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2014年12月25日 (木曜日)

「ビアク島からの生還」5-6-7-8

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊~
  http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5_3

 この戦争記録「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。
 今回は「5:ビアク島上陸  6:連日の空襲  7:米軍上陸  8:地獄と化した洞窟

5 ビアク島上陸
 昭和18年12月25日、我々は目的地のビアク島東南沖に到着した。
 丁度引き潮で、一キロ近くも潮が引き、波も静かな南海の孤島であった。
離れて眺める島は、エメラルドグリーンの海に浮かぶ緑に覆われた美しい島でMapoceania111_2ある。船を接岸する港はなく、島から随分離れた所に停泊する。
 さっそく、我々より早く上陸している、「海軍陸戦隊・暁部隊」の船舶工兵一個小隊による上陸用大型船艇で上陸作業が開始された。兵士・軍属約1万2千名の上陸はその日の夕方までかかり、食糧、弾薬等の荷降ろしは相当日数を要し、海上からは、連日クレーンの音が響いていた。
 ビアク島は、ニューギニア島西北部のチェンドラワシ湾に浮かぶ、二等辺三角形を左に傾けたような形をした島で、南北約20キロ、東西約12キロ、一周約60キロ、島の周りは珊瑚礁で囲まれ、砂浜には椰子の木立が豊かに茂り南国情緒が豊かであった。
 この島は赤道直下にしては住み易い方なのか、原住民パプア族も海岸沿いに海上に張り出した丸太小屋に住んでいた。
 男はふんどし、女は腰蓑を巻きつけた裸に近い格好であった。
 心配していた原住民の抵抗は全くなかった。
 また、島内の至る所に鍾乳洞があり、後に空襲時の避難や物資の保管場所、更に兵士の宿舎代わりになった。食糧となるバナナ、ヤシの実、パパイヤ等の南方の果物も豊富と聞いてはいたが、精々原住民の人数に丁度程度の収穫量であり、一度に一万人以上の兵士が上陸したのであるから、我々兵士の腹を満たすことはなかった。
 それにしても、ビアク島の原住民パプア族に対しては、食糧の確保をはじめ、随分生活を脅かしたことであろうが、当時の我々には、原住民のことまで思いやる気持ちを持ち合わせていなかった。
 我々の上陸地点はボスネックという港だった。
 港といっても、現地人がカヌーの出入りに使用する程度の、小さな入り江であったが、上陸用大型船艇を使っての上陸には一番適している所で、後に米軍もこの地点から集中的に上陸してきた所となった。
 我々「工兵隊木工班」10名は、ボートに乗り換え一足先に上陸し、葛目部隊長が休む小屋造りに取り掛かった。
 二間に三間の小屋である。その日のうちに完成させた。
 我々木工班10名は、翌日からも野戦病院をはじめ、兵士の宿舎等を次々に造り続け、大工の技術は最大限に利用された。
 次は、道路作業を開始し、ボスネック港からマンドンまでの約2キロの道路は19年2月頃までに造り終えた。
 これと並行して、ジャングル内を縦横に切り開く道路構築と飛行場工事に取り掛かり、工兵中隊(約2百30名編成)の3個小隊のうち、1個小隊は道路、2個小隊は飛行場を担当した。 
 我々、工兵中隊は昼夜の別なく働き続けた。
 又、この作業には全部隊から、将兵の別なく加わり、突貫工事で19年4月頃までに造り終えた。全ての工事が終了の日、全部隊を完成したばかりの飛行場に集め、葛目部隊長から訓辞があった。 
 「この編成を以て米英に当たるならば、米英ごときは一蹴である。」と繰り返し、爛々と輝く目で語った様子を今も脳裏に焼き付いている。
 第222連隊1万2千有余の将兵は、心ひとつになっていた。

