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2014年12月27日 (土曜日)

「ビアク島からの生還」13_14_15_16_17_18

ニューギニア・ビアク島 幻の絶対国防圏 ~岩手県・歩兵第222連隊
 
http://www2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210020_00000Image5

 この戦争体験記「ビアク島からの生還」は、ニューギニア・ビアク島戦に一兵卒として参戦し生還した、山形県遊佐町野沢出身、旧陸軍歩兵第222連隊・工兵中隊・兵長「渋谷惣作」の実録です。今回は「13 白い犬(幻を見る)14 捕虜になる 15 米軍野戦病院16 帰郷(遊佐町~野沢) 17 戦友の実家 18 あとがき
 元・遊佐町議員議長石垣祐治氏の寄稿文まで全て掲載。
 数年前にネット配信を中止していたが、ねずさんこと小名木善行さんが 「ビアク島の玉砕戦 」のタイトルで紹介されていたことを知り再配信した。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1467.html

13 白い犬(幻を見る) 
 「俺は必ず生きて帰り、この惨状を祖国に伝えよう」と決意し立ち上がった。
 その時であるスピッチに似た白い小犬が50メートル程先を走っているではないか。
「この辺りに部落でもあるのか」と思い、その方に歩いた。
犬は山の木立をぬって走る。犬が見えなくなった所まで行くと、又、犬の尻尾が見えた。
 こんなことを幾度も繰り返し、何日犬の案内で歩いたか分からないが、広い原っぱに出た。そこは軍属が自活のために作った農場だった。
  小さなトマトが鈴なりに実を付けていた。夢中で食べた。
 食べながら辺りを見渡すと小さな小屋があった。
 恐る恐る近付くと人が居た。  
 一瞬びっくり、相手もびっくり、お互いに日本兵と分かると笑顔になった。
 「何中隊だ」と尋ねる。
 「歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵だ」と名乗った。私も同様に名乗った。
 初めて出遭った二人は、これ迄の出来事を色々語り合った。
 苦しみは分かち合うことで半減するというが、今の二人はそれであった。
 「俺達は、何処に養子に出ても勤まるな」等と久々に笑いが出た。
 又「どんなに肉体的苦しみには耐えることが出来ても、孤独には耐えられないことが分かった」などと語り合った。
 それからは同じ苦しみを知る友を得た喜びに、勇気百倍の心境であった。
 以後、泉田源吉上等兵(岩手県鳥海村出身)とは捕虜になるまでの約1か月間行動を共にした。
 二人は疲れ果てやせ衰えていた。
 ただ若さが持つ生命力だけを頼りに生きていた。
 それにしても、あの「白い犬」はどうしたのだろう。
 以来見かけることはなかったが、私は今でもあの「白い犬」は粕谷達の化身だったと信じている。

