カテゴリー「10 山形県が発祥」の12件の記事

2010年9月28日 (火曜日)

「花笠音頭」の若松様とは?

Hanagasa

 「目出度、目出度の若松さまよ♪」と歌われる「花笠音頭」は山形県を代表する民謡だ。この歌詞にある「若松様」は、鈴立山(れいりゅうざん)「若松寺」( じゃくしょうじ)のことだが、お寺の名前であることは、地元を除くと意外に知られていない。

 前回、天台宗の最澄(さいちょう)の時代に始まる比叡山の「不滅の法灯」の予備の火は、山形県の山寺「宝珠山・立石寺に分灯されていることを紹介したが、ライバルと言われる近くの「若松寺」のことも紹介したい。Map6_8
 
 「若松寺(じゃくしょうじ)」は、「西の出雲、の若松」と、島根県出雲市の出雲大社と比べられるほど、縁結びの観音様として地元では有名だ。
 所在地は、山形県天童市大字山元2205-1 にある。
 若松寺山門はJR天童駅から車で約15分。

 「山寺」は同じ天台宗の寺院だが、永遠のライバルと言われている。
 開山は「若松寺」が100年以上も古く、今から約1300年前、奈良時代の和銅元年(西暦708年)に行基菩薩が開山しているが、ライバルの山寺には、松尾芭蕉も参拝し県外にも相当に名が知られている。
 
 因みに、若松寺縁結びの寺山寺縁切り寺であり、
 「山寺で縁を断ち、気分一心で良縁を求めて若松寺に参拝を
 が謳い文句。
 このお寺では、仏式の結婚式が盛んに行われている。
 「目出度、目出度の若松さまよ♪」は、ここで結婚式が盛んなことから歌詞に加えられたのであろう。 

花笠音頭■
目出度 目出度の 若松さまよ
枝もチョイチョイ栄えて
葉もしげる
ハァ ヤッショ マカショ
シャン シャン シャンYakamatusama

花の山形 紅葉の天童
雪を眺むる 尾花沢
雪の舟形情に厚い

呼べば とけそなやさすがた
娘盛りを なじょして暮らすImg493dee58zik4zj
雪に うもれて針仕事

可愛い おばこが嫁にくる
おばこなぼになる 十三七つ
百合の 花ムコに似てめごい

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2010年9月26日 (日曜日)

「不滅の法灯」と「油断大敵」

 Yamadera

 比叡山の「不滅の法灯(ほうとう)」は、天台宗を開いた最澄(さいちょう)の時代に始まり、以来1200年以上にわたって途絶えることなく灯っている。Enryaku101c
 この「不滅の法灯」は、山形県の通称・山寺「宝珠山・立石寺(↑写真)」に分灯されていることをご存じだろうか。
 そして実際は、比叡山も山寺も戦国時代に一回づつ消えたことがあるが、分灯していたことが幸いし、引き続き法灯を守り続けている。

 「油断大敵」の語源は種々あるが、この「不滅の法灯」を消さないように、毎日、「菜種油」を注ぎ足している僧侶達の緊張感を思うと理解し易い。
 光は、ただ漫然と守られている訳ではない。
 天台宗を開いた最澄(さいちょう)は、この法灯に
 「明(あき)らけく後(のち)の 仏の御世までも 光りつたへよ 法のともしび」
 と詠まれた。
 仏教の難しい話は分からないが、きっと、この光には後の世まで永遠に照らして欲しいとの願いが込められているのだろう。

 しかし、この法灯も一度づつ消えたことがある。
 いずれもだ。
 「比叡山」は1571年(元亀2年)、織田信長の叡山焼き討ちで全山が消失。
 「山寺」は1521年(大永元年)、立石寺が伊達氏に味方したことで、最上氏の軍勢に攻められ焼失している。
 ここでも法灯を守り続けることの難しさと、万が一に備える大切さ、そして「油断大敵」を教えている。なお「法灯」は、現在、岩手の中尊寺等数カ所に分灯されている。
 一箇所集中は危険であり、リスクの分散は大切なことだ。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20100924_9
   
