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2014年8月 9日 (土曜日)

長崎原爆投下後「焼き場に立つ少年」

 この「基本の姿勢」、「基本の動作」が出来る日本人が殆どだったからこそ、戦後、早期に0000000nagasaki1945boy復興したと見ている。
 米国の誰かが語っていた。
 もし開戦前に、日本人のこの姿を知っていたなら戦争を仕掛けることはなかったであろうと・・・・・・・
 今日8月9日は、米軍の原爆投下による長崎大虐殺があった日から69年目となる。
 広島大虐殺同様に忘れてはならない日だ。
 写真一枚がいろんなことを語ってくれることがある。
  正に、この写真がそうだ。
 死亡した幼い妹か弟を背負い、「基本の姿勢」或いは「直立不動の姿勢」、または「気を付けの姿勢」で、背負った遺体の焼却の順番を待つ少年の姿から、当時の日本人の決意と覚悟の心が伝わってくる。
 少年は小学生5年か6年くらいか。
 今の日本人に、この「基本の姿勢」が出来る人が何人いるかと心配する。
 試しに自分自身や家族が、基本通りの「気を付け」や「回れ右」、「左向け左」などが出来るか試したらいい。00000zu1
 出来ても、線はズレ、直ぐにグラつくはずだ。
 何事にも基本が大切と言われるが
 多少失敗しても、スランプに陥っても、基本に立ち返り、基本を反復することで立ち直りは早いものだ。当時の日本人には、基本の姿勢、基本を大切にする心が徹底して浸み込んでいたことを、少年の佇まいが示している。
 撮影した米軍カメラマン、オダネル氏は、
 「直立不動の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術もなく、立ちつくしていた。」
 と書き残している。
 辺りを払う空気が少年の回りにバリアーのように張られていたのだろう。
 この米軍カメラマン、ジュー・オダネル氏は2007年8月9日、85歳で死亡した。

 その日は、くしくも長崎原爆と同じ8月9日だった。
 Joe O'donnell (ジョー・オダネル):  
 『誤解しないでほしい。私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし国のために戦った。しかし母国の過ちを、なかったことにできなかった。退役軍人は私のことを理解してくれないだろう。私は死の灰の上を歩きこの目で惨状を見たのだ。確かに日本軍は中国や韓国に対してひどいことをした。しかしあの小さな子どもたちが何かしただろうか。戦争に勝つために、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。1945年、あの原爆はやはり間違っていた。それは100年たっても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に。歴史は繰り返すというが、繰り返してはいけない歴史もあるはずだ。』 000_6

 この少年のことは皇后陛下も気にされていた。
 是非身元が判明して欲しいものだ。
 
焼き場に立つ少年 米軍カメラマンが見たナガサキ NAGASAKI

10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。しかも裸足です。少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
 少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
 まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。
 その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に血がにじんでいるのに気が付いたのは。少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました」 
(ジョー・オダネルの回想より)

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