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2014年12月に作成された記事

2014年12月30日 (火曜日)

世田谷一家殺人のローダミンはケミカルライト?

  「世田谷一家殺人事件・ローダミン 」のページに
   http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-a07b.html0000300_
 これ ただのケミカルライトだろ。たまに漏れるからな
とコメントを頂いた。
  ケミカルライト に関して、大して知識が無かったのでネットで調べると、化学発光による照明器具の総称とあり、さらに、発光体は何かと調べると、
・シュウ酸ビス ・フタル酸ジメチル ・第三ブタノール ・過酸化水素水・サリチル酸ナトリウム ・ナフタセン ・ペリレン ・ローダミンB・エオシンYImage2などの聞きなれない薬品名の中にローダミンがあった。
 また、ケミカルライトの活用方法だが、
 電池・電源不要であり、軍用・停電・災害時・釣りなどのアウトドアの照明に向いている。近年ではパーティの演出、ライヴ応援等の遊興・娯楽目的に使われることが多い。我が家でも停電などの非常用として数本準備してあるが、ローダミンが使われているとは知らなかった。
  「世田谷一家殺人事件・ローダミン 」では、
 ◎蛍光塗料が犯人が現場に遺留したシャツとバックに2種類の染料が付着。
 ◎被害者方の車庫にある木製の収納家具にも蛍光塗料が3種類付着していた。
 とお知らせしたが、
 宮澤みきおさんや犯人は、ともに「ケミカルライト」を使うような仕事や趣000000000000p1味、あるいはコンサートやイベントに参加していたのだろうか。
 また、宮沢さん夫婦が知り合ったという、韓国系宗教団体のコンサートやイベントにもケミカルライトは当時から使用されていたのだろうか。それとも、宮沢さんと犯人は三浦海岸に一緒に釣りにでも出かけたのであろうか。

■犯行現場で発見された蛍光塗料ローダミン」は
Basic  Sed 1 ベーシックレッド1 
  ローダミン6GCPパソニールレッド482等
Basic  Sed 1:1 ベーシックレッド1:1 
  ローダミン6GCPパソニールレッド485等
Basic  Vioiet 10 ベーシックバイオレット10 
  ローダミンB、パソニールレッド540等

 この程度の情報は、捜査本部では既に把握済みであろうが、あえて掲載した。
 更に、「ケミカルライトの液漏れ」に関して次のような注意書きもあった。http://www.lightstick.co.jp/support/faq/

世田谷事件・宮澤邸の三次元模型 2013年12月30日     
三浦海岸と世田谷一家殺人事件の関係 2012.3.4
世田谷一家殺害事件犯人は韓国人? 2011.12.29
祖師谷公園計画と一家4人殺人事件 2011.12.24
犯人は南欧系混血かDNA型鑑定2009.12.30
世田谷一家殺人事件・解決の鍵2009.12.30
世田谷一家殺人事件・ローダミン2009.12.30
世田谷一家殺人事件・宮澤邸図面2009.12.30
世田谷一家殺人事件の現場周辺2009.12.29
世田谷一家殺害事件・DNA鑑定2099.12.28
世田谷一家殺人事件・不審な男2009.12.26
世田谷一家殺人事件・蛍光塗料2009.12.26
世田谷一家殺人事件の概要2009.12.26
■世田谷一家殺人事件・現場の間取り
2009.12.25
世田谷一家殺人事件・犯人との接点2009.12.25
世田谷一家殺人事件・ローダミン2009.12.24
世田谷一家殺人事件・最新情報2009.12.23

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2014年12月29日 (月曜日)

世田谷一家殺人事件・発生情報など

 東京・世田谷区で宮沢みきおさん一家が殺害された事件からまもなく14年だ。
 2014年12月28日(日)のフジテレビ「新報道2001」では、「世田谷一家殺害から14年“沈黙の現場”再び動く!?」が時間いっぱい流されていた。Pos
 特に真新しい内容では無かったが、犯人と被害者を結ぶとされる「ローダミン」という特殊な塗料のことは丁寧に知らされていたことは評価される。
 まず、事件を風化させないためには、このような報道は大切だ。
 この報道の影響であろうか、このブログの「世田谷一家殺人事件」関連記事にもアクセスが集中している。
 よって、かつて掲載した内容の焼き直しだが、総括的内容を年末までトップに掲示しておこうと思う。
なお、地蔵に関する製造、輸入、販売等の情報提供を求めているが、
日本語版はこちらから      
英語版(English)[PDF]
中国語版(Chinese)[PDF]Image2
韓国語版(Korean)[PDF]

発生年月日
 2000年平成12年12月30日(土)午後11時頃~同月31日(日)未明
発生場所
  東京都世田谷区上祖師谷3丁目23番26号 
被害者 
  宮澤みきおさん(当時44歳)
 東大卒、大手企業のCI(企業のイメージ戦略)などを手が ける コンサルティング会社に勤務し、企業のシンボルカラーを決める仕事を担当していた。泰子さんとは1986年12月、自己啓発セミナーで知り合って結婚。
 妻・泰子さん(当時41歳)
 自宅1階で「公文教育研究会・祖師谷公園教室」を開き、小学生をPhoto中心に4歳児から高校1年生まで国語、算数、英語を教えていた。
 長女・にいなちゃん(当時8歳、世田谷区立小学2年)
 長男・君(当時6歳、世田谷区立保育園年長組)
事件発覚
  隣りには泰子さんの母親と姉夫婦が住んでいたが、31日の午前10時55分ごろ、電話しても出ないので、気になって訪問した泰子さんの母親が発見した。と発表されていたが、実際は、泰子さんの姉・入江杏(あん)さんの息子さんと言われている。
  事件当日は、入江さん家族も全員揃っていた。3452776_2
最新情報
ヒップバッグの中から検出された砂は米国カリフォルニア州のモハーベ砂漠の砂と酷似。
◎現場に脱ぎ捨てたトレーナーなどから検出された「ローダミン」と呼ばれる粉末状の蛍光染料を検出。
ジャンパーにあった砂は、三浦半島の▽三浦海岸▽北下浦海岸馬堀海岸、いずれかのもの。
ジャンパーは事件の2カ月前からの販売。犯人は事件直前に三浦半島付近にいった可能性大。
◎染料メーカーによるとローダミンは主に漫画本や広告など紙の染色に使われるが、同じピンク系を一度に複数使うことはない。
◎複数を同時に保有するのは販売業者かデザイナーなどの可能性が高い。
◎捜査本部が宮沢宅1階の車庫を調べたところ、車庫内の木製の収納物に、同じ3種類の染料が付着しているのが確認された。
◎事件当時、車庫はシャッターが閉まったままで犯人が出入りした形跡はなかった。
◎被害者の宮沢さんは、CI(企業のイメージ戦略)などを手掛ける会社に勤務。
◎仕事で蛍光染料を使うことはなかったが、大学時代に演劇サークルに所属していた。
◎蛍光染料を使って演劇の造形物を制作するなど、顔見知りだった可能性もある。
うわさ情報
◎背景に、韓国系・某宗教団体が見え隠れしている。
◎犯人は、何か重要な文書を受け取りに来た可能性が高い。
◎夫婦が知り合ったのは韓国系の能力開発セミナーらしい?
◎凶器の包丁はJR吉祥寺駅近くで購入した。
◎犯人の衣類・所持品は全て、JR荻窪駅付近で購入できた。
◎荻窪周辺には関連する某宗教団体の教会がある。
◎JR阿佐ヶ谷~吉祥寺駅界隈に何かしらの足跡がある。
犯人と被害者の接点1「三浦半島の北下浦海岸」
◎犯人のジャンパーからは同海岸の砂、被害者の自宅からは同海Dscn3711岸 の風景写真が発見された。
◎犯人と被害者は、同じ目的で同日か前後して、この海岸に出かけた可能性大。それは仕事か、プライベートでかは不明。
バッグの中にカリフォルニア州の砂
 カリフォルニア州のモハーヴェ砂漠南西部にある「エドワーズ空軍基地」東部の砂が発見されていることから、軍人が関係している疑いも忘れてはならない。そして、「エドワーズ空軍基地」と三浦海岸に比較的近い「横須賀基地」との関連も捨てることが出来ない。
犯人と被害者の接点2「蛍光塗料・ローダミン」
◎蛍光塗料が、犯人が現場に遺留したシャツとバックに付着していた。
◎被害者方の車庫にある木製の収納家具からもにも同じ蛍光塗料が付着していた。
◎犯人は車庫内で宮沢さんとローダミンを使って打ち合わせをしたことのある人物?
 また捜査本部は、犯人が脱ぎ捨てたジャンパーのポケットから見つかった木の葉の破片はケヤキと柳だったと発表した。
 情報提供は特別捜査本部 (03・3482・3829)。
犯人の特徴
 犯人は犯行時に手を負傷しており、現場に残された血液からA型と判明。血液からは向精神薬や風邪薬等の薬物反応は出ていない。
 また、飲酒や 喫煙もしない人物であることが判明。
 被害者の傷跡などから犯人は右利き
 犯人の指紋は渦状紋。
 身長170センチ前後、胴回り83センチ前後。
 犯行時の行動等から、性格は大胆で図太いながら几帳面な部分も持ち合わせている。

一家殺人のローダミンはケミカルライト(2014.12.30)
世田谷事件・宮澤邸の三次元模型 2013年12月30日    
三浦海岸と世田谷一家殺人事件の関係 2012.3.4
世田谷一家殺害事件犯人は韓国人? 2011.12.29
祖師谷公園計画と一家4人殺人事件 2011.12.24
犯人は南欧系混血かDNA型鑑定2009.12.30
世田谷一家殺人事件・解決の鍵2009.12.30
世田谷一家殺人事件・ローダミン2009.12.30
世田谷一家殺人事件・宮澤邸図面2009.12.30
世田谷一家殺人事件の現場周辺2009.12.29
世田谷一家殺害事件・DNA鑑定2099.12.28
世田谷一家殺人事件・不審な男2009.12.26
世田谷一家殺人事件・蛍光塗料2009.12.26
世田谷一家殺人事件の概要2009.12.26
■世田谷一家殺人事件・現場の間取り
2009.12.25
世田谷一家殺人事件・犯人との接点2009.12.25
世田谷一家殺人事件・ローダミン2009.12.24
世田谷一家殺人事件・最新情報2009.12.23

警視庁ホームページ
www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken/jikenbo/seijo/seijo.htm
山上の木
http://kakimono.net/honbun%201%20jikennogaiyou.html
世田谷一家惨殺事件の恐るべき「真実」一橋文哉
  http://asyura2.com/0311/nihon10/msg/1206.html
必ずしも統一教会ではない!
http://www.asyura2.com/0311/nihon10/msg/1194.html
某国の諜報機関が関与しているなら迷宮入り?
http://www.asyura2.com/0411/nihon15/msg/809.html

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「ペルソナデザイン」を少し勉強した!

 最近、ある会社などのホームページ作成に取り掛かったことから、ペルソナデザインに関して多少勉強する機会があった。
 とても、ここで語れるほどの知識はないが・・・・・
http://www.personadesign.net/personadesign/persona.html
https://www.iid.co.jp/service/persona_method.pdf
 御商売をやられる方々は、こんなことを常に考えておられるのかと関心した。
 どんな御商売でも、経営者たちは特別意識していようといなくても、商売の相手、つまりターゲットをある程度絞って、製品を開発したりデザインを決めることは当然であろう。
 しかし、最近では「ペルソナ(persona)」という概念があり、徹底したユーザ視点から要望を把握して、ユーザが期待するモデル・商品を開発・発見することが大切だという。
 これを「ペルソナデザイン(Persona-design)」と呼ぶそうだ。
  よくあることだが、漫然とユーザーニーズを全て採用した結果、どのユーザーのニーズも満たせない曖昧な商品になってしまうこともある。
  よって、ターゲット像を徹底的に絞り込んで、
 性別や年齢層はもちろん、居住地、職業、勤務先、年収、家族構成、出身地、生い立ち、現在までの様子、身体的・性格的特徴、人生のゴール、ライフスタイル、価値観、趣味嗜好、消費行動、情報収集行動などを含めて、あたかも実在するかのような人物像を設定するのだという。
 「ペルソナデザイン」は、
 ここまで徹底して対象を絞り分析すれば、会社や組織などの構成員まで共通認識が形成され、ターゲットが定まり、その会社や組織のゴールが明確となり、具体的な戦術が見えてくるはずだ。
 もちろん、ホームページづくりには、この知識を生かすつもりだ。
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2014年12月28日 (日曜日)

期待する「メタンハイドレート」実用化

 20世紀は「戦争の世紀」と言われるが、それは「エネルギー資源争奪戦」でもあった。
 中近東の紛争は、表面的には宗教問題が大きいとされるが、実際は石油資源の争奪戦でもあると言われ、また、中国が南シナ海、東シナ海、尖閣に食19指を伸ばすのは、実は海底資源の争奪戦であり、中国は13億の国民を養うための裏事情があるはずだ。
 もっとも1941年12月、日本が開戦を決断したのは石油の道を絶たれたこと、つまり「油断」だった。今の日本でも、エネルギー資源の確保にかける努力は戦争はしないまでもたゆまないものがある。事実、現在の日本は一週間に約13隻のタンカーが到着しないと寝込む国なのだ。
 前置きが長くなったが、
 日本の悲願であるエネルギーの自給が ”燃える氷メタンハイドレートの実用化によって実現される可能性が高いと明るいニュースが小さいながら流れている。
  海底メタン3カ所で採取 日本海側で初 746カ所埋蔵可能性
   http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2014122502000243.html
 日本海側に限らず日本近海には、
 000l12莫大なメタンハイドレートが眠っているが採掘などに掛かるコスト面がネックとされる。しかし、一番の障害は石油や原発利権に群がる政治家や企業等の妨害のようだ。関係者はこれらの妨害を強く排除して、一致協力してメタンハイドレートの開発と実用化に成功したなら、経済や安全保障に明るい展望が大きく開けることになる。
 安倍政権もメタンハイドレートの開発促進を成長戦略の一環と位置付けて、「2018年度をめどにメタンハイドレートの商業化を目指す」というから心強い。 
  長年、日本は石油の輸入価格に物価は連動し、国民はそれに一喜一憂する愚かさを見せて来たが、メタンハイドレートの商用化によって、これが全て解消されるはすだ。
 それにしても日本は原発を全て停止し、000092
 化石燃料を大量に使う火力発電がフル稼働して大気を汚染して異常気象に拍車をかけているはずなのに、この問題に大手マスコミや左傾国民が一切触れないことが可笑しい。
 反原発を唱える多くのマスコミや国民は、火力発電によるCO2増加は問題ないというスタンスなのか。
 数年前にはCO2削減など、あれほど騒いだのに自己矛盾していると思わないのか・・・・
 この矛盾に答えるなら、積極的にクリーンエネルギーのメタンハイドレードの実用化支援報道をすることだ。

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2014年12月27日 (土曜日)

日本人が食べるカニの8割が密輸入

 北海道で暮す弟からカニのお歳暮が届いた。000000000000b
 感謝の連絡すると、「カニはロシアから密輸が制限されて例年より値上がりしている」と言う。そのときは言わなかったが、何も密輸してまでカニを食べたいとは思っていない。
  先日、ロシアと日本のカニの輸出入のデータには大きな食い違いがあることをテレビで知った。
 そのデータは、ロシア側では、日本にカニを輸出した量は年間3千トンから7千トンなのに、日本には毎年、8倍から25倍以上が輸入されたことになっているという。
  日本人の「カニ」、「マグロ」、「ウナギ」、「エビ」などの海産物好きはどうしようもないが、何もカニ密輸だけでなく、「マグロ」、「ウナギ」なども似たりよったりであろう。さらに突き詰めれば、覚醒剤などの違法薬物の多くが日本で消費されることとも関連する裏事情があるはずだ。
 世界では毎日35000人(毎年1000万人)の子供たちが餓死しているというのに、現代の日本人は歴史上どの時代、どの王侯貴族よりも贅沢な食事をしていると言われている。
 「費用の多くかかる民族は、その結果ことごとく消滅するであろう。」 
  この言葉は100年以上前、小泉八雲(1850年6/27~1904年9/26)が、「極東の将来」として題して語った言葉だ。
  まるで、今の日本人に対する警鐘と受け止めることが出来る。
  贅沢、飽食、浪費の国家の前途には、間違いなく厳しい未来が待っている。

コストのかかる民族は消滅する。: 多摩湖畔日誌
地球が人間を養えない時が来る。: 多摩湖畔日誌
覚醒剤密輸は命を奪う犯罪だ!: 多摩湖畔日誌

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「ビアク島からの生還」13_14_15_16_17_18

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊
 
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5

 この戦争体験記「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。今回は「13 白い犬(幻を見る)14 捕虜になる 15 米軍野戦病院16 帰郷(遊佐町~野沢) 17 戦友の実家 18 あとがき
 元・遊佐町議員議長石垣祐治氏の寄稿文まで全て掲載。
 数年前にネット配信を中止していたが、ねずさんこと小名木善行さんが 「ビアク島の玉砕戦 」のタイトルで紹介されていたことを知り再配信した。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1467.html

13 白い犬(幻を見る) 
 「俺は必ず生きて帰り、この惨状を祖国に伝えよう」と決意し立ち上がった。
 その時であるスピッチに似た白い小犬が50メートル程先を走っているではないか。
「この辺りに部落でもあるのか」と思い、その方に歩いた。
犬は山の木立をぬって走る。犬が見えなくなった所まで行くと、又、犬の尻尾が見えた。
 こんなことを幾度も繰り返し、何日犬の案内で歩いたか分からないが、広い原っぱに出た。そこは軍属が自活のために作った農場だった。
  小さなトマトが鈴なりに実を付けていた。夢中で食べた。
 食べながら辺りを見渡すと小さな小屋があった。
 恐る恐る近付くと人が居た。  
 一瞬びっくり、相手もびっくり、お互いに日本兵と分かると笑顔になった。
 「何中隊だ」と尋ねる。
 「歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵だ」と名乗った。私も同様に名乗った。
 初めて出遭った二人は、これ迄の出来事を色々語り合った。
 苦しみは分かち合うことで半減するというが、今の二人はそれであった。
 「俺達は、何処に養子に出ても勤まるな」等と久々に笑いが出た。
 又「どんなに肉体的苦しみには耐えることが出来ても、孤独には耐えられないことが分かった」などと語り合った。
 それからは同じ苦しみを知る友を得た喜びに、勇気百倍の心境であった。
 以後、泉田源吉上等兵(岩手県鳥海村出身)とは捕虜になるまでの約1か月間行動を共にした。
 二人は疲れ果てやせ衰えていた。
 ただ若さが持つ生命力だけを頼りに生きていた。
 それにしても、あの「白い犬」はどうしたのだろう。
 以来見かけることはなかったが、私は今でもあの「白い犬」は粕谷達の化身だったと信じている。

14 捕虜になる
 昭和19年10月始めのことだった。
 歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵と私は、栄養失調でやせ衰えた体で発電所のゴミ捨て場を目指していた。
 6尺棒にもたれつき中風の人が歩くような二人に、後方から「ヘィ・ヘィ」と敵兵の甲高い声がした。
 驚いて立ちすくんだ。
 戦う気力も、走って逃げる体力も残っていなかった。
 二人は重病人が支えられるように簡単に捕まりジープに乗せられ、いつか私がパンを盗みに入った発電所に連れて行かれた。
 発電所の一室で椅子に座らされ、銃を構えた四人の敵兵に囲まれ黙っていた。
 当時の軍人は「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」と教えられ、捕虜になるくらいなら潔く死ぬことを美徳とされていた。
 しかし動物同様の生活を余儀なくされ、軍人としての誇りも人格も失った今この時に、
それを期待することは無理なことであったと思う。
 我々がいる部屋に、黒々とした頭髪の日本人の顔だちをした体格の良い青年が入って来た。
 米軍の通訳であった。
 まず我々二人に、「長い間ご苦労だったね」と労いの言葉を掛けて来た。
 何年間も荒々しい軍隊言葉に馴染んでいた我々にとって、通訳の日本語は初めて耳にする優しい言葉であった。
 まず名前を書かされ、「所属部隊は」「兵隊に来て、家庭では扶助料を貰っているか」
 「島には何人位の日本兵が残っているか」等と聴取された。
 私は「他に日本兵は見ていない」こと等を説明した。
 通訳の青年も自己紹介した。
 「父は青森、母は京都生まれです。名古屋に住んでいましたが、ハワイに移住したそうです。私はハワイの日系二世で、戦争開始と同時に徴用され戦地で通訳をしています。」
「私には祖国が二つあると思っています。」「いずれが勝っても負けても辛い立場です」と語った。
 私は無言のままうなずいた。戦争がもたらす悲劇にはこのような所にもあることを知った。通訳は重ねて言う、「あなた方の体が元に戻るには、2・3年は掛かるね」。
その同情の言葉に頭が下がった。
 事実、体力に自信が持てるようになるまでに、それから約3年の歳月を要した。

15 米軍野戦病院
 5日間位して、我々二人はビアク島の飛行場からニューギニア島の、ポーランジーに移されることになった。
 簡単な診察を受け、更に飛行機でオーストラリアの、ブリスベン町に連れて行かれた。
 今度は全身をくまなく診察され看護婦二人の付き添いで、ヘイという町の陸軍病院に列車で行き入院させられた。
 白い敷布の上にゴムに似た感触の敷布を敷かれ、その上に寝かされた。
 お湯で体を拭いてもらい、更に白い粉でマッサージをしてくれた。
 終わると「ミスター渋谷、ノーめし」と言われ、今日は食事がないことを知らされた。
 その時、「渋谷、渋谷」と呼ぶ声がした。
 誰が呼ぶのかと回りを見渡すと病室には、20台位のベットが並んでいた。
 起き上がり、声の方のベットに歩み寄った「誰だ」と尋ねると「粕谷だ」と応えた。
 粕谷は地雷で戦死したのにと思ったが、同じ中隊には「粕谷」姓は二人いたことに気付いた。 「辰治か、良く生きていたな」と抱き合った。
 粕谷辰治一等兵(山形県温海出身)は4か月前、病に倒れた佐藤中隊長の看病を頼みジャングルに置いてきたのであった。
 「生きていて良かったな」と言っては男泣きした。
 「佐藤中隊長はどうした」と聞くと、マラリアと下痢で死んだと言う。
 中隊長は「渋谷達は必ず探して帰って来る」と信じ、けっして動かなかったと言う。
 最期まで我々を信じて死んだいった佐藤中隊長を思うと、胸の詰まる思いがした。
 同じく中隊長に付き添っていた加藤友治兵長は、水を汲みに行ったまま帰えらなかったこと、粕谷自身も一人になり山中を彷徨中捕虜になったこと等を一気に説明した。
 私も密林の中で道に迷い、何日も探し回ったこと、他の四人も次々に戦死し一人ぼっちになったこと等を話した。
 泣きながら語り合う二人に、隣のベットの人まで一緒に泣いてくれた。
 翌日からは、食事を与えられた。お粥を少量から与えられ、普通食に戻るのまで15日を要した。
 満足な食事を取ったのは、何か月ぶりか、生きていることを味わいながら頂いた。
 米軍の我々に対する扱いは全体的に親切であり、度量の大きさを実感した。
 衛生兵であった私は、日本軍の野戦病院も知っていたが、医療設備をはじめ何もかも上回っている
 米軍の施設に、勝ち目のない戦であることを感じとった。
 この米軍陸軍病院に入院したのは、昭和19年10月10日のことだった。
 日本兵の入院患者は、我々を含め19名、退院は昭和19年12月26日であった。
 退院後はニューギニア島ポーランジァの収容所に移され、特別養生棟に入れられた。
ここには、約1千40名の日本兵がいた。
 殆どが、ニューギニアや周辺の島々で捕虜になった者で、皆痩せこけていた。
 収容所仲間とも徐々に親しくなり、日本軍の苦戦の状況、特にニューギニア周辺の島々では、殆どの日本軍は全滅していることが分かった。
 はっきりと「日本は負ける」と言う者も居た。
 しかし、このような言葉は、当時禁句であったが、私も同意見だった。
 捕虜生活は、帰国する昭和21年3月末まで、約1年5か月間続くことになった。
 その間、私は大工の腕を生かし、「木工班」で玩具作り等して、一日3ペンスを貰った。
 この収入で、収容所仲間にタバコや歯磨き等を買ってやり、喜ばれたものだった。
 又、米国本土から取材にきて、「PX」という名の画報に、我々木工班の仕事振りが、写真入りで掲載されたこともあった。私も写っていた。
 昭和20年7月23日、私は満23歳の誕生日を、ニューギニア島ポーランジァの捕虜収容所で迎えた。
 二〇歳で出征し4年目、歳月の流れの早さをしみじみ感じていた。
 捕虜に、米軍から戦況を伝えられることはなかったが、終戦のことはうわさで聞こえてきた。
 広島、長崎に新型爆弾原爆が落とされたこと。
 本土でもかなりの被害があること等は、それとなく置いてあるアメリカの新聞や雑誌で知ることが出来た。
 この頃には、祖国のこと、郷里や家族のことまで心配する余裕が出てきた。
 帰還出来る日は近いと確信していた。

