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2014年12月24日 (水曜日)

「ビアク島からの生還」序文・前書・入隊

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊~
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_4

 この戦争記録「ビアク島からの生還 」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長渋谷惣作の実録です。
 今回は「序文・1:まえがき・2:入隊そして出征・3:北支より南方へ・4:輸送船団
  地獄のニューギニア戦線・ビアク島
   
序文
 太平洋戦争における最大の激戦地と言われる、現在はインドネシア領「ニューギニア・ビアク島(Biak_New-Guinea)に一兵卒として派遣され生還した、山形県遊佐町野沢出身の「渋谷惣作」の戦争体験記です。Kokubo_ken
 ビアク島戦は「絶対国防圏の天王山」と位置づけられ、ミッドウェー戦やガダルカナル島戦以降劣勢に回った日本軍が起死回生を図るため、当時、装備・兵の士気ともに日本軍最強師団と言われた、青森、岩手、秋田、山形県の東北健児で編成された陸軍36師団(師団長・田上八郎中将、参謀長・今田新太郎少将)・歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)3,815名を中心に、海軍陸戦隊1,947名、後方支援部隊約7千2百名を合わせ、約1万3千名の守備隊が派遣されました。 
 222連隊のビアク島上陸は昭和18年12月25日、そして、米軍第41歩兵師団約3万名がビアク島に上陸を開始した日は、5か月後の昭和19年5月27日(海軍記念日)の早朝のことでした。陸軍最強を誇る222連隊の善戦により、飛行場占領の予定が大幅に遅れた米軍は、第34歩兵連隊を追加投入、第41歩兵師団長ホレース・ヒュラー少将を解任し、第1軍団長アイケルバーガー中将が直接作戦指揮を執ったと言う。この不撤退の米軍に対し、222連隊等の将兵は応援の無きまま約1か月間、ビアク島を死守すべく勇敢に戦いましたが、88名(0.6パーセント)を残し全滅しています。Newimage_top_map_5
 後に、「北のアッツ島、(戦死2,638名、生還27名)、南のビアク島」と評され、壮絶な玉砕の島として、それぞれ戦史に名を残していますが、本土から食料、弾薬等の補給を絶たれた日本軍の南海の孤島での戦闘が、いかに激しく厳しいものであったかは、この生き残りの数字が裏づけています。生還された方々も、年々減少している今日、「記録を残すことは、生き残った者の使命と思い、生き恥を忍んで記録します。」と、思い出される限りの、戦友や上官の名前を上げて当時の様子を克明に語っています。  尚、著者が所属していた「第222連隊・第一大隊・第二中隊「工兵中隊」(当時230名余)からは3名生還していますが、親交深かったお二人も鬼籍に入られ、工兵中隊が全滅していく様子を知る者は只一人となっております。(著者は平成18年死去) 
 日本軍がニューギニア島を、南太平洋戦域の重要拠点にすべく進攻を開始したのは、昭和17年3月頃であった。当時、この辺りの島々には、オランダやイギリスの部隊が僅かに駐屯していたが、日本軍は時の勢いに乗じ、戦闘を交えることなく、これら駐屯部隊をハエを追い払うように、次々と占領していった。
 更に、マノクワリには二ユーギニア軍政府が設置され、民間産業団体による資源調査隊も送り込まれていた。
 日本国は、この島を南太平洋戦線の重要拠点にすべく計画していたのである。
 私が属する、当時、装備・兵の士気ともに、日本軍最強といわれた陸軍歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)3,815名を中心とする約1万余名が、ニューギニア島北部のチェンドラワシ湾に浮かぶビアク島に増援部隊として派遣されたのは、昭和18年12月25日のことであった。 

