カテゴリー「09 遊佐町の関連情報」の85件の記事

2017年3月 5日 (日曜日)

アマハゲがユネスコ遺産登録候補

 日本全国津々浦々の村々では、神社・仏閣などを中心に、何らかの祭Image2_2礼や文化が息づいているものです。これは、日本が神代の昔から途切れることなく延々と続く証であり、その土地土地の誇りでもあると思います。
 さて、外務省と文化庁はユネスコ無形文化遺産に山形県遊佐町の「小正月行事(アマハゲ)」や「男鹿のナマハゲ」、「能登のアマメハギ」など全国8カ所の行事を「来訪神 仮面・仮装の神々」として推薦すると発表しました。
  遊佐のアマハゲは、女鹿、滝ノ浦、鳥崎の3集落で継承され、既に国指定重要無形民俗文化財に指定されています。実Image2は、「女鹿(めが)」には親戚がありまして、先月の帰省の際にも立ち寄って情報を得ていたことでしたので、嬉しく思っているはずです。
 なお次いでながらご紹介しますが、
 女鹿の北部には三崎公園がありますが、かつての戊申戦争当時の「三崎峠戊辰古戦場」でした。ここは、秋田と県境で官軍(亀田藩)と「庄内藩」の最後の戦いとなった場所です。1868年(慶應4年)7月13日~16日まで、亀田藩等官軍と三崎峠において戦闘が勃発し多数の戦死者を出しました。しかし、この三崎峠で戦死した庄内藩兵の遺体は、見せしめのために引き取ることを許されず長年放置されていたのです。そしてImage3、戊辰戦争から50年近く経った大正3年(1914)、ようやく遺骨収集が許されたのですが、4ダース入り大型ビール箱二つが満杯になったと聞きます。拾い集められた遺骨は、この地に埋葬され、この供養塔はその時建てられたものです。このような歴史から、長年、この辺りでは秋田県側とは険悪な状態だったのですが、近年ようやく仲直りの意味で秋田側と「綱引き大会」をやったそうです。
 また、女鹿地区の八幡神社と思いますが、の伝承もあると聞いています。この庄内平野辺りでは「黒川能」や「杉沢比山」が全国に知られていますが、実は戦後間もないころ、東京から大学教授が郷土芸能の発掘調査に最初に訪問したのが女鹿だったそうです。しかし、多忙な時期で女鹿では演じ手を集めることが出来なかったため、「黒川能」を紹介したことがキッカケで、全国的に広まったという裏話しがあります。
子どもの怠け心を戒める「アマハゲ」山形 NHKニュース
  https://youtu.be/QHCyddwnkTI

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2017年2月 1日 (水曜日)

遊佐町袋地から鳥海山を撮影

 先月1月22日(日)に「バナナマンのせっかくグルメ!!」で、バナナ000000ivqaeij1qマンの日村が遊佐町を訪問して、同町の話題を紹介していました。その番組の中で、遊佐町袋地にギャラリー&ティールーム「翠」を訪ねたことや、その近くの農業用水の溜め池がまだ残っていたことも気になりましたので、所用で帰省した1月29日(日)午前中に、池に映る「逆さ鳥海」の撮影を期待して袋地に向かいました。残念ながら、溜め池周辺は雪が深いうえに、氷が張っていて影鳥海の撮影は出来ませんでしたが、暫く立ち止まって鳥海山を眺めていると、昭和30年代にほぼ終わった「橇木山(そりぎやま)のことを思い出しました。
 「橇木山(そりぎやま)」とは、鳥海山の概ね2号目、3合目辺りの山麓から、毎日の煮炊きから暖房用の「薪」にする木を「橇(そり)」で降ろす作業でした。このImg_6969薪にする樹木は「ブナ科」の「クヌギ」「コナラ」などが殆で、この木の切り出しは、稲の収穫が終わった秋口に、それぞれの村々に指定された山で行っていました。
 そして、各家々で必要な分量を、長さ概ね1m50cm程度に切り倒して積んで置くのですが、当然、雪が積もれば隠れるから、積んだ木の上に長目の棒を差し、目印を付けて置き、そして翌年の鳥海山の天候が安定する1月下旬から2月上旬ころに、これを木の橇でなだらかな斜面を利用して降ろしていたのです。今は、電化やガスが利用され、薪で煮炊きすることは殆どないはずで、もし薪が必要なら道も整備されているし、多少の雪道でも4W車なら簡単に運ぶことが出来るのですから便利なものです。なお、この辺りは「白井新田地区」といい、江戸時代に庄内藩の「白井矢太夫」の指導により新田開発が始まり、岩野集落や藤井集落、金俣集落などが入植されたと聞いています。我が家の曽祖父も明治後期に新田開発を手伝ったそうです。
 「白井新田」の名称は勿論「白井矢太夫」の功績を讃えてのことでしょう。
橇木山(そりぎやま)の思い出: 多摩湖畔日誌

