カテゴリー「10 酒田や鶴岡のこと」の98件の記事

2018年8月10日 (金曜日)

「植民地解放の父」大川周明

 山形県酒田市の下日枝神社の山王鳥居を抜けた右側に、「大川00002595_2明博士顕彰碑」があります。大川周明は、 山形県西荒瀬村藤塚(現・酒田市藤塚元和里)で、医師の父・周賢と母・多代女の長男として1886年に誕生しています。愚妻は、この生家の前が通学路だったのに大川周明のことに全く知識がありません。妻だけでなく、兄弟や親戚筋も殆ど知りませんでした。つまり郷里では、学校や地域からも無視された人物なのです。その理由は、戦後の「東京裁判」で民間人として唯一A級戦犯で起訴されるも、法廷で奇声を発したり、東条英機の頭をはたくなどから、精神障害として不起訴になっていますから、戦後の自虐史観教育の中では、郷里の偉人として讃えるには相応しくないと思っているのでしょう。
 あらためて紹介しますと、大川周明は最近では「アジア植民地解放の父」と讃えられますが、時には、左翼・右翼・民族主義などの可笑しなレッテルが貼られています。確かなことは、日米開戦の7日後の1941年12月14日から25日には、NHKラジオで国民に向けて連続講演を行っていることです。今の時代で例えるなら、物知りの評論家らがテレビで、日米開戦の意義を国民に分かり易く解説したということです。0000251204203200_
 この連続講演をもとに、1942年1月に出版されたのが、大川周明の『米英東亜侵略史』です。この著書では、15世紀に始まる西欧白人のアメリカ大陸、アジア大陸、オーストラリア大陸への侵略史を知る必要があると述べ、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、更に、イギリスの世界支配や最終的にアメリカへの覇権が移ったことを述べて、白人による有色人種支配を批判しています。大川周明が、民間人で唯一A級戦犯に指定されたのは、この著書や言動がアメリカなど連合国の気に障ったからのはずです。
 このような志の高い人物を日本人が、左翼・右翼・民族主義などとレッテルを貼る理由は、日本人自体が大東亜戦争の評価に揺れ動いている現実からのはずです。
 結局は、日本によるアジア解放の志は道半ばで斃れますが、日本人が白人相手に戦う姿勢から、アジア諸国も植民地支配から独立に目覚めたのでした。そして、大川周明が亡くなる1957年(昭和32年)12月24日ころまでには、アジア諸国も殆どが独立しています。その後はアジアに止まらず、アフリカ諸国も殆どが独立し、更に、キング牧師による黒人差別撤廃運動や、オーストラリアの先住民族の保護名目のアボリジニの人種隔離政策の撤廃運動などが起きています。これらは、大川周明に代表される、日本人の高い志が実ったことであり、大川周明も「考えた通りになった」と草葉の陰(目黒不動瀧泉寺墓地)でほくそ笑んでいるはずです。

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2018年8月 1日 (水曜日)

