風景が多く映された。
 つい、連れに「ここ分かるか」などと、小声で言う。
 それくらい「鳥刺し」には、山形県遊佐町のある地域がバックに映されていた。スタッフはいい場所を見つけるものだと感心している。

 ただ、映画「おくりびと」では、直ぐ「月光川の朝日橋」と分かったが、「鳥刺し」では具体的に指示できないもどかしさがある。
 このような映画鑑賞が、邪道であることは分かっている
 しかし、映画を観ながらこんな会話が出来ることは、別の意味で楽しいものだ。

 この書き出しが、意味不明の皆さんには、若干の説明がいる。
 山形県鶴岡市羽黒町の月山麓に「庄内映画村」http://www.s-eigamura.jp/が作られ約10年になる。
 この映画村は、藤沢周平原作の「たそがれ清兵衛」、「隠し剣鬼の爪」、「蝉しぐれ」、「武士の一分」、「山桜」、「花のあと」、そして、アカデミー賞を受賞した「おくりびと」、また現在公開中の「鳥刺し」、「座頭市 THE LAST」などの数々の撮影に協力していることから、庄内地方の至る所が撮影舞台となった。

 今回の「必死剣鳥刺し」は、鶴岡市の「旧風間家住宅丙申堂」や「庄内映画村オープンセット」のほか、遊佐町界隈でもロケをしていると情報で知っていた。

 映画を観て「遊佐町野沢」辺りということは、映画に写る鳥海山の角度から分かるが、その撮影地点をズバリと示すことが出来ない。
 家屋などの目標になる人工物を撮影しないようにするカメラ位置が上手だ。

 きっと映画を観た地元の皆さんは、撮影場所探しをする人もいるだろうが、これらの情報で比較的簡単と思う。
 兼見三左ェ門の家族が憩う場所では、小さな祠も出るが野沢近くの「十一観音」と思うが断言できない。
 やや、映画の内容に触れるが、細い竹竿の先端に鳥もちを付けて、鳥を捕獲することを「鳥刺し」というが、兼見三左エ門(豊川悦司)がその技を子供達に見せる場所もこの辺りだ。「鳥刺し」のことをちゃんと知っている藤沢周平、そして監督や脚本家だからこそ、その技を剣の奥義として三左エ門(豊川悦司)を通して見せることが出来たということだろう。唯一この場面で、最後の殺陣で見せる「鳥刺し」の技を想像することができる。
 なお、この「鳥刺し」の技は琉球古武術で伝承されているという。

  再度、撮影地点のことだが、
 鳥海山麓の杉の木が伐採されて禿げ山になっているところが目標だM_1
 この禿げている場所は、遠くからも目立っている。
 これが見える角度で、正確な位置が分かると思う。
 「鳥刺し」の撮影場所も、
 映画「おくりびと」でチェロを弾いた場所のように、名所になることを期待しているが、祠などを荒らすことのないように願いたいものだ。
 朝日橋では、チェロを弾いたときの椅子が壊されたと聞いている。

 これらの情報、間違えていたらご指摘下さい。

■映画の感想は、このサイトにお任せする。
 『必死剣 鳥刺し』の作法とは
  http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-134.html

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地図閲覧サービス 2万5千分1地形図http://portal.cyberjapan.jp/denshi/opencjapan.cgi?x=139.90625&y=38.9375&s=10000
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2010年7月10日 (土曜日)

藤沢周平原作「必死剣鳥刺し」

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 藤沢周平原作の映画『必死剣鳥刺し』が、7月10日全国公開が始まった。

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 http://www.torisashi.com/
 映画撮影は、山形県鶴岡市の「庄内映画村オープンセット」の他、遊佐町野沢辺りでも撮影が行われたと聞いている。
 きっと、鳥海山をバックにした画面も期待される。 

 この『必死剣鳥刺し』は「隠し剣狐影抄」に収録された短編だ。
 かなり前に読んだが忘れたので、再度読み直す。

 藩のために主君・右京太夫の側妾を刺殺した剣豪、兼見三左ェ門だったが、そのために主君の恨みを買い、結局は城中でなぶり殺しにあうという内容だ。
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 刃先は津田の鳩尾(みぞおち)から肺まで深ぶかと入りこんだ。
 「・・・・・・・・」
 鳥刺し、と三左ェ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。
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 津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左ェ門の身体にあつまった。
 三左ェ門の巨躯は坐った恰好から、横転して畳にころがった。
 そして今度こそ動かなくなった。
 寒い冬が過ぎようとしていた。
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 久々に、この巧みな描写に感心する。
 豊川悦司が演じるのは、独自に編み出した必勝の剣「鳥刺し」を使う剣豪・兼見三左ェ門(かねみさんざえもん)。
 「必死剣鳥刺し」それは、必死必勝の剣。キャッチコピーは
 「その剣が抜かれる時、遣い手は半ば死んでいるとされる」。
 
 映画ロケは藤沢周平の出身地・鶴岡市の「旧風間家住宅丙申堂」や「庄内映画村オープンセット」のほか、遊佐町野沢近くの祠「十一面観音」界隈も使用しているという。

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 兼見三左ェ門が使う剣は、どのような秘剣だろうか。
  「剣を遣うときは半ば死んでいる」とは、どのような動きなのか。
 殺陣師の久世浩(65)は、平山秀幸監督とともに最も頭を痛めた場面だったという。
 下段に原作の最後の部分を引用してある。
 これを、豊川悦司がどのように演じるのか想像してみよう。
       (※時間に余裕があるとき、読んで下さい。)
監督:平山秀幸
脚本:伊藤秀裕
    江良至
原作:藤沢周平

豊川悦司(兼見三左ェ門)
戸田菜穂(妻・睦江)
池脇千鶴(里尾)
吉川晃司(帯屋隼人正)
村上淳(主君・右京太夫)
関めぐみ(側妾・連子)
岸部一徳(津田民部)
小日向文世(保科十内)
山田キヌヲ(多恵)ら。