1 まえがき  
 ビアク島の守備は、我々、歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)に加えて、海軍第28根拠地隊約2千名(司令官・千田貞敏)の、計約1万2千800名で、万全の備えと大本営は判断していた。
 だが、連合軍も黙ってはいなかった。Map_21
 昭和18年2月、ソロモン地域のガダルカナル島を反抗の拠点とした米軍は、まず、ブーゲンビル、ラバウルを陥落させ、昭和18年9月には、ニューギニア島フィンシュハーフィンに米軍が上陸、昭和19年3月にはポーランジアに、更に昭和19年4月にはアイタペに上陸を許し、徐々にビアク島に迫って来たのであった。
 そして、昭和19年4月17日から、ポーランディアを拠点にしてビアク島に連日空爆を行った後、同年5月27日、米軍第41歩兵師団等が、数万名の兵力でビアク島上陸を敢行したのである。我々守備隊も、夜襲と突撃を繰り返し、米軍を未曾有の苦戦に陥れる健闘をしたが、米軍をはじめとする連合軍の後から後から追加支援される圧倒的物量戦の前に、全滅(80名生存、生存率0.6パーセント)したのである。
 なお、葛目直幸連隊長は昭和19年7月2日自決、
 奇跡的に生きている我々も、殆どが負傷又は食糧不足で衰弱しており、望郷の念は強くとも撤退する術も無く、ただ情ない姿でジャングルを逃げ惑うだけの部隊となった。
 後は生恥を晒すも、死ぬも運命だった。  
 後に記録で知ったことであるが、我々が「第四航空軍」のために造ったビアクの飛行場は、この方面の制空権確保上、極めて重要だったと見え、大本営も南方基地では唯一奪回を試みた島であった。これを「渾作戦」(こんさくせん)と称し、風雲迫るビアク島救援のため、増援部隊送り込み作戦が何度か敢行されていた。
 なお、この作戦は、この後に続く「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)と連動しており、国家の存亡をかけた極めて重要な作戦であった。
 第一次・第二次作戦は失敗、そして第三次作戦は、当時の最強戦艦「大和」「武蔵」が率いる大艦隊による増援部隊の輸送作戦だった。しかし、作戦敢行中、連合軍がサイパンに上陸したとの報に、大本営はサイパン重視と判断、全艦隊をUターンさせサイパン救援を命じたのであった。
 つまりビアク島、いや我々は祖国に見放なされ、あとは悲壮な絶望的状況下で、死を待つだけの部隊となったのである。 
 私は絶海の孤島で、極限状態に置かれた人間の行動と心理、特に生への執着、望郷の思い等を恥を忍んで赤裸々に述べるとともに、戦友・上官らの最期の様子等を、記憶の限りここに記述しておく。
 戦後60年を経た今日、命長らえている者の使命と思いつつ・・・・・・・・・・
2 入隊そして出征0000s_011
  大正11年7月23日生まれの私は、昭和17年7月で二十歳(はたち)の誕生日を迎えた。 
 当時私は、15歳から大工職の弟子として、札幌の大工棟梁の伯父方(母の妹の嫁ぎ先)で修行中であったが、一旦、郷里の山形県遊佐町野沢に帰省し、徴兵検査にも甲種合格し、入隊の日を待っていた。 
 この当時、徴兵期間は20歳から約2年間で、日本国男子として生を受けた者の義務として誰もが、その任期を全うすることを当然と受け止め、誇りとしていた。又、この兵役を終えて始めて一人前の男として認められるような風潮が、国民の間に定着していた。
 昭和16年12月8日、真珠湾奇襲によって勃発した、太平洋戦争に対する国民の認識は甘く、私が入隊する頃の新聞等で伝えられる戦況は、勝利に継ぐ勝利であり、押せ押せの必勝ムードであった。