14 捕虜になる
 昭和19年10月始めのことだった。
 歩兵第三大隊第11中隊の泉田源吉上等兵と私は、栄養失調でやせ衰えた体で発電所のゴミ捨て場を目指していた。
 6尺棒にもたれつき中風の人が歩くような二人に、後方から「ヘィ・ヘィ」と敵兵の甲高い声がした。
 驚いて立ちすくんだ。
 戦う気力も、走って逃げる体力も残っていなかった。
 二人は重病人が支えられるように簡単に捕まりジープに乗せられ、いつか私がパンを盗みに入った発電所に連れて行かれた。
 発電所の一室で椅子に座らされ、銃を構えた四人の敵兵に囲まれ黙っていた。
 当時の軍人は「生きて虜囚の恥ずかしめを受けず」と教えられ、捕虜になるくらいなら潔く死ぬことを美徳とされていた。
 しかし動物同様の生活を余儀なくされ、軍人としての誇りも人格も失った今この時に、
それを期待することは無理なことであったと思う。
 我々がいる部屋に、黒々とした頭髪の日本人の顔だちをした体格の良い青年が入って来た。
 米軍の通訳であった。
 まず我々二人に、「長い間ご苦労だったね」と労いの言葉を掛けて来た。
 何年間も荒々しい軍隊言葉に馴染んでいた我々にとって、通訳の日本語は初めて耳にする優しい言葉であった。
 まず名前を書かされ、「所属部隊は」「兵隊に来て、家庭では扶助料を貰っているか」
 「島には何人位の日本兵が残っているか」等と聴取された。
 私は「他に日本兵は見ていない」こと等を説明した。
 通訳の青年も自己紹介した。
 「父は青森、母は京都生まれです。名古屋に住んでいましたが、ハワイに移住したそうです。私はハワイの日系二世で、戦争開始と同時に徴用され戦地で通訳をしています。」
「私には祖国が二つあると思っています。」「いずれが勝っても負けても辛い立場です」と語った。
 私は無言のままうなずいた。戦争がもたらす悲劇にはこのような所にもあることを知った。通訳は重ねて言う、「あなた方の体が元に戻るには、2・3年は掛かるね」。
その同情の言葉に頭が下がった。
 事実、体力に自信が持てるようになるまでに、それから約3年の歳月を要した。

15 米軍野戦病院
 5日間位して、我々二人はビアク島の飛行場からニューギニア島の、ポーランジーに移されることになった。
 簡単な診察を受け、更に飛行機でオーストラリアの、ブリスベン町に連れて行かれた。
 今度は全身をくまなく診察され看護婦二人の付き添いで、ヘイという町の陸軍病院に列車で行き入院させられた。
 白い敷布の上にゴムに似た感触の敷布を敷かれ、その上に寝かされた。
 お湯で体を拭いてもらい、更に白い粉でマッサージをしてくれた。
 終わると「ミスター渋谷、ノーめし」と言われ、今日は食事がないことを知らされた。
 その時、「渋谷、渋谷」と呼ぶ声がした。
 誰が呼ぶのかと回りを見渡すと病室には、20台位のベットが並んでいた。
 起き上がり、声の方のベットに歩み寄った「誰だ」と尋ねると「粕谷だ」と応えた。
 粕谷は地雷で戦死したのにと思ったが、同じ中隊には「粕谷」姓は二人いたことに気付いた。 「辰治か、良く生きていたな」と抱き合った。
 粕谷辰治一等兵(山形県温海出身)は4か月前、病に倒れた佐藤中隊長の看病を頼みジャングルに置いてきたのであった。
 「生きていて良かったな」と言っては男泣きした。
 「佐藤中隊長はどうした」と聞くと、マラリアと下痢で死んだと言う。
 中隊長は「渋谷達は必ず探して帰って来る」と信じ、けっして動かなかったと言う。
 最期まで我々を信じて死んだいった佐藤中隊長を思うと、胸の詰まる思いがした。
 同じく中隊長に付き添っていた加藤友治兵長は、水を汲みに行ったまま帰えらなかったこと、粕谷自身も一人になり山中を彷徨中捕虜になったこと等を一気に説明した。
 私も密林の中で道に迷い、何日も探し回ったこと、他の四人も次々に戦死し一人ぼっちになったこと等を話した。
 泣きながら語り合う二人に、隣のベットの人まで一緒に泣いてくれた。
 翌日からは、食事を与えられた。お粥を少量から与えられ、普通食に戻るのまで15日を要した。
 満足な食事を取ったのは、何か月ぶりか、生きていることを味わいながら頂いた。
 米軍の我々に対する扱いは全体的に親切であり、度量の大きさを実感した。
 衛生兵であった私は、日本軍の野戦病院も知っていたが、医療設備をはじめ何もかも上回っている
 米軍の施設に、勝ち目のない戦であることを感じとった。
 この米軍陸軍病院に入院したのは、昭和19年10月10日のことだった。
 日本兵の入院患者は、我々を含め19名、退院は昭和19年12月26日であった。
 退院後はニューギニア島ポーランジァの収容所に移され、特別養生棟に入れられた。
ここには、約1千40名の日本兵がいた。
 殆どが、ニューギニアや周辺の島々で捕虜になった者で、皆痩せこけていた。
 収容所仲間とも徐々に親しくなり、日本軍の苦戦の状況、特にニューギニア周辺の島々では、殆どの日本軍は全滅していることが分かった。
 はっきりと「日本は負ける」と言う者も居た。
 しかし、このような言葉は、当時禁句であったが、私も同意見だった。
 捕虜生活は、帰国する昭和21年3月末まで、約1年5か月間続くことになった。
 その間、私は大工の腕を生かし、「木工班」で玩具作り等して、一日3ペンスを貰った。
 この収入で、収容所仲間にタバコや歯磨き等を買ってやり、喜ばれたものだった。
 又、米国本土から取材にきて、「PX」という名の画報に、我々木工班の仕事振りが、写真入りで掲載されたこともあった。私も写っていた。
 昭和20年7月23日、私は満23歳の誕生日を、ニューギニア島ポーランジァの捕虜収容所で迎えた。
 二〇歳で出征し4年目、歳月の流れの早さをしみじみ感じていた。
 捕虜に、米軍から戦況を伝えられることはなかったが、終戦のことはうわさで聞こえてきた。
 広島、長崎に新型爆弾原爆が落とされたこと。
 本土でもかなりの被害があること等は、それとなく置いてあるアメリカの新聞や雑誌で知ることが出来た。
 この頃には、祖国のこと、郷里や家族のことまで心配する余裕が出てきた。
 帰還出来る日は近いと確信していた。

