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2010年9月10日 (金曜日)

酒田刑場・最後の斬首刑

 「刑場には竹やらいが設けられ、周囲は黒山の人だかりであった。しばらく三人は平常のように談笑して時の来るのを待っていた。」、これは処刑の目撃談だ。

 「三烈士碑」は山形県酒田市相生町2-4-20の「妙法寺公園」にある。 3resi_2
 この碑は、戊辰戦争で官軍を相手に最後まで戦った、
 佐藤桃太郎信徳(遊佐・升川、佐藤藤佐の曾孫)、
 関口有之助(岡崎藩士)、
 天野豊三郎(幕臣)
 の三士が斬首されたことを悼み建立された。
 処刑は明治2年4月21日、酒田刑場で斬首された。
 
 桃太郎の祖父・佐藤然僕(ねんぼく)は江戸詰めの庄内藩医。然僕の実兄・佐藤泰然は順天堂の創設者。
 軍医総監・松本良順は佐藤泰然の次男となる。
 三烈士の碑には、佐藤藤佐の孫、元外務大臣林董(ただす)が揮毫した。
 碑は大正2年11月15日竣工されている。
 このように、遊佐町升川村の佐藤家からは、実に歴史に名を残す蒼々たる人材を輩出している。

 以降は、松本良一.菅原伝作著「遊佐ゆかりの人々」の“戊辰の役最後の烈士”「佐藤桃太郎」を引用させていただく。
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 さて、桃太郎は嘉永元年旗本佐藤桃太郎の嫡子として江戸に生れた。
はじめの通称喜惣司、本名を信徳といった。Image0039
 家督相銃後桃太郎と改名し、幕臣旗本として高七捨俵五給人扶持を給され、陸軍奉行および支配評定所の書物御用出役をつとめて役料五人扶持を賜わる。(庄内人名辞典)
 慶応四年(明治元年)正月戊辰の役起り、4月幕軍遂に力尽き江戸城を開き、さしもの徳川幕府もその歴史を閉じた。
 この時多くの幕臣江戸より脱走し、箱根で西軍(官軍)と戦ったが戦敗れて或いは蝦夷五稜郭へ、或いは会津へ、或いは庄内へと奔った。
 幕臣佐藤桃太郎もこの箱根戦争に参加したが、幕府遊撃隊軍監天野豊次郎、三河国岡崎藩士関口有之助のほか6人と共に庄内藩に身を投じた。
 時恰かも9月の末で庄内藩が官軍に降伏した時であった。
 庄内藩では桃太郎ら9人を田川郡櫛引通嶋組八ツ興屋村(今の鶴岡市八ツ興屋-旧斎村)林高院にかくまってくれた。
 やがて六人は官軍に投降して東京に去ったが、佐藤桃太郎、天野豊次郎、関口有之助の三人は降伏の勧告を、「貴藩は健闘すること半年、一兵をも領内に入れず、そして開城したのであるから、武士の面目も立とうが、我等は連戦連敗、今となって降伏したなら、どの顔で地下の戦友に会うことが出来ようか」と断乎してこれを拒んだ。
 八ツ興野村の豪農三浦半三郎これを聞き、大いに感激し、酒肴美味あれば常に三士に贈ったという。
 ここで八ツ興屋の豪農三浦半三郎のことにふれなければなるまい。箱根戦争で敗れた佐藤桃太郎けじめ9士は同村林高院にかくまわれた。藩では、半三郎にその三度の食事を給することを命じた。半三郎はもともと義侠の人で情けの深い人であった。
彼はすすんでそれを引きうけ、諸士を厚遇した。
 明治2年2月22日、酒田民政局長官西岡周碵より三士は酒田に呼び出された。八ツ興屋の人たちは、三人は恐らく死罪になるだろうと話し合った。半三郎は紋服を新調して三人に贈った。林高院の住職、半三郎はじめ村人は別れを惜しみ、最後の別れをして鶴岡まで見送った。
 酒田では、木屋町佐藤九郎石エ門という醤油屋に宿をとった。
 九郎石エ門では、一家あげて親切にしてくれた。西岡民政局長は三士に対し、降伏を強くすすめたが、却って三士は薩長を痛烈に攻撃し、応ずる気色が少しもなかった。
 同年3月14日、民政局では松山藩に三士の預りを命じ、三士の措置については中央政府の指示を仰ぐことにした。
 松山藩では、藩士斎藤弥石工門の桑山別荘(今の松山中学校の辺)を借り三士を収容した。4月になって漸く中央政府の指示が出た。その間、松山藩では毎晩食膳に酒を添えてもてなした。八ツ興屋の人たちも時折食べものを待って見舞いに訪れたという。
  --中略--
  時既に三士即ち佐藤桃太郎、天野豊次郎、関口有之助の斬首の刑は決まっていた。先に三士は切腹を申し出たが許されなかった。そのための酒田への呼び出Photo_2しであった。三士は出発に先立ち、夫々辞世の詩をものにしている。
 守節男児長若斬
 棄生取義復何疑
 一朝身命成灰土
 千石留名在此時
 これは桃太郎の辞世の詩である。男子の面目まことに躍如たるものをうかがうことができる。
 三士が酒田刑場(現酒田西高校前)に着いたが先方の準備が整っていなかった。刑場には竹やらいが設けられ、周囲は黒山の人だかりであった。しばらく三人は平常のように談笑して時の来るのを待っていた。--後略--
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酒田刑場
 酒田刑場は、旧・酒田西高校近くの酒田市北新町7番12号付近にあった。
 ここでの最後の処刑は、ここで紹介した「庄内三烈士」だった。
 処刑は明治2年4月21日行われた。
 今町の刑場跡には受刑者の霊を弔う地蔵があり、首切り地蔵と呼ばれていたが、明治35年、「善導寺」境内に移され、現在は赤子(せきし)地蔵と名づけられ、子供たちの成長を願うお地蔵さまとして信仰を集めているという。
 また、処刑前に宿とした米屋町の九郎右衛門は、自分の菩提寺の林昌寺境内に髭髪(しゅはつ)碑(遺髪を埋めた碑)を建立して、3烈士の御霊を弔っている。

 処刑後、三浦半三郎は3人の首を掘り起こして鶴岡林高院に墓を建てた。
 桃嶽院殿誠忠義心居士(佐藤桃太郎)
 義豊院殿忠山良勇居士(天野豊三郎) 
 賢明院殿精勇英了居士(関口有之助)

鶴岡の処刑場
 キリシタンが弾圧された江戸時代初期には、庄内藩でも1626年に200人以上の切支丹が追放され、1629年に鶴ヶ岡髪谷地刑場で10人、酒田刑場で10人、鶴ヶ岡大山刑場で5人が、火あぶりや斬首によって処刑されたとの記録があるが、正確な場所は不明だ。
 一番可能性が高いのは、赤川河川敷とされる。
 藤沢周平も漠然と記載していた。

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