鶴岡市の「セイショウコウサイ」

 子供のころ聞いた「加藤清正 戦に行くとき 米3升 持って0000_8050行ったとさ・・・」と大人のザレ唄が耳に残っています。後に知ったのですが、清正は常に腰に米3升と味噌を携帯して、常在戦場の姿勢を怠らなかったそうです。このように、九州・熊本が本拠地の加藤清正のことが、遠く離れた山形県庄内地方にも、いろんな逸話が残っている理由も後に知ったことでした。
 先日、鶴岡に住む親せきから電話で、「セイショウコウサイ(清正祭) 行って来た」と連絡がありました。清正公の命日(7月24日)に近い土日に、清正公・忠広公(清正公の嫡男)の慰霊が鶴岡市でも行われているのです。
   加藤清正と言えば豊臣秀吉の有力家臣として、秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げ、賤ヶ岳の七本槍の一人としても知られています。後に、肥後の大名となりますが、秀吉没後は徳川家康側に付きKiyomasa_image2、関ヶ原の戦いでは東軍に荷担するも、嫡男・光広が諸大名の名前と花押を記した謀反の連判状のことが幕府に知れ、1632(寛永9)年、熊本の領地を没収され、庄内藩預かりの身となり、正応院とともに丸岡(現鶴岡市)に幽閉されています。その際、遺骨も熊本から持参し、鶴岡市丸岡の天澤寺境内に、後に清正閣と呼ばれる清正公の墓所を築いたとされます。
  また、清正公祭は熊本市の加藤神社でも、山形県鶴岡市と同じように7月24日に近い土日に行われているほか、日本中に加藤清正を祀る神社かあります。なお、鶴岡には加藤清正の子孫が経営する酒屋に冨士酒造と加藤嘉八郎酒造があるそうです。
加藤清正(かとう きよまさ)
生誕 永禄5年6月24日(1562年7月25日)
死没 慶長16年6月24日(1611年8月2日)
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。
墓所は、熊本市花園の発星山本妙寺の浄池廟と山形県鶴岡市丸岡の金峰山天澤寺にある。港区白金台の最正山覚林寺(清正公)に位牌。大田区の長栄山大国院本門寺(池上本門寺)に供養塔がある。なお、明治神宮は江戸初期には肥後藩・加藤家の下屋敷(後に井伊家に渡る)があった場所で、現在の「清正の井戸」は、清正が自ら掘ったとされています。

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2017年3月26日 (日曜日)

天皇と他では「格が違いすぎます」

 昨日25日に、昭和天皇「海に入るまで濁らざりけり 」と題して、この歌Photo_2は昭和天皇ご自身の決意のほどを歌ったものだと記述しましたところ、県民から不満と思われるコメントをいただきました。
 まず最上川は、米沢市の西吾妻山「火焔の滝(「ひのほえのたき」か「かえんだき」)」を源流とし、酒田で日本海に注ぐまで、置賜~村山~最上~庄内と県内全域を通過することから、かつての舟運交易当時から県民の生活と密接に関わってきました。源流から海に注ぐまで229kmの長さは日本7位ですが、年を通して流れる水量はトップクラスとされ、その理由は、この地域は雨量が多いことの他に、上流にダムが無いことと聞いております。両岸まで満々と流れる水量と急流から、今も「最上川の舟下り」は観光の目玉して人気を集め、訪れる人々を魅了しています。
 そして、多くの歌人も最上川の流れに感銘した歌を残しております。
広き野を ながれゆけども 最上川  うみに入るまで にごらざりけり』昭和天皇
「五月雨を あつめて早し 最上川」(松尾芭蕉)
「暑き日を 海に入れたり 最上川」(松尾芭蕉)
「つよくひく 綱手と見せよ 最上川 そのいな舟の いかりをさめて」(西行)
「いな舟も のぼりかねたる 最上河 しはしばかりと いつを待けん」(藤原嗣房)
「最上川  岸の山群 むきむきに 雲篭るなかを 濁り流るる」(若山牧水)
「ずんずんと 夏を流すや 最上川」(正岡子規)「
「最上川  いまだ濁りて ながれたり 本合海に 舟帆をあげつ」(齋000004藤茂吉)
 など、失礼ながら、昭和天皇の他にも著名な方々の歌を列挙しましたが、その殆どは、単に最上川の情景を歌ったものであり、昭和天皇のそれとは格の違いが一目瞭然で素人でも気が付きます。
 終戦間もない昭和22年8月15日、天皇として地方巡幸のおり、酒田市に再び行幸された際に、山形県上山市出身の斎藤茂吉が、「海に入るまで濁らざりけり」の表現に、「実際は降雨が続いたりすると、物凄い流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたと紹介しました。この歌を詠んだ17歳の若き皇太子当時の想いは、これから天皇としての在位の折々には、戦争の戦禍や震災の被害などを含め困難な場面に幾多遭遇しても天皇として「心を濁られせずに歩んで行こう」と、最上川の悠久の流れを眺めつつ決意されたことを「うみに入るまで にごらざりけり」と表現されたものと受けて止めております。
 よって、齊藤茂吉先生の「濁ることもある」との講釈は余計なことだったのです。

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2017年3月25日 (土曜日)