 後に、戦況が不利に転じたと言われる昭和17年6月のミッドウエー海戦を始め、昭和17年8月にはじまるガタルカナル島戦等、南方各地の日本軍の戦いも、新聞やラジオでは、「敵に甚大な損害を与えた」と伝え、神国日本の勝利は間違いなく、今年中にも米軍は降伏するであろうと楽観視していた。
 当時の国民には、正確な情報、厳しい戦況は全く伝えられていなかったのだ。    
 私の周囲の戦争感覚も、「戦地に行くことはいい経験になる。お国のために手柄を立てて来い。」等と、軽い感覚で日常の話題にしていた。その根底には、「日本は絶対に負けることはない」という潜在意識があったからと思う。
 我々の世代は、そのような教育を受けて育っていた。 
 入隊する時も、家族からは「初年兵が直ぐに戦地に行くことはないだろう」等と言われ、私もちょっと出かける程度の、軽い気持ちで実家を出発した。
 野沢の村はずれ(現在・バス停付近)では、親戚一同や村人面々の歓送行事が催され、「お国のために頑張って参ります。」などと慣れない挨拶をさせられ、遊佐駅まで単独で歩いて向かった。
 1942年、昭和17年11月30日のことであった。 
 岩手県盛岡市に所在する「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、我々初年兵250名が入隊したのは、昭和17年12月1日朝8時であった。
 薄暗くどんよりとした空に、冬の北風が冷たく頬をよぎった。早速、皺だらけの軍服に硬い軍靴を支給され、格好だけは陸軍軍人に仕上げられた。
 戦地・北支から派遣された教官は、高八掛(たかはっけ)少尉、藤原准尉、菅野軍曹、近藤軍曹の4名であった。
 まず教官を囲んで記念写真を撮り終えると、これからの軍隊生活の注意・指示を受けた後、営庭や練兵場、内務班等に案内された。
お客さん扱いはその日だけであった。
 翌日からは、軍人勅諭の座学、軍事教練や敬礼の仕方、掃除、洗濯、食事当番など、朝から寝るまで目の回る忙しい日が続いた。
 初年兵の中には、秋田県出身の相撲力士十両の「清風」という人もいた(後に二ユーギニアで戦死)。P_001
 あっという間に一週間が過ぎた。
 夕方の点呼で、「明日、正午戦地に発つ、全員、今夜中に準備するように」と教官から命令を受けたのである。この俄の命令に皆、言葉にならない忙しさで出発準備を開始した。
 消灯まで出来ない者には初めて教官のビンタが飛んだ。
 わずか一週間の訓練で、戦地に向かう戦友の面相は語るに語れないものがあった。誰もが家族との面会は勿論、手紙を書く余裕もなく、盛岡駅から臨時列車で出発した。
 車窓に映る街並みもいつしか東京、大阪、広島と過ぎ去り、一路、北九州・下関を目指しているが、車内の兵士は皆口数が少ない。
 胸に去来するのは両親や兄弟か、それとも好きな人のことか。
 心細さと不安だけの二十歳の旅立ちであった。       
 列車は二昼夜かけて下関に到着、その日の夜には下関港から出航する。たいして大きくもない船に押し込められ、皆座ることも出来ない。前の者は、後の者の膝に座る等折り重なるように押し込まれ、5~6時間も波に揺られて釜山港に着いた。更に、休む暇もなく列車に乗り込むと、教官達は、「ここはもう戦場だ」と態度を一変させ、我々初年兵に緊張感を与えた。
 列車の中は軍隊生活一色となり、教範を勉強したり、言葉も軍隊語となった。
 教官達も何が気に入らないのか、遠慮なくビンタが飛んだ。
 そして、いつしか列車は、満州に入いり、更に三韓を越えて北支に入り、山西省太原を過ぎ、心縣、楡次を経由し、路安の柴防村に駐屯した。
 野戦であり、どこへ行っても宿舎はテント張りであった。
3 北支より南方へ
 
