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2014年12月23日 (火曜日)

「ねずきち」さんに感謝したい。

 今日の「天皇誕生日」によせて、天皇陛下は、先の戦争で300万人を超える人々が犠牲になったことに、「その人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課せられた義務であり、後に来る時代への責任である」とのお考えを示された。
 さて、昨日22日は、人気ブログ「ねずさんのひとりごと 」を書いている、ねずさんこと小名木善行=小名木伸太郎さんが、ユーチューブで語っていたことをご紹介した。
 「ねずさんのブログはこちら」→http://nezu621.blog7.fc2.com/  
 常に日本の素晴らしさを広めている方で、ブログの内容は右に出る人はいないと思われるほど素晴らしい。
 あらためて同氏のブログをチェックしていると0000s_011
 山形県遊佐町出身・渋谷惣作著の「ビアク島からの生還」を元にして、2012年03月27日「ビアク島の玉砕戦 」と題して配信されていることを知った。数年前、わけあって配信を中止したが、明日から原文を再度、このブログ上でご紹介したいと思っている。
 天皇陛下の「残された私どもに課せられた義務・・・・・・」という重い言葉が胸に刺さった。
 
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ビアク島の玉砕戦
   http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1467.html#more
 ビアク島の玉砕戦について書いてみようと思います。
 ビアク島の戦いは、後に「北のアッツ島(戦死2,638名、生還27名)、南のビアク島(戦死12,347名、生還86名)」と称された壮絶な玉砕戦です。
はじめに、東京新聞に以前掲載された記事をご紹介します。
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【友思い涙「証人」の孤独】東京新聞 社会部 加古陽治
平成17年10月2日記事
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/P_25_shinbun_kigi/shinbun_kigi.htm
病院の廊下の億で、車椅子の老いた男は何度も泣いた。
そのたびに顔がくしゃくしゃになった。0000000sousaku_kigi
昭和19(1944)年5月、米軍の上陸で激しい戦闘の舞台となったインドネシア・ビアク島。
一万二千余の日本兵の命を呑み込んだこの「死の島」から奇跡の生還を果たした元陸軍兵長、渋谷惣作(山形県遊佐町)にこの夏、会った。
その体験を語る口調は訥々(とつとつ)としている。
だが戦友の悲惨な死にふれるたびに、顔をゆがめて泣くのだった。
「渋谷、水くみに行こう」
昭和19年5月27日、歩兵第222連隊工兵中隊(盛岡編成)の一員としてビアク島に渡った渋谷は、夜明け前、戦友に誘われボスネック地区の洞窟(どうくつ)を出た。
沖合に浮かぶヤーベン島が見えないほどの大艦隊が海を覆っていた。
「どれが大和かな」・・味方と思ったら、号砲が鳴った。
「敵襲!」
大声で叫び、洞窟に戻った。
艦砲射撃が鎮まると米兵が大挙して上陸。午後になると洞窟の近くにきた。
「ニッポンヘイタイいるか」
なまりのある声で米軍の通訳が呼んだ。
「はい、おります」
ひとりがそう応じ、出て行こうとした。
「やれ」
すかさず小隊長が部下に命じ、仲間に帯剣で刺された兵士は絶命した。
しばらくすると、洞窟にドラム缶が投げ込まれ、火を放たれた。
「中は真っ赤で・・・。とてもとても・・・。もうぜんぜん分からない。意識をなくして、倒れたところが川だった。それで息ができた」
ゴーゴーと火が燃えさかる。
しばらくして意識を取り戻した渋谷は叫んだ。
「この川の水に顔つけれ。息継ぎが楽だぞ」
いまも忘れない、おいしい水だった。
水だけで過ごし、三日目に外に出た。
野戦病院で一服し、大洞窟にある司令部に合流した。
整備した滑走路は、米軍の手に落ちていた。
渋谷たちの任務は、それを使わせないための肉弾攻撃。
歩兵も工兵もなく突撃させられ、そのたびに十人、二十人と死んで行った。
「いよいよ、今日は俺の番だかのって思うだけ・・・」
七月にはいると、支隊長葛目直幸中将が自決し、島での組織的戦闘は終わった。