 この「油断」は、国家間にもそのまま当てはめることが出来る。
 中国偽装漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりした事件から、「油断」は国家の存亡に発展する虞があることを教えている。

 中国は尖閣事件の対抗措置として、次々に手を打って来た。
■閣僚級などの政府高官の交流停止
■河北省の軍事管理区域に侵入しビデオ撮影したとして、日本人社員4人が拘束。
■外貨準備で円資産を大量に買い、「円高誘導」の意見。
■中国からの「レアアース」の輸入ストップか。
■中国政府による、日本旅行の自発的中止の指示。
等々、三国志や春秋の群雄割拠していた時代からの国家戦略通りのことだ。
 中国には、兵法三十六計がある。
 この兵法で、日本を貶める長期の計画で動いていることを知ることが出来る。
 ●笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)
  友好的に接し、相手が警戒を緩めたところで攻撃する事。
 ●借屍還魂(しゃくしかんこん)
  利用できる物は何でも利用する事。例えば、中国は先の戦争や靖国神社のことを
  持ち出して揺さぶりを掛けることなどは、その典型だ。
  これに日本はやられるがままに、「平和、平和」「冷静、冷静」と念仏を唱える。

 「不滅の法灯」や「油断大敵」の教えは、今の日本には通用しないのか。
 「一隅を照す。これ則ち国宝なり」も最澄の教えだ。
  ただ、ただ、今の日本にはもったいない教えだ。
 
天台宗・東京教区
 ・ 臥龍山 安養院(東京都品川区)
 ・ 澤田山 安養院(東京都日野市)
 ・ 安楽寺(東京都品川区)
 ・ 国宝山 医王寺(東京都稲城市)
 ・ 経王山 圓融寺(東京都目黒区)
 ・ 鷲峰山 玉泉寺〔BOSEのバーチャ極楽〕(東京都あきる野市)
 ・ 東叡山寛永寺 清水観音堂(東京都台東区)
 ・ 浮岳山 深大寺(東京都調布市)別格本山
 ・ 江北山 清水寺(東京都台東区)
 ・ 長命山 徳蔵寺(東京都品川区)
 ・ 泰叡山 瀧泉寺〈目黒不動尊〉(東京都目黒区)

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2010年9月15日 (水曜日)

地元向け日本酒「十四代」

 息子が、都内の居酒屋で職場の上司から「十四代」をご馳走になったという。F0084695_1615879
 先般、山形県に帰省した際、生意気にも「美味かったので十四代をお土産に買って行きたい」と言い出した。
 仕方なく、高速を「山形北」で降りて、酒造元がある村山市や尾花沢方向に向かった。手に入り難いのは知っていたが、地元なら購入できるのではと安易に思っていた。
 しかし、街道沿いの何軒かの酒屋に立ち寄ったが、何処からも「14代はこっちじゃ買えないよ。全部東京に行くみたいだよ」と言われた。
 ある店で丁寧に教えてくれた、
 「山形市内の霞城(がじょう)公園近くの酒屋で、別の酒と抱き合わせで2万円ちょっとで売っているみたいだ」と言う。
 この情報を聞いて息子も購入を諦めたようだった。
 付け加えた。
 「山形県は十四代に負けない酒は幾らでもある。値段が10倍しても味が10倍のHatsusansaibthumb250x5002376酒はない」と無理矢理納得させた。
 今回は、酒田市内で白い酒瓶の「初孫の古酒三歳」を何本か購入していた。この酒は高級感ある酒瓶で飲み心地良く、値段は手頃だ。
 案の定、喜ばれたという。
 この酒は結構古い銘柄で、昭和40年代には売っていた記憶がある。
 小生も土産に相当購入している。
 
