« 「ビアク島からの生還」5-6-7-8 | トップページ | 「ビアク島からの生還」13_14_15_16_17_18 »

2014年12月26日 (金曜日)

「ビアク島からの生還」9-10-11-12

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_2

この戦争体験記「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。
 今回は「9:ジャングルから野戦病院へ10:工兵中隊の全滅
           
11:ジャングルの彷徨            12:戦友の死

9 ジャングルから野戦病院へ
  我々は、夜になっても洞窟から外に出ることが出来なかった。
 敵は海岸沿いにテントを張り、何台も高射砲を取り付け始めていた。
 他の部隊はどうなっているのか、特に、工兵中隊の仲間はどうしているのか気になった。洞窟の中から時々外の様子を伺いながら、3日目を迎えた。
 体に入れるものが水だけのせいか、皆下痢に苦しんでいた。P_71
 仲間の救援は望めず、いずれ敵に発見されるか餓死すると判断した我々は、一か八か洞窟を出て、ジャングルから迂回し、工兵隊がいる洞窟に向かうことにした。
 洞窟の上は崖になっており、裏手はジャングルの小高い山になっていた。
 我々は3人一組で、裏手のジャングル内に一旦退却し、別々に約2キロ離れた工兵中隊の本隊で合流することにした。
  同年5月29日午後は、外から聞こえて来る銃声もなく、浜辺も静かな様子なので、鎌田分隊長は、門山政明上等兵に外の様子を確認して来るように命じた。
 瓦礫の山になった洞窟を走り出た門山上等兵は、直ぐ外の様子を確認して戻り「誰もいないです」と押し殺した声で応えた。直ぐ鎌田分隊長は立ち上がり、「これからは3人一組で行動する。何処に行くにも離れるな・・・・・」と繰り返し、ジャングルの山に駆け登った。それが鎌田分隊長達との最後の別れでもあった。
 私と門山、瀬戸山の3人は、最後に崖をよじ登った。
 しかし、あとわずかで登りきろうとした時、敵兵に発見され背後から機銃掃射を受けた。瀬戸山がやられた。我々は、瀬戸山を引きずりながら、必死になって登り切った。しかし、腹部貫通でどうにもならず、自決用の手榴弾を瀬戸山に渡して門山の後に続いた。
 あとは腹をすかしていたことも忘れ、懸命に逃げた。
 二人は、ジャングルの中を二昼夜さまよい野戦病院にたどり着いた。
 米軍の攻撃に備え野戦病院を、ジャングル奥地に移したことは知っていたが、その野戦病院に偶然たどり着いたのである。私と門山は、4・5日ぶりに食べるお粥に涙した。我々は怪我と下痢で衰弱し切っており、その日は野戦病院の世話になることになった。
 この頃、工兵中隊の本隊も全滅の危機を迎えていた。000000009869
 ここで、田村洋三著「玉砕・ビアク島」に、工兵中隊に関し記載されている箇所をそのまま抜粋する。
 「6月31日は須藤第三大隊による白昼戦が主で、午前9時に迫撃第三中隊の千田小隊と吉本小隊はマンドン付近の敵迫撃砲陣地に、同10時ごろ配属の工兵中隊(佐藤長平中隊)の沢田小隊と第三六師団海上輸送隊の辛川小隊はふただびマンドン付近に、正午ごろには亀井第十中隊の宮坂小隊がイブディ付近に、それぞれ攻撃を加え相当の戦果を挙げた。」
 と唯一工兵中隊に触れている。Biak_map_2
  部隊本部の命令受領者であった松田軍曹、高橋澄上等兵が、部隊本部のある「西洞窟」に行ったが共に戦死したとの報を知り、私は野戦病院から工兵中隊本部に向かった。
 工兵中隊本部に、ジャングルを抜けてようやく辿り着き、上官に簡単にこれまでの状況を説明した。そして、敵上陸から5日目にして、工兵中隊で生存が確認出来た者は百名足らずであったことを知った。
 約2百30名の工兵中隊は、半数以下となっていたのである。
 本隊と合流し半時も経たないうち、「中隊長から戦死した松田軍曹、高橋澄上等兵に代わって、渋谷兵長と大屋軍曹は、中隊付命令受領者として申告するように」と下命された。
 さっそく連隊本部のある西洞窟に、中隊付命令受領者として申告に向かった。
 この頃から約一か月間、私は中隊付命令受領者として、「西洞窟」や中Nisi_image1隊本部がある洞窟で殆どを過ごすことなる。又、衛生兵を兼ねていた私は、負傷兵の看護を担当していたが、十分な医療設備や医薬品がある訳でなく、目の前で次々に苦しみながら死んでいく仲間を何人も看取ることになった。
