カテゴリー「14 庄内・三川町の関連情報」の4件の記事

2010年1月13日 (水曜日)

吉泉秀男氏TVタックル出演

 「ビートたけしのTVタックル」は、毎週月曜日、朝日系列の政治を題材にしたTakeshitv討論バラエティ番組だが、1月11日(月)は3時間スペシャルで、このまま 民主党に任せてホントに大丈夫なのか。全国の庶民代表がスタジオ集結、出口の見えない生活不安とだらしない政治に喝を入れる。として放送されていた。
 いつものように、喧々諤々(けんけんがくがく)の内容であったが、山形県の吉泉秀男氏も社民党代表で出演し頑張っていたものの、今ひとつ説得力がなかった。
 本人もブログで、「 久しぶりに夜家族で夕食 7時からTVタックルを見る。他の出演者は役者が一枚も上、今度はしっかり対応しなければならない。特に民主党、自民党2大政党を意識した番組であるし、しっかり割り込み主張する為の間取りなど勉強していく。必ず再度出演していく。」と反省の弁。

 吉泉秀男氏、は余目町(現、庄内町)出身、 昭和23年7月28日生、社民党の新人、県立酒田商業高校を卒業後、余目町役場に採用。97年に山形県議に初当選し3期務めた。
  http://www.hideo-y.org/profile.html
 同氏は、昨年の衆議院議員総選挙で社民党、民主党、国民新党、連合山形、地元後援会などの支援を受け、政権交代を訴えた運動を展開し当選した。
 この地域からは、長年、社会党の阿部昭吾議員(一條村、現在酒田市出身)が当選していたが、1996年落選以降政界を引退している。吉泉氏は、比例区ながらその支持層を受け継ぐ形で当選したものと見られる。

■「連合山形」は
 自動車総連、電機連合、UIゼンセン同盟、情報労連、TT労組山形分会、JAM山形、電力総連、基幹労連、私鉄総連、JR総連、交通労連、サービス流通連合、JEC連合、東ソー・クォーツ労組、運輸労連 、フード連合 、全自交労連、JR連合、紙パ連合、NHK労連、全国ガス、政労連、雇用・能力開発機構労組山形支部、合同労連、全労金、全国一般、労済労連、自治労、高教組、JPU、森林労連、国公総連、全郵政、障教組、全水道、国交職組、県教組などで組織されている。

社会民主党の国会議員は
 現在、衆議院議員7名、参議院議員5名の計12名である。主な支援組織は「全国労働組合連絡協議会(全労協)」、「日本労働組合総連合会(連合)」だ。 
衆議院議員
小選挙区 辻元清美(大阪10区) 重野安正(大分2区)
      照屋寛徳(沖縄2区) 
比例区 吉泉秀男(東北) 阿部知子(南関東) 服部良一(近畿)
     中島隆利(九州)
参議院議員
選挙区 近藤正道(新潟) 
比例区 福島瑞穂、渕上貞雄、又市征治、山内徳信

極左と社民党の関係
 日本赤軍最高幹部・重信房子容疑者から、警視庁公安部などが押収した資料の中に、「社民を軸に政治的影響力を強化する。」といった社民党を取り込み、国内の政治工作を進めることを記述した文書があったことが明らかになった。という。

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2010年1月 6日 (水曜日)

坂本龍馬と清川八郎

 「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた
 と言い切ったのは、作家・司馬遼太郎氏だ。Kiyokawa

 幕末を描く上で、庄内出身の清川八郎(本名・斎藤元司)のことは欠くこと の出来ない人物だ。
 しかしながら、新選組など幕末を題材にした小説や映画では、どうしても悪役として描かれがちで、嫌いだと言う方が多いようだが、それは大きな誤りであり、認識不足だと言いたい。

 清川八郎、その存在の大きさを看破しているのが、冒頭の司馬遼太郎氏の「幕末は清河八郎が幕を開け、坂本龍馬が閉じた。」と言う言葉だと思っている。Sakamotoryoma
 これは仮定の話だが、清川八郎が郷里の山形・庄内で眠っていたら、明治の夜明けは間違いなく数十年は遅れていたと断言できる。

 さて、幕末の志士、坂本龍馬の人生を、同郷で幼なじみだった三菱財閥の創始者、岩崎弥太郎の視点から描いたNHK大河ドラマ「龍馬伝」が1月3日からスタートした。
 龍馬を演じる福山雅治(40)も、岩崎弥太郎役の香川照之(44)も、第1話「上士と下士」の頃は17・8歳頃であろう。年齢的にやや無理に見えたが、それでも体当たりの演技は今後の展開を期待する内容だった。Iwasakil
 
 また、「竜馬がゆく」の中にも、清河八郎と坂本龍馬の場面があったが、 「龍馬伝」では、どのように描写するのであろうか。
 なお、清川八郎は佐々木只三郎らによって暗殺されたが、この佐々木只三郎は坂本龍馬暗殺グループの一人といわれている。これも何かの縁だ。

 清河八郎(享年34歳)は、浪士隊が結成された伝通院に眠っている。http://www.navishonai.jp/hachiro/zukan/saitoke.html

Photo_5

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2009年12月18日 (金曜日)