 何も日本酒「十四代」だけでないが、ちょっと人気があると売値を流通段階でつるし上げるところがある。
 製造元が値を上げているわけではないという。
 殆どの場合、テレビなどで人気タレントのオーバーアクションによる過大評価だ。
 きっと「十四代」もそれだろう。村山市の酒造元、高木酒造も困惑しているものと思う。
 かつて、一番人気だった日本酒製造元の社長が、「けっして、我が社がボロ儲けしている訳でない」とのコメントを思い出した。
 最近、この日本酒「十四代」の「高木酒造」が地元向け開発した十四代特吟の小瓶を発Img_2010090300024表した。
 県外の皆さんが、この地元向け小瓶の日本酒まで値段を吊し上げるようなことをしないで欲しいものだ。
 希望小売価格は1本750円(税別)らしい。
 これが常識的価格だ。
  「日本酒と豆腐には旅をさせるな」という格言があるそうだ。
 酒も生もので、その地元で飲んでこそ旨さが倍加する。
 つまり、元々が地元で消費することを念頭において作られているのが、各地の日本酒や豆腐だ。高木酒造は、この姿勢を大切にしようとしている。
 まず地元を大切にすれば、ご商売は安定する。

■山形県村山市大字富並1826
   「高木酒造」 高木辰五郎社長 杜氏 高木顕統

山形新聞】「十四代」思わぬ高値、蔵元も困惑 地元向け小瓶を開発、販売
                                  2010年09月03日
   http://yamagata-np.jp/news/201009/03/kj_2010090300033.php
 地元でもなかなか入手できないプレミアム日本酒「十四代」の醸造元・高木酒造(村山市、高木辰五郎社長)は、1人でも多くの地元消費者に「十四代」を味わってもらおうと、300ミリリットル詰めの小瓶を新たに開発、村山地方向けに販売している。
 ただ全国的な超人気銘柄とあって、一部では出荷直後からインターネットオークションに流れたり、出荷先以外の酒店で5倍近い価格で売られるなどしており、蔵元も困惑している。
 今や、全国の日本酒ファンに広く知れ渡った人気ブランドの「十四代」。
 国内はもちろん、海外からの引き合いも多く、なかなか手に入らないことから“幻の銘酒”とも呼ばれている。
 ネットなどで驚くような高値で取引される一方、まとめて買い占めていくブローカーもいるとされ、地元でも入手が困難だ。
 需給バランスを少しでも改善し、地元の人にもっと楽しんでもらいたい-と開発されたのが小瓶「十四代 特吟」。「日本酒は造られた土地で飲むのが一番おいしい」(高木顕統専務)との考えから、「県外から訪れた人が、山形で味わえるように」という思いも込められている。
 山田錦を50%まで磨き上げ、特別に醸造した純米吟醸生貯蔵酒。
 初年度は、県酒類卸が販売した今年7月の生酒限定醸造頒布会(3銘柄セット)用に計6000本、蔵元扱いを含め村山市や尾花沢市、大石田町を中心とした取引酒店向けに計1万5000本を生産した。希望小売価格は1本750円(税別)。
 多くは県内の飲食店などに回ったようだが、人気ブランドの“宿命”としてネットオークションや県外に流れた分も少なくないとみられる。
 顕統専務は、「地元にどのくらい回ったかの分析はこれからだが、来年に向けて、どういう方法が効果的なのかを検討していく。
 現在は世話になっている地元中心だが、来年以降も順次、量を増やして、いずれは県内全域に向けて出荷していきたい」と話している。

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2010年8月 2日 (月曜日)