6 連日の空襲
 昭和19年3月ころ、部隊運用に幾らか余裕があったのか、我々第一大隊・第二中隊の工兵中隊第三小隊は、澤田少尉の指揮で約20日間、ビアク島の隣Mapoceania2島「ヤーペン島」に道路工事に行ったことがあった。
 この島には、日本の看護婦訓練所があり、看護婦が60人もいた。ここで看護教育を受け、各地の野戦病院等に送られるのであろう。 
 若い女性の身ながらご苦労なことと思った。
 昭和19年4月17日(この日、サルミに米軍上陸)、ヤーペン島からビアク島に戻ったところ、丁度、ボスネック沖には駆逐艦一隻と輸送船二隻が入いっており、我々工兵隊も直ぐ荷降ろしを手伝った。ところが、正午近くになり、今にもスコールが来そうな天候を恨めしく思いつつ、見上げた空の雲の切れ間からロッキード戦闘機が急降下し、私の足元数メートル付近に機銃の弾痕を残して上昇した。
 二回に渡り機銃掃射を受けた。こちらも艦上から砲撃したが何の効果もなく、私の目の前で、作業中の兵士30余名の死者が出た。
これが我々がビアク島に来て最初の敵機飛来による被害であった。
 その日、米軍は、ビアク島に程近いサルミに上陸し、拠点固めをしていたのであった。空襲はこの日を境に連日続くことになり、更に日を増して激しくなる一方となった。
 ビアク島に米軍が上陸する、昭和19年5月27日まで約40日間は、毎日3回は定期便のように、40機前後で飛来し、爆撃を続けたのである。
一回に平均40機とし、一日に3回、つまり120機が飛来する計算になる。
 爆弾投下数も、「コンソリデーテット重爆撃機B24」一機に爆弾4発を積めば120機で480発、40日間で1万9200発の爆弾投下数であり、驚く数字である。我々は空襲のたびに、近くの洞窟に避難したが、至近に爆弾投下されたときは洞窟内が大地震のごとく揺られ、鍾乳石が砕けて落下した。
 この爆撃は30から40分続くのであるが、皆息を沈めて敵機が去るのを待つだけであった。島中の至る所に、爆弾による大きな穴が開き、滑走路は埋めても埋めても爆弾にやられた。
 当時の日本軍はブルドーザーなどはなく、我々兵士がスコップで埋めていたのである。形のある建物もすべて姿を消し、上陸当時、海岸線に美しく茂っていた椰子の木立も、爆弾で鉈で削られたように倒れ、ヤシの実などは全くなかった。更に、人的被害も大きく、爆風による戦死者を含め、マラリア、デング熱等の病気で、米軍が上陸するまでの間に、工兵中隊では四分の一の兵士が既に戦死していたのである。