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2017年1月23日 (月曜日)

バナナマンの日村、遊佐町に登場

 1月22日(日)午後6:30~「バナナマンのせっかくグルメ!!」で遊佐町のことが紹介されていました。00banana_tbs
 月光川沿いの映画「おくりびと」の撮影ポイントからの鳥海山も、雲一つない青空をバックにして最高の状態でした。また、袋地にギャラリー&ティールーム「翠」が出来たことや、その近くの農業用水の溜め池がまだ残っていたことも確認しましたので、次回帰省の際は、池に映る鳥海山の撮影に向かいたいと思います。それに、畠中浩哉さん、英里さんご夫婦の自宅付近は見当がつかなかったのですが、いくら丼をタイミング良く準備できたことはラッキーでした。子供のころ、ご飯の白いところが見えないほど、タップリとイクラを乗せて遠慮なく食べたころを、懐かしく思い出しました。
■「今夜食べたくなってきた!! 」
山形県遊佐町の最高級食材に鈴木奈々が悶絶!? 1/22(日)
『バナナマンのせっかくグルメ !』【TBS】
  https://youtu.be/WFpzGOzcMhs

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2016年12月25日 (日曜日)

「新徴組」の女剣士・中澤琴のこと

 ようやく、「新徴組」に焦点を当てた劇が放送されますので紹介0000uaearrしたいと思います。
 新撰組の兄弟組織「新徴組」「に実在した女剣士・中澤琴のことですが、平成29年1月14日(土)[BSプレミアム]で午後9:00〜10:29に「花嵐の剣士~幕末を生きた女剣士・中澤琴~」が放送されます。
  中澤琴は沼田市利根町穴原出身(旧・利根郡穴原村)、身長は五尺六、七寸(170前後)、目鼻立ちよく面長で美人、男装して京へ上り、江戸市中見廻り、毛利、島津両屋敷の襲撃にも加わり、薩摩屋敷で左足を切られたこともあった。庄内戦でも奮闘し官軍十数人に囲まれたが二、三人を切り伏せ突破、幕末から明治、大正、昭和を生きた。生涯を独身で通し昭和2年10月12日、88歳没とあります。
  徳川幕府が弱体化した幕末期、これを助けるために山形県庄内(今の鶴岡)の志士・清河八郎が結成した「浪士組」を母体に「新撰組」と「新徴組」が誕生し、新徴組の大砲組を母体に「新整組」が編成されています。この「新撰組」は、京都守護職に就いた会津藩の元で活躍したことはご存じの通りですが、江戸市中取締に就いた庄内藩の元で働いたのが「新徴組」と「新整組」でした。幕末の風雲児「清河八郎(本名・齋藤元司)」は、映画や小説ではとかく悪役として登場しますが、司馬遼太郎氏は、「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた」と評価しています。
  今も親しみを込めて使われる「おまわりさん」の語源は「新徴組」からですが、
   酒井左衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡
  酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る
 からだそうです。
 なお、天皇皇后両陛下が今年9月12日、旧庄内藩士や「新徴組」が開拓した鶴岡市の松ケ岡開墾場を視察されましたが、このようなことからも注目されるきっかけになったのでしょう。
庄内藩預かり「新徴組」屯所: 多摩湖畔日誌
「新徴組」と山形県遊佐町の関係: 多摩湖畔日誌

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2016年11月18日 (金曜日)

