« 唇があるのは人間だけ | トップページ | 小沢氏民主代表選に立候補 »

2010年8月25日 (水曜日)

「点字音譜の祖」佐藤国蔵

 この医師の話は小学校当時、担任のジュン先生からヘレンケラーの話と一緒に教わった。同じクラスに遊佐病院の子がいたので、一層記憶しているのかも知れない。
 ジュン先生は苗字を書かなくても、家は学校の隣だったし、この町の当時の人達は良く知っていると思う。

 「日本点字音譜の祖」と言われる、遊佐町出身「佐藤国蔵」医師をIndex_02紹介したい。
 これまで、いろんな偉い方々を見たり接する機会があったが、この先生のような方が本物の偉人、めったにいない尊敬できる人だと思う。

 本人も盲目に近い状態ながら努力し医師となり、盲人・障害者の世界に大きな足跡を残した。
 山形県遊佐町六日町の遊佐病院の基礎を築いた医師でもある。遊佐病院の中庭に銅像がある。

  「遊佐ゆかりの人々」:松本良一.菅原伝作著から多く引用させていただく。

  佐藤国蔵(くにぞう)先生は、慶応3年(1867)8月8日、遊佐郷六日町村、医師・佐藤意泉(いせん)の次男とPhotoして生まれた。
 父・意泉は、庄内藩の分家、松山藩主の御典医・佐藤伯全の三男で、医学修業の後、安政元年(1954)遊佐郷十日町村、佐藤多右ェ門方で開業、安政6年9月、遊佐町六日町村に家屋を建て開業する。
 以来「えしぇさま(意泉様)」の屋号は、そのまま155年後の今日に至っている。
 意泉は蘭方医学(らんぽういがく)を身につけようと決意し、文久、慶応の頃佐倉の順天堂に赴き順天堂二代目佐藤尚中松本順に師事したと思われる。
 順天堂に倣い、医院を「順仁堂」と名づけた。
   (※天堂病院の初代佐藤泰然、遊佐・升川の佐藤藤佐の長男

 さて、明治16年(1883)国蔵は、父の志を継ぎ、東京に登り、順天堂佐藤舜海(尚中)のもとに草親を脱ぎ、医学修業書生として医学の道を歩き始めた。明治17年9Image0039月、東京大学医学部別課医学課程に入学する。然し、国蔵は別課医学二年の晩秋の頃から、視力に変調を覚え、その眼疾ははかばかしく回復しないため、ついに明治22年10月東京盲唖学校技芸科鍼治按摩専修科に入学する。
 そして、明治25年按摩科、翌26年鍼治科を卒業した。そして、点字学習に努力し、明治23年には文部省から点字選定委員会の一員に選ばれる。
 当時、盲唖学校はまだ正式な点字学習時代ではなかった。
 しかし、次第に点字の便利さが認識され、正式に採用されたのは明治32年であった。
その間、国蔵は、点字の普及に懸命に努力した。
 当時、文部省では、祝日儀式用の「君が代」などの歌詞や音譜を定めようとしていた。国蔵はこの風潮の中で新しい音楽に心を傾けるようになっていた。
 明治26年4月15日、彼は東京盲唖学校技芸科誠治科を卒業した。
 しかし、医術開業試験に及第して医師にならねばならぬという不退転の決意は変わらなかったが、この試験に精魂を込めるだけの視力を回復していなかったことと、点字音譜に興味が湧いていたところであったので、同校技芸科ヴァイオリン科に再入学し、第四年に編入した。
 点字選定委員に選ばれた彼は、点字の改良と普及に力を集中したなかで、彼の本領は点字音譜の研究であった。ヴァイオリン科に籍を置いていた彼は、「点字唱歌の音譜綴り方」の編纂を思い立ち、点字音譜の研究に没頭した。
 そして、明治26年12月、ついに「国民唱歌集」小山作之助編纂)を点訳するに至ったのである。次いで、同17年3月、「点字唱歌の音譜綴り方」を著すに至る。
 「この二つの書は実に我が国における点字楽典の嚆矢である。
 蓋し、佐藤国蔵氏はこの時代の点字音譜における第一人者であり、氏のこの方面の造詣の深さを語るに充分である。」と「点字発達史」の著書・大河原欽吾氏は絶賛している。かくして、失明の苦痛に悩む盲人の心象表現に最も効果的な音楽教育の重要性に着目していた文部省は、国蔵の点字音譜を基本にして明治43年10月「訓盲楽譜」を発行した。彼のこの功績は盲人文化史に、永く伝えるに足る輝かしい業績である。([盲人に音楽を」による)
 国蔵は明治23年より同27年まで、点字選定委員として点字調査の傍ら「小学校唱歌集」の点字楽譜の創案にあけくれた。
 同28年3月漸くヴァイオリン科を卒業。
 そして、眼科治療と後期医術開業試験への再挑戦をはじめた。
 先づ帝人医科付属病院に入院。
 河本教授の手術を受けた。
 視力低下の悲しみを味わってから満6年、漸く新しい医術によって奇蹟的に視力を回復し、心機一韓医術開眼へかける初志貫徹に邁進した。
 先づ、湯島天神堂に佐藤舜海院長を訪ね、許しを得て、その医局に招ぜられ、医局で働きながら開業試験の準備に没頭。
 遂に同29年の春後期、医術開業試験に晴れて合格した。
 思えば、長い道のりであった。
 初志を貫徹した国蔵は、帰郷前に北里柴三郎先生の門を叩くなど多くの最新の医療施設を訪ね、当代一流の医家たちの教授を戴き、父・意泉を助けて順仁堂を継承する医家として心技を整えた。
 刻苦すること14年、明治30年の初夏、家族の待ち詫びる故郷に帰ることができた。
 いよいよ「いしぇさま(意泉様)」の若先生の活躍が始まった。
 彼は来診、往診の患者を診るだけでなく、教育や行政などの問題にも大きい関心を持ち、翌年より母校遊佐小学校の校医
 のち高瀬隔離病舎医となる。早速すすんで児童生徒、父兄に対する伝染病の勉強会をはじめた。遊佐村に衛生組合の結成に尽力。更には六日町に高砂夜学会を開設し、青年教育を図り、「国力の増強は個人が先づ裕福になることだ」と、和協貯金会を結成する等、帰郷後の彼の働きはまことに驚くばかり、流石、日本点字楽譜の始祖として面目躍如たるものがあった。
 然るに、同42年6月20日、「和協貯金三年記念会」の夜、会終えて帰宅、玄関先で心臓麻痺で倒れる。惜しみても余りある生涯であった。享年42歳。
 Canvas1

■山形県飽海郡遊佐町遊佐字石田7  順仁堂遊佐病院
                0234-72-2522     院長 佐藤卓

|

« 唇があるのは人間だけ | トップページ | 小沢氏民主代表選に立候補 »

02 「うんちく」知ったかぶり」カテゴリの記事

09 遊佐町の関連情報」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1208592/36335570

この記事へのトラックバック一覧です: 「点字音譜の祖」佐藤国蔵:

« 唇があるのは人間だけ | トップページ | 小沢氏民主代表選に立候補 »