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2010年9月14日 (火曜日)

「ガダルカナル撤収作戦」秘話

 ここ数日、集中的にガダルカナル島戦のことをお知らせしている。
 ガ島戦で、上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたのは10,652名とされる。
 撤退作戦の企画は大本営作戦参謀・瀬島隆三氏とされるが、成功の陰には二つの捨て石作戦」があったことを紹介したい。
   (※長文です。ガ島戦関心ある方だけ読んで下さい)
 まず、124連隊は悲運の連隊と言われた。
▼約4000人がガ島戦に参戦したが、撤退時は300人いなかった。
▼ガ島上陸作戦時、約70名を無人島に取り残す残留部隊が発生した。
 ※後に横井庄一氏が生還した際に注目され、捜索するも全員死亡が確認。
▼川口少将が攻撃直前に異例の解任劇が起きた。 
▼辻参謀が「泥棒部隊」と呼んだ。他部隊からも「ゴロツキ部隊」などと敬遠された。
▼米軍パイロットをスープにした『人肉試食事件』がある。
▼岡明之助大佐(聯隊長)指揮による「軍旗奉還作戦」で2月1日岡大佐戦死した。
など、数々の悲劇に遭遇し話題が多い。
 しかし
▼ガダルカナル島から10,652名を撤退させた最大の功労は、ガ島に残留して最後まで戦った124連隊宮野隊128人であることは知られていない。
 ほぼ全滅したが、何人かは米軍の捕虜になり、戦後帰国した人もいるという。  

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 ガダルカナル島撤退の御聖断は昭和17年大晦日、ガ島17軍司令部に伝達されたのは昭和18年1月17日とされる。 
 太平洋戦争の作戦のうち、「真珠湾奇襲作戦」に継いで成功したのは「ガダルカナル撤収作戦」といわれ、後は「やることなすこと誤算ばかり」と酷評される。
 「ガ島撤収作戦」を計画したのは、大本営作戦参謀・瀬島隆三氏とされるが、その成功の陰には「捨て石作戦」があった。

 本当は、こちらに光をあてるべきなのに、あまり知られていない。
 その「捨て石」になったのが、124連隊「宮野隊」128名と臨時編成された38師団矢野大隊」750名だった。
  撤退作戦投入のために、名古屋で臨時編成された矢野大隊長以下約750名は、昭和18年1月14日、全滅覚悟でガ島に送りこまれた。

 戦国の昔から、敗色が色濃く退く際はしんがり部隊が一番危険とされる。
  殿(しんがり)は、後備えともいわれ、有名な戦では「金ヶ崎の戦い」で豊臣秀吉が殿を引き受けて信長を逃がし、自らも命からがら戦場を脱出し信長に認められる結果になった。
 なお、ガダルカナル撤収作戦で一番最初に、船に積んだものがあった。
 ガ島の砂を入れた米俵を数10俵だったという。
 それを何に使ったのか?
 遺族の元に届ける白木の箱に入れる砂だった。これも秘話の一つであろう。

