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2017年3月25日 (土曜日)

昭和天皇「海に入るまで濁らざりけり」

  『廣き野を  ながれゆけども 最上川 うみに入るまで   にごらざりけり』Photo
 この歌は、昭和天皇が17歳の皇太子当時、大正14年(1918年)10月14日に山形県酒田市に行啓された際に、庄内平野を悠々と流れる最上川の情景を詠まれた和歌(御製歌)を、昭和57年3月31日、「山形県民の心を歌ったものだ」と受け止めて「山形県民の歌」に制定されました。
 その後、昭和22年8月15日、今度は天皇として酒田市に行幸され、再び日和山に立たれました。このとき、上山市出身の斎藤茂吉が短歌について御進講され、茂吉が「海に入るまで濁らざりけり」の表現に、「実際は(最上川は)降雨が続いたりすると、物凄い流れに変わり、濁流滔々として天より来るの趣がある」と講じると、陛下は少し顔を引き締められたようだっというエピソードがあります。つまり、「海に入るまで濁らさりけり」は申しまでもなく比喩的表現であり、昭和天皇は、最上川の流れを自分の人生に例え、「崩御のその日まで濁らずにいたい」と決意したものと受け止めています。
  昭和22年8月15日と言えば、その2年前の「終戦の詔勅(現代文)」で、
 「宣戦した理由も、実に帝国の独立自存と東アジア全域の安定とを希求したものであって海外に出て他国の主権を奪い領土を侵略するがごときは元より余の志すところではない。--中略---敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、幾度も罪なき民を殺傷し、。--中略---この上、なお交戦を続けるであろうか。遂には、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、更には人類文明そのものを破滅させるに違いない。」
 と呼び掛けられました。Photo_2
 つまり昭和天皇は、濁りも偽りもない言葉で、「白人から植民地にされた東アジア全域の安定を希求したものでも侵略の意思などない。しかし、敵国は国際法違反の原子爆弾を使用しては人類の滅亡させるに違いない」、だから仕方なく負けたことにすると語った想いと重ねております。
 しかし、未だに日本は侵略国家の汚名を着せられ、それを日本人の多くも厚く着込んでいますが、開戦を決意した昭和天皇が自らが侵略を否定していることを確認したいものです。昭和天皇が、開戦目的としたアジアの植民地解放は、終戦まで既に7か国を独立させ、その後も、日本が現地国民に武器を与え訓練指導した独立軍が、再び植民地を奪いに戻った白人軍と、互角以上に戦いを続けました。昭和天皇が崩御された後も、東ティモールが2002年(平成14年)2002年5月20日に独立して、アジア地域は全て独立を勝ち得ています。これらから、プロイセンの将軍クラウゼヴィッツが、「戦争に勝った敗けたかは、戦争目的を達成したかどうかによって決まる」と「戦争論」にある言葉と共に、昭和天皇の「開戦の詔勅」と「終戦の詔勅」にある偽りない言葉を思い出しています。

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