 屍は埋葬する余裕も体力も無く、ただ洞窟から引きずり運び出し、その辺りに野晒しにした状態であった。工兵中隊がほぼ壊滅したのは昭和19年6月末、敵がキャンプ地としていたマンドン攻撃であった。洞窟に運び込まれた負傷兵から、工兵中隊・荒井平八郎小隊長の戦死の状況を伝えられた。
10 工兵中隊の全滅 
 敵は樹木の上にやぐらを組み、機関銃を据えて雨嵐のように撃って来たという。
 二日間の攻防も空しく、荒井平八郎小隊長は「中隊長殿、荒井小隊前進不可能」と叫んだ。
 その声に中隊長は「馬鹿者、突撃・突撃」と軍刀を振り上げ、怒鳴った。
 仕方なく前進する工兵隊は、機関銃の格好の餌食となり、バタバタと倒れ全滅した。
 しかし、その後方にいた中隊長は死を免れたという。
 何とも割り切れないことである。
 この激戦の中には、私と同期生の酒田市飛島勝浦「なごし旅館」の分家にあたる、小隊長当番兵、鈴木芳郎上等兵がいたが、頭部貫通で即死した。
 この戦いから数日後の、昭和19年7月2日、葛目部隊長(当時・大佐53歳)は自決し、その後は本国との通信は途絶し、我々は死を待つだけの部隊となった。
 岩手県一の関出身の、当時当番兵だった上関義一軍曹は、自決当時を述懐し、葛目部隊長は、副官と旗手の久村少尉と支隊本部付きの崩市太郎曹長を側に呼び、上関には「長い間お世話になった。君は必ず生きて帰り、四国高知(長岡郡)の実家にこの事を伝えてくれ」と話し、副官には「部隊長自決のことは誰にも知らせるな、以後の戦闘はゲリラ戦に転換するように」と指示、旗手の久村少尉には、「軍旗を焼いて敵には渡すな」等と言い残したという。
 軍旗は、天皇陛下から各連隊ごとに直接手渡されたものであり、それを敵に渡すことは、どんなことがあろうとも許されることは無かったのだ。また、部隊に万が一の場合は焼却する建前であり、これを奉焼(ほうしょう)と言い、奉焼した部隊長は責任をとって自決することが不文律であった
 葛目部隊長自決の日を境に、連隊本部からの命令は全く無かった。
 それからは生きている者同士、ジャングルの中を彷徨い歩くだけだった。
 敵に出会えば交戦し、その度に仲間は減っていく。
 今度こそ自分の番と幾度も死を覚悟したが、幸か不幸か生き続けた。
 昭和19年7月中旬頃、生き残っていた工兵中隊は26名、無傷の者はたった8名であった。
 我々、工兵中隊最後の戦闘は、昭和19年7月中旬頃と記憶している。米軍が、爆弾で壊れた飛行場整備に、戦車を先頭にトラックが骨材を満載して来るところに、生存者26名で肉弾攻撃を仕掛けたのである。我々は、攻撃直前に一升瓶に半分ほど残った酒を全員で飲み交わし、敵の戦車やトラックに蹄型式地雷を踏ませて爆破攻撃するために、飛行場に通じる道路脇のジュングル両側に潜んだ。しかし、一斉の攻撃もたいした戦果を上げることはできず、戦車やトラックの上から機銃掃射を受け、戦友はバタバタ倒れた。
 我々は死に場所を求めていた。(●はここで戦死)
 ここで当時の生存者と、肉弾戦参加者を記憶の限り記述する。
○ 佐藤長平中尉(士官候補生、大正10年生まれ、福島県国見町出身)
● 近藤   軍曹(青森県出身)
● 米谷仁吉兵長(秋田県出身)
○ 加藤友治兵長(秋田県出身)
○ 渋谷惣作兵長(山形県出身)・・生還
● 小原俊郎上等兵
● 滝島   上等兵
○ 阿部文治上等兵
● 大平盛雄上等兵(岩手県出身)
○ 千葉幸一一等兵(岩手県一関出身)
○ 粕谷(生還後三浦姓)辰治一等兵(山形県温海町出身)・・生還
○ 粕谷 博一等兵(山形県遊佐町藤崎出身)
● 安藤嘉吉一等兵
● 下坪清太郎一等兵(岩手県出身)
● 水平正治一等兵
○ 熊谷正蔵上等兵(岩手県花巻出身)
あと10名の氏名は分からない。
 このとき、安藤嘉吉一等兵は、私の直近に居たが戦車砲を直撃され、一瞬にして消えるように吹っ飛び戦死した。
 私も敵に約20メートル先から機銃掃射され、咄嗟に倒木の陰に身を潜めたが、その倒木は木片が砕け散るように粉々になりながらも我が身を守ってくれた。敵が通り過ぎてから弾痕を確認すると、倒木が無ければ間違いなく5~6発は私に命中していた。
 結局、この肉弾線で18人が戦死し、生存(○印)は中隊長以下8名だけであった。
 ビアク島上陸当時、工兵中隊は約230名余いたのである。 
 私は、またも、幸か不幸か生き続けた。
 この頃、阿部春治兵長は捜してもいなかったが、既に捕虜になっていたことは後に分かった。
 なお、米軍はほぼビアク島を占領すると、直ちに飛行場の整備に着手していた。
 我々が上陸以来3ヶ月以上かかって、人馬を使って造った約1キロの滑走路であったが、米軍はたったの数週間でブルドーザーを何台も使い、更に鉄板等を効率よく使い、3倍以上の長さに整備したのである。この辺りにも、彼我の戦力差の大きさを、思い知らされたものだった。