16 帰 郷(遊佐町~野沢)
 昭和21年1月ころ、帰国の噂が流れた。
 しかし、なかなか日程までは分からずに3月に入った。
 3月4日の点呼の時、「直ぐに帰国の準備をするように」との指示に、皆小躍りして喜んだ。
 身の回りは、いつ帰国しても良いように整理しておいたが、いざ帰国となると、今までの苦しかったことが走馬灯のように思い出し、この地も思い出深いものに思えた。
 迎えに来た船は、「第一大海丸」であった。
 この船は、まずオーストラリアのシドニー港で、アッツ島(昭和19年5月29日玉砕)の残   留兵を乗せ、次に我々が居る、ポーランジァのフンボルト湾に立ち寄ったのであった。
 昭和21年3月4日、第一大海丸は我々1千40名の日本兵を乗せ、祖国に向けて出航した。
 ドラの音が高らかに鳴り響き、ニューギニア島を後にした。P_001
  戦友の顔が次々に浮かんでは消えた。
 島影が見えなくっても、何時までもその方向を見ていた。
 そして、出征からの4年半、余りにも失ったことが多かったことばかりを考えていた。
 祖国に向かう航海は順風満帆であった。
 南方に向かう時は、何時、魚雷攻撃や空襲があるかと、緊張の連続の船旅であったが、終戦から半年を経た今は、すっかり平和を取り戻した大海原であった。
 それにしてもあの大兵団、大船団が1年程度で消えるように全滅してしまうとは・・・・
 この戦争とはなんだったのだろう。
 凄惨さと虚しさだけを残したこの「戦争」と言う二文字を、どう理解すれば良いのか、
 私のような一兵卒には整理も説明もつかなかった
 昭和21年4月3日、約1か月掛けて浦賀港に入港した。
 入港してから半日もしてから上陸した。浦賀に上がった我々は、士官学校跡に2~3泊してそれぞれの故郷に向かった。
 帰り際に支給された物は毛布を3分の1に切ったもの1枚、更に、我々東北出身者にはカンメンポウ(食パン)2袋、北海道出身者には白米3合とカンメンポウ3袋を支給された。
 その支給品を毛布に包み縄で縛り列車に乗った。列車の窓は破れて窓から乗り降りする人もいる。
 列車内では朝鮮人の横暴な振る舞いが目に付いたが、戦地帰りの我々はじっと耐えるだけだった。
 負けた国の悔しさが込上げてきた。
 戦地に向かう前と比べ、人々の動きしぐさに明らかに変化を感じとれた。
 顔からは笑顔が消え、歩く姿からは活気を失っていた。
 列車は、いよいよ羽越線に入り日本海沿岸を走り始め、見覚えのある景色が広がって来た。私は海寄りの席に移り、一人で座りながら久しぶりに見る日本海の景色に見とれた。
祖父の生家、府屋駅近くの海沿いの村、中浜も、以前と変わらぬ様子に安心した。温海あたりまで来ると車内もユッタリしており、車内では母の歳に近い女性達が、懐かしい庄内なまり言葉で会話を始めた。
 いっそう故郷が近いことが嬉しく思えた。
 そのうち列車は庄内平野に入り、周りには田植え前の田園風景と、遠くには残雪を残した鳥海山がはっきりと見えてきた。
 生家の野沢村は、鳥海山の麓である。
 あの「ビアク島」でのことを思えば、二度とこの山を見れるとは思ってもいなかった。
 鶴岡、酒田を過ぎ鳥海山はどんどん大きくなり、私は駅に着くのを待ちかねて立上がり出入口で山を見ていた。
 列車はゆっくりと遊佐駅にすべり込んだ。

 昭和21年4月6日午後3時丁度、郷里の遊佐駅ホームに降り立った。
 昭和17年11月30日この駅を一人出発し、4年半ぶりにひっそりと一人帰って来た。
 まるで浦島太郎の心境であった。
 まず、駅員が女性二人であったことに驚き尋ねてみると、戦争で男手が不足し女性駅員を採用するようになったと教えてくれた。しかし、駅も町並みも鳥海山も、どこもかしこも変っていない。本土空襲のことで心配していたが、まずは安心した。
 ゆっくりと駅前広場に出ると人の目が気になり、店先の窓ガラスに姿を写して自分の服装などを見回して見た。
 小豆色のシャツに赤色の捕虜ズボン、荒縄で縛った小荷物、髭は伸び放題、髪は肩まで伸びている。このままでは家に帰る気になれず、遊佐駅前の「石川床屋」に入った。
 すると、客の爺さんが話し掛けて来た。
  「どっちから来たでー」と言う。一目で帰還兵と分かったのであろう。
 私は「南方のニューギニアから、今帰って来た。」と答えた。
 爺さんは「ホホー良く帰って来れたのー」と感心してくれた。
 遊佐町袋地の、佐々木久三郎のお爺さんだった。
 「石川床屋」さんに、「どうぞ」と言われ、椅子に座り頭にバリカンを入れられたが、金は全く持っていないのに気付いた。
 どうするかと考えてたが、正直に「今、戦地から帰ったばかりで金を持っていない、明日持って来るから」とお願いした。
 石川さんは、「いいよ、いいよ、今日はサービスだ。長い間ご苦労さん」と言ってくれた。今思うと「面付けない」ことであったが、以来、私はこの石川床屋は行きつけの床屋さんになった。
 頭もきれいになり、母の従兄(野沢生まれ)が居る駅前の「大和屋」に顔を出した。
 「いま帰った」と玄関で挨拶すれば、「ホッホー」と驚いているばかりであった。
丁度、野沢本家「松の助」の母さんも来ており、野沢まで一緒に帰ることにした。
野沢の家までの3~4キロ位の道のりを、二度三度と座り込み休み休み歩いた。
 女の足にもついて歩けない、自分の体力が情けなかった。
「やっばり弱ってるんだのー」と言われた。4月6日午後5時すぎ、4年半ぶりに我が家に着いた。
 屋敷の入り口に立つと、母「鉄江」がサツマ芋の苗床を作っているのが見えた。
「今帰った」と声を掛けると、「惣作か、ホーお前、良く生きて帰って来れたのー」ただ驚くばかり、足元を何度も見ては、足が付いていることを確かめていた。
 この時のことは、後々まで笑い話になったが、私が生還することはすっかり諦めていた様子だった。0271
 母は手荷物を私から取って家に入った。
 祖父母も家にいた。
 タ食時には家族全員が集まり、ささやかな歓迎を催してくれた。
 周囲に身の危険を感ぜず、気を遣わずにする食事は久し振りだった。
 帰ったら、あれも話そう、これも話そうと思っていたが、何から話せばいいか分からなかった。弟や妹の成長ぶりには驚いた。
 逆に家族から私を見れば、その変化にも驚いたことであろう。
 私も20歳で出征し、幾度も死線を乗り越え生還した時は25歳近くになっていた。
 更に、容貌を変化させていたのは、栄養失調で60数キロあった体重は半減し30数キロ、まるで骨と皮の状態であった。

17 戦友の実家
 家に帰り、気持ちが緩んだのか翌日に少し熱が出た。
 三日熱マラリアである。熱が上がり悪寒が激しく、震える病気である。
 妹達が付きっきりで看病したらしく、気が付いたら二人とも枕元にいた。
 余りの熱と上言に驚いたのは親達で、「せっかく帰って来たのに、ここで死なれては可愛そうだ。」と言いながら「村上医者」を呼んだそうだ。
 40度の高熱が続き顔は真っ赤になっていたという。
 三日熱マラリアという病名のとおり、3日も経ったら熱も下がり平常になった。
 油汗を流し上言まで言っていた病気が嘘のように治った。
 祖母が声を掛けて来た。
 「お前はずいぶん上言を言ってたが、粕谷って何処の人だ」と言う。
 「そうだったのか」と思った。
 粕谷博は、最後まで一緒にジャングルを共にしたが、最期は目の前で地雷で戦死している。私の生還の陰には、戦友の死という切ない事実があり、どのように粕谷の実家に報告しようかと、ずうーと悩んでいたことだった。それが上言になったのであろう。
 あの時、発電所に行き地雷に触れることが無かったら、一緒に郷里に帰り、本当の兄弟のように付き合えた男だった。
 「俺だけ帰って来た。」等と、どうして粕谷の実家に行けよう。
 しかし、祖父母に「早く行った方がいい、だんだん行きにくくなる」と諭され、妹二人に引かせたリヤカーに乗り、約6キ口離れた上藤崎の粕谷の家に向かった。
 せめて、戦死した際、持参軍票に包んだ小指の爪を遺品として持参したかったが、
 捕虜になったとき、所持品は全て没収されてしまっていた。
 粕谷の両親に、事の次第を話した。
 きっと息子の生還を期待していたろうに、私に最期の様子を聞いて、きっと無念だったに違いない。
 しかし、額きながらも気強く話しを聞いてくれた。
 粕谷の母が「不思議なことがあります」と教えてくれた。
 「4月7日夜は、障子の戸がサラサラ音がし、なぜか博が帰って来るような気がした」、
「ついさっきは、玄関で「オー」と博の声がしたので玄関を見たが誰も居なかった。
驚かすつもりで隠れていると思い、玄関に出て「博、博』 と呼んだ。」と言う。
 これらの出来事は、日にちと言い、その時間といい、私が上言で粕谷の名前を呼んでいた時間であり、又、私がリヤカーで粕谷の家に向かっている時間である。
思えば、山中で虫の息の粕谷を抱き「お前は藤崎だな、一緒に帰るぞ」と何度も叫んだ。
粕谷はただ首を縦に振るだけだったが、私に自決を思い止まらせ、以来、その魂は私に付いて来て守り通してくれたのだと思った。
 そう言えばあの時の「白い犬」は粕谷の化身だったのか。
鈴なりのトマト畑に私を案内し、泉田源吉上等兵と出会わせたことも、みんな粕谷の御霊のなしたものだった。と私は信じている。
 私は毎年9月の粕谷の命日には、実家を訪れ仏壇にお参りをしている。
 しかし、位牌には「昭和19年6月没、粕谷博之霊位」とある。
 公報は、何を根拠にその日を戦死としたか知らないが、戦死したのは、昭和19年9月上旬であり、最期を看取ったのは私である。

18  あとがき
  この手記の元となった記録は、ビアク島から帰還後、5ヶ月位たち、やっと生気を取り戻した昭和21年夏頃に記録したものです。(下段に一部ご紹介)
忘れないうちにと、出来る限り正確に記録したつもりです。
これを久しぶりに読み返すと当時のことが、昨日のことのように蘇って来たのです。
 あの頃は、まだ記憶に新しいうちに、正確に書き残しておきたく、次々に思い出される苦しみの数々や上官や戦友の姿、そして戦場の悲惨な状況を、脳裏に浮かぶがままに記録したものでした。
その断片的な記録をつなぎ合わせて整理したのが、この記録です。
今思えば、戦友らの名前等を、もっともっと記憶しておき記録しておけば良かったのにと思っていますが、出来る限りの名前を記載してあります。
 もっとも、読み返すと稚拙な内容ですが、
この記録により、少なくとも私しか知らない戦友の最期の様子を、遺族の方々に伝えることが出来るものと思いますし、又、何かのご縁でこれを読まれた方々には、その当時の20歳前後の若者が、奇しくも遭遇してしまった戦争のことを、多少でも知って頂きたいものです。

■第36師団224連隊第1中隊所属
                    元・遊佐町議員議長  石垣 祐治
 第36師団、通称「雪部隊」は、東北六県出身者を基幹とする部隊で編成されていた。
 したがって、朴納で粘り強い東北人特有の性格を持ち、戦闘においては勇猛果敢、しかも困難に絶える強靭さを有する精鋭なる師団として軍部に認められていた。
 隷属部隊として222連隊(主に岩手県出身者)、223連隊(主に秋田県出身者)、224連隊(主に山形県出身者)の3個連隊に加え、特科部隊が配属されていた。
 山形県出身の渋谷惣作氏が、大部分が岩手県出身者の222連隊に配属されたのは、職業としていた大工の腕を見込まれ、工兵隊という特科部隊に配属されていたからと思われる。そして、ニューギニア島北西部に位置するビアク島派遣となることは、運命というものであろう。
 さて師団の隷属部隊であった歩兵第222連隊(連隊長・葛目直幸大佐)及び直轄部隊の一部は、「ビアク島」派遣ということになり、昭和18年12月24日、洋上において師団長の指揮を離れ、ビアク島に上陸、第2軍の指揮下に入る。
 その数約一万人であった。
 しかし、米軍も戦略的にも要衝にあるビアク島を黙って見てはいなかった。
 大飛行場の建設に適し、日本軍陣地を攻撃できる好位置にあることに着目したマッカーサーは、日本軍上陸の約5か月後の昭和19年5月27日、ついに米軍1個師団で「ビアク島」に上陸を敢行、激しい戦闘となり、昭和19年7月2日には連隊長の葛目大佐が自決 して、終戦まで生存せる者僅か1パーセントに満たない88名、正に生き残った者は奇跡であった。南浜のリーフの島「ビアク島」で、米軍との間に死闘を繰り広げた1万有余の日本軍将兵、その大部分が還らざる人となったが、わずかな生存者の一員として、ひっそり復員した渋谷惣作氏、戦後半世紀を経た今日、その感慨はいかばかりなものであろうか。
 願わくば、今後益々長命を保たれ、平和の守護神として我らを見守られんことを切に願望する。

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2014年12月26日 (金曜日)

「ビアク島からの生還」9-10-11-12

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_2

この戦争体験記「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。
 今回は「9:ジャングルから野戦病院へ10:工兵中隊の全滅
           
11:ジャングルの彷徨            12:戦友の死

9 ジャングルから野戦病院へ
  我々は、夜になっても洞窟から外に出ることが出来なかった。
 敵は海岸沿いにテントを張り、何台も高射砲を取り付け始めていた。
 他の部隊はどうなっているのか、特に、工兵中隊の仲間はどうしているのか気になった。洞窟の中から時々外の様子を伺いながら、3日目を迎えた。
 体に入れるものが水だけのせいか、皆下痢に苦しんでいた。P_71
 仲間の救援は望めず、いずれ敵に発見されるか餓死すると判断した我々は、一か八か洞窟を出て、ジャングルから迂回し、工兵隊がいる洞窟に向かうことにした。
 洞窟の上は崖になっており、裏手はジャングルの小高い山になっていた。
 我々は3人一組で、裏手のジャングル内に一旦退却し、別々に約2キロ離れた工兵中隊の本隊で合流することにした。
  同年5月29日午後は、外から聞こえて来る銃声もなく、浜辺も静かな様子なので、鎌田分隊長は、門山政明上等兵に外の様子を確認して来るように命じた。
 瓦礫の山になった洞窟を走り出た門山上等兵は、直ぐ外の様子を確認して戻り「誰もいないです」と押し殺した声で応えた。直ぐ鎌田分隊長は立ち上がり、「これからは3人一組で行動する。何処に行くにも離れるな・・・・・」と繰り返し、ジャングルの山に駆け登った。それが鎌田分隊長達との最後の別れでもあった。
 私と門山、瀬戸山の3人は、最後に崖をよじ登った。
 しかし、あとわずかで登りきろうとした時、敵兵に発見され背後から機銃掃射を受けた。瀬戸山がやられた。我々は、瀬戸山を引きずりながら、必死になって登り切った。しかし、腹部貫通でどうにもならず、自決用の手榴弾を瀬戸山に渡して門山の後に続いた。
 あとは腹をすかしていたことも忘れ、懸命に逃げた。
 二人は、ジャングルの中を二昼夜さまよい野戦病院にたどり着いた。
 米軍の攻撃に備え野戦病院を、ジャングル奥地に移したことは知っていたが、その野戦病院に偶然たどり着いたのである。私と門山は、4・5日ぶりに食べるお粥に涙した。我々は怪我と下痢で衰弱し切っており、その日は野戦病院の世話になることになった。
 この頃、工兵中隊の本隊も全滅の危機を迎えていた。000000009869
 ここで、田村洋三著「玉砕・ビアク島」に、工兵中隊に関し記載されている箇所をそのまま抜粋する。
 「6月31日は須藤第三大隊による白昼戦が主で、午前9時に迫撃第三中隊の千田小隊と吉本小隊はマンドン付近の敵迫撃砲陣地に、同10時ごろ配属の工兵中隊(佐藤長平中隊)の沢田小隊と第三六師団海上輸送隊の辛川小隊はふただびマンドン付近に、正午ごろには亀井第十中隊の宮坂小隊がイブディ付近に、それぞれ攻撃を加え相当の戦果を挙げた。」
 と唯一工兵中隊に触れている。Biak_map_2
  部隊本部の命令受領者であった松田軍曹、高橋澄上等兵が、部隊本部のある「西洞窟」に行ったが共に戦死したとの報を知り、私は野戦病院から工兵中隊本部に向かった。
 工兵中隊本部に、ジャングルを抜けてようやく辿り着き、上官に簡単にこれまでの状況を説明した。そして、敵上陸から5日目にして、工兵中隊で生存が確認出来た者は百名足らずであったことを知った。
 約2百30名の工兵中隊は、半数以下となっていたのである。
 本隊と合流し半時も経たないうち、「中隊長から戦死した松田軍曹、高橋澄上等兵に代わって、渋谷兵長と大屋軍曹は、中隊付命令受領者として申告するように」と下命された。
 さっそく連隊本部のある西洞窟に、中隊付命令受領者として申告に向かった。
 この頃から約一か月間、私は中隊付命令受領者として、「西洞窟」や中Nisi_image1隊本部がある洞窟で殆どを過ごすことなる。又、衛生兵を兼ねていた私は、負傷兵の看護を担当していたが、十分な医療設備や医薬品がある訳でなく、目の前で次々に苦しみながら死んでいく仲間を何人も看取ることになった。
 屍は埋葬する余裕も体力も無く、ただ洞窟から引きずり運び出し、その辺りに野晒しにした状態であった。工兵中隊がほぼ壊滅したのは昭和19年6月末、敵がキャンプ地としていたマンドン攻撃であった。洞窟に運び込まれた負傷兵から、工兵中隊・荒井平八郎小隊長の戦死の状況を伝えられた。
10 工兵中隊の全滅 
 敵は樹木の上にやぐらを組み、機関銃を据えて雨嵐のように撃って来たという。
 二日間の攻防も空しく、荒井平八郎小隊長は「中隊長殿、荒井小隊前進不可能」と叫んだ。
 その声に中隊長は「馬鹿者、突撃・突撃」と軍刀を振り上げ、怒鳴った。
 仕方なく前進する工兵隊は、機関銃の格好の餌食となり、バタバタと倒れ全滅した。
 しかし、その後方にいた中隊長は死を免れたという。
 何とも割り切れないことである。
 この激戦の中には、私と同期生の酒田市飛島勝浦「なごし旅館」の分家にあたる、小隊長当番兵、鈴木芳郎上等兵がいたが、頭部貫通で即死した。
 この戦いから数日後の、昭和19年7月2日、葛目部隊長(当時・大佐53歳)は自決し、その後は本国との通信は途絶し、我々は死を待つだけの部隊となった。
 岩手県一の関出身の、当時当番兵だった上関義一軍曹は、自決当時を述懐し、葛目部隊長は、副官と旗手の久村少尉と支隊本部付きの崩市太郎曹長を側に呼び、上関には「長い間お世話になった。君は必ず生きて帰り、四国高知(長岡郡)の実家にこの事を伝えてくれ」と話し、副官には「部隊長自決のことは誰にも知らせるな、以後の戦闘はゲリラ戦に転換するように」と指示、旗手の久村少尉には、「軍旗を焼いて敵には渡すな」等と言い残したという。
 軍旗は、天皇陛下から各連隊ごとに直接手渡されたものであり、それを敵に渡すことは、どんなことがあろうとも許されることは無かったのだ。また、部隊に万が一の場合は焼却する建前であり、これを奉焼(ほうしょう)と言い、奉焼した部隊長は責任をとって自決することが不文律であった
 葛目部隊長自決の日を境に、連隊本部からの命令は全く無かった。
 それからは生きている者同士、ジャングルの中を彷徨い歩くだけだった。
 敵に出会えば交戦し、その度に仲間は減っていく。
 今度こそ自分の番と幾度も死を覚悟したが、幸か不幸か生き続けた。
 昭和19年7月中旬頃、生き残っていた工兵中隊は26名、無傷の者はたった8名であった。
 我々、工兵中隊最後の戦闘は、昭和19年7月中旬頃と記憶している。米軍が、爆弾で壊れた飛行場整備に、戦車を先頭にトラックが骨材を満載して来るところに、生存者26名で肉弾攻撃を仕掛けたのである。我々は、攻撃直前に一升瓶に半分ほど残った酒を全員で飲み交わし、敵の戦車やトラックに蹄型式地雷を踏ませて爆破攻撃するために、飛行場に通じる道路脇のジュングル両側に潜んだ。しかし、一斉の攻撃もたいした戦果を上げることはできず、戦車やトラックの上から機銃掃射を受け、戦友はバタバタ倒れた。
 我々は死に場所を求めていた。(●はここで戦死)
 ここで当時の生存者と、肉弾戦参加者を記憶の限り記述する。
○ 佐藤長平中尉(士官候補生、大正10年生まれ、福島県国見町出身)
● 近藤   軍曹(青森県出身)
● 米谷仁吉兵長(秋田県出身)
○ 加藤友治兵長(秋田県出身)
○ 渋谷惣作兵長(山形県出身)・・生還
● 小原俊郎上等兵
● 滝島   上等兵
○ 阿部文治上等兵
● 大平盛雄上等兵(岩手県出身)
○ 千葉幸一一等兵(岩手県一関出身)
○ 粕谷(生還後三浦姓)辰治一等兵(山形県温海町出身)・・生還
○ 粕谷 博一等兵(山形県遊佐町藤崎出身)
● 安藤嘉吉一等兵
● 下坪清太郎一等兵(岩手県出身)
● 水平正治一等兵
○ 熊谷正蔵上等兵(岩手県花巻出身)
あと10名の氏名は分からない。
 このとき、安藤嘉吉一等兵は、私の直近に居たが戦車砲を直撃され、一瞬にして消えるように吹っ飛び戦死した。
 私も敵に約20メートル先から機銃掃射され、咄嗟に倒木の陰に身を潜めたが、その倒木は木片が砕け散るように粉々になりながらも我が身を守ってくれた。敵が通り過ぎてから弾痕を確認すると、倒木が無ければ間違いなく5~6発は私に命中していた。
 結局、この肉弾線で18人が戦死し、生存(○印)は中隊長以下8名だけであった。
 ビアク島上陸当時、工兵中隊は約230名余いたのである。 
 私は、またも、幸か不幸か生き続けた。
 この頃、阿部春治兵長は捜してもいなかったが、既に捕虜になっていたことは後に分かった。
 なお、米軍はほぼビアク島を占領すると、直ちに飛行場の整備に着手していた。
 我々が上陸以来3ヶ月以上かかって、人馬を使って造った約1キロの滑走路であったが、米軍はたったの数週間でブルドーザーを何台も使い、更に鉄板等を効率よく使い、3倍以上の長さに整備したのである。この辺りにも、彼我の戦力差の大きさを、思い知らされたものだった。