昭和天皇「海に入るまで濁らざりけり」

  『廣き野を  ながれゆけども 最上川 うみに入るまで   にごらざりけり』Photo
 この歌は、昭和天皇が17歳の皇太子当時、大正14年(1918年)10月14日に山形県酒田市に行啓された際に、庄内平野を悠々と流れる最上川の情景を詠まれた和歌(御製歌)を、昭和57年3月31日、「山形県民の心を歌ったものだ」と受け止めて「山形県民の歌」に制定されました。
 その後、昭和22年8月15日、今度は天皇として酒田市に行幸され、再び日和山に立たれました。このとき、上山市出身の斎藤茂吉が短歌について御進講され、茂吉が「海に入るまで濁らざりけり」の表現に、「実際は(最上川は)降雨が続いたりすると、物凄い流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたようだっというエピソードがあります。つまり、「海に入るまで濁らさりけり」は申しまでもなく比喩的表現であり、昭和天皇は、最上川の流れを自分の人生に例え、「崩御のその日まで濁らずにいたい」と決意したものと受け止めています。
  昭和22年8月15日と言えば、その2年前の「終戦の詔勅(現代文)」で、
 「宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって海外に出て他国の主権を奪い領土を侵略するがごときは元より余の志すところではない。--中略---敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、幾度も罪なき民を殺傷し、。--中略---この上、なお交戦を続けるであろうか。遂には、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、更には人類文明そのものを破滅させるに違いない。」
 と呼び掛けられました。Photo_2
 つまり昭和天皇は、濁りも偽りもない言葉で、「白人から植民地にされた東アジア全域の安定を希求したものでも侵略の意思などない。しかし、敵国は国際法違反の原子爆弾を使用しては人類の滅亡させるに違いない」、だから仕方なく負けたことにすると語った想いと重ねております。
 しかし、未だに日本は侵略国家の汚名を着せられ、それを日本人の多くも厚く着込んでいますが、開戦を決意した昭和天皇が自らが侵略を否定していることを確認したいものです。昭和天皇が、開戦目的としたアジアの植民地解放は、終戦まで既に7か国を独立させ、その後も、日本が現地国民に武器を与え訓練指導した独立軍が、再び植民地を奪いに戻った白人軍と、互角以上に戦いを続けました。昭和天皇が崩御された後も、東ティモールが2002年(平成14年)2002年5月20日に独立して、アジア地域は全て独立を勝ち得ています。これらから、プロイセンの将軍クラウゼヴィッツが、「戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる」と「戦争論」にある言葉と共に、昭和天皇の「開戦の詔勅」と「終戦の詔勅」にある偽りない言葉を思い出しています。

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2017年3月16日 (木曜日)

「ルイス甘糟」の酒田の足跡

 先般、49日の法要で帰省した際に、酒田市内の曹洞宗(開祖・道元、承陽(じょうよう)大師)のお寺に立2017315__2_2ち寄り、お坊さんとお話しする機会がありました。話しは、檀家制度や宗門改め、更には、庄内地方の隠れキリスタンの取締りなどにおよびました。酒田市内では西高辺りに処刑場があったことや、鶴岡には「鶴ヶ岡髪谷地刑場」や「鶴ヶ岡大山刑場」があったことのウンチクを語りますと、お坊さんも「かつて、庄内にも隠れ切支丹がかなり多かった」ことなどを語りはじめました。
 事実、江戸時代初期には、庄内藩でも1626年に200人以上の切支丹が追放され、1629年5月9日(寛永6年3月17日)に鶴ヶ岡髪谷地刑場で9人、酒田刑場で10人、鶴ヶ岡大山刑場で5人が、火あぶりや斬首によって処刑されたとの記録があります。
 忘れてならないのは、1629年1月12日、米沢で処刑された53人の切支丹の一人が「ルイス甘糟」こと甘糟右衛門信綱のことです。
 「ルイス甘糟」の父は、上杉二十五将の一人甘糟景継で1593(文禄2)年から1598(慶長3)年まで酒田・亀ヶ崎城の城主を務めており、次男の信綱も土地勘があったはずです。そして、「ルイス甘糟」は1610(慶長15)年ころ江戸で洗礼を受けた後に、仙台藩や米沢藩の重臣になりますが、仙台に立ち寄った宣教師たちに、酒田にも行くように助言しており、この時期が庄内地方にキリスト教が広まった時期なのでしょうか。
 これらの情報は、亀ヶ崎城跡 | 山形 | 史跡案内 | 天上の青からです。http://historicsite.tenjounoao.waterblue.ws/tohoku/yamagata/yamagatahs33kamegasakica.html
 なお、「ルイス甘糟」の父・甘糟景継が城主を務めた亀ヶ崎城跡地は酒田東高校が建てられています。また、かつての宗門改めでは、お坊さんには、檀家を訪問した際でも挨拶なしで真っ直ぐ仏壇に向かい、仏壇辺りにキリスト教に関係する十字の位牌や掛け軸、置物が無いかなどをチェックする権限があったそうです。
 今年は1517年の「ルターの宗教改革」から500年です。宗教改革から約30年後の1549年に、カトリック教会の宣教師ザビエルが宣教を開始しており、「以後よく(1549)広まったキリスト教」と記憶していますが、このように生きた勉強も大切と思います。
禅(道元禅師) + 日本語字幕
   https://youtu.be/PcoNpB4zG3o
  Image2Image4