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『隠し剣孤影抄』藤沢周平著(文春文庫)
■藤沢周平著「必死剣鳥刺し」から最後の「七」より引用
 「村井、光岡」
 呼んだが返事がなかった。
 三左ェ門は立って、隣の近習詰所の襖の前まで行ったが、不意にそこで立ちどまった。
 そのときには、襖の外に異変を感じとっていた。
 三左ェ門は襖にむいたまま、静かに部屋の中を後にさがり、さがりながら刀の鯉口を切り、肩衣をはねた。
 「いかがした、兼見。誰かをよこさんか」
 執務部屋の中で、右京太夫のいら立った声がした。
 その襖ぎわまで後退すると、三左ェ門は、小声でお上と呼んだ。
 「石滑が来たかも知れません」
 「なに?」
 「斬りあいがはじまるかも知れません。物音を聞かれたら、打ちあわせたように、奥の出口から、外へ出て頂きます。そこに警護の者がおりますゆえ」
 「よし、わかった」
 右京太夫が立ちあがる気配がしたのと、近習部屋の襖がさらりと開いたのが、ほとんど同時だった。
 そこに帯屋隼人正が立っていた。
 そして考えたとおりに、近習部屋は空っぽだった。
 多分隼人正がどこかに立ちのかせたのだ。
 「そなたが、独心無名流の遣い手か。兼見と申すそうだな」
 隼人正は、しばらく三左工門を見つめたあとでそう言った。
 三左工門は黙っていた。
 「大きな男だの」
 「・・・・・・」
 「そこを通してくれぬか。右京太夫に話がある」
 「通すことはなりませぬ」
 と三左ェ門は言った。
 言うと同時に、皮膚から髪の中まで寒気が走りぬけて、三左ェ門は徴かに身ぶるいした。
 [ぜひとも談合したいことがある。通せ」
 「いや、なりませぬ」
 「わしと斬りあってもか」
 「いかにも」
 隼人正はじっと三左ェ門を見つめ、見つめながら、羽織をぬいだ。
 「では、通る」
 隼人正は刀を左手にさげたまま、部屋の中に入ってきた。
 「お手むかいしますぞ」
 三左ェ門は言うと刀を抜いた。
 同時に隼人正も抜き、鞘を捨てていた。
 すばやい動きだった。
 その瞬間、胸に垂れる髭が揺れて、宙に躍ったように見えた。
 隼人正は無造作に間合いを詰め、青眼から肩に打ちこんできた。
 すさまじい迫力を乗せた一撃だったが、三左ェ門はその剣をかわさずにはね上げた。
 その一合のあと、隼人正はすばやくしりぞいて、遠い間合いを取った。
 三左ェ門は追わなかった。
 青眼に構えをかためながら、相手の様子をうかがった。
 左腕のつけ根のあたりに痛みを感じたのは、その時になってからだった。
 うまくはねたつもりだったが、隼人正の俊敏な剣は、その前に浅く三左ェ門の肩口にとどいたらしかった。
 「お考え直しください、ご別家」
 三左ェ門は刀を構えたまま呼びかけた。
 「狂気の沙汰ですぞ、この斬り合いは」
 「いや」
 隼人正は薄く笑った。
 「邪魔する者は斬る」
 隼人正は、少しずつ間合いをつめてきていた。
 ---来る。
 三左ェ門は、隼人正が詰め寄るのにあわせるように、無意識にむかし、もっとも好んだ下段に構えを移していた。
 その構えをみて、隼人正は一たん足を引きかけたが、思い直したように猛然と断りこんできた。
 一閃の影が動いたように迅い動きだった。
 斬られた、と三左ェ門は思った。
 そう思いながら、三左ェ門は身体を沈めて、掬い上げる剣をふるっていた。
 はじかれたように、隼人正の身体が襖まで飛び、大きな音を立てた。
 三左ェ門の一撃は、隼人正の脇腹を深ぶかと斬っていた。
 隼人正は訝しむように三左ェ門を見つめたが、不意に刀をとり落とすと、膝をつき、だんだんに首を垂れて、ついに前に転んだ。
 そのまわりに、すぐにおびただしい血がひろがった。
 その姿をたしかめてから、三左ェ門は刀をおろし、右肩に手をやった。
 かわしも受けも出来なかった隼人正の一撃に、斬られたと惑じたのは間違っていなかった。
 肩をさぐった三左ェ門の指は、いきなり肉に埋まった。
 焼けるような痛みが、そこから全身にひろがって行く。
 眼が暗くなった。
 傷口を押さえたまま、三左ェ門はあたりを見回した。
 そして呻き声を途中でのみこんだ。
 三方の襖が開かれていて、いつの間にか、そこに大勢の人間が立っていた。
 人びとは黒く立ちならび、なぜか無言で三左ェ門を見つめている。
 「手傷を負い申した」
 三左ェ門は、ぎこちない微笑をうかべた。
 「どなたか、手を貨してくだされ」
 すると、聞き馴れた津田民部の声が、見たぞと言った。
 三左ェ門はそちらに顔をむけたが、黒い人影が眼に映るだけで、どれが津田かはわからなかった。
 「見ごとだな、必死剣鳥刺し
 三左ェ門は微笑した。
 微笑して、よろめきながら立っていた。
 いや、いまのは鳥刺しの秘剣ではござらぬ、と言おうとしたとき、津田が叫んだ。
 「兼見が、乱心して隼人正さまを斬ったぞ。逃がさずに斬れ」
 三左ェ門は、反射的に刀を構えた。
 刀はひどく重かったが、眼の前に殺到してきたものを斬った。
 ---乱心だと?
 横から斬りかかってきた者を、体を開いて斬って捨てながら、三左ェ門は必死に津田の言葉の意味を探ろうとした。
 背に痛みを感じ、振りむくと同時に斬り払ったが、刀は空を切った。
 そうか、おれに隼人正さまを斬らせるために罠を仕組んだのだ。
 そう思ったとき、三左ェ門は声をのんだ。
 ---お上だ。
 お上は連子を剌された恨みを、決して忘れたりはしなかったのだ。
 腹を切らせなかったのは、不仲の隼人正を始末する道具に使うためだったのだろう。
 生かして使うほうが、得でござります、と津田民部がすすめたのだ。
 ---無残だ。
 三左ェ門は自嘲の笑いをうかべた。
 いまごろ気づいた自分を嘲っていた。
 ぼろぼろに斬りさいなまれているのがわかった。
 それでも三左ェ門は限の前に立ちふさがる黒いものにむかって反射的に刀をふるっていた。
 刀は時おり肉の手ごたえを伝えた。
 限はほとんど見えなくなっていたが、三左ェ門は、部屋のどこかにいて、自分の最期をひややかに見まもってっている右京太夫の視線を感じた。
 その視線にあらがうように、三左ェ門は刀を構え、眼の前をよぎる影のような心のに刀を叩きつけた。
 だが鋼鉄のような男にも、ついに最後のときがきた。
 横から組みつくように突っこんできた刀に、腹を深くえぐられて三左ェ門はどっと膝をついた。
 そして立てなくなった。
 刀にすがるようにして斜めに身体をかたむけたまま、三左ェ門は動かなくなった。
 「しぶとい男だったが、やっと参ったか」
 津田民部が、三左ェ門の前に立ってそう言った。
 津田をたしかめるように三左ェ門の顔をのぞき、腰をのばすと三左ェ門が握っている刀を蹴ろうとした。
 絶命したと思われた三左ェ門の身体が、躍るように動いたのはその瞬間だった。
 三左ェ門は片手に柄を握り、片手を刀身の中ほどにそえて、槍のように構えた刀で斜めに突きあげていた。
 刃先は津田の鳩尾(みぞおち)から肺まで深ぶかと入りこんだ。
 「・・・・・・・・」
 鳥刺し、と三左ェ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。
 津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左ェ門の身体にあつまった。
 三左ェ門の巨躯は坐った恰好から、横転して畳にころがった。
 そして今度こそ動かなくなった。
 寒い冬が過ぎようとしていた。
 野にはまだ雪が残っていたが、野を真直ぐに走る道は、黒く濡れて日に光っていた。
 里尾は鶴羽村のはずれに立って、野をわたり丘の右手に消えている道を眺めていた。
 風が寒いので、さっきから何度も、厄介になっている百姓家に引き返そうとしながら、そのたびに丘のむこうから叔父の三左ェ門があらわれそうな気がして、里尾はふんぎり悪くその場所に立ちつづけていた。
 里尾は懐に赤子を抱いていた。
 生まれて間もない男の子だった。
 三左ェ門の子である。
 細い脹や大きな口が、あまりに叔父にそっくりなので、里尾はながめているうちにおかしくなって忍び笑いを洩らしたりする。
 身ごもっていることを知ったのは、鶴羽村にきて三月ほどたったころだった。
 それから子供を生むまでの月日ほど、里尾にとってしあわせな日日はなかった。
 里尾がいる百姓家の人びとは親切で、子供を生むのに何の心配もいらなかった。
 生まれてしまうと、三左ェ門にその子を見てもらいたい気持が募った。
 それで時どき村はずれまで見にくる。
 「今日もいらっしゃらなかったのね」
 子供が泣き出したので、漸くふんぎりがつき、里尾は子供に囁きながら、野に背をむけた。
 迎えに行くと言った三左ェ門を、里尾は信じていた。
 その日が来たら、どんなにしあわせだろう、と思いながら、里尾は村の中の道をゆっくり歩いた。
 赤子は力強く泣きつづけていた。(本文より引用)

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2010年6月25日 (金曜日)

庄内産「しょうゆの実」が人気

 東京で「しょうゆの実」が人気だという。Syouyunomi
 今日6月25日の読売新聞「おあしす」で紹介されていた。

 「しょうゆの実」は、山形県庄内地方で昔から食べられているものだが、キウリを生で食べるときに使う調味料の一種と思っていた。
 我が家でも当然のように使用しているが、人に紹介するようなしろ物とは思っていなかった。
 キウリを食べるときの必需品だ。

■ネット販売している店
http://item.rakuten.co.jp/domon/367352/?scid=af_ich_link_txt
 有限会社土門商店
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 2010.6.24 読売「おあしす
 醤油を作る際の搾りかすに麹と塩などを加えて発酵・熟成させた山形県庄内地方の伝統食「しょうゆの実」が、雑誌などで紹介され、首都圏を中心に人気だ。
独特の風味が特長で、ご飯との相性抜群。
同県鶴岡市出身の作家藤沢周平も好んだという。
同県酒田市のJA山形農工連には5月頃から注文が殺到している。
 東京・銀座の県アンテナショップでは、6月は半月で月平均の9倍の約2250個が売れた。保科義和副店長は「食べるラー油に続き、食べる調味料として評価いただき、うれしい」。

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2010年5月16日 (日曜日)

