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2010年9月 7日 (火曜日)

面白地名・山形県遊佐と遊佐姓

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Ootate
 かつて「遊佐」さんという同僚がいた。案の定、宮城県鳴子町の出身だった。
 年齢は当方より10歳も上だったが、出身地名関連から親しくさせていただいた。
 鳴子町には「遊佐」姓が多い。また、「こけし」でも有名な町だ。

 宮城県鳴子町と山形県遊佐町は、遊佐姓のルーツが遊佐町にあることから平成4年姉妹都市を締結している。この「鳴子町」も現在は、隣接町と合併し「大崎市」と町名を変更したが関係は続行しているという。

 これまで「遊佐姓」の人に接した経験は少なく、それ程多い姓とは思えない。
 それでも馬術の神様・遊佐幸平、歌手の遊佐未森、ライフセーバーの遊佐雅美らを思い出すことが出来る。ただ、この方々が鳴子町出身とは限らないが、きっと縁が深いと推測する。面白いことに、遊佐町には「遊佐姓」が一軒もないと言われるが、それでもシッカリと地名に残るのだから、相当に強い基盤があったのだろう。

  「遊佐氏」が遊佐に館を構えていたのは10世紀初期、現在の遊佐町小田原大楯で、遊佐高校と遊佐中の中間辺りとされる。
 地名も「大楯」、「御所ノ馬場」などと、その名残を強く感じさせるものがある。
 官道の駅も、この辺りにあったと推測され、乗り継ぎ用の馬10匹を置いたと伝えられるが、ここの御所ノ馬場で飼育していたのだろうか。

 平安時代後期には「荘園」が全国に広まる。
  この「荘園」は奈良・室町時代当時、貴族や大きな神社・寺院が 私有していた土地の事で、全国に4千近くあったとされ、武士の発生は「荘園を護る」ためとされる。
 庄内平野には、大泉(武藤氏)、海辺(あまべ)、遊佐の三カ所の荘園が12世紀ころまでに成立したとされる。「大泉庄」は赤川流域と京田川南側辺り、「海辺庄」は最上川南の余目辺り、そして「遊佐庄」は最上川北から遊佐辺りまで及んだという。
 遊佐庄の「遊佐太郎繁元」も、武士の始まりの一人のようだ。

 前後してしまったが、鳴子町に「遊佐姓」が多いのは、遊佐氏は南北朝時代に、大泉庄の武藤氏(大宝寺・大梵字氏とも呼ばれる)に敗れて宮城県鳴子町辺りに落ちのびたからという。「大宝寺」は衆徒5千の大寺だった。後の庄内藩につながる。

 以降は、松本良一.菅原伝作著「遊佐ゆかりの人々」の“大楯の楯主「遊佐太郎繁元」”を引用させていただく。
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大楯の楯主「遊佐太郎繁元」

 十世紀の始頃から地方の土豪が開拓した土地を守る為に、中Image0039央の権力家に寄進し、自らはその庄司(※荘園を司る役人)となった。
 遊佐庄は遊佐氏が月光川の流域を中心に開拓してこれを関白家・藤原氏に寄進したものであろう。
 後三年の役が終って奥州は、平泉藤原氏の時代になったのが寛治元年(1087)、藤原忠実が関白となったのが東和元年(1099)のことである。
 この忠実の頃から遊佐庄の増税問題がおこって奥州の藤原氏に交渉を開始していることが忠実の子頼長の「台記」という日記本に書いているそうである。
 十世紀の始に出来た延喜式に遊佐は、仙台多賀城より秋田に通ずる駅路になっておるので、遊佐氏は遊佐の地名から庄司がこれを名乗ったもので全国にある遊佐氏はここより出ているといわれておる。
 保元の乱後、遊佐荘は形の上では後白河法皇の荘園となっておったが奥州平泉藤原氏の保護を受けておった。
 文治五年(1189)の源頼朝の平泉攻撃には藤原泰衡は田河太郎行文をして出羽を守らせたが破れておる。
 この時出羽の土豪が多く討伐されたようだが遊佐氏の名はない。
 遊佐太郎繁元は、頼朝の家来になった出羽の守護武藤資頼の臣となり、五町野(田川郡新堀)を治めており、子孫がその職をついで遂に川北全体を遊佐郡と称するようになった。
 「嘉禎三年ゆざ殿断絶。其年太宝寺にゆざ殿とられ候-石黒家記-文正の年(1466)洪水にて川北水に浸ること7日、東禅寺破壊す、遊佐太郎繁元亀ケ埼に移して酒田城となす」と庄内物語にある。
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 ※『荘内物語』は庄内藩士・小寺信正が享保年代(1715-1724年)にまとめたもの。庄内の地名は、「庄内は大泉荘の内たることに由来する」が定説としている。

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遊佐町・歴史・観光・見所
遊佐町概要: 遊佐町は鳥海山と繋がりの深い地域です。遊佐町には鳥海山山頂の大物忌神社本宮を始め、吹浦口之宮蕨岡口之宮があり古来から信仰されてきました。特に鳥海山は活火山だった為、たびたび噴火を繰り返し神の山として考えられ朝廷や幕府などの権力者からも崇敬されました。中世には神仏混合となり多くの修験者が遊佐町周辺に集まり、杉沢熊野神社では「杉沢比山」と呼ばれる神楽を伝承するなど独自の文化が伝わっています。又、遊佐町は古くから開けていた地域で、延喜式で記されている「駅」や「吹浦湊」があり出羽国府(城輪柵)と秋田城秋田市寺内)を結ぶ重要な役割を持っていたと考えられています。平安時代からは「遊佐荘」と呼ばれる荘園が置かれ延長5年(927)の記録では荘園主に遊佐太郎繁元、繁光の名前が記されています。その後遊佐荘は平泉(岩手県平泉町)に本拠がある藤原基衛、久安4年(1148)には摂関家である藤原頼長へ所領が変わっています。江戸時代に入ると庄内藩に属し、秋田から新潟にかけての羽州浜街道が整備されると藩境付近にあった女鹿集落に番所を置いて人や荷物の管理をしました。松尾芭蕉も「奥の細道」行脚の際、遊佐町を通り象潟へ訪れていて元禄2年6月15日に吹浦に一泊し難所だった三崎峠で難儀したことが曽良日記に記されています。戊辰戦争では庄内藩は奥羽越列藩同盟に組した為、政府側に回った秋田藩と矢島藩と交戦状態となり三崎峠は戦場となり双方に犠牲者がでています。

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