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2014年3月 2日 (日曜日)

西郷隆盛と「庄内藩」の交流を紹介!

  「南洲神社は酒田にもある」と2009年10月20日に伝えたことがあった。
 山形県酒田市に、西郷隆盛を奉った「南洲神社」が何故あるのかは一般には000942殆ど知られていない。その関連記事が、3月2日産経新聞の銅像歴史散歩に「西郷隆盛・菅実秀 幕末の戦乱が結んだ縁」と掲載された。

 近年、「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」「武士の一分」等々藤沢周平作品の多くが映画化され、その舞台が「庄内藩」と知られるようになった。しかし、賊軍扱いされた庄内藩が歴史に登場する場面は少なく、1845年「三方領知替え」や1867年「薩摩藩邸焼き討ち」事件に庄内藩が関連していると知る人は相当の歴史通であろう。
 庄内藩の始まりは、徳川家康の側近「徳川四天王」の一人・ 酒井忠次。
 幕末、庄内藩は会津藩と並ぶ佐幕派の双壁といわれ、治安を乱す薩長の不逞の輩を取締るため、会津藩は京都守護職、庄内藩は「江戸市中取締り役」を勤めたことが、後に明治政府から賊軍扱いされる発端となった。

 1868年1月27日戊辰戦争の火ぶたは鳥羽伏見の戦いだったが、その0000bs前哨は江戸で放火・強盗など凶悪事件を働くテロリストの拠点だった「薩摩藩邸焼き討ち」を敢行したのが庄内藩だった。歴史教科書では庄内藩が悪いような記述だが、全くの逆で近年で例えるなら連合赤軍が立て籠もる「あさま山荘事件」で機動隊が攻めたようなものだ。

 「庄内藩」は戊辰戦争においては新政府軍と果敢に戦い続け、藩内に一兵も入れない程、百戦百勝の強さだった。しかし、いかに庄内藩が孤軍奮闘しようと奥羽諸藩は次々と降伏し、時の勝勢は明らかだった。庄内藩も時勢に逆らえず過酷な条件が提示されることを覚悟しながらも降伏を決定した。
 しかし、その降伏に会津藩の23万石から3万石削減に対し、庄内藩は17万石から12万石に減じただけだった。この寛大な処置に感激した藩主や藩士らは、生涯西郷隆盛を慕うこととなった。
 このとき西郷隆盛と庄内藩を代表して交渉したのが菅実秀 (すげ・さねひで)
だった。
 歴史はこれだけで終わらなかった。
 明治3年、旧庄内藩から70余名を鹿児島へ派遣し3ヵ月間留学させたほか、明治10年の「西南の役」では、西郷とともに戦った庄内藩士も多くいた。更に、賊軍の将となった西郷隆盛は官位を剥奪されたが、明治22年、大日本憲法発布の恩赦により、名誉回復Image0003を果たすが、その恩赦運動の中心は庄内藩の人々だった。
 西郷隆盛の語録をまとめた「西郷南洲遺訓集」は西郷の著作ではなく、明治3年、庄内藩主、酒井忠篤らが鹿児島を訪ね、寝食を共にして直接教えを乞いたときの、西郷の言行をまとめたものだ。

 この遺訓集は、小生がかつて「南洲神社」を訪問した際は無料で頂くことができたが、最近のことは知らない。それから、社殿は、昭和51年6月に竣工しているが、用材は安岡正篤(まさひろ)の取計らいで、伊勢の神宮から御古材の払い下げを賜ったという。

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