山形県人必見の文藝春秋

 4月29日、鶴岡市に開館した「藤沢周平記念館」のことが、Bungeishunju_1006_mag
 「文藝春秋」22年6月号に掲載された。

 376頁には、「生きる力」藤沢周平この三作、と題して、児玉 清×杉本章子×遠藤展子氏による、藤沢周平の裏話が掲載してある。
 また、「こまつ座が見た井上ひさし」と題して、井上麻矢×栗山民也×辻萬長氏らの対談集も掲載してある。
 山形県出身の「藤沢周平・井上ひさし」の特集号のようなものだ。
 山形県人なら必見の6月号だ。ちょっとオーバーか。

藤沢周平記念館の場所は、山形県鶴岡市馬場町4番6号
開館 午前9時から午後4時30分まで
 (休館~月曜日・月曜が祝日の場合は次の平日、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 大人 300円、高校生・大学生 200円 ※中学生以下は無料です。
交通案内、バス、JR鶴岡駅より約10分、「市役所前」下車徒歩3分、
山形道鶴岡I.C.より約10分

 目玉展示は、練馬区大泉学園町4-27-9の自宅書斎を移築し、藤沢周平の愛用品で再現された場所だという。

 文藝春秋掲載の藤沢周平の書斎」の箇所を紹介したい。
 自宅二階の書斎を展示室に移築・再現。
 この静謐な空間から多くの名作が生まれた。

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小説誌
 「オール漬物」「小説新潮」「別冊文藝春秋」などを発表の舞台とした
本棚 
 時代考証のために使用した多くの研究書や、樹木や花の事典が手に届くところに。
  フセンや書き込みのあるものも
箱類 
 干疋屋や紀ノ国屋の箱に「メモ類」「未決」などと貼って書類を整理していた
タヌキの人形 
 クーラーを嫌い、夏は窓を開け、うちわや濡れタオルで涼をとっていた。
 長女の展子さんがうちわを持ったタヌキの人形をプレゼントしたが「涼しくならないよ」。ここから主を見守ることに
机と椅子 
 1990年ごろまでは文机の前に座っていたが、腰痛が悪化して椅子を導入
くず箱 
 原稿は直しが少なく、書き損じは決してくず箱に投げ込まなかった。
 裏に創作用の年表を書いたり、展子さんの子供の頃にお絵かき用に与えたりしていた
資糾
 
担当者が持参した資料はその出販社の袋に入れて手元に。
 家族が掃除をするときには「大事な資料だから、触らないように」と言っていた
6段の小ひきだし 
 
爪切りや万年筆、サングラスやタイピン、「用心棒」やセロテープ、ラジオ、写真や切り抜きが入っていた。
 「用心棒」とは職場でもらったドライバーのセット。
 「おとうさん用心棒ちょっと貸して、なんて言ってました」(展子さん)
引き戸 
 隣は展子さんの部屋。「私が部屋で聞いていた洋楽を『いい曲だなあ』って言ってくれたときはうれしかった」音楽の好みはクラシックからニューミュージックまで幅広かった
⑩「雪の庄内地方を走る庄内交通湯野浜線
 湯野浜線は、鶴岡から日本海沿いの湯野浜温泉までの12キロを結んでいた(写真・久保田久雄)。「青い海に対する願望は、その後間もなく鶴岡から小さなローカル電車に乗り、砂丘を越えて湯野浜温泉に遠足に行ったときに満たされた。だが「山のあなた」が暗示した土地は、まだ私は見ていない」(『半生の記』より)
愛用の湯飲み 
 書斎では日本茶。朝の散歩で喫茶店に入ってコーヒーを飲むのが楽しみだった
オペラグラス
 
庭に訪れる尾長やヒヨドリを正面の窓を開け、オペラグラスで見つめていた
原稿用紙 
 コクヨの市販のものを使用していた
パーカーの万年筆 
 中細で軽いものを愛用していた
文鎮
 
「湯野浜線廃止記念 庄内交通 1975・3・31」。線路を加工したもの
小物など 
 
ペン立てと、インク壷の置いてあるトレイは展子さんからの誕生日の贈り物。インクはパーカーのブルーブラック。
 胡桃の実はボケ防止と疲労回復に、掌のなかでころがしていた

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2010年4月29日 (木曜日)

4/29「藤沢周平記念館」開館

 周平に オンブにダッコの 町おこし

 民主党、4月29日を「緑の日」から「昭和の日」に改めた「国民祝日法改正案」に党を上げて反対していた。http://www.dpj.or.jp/news/?num=1742

 この昭和の日に合わせて29日鶴岡市立「藤沢周平記念館」が開館する。
場所、山形県鶴岡市馬場町4番6号
開館 午前9時から午後4時30分まで
 (休館~月曜日・月曜が祝日の場合は次の平日、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料 大人 300円、高校生・大学生 200円 ※中学生以下は無料です。
交通案内、バス、JR鶴岡駅より約10分、「市役所前」下車徒歩3分、
山形道鶴岡I.C.より約10分
 練馬区大泉学園町4-27-9の自宅書斎を移築し、藤沢周平の愛用品で再現される。
 近年、藤沢周平文学が全国的に人気を高めたこともあり、作品の映画化、映画村の誘致などが成功している。鶴岡市もこれに乗じて名所旧跡の観光化に努力しているが、記念館もこの一環にあり藤沢人気に頼った町興しが続きそうだ。
 一人の人間の成功の偉大さを改めて知る思いだ。

■藤沢周平記念館の開館に合わせたのか、7月10日全国公開される藤沢周平原作の「必死剣・鳥刺し」の大開が産経新聞に掲載された。
 この映画制作に産経新聞が制作に参加しているから広報に力を入れている。
 必死剣耳掻き付き前売券が、4月29日から発売されるという。
 なぜ耳掻きなのかは分からない。
 「必死剣・鳥刺し」の内容は、原作の一部を引用して詳細を掲載した。
 迫力ある内容だと思う。

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主演のトヨエツ、藤沢映画「必死剣鳥刺し」をPR』
 2010.4.28
 山形県鶴岡市の庄内映画村などでロケを行った藤沢周平原作の映画「必死剣鳥刺し」をPRするため、主演の豊川悦司さんや監督の平山秀幸さんらが27日、県庁を訪れ、吉村美栄子知事と懇談した。架空の海坂藩を舞台にした物語で、豊川さん演ずる中級武士が藩主の愛妾を刺殺するが許され、新たな藩命によって人生が急転するというストーリー。
 吉村知事が「山形で撮影してもらい、ありがたい」と述べると、豊川さんは「山形は懐かしい感じがして、ホッとする。山形の風景にも映画が助けられた」などと応じ、平山監督は「鳥海山をはじめ、山形ならではの映像が撮れた」と話していた。
 県内ロケは昨年秋を中心に延べ約30日間にわたり、鶴岡市や遊佐町で行われた。映画の見どころについて、豊川さんは「重くて痛いラスト」、平川監督は「静かな映画が一瞬、動の映画に変わるところ」と語った。吉村知事は2人に米の新品種「つや姫」をプレゼントした。作品は7月10日から全国で公開されるが、県内では今月29日から前売り券が販売される。

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2010年3月21日 (日曜日)

「必死剣鳥刺し」産経も参加

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 藤沢修平原作の『必死剣鳥刺し』が、豊川悦司主演で今年の夏に公開される。
 この映画制作に産経新聞が参加していることを知った。
 どのような参加かは不明だが。

 この『必死剣鳥刺し』は「隠し剣狐影抄」に収録された短編だ。
 一度読んだことがあるが忘れたので、再度読み直した。

 藩のために主君・右京太夫の側妾を刺殺した剣豪、兼見三左ェ門だったが、そのために主君の恨みを買い、結局は城中でなぶり殺しにあうという悲壮感溢れる内容だ。

 刃先は津田の鳩尾(みぞおち)から肺まで深ぶかと入りこんだ。
 「・・・・・・・・」
 鳥刺し、と三左ェ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。
 津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左ェ門の身体にあつまった。
 三左ェ門の巨躯は坐った恰好から、横転して畳にころがった。
 そして今度こそ動かなくなった。Hissi1a
 寒い冬が過ぎようとしていた。