16 帰 郷(遊佐町~野沢)
 昭和21年1月ころ、帰国の噂が流れた。
 しかし、なかなか日程までは分からずに3月に入った。
 3月4日の点呼の時、「直ぐに帰国の準備をするように」との指示に、皆小躍りして喜んだ。
 身の回りは、いつ帰国しても良いように整理しておいたが、いざ帰国となると、今までの苦しかったことが走馬灯のように思い出し、この地も思い出深いものに思えた。
 迎えに来た船は、「第一大海丸」であった。
 この船は、まずオーストラリアのシドニー港で、アッツ島(昭和19年5月29日玉砕)の残   留兵を乗せ、次に我々が居る、ポーランジァのフンボルト湾に立ち寄ったのであった。
 昭和21年3月4日、第一大海丸は我々1千40名の日本兵を乗せ、祖国に向けて出航した。
 ドラの音が高らかに鳴り響き、ニューギニア島を後にした。P_001
  戦友の顔が次々に浮かんでは消えた。
 島影が見えなくっても、何時までもその方向を見ていた。
 そして、出征からの4年半、余りにも失ったことが多かったことばかりを考えていた。
 祖国に向かう航海は順風満帆であった。
 南方に向かう時は、何時、魚雷攻撃や空襲があるかと、緊張の連続の船旅であったが、終戦から半年を経た今は、すっかり平和を取り戻した大海原であった。
 それにしてもあの大兵団、大船団が1年程度で消えるように全滅してしまうとは・・・・
 この戦争とはなんだったのだろう。
 凄惨さと虚しさだけを残したこの「戦争」と言う二文字を、どう理解すれば良いのか、
 私のような一兵卒には整理も説明もつかなかった
 昭和21年4月3日、約1か月掛けて浦賀港に入港した。
 入港してから半日もしてから上陸した。浦賀に上がった我々は、士官学校跡に2~3泊してそれぞれの故郷に向かった。
 帰り際に支給された物は毛布を3分の1に切ったもの1枚、更に、我々東北出身者にはカンメンポウ(食パン)2袋、北海道出身者には白米3合とカンメンポウ3袋を支給された。
 その支給品を毛布に包み縄で縛り列車に乗った。列車の窓は破れて窓から乗り降りする人もいる。
 列車内では朝鮮人の横暴な振る舞いが目に付いたが、戦地帰りの我々はじっと耐えるだけだった。
 負けた国の悔しさが込上げてきた。
 戦地に向かう前と比べ、人々の動きしぐさに明らかに変化を感じとれた。
 顔からは笑顔が消え、歩く姿からは活気を失っていた。
 列車は、いよいよ羽越線に入り日本海沿岸を走り始め、見覚えのある景色が広がって来た。私は海寄りの席に移り、一人で座りながら久しぶりに見る日本海の景色に見とれた。
祖父の生家、府屋駅近くの海沿いの村、中浜も、以前と変わらぬ様子に安心した。温海あたりまで来ると車内もユッタリしており、車内では母の歳に近い女性達が、懐かしい庄内なまり言葉で会話を始めた。
 いっそう故郷が近いことが嬉しく思えた。
 そのうち列車は庄内平野に入り、周りには田植え前の田園風景と、遠くには残雪を残した鳥海山がはっきりと見えてきた。
 生家の野沢村は、鳥海山の麓である。
 あの「ビアク島」でのことを思えば、二度とこの山を見れるとは思ってもいなかった。
 鶴岡、酒田を過ぎ鳥海山はどんどん大きくなり、私は駅に着くのを待ちかねて立上がり出入口で山を見ていた。
 列車はゆっくりと遊佐駅にすべり込んだ。