昭和18年1月頃と思う。
 私は、第一大隊・第二中隊(中隊長佐藤長平中尉、福島県国見町出身)第三小隊の教育班に配属された。
 第三教育班は15名の班だった。
三か月の教育期間も終わり、全員一等兵に昇進した。昇進して間もなく「十八春太行作戦(じゅうはっしゅん・たこうさくせん)」に出動することになった。路城作戦、佛山のP_hokusi_1_2戦闘など、山西省の八路軍(中国共産党が抗日のため創設したうち、華北主力の軍)討伐の戦いで二か月間も掛かった戦闘であった。
 昭和18年4月頃であった。
 北支の梅雨は早く毎日のように雨に打たれた。雨が10日も続いたために「定史村(ていしそん)」の橋が流された。我々工兵隊木工班は、その橋掛け作業に従事する。昼夜の連続作業で、命綱を頼りに濁流と闘いながら働いた。
 ちなみに、軍隊における工兵隊の任務は、交通、築城、架橋、爆破、兵舎造り等々と広く、戦場においては、歩兵・砲兵そして工兵は地上戦の最低限の組み合わせとされた。 
 特に、工兵は特殊技術を要する集団であり、“戦場の技術者”と呼ばれた。
 日本陸軍の歌「工兵」では、
P_hasi 「道なき方に道を付け、敵の鉄道撃ち毀ち、雨と散り来る弾丸を、身にあびながら橋かけて、我が軍わたす工兵の、功労何にか譬ふべき」と歌われた。
 私は、15歳から5年間、札幌の叔父方で大工職の弟子入りをしており、「工兵隊の木工班」10名のうちの一人として、その技術は最大限に発揮する必要があった。
 10名のうち、大工経験者は8名であった。
 その頃、我々に南方行きの報が流された。
 しかし、南方のどの辺りに派遣されるのか我々一兵卒は全くわからなかった。
 昭和18年2月、ガダルカナル島を完全に手中にした米軍は、この島を反攻の拠点とし、マッカーサー大将(後に元帥)の陸軍と、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将(後に元帥)率いる海軍が二手に分かれて侵攻が開始された。
 マッカーサーは、ブーゲンビルからフィリピン方向に、一方のニミッツはマキン島、タラワ島、サイパン、硫黄島へと飛び石作戦で兵力を北上させ、制空権、制海権を伸張しつつ、大々的反攻を繰り返し、日本本土攻撃を目指したのである。
 米軍は、この侵攻作戦を車の両輪にたとえて「カートホイール作戦」と呼んでいた。 
 なお、この陸海両総司令官の二人三脚はそのまま終戦まで続いた。
 メンツの主張や縄張り争いが多かったという帝国陸海軍と違い、米陸海軍の息はぴったり合っていた。 
 さて、昭和17年4月18日「連合艦隊司令長官・山本五十六大将」の戦死後は益々その勢いを増し、ニューギニア、ソロモン地区の占領地域では、連行軍の猛攻撃に敢え無く次々と奪回され、日本軍は玉砕・敗走を重ねていたのである。
 大本営は、昭和18年9月30日「今後採ルヘキ戦争ノ指導ノ大綱」(絶対国防圏構想)を設定し、その防衛圏維持のため、既に満州等に配置されていた部隊を、南方に転用する方針が決定していた。
 この方針により、猛部隊として勇名を馳せた関東軍をはじめ、我々が所属する第36師団に南方派遣の白羽の矢が放たれたのである。
 第36師団3個連隊は、
 青森・岩手・秋田・山形の東北4県出身者を中心に編成され、「朴訥で粘り強い性格でありながら、戦闘においては勇猛果敢、困難に耐える強靭さを持つ、日本軍最強の師団」等と、今となっては、少しも有り難く無い評価を受けていた。
 事実、私が参加した幾多の戦闘においても連戦連勝、不敗を誇り、敵陣にもその名を轟かせていた。
 因みに、36師団は、
◎歩兵222連隊「弘前編成、秘匿名・雪3523部隊、連隊長・葛目直幸大佐」3815名
◎歩兵223連隊「秋田編成、秘匿名・雪3524部隊、連隊長・吉野直靖大佐」
◎歩兵224連隊「山形編成、秘匿名・雪3525部隊、連隊長・松山宗右衛門大佐」
の3個連隊であった。
 いよいよ、南方行きの日がやって来た。
 山西省を馬糞の臭いが残る貨物列車で転々と南下する。食事時は大変な込み合いで、各地区の兵站分より配られる飯盒を両手に、食事当番は忙しい。馬糞臭い貨車の中の食事は、戦地だからこそ辛抱出来たことである。
 南京、上海、砲台、北ウースン(上海呉松)と各地を転々としながら江湾港に着いたのは、昭和18年12月に入っていた。すぐにも、通称名「雪師団」軍属合わせて5・6万の大兵団は、江湾港で数十隻の輸送船に分乗する。
 そして、護衛の駆逐艦等とともに一路南方目指して、太平洋の荒波に乗り出して行った。
 翌日夕方に台湾高雄に入港し、停泊すること二泊。入港と同時に港近くの銭湯に行った。久しぶりの風呂に皆生き返った顔付きであった。
