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2010年9月23日 (木曜日)

面白地名・比丘尼(びくに)交差点

 高速・関越及び東京外環の大泉インター付近の練馬区三原台3-31先に、比丘尼(びくに)交差点や比丘尼橋、比丘尼公園がある。202_2
 ここは、帰省や東京外環を利用する際は良く通行する。
 そのたびに「色っぽい名前の交差点だ」と、うんちくを語ってしまう地点だ。ただ、この辺りは昔は農村だった所で、ここまで比丘尼は色商売に来ていたのか疑問だった。

 「比丘尼(びくに)」は、尼と間違えられるが純粋の尼ではない。
 尼の格好をした売春婦で、夜鷹の一種と言われる。きっと昔は、この辺りにも売春目的の「比丘尼(びくに)」が出没したのだろうと思っていた。
 今回、この項を記述するために調べて見ると、
 この近くに「真福寺」という寺があって、この寺には、美人尼僧が住んでいたそうだ。そして、この尼僧の面倒をみていた善兵衛という名主と恋仲になった。しかし、その恋は成就せず、尼僧は白子川に架かる橋から身投げをし、その近くの橋が「比丘尼橋」と呼ばれるようになった。交差点名はその隣だからだろう。
Bikuni
  右写真は、「写された幕末」(石黒敬七コレクション)
 「比丘尼(びくに)」
 木綿布子に黒羽二重の頭をかくし、加賀傘という出で立ちの歌比丘尼。勧進・勧進と薄化粧をし頒歌を唱えて売色しながら流れ歩いた。熊野伊勢は尼形売女の大本山、古くから多数(数千)の比丘尼を管轄し歳供を受け、一山富むほどの大繁盛を来たした。
 比丘尼のコスプレのイメージが浮かばなかったが、この貴重な写真でようやくつながった。
 それから、  
 遊郭と神社仏閣は、神世の昔から深い関係にあったとされるが、この辺りからも証明されそうだ。
 右下段の写真も、、「写された幕末」(石黒敬七コレクション)からの一枚で、巫女は、賽銭を多く集める役目と信者を惹き付けるために売色も厭Mikoわなかったという。
 この写真は、奈良の某神社の巫女達だが、色を売る大切な仕事があった。明治6年に表向きは禁止になったとされる。

 売春が合法だった時代のことを、現代の視点で語ることは難しいが、最近の中・高校生まで援助交際という売春をする時代と、どっちが健全な社会なのだろうか。

日本巫女史/第二篇/第四章/第一節

第一節 熊野信仰の隆替と巫道への影響



■新宿区本塩町14にある「比丘尼坂」「三陽商会」の横。

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