それで渋谷らは、死に場所を求めるように戦い続けた。
同月末、工兵中隊の残存兵で米軍の車列に最後の攻撃を仕掛け、渋谷ら9人だけが生き残った。
あとはただ、生きるための戦いだった。
トカゲやネズミがごちそうだった。
人肉を食べた者すらいたという。
屈強だった若者は、そこまで追いつめられていた。
(※ねずきち注:あとに引用しますが渋谷さん本人の手記には、この人肉食のことを明確に否定した文章があります。おそらくここは記者か編集部が筆を走らせたものだろうと思います)
部隊はバラバラ。極限の飢餓状態。
食料を盗もうと、三人で米軍施設に近づいたとき、地雷にやられた。
ひとりはほぼ即死。
同郷で親しかった一等兵の粕谷博も虫の息だった。
「おれと一緒に帰るぞ」
「うん」
「おめえ、(遊佐町)藤崎のどの辺や」
「学校から三軒目や」
それが最後の会話になった。
夢の中で二人の爪を噛み切り、軍票につつむ。
戦友の死の証だった。
気がつくと近くに白い子犬がいる。
ついて行くと畑に出た。
夢かうつつか、小さなトマトが鈴なりになっている。
「博が助けてくれた」
そう思い、夢中で食べた。
■ ■ ■
昭和19(1944)年10月、渋谷は米軍の捕虜になり、命を永らえた。
工兵中隊254人のうち、生き残ったのは三人だけだった。
だが彼には戦後、新たな闘いが待っていた。
あれだけ過酷な戦場に身を置いたのに、軍歴が少し足りないからと恩給ももらえない。
あまりにも悲惨な体験談を、地元の人たちは疑いの目で見た。
渋谷の脳裏には、いろり端の光景が刻まれている。
「村の人が逃げて帰ってきたと後ろ指をさす」
「戦友と一緒に死ねば良かった」
「おれはビアクでえ何人も殺しているし、死ぬのは怖くない」
何度もそんな場面が繰り返された。
「いま思えば戦争後遺症だった」と家族はいう。
「誰も信じてくれねえ」
渋谷は戦場の記憶を封印した。
家族と戦友だけが例外だった。
今年(平成17年)7月、久しぶりに記憶の糸をたどってくれた渋谷は、最後に吐き捨てるようにつぶやいた。
「もう戦争には行かない」
約一ヶ月後の8月18日、21世紀までひとり人生を生き抜いた工兵中隊「最後の証人」は、83年の生涯を閉じた。
戦友に61年遅れの死だった。
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ビアク(Biak)島は、インドネシア、パプア・ニューギニアの北西部に位置する小さな島です。
大東亜戦争当時、日本はこの島に飛行場を建設しました。
昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦に敗れた日本にとって、この島は、絶対的国防圏保持のために阿南惟幾大将をして「航空母艦10隻に相当する」といわしめたほどの重要拠点でした。
ビアク島に派遣されたのは、支那北部で転戦し、連戦連勝を挙げていた陸軍歩兵第222連隊(秘連隊長葛目直幸大佐)の3,815名を中心としたビアク支隊です。
海軍からも第28根拠地隊(司令官千田貞敏少将)率いる約1,947名が派遣されました。
この島には陸海合わせて、計12,433名の守備隊が派遣されましたが、戦闘員は陸海合わせて4,500名だけで、残りは飛行場の建設や、その他の作業集団でした。
冒頭にご紹介した新聞記事の渋谷惣作(しぶやそうさく)さんは、陸軍の工兵隊員として、この戦いに参加された方です。
お生まれは大正11(1922)年、山形県遊佐町野沢のご出身です。
氏は、15歳で大工の見習いに出られ、昭和17(1942)年12月、20歳で徴兵を受け、岩手県盛岡市の「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、250名の仲間たちとともに配属になったのだそうです。
渋谷さんの回顧録には、当時を振り返って次の文章があります。
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当時、徴兵期間は20歳から約2年間で、日本国男子として生を受けた者の義務として誰もが、その任期を全うすることを当然と受け止め、誇りとしていた。
兵役を終えて始めて一人前の男として認められるような風潮が、国民の間に定着していた。
~~~~~~~
徴兵に出ることを誇りとしていた当時の気分が伺えます。
このあたり、韓国での徴兵が嫌で日本人になりすます昨今の在日韓国人とはずいぶん違います。
昭和18年12月25日、日本の1万2000名はビアク島に上陸しました。