 以下は、124連隊遺族会「ホニアラ会」事務局・上村清一郎氏のコメントと、遺族会機関誌「つくし」に掲載された、防衛研修員・近藤新治氏の文章を紹介したい。
-----------------------------引用--
 「ガダルカナル撤収作戦」の最大の功績者は、124連隊「宮野隊」であると紹介されています。宮野隊の宮野政治中尉は福岡県朝倉郡夜須町出身、ご遺族は福岡ホニアラ会会員の義弟・宮野正明様です。この様な貴重な記録は、聯隊史などに記載されていないので皆様にご報告申し上げたい。(事務局・上村清一郎)
-----------------------------引用--
  「ガダルカナル撤収殿軍の最期」 
                          防衛研修員 近藤新治
 ガダルカナル撤収殿軍の最期餓え衰えた日本軍の撤収作戦は成功したが、その陰には、撤退を支えた尊い犠牲があった。
■挟み撃ちを企図した米軍
 日本本土を離れる5千キロ。南太平洋のガダルカナル島で行われた作戦は、結果を知りつくした今となっては、日本軍の作戦指揮の失敗という枠を、一歩も出るものではない。
 だが、勝利の女神が、日米いずれにほほえむか、わからない交戦途中の軍隊にとっては、ひとつひとつの戦況が、杞憂のもとであった。
 どちらが勝つかわからない。
 いま一押しすれば、うまく行くかも知れない。
 そんな気持が常につきまとっていたのが実相である。
 結果的には勝った米軍も、(昭和17年〉 10月、11月は日本軍の攻撃にたいして、頑強な防禦線を保持することを主とし、ときどき局地的な反撃を行った時期であり、12月は増援部隊派遣の途中で、攻撃態勢整備時ということができる。
 翌18年1月上旬、ガ島(ガダルカナル島)の軍は三個師団になった。海兵一個師団で、海空の直接支揺蔀隊を入れると、5万人をこえた。
 当、日本軍は約1万5千人で、その第一線では所により、餓死者が出るほど、補給が切迫していた、もとより米軍は、その細部など知るよしもなこの段階で新しい大規模な攻勢をとることになった米軍は、大要つぎのような作戦計画をたてた。 まず、すみやかにアウステン山を攻撃し占領する。ついで一個師団(アメリカ師団)を飛行場の守備に充当し、二個師団(第二海兵・第25師団)で西進攻撃を行う。
 西進攻撃の要領は、まず二個師団を海岸からアウステン山の間にならべて配置し、日本軍の外翼を席捲するように攻撃。マタニカウ川西方3千ヤードに第一線を拡張。ついで、2個師団で日本軍を補捉撃滅するため、西方への攻撃を続行する、というものであった。
 計画段階で在ガ島米軍指揮官のバッチ将軍が発言した。
 「日本軍は正面攻撃にたいしては頑強に抵抗して、始末が悪い。歩兵一個連隊ほどをこの辺に上陸させて、敵の増援路を遮断し、あわせて背面から攻撃させたらどうだ」バッチは、拡げられた地図の上のガ島西端を指揮棒でたたきながら言った。
 棒の先端のヴェラヒユー海岸という文字が、そのたびごとに踊った。半年あまりも戦争しているというのに、ガ島の西端の状況を、米軍はつかんでいなかった。そこで大事をとって一個大隊が、北岸のコカンボナから西南方向にまっすぐ島の中央山系を横切り、南岸に出る路を偵察のため先遣された。
 四隻の駆逐艦に護衛された迂回隊の主力が、人員・資材・食糧・弾薬を、一隻の駆逐艦と五隻の戦車揚陸艇に満載して、北岸のククムから出航したのは、2月1日午前4時のことであった。
 日本軍の主要揚陸点エスペランス岬をはるか左手に眺めながら、目的地ヴェラヒュー海岸に上陸したのは、午前11時を過ぎていた。揚陸艇は帰途、日本軍急降下爆撃機14機の攻撃を受け、一隻が沈没した。駆逐艦も至近弾で、操舵装置が破壊され、乗員2名が戦死した。引き続いて午後早く、「20隻の日本駆逐艦が、ヴェララ・ヴェラ島北方を高速力で南下中」という報告が入った。