11 ジャングルの彷徨 
 工兵中隊約200名は、とうとう8名に減ってしまった。
 その名は
 ○佐藤長平 中尉・中隊長(福島県国見町)
 ○渋谷惣作 兵長
 ○加藤友治 兵長
 ○粕谷辰治 一等兵
 ○粕谷 博 一等兵
 ○千葉幸一 一等兵(岩手県一ノ関市)
 ○阿部文治 上等兵
 ○熊谷正蔵 上等兵
 生き残った我々8名は、来る日も来る日も山中を彷徨した。
 すでに、部隊などと呼べる姿ではなかった。さまよう目的は、単に食べ物捜しであった。
「衣食足りて礼節を知る」と言うが、今の状態は浮浪者以下、いや人間以下であった。
軍隊は、規律正しく整然と行動している時こそ強さと頼もしさを発揮するが、これを失った時は、余りにも浅ましく醜いものと思えた。
 我々は、今日を生きるようとする本能だけで彷徨する動物であった。
 異常な飢餓状態は、例外なく人間を獣に変えてしまうことを我が身を持って体験したのである。
 昭和19年7月23日、私は満22歳の誕生日をビアク島のジャングルの中で迎えた。
 既に戦火は止んでいたが、米軍は敗走する日本軍を見つけるため、明るい内は島内をくまなく捜し回っていた。
 我々は昼は山中に隠れ、夜だけ行動した。
 ここで私達が、何を食料にしていたかを説明しておく。
 ビアク島には、野生の椰子の実やマンゴー、サンゴヤシの新芽、バナナの根(大根のような味)等が、季節に関係なく植生しており、これらを手当たりに食べた。
 甘いものばかり食べると、無性に塩分を欲した。
 海水は島周辺にいくらあっても、海岸線は何処も敵がテントを張っていて昼間は行くことが出来なかったが、夜、暗闇にまぎれて海に出て海水を飲んだ。
水筒にも海水を入れておいた。
 海岸には、敵味方の腐乱した遺体が無造作に散乱し、その近くには無数の魚貝が集っていた。
 つまり、遺体は魚貝のえさになっていたのである。
 しかし、背に腹は代えられず暗闇に紛れて浜辺に出て、種々の貝を捕り、よく食したが決まって下痢をした。出来れば、焼くか煮て食べたいところだったが、火を使うことは出来なかった。
 煙が立ち敵に発見されるおそれがあったのだ。
 戦友らの名誉のために付け加えておくが、帰国後、特に帰還兵は飢餓に耐えられず、戦友の人肉を食した等の批評をされたことがあったが、そのようなこと、あり得ないことである。当時の我々軍人に、そのような発想は生まれもしないし、また、南国の気候は、遺体を1日もしないうちに腐敗させていたのだ。
 食糧調達にはこんなこともあった。
島北部、ソリド部落にはソリド川が流れており、その周辺に現地人が耕作するタロイモ畑があった。
 そのイモ掘りを計画した。つまり泥棒である。
 ところが出発の日に、佐藤中隊長が高熱を出したのでジャングルの木陰に草を枕に寝かせ、加藤友治兵長と粕谷辰治一等兵を看病のため残し、我々5人で出発した。
 この5名は
    ○ 渋谷 惣作 兵長 
    ○ 粕谷  博 一等兵
    ○ 千葉 幸一 一等兵
    ○ 阿部 文治 上等兵
    ○ 熊谷 正蔵 上等兵
 であった。
 鬱蒼とし、昼なお暗いジャングルの中を、衰弱した体を6尺棒で支えよたよた歩き続けた。帯剣も帰路の目印に、木の皮に印を付けるときや、芋掘り等に使う道具に化していた。
原住民の通る道は歩くことは出来なかった。既に原住民は敵方に宣撫され、日本兵を発見し米軍に報告すると褒美を貰っていたのだ。
 我々5名は道無き道を、帯剣で目印に木の皮を剥ぎつつ、ただ黙々と歩いた。
 藤つるや木の根につまずきながらも歩くこと二日間、ようやく目的の畑に着いた。
 月明かりを頼りに、帯剣でイモを堀り生のまま食べ、又、掘り続けていたら夜が明けた。
山の中に隠れて一眠りし、中隊長達の所に戻ることにした。
 衰弱し切った体には沢山のイモは背負えず、皆適当な量を背負い、又、木に付けた目印を頼りによたよた歩き始めた。
 皆何を思っているのか、父母・兄弟あるいは妻子のことか。
この先どうなるのか明日をも知れない命に、いつも思うことは祖国のことばかり、悔しさと寂しさが交差し、泥と汗にまみれた頬に涙が伝う。
 時おり、猿の鳴き声がジャングルの静寂を破る。
 「キキ」「ツツ」と、甲高く鳴きながら木から木へと身軽に伝う猿達を羨ましく思う。
 この島には私が見た限りでは猿が一番大きな動物であり、人を襲う猛禽類はいなかったことが幸いした。派手な色彩の極楽鳥は良く見かけ、食べ物にしたかったが、とても捕まえられるものではなかった。
 島内のいたるところに激しい戦いの跡が残っていた。
 散乱する戦友の屍辺りには、血なまぐさい空気が漂っていた。
 南国の暑さで腐敗も早く、既に白骨と化したものも多い。
 そっと手を合わせつつ、明日の我が身の姿を想像した。

 ジャングルを一日中歩き続け夜になった。
 遠くに明かりが見えて来た。
 粕谷博一等兵が確認して来て、「敵がテントを張っている。通り抜け出来ない。」と言う。
その地点を迂回しようとしたが、元の道に戻れない。完全に道に迷った。マラリヤ熱を出す者も出てきたが、お互いに助け合いながら山草、木の実等を食べながら毎夜歩く。
 そのうち、阿部上等兵の様子がおかしくなった。
 「俺の指9本しかない」とか「豆腐を食いたい」等と言い出す。
 「阿部どうした」と聞いても、ニヤニヤ笑っているだけ、何の手当てもしてやれずに、一眠りしていたら死んでいた。
 それから10日もたったろうか、今度は熊谷正蔵上等兵が動けなくなった。
 ボスネックの裏山の小さな洞窟で看病したが、2日目で死んだ。
 空腹と疲労とマラリヤ熱が重なり、皆倒れて行く。ついに3人になった。
    ○ 渋谷 惣作 兵 長 
    ○ 粕谷  博 一等兵
    ○ 千葉 幸一 一等兵
  残った三人を見れば、私が一番体力を残しているように思えた。
 私は決心した。
 「夕方暗くなり始めたら、食べ物を探して来るからお前達は、イモでも食っていろ。」と言い残し、現地人から手に入れた背負い籠を背に出発した。
 私は敵から、食糧を奪って来ることを計画したのである。
 目指した所は、米軍の屯舎内にある火力発電所であった。
月明かりを頼りに発電所に接近すると、ゴーゴーと発電音が高鳴っていた。
 背負い籠は近くに置いて宿舎の床下に潜り込んだ。5~6の警備兵しかいないことが分かった。
 床下に2~3時間潜み、敵兵が寝静まるのを待って、食堂に侵入し食パンをあるだけ盗んだ。 満月が青白く輝く夜であった。敵陣の食料とは言え、多少の良心の呵責を覚えながらも、皆が喜ぶ姿を思いつつ急いで戻った。
 3人とも久しぶりの食べ物に舌つづみを打った。
 粕谷博が声をかけて来た。
 「渋谷、俺の家は下藤崎の西遊佐小学校の角から3軒目だ。帰ったら遊びに来てくれ、今日のお返しをたっぷりするぞ。」、
 「ああ行くぞ。」と生返事をすると、千葉幸一も「そのときは豆腐をたらふく喰いたいな。」と話しに加わってきた。
 帰還できるあてなど全くない現状を、皆認識しながらの、夢のような会話であった。
 そのうち白じら夜が明けて来た。
 我々は朝日を眺めながら、今日も生き延びたことを、確認しあっていた。
12 戦友の死 
 米軍上陸から約三か月が過ぎ、昭和19年9月に入っていた。
  この頃には、日本兵の姿を見掛けることは全く無かった。
 この島には生き延びている日本兵は、我々しかいないのではないかと思うくらい、静かであった。
 その頃の我々の姿を説明する。
 私は昭和19年2月15日付で兵長任命以来、バリカンを頭に入れてなく髪は首筋まで伸び、髭は伸び放題、猿より男振りは悪い。軍服も汚れに汚れ、たまにスコールが降れば雨水で洗ったが、浮浪者よりみすぼらしい。
  栄養不足で痩せこけ、手足の骨が浮いている。
わずかに軍人と分かるのは、軍帽と腰の帯剣だけであった。3人共似たような格好である。夜は食糧探し、明ければ洞窟に潜み、祖国の話しや身の上話し、最後はやはり食い物のことである。
 これまでも草や木の実は勿論、ネズミにヘビ、トカゲ等々何でも食った。
 そのうち、二人は以前に盗んで食べた食パンの味を思い出したのか、「渋谷、三人で発電所に行こう」と言い出した。私は、前回余りにも恐ろしい体験をしたので行く気になれなかったが、空腹に負け、いつしか発電所近くに来ていた。私は道を知っているので先になって歩いていたが、粕谷がどうしたわけか横道に入って行った。
 と、そのとき粕谷が草むらに敷設した地雷の線にひっ掛かったのだ。
 粕谷の直ぐ近くで一瞬青白い煙が「ボッー」と上がった。
 私は「地雷」と叫んで伏せたが、立って逃げた二人のすぐ後で「ドカーン」と爆発した。
 千葉幸一は即死。粕谷博は虫の息だった。 
 私は粕谷の頭を膝に抱き、「粕谷頑張れ、藤崎に一緒に帰ろう。頑張れ。」と何度も繰り返したが、首を縦に振り頷くが言葉に成らない。
 腹部貫通と大腿部盲貫の重傷である。
 どうすることも出来ず30分程で死んだ。
 粕谷博の実家は、山形県遊佐町上藤崎、私の実家の野沢から約6キロの村だった。
 私は二人を並べて寝かし、草を被せた。
 とうとう一人ぼっちになった。
 爆発音で敵が様子を見に来る恐れがあったが、直ぐには立ち去りがたかった。
 草を分けては二人の顔を何度も見た。祖国に帰り、やりたいことが一杯あったであろう。
 幾度も激しい砲弾をくぐり抜け、飢えや寂しさと戦いこれまで生きた延びた二人とは、
是非、一緒に帰還したかった。良き戦友として、生涯の付き合いになったであろう。
 一人になった私は、どうすれば良いか分からなかった。
 私も自決しようと思った。
 そう思うと親、兄弟、親戚のこと、恋しい人のこと、次から次へと浮かび、直ぐには決心が付かないまま浅い眠りに入った。
 うとうとしては目が覚め、又、死ぬぞと思った。
 隣には粕谷と千葉の亡骸があった。
 一緒にここで眠るのが自然と思えた。
 このまま生き延びるより死ぬ方がずっと楽であり簡単に思えた。
 しかし、じっと二人を見ていると、二人は「生きて帰えろ、郷里にこのことを伝えてくれ、お前しかいないじゃないか。」と言った。
 言ったように聞こえた。
 夢か現実(うつつ)か分からない妄想の一夜は続いた。
 小鳥のさえずりで目が覚めた。朝日が昇りジャングルに命の息吹がまた蘇った。
 いつに無く、草木も動物も生き生きして見えた。
 今度は、何としても生きて祖国に帰り、この惨状を伝える必要があると決意した。
 私は、二人の亡骸に近寄り、二人の小指の爪をかじり取り、軍票(軍が発行した紙幣)に包んだ。

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2014年12月25日 (木曜日)

「ビアク島からの生還」5-6-7-8

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊~
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_3

 この戦争記録「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。
 今回は「5:ビアク島上陸  6:連日の空襲  7:米軍上陸  8:地獄と化した洞窟

5 ビアク島上陸
 昭和18年12月25日、我々は目的地のビアク島東南沖に到着した。
 丁度引き潮で、一キロ近くも潮が引き、波も静かな南海の孤島であった。
離れて眺める島は、エメラルドグリーンの海に浮かぶ緑に覆われた美しい島でMapoceania111_2ある。船を接岸する港はなく、島から随分離れた所に停泊する。
 さっそく、我々より早く上陸している、「海軍陸戦隊・暁部隊」の船舶工兵一個小隊による上陸用大型船艇で上陸作業が開始された。兵士・軍属約1万2千名の上陸はその日の夕方までかかり、食糧、弾薬等の荷降ろしは相当日数を要し、海上からは、連日クレーンの音が響いていた。
 ビアク島は、ニューギニア島西北部のチェンドラワシ湾に浮かぶ、二等辺三角形を左に傾けたような形をした島で、南北約20キロ、東西約12キロ、一周約60キロ、島の周りは珊瑚礁で囲まれ、砂浜には椰子の木立が豊かに茂り南国情緒が豊かであった。
 この島は赤道直下にしては住み易い方なのか、原住民パプア族も海岸沿いに海上に張り出した丸太小屋に住んでいた。
 男はふんどし、女は腰蓑を巻きつけた裸に近い格好であった。
 心配していた原住民の抵抗は全くなかった。
 また、島内の至る所に鍾乳洞があり、後に空襲時の避難や物資の保管場所、更に兵士の宿舎代わりになった。食糧となるバナナ、ヤシの実、パパイヤ等の南方の果物も豊富と聞いてはいたが、精々原住民の人数に丁度程度の収穫量であり、一度に一万人以上の兵士が上陸したのであるから、我々兵士の腹を満たすことはなかった。
 それにしても、ビアク島の原住民パプア族に対しては、食糧の確保をはじめ、随分生活を脅かしたことであろうが、当時の我々には、原住民のことまで思いやる気持ちを持ち合わせていなかった。
 我々の上陸地点はボスネックという港だった。
 港といっても、現地人がカヌーの出入りに使用する程度の、小さな入り江であったが、上陸用大型船艇を使っての上陸には一番適している所で、後に米軍もこの地点から集中的に上陸してきた所となった。
 我々「工兵隊木工班」10名は、ボートに乗り換え一足先に上陸し、葛目部隊長が休む小屋造りに取り掛かった。
 二間に三間の小屋である。その日のうちに完成させた。
 我々木工班10名は、翌日からも野戦病院をはじめ、兵士の宿舎等を次々に造り続け、大工の技術は最大限に利用された。
 次は、道路作業を開始し、ボスネック港からマンドンまでの約2キロの道路は19年2月頃までに造り終えた。
 これと並行して、ジャングル内を縦横に切り開く道路構築と飛行場工事に取り掛かり、工兵中隊(約2百30名編成)の3個小隊のうち、1個小隊は道路、2個小隊は飛行場を担当した。 
 我々、工兵中隊は昼夜の別なく働き続けた。
 又、この作業には全部隊から、将兵の別なく加わり、突貫工事で19年4月頃までに造り終えた。全ての工事が終了の日、全部隊を完成したばかりの飛行場に集め、葛目部隊長から訓辞があった。 
 「この編成を以て米英に当たるならば、米英ごときは一蹴である。」と繰り返し、爛々と輝く目で語った様子を今も脳裏に焼き付いている。
 第222連隊1万2千有余の将兵は、心ひとつになっていた。

6 連日の空襲
 昭和19年3月ころ、部隊運用に幾らか余裕があったのか、我々第一大隊・第二中隊の工兵中隊第三小隊は、澤田少尉の指揮で約20日間、ビアク島の隣Mapoceania2島「ヤーペン島」に道路工事に行ったことがあった。
 この島には、日本の看護婦訓練所があり、看護婦が60人もいた。ここで看護教育を受け、各地の野戦病院等に送られるのであろう。 
 若い女性の身ながらご苦労なことと思った。
 昭和19年4月17日(この日、サルミに米軍上陸)、ヤーペン島からビアク島に戻ったところ、丁度、ボスネック沖には駆逐艦一隻と輸送船二隻が入いっており、我々工兵隊も直ぐ荷降ろしを手伝った。ところが、正午近くになり、今にもスコールが来そうな天候を恨めしく思いつつ、見上げた空の雲の切れ間からロッキード戦闘機が急降下し、私の足元数メートル付近に機銃の弾痕を残して上昇した。
 二回に渡り機銃掃射を受けた。こちらも艦上から砲撃したが何の効果もなく、私の目の前で、作業中の兵士30余名の死者が出た。
これが我々がビアク島に来て最初の敵機飛来による被害であった。
 その日、米軍は、ビアク島に程近いサルミに上陸し、拠点固めをしていたのであった。空襲はこの日を境に連日続くことになり、更に日を増して激しくなる一方となった。
 ビアク島に米軍が上陸する、昭和19年5月27日まで約40日間は、毎日3回は定期便のように、40機前後で飛来し、爆撃を続けたのである。
一回に平均40機とし、一日に3回、つまり120機が飛来する計算になる。
 爆弾投下数も、「コンソリデーテット重爆撃機B24」一機に爆弾4発を積めば120機で480発、40日間で1万9200発の爆弾投下数であり、驚く数字である。我々は空襲のたびに、近くの洞窟に避難したが、至近に爆弾投下されたときは洞窟内が大地震のごとく揺られ、鍾乳石が砕けて落下した。
 この爆撃は30から40分続くのであるが、皆息を沈めて敵機が去るのを待つだけであった。島中の至る所に、爆弾による大きな穴が開き、滑走路は埋めても埋めても爆弾にやられた。
 当時の日本軍はブルドーザーなどはなく、我々兵士がスコップで埋めていたのである。形のある建物もすべて姿を消し、上陸当時、海岸線に美しく茂っていた椰子の木立も、爆弾で鉈で削られたように倒れ、ヤシの実などは全くなかった。更に、人的被害も大きく、爆風による戦死者を含め、マラリア、デング熱等の病気で、米軍が上陸するまでの間に、工兵中隊では四分の一の兵士が既に戦死していたのである。

7 米軍上陸
  同年5月24日、警戒中の哨戒機から、「空母二隻を含む、連合艦隊がビアク島方向に進行中、数日中に到着の予定」との報を受けていた。いよBiak_map_2いよ決戦の日が近いと感じた我々は、全員それぞれの陣地で戦闘準備についた。
 私は、鎌田分隊長の指揮で、ボスネック港近くの鍾乳洞に入っていた。この洞窟の入口は、縦横約2メートルあり、横穴を降りるように進むと瓢箪のように広く、奥行きは30メートル位で、5~60人は十分入れ、南国の暑さを凌ぐには格好の場所でもあった。
 尚、工兵中隊の本隊は、我々がいる洞窟からは約2キロ離れたマンドンに近い洞窟を拠点としていた。このボスネックの洞窟には、工兵隊の兵士は15名が入っていた。
 記憶のある名は、
 鎌田 分隊長
 米谷仁吉 上等兵(秋田県出身)
 晴山 兵長
 熊谷正蔵 上等兵(岩手県花巻出身)
 鎌田 伍長(岩手県出身)
 渋谷惣作 兵長(山形県遊佐町出身)
 藤巻二郎 一等兵、
 瀬戸山晴治 一等兵(岩手県出身)
 門山政明 上等兵(山形県松山町出身)
 他の6名は思い出せない。
 我々は長期戦を考慮し、木の枝や草等を洞窟に持ち込み思い思いの場所に寝床を造っていた。下は凸凹し、けっして寝やすい場所ではなかったが、草木でベットを造り工夫していた。
 工兵隊にとって、こんなことはお手の物だった。
 この洞窟に入り三日たっても敵は現れず、「米軍は我々を怖れて、ビアク島には来ないよ」、「戦艦大和も応援に来るらしいぞ」などと、未確認の饒舌を言う者もおり、一時的にも安堵した空気が流れ、酒を酌み交わす者もいた。
 しかし、運命の日は確実にやってきた。
 昭和19年5月27日の朝、米山仁吉上等兵が「顔を洗いに行こう」と私を誘ってきた。
 洞窟を出ると、雲一つない澄み切った青空が広がり、南洋の朝日は眩しく美しかった。二人は椰子の木立の浜辺を歩きながら、引き潮の岩間から湧き出る真水を探していた。すると、遥か沖合に数10隻の船を発見した米谷が、「渋谷、我が軍も海軍記念日を期して攻戦に入るのかなー」と話しかける。
 「海軍記念日」が制定されたのは、明治38年(1905年)5月27日、日露戦争の戦局の打開を目指し旅順港を封鎖されて身動きのとれないロシア大平洋艦隊を救出するために派遣された、当時最強と言われたロジェストウェンスキ-提督率いる、ロシアバルチック艦隊と日本海軍が対馬沖の日本海で遭遇。
 2日間に亘る壮絶な砲雷撃戦の末、旗艦「三笠」に座乗する東郷平八郎元帥率いる帝国海軍連合艦隊が3隻を残しすべて撃沈。残る3隻もすべて捕獲するという大戦果を挙げた。この結果、ロシア海軍は事実上崩壊し日露戦争は一気に終結に向かったものであり、この大勝利を記念して5月27日を「海軍記念日」と制定されたのである。

  私も今日は「海軍記念日」だったことを思い出し、沖合に視線を移せば、アオキ島の手前に黒々と船が見える。
  「どれが大和かな」と私も思いつつ、まだ歩き続ける二人を驚かせたのは、「ドドーン」という一発の砲音であった。それでもまだ、味方の演習かなと思いながら、立ち止まり見ていると、戦艦上から「パパッ」と赤い火花がはじけたと思うや、「ドドーン」と響き、空気を引き裂くような唸りを上げ、大きな砲弾が島に飛んできて大地を揺るがした。
 二人は「敵襲」と叫びながら全力で洞窟に向かった。
 昭和19年5月27日、午前4時30分頃のことであった。
 その後は数秒たりとも絶え間ない艦砲射撃が、正午頃まで続いた。
 我々のいる洞窟は上陸目標地点の正面に位置しており、近くには何発となく砲弾が落ち、その度に洞窟が崩れ落ちる恐怖感が我々を襲った。
 米軍は上陸に備え、徹底した艦砲射撃を行い日本軍の動きを制すると共に、戦意を奪う作戦をとったものと思う。
 事実、米軍は各地の上陸作戦でも、「空襲」、「艦砲射撃」、そして「上陸」というパターンを踏み、自軍の犠牲者を最小限にする作戦を展開していた。

8 地獄と化した洞窟
ボスネック港付近は、兵員揚陸艇や水陸両用上陸戦車を上陸されるには格好の場所であった。しかし、我々がいる洞窟はこの港から約百メートルの地点にあり、上陸すれば一早く発見される場所でもあった。一旦は、工兵中隊の本隊がある洞窟に退避を試みたが、艦砲射撃の物凄さに断念した。
 後は銃を構えて敵を迎え撃つ態勢を取った。
 運を天に任せるよりなかった。
 艦砲射撃は正午すぎにおさまり、いよいよ敵は兵員揚陸艇や水陸両用戦車で大挙して上陸してきた。
今度は激しい機関銃音であった。
 洞窟から出て迎え撃つにしても、あまりにも多勢に無勢であった。
 その日の午後二時頃と思う。
 洞窟の入り口方向から戦車のキャタビラ音が聞こえた。
 いよいよ来たぞと思うや、「日本兵隊、居るか」と呼ぶスピーカーの大声にびっくりし、銃を入り口方向に構えた。米軍の通訳の声であった。
 この時、恐怖感に追い討ちをかけるような大声に驚いたのか、戦友の一人が反射的に  
「居ます」と返事し、入口方向に歩き始めたのだ。
 全員がこれで最期かと覚悟したその瞬間、鎌田分隊長は、「だめだ、やれ」とドスの効いた声で藤巻一等兵に顎で命じた。
 戦場において、「だめだ、やれ」とは、このような場合、仲間でも殺せとの暗黙の言葉であった。藤巻一等兵は、帯剣を抜きながら素早く接近し、やむ得ずその兵を犠牲にした。
 これが、戦場の厳しい掟であった。
 遺族の方々も、まさか仲間に殺されたとは、思ってもいないだろう。
 まもなく否応なしに、敵に殺される運命にある仲間を、このように殺害する必要があったのかと、今思うと何とも情けないことである。
 それから間もなく、今度は入口方向から「ゴトン、ゴトン」とドラム缶が転がるような音がした、と思うや、一気に火の手が上がった。
 洞窟は一瞬にして火の穴と化した。 
 ガソリン入りのドラム缶数個を投げ込まれ火炎放射機で点火されたのである。
 さらに続いて、耳をつんざく衝撃音が洞窟内に走った。
 我々の止めを刺すかのごとく、戦車砲から入口目掛けて5~6発の砲弾が撃ち込まれたのである。
 この強烈な衝撃で、洞窟内の岩盤が崩れ落ちた。
 火炎と砲弾の攻撃に加え、岩盤の崩壊に私は死を覚悟した。
皆、耳を押さえながら、火炎で赤く照らされた洞窟の奥深くまで引き下がり、幾らかでも火の手から遠ざかった。
 それでも洞窟内の温度は焦げつく程に上昇し、汗はだくだく流れ、酸素も欠乏し呼吸困難に陥った。
 いつしか私は倒れていた。
 どの位、気を失っていたか分からないが、虚ろな意識の中で、冷たい水が顔を濡らしていることに気が付いた。
 岩盤の切れ間から冷たい水が流れ出ていたのだ。
 手のひらで隠れる程の小さな流れが、僅かに空気を運び私を救ったことが分かった。呼吸が楽になると思い切りその水を呑んだ。
 「恵みの水、救いの水」と思い涙が溢れた。
 あの時の水の味は今も忘れられない。
 洞窟内部は、まだゴーゴー音を出してガソリンが燃えていた。
 私は「おーい、こっちに来い。水が流れているぞ。」と叫んで戦友を呼び寄せ
 「水に鼻をくっつけろ、呼吸が楽になるぞー」と教えた。
 生きている者は皆、腹這いになって鼻を水につけていた。
 暫くして火の手も衰えると、また洞窟内は薄暗くなった。
 敵は全滅したと判断したのか、この洞窟には再び攻撃して来なかった。
 鎌田分隊長は、突然「生きている者名乗れ」と声を張り上げた。
 薄暗い洞窟の中でそれぞれ名乗った。
 9名残っていた。 
 いや9名も生き残ったのは、不思議な状況であった。
 もう最期かと諦め、入口近くで酒やビールを呑んでいた古兵達は、突然の火炎に巻き込まれ一瞬にして死んでいたのである。
 当然、入口近くに積んであった食糧は全部焼け焦げていた。
 缶詰をはじめ、カルピスや酒等も沢山あったが何も残っていなかった。
 これが米軍上陸一日目の出来事であった。
 それから3日間、我々は洞窟の水だけで過ごした。