そして約4ヶ月をかけて島を整備し、飛行場を建設しました。
渋谷さんの手記には、飛行場が完成した日のことが書かれています。
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全部隊を完成したばかりの飛行場に集め、葛目部隊長から訓辞があった。 
「この編成を以て米英に当たるならば、米英ごときは一蹴である」
と繰り返し、爛々と輝く目で語った様子を今も脳裏に焼き付いている。
第222連隊1万2千有余の将兵は、心ひとつになっていた。
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明るい南の島の太陽のもと、完成した飛行場を前に、葛目連隊長と支隊のみんなの汗にまみれた喜びと決意の笑顔が目に浮かぶようです。
けれど出来たばかりのその飛行場に、米軍のロッキード戦闘機が飛来します。
昭和19年4月中頃のことです。
米戦闘機は、二度にわたって機銃掃射を行い、またたくまに作業中の兵士30余名が亡くなります。
そしてこの日を境に、米軍が島に上陸する5月27日までの40日間、米軍機は毎日やってきました。
それも一日3回、判で押したようにやってくる。
飛来するのは、毎回40機前です。
そして毎回、爆弾を落として行きました。
投下された爆弾は、40日間で約2万発に及びます。
島のいたるところが穴だらけになり、美しかった海岸線のヤシの木々もことごとく爆弾によってなぎ倒されてしまう。
みんなで作った飛行場も穴だらけにされてしまう。
穴だらけでは、飛行場が使い物になりません。
ですから米軍機が去ると、みんなでスコップで穴を埋めました。
土方仕事の中で、何が辛いといって、この穴埋め、穴掘り作業ほど辛いものはないのですね。
腰や腕に負担がかかる。
しかも作業は危険と隣り合わせです。
また米軍が爆撃にやってくる。
滑走路には遮蔽物がないのです。
爆風による戦死者も後を絶たない。

重労働でくたくたになり、弱った体に、さらにマラリアが襲いかかります。
こうして、米軍が上陸するまでの40日間に、渋谷さんの工兵中隊では四分の一が既に戦死してしまわれていたそうです。
そして5月24日、警戒中の哨戒機から無電がはいりました。
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空母二隻を含む、連合艦隊がビアク島方向に進行中、数日中に到着の予定
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島では、全員が戦闘配備につきます。
そして運命の5月27日がやってきました。
午前4時、沖合の艦隊から、猛烈な艦砲射撃が始まりました。
間断なく撃ち込まれる艦砲射撃は、約8時間続き、地上にあるすべてを破壊しつくします。
そして昼から、揚陸艇や水陸両用戦車で次々と上陸してきました。
上陸した米軍は、揚陸艇から降りるとすぐに、陸に向けてめちゃくちゃに機関銃を撃ってきます。
後ろから続く上陸部隊を守るためにです。
まさに物量にものをいわせた作戦です。
港に近い洞窟には、戦車を先頭にやってくる。
洞窟に向かって、まず日本語の通訳が「日本兵いるか」と声をかけます。
洞窟内部に日本兵がいようがいまいが、次の米軍の行動は変りません。
洞窟にガソリンのたっぷりはいったドラム缶を投げ入れる。
火炎放射器でこれを爆発させ、洞窟内を焼き払う。
さらに後方から戦車で砲弾を洞窟内に撃ち込む。
洞窟内に入って来て戦果を確認、ということはしません。
その必要がないほど、徹底的に焼き払い、砲弾で吹き飛ばしたのです。
これによって海岸線付近の洞窟に陣取った守備隊は、ほぼ壊滅してしまいます。
後方の洞窟にいたビアク支隊は、それでも飛行場を守ろうと、くりかえし肉弾突撃を敢行しました。
けれど米軍は、櫓(やぐら)を組んだ上から機関銃で掃射を浴びせ、その都度、日本側は死傷者を増やします。
6月27日には、ビアク支隊が本拠にしていた西洞窟も米軍に制圧されました。
7月2日、葛目支隊長が自決されます。
この時点で、残存人員は1,600名余りとなったビアク支隊は、おのおのジャングルに散り、敵と出会えば交戦するというゲリラ線に突入しました。
米軍は、日中活動します。
敗走する日本軍を見つけるためです。
島中を探しまわった。
日本は、昼は山中に隠れます。
そして、夜だけ行動した。
上の新聞記事に、そのときの様子として次の文章があります。