 米軍司令部は、増援のための陸上部隊の輸送艦隊、と判断した。
 午後6時20分、南下を阻止するため、41機がへンダーソン飛行場を離陸した。日本側は零戦18機が上空警戒に当たっていた。この戦闘で駆逐艦「巻波」を航行不能にした。夜になって米側は、四段の阻止手段を講じた。機雷と駆逐艦と魚雷艇と航空機による攻撃である。米軍の、この手を換え品を換えての阻止行動の中に、日本の艦隊はズカズカと入って来た。
 米側の四つの手段は、いずれも効果なく、魚雷艇が砲戦で二隻沈没した。
 米軍はその結果、一日夜は日本軍の増援輸送を成功させてしまった、と判断した。二日の日中、東部の第一線タファサロング付近で、放棄された無線通信機と、割合い大きな機械工場跡で十組の砲の部品を米軍は入手した。
 だが米軍は、これらのことは再開される攻勢のための態勢整理の徴候と見た。
 日本軍の母艦航空機が、ブーゲンビルの飛行場から飛来したり、ガ島とラッセル島間の絶え間ない船の往来は、北に向かっての撤退ではなく、去年の11月半ばの頃と同様、増強がまだ進行中である、との推定を強める以外の何物でもなかった。
 2月4日午後も、同じように米軍の増援阻止作戦が行われた。戦爆連合64機による爆撃により、駆逐艦「舞風」を航行不能にしたが、他の19隻の駆逐艦は、何物かにつかれたように南下を続けた。7日も同じように、18隻の駆逐艦がガ島に向かうのを偵察機が発見した。二隻に命中弾を与えたが、編隊から落伍しなかった。
 一方、米軍はヴェラヒュー海岸から行動を起こし、日本軍に決定的な強圧を加えるため、2月7日にはエスペランス岬から約五キロの地点まで進出した。この日、米軍連隊長が負傷し交代した。東から海岸通りを進んだ部隊は、タファサロング西方1.5キロに達していた。明日は、いよいよ日本軍を東西両正面から挟撃できる。
 バッチ将軍は、ルンガ岬の司令部でほくそえんでいた。
 だが、その2月8日の朝、エスペランス岬に達した米軍第一線は、空の舟艇と放棄された補給品のほかは、何も見出されなかった。「何が起こったのだー己おそるおそる進む東西両方向の米軍が、接触したのは、翌9日午後4時25分のことであった。バッチ将軍は腹立ちまぎれに、ハルゼイ提督に打電した。「ガダルカナルにおける日本軍全員の完全な撤退は、本日16時25分に確認された。(中略)東京急行は、もはやガダルカナルに終着駅を持っていない」。
矢野大隊の奮戦
 日本側の撤収について、なぜこのような奇跡がおきたのであろうか。
 原因は、いろいろ考えられる。この時ばかりは、日本側は作戦計画も見事であった。陸軍も海軍も、撤退を成功させるために捨身になっていた。戦争の後半期に見られるような、軍紀の弛緩はなかった。戦争開始以来、負けたことのない軍隊である。いまは具合が悪いが、つぎの段階では必ず勝つと思っていた。等々各種の条件が重なっている。
だが、これらの原因を列挙してみても、一抹のものたりなさが残る。それは、相手方の米軍が、戦術原則に忠実に、なぜ猛烈果敢に追撃してこなかったのか。米軍が積極的に行動しさえすれば、栄養失調で朽木のようになっていた日本軍である。ひとたまりもないはずだが、という疑問が消えないのである。全段で述べたように、米軍は日本軍の撤退行動を、増援行動と誤判していたのだ。
 評者はこれを、天佑といい神助という。だが、史実を細かく調べると、前に触れた米軍が誤判した、いろいろの戦術的徴候のほかに、明らかに「増援」とみるのが当然と思われる処置を、日本軍は撤収作戦を成功させるために発令していたのだ。

