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2011年3月 5日 (土曜日)

地名「今川」は戦国の名残

 最近、久しぶりに荻窪・今川に行く機会があった。
 「杉並区今川」は、戦国~江戸の歴史、そして名門の栄枯盛衰を肌で感じることが出来る土地でもある。
 世に名高い「桶狭間の戦い」は、織田信長の天下統一への第一歩となった戦だが、敗者・今川家の、その後のことはあまり知られていない。
 この「杉並区今川」は、敗者・今川家の終焉の地でもある。

 戦国時代名を馳せた今川家が、江戸時代は徳川家康の庇護を受け、「高家・今川氏」として存続したが、明治10年11月3日最後の当主範叙(のりのぶ)の死をもって断絶した。「高家」とは、江戸幕府の儀式や典礼を司る役職のこと。
 今は、菩提寺「観泉寺」にその歴史を見ることができる。
 「今川家」は、足利将軍家に世継が無い場合は「吉良家(斯波家)」から、吉良にない場合は「今川家」から将軍を出すと言われるほどの名門だ。
 輿に乗ることを許された特別の家柄で、太りすぎで馬に乗れないとされるのは偽りだ。

  しかしながら、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に破れ、事実上没落した今川氏は、天正10年(1582年)以降、今川氏の旧地といわれる近江国野洲郡長島に5百石を家康から与えられた。
 更に、家康の江戸入城に従って江戸入りして、品川御殿山辺りにも屋敷地が与えられ、父・氏真に先立って没した範以の子直房以降は、武蔵国多摩郡上井草、下井草、上驚宮村及び豊島郡中村(杉並、練馬、中野区内)が知行地であった。
 今川の南に位置する下荻窪村は服部半蔵の知行地であり、これは江戸の町中に、別の国があったのと同じだ。まるで、ローマの中にあるバチカンに似ている。
 そして、この名残は地名「今川」、そして、菩提寺「観泉寺」に残る。
 
 徳川家康が今川家の面倒を見たのは、家康が竹千代と呼ばれた当時、11年間も今川氏の人質として駿府へ送られていたことが大きく関連していることだろう。
 
  武蔵国多摩郡上井草、下井草、上驚宮村及び豊島郡中村の知行地内では、今川家に裁判権もあったのは当然であり、「斬首の刑」は観泉寺の北側で行われていたという。

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