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2014年12月24日 (水曜日)

「ビアク島からの生還」序文・前書・入隊

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊~
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_4

 この戦争記録「ビアク島からの生還 」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長渋谷惣作の実録です。
 今回は「序文・1:まえがき・2:入隊そして出征・3:北支より南方へ・4:輸送船団
  地獄のニューギニア戦線・ビアク島
   
序文
 太平洋戦争における最大の激戦地と言われる、現在はインドネシア領「ニューギニア・ビアク島(Biak_New-Guinea)に一兵卒として派遣され生還した、山形県遊佐町野沢出身の「渋谷惣作」の戦争体験記です。Kokubo_ken
 ビアク島戦は「絶対国防圏の天王山」と位置づけられ、ミッドウェー戦やガダルカナル島戦以降劣勢に回った日本軍が起死回生を図るため、当時、装備・兵の士気ともに日本軍最強師団と言われた、青森、岩手、秋田、山形県の東北健児で編成された陸軍36師団(師団長・田上八郎中将、参謀長・今田新太郎少将)・歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)3,815名を中心に、海軍陸戦隊1,947名、後方支援部隊約7千2百名を合わせ、約1万3千名の守備隊が派遣されました。 
 222連隊のビアク島上陸は昭和18年12月25日、そして、米軍第41歩兵師団約3万名がビアク島に上陸を開始した日は、5か月後の昭和19年5月27日(海軍記念日)の早朝のことでした。陸軍最強を誇る222連隊の善戦により、飛行場占領の予定が大幅に遅れた米軍は、第34歩兵連隊を追加投入、第41歩兵師団長ホレース・ヒュラー少将を解任し、第1軍団長アイケルバーガー中将が直接作戦指揮を執ったと言う。この不撤退の米軍に対し、222連隊等の将兵は応援の無きまま約1か月間、ビアク島を死守すべく勇敢に戦いましたが、88名(0.6パーセント)を残し全滅しています。Newimage_top_map_5
 後に、「北のアッツ島、(戦死2,638名、生還27名)、南のビアク島」と評され、壮絶な玉砕の島として、それぞれ戦史に名を残していますが、本土から食料、弾薬等の補給を絶たれた日本軍の南海の孤島での戦闘が、いかに激しく厳しいものであったかは、この生き残りの数字が裏づけています。生還された方々も、年々減少している今日、「記録を残すことは、生き残った者の使命と思い、生き恥を忍んで記録します。」と、思い出される限りの、戦友や上官の名前を上げて当時の様子を克明に語っています。  尚、著者が所属していた「第222連隊・第一大隊・第二中隊「工兵中隊」(当時230名余)からは3名生還していますが、親交深かったお二人も鬼籍に入られ、工兵中隊が全滅していく様子を知る者は只一人となっております。(著者は平成18年死去) 
 日本軍がニューギニア島を、南太平洋戦域の重要拠点にすべく進攻を開始したのは、昭和17年3月頃であった。当時、この辺りの島々には、オランダやイギリスの部隊が僅かに駐屯していたが、日本軍は時の勢いに乗じ、戦闘を交えることなく、これら駐屯部隊をハエを追い払うように、次々と占領していった。
 更に、マノクワリには二ユーギニア軍政府が設置され、民間産業団体による資源調査隊も送り込まれていた。
 日本国は、この島を南太平洋戦線の重要拠点にすべく計画していたのである。
 私が属する、当時、装備・兵の士気ともに、日本軍最強といわれた陸軍歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)3,815名を中心とする約1万余名が、ニューギニア島北部のチェンドラワシ湾に浮かぶビアク島に増援部隊として派遣されたのは、昭和18年12月25日のことであった。 

1 まえがき  
 ビアク島の守備は、我々、歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)に加えて、海軍第28根拠地隊約2千名(司令官・千田貞敏)の、計約1万2千800名で、万全の備えと大本営は判断していた。
 だが、連合軍も黙ってはいなかった。Map_21
 昭和18年2月、ソロモン地域のガダルカナル島を反抗の拠点とした米軍は、まず、ブーゲンビル、ラバウルを陥落させ、昭和18年9月には、ニューギニア島フィンシュハーフィンに米軍が上陸、昭和19年3月にはポーランジアに、更に昭和19年4月にはアイタペに上陸を許し、徐々にビアク島に迫って来たのであった。
 そして、昭和19年4月17日から、ポーランディアを拠点にしてビアク島に連日空爆を行った後、同年5月27日、米軍第41歩兵師団等が、数万名の兵力でビアク島上陸を敢行したのである。我々守備隊も、夜襲と突撃を繰り返し、米軍を未曾有の苦戦に陥れる健闘をしたが、米軍をはじめとする連合軍の後から後から追加支援される圧倒的物量戦の前に、全滅(80名生存、生存率0.6パーセント)したのである。
 なお、葛目直幸連隊長は昭和19年7月2日自決、
 奇跡的に生きている我々も、殆どが負傷又は食糧不足で衰弱しており、望郷の念は強くとも撤退する術も無く、ただ情ない姿でジャングルを逃げ惑うだけの部隊となった。
 後は生恥を晒すも、死ぬも運命だった。  
 後に記録で知ったことであるが、我々が「第四航空軍」のために造ったビアクの飛行場は、この方面の制空権確保上、極めて重要だったと見え、大本営も南方基地では唯一奪回を試みた島であった。これを「渾作戦」(こんさくせん)と称し、風雲迫るビアク島救援のため、増援部隊送り込み作戦が何度か敢行されていた。
 なお、この作戦は、この後に続く「あ号作戦」(マリアナ沖海戦)と連動しており、国家の存亡をかけた極めて重要な作戦であった。
 第一次・第二次作戦は失敗、そして第三次作戦は、当時の最強戦艦「大和」「武蔵」が率いる大艦隊による増援部隊の輸送作戦だった。しかし、作戦敢行中、連合軍がサイパンに上陸したとの報に、大本営はサイパン重視と判断、全艦隊をUターンさせサイパン救援を命じたのであった。
 つまりビアク島、いや我々は祖国に見放なされ、あとは悲壮な絶望的状況下で、死を待つだけの部隊となったのである。 
 私は絶海の孤島で、極限状態に置かれた人間の行動と心理、特に生への執着、望郷の思い等を恥を忍んで赤裸々に述べるとともに、戦友・上官らの最期の様子等を、記憶の限りここに記述しておく。
 戦後60年を経た今日、命長らえている者の使命と思いつつ・・・・・・・・・・
2 入隊そして出征0000s_011
  大正11年7月23日生まれの私は、昭和17年7月で二十歳(はたち)の誕生日を迎えた。 
 当時私は、15歳から大工職の弟子として、札幌の大工棟梁の伯父方(母の妹の嫁ぎ先)で修行中であったが、一旦、郷里の山形県遊佐町野沢に帰省し、徴兵検査にも甲種合格し、入隊の日を待っていた。 
 この当時、徴兵期間は20歳から約2年間で、日本国男子として生を受けた者の義務として誰もが、その任期を全うすることを当然と受け止め、誇りとしていた。又、この兵役を終えて始めて一人前の男として認められるような風潮が、国民の間に定着していた。
 昭和16年12月8日、真珠湾奇襲によって勃発した、太平洋戦争に対する国民の認識は甘く、私が入隊する頃の新聞等で伝えられる戦況は、勝利に継ぐ勝利であり、押せ押せの必勝ムードであった。
 後に、戦況が不利に転じたと言われる昭和17年6月のミッドウエー海戦を始め、昭和17年8月にはじまるガタルカナル島戦等、南方各地の日本軍の戦いも、新聞やラジオでは、「敵に甚大な損害を与えた」と伝え、神国日本の勝利は間違いなく、今年中にも米軍は降伏するであろうと楽観視していた。
 当時の国民には、正確な情報、厳しい戦況は全く伝えられていなかったのだ。    
 私の周囲の戦争感覚も、「戦地に行くことはいい経験になる。お国のために手柄を立てて来い。」等と、軽い感覚で日常の話題にしていた。その根底には、「日本は絶対に負けることはない」という潜在意識があったからと思う。
 我々の世代は、そのような教育を受けて育っていた。 
 入隊する時も、家族からは「初年兵が直ぐに戦地に行くことはないだろう」等と言われ、私もちょっと出かける程度の、軽い気持ちで実家を出発した。
 野沢の村はずれ(現在・バス停付近)では、親戚一同や村人面々の歓送行事が催され、「お国のために頑張って参ります。」などと慣れない挨拶をさせられ、遊佐駅まで単独で歩いて向かった。
 1942年、昭和17年11月30日のことであった。 
 岩手県盛岡市に所在する「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、我々初年兵250名が入隊したのは、昭和17年12月1日朝8時であった。
 薄暗くどんよりとした空に、冬の北風が冷たく頬をよぎった。早速、皺だらけの軍服に硬い軍靴を支給され、格好だけは陸軍軍人に仕上げられた。
 戦地・北支から派遣された教官は、高八掛(たかはっけ)少尉、藤原准尉、菅野軍曹、近藤軍曹の4名であった。
 まず教官を囲んで記念写真を撮り終えると、これからの軍隊生活の注意・指示を受けた後、営庭や練兵場、内務班等に案内された。
お客さん扱いはその日だけであった。
 翌日からは、軍人勅諭の座学、軍事教練や敬礼の仕方、掃除、洗濯、食事当番など、朝から寝るまで目の回る忙しい日が続いた。
 初年兵の中には、秋田県出身の相撲力士十両の「清風」という人もいた(後に二ユーギニアで戦死)。P_001
 あっという間に一週間が過ぎた。
 夕方の点呼で、「明日、正午戦地に発つ、全員、今夜中に準備するように」と教官から命令を受けたのである。この俄の命令に皆、言葉にならない忙しさで出発準備を開始した。
 消灯まで出来ない者には初めて教官のビンタが飛んだ。
 わずか一週間の訓練で、戦地に向かう戦友の面相は語るに語れないものがあった。誰もが家族との面会は勿論、手紙を書く余裕もなく、盛岡駅から臨時列車で出発した。
 車窓に映る街並みもいつしか東京、大阪、広島と過ぎ去り、一路、北九州・下関を目指しているが、車内の兵士は皆口数が少ない。
 胸に去来するのは両親や兄弟か、それとも好きな人のことか。
 心細さと不安だけの二十歳の旅立ちであった。       
 列車は二昼夜かけて下関に到着、その日の夜には下関港から出航する。たいして大きくもない船に押し込められ、皆座ることも出来ない。前の者は、後の者の膝に座る等折り重なるように押し込まれ、5~6時間も波に揺られて釜山港に着いた。更に、休む暇もなく列車に乗り込むと、教官達は、「ここはもう戦場だ」と態度を一変させ、我々初年兵に緊張感を与えた。
 列車の中は軍隊生活一色となり、教範を勉強したり、言葉も軍隊語となった。
 教官達も何が気に入らないのか、遠慮なくビンタが飛んだ。
 そして、いつしか列車は、満州に入いり、更に三韓を越えて北支に入り、山西省太原を過ぎ、心縣、楡次を経由し、路安の柴防村に駐屯した。
 野戦であり、どこへ行っても宿舎はテント張りであった。
3 北支より南方へ
 
昭和18年1月頃と思う。
 私は、第一大隊・第二中隊(中隊長佐藤長平中尉、福島県国見町出身)第三小隊の教育班に配属された。
 第三教育班は15名の班だった。
三か月の教育期間も終わり、全員一等兵に昇進した。昇進して間もなく「十八春太行作戦(じゅうはっしゅん・たこうさくせん)」に出動することになった。路城作戦、佛山のP_hokusi_1_2戦闘など、山西省の八路軍(中国共産党が抗日のため創設したうち、華北主力の軍)討伐の戦いで二か月間も掛かった戦闘であった。
 昭和18年4月頃であった。
 北支の梅雨は早く毎日のように雨に打たれた。雨が10日も続いたために「定史村(ていしそん)」の橋が流された。我々工兵隊木工班は、その橋掛け作業に従事する。昼夜の連続作業で、命綱を頼りに濁流と闘いながら働いた。
 ちなみに、軍隊における工兵隊の任務は、交通、築城、架橋、爆破、兵舎造り等々と広く、戦場においては、歩兵・砲兵そして工兵は地上戦の最低限の組み合わせとされた。 
 特に、工兵は特殊技術を要する集団であり、“戦場の技術者”と呼ばれた。
 日本陸軍の歌「工兵」では、
P_hasi 「道なき方に道を付け、敵の鉄道撃ち毀ち、雨と散り来る弾丸を、身にあびながら橋かけて、我が軍わたす工兵の、功労何にか譬ふべき」と歌われた。
 私は、15歳から5年間、札幌の叔父方で大工職の弟子入りをしており、「工兵隊の木工班」10名のうちの一人として、その技術は最大限に発揮する必要があった。
 10名のうち、大工経験者は8名であった。
 その頃、我々に南方行きの報が流された。
 しかし、南方のどの辺りに派遣されるのか我々一兵卒は全くわからなかった。
 昭和18年2月、ガダルカナル島を完全に手中にした米軍は、この島を反攻の拠点とし、マッカーサー大将(後に元帥)の陸軍と、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将(後に元帥)率いる海軍が二手に分かれて侵攻が開始された。
 マッカーサーは、ブーゲンビルからフィリピン方向に、一方のニミッツはマキン島、タラワ島、サイパン、硫黄島へと飛び石作戦で兵力を北上させ、制空権、制海権を伸張しつつ、大々的反攻を繰り返し、日本本土攻撃を目指したのである。
 米軍は、この侵攻作戦を車の両輪にたとえて「カートホイール作戦」と呼んでいた。 
 なお、この陸海両総司令官の二人三脚はそのまま終戦まで続いた。
 メンツの主張や縄張り争いが多かったという帝国陸海軍と違い、米陸海軍の息はぴったり合っていた。 
 さて、昭和17年4月18日「連合艦隊司令長官・山本五十六大将」の戦死後は益々その勢いを増し、ニューギニア、ソロモン地区の占領地域では、連行軍の猛攻撃に敢え無く次々と奪回され、日本軍は玉砕・敗走を重ねていたのである。
 大本営は、昭和18年9月30日「今後採ルヘキ戦争ノ指導ノ大綱」(絶対国防圏構想)を設定し、その防衛圏維持のため、既に満州等に配置されていた部隊を、南方に転用する方針が決定していた。
 この方針により、猛部隊として勇名を馳せた関東軍をはじめ、我々が所属する第36師団に南方派遣の白羽の矢が放たれたのである。
 第36師団3個連隊は、
 青森・岩手・秋田・山形の東北4県出身者を中心に編成され、「朴訥で粘り強い性格でありながら、戦闘においては勇猛果敢、困難に耐える強靭さを持つ、日本軍最強の師団」等と、今となっては、少しも有り難く無い評価を受けていた。
 事実、私が参加した幾多の戦闘においても連戦連勝、不敗を誇り、敵陣にもその名を轟かせていた。
 因みに、36師団は、
◎歩兵222連隊「弘前編成、秘匿名・雪3523部隊、連隊長・葛目直幸大佐」3815名
◎歩兵223連隊「秋田編成、秘匿名・雪3524部隊、連隊長・吉野直靖大佐」
◎歩兵224連隊「山形編成、秘匿名・雪3525部隊、連隊長・松山宗右衛門大佐」
の3個連隊であった。
 いよいよ、南方行きの日がやって来た。
 山西省を馬糞の臭いが残る貨物列車で転々と南下する。食事時は大変な込み合いで、各地区の兵站分より配られる飯盒を両手に、食事当番は忙しい。馬糞臭い貨車の中の食事は、戦地だからこそ辛抱出来たことである。
 南京、上海、砲台、北ウースン(上海呉松)と各地を転々としながら江湾港に着いたのは、昭和18年12月に入っていた。すぐにも、通称名「雪師団」軍属合わせて5・6万の大兵団は、江湾港で数十隻の輸送船に分乗する。
 そして、護衛の駆逐艦等とともに一路南方目指して、太平洋の荒波に乗り出して行った。
 翌日夕方に台湾高雄に入港し、停泊すること二泊。入港と同時に港近くの銭湯に行った。久しぶりの風呂に皆生き返った顔付きであった。
 その後、パジー海峡を4・5日かかって、フィリピン島マニラに入港した。
 マニラでは一週間も停泊し、更に南下し、フィリピン島中部のセブ島に停泊し、我々工兵隊木工班10人が上陸した。目的は、南方に着いてから兵舎作りの参考にするため、島民の住居等を何軒か見学させて貰う。
 木工班10名のうち、大工経験者は8名だった。  
 戦地ではどこに行っても、なにかと建築作業が伴い、大工経験者はいろなん面で重宝がられたものだ。見学を終えると直ぐ乗船し、更に南下を続け、着いて分かったがミンダオ島であった。
 半日位して又出発。昭和18年12月21日、最後に補給のため立ち寄った島はハルマヘラ島だった。補給を終えると再び南下を続けたが、ここまで来ても、何処へ行くのか我々一兵卒には一切知らされていなかった。
4  輸送船団 
 いよいよ、最前線の危険地帯に入ったことは、廻りの空気で読み取れた。
 空からは哨戒機が絶えず周辺海域を警戒し続けていた。一発の魚雷で幾万の戦友が死ぬかも知れない命懸けの船旅である。事実、当時の輸送船団の幾つかは、魚雷攻撃や空爆により目的地に到着することなく全滅していた。
 戦況が悪化した昭和19年代にはその頻度を増し、若い兵士達が全く戦わずして、海の藻屑と消え去ったのである。  
 その同胞は、幾十万名を数えたであろう。
 現在の平和時、時折起こる災害や事故による犠牲者の比ではない。
 桁が違う。ここで、当時の船団の様子を説明する。
 第36師団、通称「雪部隊」は、軍属合わせて5・6万の大兵団である。これをニューギニア方面の増強部隊として一度に輸送するのであるから、それはそれは大変な船団である。兵員を乗せた輸送船約十数隻、食糧に武器弾薬等を積んだ貨物船数隻に、護衛として駆逐艦一隻、掃海艇二隻を含め、ざっと数えただけで30隻を越す船団に加え、空からは、哨戒機2機に護られて、南方海域をひた走るのであるから一見勇壮たるものである。
 しかし、視線を輸送船内に戻せば、兵隊の扱いは酷いものであった。
 「第一に軍馬、第二に物資、第三に兵隊」と言われ、兵隊は物資や馬より下に扱われていたのである。当然、私が乗っている輸送船も物資を満載した上に、定員の5倍以上も乗せており、狭い船内は足の踏み場もないほど兵隊で溢れていた。畳一枚に4~5人当たりが押し込められ、精々座るのがやっとで、船酔いする者も多く、あちらこちらで吐いている者もいて船内は異様な臭いがした。さらに、南方に向かうに連れ気温が上がり、船内は蒸し風呂のような最悪の環境になり、不衛生極まりなく、否応なしに我々の体力を消耗させていた。
 食事をするにも大小便するにも大変な苦労であったが、それでも皆「これも、お国のためだ」と割り切った。 もっとも、一兵卒が文句を言えるような時代ではなかった。私は、輸送船団の中央を行く「健和丸」という名の輸送船に乗っていた。
 5千トン位の当時にすれば相当大きな船で、葛目部隊長も乗船していた。
 船団は、魚雷による被害を最小限にするため、決して一列にはならなかった。船舳を右に左に変えて蛇行しながら進み、これが船酔いを倍加させ我々を苦しめた。駆逐艦と掃海艇は輸送船団の周囲を廻り、哨戒機一機は常に前方を警戒し、又、一機は船団上空を旋回し警戒していた。
 この一見勇壮たる船団は、南進する当時の日本軍の勢いを象徴しているようであり、まさかこの大兵団が数か月後に全滅するとは、誰も夢だに思ってもいなかった。
 この大船団も、12月21日最後の泊地、ハルマヘラ島を出港して一夜明けた「昭和18年12月25日」早朝、辺りを見渡すと「健和丸」「辨加拉(べんがる)丸」「御月丸」の三隻になっていた。これが、ビアク島上陸の葛目連隊長率いる兵団(秘匿名「雪第三五二三部隊」)であった。
 他の船団は、ニューギニア島北部のサルミ(昭和19年5月17日米軍上陸)に向かったことは、後に知ったことである。
 師団命令は、
 「歩兵第222連隊は第三六師団の指揮を離れ、第二軍直轄のビアク支隊となり、主力をもってビアク島、一部をもってヤーぺン島要地を確保し、来攻する敵を撃破すべし。師団司令部はニューギニア本島サルミにあり
であった。
Mapoceania111

■「ビアク島からの生還」5:6:7:8  に続く
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/5-4ab1.html

■「ビアク島からの生還」9-10-11-12
  http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-8b38.html

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2014年12月23日 (火曜日)

「ねずきち」さんに感謝したい。

 今日の「天皇誕生日」によせて、天皇陛下は、先の戦争で300万人を超える人々が犠牲になったことに、「その人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課せられた義務であり、後に来る時代への責任である」とのお考えを示された。
 さて、昨日22日は、人気ブログ「ねずさんのひとりごと 」を書いている、ねずさんこと小名木善行=小名木伸太郎さんが、ユーチューブで語っていたことをご紹介した。
 「ねずさんのブログはこちら」→http://nezu621.blog7.fc2.com/  
 常に日本の素晴らしさを広めている方で、ブログの内容は右に出る人はいないと思われるほど素晴らしい。
 あらためて同氏のブログをチェックしていると0000s_011
 山形県遊佐町出身・渋谷惣作著の「ビアク島からの生還」を元にして、2012年03月27日「ビアク島の玉砕戦 」と題して配信されていることを知った。数年前、わけあって配信を中止したが、明日から原文を再度、このブログ上でご紹介したいと思っている。
 天皇陛下の「残された私どもに課せられた義務・・・・・・」という重い言葉が胸に刺さった。
 
