「糾問的捜査構造論」と「弾劾的捜査構造論」
犯人が犯行を自供し、その証拠も揃っているのに裁判で無罪になることがある。
なぜだろうか?
この、屁理屈を説明しておきたい。
3月30日大阪地裁で「大阪地検特捜部の証拠改ざん事件」の裁判があり、大阪地検特捜部長らに有罪を言い渡した。この事件は、障害者割引郵便制度悪用に絡む厚生労働省の偽証明書発行事件で、大阪地検特捜部が押収したフロッピーディスクを改竄し証拠隠滅を図った容疑であった。
この事件そのものや、事件の元となった厚労省の偽証明書発行事件の捜査過程から、「糾問的捜査観」と「弾劾的捜査観」という二つの考え方を思い出した。
刑事裁判は歴史的に、罪人の不正を厳しく問いただす「糾問主義」であった。
学生だった40数年前、多少、法律を勉強し始めた当時、相反する「弾劾主義」を知ったが、何時かこの考えが主流になると教わった。
そして、今や先進諸国では、この弾劾主義を圧倒的に採用しているという。
この「弾劾主義」という概念は、事件の捜査段階から始まっていて、「弾劾的捜査観」或いは「弾劾的捜査構造論」と呼ばれている理論だ。
刑事訴訟法第189条第2項及び第191条を根拠とする「捜査」とは、そもそも公判の準備段階であり、捜査官と被疑者は対立する当事者であるとされる。
これを「当事者主義」と言い、刑事訴訟法198条2項で被疑者に黙秘権が保障されている以上、違法な捜査、取り調べ、証拠収集などは絶対に許されない。
具体的には、
○捜査全体の適正かつ合法性
○逮捕、同行、引致時間、送致、場所などの整合性
○証拠資料収集や鑑定手続きの合法性
○捜査書類の誤字・脱字・誤用の有無
○深夜や長時間に及ぶ取り調べ
○取り調べ中の被疑者・被告への便宜供与
等々があるとされ、弁護側は、これらミスを見逃さず追究し無罪を勝ち取る。
被疑者や被告が犯行を自供した程度のことは、裁判で、警察や検察からの強引な取り調べで仕方なく供述したと否認すれば、覆すことが出来るとふんでいる。
そして、検察は公判を維持し無罪を防ぐために、警察の捜査の不備や欠陥を補正しつつ、行き過ぎや偏向を抑制する指揮権を発動する。
今回の事件は、その検察官自身の証拠資料収集方法に犯罪的問題があったという事件の裁判だ。
正に捜査段階のミスを突く「弾劾的捜査観」から来ている。
しかし、この事件の対象となった厚生労働省関連の裁判に限らず、検察側のミスを突いて「無罪」を勝ち取っても「無実」では無い場合も多いはず・・・・・・。
1、2審で死刑の被告が最高裁で逆転「無罪」とは不自然と思うべきだ。
それでは、1、2審の検事、裁判官は全員無能だったのか?
そうではないだろう。
しかし今や、裁判官や検事まで、捜査段階のミスを突く「弾劾的捜査構造論」を主流とするなら、それに合致した捜査手法を取り入れる以外にないと思う。
残念なことに、「弾劾的捜査観」を推進している法曹団体、「自由法曹団」、「青年法律家協会(略称は青法協)」、「日本民主法律家協会」、「日本弁護士連合会(日弁連)」等は、裁判官、弁護士、検察官、法学者、司法修習生などに支持にされている共産党系の団体なのだ。
つまり、弁護士、裁判官だけでなく、検察官達のバックには日本共産党の存在があることを忘れてはならない。
この日本、何を信じて何処に頼ればいいのか不安になることばかりだ。
思うことは、これだけ共産党に実効支配された裁判制度、司法界が現に存在するからには、その現実を認めつつ、犯罪捜査、事実の証明、人権尊重が求められる。
これらのことは、取り調べの録音・録画法案と大きく連動している。
そして、日本は司法界に限らず極めてゆゆしき事態に陥っていることを知るべきだ。
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