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2010年10月31日 (日曜日)

明治天皇の玄孫・竹田恒泰氏の論文

 今年のアパグループ「真の近現代史観」懸賞論文では、佐波優子さんの「大東亜戦争を戦った全ての日本軍将兵の方々に感謝を」が最優秀藤誠志賞を受賞した。
 これは昨日ご紹介したが、その勢いで昨年の受賞作品もご紹介したい。
 昨年第2回「真の近現代史観」懸賞論文では、竹田恒泰氏の「天皇は本当に主権者から象徴に転落したのか?」が最優秀藤誠志賞を受賞している。Takedapic2

 竹田恒泰氏は、憲法学の研究者で、評論家。慶應義塾大学大学院法学研究科非常勤講師(憲法学)。「憲法特殊講義」(天皇と憲法)を担当。
 家系は伏見宮家より分かれた北白川宮家の分家にあたる竹田宮家の血筋。明治天皇の玄孫にあたる。
 論文はさすが天皇の血筋らしい玄人好みの内容だ。

■「天皇は本当に主権者から象徴に転落したのか?」
http://www.apa.co.jp/book_report3/images/2009jyusyou_saiyuusyu.pdf
 
 「天皇主権が国民主権になった」=嘘吐きの方程式
 昭和五十年生まれの私は学校教育で、日本国憲法の成立により「天皇主権が国民主権になった」と習った。つまり、終戦により天皇は主権者の地位から追放され、その地位を代わりに国民が占めたというのだ。そして天皇は主権者の座から追われた結果「象徴になった」のであり、その象徴とは何の権限も無く、あくまでも形式的.儀礼的なものであって「もはや象徴に過ぎない」と形容されるものだという。
 およそ社会科の教科書には必ずこのように書かれていた。
 最新の教科書でも大半においてこれが踏襲されている。
 恐らく大多数の人にとって、このような教科書の表現は慣れ親しんだ自然なもので、この平凡な考えに疑問を挟む国民はほとんどいない。まさかこの現代社会で、未だに天皇が主権者だと思う人はいない。まして、現憲法の象徴たる天皇が、何らかの強大な権力を持つと思う人もいないだろう。教科書のこのような表現に疑問を挟む者がいれば、猛烈な非難を浴びるに違いない。
 しかし、である。「天皇主権が国民主権に変わった」という耳慣れした表現には、大きな嘘が隠されているのではないか。余りに大きな嘘は、嘘の存在自体に気付きにくいことがある。これは、教科書編纂者が間違いを犯した結果ではない。私には、これは「ある事」を隠すための意図的な嘘なのではないかと思える。「天皇主権が国民主権に変わった」という説明で、「天皇は主権者の地位から象徴に転落した」などという主張は、いとも簡単に論理的に覆すことができる。本稿ではこの点を明らかにしていきたい。
 私がこの嘘に気付いたのは二年前の平成十九年のことだった。
 慶應義塾大学大学院法学研究科で「天皇と憲法」という授業を共同担当することになり、天皇の統治について一から勉強し直すつもりで、憲法の天皇に関する見解を書いた学術書を片端から読破していった末にふと気付き、驚きを禁じ得なかったことを今でも忘れられない。しかし、この嘘について書いた論文や書籍はほとんど無いようだ。

   戦前は専制君主だったのか?
 まず、私が中学生の時と高校生の時に実際に使用した社会科の教科書の記述を紹介することにしたい。現行の教科書も、扶桑社などを除き、他は全て同じようなことを記載している。
【中学校.公民】
「日本国憲法の成立によって、国の最高の政治権力(主権)は、天皇のものから国民のものになった。」
【高等学校.現代社会】
「日本国憲法は、明治憲法の根本理念である天皇主権を廃し、国の政治のあり方を最終的に決める権
力は国民に属する、という国民主権を基本原理として採用した。」

