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2010年10月 3日 (日曜日)

江戸~昭和の遊郭と岡場所

 このブログで何項目か「遊郭や岡場所」に関して記載したが、随分詳しいと思われたのか、数名の学生から卒論の情報収集に利用していただいた。
 それは嬉しいことだが、残念ながら年齢的にも利用した体験がなく、内容は先輩から聞いたことや著作物からの間接情報なので説得力に乏しい。

 それに「遊郭」は売春防止法により昭和33年に廃止されているから、この当時20歳位の方が遊んだとすると、現在70歳以上の方なら体験者もいるだろうから、直接体験談を尋ねたらと回答した。 今思うと、20歳過ぎの方がマイナーな分野に挑戦するのだから、もっと調査に協力するなどの積極さも必要だったと思っている。

 今回は、あと一歩調査のヒントとなる情報を提供しようと思う。
 江戸時代、幕府公認の遊郭・吉原は『本場所』と呼ばれ、それ以外は『岡場所』と呼ばれていた。大相撲は「本場所」や「茶屋」制度など、遊郭の真似をしたと言われる。
 岡場所の娼妓は一般に「子供」と呼ばれ、その子供にも幾つかの種類があり、妓楼(茶屋)に抱えられている「伏玉」、通いの遊女である「呼出」に分けられ、更に呼出は娼妓置屋に属する人と、出居衆と呼ばれた自前の娼妓がいたという。
 現在の非合法の売春も、きっとこのような方式を参考にしているはずだ。

 『岡場所』は江戸では日本橋から一つ目の宿場町である「品川・内藤新宿・板橋・千住」(江戸四宿)が有名だが、本郷の根津神社隣など最盛期には100カ所近くあった。
 それに「岡場所」は「吉原」と比較して代金も安く、気軽に遊べる場所として利用されたという。 
■しかし、倹約や思想統制が行われた「寛政の改革(1787~1793年)」で、
 菎蒻島(霊岸島)、あさり河岸、中洲、入船町、土橋、直介屋敷、新六軒、横堀、大橋、井ノ掘、六間掘、安宅、大徳院前、回向院前、三好町、金龍寺前、浅草門跡前、新寺町、広徳寺前、どぶ店、柳の下、万福寺前、馬道、智楽院前、新鳥越、鳥町、山下、大根畠、千駄木、新畑、白山、丸山、行願寺門前、赤城、市谷八幡前、愛敬稲荷前、高井戸、青山、氷川、高稲荷前、卅三間堂など55箇所が取り潰しになった。
■更に、「天保の改革1842年(天保13年)」で残存していた27箇所が「品川・内藤新宿・板橋・千住」の四宿を除いて全て取り潰しになった。
 それは、深川仲町、新地、表櫓、裏櫓、裾継、古石場、新石場、佃、網打場、常盤町、御旅所弁天、松井町、入江町、三笠町、吉田町、吉岡町、堂前、谷中、根津、音羽、市ヶ谷、鮫ヶ橋、赤坂、市兵衛町、藪下、三田の岡場所だった。
■このように、取り潰しや新たに開業する場所もあり、その時点で何処何処にあったのか正確に知ることが難しい。
 面白いのは、幕末の1868年(慶応4年)公許による根津遊廓があったが、近くに東京帝国大学が出来ると教育上から、1888年廃止され深川の洲崎に移転させられた。
 また、大正時代には政府非公認の私娼街、向島の玉の井があったが、戦後は「鳩の街」としても賑わった。
 この「鳩の街」は、永井荷風の「春情鳩の街」、「渡鳥いつかえる」、吉行淳之介の娼婦の街を描いた「原色の街」驟雨(しゅうう)」などで全国的に有名になった。
 ※参考文献は石橋真国『かくれ里』、石塚豊芥子『岡場所大全』、此花十三枝など。

