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2013年11月 3日 (日曜日)

「日光火之番」は八王子千人同心

 先日、紅葉に染まる「いろは坂」や「中禅寺湖」巡り、及び日光市山内の世界遺産「二社一寺(二荒山、東照宮、輪王寺)」の参拝に出かけた。Photo

 日光市山内で「はとバス」を降車し輪王寺に向かう途中、日光市山内2299番地先の「東照宮参拝案内所」隣には「八王子千人同心顕彰碑」があるのに、ガイドは触れないし参拝者も見過ごしている。
 だが、八王子で7年間も仕事した小生には、押さえておく必要があった。
 この碑は、「八王子千人同心」が日光を護り続けた証として昭和41年建立され、更に昭和49年には八王子と日光市は姉妹都市の盟約を結んでいる。000000mikatagaharasenekizou
 この関係を知るには約450年前の戦国時代に遡る。

  徳川家康が負け戦となった1573年の「三方ヶ原の戦い」は、この屈辱を忘れないために、恐怖に引きつる顔を絵師に書かせ、以後の戒めにしたほどだ。
 その後、甲斐武田家は滅亡し、自らが天下をとってからは、かつては敵であっても武田騎馬軍団「赤備え」に一目置く家康は、江戸から西の八王子方面の護りとして採用した。
 これが「八王子千人同心」の始まりとなる。
 この武田遺臣団を遇した理由には、単に吸収合併による徳川家強化の他に、武田家の金山採掘や治山治水のノウハウを得ようとしたとも言われている。

 そして、家康が亡くなり日光東照宮が建立され、更に慶安4年(1651)三代将軍家光が亡くなると、日光に遺体埋葬の警備を命じられ、また翌年から「日光火の番」を下命されると、以後、幕末まで公務として、日光奉行配下で警備、防火、消火を担当した。1
 当初は、千人頭2名と同心50名ずつ100名が50日で交代していたが、寛政3年(1791)からは50名毎の半年交代になった。
 半士半農の千人同心にとって田畑から離れることや、八王子から日光まで片道3泊4日の行程の負担は大きく、忌避するものもあったそうだ。
 また、千人同心たちの宿泊は「日光奉行所」辺りだったのかと気になったが、その跡には、輪王寺の信徒会館が建っていた。

 この他に見どころとしては、官軍の指揮官だった「板垣退助」の銅像建立の経緯を知ることも大切だし、東照宮のいたるところに 明智家の家紋「桔梗の紋」が描かれているほか、「明智平」の地名も残るなど「天海=明智光秀」をうかがわせる証拠も多い。

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