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ビアク島の玉砕戦
   http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1467.html#more
 ビアク島の玉砕戦について書いてみようと思います。
 ビアク島の戦いは、後に「北のアッツ島(戦死2,638名、生還27名)、南のビアク島(戦死12,347名、生還86名)」と称された壮絶な玉砕戦です。
はじめに、東京新聞に以前掲載された記事をご紹介します。
~~~~~~~~~~~
【友思い涙「証人」の孤独】東京新聞 社会部 加古陽治
平成17年10月2日記事
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/P_25_shinbun_kigi/shinbun_kigi.htm
病院の廊下の億で、車椅子の老いた男は何度も泣いた。
そのたびに顔がくしゃくしゃになった。0000000sousaku_kigi
昭和19(1944)年5月、米軍の上陸で激しい戦闘の舞台となったインドネシア・ビアク島。
一万二千余の日本兵の命を呑み込んだこの「死の島」から奇跡の生還を果たした元陸軍兵長、渋谷惣作(山形県遊佐町)にこの夏、会った。
その体験を語る口調は訥々(とつとつ)としている。
だが戦友の悲惨な死にふれるたびに、顔をゆがめて泣くのだった。
「渋谷、水くみに行こう」
昭和19年5月27日、歩兵第222連隊工兵中隊(盛岡編成)の一員としてビアク島に渡った渋谷は、夜明け前、戦友に誘われボスネック地区の洞窟(どうくつ)を出た。
沖合に浮かぶヤーベン島が見えないほどの大艦隊が海を覆っていた。
「どれが大和かな」・・味方と思ったら、号砲が鳴った。
「敵襲!」
大声で叫び、洞窟に戻った。
艦砲射撃が鎮まると米兵が大挙して上陸。午後になると洞窟の近くにきた。
「ニッポンヘイタイいるか」
なまりのある声で米軍の通訳が呼んだ。
「はい、おります」
ひとりがそう応じ、出て行こうとした。
「やれ」
すかさず小隊長が部下に命じ、仲間に帯剣で刺された兵士は絶命した。
しばらくすると、洞窟にドラム缶が投げ込まれ、火を放たれた。
「中は真っ赤で・・・。とてもとても・・・。もうぜんぜん分からない。意識をなくして、倒れたところが川だった。それで息ができた」
ゴーゴーと火が燃えさかる。
しばらくして意識を取り戻した渋谷は叫んだ。
「この川の水に顔つけれ。息継ぎが楽だぞ」
いまも忘れない、おいしい水だった。
水だけで過ごし、三日目に外に出た。
野戦病院で一服し、大洞窟にある司令部に合流した。
整備した滑走路は、米軍の手に落ちていた。
渋谷たちの任務は、それを使わせないための肉弾攻撃。
歩兵も工兵もなく突撃させられ、そのたびに十人、二十人と死んで行った。
「いよいよ、今日は俺の番だかのって思うだけ・・・」
七月にはいると、支隊長葛目直幸中将が自決し、島での組織的戦闘は終わった。
それで渋谷らは、死に場所を求めるように戦い続けた。
同月末、工兵中隊の残存兵で米軍の車列に最後の攻撃を仕掛け、渋谷ら9人だけが生き残った。
あとはただ、生きるための戦いだった。
トカゲやネズミがごちそうだった。
人肉を食べた者すらいたという。
屈強だった若者は、そこまで追いつめられていた。
(※ねずきち注:あとに引用しますが渋谷さん本人の手記には、この人肉食のことを明確に否定した文章があります。おそらくここは記者か編集部が筆を走らせたものだろうと思います)
部隊はバラバラ。極限の飢餓状態。
食料を盗もうと、三人で米軍施設に近づいたとき、地雷にやられた。
ひとりはほぼ即死。
同郷で親しかった一等兵の粕谷博も虫の息だった。
「おれと一緒に帰るぞ」
「うん」
「おめえ、(遊佐町)藤崎のどの辺や」
「学校から三軒目や」
それが最後の会話になった。
夢の中で二人の爪を噛み切り、軍票につつむ。
戦友の死の証だった。
気がつくと近くに白い子犬がいる。
ついて行くと畑に出た。
夢かうつつか、小さなトマトが鈴なりになっている。
「博が助けてくれた」
そう思い、夢中で食べた。
■ ■ ■
昭和19(1944)年10月、渋谷は米軍の捕虜になり、命を永らえた。
工兵中隊254人のうち、生き残ったのは三人だけだった。
だが彼には戦後、新たな闘いが待っていた。
あれだけ過酷な戦場に身を置いたのに、軍歴が少し足りないからと恩給ももらえない。
あまりにも悲惨な体験談を、地元の人たちは疑いの目で見た。
渋谷の脳裏には、いろり端の光景が刻まれている。
「村の人が逃げて帰ってきたと後ろ指をさす」
「戦友と一緒に死ねば良かった」
「おれはビアクでえ何人も殺しているし、死ぬのは怖くない」
何度もそんな場面が繰り返された。
「いま思えば戦争後遺症だった」と家族はいう。
「誰も信じてくれねえ」
渋谷は戦場の記憶を封印した。
家族と戦友だけが例外だった。
今年(平成17年)7月、久しぶりに記憶の糸をたどってくれた渋谷は、最後に吐き捨てるようにつぶやいた。
「もう戦争には行かない」
約一ヶ月後の8月18日、21世紀までひとり人生を生き抜いた工兵中隊「最後の証人」は、83年の生涯を閉じた。
戦友に61年遅れの死だった。
~~~~~~~~~
ビアク(Biak)島は、インドネシア、パプア・ニューギニアの北西部に位置する小さな島です。
大東亜戦争当時、日本はこの島に飛行場を建設しました。
昭和17(1942)年6月のミッドウエー海戦に敗れた日本にとって、この島は、絶対的国防圏保持のために阿南惟幾大将をして「航空母艦10隻に相当する」といわしめたほどの重要拠点でした。
ビアク島に派遣されたのは、支那北部で転戦し、連戦連勝を挙げていた陸軍歩兵第222連隊(秘連隊長葛目直幸大佐)の3,815名を中心としたビアク支隊です。
海軍からも第28根拠地隊(司令官千田貞敏少将)率いる約1,947名が派遣されました。
この島には陸海合わせて、計12,433名の守備隊が派遣されましたが、戦闘員は陸海合わせて4,500名だけで、残りは飛行場の建設や、その他の作業集団でした。
冒頭にご紹介した新聞記事の渋谷惣作(しぶやそうさく)さんは、陸軍の工兵隊員として、この戦いに参加された方です。
お生まれは大正11(1922)年、山形県遊佐町野沢のご出身です。
氏は、15歳で大工の見習いに出られ、昭和17(1942)年12月、20歳で徴兵を受け、岩手県盛岡市の「北部第21部隊・盛岡工兵隊」に、250名の仲間たちとともに配属になったのだそうです。
渋谷さんの回顧録には、当時を振り返って次の文章があります。
~~~~~~~
当時、徴兵期間は20歳から約2年間で、日本国男子として生を受けた者の義務として誰もが、その任期を全うすることを当然と受け止め、誇りとしていた。
兵役を終えて始めて一人前の男として認められるような風潮が、国民の間に定着していた。
~~~~~~~
徴兵に出ることを誇りとしていた当時の気分が伺えます。
このあたり、韓国での徴兵が嫌で日本人になりすます昨今の在日韓国人とはずいぶん違います。
昭和18年12月25日、日本の1万2000名はビアク島に上陸しました。
そして約4ヶ月をかけて島を整備し、飛行場を建設しました。
渋谷さんの手記には、飛行場が完成した日のことが書かれています。
~~~~~
全部隊を完成したばかりの飛行場に集め、葛目部隊長から訓辞があった。 
「この編成を以て米英に当たるならば、米英ごときは一蹴である」
と繰り返し、爛々と輝く目で語った様子を今も脳裏に焼き付いている。
第222連隊1万2千有余の将兵は、心ひとつになっていた。
~~~~~
明るい南の島の太陽のもと、完成した飛行場を前に、葛目連隊長と支隊のみんなの汗にまみれた喜びと決意の笑顔が目に浮かぶようです。
けれど出来たばかりのその飛行場に、米軍のロッキード戦闘機が飛来します。
昭和19年4月中頃のことです。
米戦闘機は、二度にわたって機銃掃射を行い、またたくまに作業中の兵士30余名が亡くなります。
そしてこの日を境に、米軍が島に上陸する5月27日までの40日間、米軍機は毎日やってきました。
それも一日3回、判で押したようにやってくる。
飛来するのは、毎回40機前です。
そして毎回、爆弾を落として行きました。
投下された爆弾は、40日間で約2万発に及びます。
島のいたるところが穴だらけになり、美しかった海岸線のヤシの木々もことごとく爆弾によってなぎ倒されてしまう。
みんなで作った飛行場も穴だらけにされてしまう。
穴だらけでは、飛行場が使い物になりません。
ですから米軍機が去ると、みんなでスコップで穴を埋めました。
土方仕事の中で、何が辛いといって、この穴埋め、穴掘り作業ほど辛いものはないのですね。
腰や腕に負担がかかる。
しかも作業は危険と隣り合わせです。
また米軍が爆撃にやってくる。
滑走路には遮蔽物がないのです。
爆風による戦死者も後を絶たない。

重労働でくたくたになり、弱った体に、さらにマラリアが襲いかかります。
こうして、米軍が上陸するまでの40日間に、渋谷さんの工兵中隊では四分の一が既に戦死してしまわれていたそうです。
そして5月24日、警戒中の哨戒機から無電がはいりました。
~~~~~~
空母二隻を含む、連合艦隊がビアク島方向に進行中、数日中に到着の予定
~~~~~~
島では、全員が戦闘配備につきます。
そして運命の5月27日がやってきました。
午前4時、沖合の艦隊から、猛烈な艦砲射撃が始まりました。
間断なく撃ち込まれる艦砲射撃は、約8時間続き、地上にあるすべてを破壊しつくします。
そして昼から、揚陸艇や水陸両用戦車で次々と上陸してきました。
上陸した米軍は、揚陸艇から降りるとすぐに、陸に向けてめちゃくちゃに機関銃を撃ってきます。
後ろから続く上陸部隊を守るためにです。
まさに物量にものをいわせた作戦です。
港に近い洞窟には、戦車を先頭にやってくる。
洞窟に向かって、まず日本語の通訳が「日本兵いるか」と声をかけます。
洞窟内部に日本兵がいようがいまいが、次の米軍の行動は変りません。
洞窟にガソリンのたっぷりはいったドラム缶を投げ入れる。
火炎放射器でこれを爆発させ、洞窟内を焼き払う。
さらに後方から戦車で砲弾を洞窟内に撃ち込む。
洞窟内に入って来て戦果を確認、ということはしません。
その必要がないほど、徹底的に焼き払い、砲弾で吹き飛ばしたのです。
これによって海岸線付近の洞窟に陣取った守備隊は、ほぼ壊滅してしまいます。
後方の洞窟にいたビアク支隊は、それでも飛行場を守ろうと、くりかえし肉弾突撃を敢行しました。
けれど米軍は、櫓(やぐら)を組んだ上から機関銃で掃射を浴びせ、その都度、日本側は死傷者を増やします。
6月27日には、ビアク支隊が本拠にしていた西洞窟も米軍に制圧されました。
7月2日、葛目支隊長が自決されます。
この時点で、残存人員は1,600名余りとなったビアク支隊は、おのおのジャングルに散り、敵と出会えば交戦するというゲリラ線に突入しました。
米軍は、日中活動します。
敗走する日本軍を見つけるためです。
島中を探しまわった。
日本は、昼は山中に隠れます。
そして、夜だけ行動した。
上の新聞記事に、そのときの様子として次の文章があります。
~~~~~~
あとはただ、生きるための戦いだった。トカゲやネズミがごちそうだった。
人肉を食べた者すらいたという。
屈強だった若者は、そこまで追いつめられていた。
~~~~~~
この記述は、おそらく記者か編集者が、故意に筆を走らせたものでしょう。
渋谷さんご自身の手記には、人肉食など「していない」と明確に書かれています。
原文そのままでご紹介します。
~~~~~~~~
昭和19年7月23日、私は満22歳の誕生日をビアク島のジャングルの中で迎えた。
既に戦火は止んでいたが、米軍は敗走する日本軍を見つけるため、明るい内は島内をくまなく捜し回っていた。
我々は昼は山中に隠れ、夜だけ行動した。

ここで私達が、何を食料にしていたかを説明しておく。
ビアク島には、野生の椰子の実やマンゴー、サンゴヤシの新芽、バナナの根(大根のような味)等が、季節に関係なく植生しており、これらを手当たりに食べた。

甘いものばかり食べると、無性に塩分を欲した。
海水は島周辺にいくらあっても、海岸線は何処も敵がテントを張っていて昼間は行くことが出来なかったが、夜、暗闇にまぎれて海に出て海水を飲んだ。

水筒にも海水を入れておいた。
海岸には、敵味方の腐乱した遺体が無造作に散乱し、その近くには無数の魚貝が集まっていた。

つまり、遺体は魚貝のえさになっていたのである。
しかし、背に腹は代えられず暗闇に紛れて浜辺に出て、種々の貝を捕り、よく食したが、決まって下痢をした。
出来れば、焼くか煮て食べたいところだったが、火を使うことは出来なかった。
煙が立ち敵に発見されるおそれがあったのだ。
戦友らの名誉のために付け加えておくが、帰国後、特に帰還兵は飢餓に耐えられず、戦友の人肉を食した等の批評をされたことがあったが、そのようなこと、あり得ないことである。
当時の我々軍人に、そのような発想は生まれもしないし、また、南国の気候は、遺体を1日もしないうちに腐敗させていたのだ。
(中略)
この島には私が見た限りでは猿が一番大きな動物であり、人を襲う猛禽類はいなかったことが幸いした。
派手な色彩の極楽鳥は良く見かけ、食べ物にしたかったが、とても捕まえられるものではなかった。
島内のいたるところに激しい戦いの跡が残っていた。
散乱する戦友の屍辺りには、血なまぐさい空気が漂っていた。南国の暑さで腐敗も早く、既に白骨と化したものも多い。
そっと手を合わせつつ、明日の我が身の姿を想像した。
~~~~~~~~
渋谷さんが手記で明確に否定し、また他のインタビューでもやはり否定している「人肉食」について、なぜ東京新聞の記者が冒頭の記事で「食べた」と記述したのかは不明です。
ただひとついえることは、このビアフの戦いに限らず、どの戦地にあっても、飢えとマラリアと敵弾の恐怖が続く毎日の中にあってさえ、日本人には戦友の肉を食うなどということは、その発想も行動も、皆無だったということです。
だからこそ、多くの将兵が飢え死にしたのです。
出征前、体重60キロあった渋谷さんは、捕虜になって体力を回復させ、帰国した時点で体重が38キロに減っていたそうです。
捕虜になり、医療を施され、食事面でもそれなりの待遇を与えられた後でさえ、その体重だったのです。
ジャングルで徘徊していたときには、もっと痩せ細っていたことでしょう。
そこまで追い込まれながら、人としての誇りや尊厳を失わない。
そして戦友の遺体を見かけたら、そっと手を合わせる。
それが私たち日本人です。
渋谷さんの体験記に、上の文に続けて、ちょっとスピリチュアルな出来事が書かれています。
感動的なお話なのでご紹介します。
渋谷さんは、このとき、千葉さん、粕谷さんと三人で行動しています。
ほとんど幽鬼のような姿です。
腹が減ってどうにもならない。
そこで三人は、米軍の建設した発電所に、パンを盗みに入ります。
~~~~~~~~~
そのとき粕谷が草むらに敷設した地雷の線にひっ掛かったのである。
粕谷の直ぐ近くで一瞬青白い煙が「ボッー」と上がった。
私は「地雷」と叫んで伏せたが、立って逃げた二人のすぐ後で「ドカーン」と爆発した。
千葉幸一は即死。
粕谷博は虫の息だった。
最期まで行動を共にした「千葉幸一」
私は粕谷の頭を膝に抱き、「粕谷頑張れ、藤崎に一緒に帰ろう。頑張れ。」と何度も繰り返したが、首を縦に振り頷くが言葉に成らない。
腹部貫通と大腿部盲貫の重傷である。
どうすることも出来ず30分程で死んだ。
粕谷博の実家は、山形県遊佐町上藤崎、私の実家の野沢から約6キロの村だった。
私は二人を並べて寝かし、草を被せた。
とうとう一人ぼっちになった。
爆発音で敵が様子を見に来る恐れがあったが、直ぐには立ち去りがたかった。
草を分けては二人の顔を何度も見た。祖国に帰り、やりたいことが一杯あったであろう。
幾度も激しい砲弾をくぐり抜け、飢えや寂しさと戦いこれまで生きた延びた二人とは、是非、一緒に帰還したかった。
良き戦友として、生涯の付き合いになったであろう。
一人になった私は、どうすれば良いか分からなかった。
私も自決しようと思った。
そう思うと親、兄弟、親戚のこと、恋しい人のこと、次から次へと浮かび、直ぐには決心が付かないまま浅い眠りに入った。
うとうとしては目が覚め、又、死ぬぞと思った。隣には粕谷と千葉の亡骸があった。
一緒にここで眠るのが自然と思えた。
このまま生き延びるより死ぬ方がずっと楽であり簡単に思えた。
しかし、じっと二人を見ていると、二人は「生きて帰えろ、郷里にこのことを伝えてくれ、お前しかいないじゃないか。」と言った。
言ったように聞こえた。
夢か現実(うつつ)か分からない妄想の一夜は続いた。
小鳥のさえずりで目が覚めた。朝日が昇りジャングルに命の息吹がまた蘇った。
いつに無く、草木も動物も生き生きして見えた。
今度は、何としても生きて祖国に帰り、この惨状を伝える必要があると決意した。
私は、二人の亡骸に近寄り、二人の小指の爪をかじり取り、軍票(軍が発行した紙幣)に包んだ。
「俺は必ず生きて帰り、この惨状を祖国に伝えよう」と決意し立ち上がった。
その時である。
スピッチに似た白い小犬が50メートル程先を走っているではないか。
「この辺りに部落でもあるのか」と思い、その方に歩いた。
犬は山の木立をぬって走る。犬が見えなくなった所まで行くと、又、犬の尻尾が見えた。
こんなことを幾度も繰り返し、何日犬の案内で歩いたか分からないが、広い原っぱに出た。
そこは軍属が自活のために作った農場だった。
小さなトマトが鈴なりに実を付けていた。
夢中で食べた。
食べながら辺りを見渡すと小さな小屋があった。恐る恐る近付くと人が居た。 
一瞬びっくり、相手もびっくり、お互いに日本兵と分かると笑顔になった。
「何中隊だ」と尋ねる。
「歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵だ」と名乗った。
私も同様に名乗った。
初めて出遭った二人は、これ迄の出来事を色々語り合った。
苦しみは分かち合うことで半減するというが、今の二人はそれであった。
「俺達は、何処に養子に出ても勤まるな」等と久々に笑いが出た。
又「どんなに肉体的苦しみには耐えることが出来ても、孤独には耐えられないことが分かった」等と話し合った。
同じ苦しみを知る友を得た喜びに、勇気百倍の心境であった。
それから、泉田源吉上等兵(岩手県鳥海村出身)とは捕虜になるまでの約1か月間行動を共にした。
二人は疲れ果てやせ衰えていた。
ただ若さが持つ生命力だけを頼りに生きていた。
それにしても、あの「白い犬」はどうしたのだろう。
以来見かけることはなかったが、私は今でもあの「白い犬」は粕谷達の化身だったと信じている。
~~~~~~~~~
渋谷さんは、そのあと泉田さんとともに米軍に捕まり、療養を受け、一年半後、日本に復員し、実家に帰ります。
そこで、マラリアの熱が出た。
~~~~~~~~
家に帰り、気持ちが緩んだのか翌日に少し熱が出た。
三日熱マラリアである。
熱が上がり悪寒が激しく、震える病気である。
妹達が付きっきりで看病したらしく、気が付いたら二人とも枕元にいた。
余りの熱と上言に驚いたのは親達で、
「せっかく帰って来たのに、ここで死なれては可愛そうだ」と言いながら「村上医者」を呼んだそうだ。
40度の高熱が続き顔は真っ赤になっていたという。
三日熱マラリアという病名のとおり、3日も経ったら熱も下がり平常になった。
油汗を流し上言まで言っていた病気が嘘のように治った。
祖母が声を掛けて来た。
「お前はずいぶん上言を言ってたが、粕谷って何処の人だ」と言う。
「そうだったのか」と思った。0271_2
粕谷博は、最後まで一緒にジャングルを共にしたが、最期は目の前で地雷で戦死している。
私の生還の陰には、戦友の死という切ない事実があり、どのように粕谷の実家に報告しようかと、ずうーと悩んでいたことだった。
それが上言になったのであろう。
あの時、発電所に行き地雷に触れることが無かったら、一緒に郷里に帰り、本当の兄弟のように付き合えた男だった。
「俺だけ帰って来た。」等と、どうして粕谷の実家に行けよう。
しかし、祖父母に「早く行った方がいい、だんだん行きにくくなる」と諭され、妹二人に引かせたリヤカーに乗り、約6キ口離れた上藤崎の粕谷の家に向かった。
せめて、戦死した際、持参軍票に包んだ小指の爪を遺品として持参したかったが、捕虜になったとき、所持品は全て没収されてしまっていた。
粕谷の両親に、事の次第を話した。
きっと息子の生還を期待していたろうに、私に最期の様子を聞いて、きっと無念だったに違いない。
しかし、額きながらも気強く話しを聞いてくれた。粕谷の母が「不思議なことがあります」と教えてくれた。
「4月7日夜は、障子の戸がサラサラ音がし、なぜか博が帰って来るような気がした」、
「ついさっきは、玄関で「オー」と博の声がしたので玄関を見たが誰も居なかった。
驚かすつもりで隠れていると思い、玄関に出て『博、博』 と呼んだ」と言う。
これらの出来事は、日にちと言い、その時間といい、私が上言で粕谷の名前を呼んでいた時間であり、又、私がリヤカーで粕谷の家に向かっている時間である。

思えば、山中で虫の息の粕谷を抱き「お前は藤崎だな、一緒に帰るぞ」と何度も叫んだ。
粕谷はただ首を縦に振るだけだったが、私に自決を思い止まらせ、以来、その魂は私に付いて来て守り通してくれたのだと思った。
そう言えばあの時の「白い犬」は粕谷の化身だったのか。
鈴なりのトマト畑に私を案内し、泉田源吉上等兵と出会わせたことも、みんな粕谷の御霊のなしたものだった。と私は信じている。
~~~~~~~~~
渋谷さんの手記は、いま、ネットで全文をお読みいただくことができます。
少し長いですが、ご興味のおありの方は、是非、ご一読ください。