 他にも、戦後、立川に進駐軍がやって来ると、立川駅の北と南に遊郭が誕生する。
 ここは、深川の洲崎の遊郭業者がやって来た。
 立川駅北側の錦町は白人、南側の羽衣町は黒人を相手にする所だったという。
 このようなところまで人種差別があったことが面白い。
 また、多摩地域では浅川近くの八王子市田町には、約150メートルの大門通りには十数軒の妓楼が並んでいたが、家並みに今も面影が残る。

 なお、福生駅東側に今も赤線と呼ばれる地域があることや、線、線、線地域のことは別の機会に触れることにしたい。
----------------------以下は引用-----
  丹野顕著「江戸の色ごと仕置帳」から
全国の遊郭
 ところで、幕府公認の遊郭は江戸では吉原だけであるが、日本全国では4代将軍家綱の寛文期(1661~1673年)で、次の25ヵ所があった。
武蔵浅草新吉原
伏見柳町
越前敦賀六軒町
和泉堺南津守
播磨室小野町(室津)31mgvp4ervl__sl500_aa300_
長門下関稲荷原
薩摩山鹿野(寄合町)
京都島原
奈良鳴川(木辻)
越前三国松下
摂津兵庫磯の町
備後鞆有磯町
筑前博多柳町
大坂瓢箪町(新町)
大津馬場町
越前今庄新町
石見温泉津稲町
安芸多太海
肥前長崎丸山町
伏見夷町(撞木町)
駿府弥勒町(嶋)
和泉堺北高洲町
佐渡鮎川山崎町
安芸宮島新町
薩摩樺島田町(肥前?)
 ※『洞房語園』 江戸中期の随筆。2巻。庄司勝富著。享保5年(1720)成立。

 このほか幕府は1718年(享保3)以後、主要街道の宿場には旅籠一軒につき二人の飯盛女を置くことを許した。彼女たちは旅人の給仕をし、さらに床での相手もした。
 宿場の伝馬経費の負担を軽減するために許可したもので、とりわけ江戸の玄関口にあたる品川(東海道)・内藤新宿(甲州街道)・板橋(中山道)・千住(奥州街道)の四宿は伝馬経費が莫大だったので、一軒に二人という制限をはずした。
 なかでも幕府の公用が最も多かった東海道品川宿は1764年(明和こ、宿全体で500人の飯盛女を認可した。当時、品川宿には大小93軒の族籍があったから、一軒平均で五人強の売女を抱えることができた。
 土蔵相模のような大旅籠は他の族籍の権利を買い取って、数10人の飯盛女を抱えていた。1843年(天保14)の取り締まりのとき、品川宿全体の飯盛女の人数を確認したところ、500人のはずが1348人もいたという。
 しかし、江戸にあふれていた男たちの欲求を満たしたのは、幕府の許可を得た遊郭の遊女や四宿の飯盛女よりも、その何倍もいた隠売女をはじめとする私娼たちだった。
 江戸には有名な岡場所だけでも84ヵ所もあり、隠売女とよばれる身を売る女が各所に群居していた。
 さらに遊軍の私娼には、踊子をピンとすればキリの夜鷹まで、さまざまな私娼かおり、また私娼ではないが湯女風呂水茶屋楊弓場(射的場)の女など、風俗営業の女たちもしばしば私娼と同様のサービスを売り物にしていた。
 一口に私娼といっても、さまざまな営業形態があり、料金体系も雲泥の差があった。宮武外骨の『笑う女 売春婦異名集』(1921年刊)には、日本古来の娼婦の呼び名が450余り紹介されていて、彼自身の調べでは、このうち公娼は82語、私娼は316語とある。他は古名や公私不明である。異名の大半は江戸時代の私娼である。
 江戸時代に多くの女性がわが身を売った経緯には、彼女たちをとりまく職業事情がある。
-----------------------引用終わり----

向島の玉の井、戦後の「鳩の街」と呼ばれた辺り

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