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あとはただ、生きるための戦いだった。トカゲやネズミがごちそうだった。
人肉を食べた者すらいたという。
屈強だった若者は、そこまで追いつめられていた。
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この記述は、おそらく記者か編集者が、故意に筆を走らせたものでしょう。
渋谷さんご自身の手記には、人肉食など「していない」と明確に書かれています。
原文そのままでご紹介します。
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昭和19年7月23日、私は満22歳の誕生日をビアク島のジャングルの中で迎えた。
既に戦火は止んでいたが、米軍は敗走する日本軍を見つけるため、明るい内は島内をくまなく捜し回っていた。
我々は昼は山中に隠れ、夜だけ行動した。

ここで私達が、何を食料にしていたかを説明しておく。
ビアク島には、野生の椰子の実やマンゴー、サンゴヤシの新芽、バナナの根(大根のような味)等が、季節に関係なく植生しており、これらを手当たりに食べた。

甘いものばかり食べると、無性に塩分を欲した。
海水は島周辺にいくらあっても、海岸線は何処も敵がテントを張っていて昼間は行くことが出来なかったが、夜、暗闇にまぎれて海に出て海水を飲んだ。

水筒にも海水を入れておいた。
海岸には、敵味方の腐乱した遺体が無造作に散乱し、その近くには無数の魚貝が集まっていた。

つまり、遺体は魚貝のえさになっていたのである。
しかし、背に腹は代えられず暗闇に紛れて浜辺に出て、種々の貝を捕り、よく食したが、決まって下痢をした。
出来れば、焼くか煮て食べたいところだったが、火を使うことは出来なかった。
煙が立ち敵に発見されるおそれがあったのだ。
戦友らの名誉のために付け加えておくが、帰国後、特に帰還兵は飢餓に耐えられず、戦友の人肉を食した等の批評をされたことがあったが、そのようなこと、あり得ないことである。
当時の我々軍人に、そのような発想は生まれもしないし、また、南国の気候は、遺体を1日もしないうちに腐敗させていたのだ。
(中略)
この島には私が見た限りでは猿が一番大きな動物であり、人を襲う猛禽類はいなかったことが幸いした。
派手な色彩の極楽鳥は良く見かけ、食べ物にしたかったが、とても捕まえられるものではなかった。
島内のいたるところに激しい戦いの跡が残っていた。
散乱する戦友の屍辺りには、血なまぐさい空気が漂っていた。南国の暑さで腐敗も早く、既に白骨と化したものも多い。
そっと手を合わせつつ、明日の我が身の姿を想像した。
~~~~~~~~
渋谷さんが手記で明確に否定し、また他のインタビューでもやはり否定している「人肉食」について、なぜ東京新聞の記者が冒頭の記事で「食べた」と記述したのかは不明です。
ただひとついえることは、このビアフの戦いに限らず、どの戦地にあっても、飢えとマラリアと敵弾の恐怖が続く毎日の中にあってさえ、日本人には戦友の肉を食うなどということは、その発想も行動も、皆無だったということです。
だからこそ、多くの将兵が飢え死にしたのです。
出征前、体重60キロあった渋谷さんは、捕虜になって体力を回復させ、帰国した時点で体重が38キロに減っていたそうです。
捕虜になり、医療を施され、食事面でもそれなりの待遇を与えられた後でさえ、その体重だったのです。
ジャングルで徘徊していたときには、もっと痩せ細っていたことでしょう。
そこまで追い込まれながら、人としての誇りや尊厳を失わない。
そして戦友の遺体を見かけたら、そっと手を合わせる。
それが私たち日本人です。
渋谷さんの体験記に、上の文に続けて、ちょっとスピリチュアルな出来事が書かれています。
感動的なお話なのでご紹介します。
渋谷さんは、このとき、千葉さん、粕谷さんと三人で行動しています。
ほとんど幽鬼のような姿です。
腹が減ってどうにもならない。
そこで三人は、米軍の建設した発電所に、パンを盗みに入ります。
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そのとき粕谷が草むらに敷設した地雷の線にひっ掛かったのである。
粕谷の直ぐ近くで一瞬青白い煙が「ボッー」と上がった。
私は「地雷」と叫んで伏せたが、立って逃げた二人のすぐ後で「ドカーン」と爆発した。
千葉幸一は即死。
粕谷博は虫の息だった。
最期まで行動を共にした「千葉幸一」
私は粕谷の頭を膝に抱き、「粕谷頑張れ、藤崎に一緒に帰ろう。頑張れ。」と何度も繰り返したが、首を縦に振り頷くが言葉に成らない。