政府は東北を蔑視し続けた。

 東北地方が、どのような差別を受けて来たかご存じですか。
 前回“なぜ「東北地方」と呼ぶのか”と記載したので、この続きも紹介したい。

 薩長土肥中心の明治政府は、どのように東北を蔑視したか列挙する
■官軍の戦死者を祀るために、明治2年「東京招魂社」(靖国神社)を建立した。
  ※勝者の論理で造られた神社であり、東北の戦死者は祀らなかった。
  その後各地の招魂社(護国神社)にも祀ることはなかった。
  日清・日露戦争で、東北から戦争に出征した戦死者も祀るようになったが、靖国神社に積極的に参拝する東北人は少ない。
■明治天皇が東北巡幸に際して官軍の墓だけを参拝させた。
  この参拝を計画したのは薩長系の役人だった。天皇の御旗の元、薩長は戦死者に対しても差別を続けたことに、巡幸の有難味は半減したという。
■参議・木戸孝允は、「東北辺十が十愚者のみ」と東北を差別した。
■明治政府は、東北を「白河以北、一山百文」と差別した行政が執られた。
■明治政府は、東北各県の県令・知事は薩長土肥の出身者を充てた。
 東北では、土地を治めるお偉方(支配者)は、他国からやって来ると思っている。
 事実、今でも地元から巣立った人材より、中央から呼び寄せる傾向がある。
■佐賀出身の鍋島幹青森県知事は、東北民衆は「無神経の人民」と評し、リコール運動が起きた。
■東北地方の地場産業を育成しなかった
 東北の豊富な地下資源を、政府と癒着した政商(藤田組、古河家、三菱、五代家など)に払い下げた。山形県では、鶴岡の「油戸炭鉱」(1957年2月閉山)や尾花沢の「福舟鉱山」は三菱鉱業に払い下げた。この意味でも、TDK創業者・齋藤憲三が、秋田県にかほ市に地場産業として育てたことは評価される。安易に誘致することではない。
■東北の凶作にも関わらず「一村千人を殺しても苦しからず候」と納税を厳命した。
■戦争では、東北出身の兵隊は一番厳しい戦場に送られ戦死者が続出した。
■軍隊の指揮官、将校は薩長土肥出身者が殆どを占めた。
  「一将功成りて万骨枯る」と言われるが、万骨は東北の兵隊達だった。
  そして、手柄、功労は、これら指揮官に持って行かれた。
■東北の娘達の身売りは、行政機関も協力していた。
  東北地方から遊郭に売られる娘達の人身売買に行政が関与していた。
■近年も、出稼ぎ、集団就職など安い労働力が提供される地とされる。
 
 このように、蔑まされた地域からは、当然の成り行きとして、左翼的傾向Oshin_3shotを持つ人々が育成される。
 かつて、NHKドラマ「おしん」で、渡瀬恒彦演じる共産主義者が「おしん」と逃げ回る場面があったが、橋田壽賀子先生は山形県の置かれた実情を熟知しているからこその脚本と見ていた。
 東北地方の選挙の難しさは、このような背景もある
 
 また、戦前の東北は、凶作で生活は窮乏し、子ども達の環境も最悪を極め、教師達も左翼傾向が強まり生活綴方運動をすすめ、北方性(ほくほうせい)教育が普及した。
 戦後は、山形県山元村(上山市)で無着成恭指導による『山びこ学校』の文Yamabiko集となって復活し、東北の惨状が世間に知られるようになった。
 特に、江口江一少年の「母の死とその後」は文部大臣賞を受賞、映画化され全国からファンレターが殺到し、綴方の注文も多かったというが、江一少年は一切断り昭和42年5月31歳で亡くなった。山形県人の性格・資質がよく表れている。
 また、
  元会津藩・柴五郎は10歳で戊辰戦争を体験するが、『ある明治人の記録』(会津人柴五郎の遺書)の中で、 
 「後世、史家のうちには、会津藩を封建制護持の元凶のごとく伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎、これに協力せりと説くものあれど、史実を誤ること甚だしきものというべし百姓、町民に加えたる(薩摩、長州の)暴虐の挙、全東北に及びたること多くの記録あれど故意に抹殺されたるは不満に堪えざAa300_るなり。」
 と明治政府を酷評した。 
 柴五郎は戊辰戦争直前、親戚に預けられ戦乱を逃れるが、祖母、母、兄嫁、姉、妹は戊辰戦の際自刃している。
 官軍(薩長)は会津城下に侵攻すると鬼畜と化して、町人、百姓、婦女子も殺傷していたことを記録している。
 