 つまり教科書は、日本国憲法の成立により「天皇主権から国民主権になった」乃至は、「主権が天皇から国民に移った」というのである。そして教室では「天皇はもはや象徴に過ぎない」と教える教員が多い。
 「象徴に過ぎない」というのは、すなわち、現在の憲法が、天皇は日本国の象徴で、国政に関する権能を有しない旨(実質的決定権たる拒否権を持たないという意味)を記載することから、天皇はかつての帝国憲法が規定する「統治者(主権者)」から、何の権能も持たない「ただの象徴」に転落したという理屈による。
 確かに、現在の憲法において天皇は政治の意思決定に関与することはできない。だから、もし帝国憲法において天皇が専制君主として自由に政治を決定する立場にあったという極端な仮説が正しいなら、「主権者から象徴に転落した」という表現は正しいだろう。
だが、果たして帝国憲法下において天皇は政治を決定する立場にあったのだろうか。否、近現代史に詳しい人なら、そうでないことを知っている筈だ。帝国憲法下における確立された慣行によれば、天皇は政府と統帥部が決定した国策について、これを覆す権能を持たなかった。
 明治二十二年に帝国憲法が発布されてから現在までの我が国の憲政史上において、天皇が直接国策の決定を下したのは、昭和二十年の終戦の御聖断のただ一回だけである。それ以外の全ては、議会や内閣など、該当する権限を持つ機関が決定したものが、天皇の公布.裁可.承認などによって効力を発してきた。
 帝国憲法第一条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記すが、これは天皇が自由に政治を行うことを意味しない。第五十五条が、国務大臣が天皇を輔弼して政治責任を負うべきことと、法律.勅令などは国務大臣の副署を必要とすること等を記す他、第五条は、天皇は帝国議会の協賛により立法権を行使することを明記する。また軍令については統帥部の長が天皇を輔翼してその責任を負う慣習が成立していた。このように、帝国憲法下においても現在と同様、天皇は国策の決定に関与する実質的な権能を持たなかった。

 教科書に隠されたトリック
 現在の憲法では、天皇の国事行為は内閣の助言と承認によって行われ、内閣がその責任を負うことになっているが、天皇以外の機関が国策を決定し、その機関が責任を負うという構造は、新旧憲法で違いはない。さらに帝国憲法は第三条で「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定し、天皇に政治的責任が及ばないことを明確に示している。
帝国憲法下においても、天皇には国策の決定に関与する実質的な権能は無かったのであるから、まして天皇の専制政治は行われていなかった。ならば「主権者から象徴に転落した」という表現は俄かに怪しいものになる。
 国策の中身を決めるのは天皇以外の機関であって、その決定された内容に従って、天皇の名において法律が公布され、国会が召集され、また衆議院が解散されたりしてきた。これが帝国憲法下における天皇の権能である。
 だがその姿は、現在の憲法における天皇とほとんど同じではないか。
 帝国憲法下の天皇の権能と、現憲法下の天皇の権能は、各論において多少の違いがあろうとも、また形式的な違いがあろうとも、実質的.本質的な違いは無い。
 ではなぜ終戦によって憲法の条文が大きく書き換えられたにも関わらず、天皇の本質は変わらなかったのか。それは、GHQ(連合国最高司令官総司令部)が帝国憲法第一条の規定を真に受け、天皇が専制政治を敷いていたと勘違いしていたからではなかったか。
 つまりGHQは、天皇が専制政治を行う天皇主権体制を破壊することにより、日本が二度と連合国に刃向わない国に改造することを意図し、天皇は政治的無権能であると謳う新憲法を作らせたが、実は天皇は帝国憲法下においても、現在の憲法が規定する「象徴」と同様に、直接政治の決定に関与することはなかった。
 そのため、新憲法が公布されても、結果として天皇の権能に実質的な変化は生じなかったということだと筆者は理解している。
 では、主権は天皇から国民に移り、天皇は主権者から象徴に転落したという教育は、いかなる論理によるものか。ここには重大なトリックが隠されている。例示した教科書は、文脈からして「天皇主権」の主権と、「国民主権」の主権を同じ意味で使用しているが、そこに鍵がある。つまり、後述する通り「天皇主権」という場合の主権と、「国民主権」という場合の主権は、全く意味が異なる。しかし、天皇が持っていたとされる主権と、国民が持ったとされる主権が別のものであれば、「天皇主権が国民主権になった」とは、理論的に言えない。これではまるで、「父親の饅頭が、息子のケーキになった」と言っているようなもので、意味が通らない。父親が持っていた饅頭が息子の手に移っても、饅頭がケーキになることはない。