 昭和21年4月6日午後3時丁度、郷里の遊佐駅ホームに降り立った。
 昭和17年11月30日この駅を一人出発し、4年半ぶりにひっそりと一人帰って来た。
 まるで浦島太郎の心境であった。
 まず、駅員が女性二人であったことに驚き尋ねてみると、戦争で男手が不足し女性駅員を採用するようになったと教えてくれた。しかし、駅も町並みも鳥海山も、どこもかしこも変っていない。本土空襲のことで心配していたが、まずは安心した。
 ゆっくりと駅前広場に出ると人の目が気になり、店先の窓ガラスに姿を写して自分の服装などを見回して見た。
 小豆色のシャツに赤色の捕虜ズボン、荒縄で縛った小荷物、髭は伸び放題、髪は肩まで伸びている。このままでは家に帰る気になれず、遊佐駅前の「石川床屋」に入った。
 すると、客の爺さんが話し掛けて来た。
  「どっちから来たでー」と言う。一目で帰還兵と分かったのであろう。
 私は「南方のニューギニアから、今帰って来た。」と答えた。
 爺さんは「ホホー良く帰って来れたのー」と感心してくれた。
 遊佐町袋地の、佐々木久三郎のお爺さんだった。
 「石川床屋」さんに、「どうぞ」と言われ、椅子に座り頭にバリカンを入れられたが、金は全く持っていないのに気付いた。
 どうするかと考えてたが、正直に「今、戦地から帰ったばかりで金を持っていない、明日持って来るから」とお願いした。
 石川さんは、「いいよ、いいよ、今日はサービスだ。長い間ご苦労さん」と言ってくれた。今思うと「面付けない」ことであったが、以来、私はこの石川床屋は行きつけの床屋さんになった。
 頭もきれいになり、母の従兄(野沢生まれ)が居る駅前の「大和屋」に顔を出した。
 「いま帰った」と玄関で挨拶すれば、「ホッホー」と驚いているばかりであった。
丁度、野沢本家「松の助」の母さんも来ており、野沢まで一緒に帰ることにした。
野沢の家までの3~4キロ位の道のりを、二度三度と座り込み休み休み歩いた。
 女の足にもついて歩けない、自分の体力が情けなかった。
「やっばり弱ってるんだのー」と言われた。4月6日午後5時すぎ、4年半ぶりに我が家に着いた。
 屋敷の入り口に立つと、母「鉄江」がサツマ芋の苗床を作っているのが見えた。
「今帰った」と声を掛けると、「惣作か、ホーお前、良く生きて帰って来れたのー」ただ驚くばかり、足元を何度も見ては、足が付いていることを確かめていた。
 この時のことは、後々まで笑い話になったが、私が生還することはすっかり諦めていた様子だった。0271
 母は手荷物を私から取って家に入った。
 祖父母も家にいた。
 タ食時には家族全員が集まり、ささやかな歓迎を催してくれた。
 周囲に身の危険を感ぜず、気を遣わずにする食事は久し振りだった。
 帰ったら、あれも話そう、これも話そうと思っていたが、何から話せばいいか分からなかった。弟や妹の成長ぶりには驚いた。
 逆に家族から私を見れば、その変化にも驚いたことであろう。
 私も20歳で出征し、幾度も死線を乗り越え生還した時は25歳近くになっていた。
 更に、容貌を変化させていたのは、栄養失調で60数キロあった体重は半減し30数キロ、まるで骨と皮の状態であった。