【ビアク島からの生還】
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/index.htm
ビアク島で日本軍が建設した飛行場は、米軍に占領され、約3倍の長さの巨大飛行場に生まれ変わりました。
そして「モクメル飛行場」と改名され、その後オーストラリア空軍に移管されています。他の戦線と同様、ビアク島でも、いまだ多くのご遺骨が放置されたままとなっています。
民間の遺骨収集団の努力により、これまでに回収されたご遺骨は約1000柱です。
島には、まだまだ多くの私たちの同胞の御柱が眠っています。
映画「凛として愛」で、故・泉水監督が語られた言葉が蘇ります。
~~~~~~~~~
戦争に負けたのは仕方がない。だが
日本人は戦いに敗れても誠実さが必要だった。
日本という国に、祖国に尽くした幾百万の英霊に、幾千万の先人に
愛をこめて感謝を捧げるべきであった。
…が、果たせなかった。
多くの日本人が裏切った。
戦勝国による一方的な東京裁判が開かれる中で、
戦後の荒廃した日本に、赤旗がなびき、社会主義思想が広まり、
戦勝国による一方的な裁判が開かれる中で、
日本の近代史は偽りに満ちた悪意のもとに
大きく書き替えられていった。

私たちの国には
明治維新以来
幾度かの困難に敢然と立ち向かった
日本民族の不屈の歴史があります。
たった一つしかない命を国家に
同胞に捧げた凛とした真実の歴史があります。
六十数年前、日本はアメリカを始め世界百十数国を相手に大戦争をした。
しかし、その戦争は、国家国民の安全と平和を護るため、アジアの安定を築くため、世界の平和を請い願ったものであることに間違いなかった。
戦場に出ていった将兵は、みな、同じ考えであり、力の限り、彼らは戦った。
だが、こと志しと違い、戦いに敗れたことで日本の掲げた理想は実ることはなかった。
日本は敗れたままでいる。
平和を享受する現代日本から遠く離れた異国には、未だ収拾されない将兵の遺骨が山野に埋もれている。
いつになったら日本は、戦いに散った将兵を暖かく迎えてくれるのだろうか… 。
全国民が祈りを捧げてくれるのだろうか。
靖國神社に祀られる246万6千余柱の英霊は、未だ侵略戦争の汚名を着せられたままでいる。
かつて、南方の島々で戦った日本軍に援軍は来なかった。
ならば、今から援軍を送る。日本を変える援軍を送る。
あなた方の真実を、痛みを私たちは伝えていきます。

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2014年12月22日 (月曜日)

「ねずさん」こと小名木善行さんのお話

  人気ブログ「ねずさんのひとりごと 」を書いている、ねずさんこと小名木善行=小名木伸太郎さんが、ユーチューブで語っていた。講演活動は積極的のようだが、テレビなどでは顔出しが少ないので、どんな方かと思っていた。
 「ねずさんのブログはこちら」→http://nezu621.blog7.fc2.com/  
 「日本の心をつたえる会」代表で、常に日本の素晴らしさを広めているが、とにかく、博学の方だ。
 小名木さんの話をジックリ聞いて、「日本人に生まれて良かった」と実感しよう。

第1話 日本人としての誇りを持とう! 【CGS ねずさん】
  http://youtu.be/dozWTi0B7js

第2話 日本人はなぜ自国を好かぬのか〜誇るべき日本人の心 〜 【CGS ねずさん】   http://youtu.be/mlhG0-PxSXo

第3話 君が代の真意とは!? 〜「君」に宿る意味〜 【CGS ねずさん】    http://youtu.be/-M5F1fCpRAM

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人間でもなかなか出来ない救出劇だ!

 インド北部のカンプールで、感電して意識を失ったサルを仲間が助ける一部始終をカメラが捉えていま­した。まずは動画を見て欲しい。
 人間社会でも、なかなか出来ない行為だ。
 このような場面で、見て見ぬふりする人を随分見てきた。
 つまり、猿より劣る人間がいっぱいいるということ・・・・・・

サルが感電し意識不明・・・仲間が必死の救出劇  インド(2014/12/22)     http://youtu.be/sa88-YpFVSw

http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000041180.html
  2014/12/21  
 インド北部のカンプールで、一匹のサルが線路の脇に倒れてグッタリとしています。実はこのサル、電線の上を歩いていた際に感電してしまったのです。仲間のサルが体を揺さぶりますが、ピクリとも動きません。何とか助けようと首や目の辺りに何度もかみつきます。さらには、体を地面に打ち付けますが気を失ったままです。あきらめない仲間のサルは、ついにはサルを水路に落とし、水につけるなど、懸命な救命劇は20分以上続きました。少し手荒な方法が功を奏したのか、サルはついに、意識を取り戻しました。仲間のサルは安心したのか、助けたサルの背中を優しくなでるようなしぐさも見せました。仲間を救ったサルには、集まった人たちから大きな歓声と拍手が送られました。

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2014年12月21日 (日曜日)

たかじんのそこまで言って委員会2014年12月21日

たかじんのそこまで言って委員会 2014年衆院選大総括SP  2014年12月21日     http://youtu.be/mAVokG0IHUQ  

あの中でですね、憲法、自衛隊に関して、田嶋さんから発言の真意がねじ曲げられてるというクレームを頂戴したやに聞いておりますが…。
真意が曲げられてるんじゃなくて、私が両側から、狂犬みたいにギャーギャー言われて、私が焦って、ちょっとことばが、ことばが出てこなくて間違えて使ったことばをそのまま私のことばとして、田嶋陽子は、自衛隊認めたとか、改憲認めたとか、そういうDVDにまとめ上げて、三宅先生の墓に持っていって、あなたがさんざん、教育しようとした田嶋陽子はついに変わりましたよっていう、そういう茶番劇を演じたんだよね。
知らない人が見たら、本当にそうだと思う。
人の揚げ足、取るんじゃないよ!私は海上自衛隊って言っちゃったんだけど、海上保安庁の意味だったのに、前後を聞けば分かるでしょうが。
三宅先生の墓の前で、ええ?ひざまずいて、田嶋陽子、とうとう変わりましたって、それはないでしょうが!冗談って取れる人はそんないないと思うよ。
いい年して、そういうばかやるんじゃないよ。
みっともない。
あれ?田嶋さん、でも、この間、確かね、海上自衛隊をもうちょっと強くしてっておっしゃったような…。
だから、海上自衛隊って、海上保安庁をもっと強くして、警備力を上げてっていうつもりだったのに、海上自衛隊って言い間違えたんですよ。
前後聞いてれば、いつもの私の話を聞いてれば分かるでしょう?
その該当部分はこちら。
尖閣どころか、沖縄どころか、日本が欲しいって、攻め入ってきたときに、われわれは戦いもしない、万歳!中華人民共和国の自治区になる、植民地になるというわけですか?
だけど、尖閣取りに来たとか、そういう部分的なところでいろんな衝突があるでしょうから、それはだから、海上自衛隊でもなんでも少し、もう少し権力を持たして、そしていろいろやるとか。
ありがとうございます!本当にありがとうございます!
うるさいな!
このことばを引用して、先日の放送で三宅先生の墓前に報告したことを、ふかーくおわび申し上げます。
今後とも田嶋先生は、憲法9条がいかに大切であるか、そのことを伝えるために、命懸けで発言されてゆくことを、三宅先生にも報告し直したいと思います。
でも、田嶋先生、偉いですね。
自分が出演されてないのに、ちゃんと番組見てらっしゃるんですね?
それがたまたまだったこともあって、私はたまたま時間があって、いつもは、あの番組見てないですよ、私は山の中にいるから。
人が変なことを言うから、ちょっと見たほうがいいわよって、たまには見たほうが、あなた、何されてるか分からないわよって言われたから、たまたまその日、見たんですよ。
すごい、すばらしい。
やっぱり本能が優れてるんですね。
そうだと思いますね。
直感力があると思います。
分かりました。
きょうのそこのくだりは、ちゃんと。
もう辛坊さん、信じられないわね。
ちょろちょろ、ちょろちょろ。
ちょっとね、辛坊さんね、お調子者なところがある。
ちょっと待ってください。
2014年衆院選大総括スペシャル!各政党は選挙戦をどう戦ったのか。
まずは景気回復、この道しかない。
をキャッチフレーズに掲げた自民党。
野党側の準備不足をつき行われた衆院解散・総選挙で、自民党は291議席の大勝。
公示前から2議席減らしたが、政治とカネの問題で大臣を辞任した女性議員2人も、そろって当選。
公明党と合わせ、与党が衆院の3分の2を上回る326議席を獲得した。
最大の勝因は、安倍総理が選挙の争点を経済一本に絞ったことだといわれており、集団的自衛権や原発再稼働など、賛否が分かれる政策をあまり取り上げなかったのも、功を奏した。
今回の選挙結果について、安倍総理は。
自民党、公明党で過半数を取る、そこの目標には到達をいたしました。
自民党、公明党連立政権で、選挙を通じてお約束をしたことを、しっかりと実行していきたいと考えています。
と語ったが。
52.66%という史上最低の投票率だった今選挙における自民党獲得票数は、実は、かつて自民党が民主党に惨敗した2009年の選挙の得票数に及んでいない。
しかも小選挙区では、自民党の得票率は48%だが、議席占有率は75%にもなっており、小選挙区制度の死に票を巡る問題も指摘されている。
さらに、普天間飛行場の辺野古移設問題で揺れる沖縄では、移設反対派が4選挙区すべてで勝利。
これで本当に自民党が選挙で信任を得たと言えるのだろうか。
また、今回の選挙で安倍総理は、徹底して海江田代表など、民主党の大物の選挙区を狙い撃ち。
その裏には、自民党を勝たせるのはもちろん、護憲勢力を退潮させることに重きを置いた戦略が見て取れる。
今回の選挙の当選者のうち、憲法改正の賛成派は8割を超えるというが、そうした中で安倍総理は、こう語っている。
憲法改正というのは、わが党にとっては悲願ですし、立党以来の目標でございます。
国民投票、そしてその前に3分の2の、これ、多数を形成しなければいけないと。
大変高いハードルですし、まだ、そこには至っていないわけであります。
国民的な憲法改正に向けた理解が深まっていくように、努力をしていきたいと思っています。
そこで皆さんに質問です。
今回の総選挙の戦い方とその結果は、自民党にとってよかったと思いますか?悪かったと思いますか?
悪かったがお二方。
田嶋さん、分からない?
自民党にとってでしょ?分からないよ、自民党にとってなんて。
ただ、私が言いたかったことは、小泉さんのときは、郵政改革で争点がきちっとしていて、裏が、表がなかった。
でも、安倍さんの場合は、アベノミクスなどと言って、本当は今も選挙終わってから言ってるでしょ、改憲のための選挙でしたよ、これを。
それをきちんと表面に出して戦わなかったのは、私はいさぎがよかったとは思わない。
誠実さが国民に対してなかったと思ってる。
言わなかったうそというのは、大きくこれから不信になって、自民党にはかぶさっていくと私は思っている。
…の選挙じゃないでしょ、だって。
安倍さんは、この道って言ってるじゃないですか。
だって安倍さんが憲法改正が悲願だってことは、国民はみんな、知ってるわけで、安倍さんがこの道って言ってるってことは、この道なんですよ。
ここにはね、景気回復だけど、この中、見ると、この道、この道って、キャッチフレーズってなってるわけですよ。
どこを見ても、この道しかない、この道しかないって、書いてある。
この道ってどの道って2年間やってきた道なんだからみんな、知ってますよね?
でも、そうおっしゃる竹田さんと金先生は、2人とも悪かったって。
そうですよ。
だって、ずっと300議席をうかがうと言われているのに、結果出たら、291じゃない?じゃあ、負けに決まってるよ。
よくない、はっきり言ってよくないよ、負けましたよ。
僕は、議席数からしたら、まあほぼ維持したということで、勝ったと思うんですね。
あえてここを悪かったというのは、皆さん、いいことばっかりおっしゃるなぁと思って、あえて書いたんですけども、次世代の党が完敗したというのは、これ、自民党にとって大きなマイナスだと思うんですよ。
だから、目下、目先の政策ならいいですけど、安倍さんは最後、憲法改正をやろうとしてるわけですよね。
じゃあ憲法改正をやるときに、どことしっかりと連携取れるかといったら、次世代の党しかなかったはずなんですよ。
だって維新の党は、なんか結いの党と一緒になって、ぐちゃぐちゃになっちゃいましたし、公明党なんか、はっきり言ってこれ、考え方、自民党とまるっきり違うわけですから、憲法改正を考えたときに、組める相手じゃないわけですよね。
まあ、憲法改正しようと思うと、衆議院で317が3分の2ですから、ここまでないといけないんですが、公明党と合わせれば大きく超えてますけれども、公明党が即、憲法改正に賛成する気配もなさそうなので、そうすると、やっぱ維新ですね。
賛成ですよ、憲法改正。
なんですか?
憲法改正、賛成ですよ。
だから、そうなんですけども、もともと結いの党とでだいぶ意見のばらつき、幅が出ましたよね。
もともと橋下さんが。
それでも大丈夫。
維新は9条改正で江田さんも含めて、まとまるんですか?
もちろん平和的理念は入れるけれども、改正、大丈夫ですよ。
そこがしっかりと安倍さんとがちっとなればいいですよね。
今の松野さんのお話は、非常に心強いなと思うんですけれども、まさに維新の公式見解ですよね?今のはね。
そうですよ。
どの道、憲法改正、そう簡単にできることじゃなくて、もうご存じのとおり、2007年に国民投票法ができて、そのあと2010年に、衆参で憲法審査会が出来て、動き始めて、ことしの4月ですか、改正法も通ったと。
残念ながら、公職選挙法の改正は解散でできませんでしたけれども、やはり、どの道改正してくってことになったら、相当、きちっと国民に説明をしていかなきゃいけないし、やっぱり、自公の間でもきちっと調整をしていかなければいけないということがあるわけですが、しかしその中で維新がはっきり、憲法改正に賛成だというふうに言っていただいたのは、非常に意味があると思います。
ところが、どの政党も基本、憲法改正なわけですよ。
ここまでね、もう20年も30年も、5月になると、憲法改正するぞって言って、翌日から何もないわけですよね。
なんでこれまでみんなで、それこそ民主党だって憲法改正じゃないですか。
でもなんでまとまってこなかったっていうことは、これをまとめていく力というのは、よほど考えていかないと、こっちも改正です、こっちも改正です、あっ、OKとはならないと思うんですよね。
どの政党もって言うけど、うちは憲法改正しない。
日本共産党はもちろん違いますよ。
主に、大多数の。
憲法改正の議論は、中身の議論、重要で、憲法改正することが自己目的化しちゃいけないんですよ。
そのとおり。
なんのために改正するかというと、単に改正という旗だけでは、極端な話、何を改正するのか分からないし。
それもそうだしね、そもそも、今までの議論、竹田さんの話も分かるんだけど、あたかも政党、政権が変えるかのように誤解が広まってると思うんですよ。
これは違うんですよ、皆さん分かってるはずだけど、国民投票で過半数を得なきゃいけないんですよ。
だから憲法改正というのは、国民の皆さんが決める話なんです。
できることは、せいぜい、3分の2の数字を取って、衆参両院で発議するところまでなんですよ。
いや、それはそうなんですけど、例えば今回の自民党の選挙政策見ると、集団的自衛権の行使容認という文言は一つもないわけですね。
逆に言うと、憲法改正は、自民党はずっと言ってたから、分かってるじゃないかという議論はありましたけれども、集団的自衛権の、要は流行語大賞になったものは。
書いてありますよ。
外交安全保障をこの道でって書いてあるよ。
この道が、どの道かはみんな知ってます。
それはおかしい。
それが民主党のね、いつもね、国民に支持されないところなの。
あいまいもこにしてる。
この道のほうがよっぽどあいまいじゃないの。
この道がどの道かくらい、国民みんな知ってますよ。
そんなことないよ。
この道っていうのは、かなり、ある意味、自民党にとってもリスキーなキャッチフレーズだなと思ったのは、この道っていうのは、大体、今まで左派の皆さんが、この道はいつか来た道っていって、再軍備、集団的自衛権に反対するための、小池さん、スローガンとして使われてきたことばですよね?それをあえて自民党側が、この道っていうのを言ったのは、どういうことかなと。
あのね、もちろんさっき竹田先生おっしゃったように、安倍総理が憲法改正もそうですし、集団的自衛権の問題について、とにかく一部解釈変更というのはみんな、知ってるということなんですけど、今回の選挙の最大の争点はやはり、経済、景気回復だったと。
総理がこの道っていうのは、もちろん国全体のなんていうんですか、しんども、含んでますが、要はこの道しか、やはり今のこのデフレの日本を救って、景気回復する方法はないと。
ここが最大のポイントなんです。
どうなんですか?自民党が今回、スローガンに掲げた、気持ちでいうと、それは憲法問題なのか、いわゆるアベノミクスの経済問題なのか、どっちが力点なんですか?
もちろん憲法問題は大事ですが、やはり安倍政権の最大の目的は、やはり景気回復。
とにかくまず経済政策しなかったら、外交力の強化につながらないから。
山本さんがおっしゃるとおりで、それはこの道っていうのは、実はアベノミクスの道だと思いますよ。
それで、それについて言えばね、本当は逆風が吹いてもおかしくないんです。
なぜかと言えば、4・6のGDPががーんと下がって、皆さん、ご承知のように、7・9のGDPもがーんと下がって、2次速報値、改定値もさらに下がって、景気は悪化しちゃったわけだから、景気後退になっちゃったわけですよ。
だから景気後退になった直後の投票日なんだから、本当であれば、野党の皆さんのところにわーっと行ってもおかしくはないんですよ、理屈で言えば。
ところが行かなかったということはどういうことなのかって、ここのところをしっかり考えないとだめですよ。
長谷川さんがね、野党にいかなかったっていう話だったんだけども、確かに自民党が、やはり自民、公明が3分の2を維持したというのは、確かに事実ですよ。
ただ、野党の中で共産党伸びたということはね、やっぱり最も安倍政権、正面から批判してるわけですよ。
憲法の問題も含めて、全部言ってた。
そこが伸びたということも、私は一つの民意だというふうに思うし、沖縄のように、沖縄の基地問題が最大の焦点になった。

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「SEO対策」検索エンジン最適化のこと

 小手先の「SEO対策」より大切なことは、まずサイトが大勢に認知され、そして信頼され、相談・問い合わせるようになれば結果は見えてくるはず・・・・
 はじめてホームページを作った15年前当時は、サイトのURLやファイル名は「_(アンダースコア)」で切りなさいと教わったものだが、最近再び、この「-(ハイフン)_(アンダースコア)」や「SEO対策(エスイーオー対策)」のことを気する機会があった。
 まず「_ 」と「-」の違いは、例えば「my-book」なら「my」と「book」を別々に認識されるし、「my_book」なら「mybook」とつなげて認識するという。 googleでは「ハイフン」を推奨らしいが、日本語のホームページは殆どが日本語で検索するのだろうから、どちらでもいいのかとも思っている。さらに、個人でも組織でもホームページを持つと、「SEO対策」を気にされるようなので、作成者は、この知識も意識しておく必要がある。Image_2

 「SEO対策」とは検索エンジン最適化のことで、GoogleやYahooなどの検索エンジンが、自分のホームページやブログを検索しやすいように、合致した「キーワード設定」することで上位表示させることだが、これをあまり考え過ぎると頭が痛くなる。
 基本的には「会社や事務所名」「責任者名」「住所」「得意分野」「タイトル」等のキーワードを載せることで大丈夫。この「SEO対策」機能は、「ホームページビルダー」などの最新のホームページ作成ソフトには付いているから信頼して任せる以外にない。
 更にアクセスや問い合わせを増やすには
■このサイトに訪問すると、得する情報があると思ってもらえる内容であること。
■その会社に依頼や契約、商品などを購入するとお客は得をすると思えること。
■単純で形式的な更新ではない、新鮮で興味をひく情報を発信すること。
■トップページなどのヘッダ部分の画像や心を掴むキャッチコピーは大切
責任者の顔写真やプロフィールを載せて信頼を高め、ホームページを閲覧したお客様が、このような方がいるところなら大丈夫・・・・・と動かす内容にすること。
 このような工夫以外にも、関連業者のサイトからも、自社のサイトにリンクを貼ってもらうことで、手形の裏書のように信頼を高める効果があるはずだ。
 よく見かける「会社概要」「問い合わせ」「会社案内」程度の内容では、単に道案内か住所・電話確認程度に利用されるもので、組織や会社などの個性や実態、アピール内容などは全く見えてこないものだ。
 きっと、ホームページ作成業者からの売り込みでアンチョコ的に作成したのであろう。   
  結論は、ホームページを作って情報を公開するということは、お客の不安を1つでも多く解消することであろうし、それには、どうすればいいのか見えてくるはず・・・・・
 第一に、サイトが大勢に認知され、そして信頼され、相談・問い合わせるようになれば結果は見えてくる。

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2014年12月20日 (土曜日)

逆に見舞客を励ますのがリーダー!

 「自分が入院していても、見舞客を逆に励ますのがリーダーの務め、決して弱音を吐いてはならない」、また別の機会には「リーダーが遭難すると、組織は糸の切れた凧になる虞がある」とも教わった。
  いずれもトップに課された具体的厳しさだが、
 トップリーダーの健康状態や判断能力低下は企業業績に大きな影響を与えることを示唆し、トップは常にモチベーション(Motivation)を高くして、業務全般を指揮しつつ、トップセールスマンとして奔走し、業績や売上げアップを目指すことを期待される。
 それだけにトップの健康状態は重要だ・・・・・Image
 さて、咽頭がんの手術を受け、声帯を切除したため電気式人工咽頭(人工声帯)を使っている山形県酒田市の本間正巳市長(67)のことが話題になっている。酒田市議会の一部会派が辞職を求めようとしたところ、インターネット上などで批判される騒ぎとなった。
 一般的には、体調を壊しても、リーダーとしての役割を果たし続けるには、日頃から右腕になる側近を育成していたか、影響力を組織の末端まで行き届かせていたか、かつ公民の場合は選挙民の理解がカギになるはずだ。
 酒田市長の場合、この側近育成や組織への影響力、住民の理解などを知らないので、軽々に意見は述べない。
 ただ、一般的に言えることは、組織のトップは、組織の顔として最前線で精力的に活動すべきであり、痛々しい印象では全ての面で後れをとることになる。結びとしては、健康を政争の具にすべきでないし、ただただ冷静に淡々と判断すべきことと思う。
 小生なら周りに面倒・迷惑かけていると自覚・判断した時点で身を退く・・・・・・

酒田市長辞職勧告案、検討求める 市議会第3会派、他会派は同意せず
声帯を失った元議員勝訴の裁判例がある
本間市長自身は「全国で例のない『声のない市長』だと思う」
本間市長「正直、治療はつらいものだった」 復帰、拍手で迎えられ登頂

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2014年12月19日 (金曜日)

日本の最大の弱点は「憲法9条」!

 自衛隊の防衛活動だけでなく、日本国民の手足から心まで縛り続ける「憲法9条」は日本の最大の弱点と見抜いたからこそ、こんな幼稚な手で仕掛けて来るのか。
 これは韓国による日本の弱点を突く戦略なのか、それとも褒め殺し戦術なのか。
 先般は日本国民全体の意思として、「憲法9条にノーベル平和賞を」と推薦して世界中から笑われていたが、今度は韓国の識者らが、日本の憲法9条をノーベル平和賞に推薦する署名運動を始めるという。
 「余計なお世話」、「ありがた迷惑」、「過干渉」、「お節介」と思うべきなのに、日本の弱体化に加担したい売国・反日の日本国民も多いから、どうしようもない。
 まあ、韓国人と一緒に騒ぐがいい。
 それに、韓国憲法には「憲法9条」があるのだろうか・・・・・
 日本の「憲法9条」がそんなに素晴らしいと思うのなら、自国で採用する運動をやればいいはずだ。それとも、日本のノーベル賞受賞が多いことにコンプレックスを持っているから、日本の憲法持ち上げて利用するのか。
中韓の「ノーベル賞コンプレックス」: 多摩湖畔日誌
二流国のノーベル賞コンプレックス: 多摩湖畔日誌

20141219

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2014年12月18日 (木曜日)

趙副社長・マスコミ・国民も皆「火病」

 「韓国人の癇癪 日本人の微笑み」が最近(12/10)発売され000000038た。
 韓国では今年8月に刊行され大反響だったそうだが、「日本へのコンプレックスと幼稚な復讐心を捨てない限り、韓国は日本の属国のままだ」と、韓国人作家「柳舜夏」が決死の覚悟で韓国を叱る! とある。
 まだ読んでいないが、
 韓国人がどうしようもない「癇癪持ち( ヒステリー)」であることは、最近では大韓航空の「ナッツ姫」こと趙顕娥(チョ・ヒョンア)副社長の超我儘ぶりに現れている。
 「癇癪持ち」は何もこの娘だけではない・・・・・
 韓国旅客船「セウォル号」沈没事故で見せた、韓国民や遺族、マスコミなどの対応ぶり、或いは「慰安婦=売春婦」のこと、竹島問題、産経新聞前ソウル支局長の拘束等々から、韓国民の「癇癪持ち( ヒステリー)」、「火病」ぶり、品格のなさを全世界に表明している。

韓国人の癇癪 日本人の微笑み」の目次
第1章 ムクゲと桜―日韓人物比較
 品格 韓国の悪口と日本の悪口
 性格 韓国人の癇癪と日本人の微笑み
 詐欺 黄禹錫と藤村新一ほか
第2章 太極旗と日の丸―日韓歴史比較
 承服「オギ(やせ我慢)」と「まいった」
 交渉“腕ずく”と“根回し”
 外交 鎖国政策と明治維新ほか
第3章 カヤグムと三味線―反日嫌韓比較
 知日 韓国の日本研究と日本の韓国研究
 親日 趙英男と池原衛
 嫌韓 田麗玉と呉善花ほか

大韓航空・快傑ナッツ姫 見参 趙顕娥 韓国の象徴 これが韓国 やっぱり韓国   http://youtu.be/f5o1B68DMxk  

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2014年12月17日 (水曜日)

東大和市狭山1丁目907番地付近で火災

 平成26年12月16日(火) 午後8時すぎから
 東大和市狭山1丁目907付近の一戸建てで火災発生。
 人的被害のないことを祈っている。
 午後9時半ころ鎮圧の模様・・

追加情報
