« ガ島戦・三連続奪回失敗の愚かさ | トップページ | 「ガダルカナル撤収作戦」秘話 »

2010年9月13日 (月曜日)

124連隊の「軍旗奉還作戦」

 Gua03_2

 これから紹介することは、ガダルカナル島戦の秘話とされる。
 殆どの皆さんには、マニアック(Maniac)な話かも知れない。
 事情を知る関係者が鬼籍に入られた現在、ガ島戦のことを書く作家や研究家にとっては貴重な記録になる可能性が高い。(※長文なので関心ある方だけ読んで下さい)
Ausuten_p11
 ガダルカナル戦史の著作物には、必ずといっていいほど、124連隊の「軍旗奉還作戦」のことに触れているが核心に迫ってはいない。
 いや、迫ることが出来ない事情があるらしい。
 この作戦は、昭和18年1月下旬から2月上旬のガダルカナル島カミンボからの撤退時に発生した。
 福岡編成の歩兵124連隊は、アウステン山の一番奥に陣地があり、派遣部隊の中で一番連絡が取りにくい場所に配置されていた。
 そして、大本営からの撤退命令を連隊長以下知らずに、軍旗を一時的にアウステン山、べラバウル高地の聯隊本部付近に埋めて隠していたことが、スムーズな撤退の妨げになった。
 米軍の猛攻撃でアウステン山を撤退したのが、1月16日、
 大本営からガ島17軍司令部に撤退命令が届いたのが1月17日
 この撤退命令を知るずれが124連隊に不幸を招くことになる。
 そして、1月19日に、軍旗捜索隊12名による決死隊が編成され、軍旗捜索にアウステン山に向かうが二人を残し10人が戦死する。
 聯隊旗手の小尾少尉が軍旗を持ち帰ったとされるが、この辺りの記述が作家により、みな曖昧なことで知られる。

 遺族会「ホニアラ会」事務局長の上村清一郎氏は、同氏の父上が初代連隊旗手として天皇陛下から賜った軍旗に関連することから、特に思い入れが深く、次のように考察している。
 まず、当時の聯隊旗手だった陸軍中尉・小尾靖夫氏は、このような手記を残していることでも知られる。何百人もの死を見届けた観察記録だ。今でも通じるとされる。
 
ガダルカナル最前線(元陸軍中尉、小尾靖夫の手記より)
 ◎ 立つ事の出来る人間は~寿命30日間。G_butai_haichi_1
 ◎ 体を起こして座れる人間は~3週間。
 ◎ 寝たきり、起きられない人間は~1週間。
 ◎ 寝たまま小便をする者は~3日間。
 ◎ もの言わなくなった者は~2日間。
 ◎ またたきしなくなった者は~明日。
 ああ、人生わずか50年という言葉があるのに、俺は齢わずかに22歳で終わるのであろうか」(昭和17年~18年)
 ※この人間末期の観察は、今も通じるとされる。

  以下は、上村清一郎氏の手記を引用させていただく。
 小尾氏は、JR中央線の吉祥寺近くに住んでおられたが近況は知らないという。
 なお、上村氏も遺族会を代表して、小尾靖夫氏に幾度も面会を申し入れたが、全て断られたそうだ。 
---------------------------------
 「軍旗関連の推考ホニアラ会事務局長 上村清一郎Uemula_1http://www.geocities.jp/honiara_kai/index.htm