17 戦友の実家
 家に帰り、気持ちが緩んだのか翌日に少し熱が出た。
 三日熱マラリアである。熱が上がり悪寒が激しく、震える病気である。
 妹達が付きっきりで看病したらしく、気が付いたら二人とも枕元にいた。
 余りの熱と上言に驚いたのは親達で、「せっかく帰って来たのに、ここで死なれては可愛そうだ。」と言いながら「村上医者」を呼んだそうだ。
 40度の高熱が続き顔は真っ赤になっていたという。
 三日熱マラリアという病名のとおり、3日も経ったら熱も下がり平常になった。
 油汗を流し上言まで言っていた病気が嘘のように治った。
 祖母が声を掛けて来た。
 「お前はずいぶん上言を言ってたが、粕谷って何処の人だ」と言う。
 「そうだったのか」と思った。
 粕谷博は、最後まで一緒にジャングルを共にしたが、最期は目の前で地雷で戦死している。私の生還の陰には、戦友の死という切ない事実があり、どのように粕谷の実家に報告しようかと、ずうーと悩んでいたことだった。それが上言になったのであろう。
 あの時、発電所に行き地雷に触れることが無かったら、一緒に郷里に帰り、本当の兄弟のように付き合えた男だった。
 「俺だけ帰って来た。」等と、どうして粕谷の実家に行けよう。
 しかし、祖父母に「早く行った方がいい、だんだん行きにくくなる」と諭され、妹二人に引かせたリヤカーに乗り、約6キ口離れた上藤崎の粕谷の家に向かった。
 せめて、戦死した際、持参軍票に包んだ小指の爪を遺品として持参したかったが、
 捕虜になったとき、所持品は全て没収されてしまっていた。
 粕谷の両親に、事の次第を話した。
 きっと息子の生還を期待していたろうに、私に最期の様子を聞いて、きっと無念だったに違いない。
 しかし、額きながらも気強く話しを聞いてくれた。
 粕谷の母が「不思議なことがあります」と教えてくれた。
 「4月7日夜は、障子の戸がサラサラ音がし、なぜか博が帰って来るような気がした」、
「ついさっきは、玄関で「オー」と博の声がしたので玄関を見たが誰も居なかった。
驚かすつもりで隠れていると思い、玄関に出て「博、博』 と呼んだ。」と言う。
 これらの出来事は、日にちと言い、その時間といい、私が上言で粕谷の名前を呼んでいた時間であり、又、私がリヤカーで粕谷の家に向かっている時間である。
思えば、山中で虫の息の粕谷を抱き「お前は藤崎だな、一緒に帰るぞ」と何度も叫んだ。
粕谷はただ首を縦に振るだけだったが、私に自決を思い止まらせ、以来、その魂は私に付いて来て守り通してくれたのだと思った。
 そう言えばあの時の「白い犬」は粕谷の化身だったのか。
鈴なりのトマト畑に私を案内し、泉田源吉上等兵と出会わせたことも、みんな粕谷の御霊のなしたものだった。と私は信じている。
 私は毎年9月の粕谷の命日には、実家を訪れ仏壇にお参りをしている。
 しかし、位牌には「昭和19年6月没、粕谷博之霊位」とある。
 公報は、何を根拠にその日を戦死としたか知らないが、戦死したのは、昭和19年9月上旬であり、最期を看取ったのは私である。