 その後、パジー海峡を4・5日かかって、フィリピン島マニラに入港した。
 マニラでは一週間も停泊し、更に南下し、フィリピン島中部のセブ島に停泊し、我々工兵隊木工班10人が上陸した。目的は、南方に着いてから兵舎作りの参考にするため、島民の住居等を何軒か見学させて貰う。
 木工班10名のうち、大工経験者は8名だった。  
 戦地ではどこに行っても、なにかと建築作業が伴い、大工経験者はいろなん面で重宝がられたものだ。見学を終えると直ぐ乗船し、更に南下を続け、着いて分かったがミンダオ島であった。
 半日位して又出発。昭和18年12月21日、最後に補給のため立ち寄った島はハルマヘラ島だった。補給を終えると再び南下を続けたが、ここまで来ても、何処へ行くのか我々一兵卒には一切知らされていなかった。
4  輸送船団 
 いよいよ、最前線の危険地帯に入ったことは、廻りの空気で読み取れた。
 空からは哨戒機が絶えず周辺海域を警戒し続けていた。一発の魚雷で幾万の戦友が死ぬかも知れない命懸けの船旅である。事実、当時の輸送船団の幾つかは、魚雷攻撃や空爆により目的地に到着することなく全滅していた。
 戦況が悪化した昭和19年代にはその頻度を増し、若い兵士達が全く戦わずして、海の藻屑と消え去ったのである。  
 その同胞は、幾十万名を数えたであろう。
 現在の平和時、時折起こる災害や事故による犠牲者の比ではない。
 桁が違う。ここで、当時の船団の様子を説明する。
 第36師団、通称「雪部隊」は、軍属合わせて5・6万の大兵団である。これをニューギニア方面の増強部隊として一度に輸送するのであるから、それはそれは大変な船団である。兵員を乗せた輸送船約十数隻、食糧に武器弾薬等を積んだ貨物船数隻に、護衛として駆逐艦一隻、掃海艇二隻を含め、ざっと数えただけで30隻を越す船団に加え、空からは、哨戒機2機に護られて、南方海域をひた走るのであるから一見勇壮たるものである。
 しかし、視線を輸送船内に戻せば、兵隊の扱いは酷いものであった。
 「第一に軍馬、第二に物資、第三に兵隊」と言われ、兵隊は物資や馬より下に扱われていたのである。当然、私が乗っている輸送船も物資を満載した上に、定員の5倍以上も乗せており、狭い船内は足の踏み場もないほど兵隊で溢れていた。畳一枚に4~5人当たりが押し込められ、精々座るのがやっとで、船酔いする者も多く、あちらこちらで吐いている者もいて船内は異様な臭いがした。さらに、南方に向かうに連れ気温が上がり、船内は蒸し風呂のような最悪の環境になり、不衛生極まりなく、否応なしに我々の体力を消耗させていた。
 食事をするにも大小便するにも大変な苦労であったが、それでも皆「これも、お国のためだ」と割り切った。 もっとも、一兵卒が文句を言えるような時代ではなかった。私は、輸送船団の中央を行く「健和丸」という名の輸送船に乗っていた。
 5千トン位の当時にすれば相当大きな船で、葛目部隊長も乗船していた。
 船団は、魚雷による被害を最小限にするため、決して一列にはならなかった。船舳を右に左に変えて蛇行しながら進み、これが船酔いを倍加させ我々を苦しめた。駆逐艦と掃海艇は輸送船団の周囲を廻り、哨戒機一機は常に前方を警戒し、又、一機は船団上空を旋回し警戒していた。
 この一見勇壮たる船団は、南進する当時の日本軍の勢いを象徴しているようであり、まさかこの大兵団が数か月後に全滅するとは、誰も夢だに思ってもいなかった。
 この大船団も、12月21日最後の泊地、ハルマヘラ島を出港して一夜明けた「昭和18年12月25日」早朝、辺りを見渡すと「健和丸」「辨加拉(べんがる)丸」「御月丸」の三隻になっていた。これが、ビアク島上陸の葛目連隊長率いる兵団(秘匿名「雪第三五二三部隊」)であった。
 他の船団は、ニューギニア島北部のサルミ(昭和19年5月17日米軍上陸)に向かったことは、後に知ったことである。
 師団命令は、
 「歩兵第222連隊は第三六師団の指揮を離れ、第二軍直轄のビアク支隊となり、主力をもってビアク島、一部をもってヤーぺン島要地を確保し、来攻する敵を撃破すべし。師団司令部はニューギニア本島サルミにあり
であった。
Mapoceania111

■「ビアク島からの生還」5:6:7:8  に続く
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/5-4ab1.html

■「ビアク島からの生還」9-10-11-12
  http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-8b38.html

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