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2010年11月 3日 (水曜日)

庄内平野・幻の都市計画

 平安時代、酒田市北部、城輪柵周辺の大規模都市計画は津波で頓挫したという。
 11月3日付けの読売新聞に、酒田市の「城輪柵」の話題が大きく掲載されImage0037た。

 「城輪柵」のことは、当ブログでも「城輪柵日本最古の将棋駒」として、以前紹介させていただいた。
 この城輪柵は母親の生家と近接しており、子供の頃よく遊んだ場所だが、タモ網で川魚を捕まえようとすると、川底から良く土器の欠片が見つかった。その土器は意味も知らずに捨てたり、遊びに使っていた。「城輪柵」が発掘される随分以前の話だ。
 そして、今回、平安時代前期に大規模な都市計画があったことを知った。
 
 9世紀の最上川近く 「碁盤目」示唆の地名(2010.11.3読売)
       津波で幻 出羽の都市計画
 平安時代前期・9世紀の山形県で、碁盤目状の都市が計画されながら、地震による津波で断念された可能性が、酒田市の出羽国府跡「城輪柵跡」周辺の地名や発掘調査から浮かび上がってきた。(岡本公樹)800pxkinowanosaku_east_gate

 東北地方では720年以降、蝦夷と中央政府が断続的に戦闘を繰り広げていたが、802年に征夷大将軍の坂上田村麻呂が蝦夷のリーダー阿弓流為を下し、安定期に入っていた。
 太平洋側の陸奥国府・多賀城(宮城県多賀城市)では、「蝦夷との戦争中は万単位の兵士が駐屯する広い場所が必要なため、周辺に市街地を形成できなかった」(武田健市・同市文化財課副主幹)が、戦が終わり、碁盤目状の都市づくりが始まった。
 こうした区画を持つ古代都市は近畿地方を除くと、九州の大宰府、伊勢の斎宮など数か所にとどまる。
 日本海側では、出羽国府を兼ねた秋田城(秋田市)があったが、9世紀初め、新たな国府として城輪柵が創建されたとされる。1960年代からの発掘調査によって、約120メートル四方の政庁跡が見つかり、国府跡と判断されている。
 では、都市づくりはどう進んだのか。荒木志伸・明治大研究推進員は発掘データや地名の検証を行った。国府の南東では、1・5~5キロ圈の遺跡で木簡や陶器が出土し、関連の役所が存在したことをうかがわせる。「大道東」「市条」など区割りを思わせる地名も残る。荒木さんは当時の都市の傾向を踏まえ、「中心施設の南側に碁盤目状の区画を広げようとしていたのではないか」と推測する。
 ところが南側の土地の多くは最上川の河口に近く、海抜10メートル以下だった。
 そこへ850年大地震が起こった。
 「日本三代実録」によると、津波で最上川の川岸が崩壊し、海水が国府のそばまで迫った。この結果、南側に広がる都市計画は幻に終わった。役所群は北側に置かれ、住居群は5キロ以上も北の鳥海山のふもとへ移ったとみられる。
 「国主導の都市プランが頓挫したのと相前後して、内陸の立石寺(山寺)など、天台宗の大寺院ができてくる。その僧侶は一種の“国家公務員”として、災害復興事業を実行する役割を担っていたのかもしれない」と荒木さんは考えている。
 実は多賀城も869年、津波に襲われている。目抜き通りの南北大路と東西大路が交差し、豪壮な建物が並ぶ一等地が水没しとなり、数十年にわたり湿地帯となった様子が発掘調査で明らかになっている。ところが、被害の大きかった一角以外では碁盤目状の都市は維持され、むしろ発展していった。その理由の一つとして、「津波の時点ですでに相当な広さの都市ができていた」と多賀城市・武田副主幹は説明する。
 城輪柵は都市建設に着手したばかりの段階で壊滅的な被害を受けた。役所の機能は何とか維持したものの、一般の集落は定着しなかった。
 都市づくりと津波のタイミングが明暗を分けたと言えそうだ。

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