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2016年11月18日 (金曜日)

全国で使われた「田植型」の発祥地

 山形県飽海郡遊佐町富岡の村外れに昭和3年建立の「田植型之碑」があります。
 JR羽越線の踏切から吹浦方向に向かって、約100メートル地点の右側です。Image8

 この石碑は、田植型を考案して農作業に大きな貢献をした石川治兵衛を称えた記念碑です。この石碑の前の通りは以前は県道でよく通った道でしたが、近所に中学校当時の先生が下宿していたお宅があり、見つからないように急いで通り過ぎていた懐かしい場所です。50数年経った今も、ついアクセルをふかしてしまいます。
 出来れば、写真入りの説明板があるといいですね。モッタイナイ話しです。
 以下は「庄内日報社」や「広報・月光川」からの記事からです。
http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp245.html
 石川治兵衛は嘉永5(1852)年、飽海郡富岡村前田(現・遊佐町)の農家に生まれ、若いころから農家経営を志し、常に農事改良に情熱を傾けた人である。Image3_2
 記録によると、明治初年以前の富岡周辺の田は、やっこ田(軟らかい田)という湿田で、明治15年ころには乾田に改良されたという。その後、明治24年には北野飽海郡長が馬耕術を奨励、福岡県より技術者・伊佐治八郎を招いて乾田馬耕の指導に当たらせている。こうした農事改良に目を開いた富岡の青壮年である石川治兵衛、後藤千代治、佐藤重吉、佐藤百治ら10名が改農社という農事改良グループを結成したのが明治26年のことである。田植えも明治の中期ごろまでは縄を張り、それを基本にするか、または型なしの見当植えで苦労の割に能率の上がらないものであった。その非能率に改農社の人たちが着目したのが田植型考案の端緒となった。その中で特に研究心の旺盛な石川治兵衛がいた。ある日、治兵衛が囲炉裏の灰に転んでいた糸巻き枠を見てふとアイデアが閃き、いろりの灰の上で糸巻き枠を転がしたところはっきり跡がついた。発明とは案外こうした身近なヒントから生まれるものかもしれない。やがて治兵衛を中心に改農社の人たちが知恵を絞って出来たのが田植型の原型である。だがこの型は小さい上に縦の線だけの簡単なものであった。治兵衛らはその後改良を加えた結果、縦横線ともできる大型田植型が完成している。そのころ仲間の中に専売特許という声もあったというが、金儲けのためではないと言って誰でも使えるようにしたという。こうしたことなども農事改良にかけた治兵衛の熱意が込められていたようである。
この田植型は田植え機が導入されるまでの長い間全国に普及し役立っている。

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