11 ジャングルの彷徨 
 工兵中隊約200名は、とうとう8名に減ってしまった。
 その名は
 ○佐藤長平 中尉・中隊長(福島県国見町)
 ○渋谷惣作 兵長
 ○加藤友治 兵長
 ○粕谷辰治 一等兵
 ○粕谷 博 一等兵
 ○千葉幸一 一等兵(岩手県一ノ関市)
 ○阿部文治 上等兵
 ○熊谷正蔵 上等兵
 生き残った我々8名は、来る日も来る日も山中を彷徨した。
 すでに、部隊などと呼べる姿ではなかった。さまよう目的は、単に食べ物捜しであった。
「衣食足りて礼節を知る」と言うが、今の状態は浮浪者以下、いや人間以下であった。
軍隊は、規律正しく整然と行動している時こそ強さと頼もしさを発揮するが、これを失った時は、余りにも浅ましく醜いものと思えた。
 我々は、今日を生きるようとする本能だけで彷徨する動物であった。
 異常な飢餓状態は、例外なく人間を獣に変えてしまうことを我が身を持って体験したのである。
 昭和19年7月23日、私は満22歳の誕生日をビアク島のジャングルの中で迎えた。
 既に戦火は止んでいたが、米軍は敗走する日本軍を見つけるため、明るい内は島内をくまなく捜し回っていた。
 我々は昼は山中に隠れ、夜だけ行動した。
 ここで私達が、何を食料にしていたかを説明しておく。
 ビアク島には、野生の椰子の実やマンゴー、サンゴヤシの新芽、バナナの根(大根のような味)等が、季節に関係なく植生しており、これらを手当たりに食べた。
 甘いものばかり食べると、無性に塩分を欲した。
 海水は島周辺にいくらあっても、海岸線は何処も敵がテントを張っていて昼間は行くことが出来なかったが、夜、暗闇にまぎれて海に出て海水を飲んだ。
水筒にも海水を入れておいた。
 海岸には、敵味方の腐乱した遺体が無造作に散乱し、その近くには無数の魚貝が集っていた。
 つまり、遺体は魚貝のえさになっていたのである。
 しかし、背に腹は代えられず暗闇に紛れて浜辺に出て、種々の貝を捕り、よく食したが決まって下痢をした。出来れば、焼くか煮て食べたいところだったが、火を使うことは出来なかった。
 煙が立ち敵に発見されるおそれがあったのだ。
 戦友らの名誉のために付け加えておくが、帰国後、特に帰還兵は飢餓に耐えられず、戦友の人肉を食した等の批評をされたことがあったが、そのようなこと、あり得ないことである。当時の我々軍人に、そのような発想は生まれもしないし、また、南国の気候は、遺体を1日もしないうちに腐敗させていたのだ。
 食糧調達にはこんなこともあった。
島北部、ソリド部落にはソリド川が流れており、その周辺に現地人が耕作するタロイモ畑があった。
 そのイモ掘りを計画した。つまり泥棒である。
 ところが出発の日に、佐藤中隊長が高熱を出したのでジャングルの木陰に草を枕に寝かせ、加藤友治兵長と粕谷辰治一等兵を看病のため残し、我々5人で出発した。
 この5名は
    ○ 渋谷 惣作 兵長 
    ○ 粕谷  博 一等兵
    ○ 千葉 幸一 一等兵
    ○ 阿部 文治 上等兵
    ○ 熊谷 正蔵 上等兵
 であった。
 鬱蒼とし、昼なお暗いジャングルの中を、衰弱した体を6尺棒で支えよたよた歩き続けた。帯剣も帰路の目印に、木の皮に印を付けるときや、芋掘り等に使う道具に化していた。
原住民の通る道は歩くことは出来なかった。既に原住民は敵方に宣撫され、日本兵を発見し米軍に報告すると褒美を貰っていたのだ。
 我々5名は道無き道を、帯剣で目印に木の皮を剥ぎつつ、ただ黙々と歩いた。
 藤つるや木の根につまずきながらも歩くこと二日間、ようやく目的の畑に着いた。
 月明かりを頼りに、帯剣でイモを堀り生のまま食べ、又、掘り続けていたら夜が明けた。
山の中に隠れて一眠りし、中隊長達の所に戻ることにした。
 衰弱し切った体には沢山のイモは背負えず、皆適当な量を背負い、又、木に付けた目印を頼りによたよた歩き始めた。
 皆何を思っているのか、父母・兄弟あるいは妻子のことか。
この先どうなるのか明日をも知れない命に、いつも思うことは祖国のことばかり、悔しさと寂しさが交差し、泥と汗にまみれた頬に涙が伝う。
 時おり、猿の鳴き声がジャングルの静寂を破る。
 「キキ」「ツツ」と、甲高く鳴きながら木から木へと身軽に伝う猿達を羨ましく思う。
 この島には私が見た限りでは猿が一番大きな動物であり、人を襲う猛禽類はいなかったことが幸いした。派手な色彩の極楽鳥は良く見かけ、食べ物にしたかったが、とても捕まえられるものではなかった。
 島内のいたるところに激しい戦いの跡が残っていた。
 散乱する戦友の屍辺りには、血なまぐさい空気が漂っていた。
 南国の暑さで腐敗も早く、既に白骨と化したものも多い。
 そっと手を合わせつつ、明日の我が身の姿を想像した。