 敗者に優しく手を差し伸べる日本人の美徳は、この薩長の仕打ちによって消え去った。そして、負けた相手を容赦しない勝てば官軍の血は、今も色濃く流れている。
 この遺書は、薩長支配に対する東北民衆の偽らざる心情が表現されていると思う。

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2010年6月18日 (金曜日)

藤沢周平も食べた「民田茄子」

 今週(2010年6月17日)の週刊文春の末尾辺りに、
 私の取り寄せ/和の月60、「民田茄子のからし漬け日本人である幸せ
と記事があった。
 エッセイスト・向笠千恵子さんが、茨城「月の井酒造店」を取材した内容だ。
 この「からし漬け」の民田茄子は山形県鶴岡の名産だが、それが茨城県の月の井酒造の酒粕を使って販売していることが面白い。
 その製造元は、「月山パイロットファーム」という、山形県鶴岡市三和字堂地60 にある漬け物会社だという。向笠さんは、この酒屋と漬け物屋は、かねてから別々に知っていたが、今回の取材で互いに付き合いがあったことをはじめて知ったという。
  Marunasu1
 「民田茄子」は漬け物用の小茄子で、鶴岡市民田が発祥だが、最近では庄内地方全域で栽培されている。
 茄子の季節には、各家庭で民田茄子を使った漬け物が味を競う。
 また、漬け物という日持ちする利点を生かし、都内の物産展やデパートの食料品売り場でも購入することができる。
 
 鶴岡市民田の地名は、作家・藤沢周平の生地の鶴岡市高坂に隣接した集落の名でもあり、藤沢作品の中に良く出てくる地名だ。
 民田茄子のことも、よく文中に見つけることが出来る。
 きっと、周平自身も郷里から送られたり、土産に持ってきては食べたことが、時代物の作品の主人公が食べる情景として描かれたのだろう。
  帰郷すれば、何気なしに食べる民田茄子も、このように紹介してあると一味違ってくるようだ。

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2010年1月17日 (日曜日)

庄内の味覚「どんがら汁」

 郷里の山形・酒田から「どんがら汁セット」が届いた。Kandara
 届くようになったのは一昨年からだが、今年も送ってくれないかと密かに期待していた。
 
 味噌たれや酒粕に秘密があるのだろう。とにかく旨い。旬の寒だらのもつ、濃厚な旨味が存分に引きだされ、体の芯から暖まる、満足の味だ。このセットは「農山漁村の郷土料理百選」にも選ばれた冬の庄内の名物料理、「寒だら汁(どんがら汁)」だ。Img010

 庄内地方では、1月、2月の「寒」の時期に、荒々しい冬 の日本海でとれた真だら(真鱈)のことを「寒だら(寒鱈)」と言い、身も骨もぶつ切りにし、内蔵も鍋にいれて煮込んだ「寒だら汁(どんがら汁)」は、冬の庄内の名物料理となっている。 1月に地元で開催される「寒だらまつり」でも寒だら汁が振舞われ、この時期にしか味わえない旬の味を求める人々でにぎわいます。

注文受付期間
1月2日(土)~1月31日(日)
発送期間
基本的に毎週火曜日と金曜日
〔1月8日(金)~2月5日(金)〕
製造元
酒田丸魚酒田工場   山形県酒田市船場町2丁目3-38
問い合わせ先0234-24-4500
アクセス酒田港から徒歩約3分
http://www.acoop-shonai.co.jp/shop_kandara/index.html

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2010年1月 3日 (日曜日)

時代を読む目確かな「佐藤繊維」

 2009年10月5日の「カンブリア宮殿」で、また、読売新聞では2009年12月20日、朝日新聞では2010年1月3日に山形県寒河江Img009市の「佐藤繊維」(社長・佐藤正樹)のことが大きく紹介された。