 久々に、この巧みな描写に感心する。
 豊川悦司が演じるのは、独自に編み出した必勝の剣「鳥刺し」を使う剣豪・兼見三左ェ門(かねみさんざえもん)。

 映画ロケは藤沢周平の出身地・鶴岡市の「旧風間家住宅丙申堂」や「庄内映画村オープンセット」等を使用している。 

 兼見三左ェ門が使う剣は、どのような秘剣だろうか。
 これを、豊川悦司がどのように演じるのか。
    
 劇場公開日は、 2010年7月10日から。
 

『隠し剣孤影抄』藤沢周平著(文春文庫)
■藤沢周平著「必死剣鳥刺し」から最後の「七」より引用
 「村井、光岡」
 呼んだが返事がなかった。
 三左ェ門は立って、隣の近習詰所の襖の前まで行ったが、不意にそこで立ちどまった。
 そのときには、襖の外に異変を感じとっていた。
 三左ェ門は襖にむいたまま、静かに部屋の中を後にさがり、さがりながら刀の鯉口を切り、肩衣をはねた。
 「いかがした、兼見。誰かをよこさんか」
 執務部屋の中で、右京太夫のいら立った声がした。
 その襖ぎわまで後退すると、三左ェ門は、小声でお上と呼んだ。
 「石滑が来たかも知れません」
 「なに?」
 「斬りあいがはじまるかも知れません。物音を聞かれたら、打ちあわせたように、奥の出口から、外へ出て頂きます。そこに警護の者がおりますゆえ」
 「よし、わかった」
 右京太夫が立ちあがる気配がしたのと、近習部屋の襖がさらりと開いたのが、ほとんど同時だった。
 そこに帯屋隼人正が立っていた。
 そして考えたとおりに、近習部屋は空っぽだった。
 多分隼人正がどこかに立ちのかせたのだ。
 「そなたが、独心無名流の遣い手か。兼見と申すそうだな」
 隼人正は、しばらく三左工門を見つめたあとでそう言った。
 三左工門は黙っていた。
 「大きな男だの」
 「・・・・・・」
 「そこを通してくれぬか。右京太夫に話がある」
 「通すことはなりませぬ」
 と三左ェ門は言った。
 言うと同時に、皮膚から髪の中まで寒気が走りぬけて、三左ェ門は徴かに身ぶるいした。
 [ぜひとも談合したいことがある。通せ」
 「いや、なりませぬ」
 「わしと斬りあってもか」
 「いかにも」
 隼人正はじっと三左ェ門を見つめ、見つめながら、羽織をぬいだ。
 「では、通る」
 隼人正は刀を左手にさげたまま、部屋の中に入ってきた。
 「お手むかいしますぞ」
 三左ェ門は言うと刀を抜いた。
 同時に隼人正も抜き、鞘を捨てていた。
 すばやい動きだった。
 その瞬間、胸に垂れる髭が揺れて、宙に躍ったように見えた。
 隼人正は無造作に間合いを詰め、青眼から肩に打ちこんできた。
 すさまじい迫力を乗せた一撃だったが、三左ェ門はその剣をかわさずにはね上げた。
 その一合のあと、隼人正はすばやくしりぞいて、遠い間合いを取った。
 三左ェ門は追わなかった。
 青眼に構えをかためながら、相手の様子をうかがった。
 左腕のつけ根のあたりに痛みを感じたのは、その時になってからだった。
 うまくはねたつもりだったが、隼人正の俊敏な剣は、その前に浅く三左ェ門の肩口にとどいたらしかった。
 「お考え直しください、ご別家」
 三左ェ門は刀を構えたまま呼びかけた。
 「狂気の沙汰ですぞ、この斬り合いは」
 「いや」
 隼人正は薄く笑った。
 「邪魔する者は斬る」
 隼人正は、少しずつ間合いをつめてきていた。
 ---来る。
 三左ェ門は、隼人正が詰め寄るのにあわせるように、無意識にむかし、もっとも好んだ下段に構えを移していた。
 その構えをみて、隼人正は一たん足を引きかけたが、思い直したように猛然と断りこんできた。
 一閃の影が動いたように迅い動きだった。
 斬られた、と三左ェ門は思った。
 そう思いながら、三左ェ門は身体を沈めて、掬い上げる剣をふるっていた。
 はじかれたように、隼人正の身体が襖まで飛び、大きな音を立てた。
 三左ェ門の一撃は、隼人正の脇腹を深ぶかと斬っていた。
 隼人正は訝しむように三左ェ門を見つめたが、不意に刀をとり落とすと、膝をつき、だんだんに首を垂れて、ついに前に転んだ。
 そのまわりに、すぐにおびただしい血がひろがった。
 その姿をたし加めてから、三左ェ門は刀をおろし、右肩に手をやった。
 かわしも受けも出来なかった隼人正の一撃に、斬られたと惑じたのは間違っていなかった。
 肩をさぐった三左ェ門の指は、いきなり肉に埋まった。
 焼けるような痛みが、そこから全身にひろがって行く。
 眼が暗くなった。
 傷口を押さえたまま、三左ェ門はあたりを見回した。
 そして呻き声を途中でのみこんだ。
 三方の襖が開かれていて、いつの間にか、そこに大勢の人間が立っていた。
 人びとは黒く立ちならび、なぜか無言で三左ェ門を見つめている。
 「手傷を負い申した」
 三左ェ門は、ぎこちない微笑をうかべた。
 「どなたか、手を貨してくだされ」
 すると、聞き馴れた津田民部の声が、見たぞと言った。
 三左ェ門はそちらに顔をむけたが、黒い人影が眼に映るだけで、どれが津田かはわ加らな加った。
 「見ごとだな、必死剣鳥刺し
 三左ェ門は微笑した。
 微笑して、よろめきながら立っていた。
 いや、いまのは鳥刺しの秘剣ではござらぬ、と言おうとしたとき、津田が叫んだ。
 「兼見が、乱心して隼人正さまを斬ったぞ。逃がさずに斬れ」
 三左ェ門は、反射的に刀を構えた。
 刀はひどく重かったが、眼の前に殺到してきたものを斬った。
 ---乱心だと?
 横から斬りかかってきた者を、体を開いて斬って捨てながら、三左ェ門は必死に津田の言葉の意味を探ろうとした。
 背に痛みを感じ、振りむくと同時に斬り払ったが、刀は空を切った。
 そうか、おれに隼人正さまを斬らせるために罠を仕組んだのだ。
 そう思ったとき、三左ェ門は声をのんだ。
 ---お上だ。
 お上は連子を剌された恨みを、決して忘れたりはしなかったのだ。
 腹を切らせなかったのは、不仲の隼人正を始末する道具に使うためだったのだろう。
 生かして使うほうが、得でござります、と津田民部がすすめたのだ。
 ---無残だ。
 三左ェ門は自嘲の笑いをうかべた。
 いまごろ気づいた自分を嘲っていた。
 ぼろぼろに斬りさいなまれているのがわかった。
 それでも三左ェ門は限の前に立ちふさがる黒いものにむかって反射的に刀をふるっていた。
 刀は時おり肉の手ごたえを伝えた。
 限はほとんど見えなくなっていたが、三左ェ門は、部屋のどこかにいて、自分の最期をひややかに見まもってっている右京太夫の視線を感じた。
 その視線にあらがうように、三左ェ門は刀を構え、眼の前をよぎる影のような心のに刀を叩きつけた。
 だが鋼鉄のような男にも、ついに最後のときがきた。
 横から組みつくように突っこんできた刀に、腹を深くえぐられて三左ェ門はどっと膝をついた。
 そして立てなくなった。
 刀にすがるようにして斜めに身体をかたむけたまま、三左ェ門は動かなくなった。
 「しぶとい男だったが、やっと参ったか」
 津田民部が、三左ェ門の前に立ってそう言った。
 津田をたしかめるように三左ェ門の顔をのぞき、腰をのばすと三左ェ門が握っている刀を蹴ろうとした。
 絶命したと思われた三左ェ門の身体が、躍るように動いたのはその瞬間だった。
 三左ェ門は片手に柄を握り、片手を刀身の中ほどにそえて、槍のように構えた刀で斜めに突きあげていた。
 刃先は津田の鳩尾(みぞおち)から肺まで深ぶかと入りこんだ。
 「・・・・・・・・」
 鳥刺し、と三左ェ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。
 津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左ェ門の身体にあつまった。
 三左ェ門の巨躯は坐った恰好から、横転して畳にころがった。
 そして今度こそ動かなくなった。
 寒い冬が過ぎようとしていた。
 野にはまだ雪が残っていたが、野を真直ぐに走る道は、黒く濡れて日に光っていた。
 里尾は鶴羽村のはずれに立って、野をわたり丘の右手に消えている道を眺めていた。
 風が寒いので、さっきから何度も、厄介になっている百姓家に引き返そうとしながら、そのたびに丘のむこうから叔父の三左ェ門があらわれそうな気がして、里尾はふんぎり悪くその場所に立ちつづけていた。
 里尾は懐に赤子を抱いていた。
 生まれて間もない男の子だった。
 三左ェ門の子である。
 細い脹や大きな口が、あまりに叔父にそっくりなので、里尾はながめているうちにおかしくなって忍び笑いを洩らしたりする。
 身ごもっていることを知ったのは、鶴羽村にきて三月ほどたったころだった。
 それから子供を生むまでの月日ほど、里尾にとってしあわせな日日はなかった。
 里尾がいる百姓家の人びとは親切で、子供を生むのに何の心配もいらなかった。
 生まれてしまうと、三左ェ門にその子を見てもらいたい気持が募った。
 それで時どき村はずれまで見にくる。
 「今日もいらっしゃらなかったのね」
 子供が泣き出したので、漸くふんぎりがつき、里尾は子供に囁きながら、野に背をむけた。
 迎えに行くと言った三左ェ門を、里尾は信じていた。
 その日が来たら、どんなにしあわせだろう、と思いながら、里尾は村の中の道をゆっくり歩いた。
 赤子は力強く泣きつづけていた。(本文より引用)
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2010年3月19日 (金曜日)