 翌日知ったが、三棟計約110平方メートルを炎上し、出火元の山本さんの長男らしき男性が遺体で発見されたそうだ。
 原因などは地元消防署や警察署で調査・捜査中だが、二階の焼け方が大きく、二階の床が焼け落ちていることから、火元は二階か。
 長男は入院中だったが、たまたま帰宅していたらしい。
 肝心の事件性や出火元、原因などは捜査中であり、現段階では不明・・・・・・・
 これからの季節、火の不始末からの失火が多い。
 民家が密集した地域は、必ずのように近隣に飛び火する。
 この日は風がなかったから、これでも最小限に食い止めたとみている。
 消火活動には地元消防署は勿論、東大和市の全消防団のほか東村山の消防団も駈け付け、消防車10数台が消火活動に従事していた。

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2014年12月16日 (火曜日)

さらに燃料を満タンにした安倍機関車

 選挙前の職場の休憩室は、安倍内閣を批判する話題一辺倒だったが、昨日、月曜日の昼休みは静まり返って、選挙結果に関する話題が一切なかった。
 よほど期待に反した悔しい結果だったのであろうか・・・・・
  それとも、小生を意識して話題を避けたのか・・・・・・
 韓国の朝鮮日報は、さらに燃料を満タンにした“安倍機関車”と、衆院選で自民党が圧勝したことについて、このように表現していた。
 実に的を射た表現をしたものだ。
  確かに、4月1日から消費税が5%→8%にアップしたり、9月の第2次安倍改造内閣で女性議員登用以降は無駄な燃料を消費していたことを思うと、この表現は的確だし、反対の声を押し切って師走に選挙をやった成果があったのだ。
  さらに、中国外務省の秦剛報道官は、日本の憲法改正の動きに関して、「日本の軍事安全領域での動向は、日本の国家発展の向かう方向や、地区の安全環境に関わることで、アジアの隣国や国際社会から高い関心を呼んでいた」などと、
 実に上から目線の内政干渉的発言をしていた。
  これからも益々、中国は日本でスパイ活動を活発化することを予告している。
 まずは、日本国内の中国共産党の友党・政治家、企業、マスコミ、著名人などを総動員させて、憲法改正阻止、米軍基地撤退などの動きを活発化するはずだ。
  その活動拠点・軸足は、沖縄に的を絞っていることは間違いなく、中国寄りの知事や国会議員誕生など成果は着々と出ている。
 今年から勤め始めた職場は、労働組合も労働者諸氏も実に左傾化していることが、選挙前の会話などから垣間見ることが出来る。彼らは、中国や韓国、メディアからの受け売りで「日本は右傾化している」と語っていたが、君達が左側にシッカリ寄っているから、中央付近も右側に見えるのだ。

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2014年12月15日 (月曜日)

注目していた「山形3区・東京12区」

 このブログでも選挙前に触れたが、二つの選挙区に注目していた。
 ■東京12区「田母神候補」あと一息だ
 ■保守分裂の激戦地「山形3区」が熱い!

 それは出身地の「山形3区」と、毎回のように四万票も棄権票(白票)がある「東京12区」に特攻的に立候補した田母神氏の得票数などに注目していた。
 まず、田母神候補は「4万の棄権票+保守層=8万票前後」と甘い票読みをしたが、結果は約4万の得票で、それなりに保守層から支持があったと分析されるものの、浮動票や公明票=創価学会票を切り崩すことは出来なかったようだ。ただ、この選挙区の棄権票を16.010票と激減させたことは評価できるが、せめて次点に付けて欲しかった。
 また、「保守分裂の戦い」或いは「酒田×鶴岡の戦い」と見ていた「山形3区」は、自民・加藤鮎子候補が元酒田市長・阿部寿一候補を1.488票の僅差で破り、前回の選挙で元自民幹事長の父・紘一氏が敗れた相手(阿部候補)を敵討ちした形となった。
 この1.488票の差は、「山形3区」には、
 公示翌日3日には自民・谷垣禎一幹事長、
 4日には自民・小泉進次郎復興政務官が、
 さらに13日には、ダメ押しのように安倍総理が直直に選挙区入りしていたが、正に自民が背水の陣を敷いた結果であろう。
 もし、この応援がなかったらと思うと、加藤陣営はヒャッとしているはずだ
 阿部氏はこのような応援団を相手によく善戦したと見ているが、55歳と若い。
 まだまだ捲土重来を期す声が高くなるはずだ。
 そして、自公は議席数をせっかく三分のニ以上を得たからには、頃良い時期に憲法改正の発議を目指して欲しいが、必ず公明との連立が足かせとなるはすだ。よって早く、公明を切り捨てハッキリ憲法改正を目指す保守との連立に切り替えるべきだ。
 そうなったとき、もろ手を挙げて応援するが、公明と連立では・・・・・・・・

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餃子の王将事件の九州ナンバーとは?

 九州には、「福岡」「北九州」「久留米」「筑豊」、「佐賀」、「長崎」佐世保」、「熊本」、「大分」、「宮崎」、「鹿児島」、「奄美」ナンバーがある。Image2
 昨年12月19日午前5時45分頃、
 餃子の王将を展開する王将フードサービスの 大東( おおひがし) 隆行前社長(72)が、京都市山科区の本社ビル前にある駐車場で射殺された事件で「九州ナンバー」の車が浮上しているという。
  この「九州ナンバー」の車は、犯行に使われた可能性が高い京都府城陽市から盗まれたバイクと、事件の数日前に相前後して走行していたことが判明している。
 きっと、下見段階の動きであろう。
 事件から約一年経つが、京都府警の粘り強い懸命の捜査が続けられていることが、この情報からも伺い知ることが出来る。
 使用車両が判明すれば、事件の前足・後足の点と線が、それなりに繋がってくるはずだ。
 この「九州ナンバー」の車は、「盗難バイク」に乗った射殺犯を伴走していた可能性が高く、大東( おおひがし) 社長を射殺後は「盗難バイク」で逃走したが犯行現場から約2キロの住宅街で乗り捨てて、「九州ナンバー」の車に射殺犯を乗せて更に逃走したのであろうか。
  この事件は発生当初から、射殺犯は中国人ヒットマンとの噂があった。
 かつては、東京周辺でも在京ヤクザがカネの匂いを嗅ぎつけ、中国人マフィア(蛇頭)の手先として現場まで案内して、凶悪な事件を重ねていた頃があったが、この事件も似たようなものか。
 そして、九州の暴力団と言えば、
 北九州を拠点とする日本一凶悪な「工藤会」が知られるが、果たして、「餃子の王将」が2005年に大連に出店したことと関連あるのか。大連1号店を「ぎょうざの王将」と開店させ、一時期は6店舗まで拡大させたが、地元とトラブルが絶えず徐々に店舗数を減らし、近く全店を撤収するらしいとか・・・・・・

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2014年12月14日 (日曜日)

「auひかり」か、それとも「ドコモ光」

 家庭用光インターネットサービス「ドコモ光」が2015年2月にスタートするという。000000_2_2
 我が家は数年前から「NTT・フレッツ光」だが、友人からは「auひかりのほうが料金が安いよ」と勧められ検討していた。ところが、より良いとされる「ドコモ光」の開始を知った。
 そして、現在の「NTT・フレッツ光」は、来年2月に「ドコモ光」がスタートした際に、スムーズな切り替えは可能か、工事は必要か、一番気になるのは料金が安くなるのかだ。
 かつて、固定電話だけしか通信手段がなかった時代は、電話料金だけ気にしていれば良かったが、今は、固定電話、携帯電話、ネット料金などと、いろいろ複雑だ。00000main_charm
 世の中便利になった分、これら料金も数倍となり家計費を圧迫している。とにかく、誰もが納得する手頃な料金になることを期待している。

「ドコモ光」正式発表、ついにNTTドコモとフレッツ光のセット割解禁

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2014年12月13日 (土曜日)

世田谷一家殺人は「不審な男」が犯人?

 2000年(平成12年)12月30日午後11時ごろに発生した2009_21_3田谷一家殺人事件で、「犯人は夜間のうちに逃走した可能性がある」と、これまで犯人は、事件翌日の朝まで現場に留まっていたとする捜査方針を大きく軌道修正した。
 これによって、
 図太い神経の持ち主などとの犯人像や犯行に要した時間、犯行後の逃走経路・手段など、いわゆる後足捜査に大きな修正が加えられ、当初から浮上していた「世田谷一家殺人事件・不審な男」がクローズアップすることになるのか・・・・・・・・
 修正理由は、
 31日午前10時ごろのパソコン作動は、マウスの落下などで誤作動の可能性が高いことが判明したからという。パソコンは玄関近くにあり、第一発見者の母親らが出入りした際に、触れてマウスが床に落下した可能性があるとされる。
 よって、
 30日午後11時35分から11時40分頃に、被害者宅に通じる裏路地から飛び出して走り去った25歳から35歳の男や、犯行前日の29日昼ごろ、武蔵野市のスーパー「西友・吉祥寺店」で、犯行に使われたと包丁と同じ種類の包丁を買った30代の男の特定が大切となる。
Seijo_pos_2013ただ、午前1時18分頃から劇団四季のサイトにアクセスしていることと矛盾するが・・・・・・
世田谷一家殺人事件・発生情報: 多摩湖畔日誌
世田谷一家殺人事件・現場の間取り:
世田谷一家殺人事件・不審な男:
世田谷一家殺人事件・蛍光塗料
世田谷一家殺人事件の概要
世田谷一家殺人事件・ローダミン:
世田谷一家殺人事件・犯人との接点:
世田谷一家殺害犯人は韓国人?:

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世田谷一家殺人は「不審な男」が犯人?2014年12月13日
世田谷事件・宮澤邸の三次元模型 2013年12月30日 
三浦海岸と世田谷一家殺人事件の関係 2012.3.4
世田谷一家殺害事件犯人は韓国人? 2011.12.29
祖師谷公園計画と一家4人殺人事件 2011.12.24
犯人は南欧系混血かDNA型鑑定2009.12.30
世田谷一家殺人事件・解決の鍵2009.12.30
世田谷一家殺人事件・ローダミン2009.12.30
世田谷一家殺人事件・宮澤邸図面2009.12.30
世田谷一家殺人事件の現場周辺2009.12.2
世田谷一家殺害事件・DNA鑑定2099.12.28
世田谷一家殺人事件・不審な男2009.12.26
世田谷一家殺人事件・蛍光塗料2009.12.26
世田谷一家殺人事件の概要2009.12.26
■世田谷一家殺人事件・現場の間取り
2009.12.25
世田谷一家殺人事件・犯人との接点2009.12.25
世田谷一家殺人事件・ローダミン2009.12.24
世田谷一家殺人事件・発生情報: 多摩湖畔日誌
情報の連絡先
〒157-0071 世田谷区千歳台3丁目19番1号
  警視庁成城警察署内署 代表 03-3482-0110(内線6514)
      捜査本部直通電話 03-3482-3829
 「上祖師谷三丁目一家4人強盗殺人事件特別捜査本部 http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken/jikenbo/seijo/seijo.htm

日本語版はこちらから

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東京12区「田母神候補」あと一息だ

 前回の衆院選で棄権票(白票)が約4万票と日本一多いのは「東京1Image1_22区(北区全域と足立区の一部)」だった。
 つまり、約4万人がわざわざ投票所に行ってまで棄権票を投じている。理由は「こんな顔ぶれでは投票したい人がいない」という有権者の強い怒りの意思表示だ。
 太田昭宏(公明党)、青木愛(未来→生活の党)、池内さおり(共産党)、服部まさみ(幸福実現党)、こんな左傾色・宗教色だけでは、我が家でも白票を投じること間違いない。
 しかし、今回は違う。
 田母神俊雄(たもがみとしお)氏が「次世代の党」の副代表として保守の受け皿となるべくなり込みの立候補している。そして、公明と連立を組む自民だが、自民を含む保守政党支持層から田母神候補が、どれだけ取り込めるのかが注目される。
 票読みとしては、
 前回は太田候補が11万票と高いが、自民支持者も仕方なく2~3万は仕方なく入れたであろうし、まずはその票を全て奪い、更に棄権票の4万票、また根強い田母神ファン数万を加えて、8万票前後は行くであろう。
 必然的に太田候補は約3万票は減り、8万票程度で共倒れの可能性も高い。
 田母神候補は
 「公明党は、安倍総理がやろうとしていることに基本的にみんな反対だ。従って、自民党の右側にしっかりと柱を立てて『安倍首相、もっとしっかりやってくれ』という健全野党が必要だ」と意気軒昂だ。
 田母神候補の今日の頑張り次第で、国会への道が開ける。

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 まずは、天皇兵陛下に唯一頭を下げない男・太田候補を倒して欲しいものだ。00000000000000025

●平成21年の第45回衆議院議員総選挙
東京都第12区

当選 青木愛 118,753票
落選 太田昭宏 108,679票

当落候補者名年齢所属党派新旧得票数得票率推薦・支持比例
太田昭宏 67 公明党 114,052票 51.4% 自民
比当 青木愛 47 日本未来の党 56,432票 25.4%
池内沙織 30 日本共産党 41,934票 18.9%
服部聖巳 34 幸福実現党 9,359票 4.2%

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2014年12月12日 (金曜日)

もしも小舟があるならば漕ぎ出そう

 何故か今、340年前に生まれたスコットランド民謡の「広い河の岸辺~The Water Is Wide」が日本国民の心を捉えているという。
 その理由は、八木倫明さんが訳した、この詩にありそうだ。

 もしも 小舟が あるならば 漕ぎ出そう ふたりで 
 
TV小説『花子とアン』の挿入歌としても歌われているスコットランド民謡
 訳詞:八木倫明/原曲:スコットランド民謡「広い河の岸辺~The Water Is Wide」
 一度、ジックリ聞いて欲しい。
 あなたの今、今の自分にピッタリの癒しの歌詞が流れる。Hiroi_kawa

広い河の岸辺

【原曲】スコットランド民謡 
【訳詞】八木倫明 やぎりん
河は広く 渡れない
飛んでゆく 翼もない
もしも 小舟が あるならば
漕ぎ出そう ふたりで

愛の始まりは 美しく
優しく 花のよう
時の流れに 色あせて
朝露と 消えていく

ふたりの舟は 沈みかける
愛の重さに 耐えきれず
沈み方も 泳ぎ方も
知らない このわたし

河は広く 渡れない
飛んでゆく 翼もない
もしも 小舟が あるならば
漕ぎ出そう ふたりで

広い河の岸辺~The Water Is Wide~ / クミコ (2014) 2014-7-29 HD   http://youtu.be/dLZ2dGrLm-w  

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反りが合わないのに「ソリ競技」はムリ

 どう考えても、「反りが合わない国」に頼まれたら「ソリ競技」は出来ない。
 2018年平昌冬季五輪でそり競技の日本開催が検討されているこ0000000fとに対し、竹田JOC会長は「要請あれば前向きに検討」と答えたらしいが、反りが合わない国と「そり競技」が出来るはずがない。
 このとき、刀の反りではなく、ソリの曲がり具合を連想していたが、合わないのに無理して滑れば必ず転倒する。
 「反りが合わない」は気心が合わないことだが、
 実際の「反り」とは刀の峰の反りのことで、刀身と鞘の峰の反りが合っていないと刀身は鞘に収まらない。
 また無理に収めれば鞘が壊れたり、刀身が抜けなくなってしまう。これを人間関係に例え、気が合わないことや考え方が合わないことを反りが合わないという。
 この典型が韓国であろう。
 よって、「反りが合わない国」と無理して仲良くしようと努力する必要はない。
 適度の間合いで、非韓三原則助けない・教えない・関らない」を貫くことだ。
 唯一チャンスを与えるなら、竹島や仏像を日本に即刻返還し、慰安婦像をすべて撤去してからだ。

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2014年12月11日 (木曜日)

権威に相応しい警備体制は当然だ!

 「秋季皇居乾通り一般公開」の最終日に出かけたと語る同僚が、皇居周辺などの00000000080警察の厳しい警備を批判ぎみに回りに話しかけていた。
 的外れの意見を交わしていたので、
 「日本の最高権威の天皇や皇居内で万が一のことが発生したら、国際的にも日本の信用がガタ落ちする。最高権威に相応しい警備は当然なのでは・・・・・」
 と横槍を入れたら周りが黙ってしまった。
 一瞬、余計な話しをしたかと思ったが、やはり正論だったことが「ノーベル平和賞授賞式」の最中に起きた。
  マララさんら受賞者が並ぶ壇上に、招待を受けていないメキシコ出身の学生がメキシコ国旗を掲げながら檀上に上がる騒ぎがあった。武器は所持していないようだが、暗殺者が靴や股座などに凶器を隠し持って接近しようと思えば可能だったことになる。
 この一瞬の出来事は、ノーベル平和賞の権威と、ママラさんの迫真の演説に水を浴びせる行為となって世界に報道された。マララさんは2年前、パキスタンでイスラム武装勢力を批判して銃撃され、今も暗殺の危険に晒されている一人だ。当然、それなりの警備体制をとっていたはずだが、関係者は「ヒャッ」としたはずだ。そして、この結果を発生させたことにノルウェー政府も警察も国際的に批判されることになる。
  日本でも、皇居の一般公開警備に限らず、国際的な行事の警備などは益々厳しい警備体制がとられるであろうが、関係者は正に薄氷を踏むような思いであろう。
 左翼系マスコミや団体も、
 平和賞授賞式の警備の不手際を批判すると同時に、脆弱な警備体制や一瞬のミスを許したことは、その国の国際的信用を大きく失墜させることも頭に入れるべきだ。
 もっとも、日本には国際的信用を落とすことが狙いで活動する、売国的なマスコミ、政治家、左傾団体・個人が多すぎるからタチが悪い。

秋季皇居乾通り一般公開の参入者数
          開催日                  参入者数       
平成26年12月3日(水) 57,490
12月4日(木) 42,600
12月5日(金) 85,730
12月6日(土) 78,700
12月7日(日) 84,980
合計 349,500

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平昌五輪返上・共催騒ぎに学ぶ

 「平昌冬季五輪」が、資金不足・雪不足などから、返上或いは日Image本との共催論の波紋が広がっているが、これらから学ぶべきことも多い。
 自分の身の程をわきまえず、出来もしないことを出来ると言ったり、自分を誇張してみせることを「身知らずの口叩き」と言う。
 また、実力不相応な大きなことを言う人を「大言壮語
 恥知らずな振る舞いをする人を「厚顔無恥」と言い、
 「身分不相応」、「多弁能なし」、「馬鹿ほど言いたがる」とも言う。
 簡単には、全て「身の程を知れ」と言うことで、
 自分の実力や立場を十分にわきまえて、自分に合った道を選べということであり、自分の環境や力量を考えて成すべきか否か決定し、自分の限界を知って、物事に対処せよということだ。
 これらは、全て自分自身に言い聞かせていることだが、
 韓国に、これらの教えや「反省しない人間は 同じ過ちを何度も繰り返す」と語っても、「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」であろう。
 韓国の出来事は、「人のふり見て我がふり直せ」と言うことか・・・・

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2014年12月10日 (水曜日)

自民三分の二以上で「改憲が見える」

 今回の衆議院総選挙では、自民単独三分の二以上で改憲が見えて来る。00000064san000view
 日本国憲法第96条第1項は、
 「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない」
 と定める。
  昨年の第23回参議院選挙では、自民党と改憲に前向きな「日本維新の会」などを合わせて改憲発議に必要な3分の2(162議席)に届くか期待されたが惜しくも届かなかった。
  しかし、
 今回の衆議院議員総選挙では、自民党は小選挙区、比例代表で計300議席を上回る勢いで、公明党と合わせて衆院の3分の2(317議席)を超えるだけでなく、自民単独での3分の2超えも視野に入る勢いだという。
 いよいよ、多くの日本国民の悲願である改憲が視野に入って来た。
 憲法改正は、各議院の総議員の3分の2以上の賛成で、国会が発議し、国民に提案してその承認を経ることになり、今年可決された改正国民投票法の出番となる。
 改憲の是非を決める国民投票の投票年齢は「20歳以上」だが、施行4年後に「18歳以上」へ自動的に引き下げるが、この4年を待たずして、国会が発議して国民投票のチャンスが到来するのか・・・・・・
  今回の衆議院選は、日本の将来を左右する選挙になりそうだ。

  ※下段のグラフは昨年の参議院選挙当時のデータ。
   現在の衆院の3分の2は、議席減から317議席となる。0000000000000g01

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2014年12月 9日 (火曜日)

絶対反対だ「韓国・平昌五輪」共催

  日頃は日本攻撃の急先鋒であるはずの金慶珠(キム・キョンジュ)が 、「韓国と日本の共Image1催は個人的にはうれしい」などと、テレビで日本に媚を売っていた。
 残念ながら、日本を敵視する反日国家と共催などあり得ない。
 金慶珠さん、「バカも休み休み言いなさい」
 平昌(ピョンチャン)五輪は、きっと、朝鮮人特有の見栄からカネも技術もないのに誘致したのであろう・・・・・

 2018年の冬季五輪は韓国・平昌(ピョンチャン)で開催予定だが、資金不足・雪不足で計画は大幅に遅れていることから、きっと、韓国はIOC(国際オリンピック委員会)に泣きつき、「日本と共同開催 」を裏で画策したのではと見ている。
 これに対する、日本国民の常識的反応は、
 「とてもてとも、韓国との共催ができるような環境は、未来永劫につくれない」
 「同じ共同開催するなら、仲良しの中国・北朝鮮とやれ」
 「IOCよ、バカも休み休み言え」、
 「韓国から泣きつかれても共催など絶対拒否だ」、
 「日本を敵視した反日国が、日本をあてにするな」000000071
  「日本とは全く関係ない。勝手に失敗すればいい」、
 「いまさら金がないなんて、他人の懐あてにするな」
 「バッハ会長が何と言おうと、韓国が韓国だけでやるとハッキリ言えば済む話しだ」
 韓国国内でも、
 「日本と共同開催 絶対反対」、
 「国際的に恥だよね」、
 「東京五輪を韓国で開催するなら考えられる
 などと、馬鹿げた反発の声が噴出しているそうだ。

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2014年12月 8日 (月曜日)

永遠に「12月8日を記憶せよ」

 詩人・高村光太郎は、「この日 世界の歴史あらたまる。」と詠った。
 白人に支配された有色人種居住地域の植民地解放や人種差別撤廃など、光太郎が予測したとおり1911ast1911になったではないか。しかし、日本は白人の独断場を戒め有色人種に自信を持たせたとは言え、大きな犠牲を払った・・・・・
 何も戦争を美化するつもりはないが、
 12月8日は「対米英開戦記念日」だ。我々の父母や祖父母の時代、白人の植民地主義に対し、有色人種の日本がただ一国で壮絶なる巻き返しの戦いに挑んだ日だ。
 かつて、この地球上にこのような誇り高い国があったか・・・・・・あったら教えて欲しい。
 ネットが普及する以前は、マスコミや教育、政界も「日本の侵略戦争だ」など0000007lと、ただ自虐に次ぐ自虐史観一色だったが、今は一庶民も、このように正論を発信できる時代になった。
  あの戦争は、日本の生き残りをかけた自存自衛の戦いであり、白人に占領・植民地にされ、奴隷扱いだった亜細亜民族開放を大義に掲げ、打って出たのだ。
 そして、亜細亜を白人支配から解放するという戦争目的を達成した。正に、「肉を切らせて骨を断つ」、武士の国らしい捨て身の戦いであった。

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 70数年前、極東の小さな島国日本は世界百数ヶ国を相手に大戦争をした。
 この戦争は白人の植民地主義に対し有色人種の日本が挑んだ壮絶なる巻き返しだった。当時、アフリカはエチオピア以外、アジアはタイと日本以外すべて白人国家の植民地だった。
 大東亜戦争【不屈の武士道精神   http://youtu.be/7QQzmAQ7wEc  

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保守分裂の激戦地「山形3区」が熱い!

 「寄らば大樹の陰」の加藤鮎子氏と「古里を守る」の阿部寿一氏の戦いが熱い。
 衆院選投開票まで6日、初雪の便りも聞かれる山Image形3区だが、無所属で前議員・阿部寿一候補(55)と、自民新人・加藤鮎子候補(35)が事実上の一騎打ちと、8日付け産経新聞が報じた。
 自民・谷垣禎一幹事長は公示翌日3日には、加藤鮎子候補(35)応援に酒田市に駆け付けた。谷垣氏は加藤氏の父紘一氏の「加藤の乱」では、涙ながらに引き留めたことが有名。また、小泉進次郎復興政務官が4日、鶴岡市入りし、「35歳の加藤鮎子氏と33歳の私。同世代の我々が自民党と日本の未来をつくっていかなければならない」と街頭で支援を呼び掛けた。
 迎え撃つのは、前回、1400票あまりの小差で加藤紘一氏を破った無所属で前酒田市長の阿部寿一候補(55)だが、酒田市長を13年5カ月務めた実績で培った人脈、政治経験、知名度が武器だ。
 安倍候補は、「みんなが住み続けられるふるさとを作るため。地方のハンディをなくし、魅力ある職場をつくる。よりよくして次に受け渡したかった。人には任せられない。自分がやりたかった」と語る。
 阿部陣営には、
 酒田市議の半数以上、15人が加わり、演説会でも酒田市議会議長を含む市議、隣接する遊佐町長、町議らが応援するというが、保守分裂の激戦を繰り広げられている。
 今回は自民の力の入れ方は尋常ではない。
 正に、「寄らば大樹の陰」の加藤氏と、「古里を守る」の阿部氏の戦い、あるいは 、鶴岡圏と酒田圏の戦いとみることもできる。
 地元でも票読みは最後まで難しいのでは・・・・・・

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2014年12月 7日 (日曜日)

たかじんのそこまで言って委員会 2014年12月7日