  主権は天皇と国民の絆の上に成立する
 では二つの主権はどのように意味が異なるのだろう。憲法学上、主権という言葉は多義的に用いられているが「国民主権」を考える場合、一般に主権とは「国の政治のあり方を最終的に決定する力」と理解されている。定義で争うと分かりにくくなるので、本稿でも、まずはこの理解に基づいて考察を進めたい。
 しかしながら、単にそう定義しても、国の政治のあり方を決定し実行する過程は単純ではない。実際には、国の政治のあり方の中身を決定する力と、その決定された内容に基づいて実際に国の政治のあり方を実行に移す力や権威は、必ずしも一か所にあるわけではない。帝国憲法下でも日本国憲法下でも、国の政治のあり方を決定するのは国民で、それを実行に移すのは天皇である。すなわち、議会で国民の代表たる国会議員が法案を可決し、それを日本国の象徴たる天皇が公布することで初めてその法律が効力を持つことになる。
 ここで注目して欲しいのは、主権を国民が単独で行使することはできず、また天皇が単独で行使することもできないということだ。
 分かりやすくするために憲法の改正を例に挙げよう。
 そもそも憲法改正こそ「国の政治のあり方」に関する根本的な決断である。「国の政治のあり方を最終的に決定する力」とは、すなわち「憲法制定権力」乃至、「憲法改正権力」と見る有力な学説がある。
 日本国憲法には憲法改正の手続きが明記されていて、国民投票の手続法も作られた。憲法改正の内容を決めるのは、国会と国民投票なので、国民が改正の内容を決定する力を持つと言える。また、新旧いずれの憲法においても、天皇には憲法改正案を決定する過程に関与する実質的な権能は無い。
 ただし、国民の力だけで憲法が改正されるかといえば、そうではない。憲法第七条の規定に従い、天皇がこれを公布する必要がある。そして、天皇が公布することによって憲法改正が法的な要件を満たし、効力を発する。改正の内容を決定する力を国民が持つのに対し、既に決定された内容に従って実際に憲法を改正する力を持つのは天皇、ということになる。
 ちなみに、天皇が「力」や「権力」を持つということについて疑問を持つ人もいるだろう。ただし、力や権力が、好き勝手に政治を動かすことを意味するわけではない。
 むしろ「権威」という言葉に置き換えたらしっくりとくるだろうか。
 憲法改正の内容は国民が決するが、天皇が公布することで実際に憲法が改正される以上、天皇の権能は形式的ではあるも、主権を構成する権威に他ならない。歴史的に天皇の権威は、一部の例外を除き、常に形式的.儀礼的だった。だが、形式的であることが必ずしも無価値ではない。むしろ天皇の 権能は、形式的であるが故に尊いのではないか。
以上示してきたように、国民が憲法改正の内容を決定し、天皇がこれを公布するという二つの段階を経て、憲法が改正される。よって、国民が単独で憲法を改正することはできず、また、天皇も単独で憲法を改正することはできない。
 このように、主権には、実質的な側面と形式的な側面がある。憲法改正の例で示せば、憲法改正の内容を決定するという主権の実質的側面は国民が担い、憲法改正を公布し発効させるという主権の形式的側面は天皇が担うのである。前者を「権力」、後者を「権威」と置き換えると分かりやすい。この二つが合わさった時に、主権が発動されるのだ。よって、天皇も国民も、単独では「国の政治のあり方を最終的に決定する」ことはできない。
憲法改正案を決定するための手続きは、新旧憲法で差があるが、天皇と国民が、それぞれ主権の形式的または実質的側面を担う構造は、新旧憲法で差は無い。
 総じて、日本国の主権は、新旧憲法のいずれにおいても、天皇と国民の絆の上に成立していると結論することができる。これが「君民一体」ということだ。