7 米軍上陸
  同年5月24日、警戒中の哨戒機から、「空母二隻を含む、連合艦隊がビアク島方向に進行中、数日中に到着の予定」との報を受けていた。いよBiak_map_2いよ決戦の日が近いと感じた我々は、全員それぞれの陣地で戦闘準備についた。
 私は、鎌田分隊長の指揮で、ボスネック港近くの鍾乳洞に入っていた。この洞窟の入口は、縦横約2メートルあり、横穴を降りるように進むと瓢箪のように広く、奥行きは30メートル位で、5~60人は十分入れ、南国の暑さを凌ぐには格好の場所でもあった。
 尚、工兵中隊の本隊は、我々がいる洞窟からは約2キロ離れたマンドンに近い洞窟を拠点としていた。このボスネックの洞窟には、工兵隊の兵士は15名が入っていた。
 記憶のある名は、
 鎌田 分隊長
 米谷仁吉 上等兵(秋田県出身)
 晴山 兵長
 熊谷正蔵 上等兵(岩手県花巻出身)
 鎌田 伍長(岩手県出身)
 渋谷惣作 兵長(山形県遊佐町出身)
 藤巻二郎 一等兵、
 瀬戸山晴治 一等兵(岩手県出身)
 門山政明 上等兵(山形県松山町出身)
 他の6名は思い出せない。
 我々は長期戦を考慮し、木の枝や草等を洞窟に持ち込み思い思いの場所に寝床を造っていた。下は凸凹し、けっして寝やすい場所ではなかったが、草木でベットを造り工夫していた。
 工兵隊にとって、こんなことはお手の物だった。
 この洞窟に入り三日たっても敵は現れず、「米軍は我々を怖れて、ビアク島には来ないよ」、「戦艦大和も応援に来るらしいぞ」などと、未確認の饒舌を言う者もおり、一時的にも安堵した空気が流れ、酒を酌み交わす者もいた。
 しかし、運命の日は確実にやってきた。
 昭和19年5月27日の朝、米山仁吉上等兵が「顔を洗いに行こう」と私を誘ってきた。
 洞窟を出ると、雲一つない澄み切った青空が広がり、南洋の朝日は眩しく美しかった。二人は椰子の木立の浜辺を歩きながら、引き潮の岩間から湧き出る真水を探していた。すると、遥か沖合に数10隻の船を発見した米谷が、「渋谷、我が軍も海軍記念日を期して攻戦に入るのかなー」と話しかける。
 「海軍記念日」が制定されたのは、明治38年(1905年)5月27日、日露戦争の戦局の打開を目指し旅順港を封鎖されて身動きのとれないロシア大平洋艦隊を救出するために派遣された、当時最強と言われたロジェストウェンスキ-提督率いる、ロシアバルチック艦隊と日本海軍が対馬沖の日本海で遭遇。
 2日間に亘る壮絶な砲雷撃戦の末、旗艦「三笠」に座乗する東郷平八郎元帥率いる帝国海軍連合艦隊が3隻を残しすべて撃沈。残る3隻もすべて捕獲するという大戦果を挙げた。この結果、ロシア海軍は事実上崩壊し日露戦争は一気に終結に向かったものであり、この大勝利を記念して5月27日を「海軍記念日」と制定されたのである。

  私も今日は「海軍記念日」だったことを思い出し、沖合に視線を移せば、アオキ島の手前に黒々と船が見える。
  「どれが大和かな」と私も思いつつ、まだ歩き続ける二人を驚かせたのは、「ドドーン」という一発の砲音であった。それでもまだ、味方の演習かなと思いながら、立ち止まり見ていると、戦艦上から「パパッ」と赤い火花がはじけたと思うや、「ドドーン」と響き、空気を引き裂くような唸りを上げ、大きな砲弾が島に飛んできて大地を揺るがした。
 二人は「敵襲」と叫びながら全力で洞窟に向かった。
 昭和19年5月27日、午前4時30分頃のことであった。
 その後は数秒たりとも絶え間ない艦砲射撃が、正午頃まで続いた。
 我々のいる洞窟は上陸目標地点の正面に位置しており、近くには何発となく砲弾が落ち、その度に洞窟が崩れ落ちる恐怖感が我々を襲った。
 米軍は上陸に備え、徹底した艦砲射撃を行い日本軍の動きを制すると共に、戦意を奪う作戦をとったものと思う。
 事実、米軍は各地の上陸作戦でも、「空襲」、「艦砲射撃」、そして「上陸」というパターンを踏み、自軍の犠牲者を最小限にする作戦を展開していた。