山形県・酒田や鶴岡の処刑場: 多摩湖畔日誌

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2016年11月24日 (木曜日)

注目の贈り物は全て山形県の企業

 安倍晋三首相は11月17日(日本時間18日)、ニューヨークでトランプ次期大統000082258領と会談した際に、安倍首相がトランプ氏に贈ったのが、「本間ゴルフ」の最高級ドライバーで完全オーダーメードのオンリーワンクラブ「 BERES S-05 5S」(シャフト=ARMRQ∞48)(54万円)だと話題になりました。  「本間ゴルフ」山形県酒田市宮海字中砂畑27-18.  ☎0234-33-7057
 山形産は、これだけではありません。
 2009年12月、米国のオバマ大統領がノーベル平和賞の授賞式でミシェル夫人が身に着けていたのは、エレガントな黄色のカーディガン。この服に使われているのは山形県寒河江市の佐藤繊維が作った糸でした。「夫人がこ000ninaricci_prssrelease091210のカーディガンを着てくれたのは大統領就任式に続いて2度目。愛着を持ってくれていると分かり、本当にうれしい」。佐藤正樹社長は顔をほころばせていました。
  「佐藤繊維」山形県寒河江市元町1丁目19−1 - 0237-86-3136     http://www.satoseni.com/index_j.html  
 また、2013年2月22日日米首脳会談のお土産にオバマ大統領が指名したのは、山形市の「山田パター工房」(社長・山田透)が製造する「山田パター」でした。この「山田パター」は、世界最少スコア「55」をマークしたライン・ギブソン(豪州)が愛用しているとして一躍話題になっていましたが、山000000498田透社長(57歳)が創業して、社長自身が1本1本手作りしている作品だそうです。 「山田パター工房」 〒990-2445 山形県山形市南栄町2丁目13
 電話 023-674-8785. Fax:023-674-8786
 さて次は、安倍首相は出身地である山口県下でプーチン大統領との会談が行われますが、どんなプレゼントを準備するのでしょうか。
これまでは
2013年4月 スキーウエアと板
2014年10月 釣り道具00rian_02361256_hr_ru_l
2015年10月 獺祭(だっさい)(日本酒)と萩焼のぐい飲み
2016年5月 ロシア人宣教師ニコライの日記と双眼鏡
2016年9月 鎧と兜
 が贈られているそうですが、特に話題になった物は聞きません。せいぜい、秋田県の佐竹敬久知事が、2011年3月に東北地方で大規模な地震と津波が発生した際、ロシアが被災地を支援したことへの礼として、秋田犬の「ゆめ」をプレゼントしたことでしょうか。

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2016年11月15日 (火曜日)