  主権の定義によって主権者はいかようにも変わる
 一般常識として、日本国憲法下の主権者は国民であるとされる。これは、主権を実質的側面から定義した結果であり、実質的側面から見れば、確かに日本国の主権者は国民で間違いは無い。ところが「主権は、天皇のものから国民のものになった」という教科書の記述は、帝国憲法下の主権者が天皇であることを前提としているが、果たしてそれは正しいか。
 帝国憲法における主権者は、同じように実質的側面から定義すると、それは天皇ではない。天皇は帝国憲法下においても国策の決定に関与する実質的な権能を持たなかったことから明らかだ。ここが教科書に隠されたトリックである。教科書がいう「天皇主権」とは、主権の形式的側面(権威)のことを述べているのであって、実質的側面(権力)から定義される「国民主権」の主権とは意味が異なるのだ。
 もし教科書が実質的側面(権力)に着目して日本国憲法における主権者を国民とするなら、帝国憲法における主権者も、同様に実質的側面から求めなくてはなるまい。
 帝国憲法において、国策を実質的に決定する主権の実質的側面(権力)を担っていたのが天皇でないとすると、それは一体誰か。それは帝国憲法の条文と、その運営方法を見れば分かる。それによると、法案や予算案について決定するのは議会であり、国務はそれぞれの国務大臣が決定する。
 また軍事に関しては、軍政は陸海軍大臣、軍令は軍令部の長がこれを担い、内閣総理大臣の人事は総理経験者から成る重臣会議が行った。これらが帝国憲法下で国策を決定する権力者であり、いくつかの機関や人が主権の実質的側面(権力)を担っていたのである。
 確かに、「現人神」とも称された天皇の権威に人々が主権を見ていたことは事実である。しかし、当初は選挙権が制限されていたため、現在と同等に論じることはできないが、国策の根幹は法案と予算案について決定する議会の重みが大きいため、帝国憲法下の体制でも、概して主権者は主に国民(但し重臣が重要な位置を占めていた)であったというべきであろう。
 以上述べてきたとおり、主権の実質的側面(権力)に着目した場合、帝国憲法下の主権者は主に国民で、また日本国憲法の主権者も国民であるから、「主権は、天皇のものから国民のものになった」ということにはならない。ところで、教科書が一方でいうように、主権の形式的側面(権威)に着目して帝国憲法下の主権者を天皇と定義するのであればどうなるだろうか。日本国憲法下においても、やはり主権の形式的側面(権威)の重要な部分は天皇が担っているのであるから、ならば現在も天皇主権ということも言えよう。
 このように、教科書は主権には二つの側面があることを隠しながら、都合の良いように両方の定義をわざと混同させながら用い、さも天皇が自由に政治を動かした専制政治から、国民が政治を動かす政治体制に移行してきたかのような誤解を与えてきたのである。「天皇主権が国民主権になった」という考えは、主権の定義を使い分けることで主権者が変わってしまうことを巧みに用いた嘘吐つきの論理というべきだ。
   図表 主権の定義によって主権者は変わる
(1)主権の定義を混同させた嘘吐きの方程式
   帝国憲法 日本国憲法
   主権者 = 天皇(権威) → 国民(権力)
(2)主権を実質的側面から定義した場合
   帝国憲法 日本国憲法
  主権者 = 主に国民(権力) → 国民(権力)
    ※天皇に近い権力階層が ※大衆重要な位置を占めた
(3)主権を形式的側面から定義した場合
    帝国憲法 日本国憲法
    主権者 = 天皇(権威) → 天皇(権威)
    ※国民も権威の一部を担う

  天皇はもはや象徴に過ぎないのか
 さて、憲法第一条が記す「象徴」とは何であろう。果たして「もはや象徴に過ぎない」と言われるようなどうでもよいものなのか。世界の常識によると、憲法第一条には、国にとって最も大切なことを記すのであり、そこにどうでもよいことが書かれるはずは無い。
まず「象徴とは何か」について考えたい。例えば、「桜」は「春」を象徴し、「ニキビ」は「青春」を象徴するように、象徴するものと象徴されるものは本質的に異質である。代表が同質な者同士の関係であることと対照的である。
 たとえば、「代表取締役」は「取締役」の中の一名を代表に選任したもので、会社を代表する立場にあるが、このような「代表」は「象徴」の概念とは異なる。象徴するものは見たり触ったりすることができるが、象徴されるものに実体は無い。日本人は、「桜」という特定の有機物を見ると、「春」という特定の概念を感じるのである。「桜」を見ると「春」を感じるように、天皇のお姿を拝することで日本を感じる場合「天皇は日本国を象徴する」と言えるだろう。
 そして、多くの国民にとって、天皇は、国土.国民.文化.慣習.伝統等全てを含んだ、「日本そのもの」を象徴する存在であることは言うまでもない。だが、国旗や国歌が国を象徴することは外国でもあり得るが、一人の人物が国を象徴することは容易なことではない。
 エリザベス女王は英国を象徴しているだろうが、中国国家主席が中国を、また米国大統領が米国をそれぞれ象徴しているとは筆者には思えない。
 悠久の歴史を国民と共に歩んできた天皇だからこそ日本を象徴することができるのだ。
 したがって、たとえ米国憲法が「大統領は米国の象徴である」と規定しても、大統領が国の象徴になれるわけではない。
 また反対に、大日本帝国憲法のように「天皇は日本の象徴である」と明記していないからといって、天皇が象徴でないわけでもない。
 確かに、先述のように、帝国憲法下においても、天皇は日本の象徴だったはずだ。
 ならば、帝国憲法時代から、もしくはその遥か以前から、天皇は我が国の象徴だったのであって、終戦後の憲法改正によって象徴になったわけでは無い。
 そして、既に述べてきたとおり、伝統的に、天皇は主権の形式的側面(権威)を担う存在であり、現在の日本においても、天皇なくして国の政治は何も動かないのである。このことは、平成二十一年七月に両陛下がカナダをご訪問遊ばされた折に、新聞各紙で、天皇の外国御訪問中に衆議院の解散は困難であるとの見解が記事になったことから分かる。
 衆議院の解散を決定するのは内閣だが、憲法第七条に規定されるとおり、実際に衆議院を解散するのは天皇なのである。
 天皇によって煥発された解散の詔書が国会の議場に届けられ、衆議院議長がこれを読みあげることで恒例の万歳につながる流れを思い出して欲しい。同様に、憲法改正.法律.政令.条約の公布、国会の召集、総選選挙の施行の公示、閣僚などの認証などは全て天皇の国事行為であって、総理がこれを行うことはできないのである。
 果たして、そのような権能を持つ天皇は「もはや象徴にすぎない」などと言われるようなものなのか。
 この表現が適切でないことは、日本国憲法の条文から明らかだ。