腹部貫通と大腿部盲貫の重傷である。
どうすることも出来ず30分程で死んだ。
粕谷博の実家は、山形県遊佐町上藤崎、私の実家の野沢から約6キロの村だった。
私は二人を並べて寝かし、草を被せた。
とうとう一人ぼっちになった。
爆発音で敵が様子を見に来る恐れがあったが、直ぐには立ち去りがたかった。
草を分けては二人の顔を何度も見た。祖国に帰り、やりたいことが一杯あったであろう。
幾度も激しい砲弾をくぐり抜け、飢えや寂しさと戦いこれまで生きた延びた二人とは、是非、一緒に帰還したかった。
良き戦友として、生涯の付き合いになったであろう。
一人になった私は、どうすれば良いか分からなかった。
私も自決しようと思った。
そう思うと親、兄弟、親戚のこと、恋しい人のこと、次から次へと浮かび、直ぐには決心が付かないまま浅い眠りに入った。
うとうとしては目が覚め、又、死ぬぞと思った。隣には粕谷と千葉の亡骸があった。
一緒にここで眠るのが自然と思えた。
このまま生き延びるより死ぬ方がずっと楽であり簡単に思えた。
しかし、じっと二人を見ていると、二人は「生きて帰えろ、郷里にこのことを伝えてくれ、お前しかいないじゃないか。」と言った。
言ったように聞こえた。
夢か現実(うつつ)か分からない妄想の一夜は続いた。
小鳥のさえずりで目が覚めた。朝日が昇りジャングルに命の息吹がまた蘇った。
いつに無く、草木も動物も生き生きして見えた。
今度は、何としても生きて祖国に帰り、この惨状を伝える必要があると決意した。
私は、二人の亡骸に近寄り、二人の小指の爪をかじり取り、軍票(軍が発行した紙幣)に包んだ。
「俺は必ず生きて帰り、この惨状を祖国に伝えよう」と決意し立ち上がった。
その時である。
スピッチに似た白い小犬が50メートル程先を走っているではないか。
「この辺りに部落でもあるのか」と思い、その方に歩いた。
犬は山の木立をぬって走る。犬が見えなくなった所まで行くと、又、犬の尻尾が見えた。
こんなことを幾度も繰り返し、何日犬の案内で歩いたか分からないが、広い原っぱに出た。
そこは軍属が自活のために作った農場だった。
小さなトマトが鈴なりに実を付けていた。
夢中で食べた。
食べながら辺りを見渡すと小さな小屋があった。恐る恐る近付くと人が居た。 
一瞬びっくり、相手もびっくり、お互いに日本兵と分かると笑顔になった。
「何中隊だ」と尋ねる。
「歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵だ」と名乗った。
私も同様に名乗った。
初めて出遭った二人は、これ迄の出来事を色々語り合った。
苦しみは分かち合うことで半減するというが、今の二人はそれであった。
「俺達は、何処に養子に出ても勤まるな」等と久々に笑いが出た。
又「どんなに肉体的苦しみには耐えることが出来ても、孤独には耐えられないことが分かった」等と話し合った。
同じ苦しみを知る友を得た喜びに、勇気百倍の心境であった。
それから、泉田源吉上等兵(岩手県鳥海村出身)とは捕虜になるまでの約1か月間行動を共にした。
二人は疲れ果てやせ衰えていた。
ただ若さが持つ生命力だけを頼りに生きていた。
それにしても、あの「白い犬」はどうしたのだろう。
以来見かけることはなかったが、私は今でもあの「白い犬」は粕谷達の化身だったと信じている。
~~~~~~~~~
渋谷さんは、そのあと泉田さんとともに米軍に捕まり、療養を受け、一年半後、日本に復員し、実家に帰ります。
そこで、マラリアの熱が出た。
~~~~~~~~
家に帰り、気持ちが緩んだのか翌日に少し熱が出た。
三日熱マラリアである。
熱が上がり悪寒が激しく、震える病気である。
妹達が付きっきりで看病したらしく、気が付いたら二人とも枕元にいた。
余りの熱と上言に驚いたのは親達で、
「せっかく帰って来たのに、ここで死なれては可愛そうだ」と言いながら「村上医者」を呼んだそうだ。
40度の高熱が続き顔は真っ赤になっていたという。
三日熱マラリアという病名のとおり、3日も経ったら熱も下がり平常になった。
油汗を流し上言まで言っていた病気が嘘のように治った。
祖母が声を掛けて来た。
「お前はずいぶん上言を言ってたが、粕谷って何処の人だ」と言う。
「そうだったのか」と思った。0271_2
粕谷博は、最後まで一緒にジャングルを共にしたが、最期は目の前で地雷で戦死している。
私の生還の陰には、戦友の死という切ない事実があり、どのように粕谷の実家に報告しようかと、ずうーと悩んでいたことだった。