酒田市豊原の「善治日誌」のこと

 今、大場正己著の『善治日誌』を読む-明治26~昭和9年、山形県庄内平野における一農民の「働き」の31記録を読んでいます。「善治日誌」とは、飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市本楯)の農家、伊藤巳之助(家号勘助)の二男として明治11(1878)年に生まれ、同じ村の後藤丹蔵家に婿養子に入った後藤善治が明治26年15歳から書き始め、1日も休まずに昭和9年までの42年間の長期にわたって書き綴った日記のことです。
 この日記が話題になったのは、昭和30年前後のことだそうですが、小生が知ったのは高校当時の昭和40年代初めに教師から、「日記も長く続ければ、その人や家族だけでなく地域の宝物になる」と「善治日誌」のことを教えられたことからでした。
  再び話題になったのは、「山形県庄内平野における一農民の日誌 明治26-昭和9年」が発刊された昭和52年ころで、豊原の隣村で母の実家・草田の酒田市役所を退職していた祖父から「農林省の人達が大勢で、善治日記の裏付け調査にここにも来たぞ」と教えられたことでした。
  それが先日、妻の叔母の嫁ぎ先の豊原村の後藤家で不幸があり訪問したのですが、なんと、この家が「善治日誌」を書いた善治が婿入りした「丹蔵家」とは知らずにいたのですから浅はかなことです。Img_6788
 なお、『善治日誌』を読むの著者・大場正己氏は「豊原研究会」のメンバー12名のうちの一人で、元釧路公立大学の教授で西東京市にお住まいだそうです。
 農林省農業総合研究所「豊原研究会のメンバー」は、相川良彦、磯辺俊彦、宇佐美繁、宇野忠義、大場正己、金井晃一、金子つる、川口諦、杉山茂、陣内義人、武田勉、豊田隆Toyoharai_mage0145

本楯の『善治日記の世界』: 多摩湖畔日誌Image7Image5Img_6795

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2016年9月 6日 (火曜日)

9/10~12「天皇・皇后両陛下」酒田へ

 去年の7月18~20日には秋篠宮両殿下並びに悠仁親王殿下が遊佐町杉沢Imageや遊佐町吹浦の牛渡川に私的な旅をされましたが、今年の9月10~12日には天皇、皇后両陛下が酒田市や鶴岡市に行幸啓なされます。「第36回全国豊かな海づくり大会」に御臨席されるためです。
  両陛下の予定は
 10日午後に、特別機で庄内空港に到着され、鶴岡市の加茂水族館を見学した後、同市内である歓迎式典にご出席されます。
 お宿は湯野浜温泉で最も由緒ある旅館『亀や』のはずです。
 11日午前は酒田市民会館で開催する大会式典にご臨席され、午後は鶴岡市の鼠ケ関港での海上歓迎行事に参加し、稚魚を放流されます。
 12日は旧庄内藩士が開拓した鶴岡市の松ケ岡開墾場をご視察された後、鶴岡アートフォーラムで会食し、午後に帰京されます。
 なお、「山形県民の歌」は昭和天皇(当時は東宮殿下)が大正14年(1925)10月14日酒田へ行啓されたとき読まれた歌です。
 “広き野を 流れ行けども 最上川 海に入るまで 濁らざりけり

追記★2016.9/10放送 NHK民放各社ニュース 第36回全国豊かな海づくり大会~やまがた~ ご臨席される 天皇皇后両陛下がご来県★ https://youtu.be/L1pjxooRfwI 秋篠宮ご一家、遊佐町に私的な旅
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-00da-1.html

山形県民の歌は昭和天皇作詞
   http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-bbcb.html00000028umidukuri1

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2016年8月 4日 (木曜日)