  国体が護持されたことを隠そうとする教科書
 帝国憲法から日本国憲法に切り替わったことで、主権が天皇から国民に移ったというが、実際はそのような国体の変更は起きていない。帝国憲法の条文とその運用の実態を検証すれば、天皇の国家統治のあり方の根本は、大東亜戦争の終結によっても変更されていなことが分かる。むしろ、国民(大衆)の役割の変化こそが歴史的には重要である。
確かに、枢密院が廃止され、貴族院は参議院に改められ、内閣総理大臣を選出する方法も変わった。
 このように意思決定の方法が変更したことは歴史的に重要であることは確かだが、これら諸々の変更は政体の変更であり、天皇のあり方そのものを変更せしめる、国体の変更ではない。
 教科書が、嘘吐きの方程式を用いて「天皇は主権者から象徴に転落した」と説くのは、戦争の終結を経ても国体が護持された事実を隠そうとする意図があったのではないか。教科書編纂者が隠そうとした「ある事」とは、帝国憲法と日本国憲法で「天皇の国家統治の実質的な権能は何ら変更されていないこと」であろう。彼らは主権の定義を弄んで、天皇の統治は終わり、国民が自治する新たな国家が建設されたかのような錯覚を起こさせてきた。それは日本に革命が起きたと説いているのと等しい。
 日本はポツダム宣言を受諾したことで、国家を守った。
 国家を明け渡した訳では無い。
 終戦の詔に見える「朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ」の一文には重要な意味がある。我が国には、戦争の終結により国家を解体し、天皇を主権者の地位から引きずり下ろした事実は全く存在しないのである。したがって「天皇は主権者から象徴に転落した」かのような表現は事実に反するものである。むしろ、天皇のあり方の根本は戦争の終結を経ても変わることが無かったという事実を、子孫たちに教えなくてはならないのではないか。
 欧州における近世初期の絶対君主制では、国の政治のあり方は君主の意思によって決定されるとされたが、これに反対して起きてきたのが民主主義である。世界では君主から主権を取り上げ、国民がこれを占めるための戦いが繰り返されてきた。君主主義と民主主義は対立する概念だったことが分かるだろう。
 ところが、日本においては、将軍等の権力者と民衆が対立したことはあっても、古来、天皇と国民  は対立関係にはなく、君主主権と国民主権は対立する概念ではない。西洋の感覚で扱うと大きな間違いを犯すことになるだろう。むしろ、天皇は日本国の「祭り主」であって、ローマ法王のように、将軍や国王等の権力者を超越する存在だった。
 天皇が主権の形式的側面(権威)を担い、国民が主権の実質的側面(権力)を持つという、君民の関係の上に主権が成立する日本の国体の構造は、他国に類を見ない仕組みであろう。
 日本の国体は西洋人が憲法を持つ遥か昔から成立していた。
 日本は国家として、だてに二千年以上続いてきたわけではない。

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