海坂藩のモデルは「庄内藩」

 「海坂藩(うなさかはん)」は藤沢周平作品の多くに登場する。
 架空の藩名だが、「江戸から北へ百二十里、東南西の三方を山に囲まれ、北は海に臨む地にある」とあり、藤沢周平の出身地・鶴岡市「酒井家庄内藩」をモデルにしていることは確かだ。
 「たそがれ清兵衛」、「隠し剣鬼の爪」、「武士の一分」、「山桜」、

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「蝉しぐれ」、「花のあと」、「必死剣・鳥刺し」など、藤沢周平の小説がどんどん映画化・テレビドラマ化されヒットしていることもあり、藤沢周平のファンだという人が多い。
 それではと、「海坂藩のモデル庄内藩のことは藩か知っていますか」の質問には、殆どの方が「良く知らない」、知っていても、せいぜい「幕末に薩摩の江戸藩邸を焼き討ちした藩」程度の答えしか返ってこない。
 出来れば、幕末、京都守護職に就いたのが「会津藩」、江戸市中取締りに就いたのが「庄内藩」で、徳川四天王の家柄、という程度は知っておいて欲しいものだ。
 藤沢周平が、庄内藩のことに直接触れている著作物は少ないようだが、全集第23巻「荘内藩主酒井忠発の明暗」に詳しく記述があるので紹介したい。
 藤沢周平は、このような知識を元にして、小説が生まれたことを知ることができる。
 実在の人名をヒントにして、小説の登場人物に名を付けていることもあるようだ。
 藤沢周平自身も、「庄内藩の分限帳みたいなものをよく見ます」と話している。
 これからは「海坂藩」のモデルは「庄内藩」であり、藩主の酒井氏は、戦国武将で「徳川四天王」の一人である酒井忠次の嫡流、左衛門尉酒井氏で譜代の名門の家柄であることを頭において、本を読むなり、映画を観るなり、されてはどうだろうか。
  楽しみが倍加することだろう。
 なお、酒井左衛門尉(さえもんのじょう)とは、日本の律令制下の官職の一つ。
 平家追討では「源義経」も任ぜられている。