全国で使われた「田植型」の発祥地

 山形県飽海郡遊佐町富岡の村外れに昭和3年建立の「田植型之碑」があります。
 JR羽越線の踏切から吹浦方向に向かって、約100メートル地点の右側です。Image8

 この石碑は、田植型を考案して農作業に大きな貢献をした石川治兵衛を称えた記念碑です。この石碑の前の通りは以前は県道でよく通った道でしたが、近所に中学校当時の先生が下宿していたお宅があり、見つからないように急いで通り過ぎていた懐かしい場所です。50数年経った今も、ついアクセルをふかしてしまいます。
 出来れば、写真入りの説明板があるといいですね。モッタイナイ話しです。
 以下は「庄内日報社」や「広報・月光川」からの記事からです。
http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp245.html
 石川治兵衛は嘉永5(1852)年、飽海郡富岡村前田(現・遊佐町)の農家に生まれ、若いころから農家経営を志し、常に農事改良に情熱を傾けた人である。Image3_2
 記録によると、明治初年以前の富岡周辺の田は、やっこ田(軟らかい田)という湿田で、明治15年ころには乾田に改良されたという。その後、明治24年には北野飽海郡長が馬耕術を奨励、福岡県より技術者・伊佐治八郎を招いて乾田馬耕の指導に当たらせている。こうした農事改良に目を開いた富岡の青壮年である石川治兵衛、後藤千代治、佐藤重吉、佐藤百治ら10名が改農社という農事改良グループを結成したのが明治26年のことである。田植えも明治の中期ごろまでは縄を張り、それを基本にするか、または型なしの見当植えで苦労の割に能率の上がらないものであった。その非能率に改農社の人たちが着目したのが田植型考案の端緒となった。その中で特に研究心の旺盛な石川治兵衛がいた。ある日、治兵衛が囲炉裏の灰に転んでいた糸巻き枠を見てふとアイデアが閃き、いろりの灰の上で糸巻き枠を転がしたところはっきり跡がついた。発明とは案外こうした身近なヒントから生まれるものかもしれない。やがて治兵衛を中心に改農社の人たちが知恵を絞って出来たのが田植型の原型である。だがこの型は小さい上に縦の線だけの簡単なものであった。治兵衛らはその後改良を加えた結果、縦横線ともできる大型田植型が完成している。そのころ仲間の中に専売特許という声もあったというが、金儲けのためではないと言って誰でも使えるようにしたという。こうしたことなども農事改良にかけた治兵衛の熱意が込められていたようである。
この田植型は田植え機が導入されるまでの長い間全国に普及し役立っている。

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2016年10月 1日 (土曜日)

偶然と言うだけでは説明できない

  昨日9月30日は、Aiphoneでニッポン放送を聞きながら多摩湖の000002_288堰堤を散歩していますと、はるか遠方にスカイツリーを観ることができました。しばし眺めていると、イヤホンから「この放送はスカイツリーから放送しています」と流れたのでした。「偶然もあるものだ」と思いつつ聞いていると、ニッポン放送の周波数に「FM 93.0MHz」が加わり、今日は9月30日は「ニッポン放送 HAPPYFM93の日」と語っていました。建築中のスカイツリーには、仕事で何度か立ち入ったことがあったのですが、一度は上まで登ってみようかと思いつつ帰宅するとと、何と元職場の仲間から懇親旅行でスカイツリーに行こうと誘いの連絡が入っていたのです。
 しかし、今回紹介したい「偶然?」は、この程度のことではありません。
 今年は春先から私ら夫婦の親が揃って介護の問題が発生し、毎月のように二・三泊で帰省しているので親戚・友人らと親交を深める機会も多くなっています。そんな折り、どうしても昔お世話になった女性の安否が気になり、訪問介護をしている妹に「どうしているか調べて欲しい」と依頼したのでした。さっそく、妹は依頼された翌日に訪問したご自宅で、「〇○村に親戚あるそうですね」と質問すると、偶然にも調べて欲しいと頼んだ人の家が親戚で、「その家には、叔母がこの家から嫁いでいるので、〇○さんは私の従姉妹です。」と返答されたから驚いたのでした。更に本当に驚いたのは、その直後、〇○さんの娘さんから「母の〇○は今朝、日本海病院で亡くなりました」という電話が入ったことでした。
 妹は背筋に、その時ぞくっと寒気が走ったそうですが、妹から電話連絡を受けた小生は「きっと、思いは何処かでつながっていた」ことを確信したのでした。
  亡くなる前日、日本海病院には義母を診療のため連れて行ったのですが、そこの待合室から妹に「次回、帰省したら〇○さんに挨拶に立ち寄りたいから調べて欲しい。」と連絡したのであり、その時間は〇○さんが危篤に陥り生死の境にあったのでしょう。
  ただただ申し訳なかったのは、帰京して直ぐの葬儀でもあり、本葬には妹に代理で出席してもらい、「〇○様には、幾多のご厚情をうけながら、ご恩返しもできず痛惜の念もひとしおです」と弔電を打たせて頂きました。今月末に帰省した際は、ご仏壇に手を合わせ墓参りも致し、せめてもの埋め合わせをする予定です。なお〇○さんは、小生が誕生当時から3歳頃まで子守りをして頂いた方であり、アルバムには両親より一緒に写っている写真が多いくらいです。遠い記憶には、屋敷の裏手に赤い鳥居と小さな祠があったなど、その方の家屋敷の様子などがうっすらと残っています。合掌