 現代社会では、戦争当時の軍人の軍旗に対する考え(忠誠心)には理解が難しいことと思います。軍旗は、聯隊創設時、宮中において天皇陛下から聯隊ごとに親授されたものであり、その聯隊の命でもあるのです。
 よって、それを紛失したり敵に渡すことは、許されることでは無かったのです。また、部隊に万が一の場合は焼却する建前であり、これを奉焼と言い、奉焼した部隊長は責任をとって自決することが不文律とされていました。
 このような厳しい中で、ガダルカナル島でも3ケ聯隊の軍旗が消滅していま124ht_gunki11す。
 ●17年8月 一木支隊第28聯隊・聯隊長が軍旗を焼いて自決。
 ●17年10月第2師団第29聯隊・聯隊長が軍旗とともに突撃し聯隊長と軍旗の状況不明。
 ●そして、18年1月 第124聯隊の軍旗となります。
 また、西南戦争における小倉歩兵第十四聯隊の乃木少佐、また、戦況が悪化した大東亜戦争末期の満州をはじめ、南方のビアク島、サイパン島、硫黄島 レイテ島などに派遣されていた聯隊で奉焼しています。
 そして、軍旗の最後は、その部隊の玉砕を意味しています。
 軍旗を捧持し、兵隊の志気を鼓舞する効果はあったでしょうが、そこには大変な締め付けと忠誠心が要求されていたのです。中国戦線では、旗手だった父も1年間の任期が終わったときの感想を、「ほっとした」と軍隊手帳に記しています。それだけに、ガ島では連隊旗手でおられた小尾靖夫少尉のご苦労の数々は理解しているつもりです。
 それでは、124聯隊の軍旗にまつわる考察に入ります。
 以前、第二次世界大戦戦史研究所の所長佐賀井喜彦氏から、ガダルカナル戦末期の歩兵第124聯隊の軍旗に関して問い合わせがあった。
 その内容は、「軍旗を小尾少尉が腹に巻いて帰還したと言われているが、調査していて、いろいろ分からない点が多い。小尾少尉に面会を申し込んだが断られたし、問い合わせにも応じてもらえない。そちらで分かっていることがあれば教えて欲しい。」ということだった。124聯隊の軍旗は、父・上村清少尉が初代旗手として、天皇より親授されたこともあって関心を持っていたことでした。
 なにぶん、素人の調査で十分とはいえないが、分かったことや疑問点を列記してみたいと思います。
 会報「つくし」に掲載された手記や戦記などを読むと、以下のような点が浮かび上がってきます。
推考1~軍旗を埋めて撤退。工藤雷介軍曹の手記にその経緯が書かれている。
http://www.geocities.jp/honiara_kai/124ht_hiwa/124ht_hiwa_kudo_raisuke.htm
 手記、「昭和18年1月16日、アウステン山、べラバウル高地聯隊本部付近に、形見分けをし、そのあと埋めて撤退した。」と記載がある。
推考2~誰が軍旗奪回の命令を出したのか。
 黒沢参謀は1月20日朝、岡聯隊長の一行に遭遇し、軍旗奪回命令を出したと記録している。一方、工藤雷介軍曹は1月17日、丸山道とマタニカウ河との交叉点に到着。二日間大休止したと記録し、聯隊長の別命で森口中尉と第十七軍指令部に行く途中で、第三十八師団伝令の曹長に会って命令書を見せてもらったとある。
 月日も17日から19日の間ではないだろうか。
 ※砥板名誉会長の手記に、1月19日軍旗捜索隊が出発した事が書かれている。
推考3~誰が軍旗捜索に行ったのか。
 調査の結果、左記の方々が行かれたものと思われる。
 氏名    階級    所属   状況
 岡明之助 大佐   第百二十四聯隊長(戦死2月1日) 
 一色博 少佐     第三大隊長(戦死2月1日)       
 森口行雄 中尉   聯隊通信隊長(戦死2月1日)     
 熊谷啓次 中尉   第一機関銃少隊長(戦死2月1日)
 今川清 中尉     不明  (戦死2月1日)
 今長谷 少尉     不明           不明
 小山田宗人 少尉  聯隊副官 (戦死2月1日)
 福永壽太郎 少尉  聯隊砲小隊長生還(ビルマ戦死)
 小尾靖夫 少尉    聯隊旗手  生還
 黒木文雄 軍曹    第十中隊 戦死昭和18年1月23日
              (福岡県糟屋郡出身)
 村山    軍曹    不明(戦死月日不明)           
 小河章能 兵長    通信中隊(戦死2月1日)
   以上12名(小尾、福永両少尉が生還)。
 ※資料及び各種ガ島戦記、西島・工藤・高崎・砥板各氏、伊藤正美氏の記録、陸士53期同期生の記録他。
推考4~聯隊本部が置かれていた、アウステン山べラバウル高地は、昭和18年1月20日の時点で米軍に完全に占領されていた。軍旗捜索隊12名の方々はべラバウル高地の軍旗の埋めた場所まで行くことが出来たのか。
 米軍資料で、1月23日にべラバウル高地に足の負傷で歩けず、部隊撤退に際し追求できず置き去りとなった本部付きのT少尉が、米軍に収容されて捕虜となっている(後日アメリカより帰国)。
 はたして、捜索隊はべラバウル高地に侵入できたのだろうか。
推考5~小尾少尉の手記にアウステン山べラバウル高地で、埋めた軍旗を掘り出したとの一言が記録にない。小尾少尉が2月7日軍旗を腹に巻いて帰還されたとあるが、あれだけの重量の軍旗でさらに水に濡れて重たくなったものを、衰弱した身体で行動が可能だったのだろうか。
推考6~山本参謀の手記にあるように軍旗の一部だったのではないか。
推考7~昭和20年終戦後、ビルマ(現ミャンマー)で軍旗は焼却されたが、それに参列した砥板さんによれば、軍旗は完全で奇麗だったと証言している。

 数日の脱出行で、水に濡れたり、形見分けでちぎれたりした軍旗ではなく、奉焼された軍旗は、再交付された軍旗だったのではなかろうか。 
※他の部隊のことであるが、記録によると、戦時中、福岡県と佐賀県の県境、背振山に飛行機が墜落し、その飛行機に再交付の軍旗が乗っていたとの記録もあり、軍旗の再交付は行われていた事実がある。
 第124聯隊旗も、再交付された可能性が高いと思われる。 
 現在も、お元気な小尾靖夫元少尉が真相を話されない理由として、いろいろな事が考えられるのですが、これにより、軍旗捜索隊12名の方々、特に未帰還の10名の方々の最期が判明しないことは残念である。
 勝手ながら、やや乱暴に推測させていただくと、軍旗捜索隊12名の方々はべラバウル高地の軍旗の埋めた場所まで到達することができず、岡大佐以下は責任をとって自決された。
 しかし、旗手の小尾靖夫元少尉が最初から持っていた軍旗の一部を持って帰還し、撤退時の体裁を整えたと推測できるのです。

Canvas1

|

« ガ島戦・三連続奪回失敗の愚かさ | トップページ | 「ガダルカナル撤収作戦」秘話 »

09 共産主義国・中国のこと」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1208592/36692243

この記事へのトラックバック一覧です: 124連隊の「軍旗奉還作戦」:

« ガ島戦・三連続奪回失敗の愚かさ | トップページ | 「ガダルカナル撤収作戦」秘話 »