■藤沢周平全集第23巻「荘内藩主酒井忠発(ただあき)の明暗」(原文引用)
 江戸市中取締りとして、薩摩屋敷の焼打ちを断行し、戊辰戦争では最後まで官軍に抵抗した幕末の荘内藩は、生粋の佐幕派の印象を残している。
 たしかに荘内藩は、藩祖酒井忠次以来の徳川家譜代の藩であり、また三代忠勝が信州松代から荘内に移封された元和八年以来、天下の藩屏(はんぺい)、北国の押さえを祖法とした藩でもあった。
 しかし幕末期のはげしい情勢変化は、この生え抜きの譜代藩にも波及し、後のように佐幕体制を確立するまでには、藩内に公武合体派と佐幕派の激烈な主導権争いが演じられたのである。
 幕末期の情勢と荘内藩とのかかわりあいは、寛政五年松平定信が沿海諸藩に海岸防備の強化を下命したころにはじまる。この年荘内藩は領内の日本海岸三ヵ所、吹浦、今泉、鼠ケ関に外国船見張番所を設け人数を配置したが、翌六年には鶴ケ岡城大手前にかいて、大規模な異国船打ち払いの訓練を実施している。このころ酒田の豪商本間光丘は、泉州堺に五十匁砲、百匁砲五門を注文して藩に献じた。
 当時の、いわゆる外夷の脅威との、不確かなそしてはじめての接触であり、幕末期荘内藩の幕明けとでもいうべき新しい動きがそこに見られる。
 その後荘内藩では、文化四年には蝦夷地に出兵したり、また翌年には本間光丘が堺から取寄せた新式銃砲を使って、荘内海岸で試射を試みたり、次第に新しい時代の波を浴びはじめる。嘉永元年には、酒田沖の孤島飛島に、異同船が現われ、島を砲撃したので、藩では急速足軽組二組に砲手数名を添えて、飛島に派遣するということもあった。
 海岸防備は強化された。
 そして軍艦七隻を率いて、再度来航したペリー提督が、幕府との間に強引に日米和親条約を結んだ安政元年に、荘内藩は品川の五番台場の警備を命ぜられた。
 こうした外圧との接触が深まるのと並行するように、藩内ではひとつの抗争が進行していた。十代酒井忠器が隠居し、嫡子忠発が家督をついで十一代藩主となったのは、天保十三年である。そのとき新藩主出発は三十一歳だった。早くから世子と定められていたわりに、遅い家督相続とみられたが、これには藩内の事情が絡んでいたのである。
 荘内藩には両敬家と称し、格別の家柄とされる重臣がいた。
 酒井奥之助、酒井吉之丞の二人がそれで、奥之助直方は、三代忠勝の九男市之助忠直の裔で千百石、吉之丞可繁は、二代家次の四男酒井可次を祖とし、禄は千三百石を領していた。
 この両家は家臣というより藩主の相談役といった地位にいて、元来は役職を持たない家柄だったが、忠器が隠居し忠発が家督をついだという時点では、奥之助か家老、吉之丞が中老として藩政に参画していた。当然ながら、藩政に対する発言力は非常に強かった。
 ほかに中老に松平舎人敬親がいた。この松平家も、家次の次男松平甚三郎久恒を祖とする松平甚三郎家の分家で、二千石を領する大身である。
 この三重臣と隠居した忠器との間は、よほどウマが合ったらしく、それが忠発の家督を遅らせたひとつの原因だとされている。新藩主が出現すれば当然藩内の勢力地図にも変化が出てくる。そういう変化を、忠器も両敬家らの重臣層も歓迎しなかったということなの
だが、この後の経過をみると、必ずしもそれだけにとどまらない節がみられる。
 すなわち出発が家督をついだ直後、酒井奥之助、吉之丞、松平舎人らは、忠発を廃して酒井家の分家で徳川家の旗本となっていた酒井忠明を藩主に立てようと画策し、この画策は露見して忠明は支藩松山藩に預けられて幽閉されるという事件が起こっている。
 これは単純に前藩主と重臣層が、蜜月のような気の合った藩政を布いていて、ために新藩主への家督委譲を遅らせたという事情とは別に、新藩主忠発に対する重臣層の悪感情が存在したことを証明しているように思われる。
 この事件の裏には、隠居した忠器の内諾があったとも言われるが、ともあれここから新藩主と重臣層との深刻な抗争がはじまり、幕末期の思想的対立もからんで、以後二十五年にわたる藩内の確執が続くのである。
 この新藩主と重臣層の対立が先なのか、あるいは時代の変化がもたらした思想的な対立が先でこの確執が生まれたのか、そのあたりは不明なものがあるが、その後時代が移るに従って、この藩内抗争は、次第に思想的な対立の様相をはっきり打ち出してくる。
 両敬家、松平舎人ら改革派と呼ばれる重臣層の周囲には、照井長柄、広瀬厳雄など、鈴木重胤に国学を学んだ勤皇思想の人びと、また赤沢隼之助、服部毅之肋ら勝海舟塾で蘭学を学んだ開明的な考えの人びとなどが集まった。
 ほかに江戸定府の用人上野直記、江戸留守苦役大山庄太夫、また身分は低いながら池田駒城、深瀬清三郎などは、いずれもひろく天下の情勢に通じ、海外に対しても眼を開いていた人びとだった。
 一方新藩主告発の周囲にも側近勢力が育ち、次第に両敬家など旧重臣層を圧倒する力をたくわえて行くが、たとえば元治元年に江戸留守居添役、翌年本役に任ぜられた菅実秀に代表されるように、藩学である徂徠学の素養が身についた人物はいても、その中にいわゆる新知識を身につけ、新しい時代を見通している人間は欠けていたようである。
 大ざっぱに言えば国学、蘭学派と、旧来の儒学派の対立ともいうべきものがあり、文久初期にはこの対立は公武合体派と佐幕派という形の、藩内政治勢力の主導権争いに発展するのである。
 改革派は藩主廃立を二度画策し、二度失敗した。すると次には告発の世子忠恕に望みを託し、忠発の隠退、忠恕の家督、酒井大膳の後見という段どりて、藩政改革を実現しようとした。
 しかし彼らが望みを託した世子忠恕は、安政五年二十歳で急死した。その死因について奇怪な流言があったことからも、藩内抗争の激しさがうかがわれる。改革派は、忠恕の死によって大きな打撃をうけたが、次の継嗣問題で、今度は忠発がのぞんだ三男の繁之丞に対抗し、忠発の弟忠寛を継嗣に望む。
 この争いは、繁之丞が幼年だったために、幕府が改革派の推した忠寛を継嗣として認めたので、改革派の勝利となった。藩玉恵発との執拗な抗争が、はじめて実を結んだのである。
 しかしこの間に、改革派の領袖である大山庄太夫、上野直記はいずれも国元に呼びもどされて在所勝手を命ぜられ、また酒井奥之肋は家老職を解かれ、松平舎人は中老職から支城亀ケ崎城代に左遷された。中老酒井吉之丞はその前に辞職し、翌年には隠居して右京を名乗り、弟玄蕃に家督を譲っていた。
 藩主忠発を中心にする主流派の勢力が強まるとともに、嘉永七年隠居忠器を病気で失った改革派は、次第に追いつめられて行ったのである。そして万延元年には酒井奥之助か上書して藩政を批判したことを咎められ、隠居逼塞の処分を受けた。またその処分について諌言書を提出した酒井右京(吉之丞)も逼塞を命ぜられた。
 同じ年松平舎人は蝦夷地警備総奉行として北辺に派遣され、右京の養子玄蕃も副奉行として同じ任地に飛ばされたので、改革派の重臣たちは、ここにまったく藩政から遠ざけられた形となったのである。
 藩生忠発にしてみれば、この万延元年の両敬家処分は、長年の懸案を解決した感じがしたかも知れない。両敬家と松平舎人は、はじめは家督相続を邪魔し、藩士になると今度は別に藩主を立てて自分を廃そうとした連中である。しかし隠居忠器がいる間は、少しずつ彼らの勢力を押さえるだけで、正面から処分することも出来なかったが、ここに至って、漸く彼らの勢力を藩政から一掃し得たのである。
 忠発は、この両敬家処分を行なった翌年、隠居して家督を忠寛に譲った。
 忠寛は両敬家ら改革派が推した世子だが、すでに藩内の要職は、忠発が養った主流派が占めている。改革派が復帰する余地はない、と読んだかのような処置であった。
 だが改革派はその忠寛に望みをかけていた。そして 時勢は公武合体派に有利に勤いていた。改革派が藩政への復帰、念願の藩政改革を夢みたとしても無理はないし、また事実十二代藩士となった忠寛は「人品骨柄あっばれ英雄の気質を備えたり」と記録されているような人物だった。藩政が忠寛の主導のもとに展開すれば、改革派の接近と相まって、その後の荘内藩の進路はどう変ったかわからない。少なくとも、この後に来るような、一方的に佐幕派の姿勢を固守する事態は免れたのではないかという推測が成り立つようだ。
 だが改革派にとって、運命はあくまで悲劇的に出来ていた。
 文久二年という年は、全国に麻疹が流行した年である。江戸の将軍家茂と夫人和宮もこれに罹ったほどだが、その年の九月、改革派が最後の望みをかけた藩生忠寛が、麻疹にかかって急死したのである。二十四歳という若さだった。そのあとは、さきに隠居出発が後嗣に推したわずか十歳の繁之丞忠篤が継いだ。
 荘内藩が、佐幕派の色彩を強めるのは、この後からである。
 翌文久三年四月、荘内藩は、清河八郎が残した新徴組百六十九名を幕府から委任され、組頭松平権十郎が、物頭二名と各組下を率いて出府し、新徴組御用掛を拝領した。松平は間もなく中老にすすんたが、このとき二十三歳だった。次いでその年の暮には江戸市中警備を命ぜられ、国元からは藩士の嫡子、次、三男、徒およそ二百数十名がぞくぞくと出府した。
 翌元治元年、禁門の変が起こると、荘内藩は幕府の命を受けて長州藩邸を接収した。次いで八月に第一次長州征伐が下命されると、荘内藩は征討軍の先鋒を命ぜられ、国元からさらに家中、郷夫を江戸にのぼらせ、汽船で兵器弾薬を輸送した。だがその直後荘内藩は従軍を免ぜられて、江戸府中の取締りを命ぜられている。水戸方面に天狗党の挙兵蠢動があって、幕府は征長軍が進発したあとの後方の守備を心配したのである。
 荘内藩では、出府していた兵力を三手にわけ、昼夜江戸市中を巡回警衛して治安維持につとめた。警備隊の行動はきわめて規律正しく、また取締りにあたっては身分の高下を問わず、真の暴行者のみをびしびし処分して、依恬ひいきがなかったので、江戸市民には人気があった。「江戸の団十郎、荘内の権十郎」と、統率者の松平権十郎をたたえ、白面の青年中老松平権十郎は錦絵になったという。
 民衆の観察ほど鋭いものはない。
 この時期、荘内藩はもはや抜きさしならない佐幕派の立場へ急速に傾いて行ったのだが、江戸市民は、市中警備の荘内藩兵の姿から、恐らくは落ち目の徳川に力強い味方がついたことを敏感に嗅ぎつけていたのである。
 江戸市中警備の下命に対して、藩内には一度は幕命返上の動きがあったといわれる。藩主がまだ幼年だからという理由だったが、協議した重臣たちの胸には、引きうければ佐幕派の立場を決定することになる不安が去来したかも知れない。時勢はまだ流動的で、みずがらを佐幕派として固定してしまうことは危険なことであった。
 このとき、中老の松平権十郎を励まして、幕府受諾を主張したのは、菅実秀だった。菅は、荘内藩が最初の市中警備を受諾した文久三年には郡奉行の地位にいたが、菅の人物才幹を買っていた側用人山口三郎兵衛の推挙によって、郡奉行のまま藩政に参画していた。
 藩政に参画出来るのは、家老の子孫か、番頭以上の家柄の者というのが慣例である。菅は百五十五で上士ではない。上士と下士は同席せずと言われた藩内の身分制度の中で、菅の藩政参与は異例のことだった。菅はこのとき佐幕に踏み切ることによって、藩論の統一をはかろうとしたとも言われる。佐幕か、非佐幕かの決定を迫られたとき、菅の儒数的教養が、徳川に対する「義」を進んだとも言える。
 菅はこのあと江戸留守居添役から、留守居役、慶応元年には藩主忠篤の側用人と累進し、中老松平権十郎、老公忠発の側用人山口三郎兵衛と組んで、幕末期荘内藩を勤かす中心人物となるのである。江戸市中警備を命ぜられて、松平権十郎とともに出府した文久三年、菅は三十四歳。
 若いコンビだった。
 ともあれ、これで海内の改革派はまったく動きを封じられ、荘内藩は幕府と運命をともにする方向をたどる。それは徳川に対する藩祖以来の義を貫くことではあったが、政治的には広い視野を欠き、また藩主忠器と、家老酒井奥之助、松平甚三郎らが藩政を動かしていた天保期に、降って湧いた国替え命令に対して一藩をあげて抵抗したような主体的な姿勢をも失う結果となった。
 このような藩内情勢の中で、改革派は、元治元年末老中稲葉正邦に対して、藩政改革についての陳情書を提出するという最後の抵抗を試みる。だが結果的には この陳情が、改革派の命取りとなる。慶応二年十月に至って、改革派はぞくぞくと逮捕された。
 この年長州征伐にともなう物の値トりは全国的に経済的な混乱を引き起こし、荘内顛でも城ドに農民が蝟集して、年貢免除を嘆願するという騒ぎがあった。その背後に改革派の煽動があるとされたが、これは逮捕の口実に過ぎない。藩首脳部は、長州再往が幕府の敗退に終り、将軍家茂が大坂で病死したという、前年に引き続く幕府衰退の情勢に焦慮していた。そこから藩内の分裂動揺を恐れて、改革派の処分に踏み切ったことは自明である。
 改革派の領袖のうち酒井奥之肋と上野直記は前年に病死していたが、他は根こそぎ逮捕監禁された。大山庄太夫は自宅監禁中に自殺、松平舎人は取調べ中に自刃、勝塾の秀才赤沢隼之肋は取調べに対して、一歩もひかず論争を展開したが、悲憤のあまり絶食して牢内に窮死した。翌年九月十一日酒井右京(吉之丞)の切腹以下改革派に対する大断罪が下った。酒井右京は切腹を命ぜられて安国寺に入ると、自分でくわしく調べておいた切腹の古式にのっとって、従容と腹を切った。
 丁卯(ていぼう)の大獄と呼ばれ、その後長くタブーとされたことの大断罪によって、荘内藩の公武合体派は潰滅し、あとは急坂をころげるごとく幕府と運命をともにする道を歩むのである。
 慶応四年二月十八日、関西から菅実秀が荘内藩江戸屋敷に帰着したとき、鳥羽伏見の戦いに敗れて東帰した徳川慶喜は、すでに上野寛永寺の大慈院に謹慎し、荘内藩は明後日には藩邸をひきはらって国元に引き揚げるという情勢になっていた。
 そのとき菅は、家老の松平権十郎と郡代和田助弥にむかって次のように言った。
 荘内藩の取るべき道は三つある。藩士が将車慶喜の謝罪状を持ち、東征大総督の宮を東海道に迎えて、慶喜謹慎の実状をのべ、徳川家の存続を願うのは、志にも義にもかなう上策である。第二に、譜代藩として徳川家と存亡をともにすることは、武門の習いとして義でないとは言えない。譜代各藩、旗本に呼びかけて先頭に立ち、箱根の険によって敵をしめつけるなら、十にひとつの勝算はある。中策というべきだろう。「しかしいま江戸をひきあげ、荘内に帰るとなると、  庄内を怨んでいる薩長は必ず征討軍を差しかけてくる
だろう。こうなると北に退いて天下の兵を引きうける形になり、万にひとつの勝ちもない。下策である」しかし、と菅はさらに言った。藩論が帰国と決定した以上、もはやこれを変えるべきでない。しりぞいて守るにしかず。ただし以後事の成敗から一切心を断ち、荘内一円を焦土にし、城を枕に倒れる覚悟を決めるべきだ。
 菅のこの言葉は、彼の儒数的見識を示すものだった。
 菅はつねに儒数的倫理にてらして、藩の進退を決定しようとする。そこにいさぎよさもあり、同時に姿勢の固さもあったかも知れない。薩長の怨みというのは、長州藩邸の接収と、薩摩藩邸の焼打ちを指す。薩摩浪士の挑発に堪えかねた幕府は、前年暮の十二月二十五日、薩摩藩邸の攻撃を下命したが、このときもっとも強く攻撃を主張したのは荘内藩であった。
 慶応四年二月二十日、荘内藩主酒井忠篤は、前後に殺手隊、火器隊の精鋭をしたがえて、江戸を去った。そして帰国するとただちに本間光美の献金によって、エドワード・スネルから大量の西洋銃を購入し、短時日の間に兵制を洋式に編成替えしてしまった。
 この臨戦態勢をととのえ終ると、征討軍が来るのを、じっと待ちうけたのである。
 やがて奥羽列藩同盟が結ばれ、荘内藩もこの戦線に参加するが、荘内藩兵の主戦場は、秋田になった。六月、奥州白河口の同盟軍の救援にむかった松平甚三郎の一番大隊、酒井吉之示の三番大隊は、新庄藩の寝返りと秋田藩、薩長土肥の侵攻を闘くと、直ちに出羽街道を北に引き返し、新庄城を抜き、秋田頷に入った。
 秋田藩は、荘内を討つ名分が明確でないとして、奥羽鎮撫軍にたびたび討伐の大義名分の明示をもとめたが、あいまいなままに督促がきびしいため、止むなく出勤してきたのであった。
 荘内軍は、この秋田兵を主力にする奥羽鎮撫軍と戦闘をまじえながら、次第に秋田領深く侵入して行った。全将兵四千五百六十名のうち、農民兵一千六百四十名、商人兵五百七十名が含まれていたが、蓑を首て銃を待ったこの農商兵は、「荘内男子はノー、ワランケ着ったトーテモョ、いもやぼた餅、ひと囓んじりダー」と唱いながら進撃し、なかなか強かったという。ワランケとはフランケ(毛織の軍服)のもじりで、蓑だからワランケと言ったのである。いもは言うまでもなく薩摩兵、ぼたもちはお荻にひっかけて長州兵を指したものだ。
 九月十四日、新庄領から入った一番大隊、二番大隊は秋田久保田城の南東八里の刈和野まで進出し、また海岸ぞいに進撃した三番大隊、四番大隊は久保田城の南五里の道川まで進んでいたが、そこで「米沢藩すでに降る。仙台藩また降らんとす」という報告を入手した。荘内軍は、全将兵を返した。藩内はカラになっている。しりぞいて藩境を固め、降雪を待つにしかずと決定したのである。荘内領は一方を海、三方を険峻な山で囲まれていて、冬期の白雪は容易に敵を寄せつけない。天下の兵を引きうけても、なお守り通せると判断したのであった。
 このことは、鎮撫軍参謀大山格之助も知っていて、降雪の前に荘内藩を降服させるために、酒田港に敵前上陸させるべきだと西郷に進言したという。しかし荘内藩は九月十六日降服謝罪を決定した。菅実秀は最後まで抗戦を主張したが、老公忠発が裁決をくだした。改革派には毛嫌いされた忠発だが、荘内を焦土とすることから救ったという意味では名君いうべきかも知れない。(本文のまま)