 面白かったのは、「韓国は日本からパクリばかりだ。」と言うが、つまり韓国は「パク」さんと「リー」さんばかりだと言う。
 フル たかじんのそこまで言って委員会 2014年12月7日
【司会】 辛坊治
 金美齢  津川雅彦  所功  桂ざこば 加藤清隆  長谷川幸洋 
 竹田恒泰  山口もえ
【ゲスト】
ケビン・メア(元 米国務省日本部長)、 惠隆之介(拓殖大学客員教授)
朴一(大阪市立大学大学院教授)
番組内容  紐解け!歴史にみる日本の“大問題”徹底究明スペシャル!
▽基地問題ますます混迷!?沖縄の現在・過去・未来
▽対馬の仏像窃盗でまた韓国人逮捕!慰安婦、竹島・・・日韓関係に未来はあるか!?
▽歴史的和解!?所&竹田が天皇家の未来を熱く語る!
   http://youtu.be/sfTwg1bGyBs

米軍普天間飛行場の辺野古移設の是非を最大の争点とした沖縄県知事選で、移設反対派の候補が初当選。
ようやく動きだした辺野古移設だが、これでまたしてもこじれてしまうのか。
対馬の寺からまたも仏像が盗まれ、韓国人5人が逮捕。
さらに竹島で韓国軍が、防衛訓練を実施。
来年、国交正常化50周年を控える日韓関係は、なぜここまでもめるのか。
日本史最大の謎といわれているね、なぜ徳川が皇室を滅ぼさなかったのかという話も含めて、いっぺんちょっとちゃんとやりませんか?竹田さん。
ぜひ、ぜひぜひ。
このような皇室にまつわる謎といえば、孝明天皇暗殺説、明治天皇すり替え説などいろいろあるが、なぜ皇室にまつわる謎が多いのか。
そういった疑問や、日本の抱える大問題は、その歴史をひも解くことで見えてくる!かも?
そこで今回のそこまで言って委員会は、今起きているさまざまな問題を入り口に、その歴史を振り返りながら、問題の本質や、将来の在り方について、徹底的に討論します!
題して、そこまで言って委員会。
危ない、きょうのテーマは危ない。
これね、嫌な予感がしましてね、くれぐれも申し上げておきますが、責任は個々の発言者がとるということで。
司会者でしょ!
ということでございまして、きょうは歴史の本質、皇室像を解き明かしていこうということで、討論してくださいます本日の委員会の皆さんです。
お久しぶりの登場は、モラロジー研究所教授、所功さん。
実は最近、所さん、おいでいただけなかった理由、ちょっとありまして、所さんと竹田さんはどっちがどうというわけじゃないんですけど、ある時期からたもとを分かたれてですね、共に手をいただかず、たいてんの敵というぐらいの、どうですか、今、隣どうしに座られた感想は?
もともと目指すものは一緒ですから。
皇室のいやさかをひたすら願い続けてますので、そこはぶれることはないわけです。
男系、女系は…。
そこはちょっとね、やってますけど。
そのあたり、所先生、いかがでしょうか?
どうぞよろしくお願いいたします。
最初のテーマはこちらです。
紐解け!歴史に見る日本の大問題。
まずは沖縄の大問題。
先月16日、米軍普天間飛行場の辺野古移設の是非を最大の争点とした沖縄県知事選が投開票され、移設反対派の翁長雄志氏が、移設容認派の現職、仲井真弘多氏ら3人を破って、初当選を果たした。
政府は予定どおり移設計画を進める方針だが、翁長氏は辺野古の海に新しい基地は造らせない!と語っており、工事の進捗などに影響を及ぼす可能性がある。
1996年に、日米両政府が普天間飛行場の全面返還に合意して以降、5回の知事選を経てもなお、こじれにこじれる基地問題。
そもそも何に、どこに、どういった問題があるのか。
沖縄の現状や県民の心情を理解するため、いま一度、歴史をひもといてみよう。
1429年に誕生したとされる琉球王国は、当時の明に従属しつつ、繁栄していた。
ところが1609年、薩摩藩、島津氏が琉球に侵攻。
以降、琉球は薩摩と明および清の両属状態となる。
そして1879年、明治政府は、軍隊や警察など、およそ600人を率いて武力的威圧のもと、沖縄県を設置。
これが世にいう琉球処分であり、以降、琉球は日本に帰属することになるのだが。
沖縄歴史教育研究会顧問の新城俊昭氏は、琉球処分は琉球の意思を踏みにじるものであったとしたうえで、琉球が選んだのは自立ではなく、日清両属的な関係を保つことであり、依存体質から脱却することはなかったと論じている。
こうして日本に帰属した琉球だったが、その後、過酷な運命が待ち受けていた。
1945年3月末、本土決戦までの時間稼ぎのために、県民の4分の1が命を落とした沖縄戦の惨禍。
1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約により、日本から切り離された末の苛烈な米軍統治。
1972年5月15日、米軍基地の撤去という県民の声を無視して行われた、本土復帰。
これほど歴史に翻弄されてきた場所は日本のどこにもなく、県民も、なぜいつも沖縄だけがと、不満を隠さない。
今回の沖縄知事選に当選した翁長氏は、辺野古の埋め立てを承認した現職の仲井真氏を、何百億か沖縄振興予算が上積みされ、得意満面だったと批判したうえで、こう演説した。
沖縄の人をばかにしてはいけない。
そして今、琉球の人々からは、沖縄ばかりに負担を強いる日本に見切りをつけ、琉球独立を唱える声が目立ち始めている。
そこで皆さんに質問です。
沖縄の末来年表には、どんな項目が記されると思いますか?
ああ、あーあ。
皆さんのご意見見る前に、ここのコーナー、ゲストをご紹介しましょう。
ケビン・メアさん。
惠隆之介さん。
よろしくお願いします。
惠さんは沖縄ご出身でね。
そうです。
そしてメアさんといえば沖縄。
3年間住んでました、総領事として。
そうですね。
言うてもいないことをね、某共同通信に書かれて、アメリカの政府、首になって。
首じゃない、退職しましたよ。
退職した?
…された。
何いわはったことになってたんですっけ?
報じられたことは2つ、注目されたことは、ゆすりの名人と、怠惰でゴーヤも栽培できない。
怠惰でゴーヤも栽培できない?それはくびですわ。
でも、そういう侮辱的な発言してないんだけど、僕、そういうゆすりの、なんかやり方をたまに政治家使うという説明しました、はっきりとね。
今回の沖縄県知事選の結果はどうです?
まあね、不思議だと思いましたよ。
例えばもともと、…、日米同盟、基地の存在、自民党の支持であった政治家。
翁長さんというのはもともと自民党の人ですからね。
新知事が共産党と社民党と手を組んで選挙運動に出たこと、ちょっと不思議だと思う。
この手のひらの返し方見てると、もう手の骨、折れてんじゃないかなと思いますよ。
つくづく。
でもあくまでも、安全保障政策は、国の政策ですから、県知事の権限ではないけど、でももちろん、県民の意見も無視できないんですけれども、でも、中国からの脅威とか、現実的に見る必要がある。
そして、惠さん、どうですかね、翁長さんがもうとにかく、沖縄をばかにするのはいいかげんにしろというので、最後、ぐっと、あれが演説の一番最後だったという話です、やっぱり沖縄の人はばかにすんなと思ってるわけですか?
多少は思ってると思うんですよ。
というのは、沖縄県で1000万円以上の高額所得者は全国で10位になりました。
県民所得は最下位。
これ、どういうことかというとね、発展途上国みたいに一部の連中が利権を山分けしてる。
それに対して大衆は基地問題に視点を転嫁されるもんですから、こういう微妙なバランスのもとに、沖縄県、成り立ってるんですよ。
その金持ちでもうかってる人たちは、何してる人たちなんですか?
公務員とか、米軍の軍用地の人とか、貸してる地主とか、あるいは政治家クラスですね。
この間、私、別の番組でね、翁長さんにご出演いただいて、私は普通に話してるつもりだったんだけど、いきなり怒りだされて、なんだ、その上から目線は!って、俺、そんなつもりないんだけど。
これは沖縄県民特有の被害者意識。
今始まったわけじゃない。
私、きょうよう分かりました。
あのね、この読売テレビ系列って、沖縄放送局がないんです。
放送局がないから放送してないんです。
でも沖縄の放送局が評判なんで、いっぺん、放送できるかどうかって、この番組、見学に来はったことがあったんです。
一回来て、帰ったきり音沙汰なし。
あれから音沙汰ないんですか?
だってこれから沖縄の未来年表には津川さん、中国の属国、竹田さん、中国に併合されるって、それどうよ、それ。
だってそれしかないでしょう。
このままいったらですよ。
この間、イギリスでやったじゃないですか。
スコットランドの独立。
とにかく日本から離れりゃ、中国はぱくられると思うから、中国の属国の…。
しかも津川さんね、独立運動なるもののバックには中国がいるんですよ。
しかも政治資金もどうも投入されてる節があるんですよ。
これ、明言してますからね。
政治資金は。
だって環球時報が、沖縄の独立運動を国家として支援すべきだって。
環球時報っていうのは、人民日報系の週刊紙。
国際版。
外交専門紙です。
外交専門誌。
しかもそれに呼応するように、琉球新報が独立を議論すべきだって社説で書いちゃうんですから。
まず、沖縄タイムズ、…が社説の局とか、はっきり言うことは、新聞自体は、目的は日米同盟を破壊させると。
基地をすべて、自衛隊基地もなくするという目的ですよ。
そうですね、今回の選挙も、毎日、沖縄戦の惨劇を強調して、またオスプレイがいつ落ちてくるかも分からんっていう危機感をあおってね、これで大きな沖縄の島の空気を作っていましたね。
これがね、琉球新報の選挙の。
うわっ、すごいですね。
だってこういう紙面って、あんまり見ないじゃないですか。
しかも見るとね、圧勝、移設打撃って書いてあって、どーんってほら、オール沖縄再びってやるわけですよ。
10万票、差がついた、差がついたって、いうけども、結局ね、この数字見るとさ、ここなんですよね、翁長さんと仲井真さん、確か20万票、差がついてるんですよ。
でもね、6対4なんですね。
ということは、6に対して4の人は反対票入れてるわけ。
もちろん民主主義だから、1票でも大きかったら向こうが勝つんだけれども、オール沖縄じゃねえじゃねえかって話なんですよ。
翁長さんは、福州市の名誉市民でもあるんですよ。
これはもう親中勢力の巨塔でね、今、チャイナタウンの復活、琉球王国を牛耳っていったチャイナタウンがあるんですね。
中国…の子孫が住んでいたくめって所がありますけど、そこの復活を公費を費やしてやってます。
沖縄の末来年表には、お二方はどういう文字が記されるか、ちょっと書いてきていただいてますから、惠さん、沖縄は単独州となり、自治を宣言。
沖縄と中国が沖縄の独立と非武装中立化を宣言。
米軍および自衛隊は完全撤退。
ケビン・メアさん、昔の歴史と被害者認識を乗り越えた日書かれると、全く違う未来図ですけれども、これ惠さん、相当悲観的ですね。
そうですね、今回も、当選確実が出たときは中国中央テレビ、そこに字幕スーパーで大きく出ましたですもんね。
そうですか。
日本国内よりも今、北京のほうが沖縄に関心持ってますよ。
これ惠さんにお聞きしたいんですけれども、沖縄が独立した日って、僕は中国に併合される日になると思うんですけど。
それは間違いない、間違いないですよ。
ケビンさん、どう思われます?
すぐ中国に取られちゃうよ。
ですよねぇ。
本当にちょっと考えたら分かることだと。
だけど、尖閣諸島は沖縄県内でしょう。
毎日、武装されて中国の政府の船が包囲してますよ。
だから独立じゃないんですよ。
独立イコール侵略される日だから、人民解放軍が乗り込んでくる、即日。
首謀者は銃殺刑ですから、どうせ。
沖縄の大学の教授連中が言ってることはね、歴史的に日本もアメリカも沖縄を威嚇したと。
中国はいつも守ってくれたっていう言い方してるんだけど、私に言わせますと、台湾の2・28事件。
見てくださいよと。
沖縄はね、非常に世界最強の米軍に戦後、守られたためにね、援助も受けたし、そして防衛もしてもらった。
これと台湾と全く対照的ですよね。
台湾は2・28事件で2万8000名、粛清されて、かつ40年間、戒厳令下にあったじゃないですか、この比較ですよ。
本当だ。
今、台湾の比較が出ましたけれどもね、その場所の持つね、運命っていうのがあるんですよ。
だから沖縄がそこにある、あそこにあるということ自体が、ある意味では沖縄の宿命なんです。
中国、太平洋、アメリカと二分しようとしてるじゃないですか、沖縄に出てくれば、そりゃ達成できるわけだから。
中国はやっぱり虎視たんたんとねらってますよ。
今、地図が出てるじゃないですか。
ちょっと待ってください、私はねサジェストしたいの。
私は沖縄に提案したいのは、これだけ大切な所なんだからね、私たちのところへね、基地を造るんだったらそれ相応のお金を払いなさい、これは何もね、沖縄をばかにしてるんじゃなくてね、これね、日本で考えると、駐車場と同じ考えだと思えばいいのよ。
駐車場っていうものは絶対に必要な所っていうのは、駐車場料金がいるわけ。
だから沖縄の基地っていう、そこの場所を持ってる力っていうものをね、経済的に変えるんだとしたらね、正々堂々とやればいい。
私もその地政学的な場所、これが非常に重要で、沖縄、日本と韓国、それから中国、台湾、さらには東南アジアにも近くて、僕は十字路と書いたんだけど、この十字路っていうのは、実はチャンスってことなんですよ。
すごくオポチュニティーに恵まれた場所で、発展する余地が大いにあると。
ただし、この話には大前提があって、私、これを前向きに書いたのは、中国が崩壊すると見ているからなんです。
すなわち沖縄にアメリカが基地をなぜ置いているか。
それは中国とロシアという、これが脅威としてやっぱりずっと存在し続けているからなんですよ。
でも、もしかしたら中国がこの30年で崩壊するかもしれない。

30年もかからないかもしれない。
かからないかもしれない。
つまり今の習近平というのは、最後の皇帝かもしれないんですよ。Image

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米ドルは私立銀行群が無尽蔵に印刷!

 2倍の速度で進む円安、前回円高時に比べ関連倒産件数は3倍超 
 重要:11月の米就業者数、32.1万人増=12年1月以来の高水準―労働省
   12月6日(土)0時32分配信
  このような金融関連の重要な情報があったので、お金の勉強000000000000000084をすることにしたが、下段の動画を見る前に簡単な予備知識が必要だ。
  日本銀行が発行する円紙幣には『日本銀行券』と書いてあるが、FRBが発行するドル紙幣には、何処にもアメリカや米国政府の文字はない。
 米ドルが無尽蔵に印刷され供給を続けても破綻せず、ドルが基軸通貨でいられる理由はなぜ
  「FRB」とは、
 連邦準備制度理事会といい、FRS(連邦準備制度)の構成機関の一つで、米国の金融政策策定にあたる理事会。 FRBが開く金融政策の最高意思決定がFOMC。
  「FOMC」とは、
 連邦公開市場委員会のことで、連邦準備制度委員会(FRB)の理事7名や地区ごとの総裁5名で構成され、米国の金融政策やFFレートの誘導目標を決定する。
 この米国・中央銀行制度を司る重要な私立銀行群なのに、その政策や委員や理事はどのような経緯で決められのかアメリカ政府は把握していないという。

お金ができる仕組み。銀行の詐欺システム(1/5) Money As Debt    http://youtu.be/iqlxMp3dR7Q?list=PLD68B5B4F83FBB106    

宇野正美先生は正しい答えを証明した。1/2
  http://youtu.be/JTasJTp6MX0     

宇野正美先生は正しい答えを証明した。2/2

  http://youtu.be/tgaS8vqs1c4  

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2014年12月 6日 (土曜日)

「白人⇔.黒人」「善⇔.悪」「勝利⇔.敗北」

 人類の多くは「白と.黒」に対して、「善⇔.悪」、「勝利⇔.敗北」、「天使⇔悪魔」、「無罪⇔.有罪」、「清潔⇔.不潔」などと対比したイメージを作り上げられてきた現実がある。0000000567
 これが人種差別が無くならない根源か。
 いや、それだけではないはず・・・・・・
 アメリカのファーガソンでは8月9日、強盗犯人の黒人少年(18)が白人警察官に射殺された。また、ニューヨークでは7月17日、違法タバコを販売した黒人男性をニューヨーク市警の白人警察官がチョークスリーパーで取り押さえ死亡させ、白人警察官らは殺人罪に問われたが、いずれも不起訴の決定を下された。
 収まりがつかない黒人たちの大規模な抗議行動がアメリカ全土に広がっている。
  白人警察官の立場で状況を考察すると・・・・・
 まず、相手が白人なら感じない「殺らなければ・やられるかもしれない」恐怖心を日頃から感じていたことを推測する。それは、幼児期から黒人に持つイメージが植え付けられ、過剰な防衛本能が働いたことが原因の一つであろうか。
 適切を欠く例かも知れないが、小生は蛇が大嫌いなために山道などで蛇に出会うと罪もない蛇を何匹も殺した記憶がある。この爬虫類嫌いは、人類の記憶に刷り込ま0000011れた記憶・本能らしいが・・・・恐怖心から必要以上に反応していたのかも知れない。
  作家: ピーター・フライヤーは、
 「すでに二世紀から、黒という色、そして黒い人間が悪魔と結びつけられてきた」と述べている。 そして、「白⇔.黒 =白人⇔.黒人 」、「善⇔.悪」、「勝利⇔.敗北」、「清潔⇔.不浄」、「無罪⇔.有罪」などと対比された。
 映画や童話の世界でも、
 「天使は白、悪魔は黒」、「白は何にも染まっていない=純粋」、「黒はこれ以上染まらない=不純」というようなイメージで作り上げられているし、その逆はまずない
  人種差別が無くならないのは、宗教的なものが根底にあるのに加え、このような教育や幼児期からのしつけがあるのか知らないが、白人によるアメリカ大陸発見などの白人優位主義の歴史感が最も邪魔しているはずだ。      
 日本人も教えられた。
 1492年、コロンブスの米大陸発見などと馬鹿げた白人主義の歴史を起点に、
 極北アメリカのイヌイット
 北米のインディアン
 中南米のインディオ
 オーストラリアの原住民アボリジニ人
 アフリカ大陸の黒人
 アジア大陸では東アジアをはじめ、中央アジア、シベリア、東南アジア諸国のモンゴロイド等々、みな白人に侵略され、奴隷化され大量虐殺された民族ばかりだ
 特に、アメリカ大陸にはモンゴロイド系先住民族が数万年前から居住し、独自の文明を築いていたことを忘れてはならない。

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2014年12月 5日 (金曜日)

次は「人工クモ糸」がノーベル賞候補?

 スパイダー(クモ)とファイバー(繊維)で「スパイバー」。0000061
 今月10にはストックホルムでノーベル賞授与式が行われるが、いずれ、この開発者たちも候補であろう。
 米軍やNASAをはじめ世界中の、並居る研究者が人工クモ糸の生産を目指したが失敗したのに、鶴岡市の慶応大学発ベンチャー・スパイバーが実現した。
  山形県鶴岡市覚岸寺字水上246番地「スパイバー株式会社」の代表取締役社長の関山和秀さんは、1983年1月2日東京生まれだ。
  人工のクモ糸は、鋼鉄より4倍強く、伸縮性はナイロンを上回り、耐熱性は300度を超えるという驚異的なクモ糸の特性を活かした「夢の繊維」、新素材「QMONOS®」を関山さんら三人の若者が開発したという。
 この夢の繊維は衣服にとどまらず、飛行機、車、船舶、建築、医療、等々に使用される可能性があり、市場規模は20兆円超とソロバンをはじく・・・・2014125image

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2014年12月 4日 (木曜日)

人の夢と書いて「儚い」と言うが・・

 今日の産経新聞「直球&曲球」に、アルピニストの野口健さんのエッセイが掲載してあった。000000000s003
 「僕の夢」がテーマだが、実に分りやすく「夢」を語っている。
 『野心より、今の自分にできることは何だろうと地道に積み重ねていく。コツコツ続けることに意味がある』、そして、「何かを最後までやり抜くことは新しいことを始めるより難しい。私の目標は当分死なないこと。長く生きることによってできることがある。生きて、今やっていることを最後までやり抜きたい。」と語る。
 もっとも、人の夢と書いて「儚い(はかない)」とも言うが・・・・・・・・
 豊臣秀吉は、
 「露と落ち 露と消えにし 我身かな 浪速の ことも 夢のまた夢
 と、夢の儚さを辞世にのこした。
 野口さんは、
 「今の自分にできることは何だろうと地道に積み重ねていく
 ことが夢と語る。
 何と分りやすい夢ではないか。
 せめて、この考え方だけでもマネたいものだ。

 人の夢と書いて「儚い
 人の為と書いて「」~人のためと言いつつ、自分の利益ばかり考えている
 信じる者と書いて「儲け」~信じて一筋に努力すれば金儲けになる
 不正と書いて「歪み」~何事も正しくなければ、どこかに歪みが生じる
 自ら人に言うから「自信」~自信過剰、うぬぼれの場合もある
 信者と書いて「儲ける」 ~信者からのお布施から
 恋は下に心があるから下心、
 愛は真ん中に心があるから真心

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2014年12月 3日 (水曜日)

恥を晒すホームページなら不要だ!

 知人から、会社のホームページを開設したいので手伝って欲Imageしいと相談を受けた。
 確かに、過去に数カ所のホームページを作成・更新を担当したが、殆どが片手間で知識と技術の一部を提供した程度の「やっつけ仕事」だった。
 第一、トップもホームページによる情報発信の重要性を軽視している面も見受けられた。よって、数年は真剣に取り組んだものの、途中からは面倒になったり嫌気がさしたものだった。
 軽視していた証拠に、
 担当者が退職して数年経つのに、いつまでも更新もされずに公開され続けていることで証明している。このように、新しい情報を載せないで放置されたホームページは、公に恥を晒しているのと同じであり、とても、ここで紹介出来るものではない。
 トップなりが、
 ホームページの重要性に一早く気づいた会社や組織では、デザインも方法も一流であり、内容も「ホームページ ( homepage) 」の文字通り、家・屋敷、表看板、顔、ステータスとして社会への影響力を発揮している。そして、その組織なりの哲学、方針、政策、或いは、技術、問題解決能力、やる気などが強く反映されている。
 よって、決して疎かに出来ないはずなのだ。
  今、依頼されたところでも、ようやく、その重要性に気づいてのことであろう。 
 ただ、作成が自分の勤務先なら知識も情報も十分で、作成は比較的容易なのだが、全く知識のないところは、打ち合わせや写真の準備、情報収集等々をはじめ、その職場・その職業の勉強は当然であり、企画力・表現力などが必要になる。
 果たして、小生の技術で依頼者のニーズに応えつつ、検索エンジンに上位表示させ問い合わせ件数を増やし、売り上げをアップ出来るのか。
 同業他社も多い中、更にネット知識が一般的になった昨今、簡単ではないはずだ。

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2014年12月 2日 (火曜日)

カシミアセーターの良さを実感

 一月振りに床屋に行くとカットを担当した女性が、襟元に手をかけるなり、「あった0000000_resized_2かそうなカシミアですね」と声を掛けて来た。いつも黙ってカットされるほうだが、セーターを褒められただけで、やや饒舌になっていた。
  カシミアのセーターは、「ハイネック」と「カーディガン」の二着だけだが、購入時は高めの価格に感じても、いざ着ているときは値段や素材など忘れているものだ。それが、床屋さんが一瞬触れただけで見抜いたことから、改めて、その良さを実感した。
 カシミアは、
 中国・内モンゴル産が最高と言われているが、それをユニクロがこの地方のカシミヤ100%使用したと知って購入した記憶がある。カシミアは繊維のダイヤとも言われ高級・贅沢品とされ一着数万円と高価だったが、それをユニクロで7~8千円程度のお手頃価格で売り出していた。000000000map
 売り口上に、
 「猫の背中をなでているよう」。ふんわりやわらかい極上の風合い。軽くてあたたか、チクチクしない。上品な光沢感と美しい発色はカシミヤの中でもケタ違いなのです。
 とあるが、床屋さんが一瞬触っただけでカシミアと見抜いたのも不思議ではない。
 「カシミヤ」の呼称は、インド北西部のカシミール地方に生息するカシミヤ山羊に由来するが、最近は内モンゴル産が最高だそうだ。
 内モンゴルは中国共産党に支配され、「新疆ウイグル自治区」の問題もあるが、安定した価格でカシミアの輸入が続くことを期待する。

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2014年12月 1日 (月曜日)

今どき何故「過激派・中核派」に参加?

 大手マスコミも、「大学構内に無断で私服を入れるとは、京都府警は時00000000y代錯誤も甚だしい」などの論調が多かったが、
 「極左テロリスト集団の動向を内偵するのは当然だ」、
 「大学は治外法権ではない
 「一般学生や住民に何かあったら大学が責任を取れるのか」、などと、学問の自由より「公共の福祉を重視」すべきとの常識的意見も多く聞かれた。
 「事前に大学当局の許可を得ていない」という批判に、
 大学当局に連絡すれば、「その日のうちに過激派に伝わる」などの現状を嘆く関係者の声も聞こえた。つまり、大学当局の一部教授陣をはじめ事務局も過激派に影響されている現実があるという。
 ただ、京都府警の私服が発見される初歩的ミスは批判される・・・・・・私服になるのは、身分を秘匿して活動する必要があるからではないか・・・・・・
大学は治外法権ではないと知れ!: 多摩湖畔日誌
中核派活動家が生活保護不正受給: 多摩湖畔日誌
渋谷暴動殺人指名手配犯・大坂正明: 多摩湖畔日誌 

 さて12月1日の産経新聞-今どきの若者なぜ中核派? 反原発やサークル装い浸透 京大捜索で注目 -の記事に目が留まった。
 極左暴力集団(過激派)の各セクトは、
 暴力性や党派性を隠し、震災で関心が高まった反原発やボランティア活動などを通し、浸透を図っているとの分析もある。大学内でも自治会やサークルを装って近づき、加入を促す「オルグ」が積極的に行われているという。「新入生が4月に引き込まれて養成され、夏には目つきも違う筋金入りの活動家に成長する」と公安関係者は話す。
 このような現象は、
 これまで特別な思想信条を持たない若者が、イスラム国参加を企てたり、オウム真理教に入信することと、底辺にあるものは類似しているのだろうか。

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極左暴力集団(過激派)
 警察当局は「社会主義や共産主義革命を目指し、暴力的闘争を展開する集団」と定義。「革マル派」(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派)、「中核派」(革命的共産主義者同盟全国委員会)、「革労協」(革命的労働者協会)が過激派の3大セクトとされる。中核派や革労協が活動家の数を減らす一方、革マル派は拡大しているとの見方がある。

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