 ジャングルを一日中歩き続け夜になった。
 遠くに明かりが見えて来た。
 粕谷博一等兵が確認して来て、「敵がテントを張っている。通り抜け出来ない。」と言う。
その地点を迂回しようとしたが、元の道に戻れない。完全に道に迷った。マラリヤ熱を出す者も出てきたが、お互いに助け合いながら山草、木の実等を食べながら毎夜歩く。
 そのうち、阿部上等兵の様子がおかしくなった。
 「俺の指9本しかない」とか「豆腐を食いたい」等と言い出す。
 「阿部どうした」と聞いても、ニヤニヤ笑っているだけ、何の手当てもしてやれずに、一眠りしていたら死んでいた。
 それから10日もたったろうか、今度は熊谷正蔵上等兵が動けなくなった。
 ボスネックの裏山の小さな洞窟で看病したが、2日目で死んだ。
 空腹と疲労とマラリヤ熱が重なり、皆倒れて行く。ついに3人になった。
    ○ 渋谷 惣作 兵 長 
    ○ 粕谷  博 一等兵
    ○ 千葉 幸一 一等兵
  残った三人を見れば、私が一番体力を残しているように思えた。
 私は決心した。
 「夕方暗くなり始めたら、食べ物を探して来るからお前達は、イモでも食っていろ。」と言い残し、現地人から手に入れた背負い籠を背に出発した。
 私は敵から、食糧を奪って来ることを計画したのである。
 目指した所は、米軍の屯舎内にある火力発電所であった。
月明かりを頼りに発電所に接近すると、ゴーゴーと発電音が高鳴っていた。
 背負い籠は近くに置いて宿舎の床下に潜り込んだ。5~6の警備兵しかいないことが分かった。
 床下に2~3時間潜み、敵兵が寝静まるのを待って、食堂に侵入し食パンをあるだけ盗んだ。 満月が青白く輝く夜であった。敵陣の食料とは言え、多少の良心の呵責を覚えながらも、皆が喜ぶ姿を思いつつ急いで戻った。
 3人とも久しぶりの食べ物に舌つづみを打った。
 粕谷博が声をかけて来た。
 「渋谷、俺の家は下藤崎の西遊佐小学校の角から3軒目だ。帰ったら遊びに来てくれ、今日のお返しをたっぷりするぞ。」、
 「ああ行くぞ。」と生返事をすると、千葉幸一も「そのときは豆腐をたらふく喰いたいな。」と話しに加わってきた。
 帰還できるあてなど全くない現状を、皆認識しながらの、夢のような会話であった。
 そのうち白じら夜が明けて来た。
 我々は朝日を眺めながら、今日も生き延びたことを、確認しあっていた。
12 戦友の死 
 米軍上陸から約三か月が過ぎ、昭和19年9月に入っていた。
  この頃には、日本兵の姿を見掛けることは全く無かった。
 この島には生き延びている日本兵は、我々しかいないのではないかと思うくらい、静かであった。
 その頃の我々の姿を説明する。
 私は昭和19年2月15日付で兵長任命以来、バリカンを頭に入れてなく髪は首筋まで伸び、髭は伸び放題、猿より男振りは悪い。軍服も汚れに汚れ、たまにスコールが降れば雨水で洗ったが、浮浪者よりみすぼらしい。
  栄養不足で痩せこけ、手足の骨が浮いている。