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「必死剣・鳥刺し」の秘剣とは?

  藤沢修平原作の『必死剣鳥刺し』が、豊川悦司主演で今年の夏に公開される。
 この『必死剣鳥刺し』は「隠し剣狐影抄」に収録された短編だ。
 一度読んだことがあるが忘れたので、再度読み直した。

 藩のために主君・右京太夫の側妾を刺殺した剣豪、兼見三左ェ門だったが、そのために主君の恨みを買い、結局は城中でなぶり殺しにあうという悲壮感溢れる内容だ。

 刃先は津田の鳩尾(みぞおち)から肺まで深ぶかと入りこんだ。
 「・・・・・・・・」
 鳥刺し、と三左ェ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。Hissi1a
 津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左ェ門の身体にあつまった。
 三左ェ門の巨躯は坐った恰好から、横転して畳にころがった。
 そして今度こそ動かなくなった。
 寒い冬が過ぎようとしていた。

 久々に、この巧みな描写に感心しきりだ。
 豊川悦司が演じるのは、独自に編み出した必勝の剣「鳥刺し」を使う剣豪・兼見三左ェ門(かねみさんざえもん)。
 「必死剣鳥刺し」それは、必死必勝の剣。キャッチコピーは
 「その剣が抜かれる時、遣い手は半ば死んでいるとされる」だ。
 映画ロケは藤沢周平の出身地・鶴岡市の「旧風間家住宅丙申堂」や「庄内映画村オープンセット」等を使用している。 

 兼見三左ェ門が使う剣は、どのような秘剣だろうか。
 下段に原作の最後の部分を引用してある。
 これを、豊川悦司がどのように演じるのか想像してみよう。
       (※時間に余裕があるとき、読んで下さい。)
 劇場公開日は、 2010年7月10日から。
 共演は、戸田菜穂、吉川晃司、小日向文世、岸部一徳ら。