 主な内容は、
佐藤繊維」の南アフリカ産の原毛を使ったモヘア糸が、オバマ大統領の就任式でミシェル夫人が着たニナ・リッチのカーディガンに使われた。ことだ。

  下段の新聞記事を読んでもらえば余計なコメントは必要ないが、元気のいい企業には共通項が必ずある。一口で言えば、それは経営者の時代を見る目とセンスと思う。
 白く染め上げた髪がトレードマークの佐藤社長は、「企業は、人や地域の伝統を生かす場」だと謙虚に語っているが・・・。
2009.7月には、経済産業省の第3回「ものづくり日本大賞」(製品・技術開発部門で経済産業大臣賞)を受賞している。

2009年01月31日山形新聞
オバマ夫人のニット、
素材は寒河江製 佐藤繊維製造、就任式で着用
 米国ワシントンで今月20日に行われたオバマ大統領の就任式で、寒河江市の紡績糸製造会社が生産したモヘア糸を使ったニットカーディガンをミシェル夫人が着用していたことが30日までに分かった。デザイナーズブランドの製品で、ファースト・レディーのファッションが世界中から注目される中、業界内外で話題が広がりつつある。このニット糸を製造したのは佐藤繊維(佐藤正樹社長)で、カーディガンはニナ・リッチの製品。歴史の一場面となる、華やかな場で黄色のカーディガンを着こなしたミシェル夫人の姿が世界中の視線を集めた。ニナ・リッチ社からの連絡を受け、佐藤繊維が自社製糸の使用を確認した。佐藤繊維によると、使用されたニット糸は南アフリカ産の希少なモヘアを原料にした「Fuuga」。44番(原料1キログラムで長さ4400メートル)の細い特殊な糸で、染め付けをしてニナ・リッチ社に納めていた。佐藤繊維は、イタリアで開催された世界最大規模のニット素材展示会「ピッティ・フィラティ」に一昨年、昨年と出展。蓄積したノウハウを生かし、集めた古い紡績機を駆使するなどして、従来の半分以下の細さのモヘア糸を生産して、欧米のデザイナーズブランドなどに注目され、高い評価を受けた。「今までにない光沢のある、繊細な風合いのカーディガンをすてきに着こなしてもらった」と佐藤繊維の佐藤正樹社長。「就任式でカーディガンを着てもらい、ニットの位置付けが変わった。何よりも誇りに思うし、今年初めてニューヨークで開催される展示会に糸を出展するのを前にいい弾みになった」と手応えを感じ取っていた。

「佐藤繊維」 
山形県寒河江市元町1丁目19−1 - 0237-86-3136
http://www.satoseni.com/index_j.html

山形新聞ニュース

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2009.12.20 読売新聞
ノルウェーのオスロで今月10日に行われたオバマ米大統領のノーベル平和賞200912205759671n授賞式で、ミシェル夫人が、山形県寒河江市の「佐藤繊維」(佐藤正樹社長)が製造した高級モヘア糸を使ったニナ・リッチのニット製カーディガンを着用していたことが、わかった。1月のオバマ大統領就任式でも身に着けていることか ら夫人のお気に入りぶりがうかがえ、世界のニット業界の話題となっている。
 佐藤繊維は「信じられない。ファーストレディーに着てもらえるのは最高の喜び」と話し、高級糸の開発、ブランド戦略に弾みをつけたい考えだ。カーディガンはニナ・リッチ製で、繊細で光沢のある黄緑色が基調。佐藤繊維が南アフリカのアンゴラヤギから微量しかとれないモヘアを原料にして作った1グラム当たり44メートルの極細ニット糸が使われNinaricci_prssrelease091210ている。同社が光沢のある黄緑色に染め上げてニナ・リッチに納入した。1月の大統領就任式でミシェル夫人のカーディガン姿が世界中の視線を集めたのに続き、ノーベル平和賞授賞式でも同じものを着用。ミシェル夫人は、祖先がアフリカ系としても知られ、佐藤社長は「偶然とはいえ、素材の原産地と同じなのも驚き」と話している。2度とも、ニナ・リッチ社からの連絡を受け、知ったという。佐藤繊維は07年から、イタリアの世界最高峰の糸展示会「ピッティ・フィラーティ」に3年連続で出展し、シャネルやイブ・サンローラン、ラン バンなど、世界の一流ブランドにニット糸を納めている。年代式の古い紡績機に独自の改良を加え、従来の半分以下の1グラム52メートルの細さのモヘア糸を生産することに成功し、今年度の経済産業省「日本ものづくり大賞」で、「経済産業大臣賞」を受賞した。
 米大統領の就任式でファーストレディーがニット製品を着たのは初めてで、佐藤社長は「ファッション業界でニットのステータスは確実に上がった。今後のブランド戦略に弾みをつけたい」としている。(2009年12月20日読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20091220-OYT1T00310.htm