わずかに軍人と分かるのは、軍帽と腰の帯剣だけであった。3人共似たような格好である。夜は食糧探し、明ければ洞窟に潜み、祖国の話しや身の上話し、最後はやはり食い物のことである。
 これまでも草や木の実は勿論、ネズミにヘビ、トカゲ等々何でも食った。
 そのうち、二人は以前に盗んで食べた食パンの味を思い出したのか、「渋谷、三人で発電所に行こう」と言い出した。私は、前回余りにも恐ろしい体験をしたので行く気になれなかったが、空腹に負け、いつしか発電所近くに来ていた。私は道を知っているので先になって歩いていたが、粕谷がどうしたわけか横道に入って行った。
 と、そのとき粕谷が草むらに敷設した地雷の線にひっ掛かったのだ。
 粕谷の直ぐ近くで一瞬青白い煙が「ボッー」と上がった。
 私は「地雷」と叫んで伏せたが、立って逃げた二人のすぐ後で「ドカーン」と爆発した。
 千葉幸一は即死。粕谷博は虫の息だった。 
 私は粕谷の頭を膝に抱き、「粕谷頑張れ、藤崎に一緒に帰ろう。頑張れ。」と何度も繰り返したが、首を縦に振り頷くが言葉に成らない。
 腹部貫通と大腿部盲貫の重傷である。
 どうすることも出来ず30分程で死んだ。
 粕谷博の実家は、山形県遊佐町上藤崎、私の実家の野沢から約6キロの村だった。
 私は二人を並べて寝かし、草を被せた。
 とうとう一人ぼっちになった。
 爆発音で敵が様子を見に来る恐れがあったが、直ぐには立ち去りがたかった。
 草を分けては二人の顔を何度も見た。祖国に帰り、やりたいことが一杯あったであろう。
 幾度も激しい砲弾をくぐり抜け、飢えや寂しさと戦いこれまで生きた延びた二人とは、
是非、一緒に帰還したかった。良き戦友として、生涯の付き合いになったであろう。
 一人になった私は、どうすれば良いか分からなかった。
 私も自決しようと思った。
 そう思うと親、兄弟、親戚のこと、恋しい人のこと、次から次へと浮かび、直ぐには決心が付かないまま浅い眠りに入った。
 うとうとしては目が覚め、又、死ぬぞと思った。
 隣には粕谷と千葉の亡骸があった。
 一緒にここで眠るのが自然と思えた。
 このまま生き延びるより死ぬ方がずっと楽であり簡単に思えた。
 しかし、じっと二人を見ていると、二人は「生きて帰えろ、郷里にこのことを伝えてくれ、お前しかいないじゃないか。」と言った。
 言ったように聞こえた。
 夢か現実(うつつ)か分からない妄想の一夜は続いた。
 小鳥のさえずりで目が覚めた。朝日が昇りジャングルに命の息吹がまた蘇った。
 いつに無く、草木も動物も生き生きして見えた。
 今度は、何としても生きて祖国に帰り、この惨状を伝える必要があると決意した。
 私は、二人の亡骸に近寄り、二人の小指の爪をかじり取り、軍票(軍が発行した紙幣)に包んだ。

|

« 「ビアク島からの生還」5-6-7-8 | トップページ | 「ビアク島からの生還」13_14_15_16_17_18 »

09 遊佐町の関連情報」カテゴリの記事

15 戦争記録「ビアク島」」カテゴリの記事