Photo_2

『隠し剣孤影抄』藤沢周平著(文春文庫)
■藤沢周平著「必死剣鳥刺し」から最後の「七」より引用
 「村井、光岡」
 呼んだが返事がなかった。
 三左ェ門は立って、隣の近習詰所の襖の前まで行ったが、不意にそこで立ちどまった。
 そのときには、襖の外に異変を感じとっていた。
 三左ェ門は襖にむいたまま、静かに部屋の中を後にさがり、さがりながら刀の鯉口を切り、肩衣をはねた。
 「いかがした、兼見。誰かをよこさんか」
 執務部屋の中で、右京太夫のいら立った声がした。
 その襖ぎわまで後退すると、三左ェ門は、小声でお上と呼んだ。
 「石滑が来たかも知れません」
 「なに?」
 「斬りあいがはじまるかも知れません。物音を聞かれたら、打ちあわせたように、奥の出口から、外へ出て頂きます。そこに警護の者がおりますゆえ」
 「よし、わかった」
 右京太夫が立ちあがる気配がしたのと、近習部屋の襖がさらりと開いたのが、ほとんど同時だった。
 そこに帯屋隼人正が立っていた。
 そして考えたとおりに、近習部屋は空っぽだった。
 多分隼人正がどこかに立ちのかせたのだ。
 「そなたが、独心無名流の遣い手か。兼見と申すそうだな」
 隼人正は、しばらく三左工門を見つめたあとでそう言った。
 三左工門は黙っていた。
 「大きな男だの」
 「・・・・・・」
 「そこを通してくれぬか。右京太夫に話がある」
 「通すことはなりませぬ」
 と三左ェ門は言った。
 言うと同時に、皮膚から髪の中まで寒気が走りぬけて、三左ェ門は徴かに身ぶるいした。
 [ぜひとも談合したいことがある。通せ」
 「いや、なりませぬ」
 「わしと斬りあってもか」
 「いかにも」
 隼人正はじっと三左ェ門を見つめ、見つめながら、羽織をぬいだ。
 「では、通る」
 隼人正は刀を左手にさげたまま、部屋の中に入ってきた。
 「お手むかいしますぞ」
 三左ェ門は言うと刀を抜いた。
 同時に隼人正も抜き、鞘を捨てていた。
 すばやい動きだった。
 その瞬間、胸に垂れる髭が揺れて、宙に躍ったように見えた。
 隼人正は無造作に間合いを詰め、青眼から肩に打ちこんできた。
 すさまじい迫力を乗せた一撃だったが、三左ェ門はその剣をかわさずにはね上げた。
 その一合のあと、隼人正はすばやくしりぞいて、遠い間合いを取った。
 三左ェ門は追わなかった。
 青眼に構えをかためながら、相手の様子をうかがった。
 左腕のつけ根のあたりに痛みを感じたのは、その時になってからだった。
 うまくはねたつもりだったが、隼人正の俊敏な剣は、その前に浅く三左ェ門の肩口にとどいたらしかった。
 「お考え直しください、ご別家」
 三左ェ門は刀を構えたまま呼びかけた。
 「狂気の沙汰ですぞ、この斬り合いは」
 「いや」
 隼人正は薄く笑った。
 「邪魔する者は斬る」
 隼人正は、少しずつ間合いをつめてきていた。
 ---来る。
 三左ェ門は、隼人正が詰め寄るのにあわせるように、無意識にむかし、もっとも好んだ下段に構えを移していた。
 その構えをみて、隼人正は一たん足を引きかけたが、思い直したように猛然と断りこんできた。
 一閃の影が動いたように迅い動きだった。
 斬られた、と三左ェ門は思った。
 そう思いながら、三左ェ門は身体を沈めて、掬い上げる剣をふるっていた。
 はじかれたように、隼人正の身体が襖まで飛び、大きな音を立てた。
 三左ェ門の一撃は、隼人正の脇腹を深ぶかと斬っていた。
 隼人正は訝しむように三左ェ門を見つめたが、不意に刀をとり落とすと、膝をつき、だんだんに首を垂れて、ついに前に転んだ。
 そのまわりに、すぐにおびただしい血がひろがった。
 その姿をたし加めてから、三左ェ門は刀をおろし、右肩に手をやった。
 かわしも受けも出来なかった隼人正の一撃に、斬られたと惑じたのは間違っていなかった。
 肩をさぐった三左ェ門の指は、いきなり肉に埋まった。
 焼けるような痛みが、そこから全身にひろがって行く。
 眼が暗くなった。
 傷口を押さえたまま、三左ェ門はあたりを見回した。
 そして呻き声を途中でのみこんだ。
 三方の襖が開かれていて、いつの間にか、そこに大勢の人間が立っていた。
 人びとは黒く立ちならび、なぜか無言で三左ェ門を見つめている。
 「手傷を負い申した」
 三左ェ門は、ぎこちない微笑をうかべた。
 「どなたか、手を貨してくだされ」
 すると、聞き馴れた津田民部の声が、見たぞと言った。
 三左ェ門はそちらに顔をむけたが、黒い人影が眼に映るだけで、どれが津田かはわ加らな加った。
 「見ごとだな、必死剣鳥刺し
 三左ェ門は微笑した。
 微笑して、よろめきながら立っていた。
 いや、いまのは鳥刺しの秘剣ではござらぬ、と言おうとしたとき、津田が叫んだ。
 「兼見が、乱心して隼人正さまを斬ったぞ。逃がさずに斬れ」
 三左ェ門は、反射的に刀を構えた。
 刀はひどく重かったが、眼の前に殺到してきたものを斬った。
 ---乱心だと?
 横から斬りかかってきた者を、体を開いて斬って捨てながら、三左ェ門は必死に津田の言葉の意味を探ろうとした。
 背に痛みを感じ、振りむくと同時に斬り払ったが、刀は空を切った。
 そうか、おれに隼人正さまを斬らせるために罠を仕組んだのだ。
 そう思ったとき、三左ェ門は声をのんだ。
 ---お上だ。
 お上は連子を剌された恨みを、決して忘れたりはしなかったのだ。
 腹を切らせなかったのは、不仲の隼人正を始末する道具に使うためだったのだろう。
 生かして使うほうが、得でござります、と津田民部がすすめたのだ。
 ---無残だ。
 三左ェ門は自嘲の笑いをうかべた。
 いまごろ気づいた自分を嘲っていた。
 ぼろぼろに斬りさいなまれているのがわかった。
 それでも三左ェ門は限の前に立ちふさがる黒いものにむかって反射的に刀をふるっていた。
 刀は時おり肉の手ごたえを伝えた。
 限はほとんど見えなくなっていたが、三左ェ門は、部屋のどこかにいて、自分の最期をひややかに見まもってっている右京太夫の視線を感じた。
 その視線にあらがうように、三左ェ門は刀を構え、眼の前をよぎる影のような心のに刀を叩きつけた。
 だが鋼鉄のような男にも、ついに最後のときがきた。
 横から組みつくように突っこんできた刀に、腹を深くえぐられて三左ェ門はどっと膝をついた。
 そして立てなくなった。
 刀にすがるようにして斜めに身体をかたむけたまま、三左ェ門は動かなくなった。
 「しぶとい男だったが、やっと参ったか」
 津田民部が、三左ェ門の前に立ってそう言った。
 津田をたしかめるように三左ェ門の顔をのぞき、腰をのばすと三左ェ門が握っている刀を蹴ろうとした。
 絶命したと思われた三左ェ門の身体が、躍るように動いたのはその瞬間だった。
 三左ェ門は片手に柄を握り、片手を刀身の中ほどにそえて、槍のように構えた刀で斜めに突きあげていた。
 刃先は津田の鳩尾(みぞおち)から肺まで深ぶかと入りこんだ。
 「・・・・・・・・」
 鳥刺し、と三左ェ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。
 津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左ェ門の身体にあつまった。
 三左ェ門の巨躯は坐った恰好から、横転して畳にころがった。
 そして今度こそ動かなくなった。
 寒い冬が過ぎようとしていた。
 野にはまだ雪が残っていたが、野を真直ぐに走る道は、黒く濡れて日に光っていた。
 里尾は鶴羽村のはずれに立って、野をわたり丘の右手に消えている道を眺めていた。
 風が寒いので、さっきから何度も、厄介になっている百姓家に引き返そうとしながら、そのたびに丘のむこうから叔父の三左ェ門があらわれそうな気がして、里尾はふんぎり悪くその場所に立ちつづけていた。
 里尾は懐に赤子を抱いていた。
 生まれて間もない男の子だった。
 三左ェ門の子である。
 細い脹や大きな口が、あまりに叔父にそっくりなので、里尾はながめているうちにおかしくなって忍び笑いを洩らしたりする。
 身ごもっていることを知ったのは、鶴羽村にきて三月ほどたったころだった。
 それから子供を生むまでの月日ほど、里尾にとってしあわせな日日はなかった。
 里尾がいる百姓家の人びとは親切で、子供を生むのに何の心配もいらなかった。
 生まれてしまうと、三左ェ門にその子を見てもらいたい気持が募った。
 それで時どき村はずれまで見にくる。
 「今日もいらっしゃらなかったのね」
 子供が泣き出したので、漸くふんぎりがつき、里尾は子供に囁きながら、野に背をむけた。
 迎えに行くと言った三左ェ門を、里尾は信じていた。
 その日が来たら、どんなにしあわせだろう、と思いながら、里尾は村の中の道をゆっくり歩いた。
 赤子は力強く泣きつづけていた。(本文より引用)

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