西立川駅は「雨のスティション」

 当時は立川市内で仕事をしていたので、JR西立川駅の公園口に松任谷由実(ユーミン)Photoの「雨のスティション」の歌碑が設置されたことは知っていた。
 この碑は、平成14年10月30日の設置で、立川ロータリークラブの、中山賢二氏(なかやま不動産)と坂村英之氏(玉川保育園)の発案だ。
 二人は松任谷由実さんの父親・荒井末男氏(八王子市八日町の荒井呉服店、2006.2/14死去)にお願いし、歌碑設置を進めたという。
 歌詞自体に西立川駅の固有名詞はないが、ユーミンのエッセイ集P1000442ルージュの伝言」に、
「秋とか、冬とかだと、まだ真っ暗じゃない。霧がすこし深いわけ。信 号の色で街じゅうが変わっちゃうのよね。信号が変わるたびに街が赤 になったり、青になったり。アスファルトがぬれていて。だからグルーミーな景色というのがとっても好きなの。『雨のステイション』というのは、雨といってもザアザア雨じゃなくて、霧雨というか、シトシト雨で、西立川のお話なのねNisi_tachikawa
と、作詞した少女当時の揺れ動く心情を語っている。

 ユーミンは、立川市に米軍基地があった頃、基地内にあった「スピード」というディスコで朝まで遊んだ帰り、シトシト雨の西立川駅で始発を待つ 自分自身の心情を詩にしたものだそうだ。ユーミンの歌には、中央フリーウェイなど、多摩地区をイメージさせるものが多い。ユーミンは音楽による自己表現の天才と思う。男で並ぶのは、サザンオールスターズの桑田佳祐だろう。

■参考情報Photo
① 歌碑には「雨のスティション」の歌詞が刻まれ、JR西立川駅の発車メロディも「雨のステイション」だ。なお、発案者の中山賢二氏も坂村英之氏も立川ロータリークラブ会長職に就いた。

② 立川ロータリークラブは、山形県立川町(現・庄内町立川ロータリークラブと地名が同じことから交流がある。
 合併し町名も変わったので、どうなったか気にしていたが、毎年、数名ずつ行ったり来たりして交流は続いているという。
 「11月26日(木)には東京立川RC会長の岡部直士さん、会長エレクトの豊泉幸夫さん、50周年記念実行副委員長の清水千春さん、式典幹事の木村辰幸さんの4名がご来訪されました。来年3月26日開催される東京立川RC創立50周年式典の御案内でありました。」とあった。

③ユーミンの実家は、
 八王子市八日町9−8 荒井呉服店 042-625-5291
        

雨のステイション」荒井由実 1954年1月19日生まれ
  新しい誰かのために
  わたしなど 思い出さないで
  声にさえもならなかった あのひと言を
  季節は運んでく 時の彼方
  六月は蒼く煙って
  なにもかもにじませている

  雨のステイション
  会える気がして
  いくつ人影見送っただろう

  霧深い町の通りを
  かすめ飛ぶつばめが好きよ
  心 縛るものをすててかけてゆきたい
  なつかしい腕の中 今すぐにも
  六月は蒼く煙って
  なにもかもにじませている

  雨のステイション
  会える気がして
  いくつ人影見送っただろう
  雨のステイション
  会える気がして
  いくつ人影見送っただろう

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2009年10月31日 (土曜日)

庄内地方の義経伝説

 期待されながも夭折した人物を応援したい心情からか、日本人は義経のような人物に強く惹かれるところがある。平泉に落ち延びる経路であった庄内地方には、至る所に義経伝説が残り、語り継がれている。

伝説第一話
 「念珠関(ねずがせき)」では、義経一行は羽黒山の山伏姿になり、弁慶は義経には二つの笈を負わせて、後ろから「歩けや法師」と杖で打ちすえて、関所を通ることができたと言われる。昭和40年頃、ドラマ「源義経」の放映を記念し、原作者村上元三の筆による「源義経ゆかりの浜」という碑を「鼠ヶ関」に建立している。(史実と思う
伝説第二話
源義経一行が庄内町清川に立ち寄り、御諸皇子神社(ごしょのうじじんじゃ) で一夜を明かした。その時、御諸皇子神社に奉納されたという義経の笛や弁慶の祈願文が今でも残されている。幕末に活躍した清川八郎の祖母は余目の宮曽根村・佐藤市郎左右衛門の出で、この家は義経四天王の一人佐藤継信の子孫だという。(史実と思う
伝説第三話
  酒田市本楯には「新田目城」(あらだめ)があるが、ここにも義経一行がPhoto立ち寄り、太刀一振りを献上したという伝説が残る。この太刀は今もあるが、それを証明する古文書は戦後まもなく失火で消失したという。義経の当時、「新田目城」 は東北では、多賀城と並ぶ規模の大きい城であり、義経一行が挨拶を兼ねて立ち寄ったことも想像は出来る。あるいは、新田目城側から挨拶に出向いたことも考えられる。
 ただ、先を急ぐ一行は清川辺りから最上川を舟で遡ったとの伝説の方が自然に思われる。(本楯の人は残念だろうが、疑問が残る
伝説第四話Mompe1
 遊佐町の月光川(がっこうがわ)に架かる、映画「おくりびと」が撮影された「朝日橋」から、約一キロ上流の右岸あたりに、「もんぺはげ」と呼ばれる崖が ある。この崖は、遠くから見ると「もんぺ」のような形で、崖の地肌が見えることから「モンペはげ」と呼んでいた。この崖は弁慶が滑り降りたときに出来たという伝説がある。(そう聞かされたが、作り話だろう
 この「モンペはげ」前の月光川の河原では、よく「芋煮会」をやったものだが、最近では、朝日橋の辺りが指定の場所のようだ。

庄内地方の義経伝説は、ほかには、
■田川の豪族・田川太郎の子供の病気をなおした。
■鶴岡の大梵寺に立ち寄った。
■北の方の産月間近なので羽黒山に弁慶を代参させた。
■清川八郎の生家・斎藤治兵衛の家に迎えて数日歓待した。
そして、文治三年(1187年)、義経一行は最上川を遡行して奥州平泉にたどり着いたという。

地図の中央付近が「モンペはげ」と呼ばれる付近

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