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2011年12月 3日 (土曜日)

遊佐町の恩人「南町奉行・矢部定謙」

 11月29日付けの産経新聞「決断の日本史」コーナーに、「1841年12月21日 南町奉行・矢部定謙、罷免さる 水野忠邦に抗議の「絶食死」と題して掲載された。Photo_4

 「南町奉行・矢部定謙(やべ さだのり)」は、「天保義民事件(三方領知替え事件)」を鎮静した一人でもある。
 「天保義民事件」とは、天保11年(1840年)に庄内藩主酒井忠器らに出された「三方領知替え」に対して、庄内藩の領民が反対運動を展開した事件だ。
 この詳細は、藤沢周平の小説『義民が駆ける』で全国に知られるようになった。また矢部定謙(やべ さだのり)のことを紹介した中村彰彦著の「天保暴れ奉行」もある。

 事件は、「荘内藩」を長岡に、「長岡藩」を川越に、「川越藩」を荘内に移すという三方領地替えを幕府から突如国替を命じられたことに端を発する。
 荘内藩は、藩主や藩首脳、本間光暉、遊佐・升川の佐藤藤佐らが善後策を練る中、荘内藩農民たちは、「百姓と雖も二君に仕えず」との筵旗を掲げて、江戸に上り、諸大名や幕府役人に直訴を試みる。
  当時の江戸町奉行は矢部駿河守だった。
 佐藤藤佐(とうすけ)翁は取り調べで、三方国替えの間違い訥々と説明した。矢部駿河守はその訴えの誠実さに感激し、その口述書をとり閣議の席で朗読し、藤佐(とうすけ)翁の取調を停止し、農民等に有利な裁決を下した。
 当時、百姓一揆は打ち首と決まっていた。

 当然、幕府の意向に従わなかったとして、天保13年矢部駿河守は、伊勢桑名藩松平家に幽閉され、幽閉中、断食で抗議しつつ55歳で逝去した。Photo_3
 庄内藩は危機を脱し、その24年後の元治元年(1864年)には、江戸市中警護の功により2万7千石を加増され、石高は16万7千石に達したが、その財政の豊かさは20万石以上といわれた。

 遊佐町江地の「玉龍寺」には碑があり、農民や矢部らの正義を貫いた行為に感謝し、その勇気を讃えた「戴邦碑祭」が毎年行われているほか、遊佐町蕨岡上寺の大物忌神社境内の「荘照居成神社(1840建立)祭神・矢部駿河守定謙公」においても例年「荘照居成祭」が執り行われ矢部駿河守を偲んでいる。
   この幕府をも動かした遊佐町農民の熱き血汐は、今に受け継がれているはずだ。
 なお、升川の佐藤藤佐の長男は、順天堂大学の創始者「佐藤泰然」だ。
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  決断の日本史100
1841年12月21日 南町奉行・矢部定謙、罷免さる
 水野忠邦に抗議の「絶食死」

2011.11.29 07:49
 絶大な権力を握る人間からの命令に叛(そむ)くには、よほどの勇気と覚悟がいる。
 江戸後期、老中・水野忠邦の「天保の改革」に文字通り、命を懸けて反対した人物を紹介しよう。江戸南町奉行をつとめた旗本、矢部定謙(さだのり)(1794~1842年)である。
 若くして才覚を認められ、堺奉行や大坂西町奉行などを歴任し、のち乱を起こす大塩平八郎とも交わった。天保7(1836)年、勘定奉行として江戸に戻り、同12(1841)年4月には江戸市中の行政や司法を担当する南町奉行へと昇進した。
 この時の同僚が北町奉行の「遠山の金さん」こと遠山景元(かげもと)である。そして2人の上司は12代将軍・徳川家慶(いえよし)の信任を得て老中首座となった水野で、天保の改革を開始したのだった。
 贅沢(ぜいたく)を禁じて風俗を取り締まり、商業上の特権をもつ株仲間を解散させた。貨幣を改鋳し、江戸城と大坂城の周辺10里(約40キロ)にある大名・旗本領を取り上げて幕府領とする「上知令(あげちれい)」などが具体的な政策である。
 それらの多くは現実から遊離し、庶民や旗本を苦しめるものだった。矢部と遠山は反対の意見を述べた。水野は2人の抵抗に手を焼き、更迭を決意した。しかし、遠山は将軍の覚えがめでたいため、矢部を標的とした。
 謀略家の目付、鳥居耀蔵(ようぞう)を使って5年も前の些細(ささい)な行動をとがめ天保12年12月21日、奉行罷免に追い込んだ。そして翌年3月、「御家断絶」の処分を下し、伊勢桑名藩にお預けとした。剛直な性格だった矢部は食事を取らないまま、7月27日に亡くなった。
 天保14(1843)年閏(うるう)9月、水野は各方面からの批判を浴びて失脚した。矢部の冤罪(えんざい)は晴らされ、家は再興された。いま世間を騒がせているプロ野球球団の「お家騒動」の関係者にも聞かせたい話である。(渡部裕明)

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