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2016年9月22日 (木曜日)

もって菊は美味いですねぇ

 先日、帰省して山形県遊佐町吹浦の道の駅「ふらっと」で、「もって菊」と2016_9_21_image0124_2呼ばれている食用菊を5袋も購入し、今、花びらとガクを切り離しているところです。朝摘みのようで鮮度も色合い良く、生産者が枝から花を一つひとつ切り離して、袋詰めする面倒を思うと、一袋120円ですから安いものです。
 9月21日の読売新聞に、食用菊の話題が記事になっていました。記事によると、生産量一番は愛知県、二番が山形県とありますが、食べる量はトップのはずです。また、生産地は山形県でも寒河江や山形市が多いそうですが、庄内平野でも全域で生産され、どこの家庭でも御浸しや天ぷら、酢の物などで食べられているはずです。
 東京に住む我が家では、両親が元気だった当時は、季節の山菜や野菜、果物は勿論、イギス海苔、サケの粕漬など、幼少時から食べ慣れた食材を年中送ってもらっていたのですが、親の高齢から最近は郷里の味から遠ざかっていたのです。
 ところが、今年になり、私ら夫婦の母親が共に老人ホーム生活となり、これを郷里の兄弟だけに任せておくわけImg_6598にも行かず、月に二泊か三泊で介護のお手伝いに帰省していることで、再び、近い親戚や友人宅、道の駅などに訪問しては、食材を車に満載して帰京しているのです。
 来月は下旬に帰省予定ですから、遊佐の升川で遡上したばかりの「ヨオ(鮭)」を手に入れたいものです。

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2016年6月 9日 (木曜日)

象潟出身の彫刻家・池田修三のこと

 我が家の玄関のニッチ(壁の凹み)の一つには、秋田県象潟 (現・にかほImg_6184_2)出身の彫刻家・池田修三の「鳥海残雪」と「雪っ子」の写真(レプリカ)が飾ってあります。池田修三に関して特に詳しい訳ではありませんが、数年前、山形県遊佐町に帰省した際に、象潟に縁がある方から「最近有名になった人だよ」と頂いたものです。鳥海山は山形側と秋田側ではイメージが全く違うのですが、頂きものであり妥協して飾っています。
 先日、東大和市立野4-515 の森永乳業(株)東京多摩工場の見学にお邪魔しますと、説明会場の入り口付近に、池田修三の作品「湿原の響き」が掲示してありました。
  池田修三と言えば、NTTや日本生命などの企業カレンダー、テレホンカードなどに作品が多く採用されているそうで、2004年(平成16)年に82歳で死去するまで、情緒あふれる子供たちの情景や癒し系の作品を多く創り続けた方と伺っています。Photo
 森永乳業の案内の方数人に誰ともなく、「なかなかセンスのいい絵を飾っていますね」と問いかけましたが、絵の由来や作者を誰もご存じありませんでした。お断りして写真を撮らせて頂きましたが、蛍光灯やフラッシュの光が入りいい出来でありません。
 絵の右隅には「湿原の響き」と記載してあり、良く見ると湿原に良く咲く黄色い花「ニッコウキスゲ」のようです。スケッチした場所は「尾瀬沼」辺りと見受けました。2q482
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2015年12月11日 (金曜日)