いわば「捨て石」である
 捨て石は、二目あった。
 一つは矢野大隊である。
 以下簡単にその概要を述べよう。にっちもさっちも行かなくなった、ガ島の作戦を打ち切るために、部隊を撤収せよ、という大本営命令がラバウルに伝達されたのは、昭和18年1月4日のことである。前年8月から始まった戦闘で、日本軍はすでにガ島周辺の制空・制海権を失っていたので、命令だから撤退するとしても、艦船と人員の半数は撤退し得まい、と関係者のだれもが判断した。奇跡的に潜水艦で脱出してきた者の話では、ガ島では、マラリアと飢餓で、満足に戦闘行動ができる兵隊は、いないのではないかという。
 攻撃・防禦・追撃・退却・偵察・警戒などという地上作戦の戦術行動のなかで、古来、一番難しいと言われている、退却作戦をそんな病人の兵隊でどうして実施できようか。
 とくに昔から最後に退る後衛部隊、これを殿軍(シンガリ)というが一番難しいとされている。病人部隊では殿軍は勤まるまい。
 そこで、まさかの時には在ガ島部隊と一緒に斬り死させるつもりで、矢野大隊が選ばれた。矢野大隊は第38師団(名古屋編成)の補充員で臨時に編成され、大隊長以下約750名。小銃三中隊。機関銃一中隊、山砲一中隊という編成である。
 出発のための軍装検査に立会った、井本といら参謀が、「全般の企図は何も知らぬ彼等、之を一人残らず殺すのだと思って見たときは、感極まるの外はなかった」と、手記を書いている。
 当時、矢野少佐は「重大任務というだけで、撤退のことは知らされていなかった。
 1月14日午後10時、おりからの猛烈なスコールの中を、矢野大隊はガ島エスペランス岬に上陸した。新品の軍服に身を固めた750名の部隊の出現は、半年間風雨にさらされ、乞食のような姿の者もいる、ガ島の日本軍にとっては驚異であった。
  「いよいよ攻勢だ!」飛行機と砲兵でたたかれ続けている将兵を勇気づけた。
 大隊は米軍機の空襲をさけるため夜間行軍を繰り返し、1月17日朝、勇川の線に進出した。任務は一時、歩兵第228連隊(長、田中大佐)に配属であった。やっと探した連隊本部で、「よく来てくれた。もううちの連隊には、大隊長は一人も残っておらん。最後には俺といっしょに斬り込んでくれよ」田中大佐は、矢野大隊長の手をとらんばかりに真剣な表情で言った。
 連隊の属する第38師団の第一線は、米軍の強圧の間隙をみて、続々と勇川河谷に後退していた。
 矢野は、翌日の夕刻、その集合場所に行ってみて驚いた。
 「やっと歩ける兵だけが、着の身着のままで、フラフラと来る。そのフラフラの兵が病人を肩にかついでいるのだ。歩兵連隊の焦答ではなく、野戦病院の移動といった方がいい。それでも、各兵は、兵器はしっかりと持っている。中には病気のうえに、疲労が重なったのだろう。後方に退った安心感から、集結地にたどりつきながら息を引きとる兵もいた。
 看護する人もなく、薬もなく、皆が病人なのだ。
 この状態でよくも今まで頑張っていたものだ。
 人員は「一個連隊といっても、百名ほどしかいなかった」と述懐している。
 19日朝から、矢野大隊は勇川東岸に陣地占領した。
 この日から第38師団が後退行動を起こしたので、大隊は文字どおり第一線となり、米軍主力と接触することになる。この頃の米軍の戦法は、4~50人で横隊となり、あたりかまわず射撃しながら前進する。
 日本軍が一人でも陣地にいて、射撃でもすれば、ただちに後退する。
 30分か1時間ほどして、その日本兵の位置に、物凄い迫撃砲と砲兵の射撃を集中する。それが終ると、最初の要領で歩兵部隊が攻撃前進してくる。このパ夕ーンの繰り返しであった。米軍としても、勇川の線で、今までと違った新しい服装の、敏捷に動く日本兵の姿を見て、これは変だと思った。
 そして、矢野少佐自身もこの時点では、はっきりと撤退援護のための後衛部隊とは聞いていなかったので、日本軍増援部隊の第一陣と漠然と考えていたというから、相手の米軍が「増援」と判断しても、少しもおかしくない状況であった。矢野は、前記米軍の戦法を巧みに逆用して、後衛部隊として最大限に時間をかせいだ。
 すなわち、
 1、夜間のうちに陣地占領する。
 2、米軍を最大限引きつけて不意に射撃。
 3、米軍の集中射撃間、第二線に後退。
 4、射撃が止めば第一線に復帰。五絶対優勢な米軍が、ジャングル等を利用して、包囲態 勢をととのえ、大隊の陣地保持が困難になれば、夜間を利用し、次の陣地に後退する。このやり方で、五線の陣地で実に14日間の時間をかせいだ。一陣地平均三日間という遅滞日数である。軍主力の後退時期・距離等から、矢野大隊の捨て身の援護振りがしのばれる。
宮野隊の最期
 戦術的に見て、勇川以西の撤退地域の要点は、タファサロングとセギローである。エスペランス岬とカミンボという上船地点を援護できる地点は、この二つしかない。ただセギローはエスペランス岬との距離が、5~6キロしかなく、重砲の射程を考慮すると、いかにも近すきる。 一方、引揚艦艇の手配が、第一次撤収(第38師団乗艦予定)まで、10日もかかる。最前線の拠点は、米軍の強圧に耐えかね、一つずつ玉砕していく危殆に瀕している。崩壊寸前だ。そこで軍は、まず第二師団をタファサロング付近に陣地を占領させ、第38師団が離島するまで援護させることにした。
 矢野大隊は、その第二師団の陣地の前面で時間をかせいだ。
 さて、その第二師団も2月2日、乗船地に向った。
 あとは矢野大隊だけである
 その頃になると、米軍も戦車を繰り出して来たので、矢野も、「もはや、これまで」と何度か観念した。が、何とか2月4日まで陣地線を維持した。
 この日、第二師団が第二次撤収部隊として離島した。
 命令により後退した最後の陣地がセギローであった。ここのジャングル地帯は、軍の野戦病院と師団の患者収容所があった所だ。これらの施設は、名ばかりで、ジャングルの湿地に樹の枝を並べた程度である。泥津路の両側は、屍を埋めた土盛りが畝をなしている。
 2月4日、ここに撤収作戦第二捨て石が置かれた。
 総後衛部隊作戦命令の第四項がそれだ。
 「宮野中尉は、残留患者を指揮し、現在地を確保し'敵の前進を拒止すべし」一見何の変哲もない、退却作戦命令の定型文句であるが、それは後刻、撤退が命令される、とい
う前提があっての表現だ。だが、この場合はその前提はない。
 三日後に予定される第三次撤収で、矢野大隊を主力とする約2千名のガ島残留者は、全部引き揚げてしまうのだ。

