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2015年1月20日 (火曜日)

金科玉条?「表現・報道の自由」

 アジアを歴訪中のローマ教皇フランシスが、「表現の自由には限度がある0000002l」とコメントし、人が大切にしているものを侮辱するなど、際限ない「表現の自由」に一石を投じた。
 民主主義社会では、政治上の意思決定は最終的には国民に委ねられる。この意思決定の前提として、十分な情報提供と議論が必要であり、それには表現・報道の自由は必要不可欠とされる。つまり、「表現・報道の自由」は民主主義の根幹として崇められているのだが、絶対的な「金科玉条」の如く融通のきかないものなのか。
 常に驚くのは、新聞・テレビなどマスコミ関係者の「表現・報道の自由」を盾にした傲慢さだ。正しいことだと主張するときは、他人に押し付けるのではなく、常に控えめに遠慮がちに語れと言うではないか。
 さて、パリの風刺週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件に関連し、世界中で「表現の自由はどこまで許されるか」という議論が高まっている。
 ローマ教皇フランシスが「表現の自由」に対して、
 「暴力的に振る舞ってはいけないのは当然だ。しかし良い友人であったとしても、あなたがもし、私の母親に対して呪われた言葉を言ったとしたら、あなたにはパンチが飛んでくるかもしれない」
 と至極真っ当なコメントしたという。
 この他にも、
 「私は宗教の自由と、表現の自由は両方とも人間の基本的な権利だと考えています。全ての人が自由と権利を持っているだけでなく、多くの人に有益なことをいう義務がある」
 「(特定の宗教を)挑発したり、他の人の信仰を侮辱したり、また他の人の信仰をからかうことはできない。表現の自由には、限度がある」
 「私たちの歴史を考えましょう。どのくらい多くの宗教戦争を人類は経験したのか。たとえ犯罪者であっても、神の名の下に人を殺してはいけない。これは正道を外れている」
 などのコメントを拾うことが出来る。
 「言論・表現の自由」とは、人が大切にしているものを侮辱しても、傷つけてもいい、そんなに立派で便利な権利なのかと疑問に思っている。

「表現の自由」に限界はないのか。: 多摩湖畔日誌

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