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2009年12月21日 (月曜日)

街並み景観100年運動

人口の10倍、観光客呼ぶ山形県金山町
20090..12.20(日)の毎日新聞に、山形県金山町の「街並みづくり百年運動」のことがJsclin01特集された。
 金山町の街並みづくりのことは、新聞報道だけでく、テレビでも時 折大きく取り上げられることがあり、関心深いものがある。
 金山町は、山形県の北東、最上川水系の上流に位置し、北東は秋田県に接している。
 人口6700人、農地は1割、7割は山林の地域で、江戸時代から植林してきた「金山杉」は有名。また、「金山大堰」は食料の安定的な供給の基盤となっており、疏水百選に認定されている。住宅の殆どは金山杉を使った伝統的な工法の「金山型住宅」だという。http://mainichi.jp/life/ecology/news/20091220ddm010040014000c.html

金山町の鈴木洋町長(56歳)はNo165_01
「25年以上も街並みづくり運動に取り組んできたが、先日、うれしいニュースが新聞に出ていた。県が最上地域の8市町村に住む高校生にアンケートしたところ、「住みたい」と「一度離れても戻ってきて住みたい」の合計が金山町は7割で最も高かった。彼らはこの運動が始まってから生まれ育った世代。周囲の自然と調和した街並みづくりが気持ちのいい、住みやすい地域づくりにつながり、若者もそれを評価している結果が出た。金山町は1889(明治22)年に村として出発し、1925(大正14)年に町となってからも一度も合併していない。F0019498_15342647
街づくり運動は、元々は58年当時の町長の欧米視察がきっかけだが 、町長の斬新な呼びかけが町民から支持されたのは、地域としてのまとまりが強かったことが大きいと思う。」とコメント。

 明治11年(1878年)7月、英国の作家イザベラ・バード女史も金山を訪れ、その時の紀行文「日本奥地紀行」に『ロマンチックな雰囲気の場所である』と印象を述べている。
 景観は、この当時から変わらないという。街づくりに一貫性があり、ぶれないことが成功につながっていると思う。

   

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2009年12月15日 (火曜日)

「雪の降る街を」は鶴岡市発祥

「雪の降る街を」は、内村直也作詞、中田喜直作曲による1952年の作品。
 この日本中の人々に愛唱されている名曲は、鶴岡の雪景色や旅の思い出をメロディにしたものといわれている。中田喜直は、鶴岡の音楽愛好家菅原喜兵衛と親交が深く、毎年のように鶴岡を訪れては、ピアノ独奏や地元の校歌を多く作曲していたという。
05image
この名曲発祥の地にちなんで開催される「鶴岡音楽祭」の日程
【開催日】 2010年 2月7日(日)午後1時30分~ (開場 午後1時) 
【開催地】 鶴岡市文化会館
【入場料】 大人/2,000円、高校生以下/1,000円
【問合せ】 鶴岡冬まつり実行委員会 電話:0235-25 -2111