8 地獄と化した洞窟
ボスネック港付近は、兵員揚陸艇や水陸両用上陸戦車を上陸されるには格好の場所であった。しかし、我々がいる洞窟はこの港から約百メートルの地点にあり、上陸すれば一早く発見される場所でもあった。一旦は、工兵中隊の本隊がある洞窟に退避を試みたが、艦砲射撃の物凄さに断念した。
 後は銃を構えて敵を迎え撃つ態勢を取った。
 運を天に任せるよりなかった。
 艦砲射撃は正午すぎにおさまり、いよいよ敵は兵員揚陸艇や水陸両用戦車で大挙して上陸してきた。
今度は激しい機関銃音であった。
 洞窟から出て迎え撃つにしても、あまりにも多勢に無勢であった。
 その日の午後二時頃と思う。
 洞窟の入り口方向から戦車のキャタビラ音が聞こえた。
 いよいよ来たぞと思うや、「日本兵隊、居るか」と呼ぶスピーカーの大声にびっくりし、銃を入り口方向に構えた。米軍の通訳の声であった。
 この時、恐怖感に追い討ちをかけるような大声に驚いたのか、戦友の一人が反射的に  
「居ます」と返事し、入口方向に歩き始めたのだ。
 全員がこれで最期かと覚悟したその瞬間、鎌田分隊長は、「だめだ、やれ」とドスの効いた声で藤巻一等兵に顎で命じた。
 戦場において、「だめだ、やれ」とは、このような場合、仲間でも殺せとの暗黙の言葉であった。藤巻一等兵は、帯剣を抜きながら素早く接近し、やむ得ずその兵を犠牲にした。
 これが、戦場の厳しい掟であった。
 遺族の方々も、まさか仲間に殺されたとは、思ってもいないだろう。
 まもなく否応なしに、敵に殺される運命にある仲間を、このように殺害する必要があったのかと、今思うと何とも情けないことである。
 それから間もなく、今度は入口方向から「ゴトン、ゴトン」とドラム缶が転がるような音がした、と思うや、一気に火の手が上がった。
 洞窟は一瞬にして火の穴と化した。 
 ガソリン入りのドラム缶数個を投げ込まれ火炎放射機で点火されたのである。
 さらに続いて、耳をつんざく衝撃音が洞窟内に走った。
 我々の止めを刺すかのごとく、戦車砲から入口目掛けて5~6発の砲弾が撃ち込まれたのである。
 この強烈な衝撃で、洞窟内の岩盤が崩れ落ちた。
 火炎と砲弾の攻撃に加え、岩盤の崩壊に私は死を覚悟した。
皆、耳を押さえながら、火炎で赤く照らされた洞窟の奥深くまで引き下がり、幾らかでも火の手から遠ざかった。
 それでも洞窟内の温度は焦げつく程に上昇し、汗はだくだく流れ、酸素も欠乏し呼吸困難に陥った。
 いつしか私は倒れていた。
 どの位、気を失っていたか分からないが、虚ろな意識の中で、冷たい水が顔を濡らしていることに気が付いた。
 岩盤の切れ間から冷たい水が流れ出ていたのだ。
 手のひらで隠れる程の小さな流れが、僅かに空気を運び私を救ったことが分かった。呼吸が楽になると思い切りその水を呑んだ。
 「恵みの水、救いの水」と思い涙が溢れた。
 あの時の水の味は今も忘れられない。
 洞窟内部は、まだゴーゴー音を出してガソリンが燃えていた。
 私は「おーい、こっちに来い。水が流れているぞ。」と叫んで戦友を呼び寄せ
 「水に鼻をくっつけろ、呼吸が楽になるぞー」と教えた。
 生きている者は皆、腹這いになって鼻を水につけていた。
 暫くして火の手も衰えると、また洞窟内は薄暗くなった。
 敵は全滅したと判断したのか、この洞窟には再び攻撃して来なかった。
 鎌田分隊長は、突然「生きている者名乗れ」と声を張り上げた。
 薄暗い洞窟の中でそれぞれ名乗った。
 9名残っていた。 
 いや9名も生き残ったのは、不思議な状況であった。
 もう最期かと諦め、入口近くで酒やビールを呑んでいた古兵達は、突然の火炎に巻き込まれ一瞬にして死んでいたのである。
 当然、入口近くに積んであった食糧は全部焼け焦げていた。
 缶詰をはじめ、カルピスや酒等も沢山あったが何も残っていなかった。
 これが米軍上陸一日目の出来事であった。
 それから3日間、我々は洞窟の水だけで過ごした。

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