懐かしい酒田の「三日月軒」中町店

 8月4日(木) フジテレビの「国分太一のおさんぽジャパン」が11:25~11:30 放送され山形県酒田市のラーメン店「三日月軒中町店に立ち寄っていました。Sakatamage_3
  このラーメン店は、酒田市内でも老舗のはずで、小生が始めてこの店に訪問しラーメンを食したのは昭和42年10月のことです。何故記憶しているかと言いますと、ある就職試験の一次試験の帰りに同じ試験を受けた高校の同級生数人と立ち寄ったからで、同級の一人から「美味いラーメン屋がある」と案内されたからでした。結局、このラーメン店に寄った5~6人からは、案内した同級と二人だけが一次を合格し、更に二次も通過した縁起のいいラーメン店になったのです。
 その後、成人してからも幾度か立ち寄ってはいるのですが、この00image_4店には駐車場がないことから、車で動くようになってからは縁遠くなってしまいました。
 それでも、長く気になっていた店です。
 国分太一が食したラーメンは、酒田を代表する魚出汁のスープのはずです。ここのところ、都合があって毎月数日は帰省しておりまして、先月は高砂町の三日月店に寄ったので、今月末に帰省する際は、久しぶりに「三日月軒」中町店に立ち寄ってみたいと思います。
 なお、酒田市の「三日月軒」は、中町店のほかに、東中の口店、駅東店、今町店、相生町店、高砂店があるはずです。どの店が一番古いのかや、のれん分けなのか、味の違いなどの情報は知りません。
 「中町店」は、住所:山形県酒田市中町2-4-7 電話:0234-22-2162
 この店以外は駐車場があったはずです。

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2015年2月 5日 (木曜日)

3B(ThreeBond)の理念を忘れるな!

 「スリーボンド」の鵜久森一郎元会長(67)が、税務調査を受け、2013年までの5年間で所得計約二十数億円の申告漏れを指摘されたことがニュースになった。5年間でこれだから、もっと遡ったら数倍の100億円程度は間違いないはずだ。

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 株式会社「スリーボンド」は、八王子市狭間町1456に本社を構え、日本国内に留まらず世界中に支店・支社を持つ優良企業と見ている。かつては八王子本社に知人が勤めていたが、今は酒田支社(酒田市本町1-2-52)に親戚が勤めるなど関心をもっていた。
 社名「スリーボンド」、3B(Three-Bond)の意味は、
Big Dream~大きな夢、■Big Think~大きな考え■Big Action~大きな行動
を実現する会社でありたいと.頭文字の「B」三つをとったという。
 また、創業理念も三つで、
■仕事を通じて愛を実現する。
■仕事を通じて人類社会に奉仕する。
■仕事を通じて魂の向上発展をはかる。
 さらに、創業者も3名でその3名の結束(Bond)という意味からも「Three-Bond」という社名にしたというから、結束⇒団結⇒接着などと企業の売り文句をイメージしたことが伺える。
 これには、創業者・鵜久森税氏の創業時の高い志が反映しているのであろう。
 創業者の鵜久森氏は昭和30年当時に江東区で、自動車から路上に垂れ落ちるオイルを見て「この油漏れを防ぐことができれば・・・・・・」と「東京スリーボンド」を自動車関連の接着剤で創業したが、今では、工業用シール剤・接着剤の分野では、国内では並ぶところがない超有名一流企業に成長した。
 この「スリーボンド」の元会長・鵜久森一郎元会長(67)が、東京国税局の税務調査を受け、2013年までの5年間で所得計約二十数億円の申告漏れを指摘された。
元会長は、海外居住と偽り日本で報酬を申告していなかったが、国税局は、同氏の渡航記録や滞在日数などから日本居住と認定したとされる。
 丁度、二年前には山形県酒田市にある「株式会社 庄内タイヤ」が脱税で摘発されたことがあったが、税金を払うも社会貢献の一つだ批判した。
 今回は酒田支社には関係ないと言うであろうが、利益の一部が会長に流れていることには間違いない。また、「スリーボンド」は非上場会社のようだが、このような会社は、オーナー一族が支配しているとみられ、国税局の目に留まったのでであろう。
 きっと、相続税対策から、今回のような脱税に走ったものとみられるが、創業理念はの三つは、社員や表向きのもので、
 ■仕事を通じて私腹を肥やす。
 
という第四の理念が裏にあったのであろう。
 それに、Big tax evasion大きな脱税を加えたら、「B4では社名と矛盾する。
 やはり、税金を払うことも大切な社会貢献であると、企業トップ自らのコンプライアンス(=遵法精神)の尊重が指摘される。

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