雪の降る街を」作詞 中田喜直(1923年~2000年)
(1) 雪の降る街を 雪の降る街を
  想い出だけが 通りすぎてゆく
  雪の降る街を
  遠い国から おちてくる
  この想い出を この想い出を
  いつの日か包まん
  あたたかき幸福(シアワセ)の ほほえみ
(2) 雪の降る街を 雪の降る街を
  足音だけが 追いかけてゆく
  雪の降る街を
  一人心に 満ちてくる
  この哀しみを この哀しみを
  いつの日か解(ホグ)さん
  緑なす春の日の そよかぜ
(3) 雪の降る街を 雪の降る街を
  息吹とともに こみあげてくる
  雪の降る街を
  だれも分らぬ わが心
  この空(ムナ)しさを この空しさを
  いつの日か祈らん
  新しき光ふる 鐘の音

中田喜直(なかだ よしなお、大正12年8月1日~平成12年5月3日)『ちいさい秋みつけた』や『めだかの学校』『夏の思い出』など、小中学校の音楽で歌い継がれている数々の名曲を作曲した。

なっとく童謡・唱歌 
 昭和27年3月初旬、庄内地方は前年から断続的に積もった大雪で、一面の銀世界でした。そんな中を鶴岡駅に馬そりで、当時28歳の中田喜直と、声楽家で中田とは東京音楽学校で同期の村田節子、そして、その妹でピアニストの村田克子を出迎えたのは、農村・斎村(いつきむら・現在の鶴岡市勝福寺)に住む菅原喜兵衛さんでした。
 中田にとって数回目となる鶴岡への旅の目的は、翌日に開かれる自身が作曲した斎学園歌(いつきがくえんか)の発表会に出席するためです。馬そりは、一行を乗せて月の光に照らされた雪道を進み、夜の十時半、宿舎である菅原宅に到着しました。菅原は、「将来は作曲家になりたい」が口癖で、地元で音楽活動をしていました。
 昭和20年夏、姉の疎開先だった斎村を訪れた声楽家の村田節子と知り合い、続いて中田と出会いました。初めて村田の伴奏者として連れてこられた中田と、意気投合。以来、中田と長い親交が続きました。菅原喜兵衛は平成10年(1998年)2月、94歳で亡くなりました。

 まずは、「雪の降る街を」を堪能あれ。
倍賞千恵子さんの抜群の歌唱力と表現力、そして澄んだ歌声に、いつ聴いても心癒されます。

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2009年12月13日 (日曜日)

牛タンの佐野啓四郎は山形出身

 牛タンと言えば「仙台」が有名だが、ここで牛タンを広めた佐野啓四郎は山形県出身だ。

「牛タン焼きの生みの親」と言われる「佐野啓四郎」は、山形県西里村(現Img_20071018t145438890北町)の農家の二男として生まれた。東京で料理の修業をしていた二十代の頃(昭和十年頃)、フランス人のシェフからシチューなどに使う牛タンの味を教わる。戦後は、屋台を引いたりして花巻市、白石市、宮城県柴田町などを転々したが、仙台に落ち着くことになる。
 そして、昭和23年、仙台市中心部に牛タン焼きの専門店を開き、日本人好みの味付けに工夫を重ね、全国にその味を広めた。

味太助」の初代、佐野啓四郎http://www.aji-tasuke.co.jp/
 〒980-0811 宮城県仙台市青葉区一番町四丁目4-13
  TEL(022)225-4641(火曜日定休日)

  佐野啓四郎は、「お客さんに喜ばれる味を守るということは大変な事なんだ。毎日緊張していないとね。」と職人らしい難しさを見せていた。その意志を引き継いで、二代目・佐野和男が仙台牛タンの元祖である「味太助」の伝統を守りつづけている。(味太P1HPから)

東京のアンテナショップ「仙台牛たん焼専門店味太助
港区東新橋1-5-2汐留シティセンターB107号
中央区日本橋2-7-25日本橋交叉点ビルB1F  03-3516-2228
中央区銀座5-9-5チアーズ銀座B1F
港区虎ノ門1-1-23ウンピン虎ノ門ビルB1F
新宿区新宿3-30-11新宿高野第二ビルB1F  03-5366-0251
           11:30-14:00/17:00-21:30年末年始休
山形県内では
山形県山形市旅籠町2丁目1-40
   「味太助 山形分店」TEL 0236-31-6684

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