それが上言になったのであろう。
あの時、発電所に行き地雷に触れることが無かったら、一緒に郷里に帰り、本当の兄弟のように付き合えた男だった。
「俺だけ帰って来た。」等と、どうして粕谷の実家に行けよう。
しかし、祖父母に「早く行った方がいい、だんだん行きにくくなる」と諭され、妹二人に引かせたリヤカーに乗り、約6キ口離れた上藤崎の粕谷の家に向かった。
せめて、戦死した際、持参軍票に包んだ小指の爪を遺品として持参したかったが、捕虜になったとき、所持品は全て没収されてしまっていた。
粕谷の両親に、事の次第を話した。
きっと息子の生還を期待していたろうに、私に最期の様子を聞いて、きっと無念だったに違いない。
しかし、額きながらも気強く話しを聞いてくれた。粕谷の母が「不思議なことがあります」と教えてくれた。
「4月7日夜は、障子の戸がサラサラ音がし、なぜか博が帰って来るような気がした」、
「ついさっきは、玄関で「オー」と博の声がしたので玄関を見たが誰も居なかった。
驚かすつもりで隠れていると思い、玄関に出て『博、博』 と呼んだ」と言う。
これらの出来事は、日にちと言い、その時間といい、私が上言で粕谷の名前を呼んでいた時間であり、又、私がリヤカーで粕谷の家に向かっている時間である。

思えば、山中で虫の息の粕谷を抱き「お前は藤崎だな、一緒に帰るぞ」と何度も叫んだ。
粕谷はただ首を縦に振るだけだったが、私に自決を思い止まらせ、以来、その魂は私に付いて来て守り通してくれたのだと思った。
そう言えばあの時の「白い犬」は粕谷の化身だったのか。
鈴なりのトマト畑に私を案内し、泉田源吉上等兵と出会わせたことも、みんな粕谷の御霊のなしたものだった。と私は信じている。
~~~~~~~~~
渋谷さんの手記は、いま、ネットで全文をお読みいただくことができます。
少し長いですが、ご興味のおありの方は、是非、ご一読ください。

【ビアク島からの生還】
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/index.htm
ビアク島で日本軍が建設した飛行場は、米軍に占領され、約3倍の長さの巨大飛行場に生まれ変わりました。
そして「モクメル飛行場」と改名され、その後オーストラリア空軍に移管されています。他の戦線と同様、ビアク島でも、いまだ多くのご遺骨が放置されたままとなっています。
民間の遺骨収集団の努力により、これまでに回収されたご遺骨は約1000柱です。
島には、まだまだ多くの私たちの同胞の御柱が眠っています。
映画「凛として愛」で、故・泉水監督が語られた言葉が蘇ります。
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戦争に負けたのは仕方がない。だが
日本人は戦いに敗れても誠実さが必要だった。
日本という国に、祖国に尽くした幾百万の英霊に、幾千万の先人に
愛をこめて感謝を捧げるべきであった。
…が、果たせなかった。
多くの日本人が裏切った。
戦勝国による一方的な東京裁判が開かれる中で、
戦後の荒廃した日本に、赤旗がなびき、社会主義思想が広まり、
戦勝国による一方的な裁判が開かれる中で、
日本の近代史は偽りに満ちた悪意のもとに
大きく書き替えられていった。

私たちの国には
明治維新以来
幾度かの困難に敢然と立ち向かった
日本民族の不屈の歴史があります。
たった一つしかない命を国家に
同胞に捧げた凛とした真実の歴史があります。
六十数年前、日本はアメリカを始め世界百十数国を相手に大戦争をした。
しかし、その戦争は、国家国民の安全と平和を護るため、アジアの安定を築くため、世界の平和を請い願ったものであることに間違いなかった。
戦場に出ていった将兵は、みな、同じ考えであり、力の限り、彼らは戦った。
だが、こと志しと違い、戦いに敗れたことで日本の掲げた理想は実ることはなかった。
日本は敗れたままでいる。
平和を享受する現代日本から遠く離れた異国には、未だ収拾されない将兵の遺骨が山野に埋もれている。
いつになったら日本は、戦いに散った将兵を暖かく迎えてくれるのだろうか… 。
全国民が祈りを捧げてくれるのだろうか。
靖國神社に祀られる246万6千余柱の英霊は、未だ侵略戦争の汚名を着せられたままでいる。
かつて、南方の島々で戦った日本軍に援軍は来なかった。
ならば、今から援軍を送る。日本を変える援軍を送る。
あなた方の真実を、痛みを私たちは伝えていきます。

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