18  あとがき
  この手記の元となった記録は、ビアク島から帰還後、5ヶ月位たち、やっと生気を取り戻した昭和21年夏頃に記録したものです。(下段に一部ご紹介)
忘れないうちにと、出来る限り正確に記録したつもりです。
これを久しぶりに読み返すと当時のことが、昨日のことのように蘇って来たのです。
 あの頃は、まだ記憶に新しいうちに、正確に書き残しておきたく、次々に思い出される苦しみの数々や上官や戦友の姿、そして戦場の悲惨な状況を、脳裏に浮かぶがままに記録したものでした。
その断片的な記録をつなぎ合わせて整理したのが、この記録です。
今思えば、戦友らの名前等を、もっともっと記憶しておき記録しておけば良かったのにと思っていますが、出来る限りの名前を記載してあります。
 もっとも、読み返すと稚拙な内容ですが、
この記録により、少なくとも私しか知らない戦友の最期の様子を、遺族の方々に伝えることが出来るものと思いますし、又、何かのご縁でこれを読まれた方々には、その当時の20歳前後の若者が、奇しくも遭遇してしまった戦争のことを、多少でも知って頂きたいものです。

■第36師団224連隊第1中隊所属
                    元・遊佐町議員議長  石垣 祐治
 第36師団、通称「雪部隊」は、東北六県出身者を基幹とする部隊で編成されていた。
 したがって、朴納で粘り強い東北人特有の性格を持ち、戦闘においては勇猛果敢、しかも困難に絶える強靭さを有する精鋭なる師団として軍部に認められていた。
 隷属部隊として222連隊(主に岩手県出身者)、223連隊(主に秋田県出身者)、224連隊(主に山形県出身者)の3個連隊に加え、特科部隊が配属されていた。
 山形県出身の渋谷惣作氏が、大部分が岩手県出身者の222連隊に配属されたのは、職業としていた大工の腕を見込まれ、工兵隊という特科部隊に配属されていたからと思われる。そして、ニューギニア島北西部に位置するビアク島派遣となることは、運命というものであろう。
 さて師団の隷属部隊であった歩兵第222連隊(連隊長・葛目直幸大佐)及び直轄部隊の一部は、「ビアク島」派遣ということになり、昭和18年12月24日、洋上において師団長の指揮を離れ、ビアク島に上陸、第2軍の指揮下に入る。
 その数約一万人であった。
 しかし、米軍も戦略的にも要衝にあるビアク島を黙って見てはいなかった。
 大飛行場の建設に適し、日本軍陣地を攻撃できる好位置にあることに着目したマッカーサーは、日本軍上陸の約5か月後の昭和19年5月27日、ついに米軍1個師団で「ビアク島」に上陸を敢行、激しい戦闘となり、昭和19年7月2日には連隊長の葛目大佐が自決 して、終戦まで生存せる者僅か1パーセントに満たない88名、正に生き残った者は奇跡であった。南浜のリーフの島「ビアク島」で、米軍との間に死闘を繰り広げた1万有余の日本軍将兵、その大部分が還らざる人となったが、わずかな生存者の一員として、ひっそり復員した渋谷惣作氏、戦後半世紀を経た今日、その感慨はいかばかりなものであろうか。
 願わくば、今後益々長命を保たれ、平和の守護神として我らを見守られんことを切に願望する。

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