 殿軍の総後衛部隊長(松田教寛大佐)は、その日(4日)の朝、計画どおり矢野に、「将校の指揮する、約70名を残置、主力は日没後乗船点へ転進」と命令した。
 矢野は、即座に「大隊全力で残留」させてくれと言った。
 70名だけの部下をどうして残せるか、死なばもろともである。
 問答をしている間も、米軍の砲声が反復する。矢野は、「命令は命令として、大隊全員が残ろう」と腹を決めて指揮所を飛び出した。その様子を見ていた松田は、「なんとかこの男とその精鋭な部下を生かしてやりたい」と思った。
 今回の撤退命令が出たとき、現地第17軍司令部が反対した理由の一つに、もし撤収できたとしても、それは後方部隊や足腰の立つ者が主であって、勇敢にあくまで戦闘し、栄養失調で動けなくなった将兵のほとんど全部は、遺棄死体として残置することになる。
 それは統率上忍びがたい、というのがあった。
 だが、どのような理由があれ、大命遊奉、撤収作戦実施ということになったのだ。そこで軍司令部の心配が、現実の問題となった。「撤退計画」に感情を押さえて、冷たく表現したつぎの文句がある。
 「単独歩行不可能者ハ 各隊共最後迄現陣地ニ残置シ 射撃可能者ハ射撃ヲ以テ敵ヲ拒止シ 敵至近距離ニ進撃セバ 自決スル如ク 各人昇示錠二錠宛ヲ分配ス」
 松田は、矢野が前線に飛んで帰ったあと、セギロー付近の歩行困難な兵隊の数を調べさせた。「128名であります」椰子の根元に天幕を敷いてすわっている松田に、本部の書記が報告した。
 だれに指揮させるべきか。松田は迷った。
 「私が残ります」宮野政治という予備役の中尉が、松田の心を見すかすように足をひきずりながら寄ってきた。
 歩兵第124連隊の将校だ
 松田は、矢野に対する命令を取り消して、前掲第四項の宮野に対する文章を入れた。総後衛部隊は、乗艦地カミンボに集結した。
 今日は2月7日、宮野たちと別れてから3日になる。
 午後4時、あと数時間で最後の駆逐艦が迎えに来る。
 すべての手配を終わった松田の耳に、遠雷のような米軍の砲声が聞こえてくる。
 心の中で手を合わせる想いで、松田は手帳に書いた。
 敵の砲撃は猛烈なるも、セギロー陣地は依然確保しあるものの如し。
 今尚、残置してある将兵はもう再び会うことは出来ない。
 また生きることも出来ない。
 真に断腸の思いである。然し如何とも致し難い。
 「総後衛部隊戦闘詳報」宮野隊の欄外余白に、二重丸して、「殊勲甲」と朱書きしてある。

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