話題の「米油」の発祥は三重県桑名

 「米油」の発祥は三重県桑名とお知らせする前に、遠く離れた桑名と山形県遊佐Image3町との関係をお知らせしたいと思います。
 山形県遊佐町蕨岡上寺の「莊照居成 (そうしょういなり)神社」は、江戸町南町奉行矢部駿河守を祀っています。神社名は庄内を照らすという意ですが若干の前置きが必要のはずです。
 遊佐町の恩人「南町奉行・矢部定謙」: 多摩湖畔日誌
 矢部駿河守は天保12年(1841年)徳川幕府ごり押しの「三方領地替え」を裁くことになりますが、これも説明が必要でしょう。
 庄内→長岡→川越→庄内の関係: 多摩湖畔日誌
 この三方領地替え事件に、矢部駿河守は幕府の圧力に反しても公平な裁きを下すものの、老中水野忠邦の怒りにふれ伊勢桑名藩松平家に幽閉されます。そして幽閉中、断食で抗議しつつ55歳で逝去しますが、この国替えの撤回によって荘内藩は助けられたのです。天保14(1843)年、水野は批判を浴びて失脚し、矢部の冤罪は晴らされ矢部家は再興されます。桑名市稗田の桑名藩の庇護を受けていた薬師堂「現・薬王寺」に矢部駿河守定謙は罪人として葬られますが、恩を忘れない庄内の人々により遊佐町蕨岡上寺に1840年「莊照居成神社」を建立しています。特筆すべきは、当時は罪人だった矢部駿河守には墓石も無かったのに、昭和39年(1964)作家・松本清張氏らの尽力で墓跡の碑が建立さKome_1500れています。長い前置きですが、「米油」が誕生する140年も前に幕府を揺るがした事件が、庄内遊佐郷そして伊勢桑名を巻き込んであったことと、今も交流が続いていることをお知らせしたかったのです。
 そして「米油」のことですが、元禄12年(1699年)、桑名の油屋が紙の上に落ちた糠が油のしみを作ったのを見て、油を絞ることを思い付きます。ただ、米油は100gから14gしかとれず大量生産出来ないことが残念だそうです。また、「米油」は血管の若返り以外に、「油酔い」の現象が起きにくいとも言われています。
 今年3月、「主治医が見つかる診療所」で血管の若返りに「米油」が効果があると紹介されて以来、桑名の生産元には注文が殺到しているそうです。
 山形県天童市の「三和油脂(株)」が、山形県産「つや姫」の米糠から、圧搾物理精製法で作っていますが、米どころ遊佐町でも「こめ油」の生産を検討して欲しいものです。勿論、精製技術の修得と、それなりの初期投資は必要でしょうが、きっと、ヒットするはずです。Image3_2

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2015年7月19日 (日曜日)

秋篠宮ご一家、遊佐町に私的な旅

 所用で18日遊佐に帰省したところ、秋篠宮ご一家の動きに偶然出合わせました。
 よくぞ辺鄙なところに陽を当てられるように、ご訪問させられたと感慨深く思っております。
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 悠仁さまの夏休み…見事な太鼓演奏に拍手も
 読売新聞 7月18日 19時5分配信
 秋篠宮ご夫妻と「杉沢比山」を鑑賞し、使われた太鼓を楽しまれる悠仁さま(18日午後2時10分、山形県遊佐町で)=代表撮影
 秋篠宮ご夫妻と長男悠仁(ひさひと)さま(8)は18日、夏休みの家族旅行で山形県を訪問された。鳥海山(2236メートル)の麓にある遊佐町の神社で、鎌倉時代の頃から伝承される神楽「杉沢比山(ひやま)」(国の重要無形民俗文化財)を観覧された。
 終了後、保存会のメンバーが二つの太鼓を使って曲の一節を披露。続いて秋篠宮さまが挑戦されたが、うまく演奏できず、悠仁さまが「そうじゃないよ」と代わって見事に演奏して、拍手が起きる場面もあった。その後、鳥海山の伏流水が湧き出る町内の牛渡(うしわたり)川のほとりを散策。案内役から、湧水のため水温が低いという説明を聞いた悠仁さまは、川に手を入れて「冷たい」と確かめられていた。ご一家は同県に数日間滞在される。最終更新: 7月18日 19時5分0000820

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