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2010年8月 2日 (月曜日)

政府は東北を蔑視し続けた。

 東北地方が、どのような差別を受けて来たかご存じですか。
 前回“なぜ「東北地方」と呼ぶのか”と記載したので、この続きも紹介したい。

 薩長土肥中心の明治政府は、どのように東北を蔑視したか列挙する
■官軍の戦死者を祀るために、明治2年「東京招魂社」(靖国神社)を建立した。
  ※勝者の論理で造られた神社であり、東北の戦死者は祀らなかった。
  その後各地の招魂社(護国神社)にも祀ることはなかった。
  日清・日露戦争で、東北から戦争に出征した戦死者も祀るようになったが、靖国神社に積極的に参拝する東北人は少ない。(特に賊軍にされた藩出身者)
■明治天皇が東北巡幸に際して官軍の墓だけを参拝させた。
  この参拝を計画したのは薩長系の役人だった。
    天皇の御旗の元、薩長は戦死者に対しても差別を続けたことに、巡幸の有難味は半減したという。
■参議・木戸孝允は、「東北辺十が十愚者のみ」と東北を差別した。
■明治政府は、東北を「白河以北、一山百文」と差別した行政が執られた。
■明治政府は、東北各県の県令・知事は薩長土肥の出身者を充てた。
 東北では、土地を治めるお偉方(支配者)は、他国からやって来ると思っている。
 事実、今でも地元から巣立った人材より、中央から呼び寄せる傾向がある。
■佐賀出身の鍋島幹青森県知事は、東北民衆は「無神経の人民」と評し、リコール運動が起きた。
■東北地方の地場産業を育成しなかった
 東北の豊富な地下資源を、政府と癒着した政商(藤田組、古河家、三菱、五代家など)に払い下げた。山形県では、鶴岡の「油戸炭鉱」(1957年2月閉山)や尾花沢の「福舟鉱山」は三菱鉱業に払い下げた。この意味でも、TDK創業者・齋藤憲三が、秋田県にかほ市に地場産業として育てたことは評価される。安易に誘致することではない。
■東北の凶作にも関わらず「一村千人を殺しても苦しからず候」と納税を厳命した。
■戦争では、東北出身の兵隊は一番厳しい戦場に送られ戦死者が続出した。
■軍隊の指揮官、将校は薩長土肥出身者が殆どを占めた。
  「一将功成りて万骨枯る」と言われるが、万骨は東北の兵隊達だった。
  そして、手柄、功労は、これら指揮官に持って行かれた。
■東北の娘達の身売りは、行政機関も協力していた。
  東北地方から遊郭に売られる娘達の人身売買に行政が関与していた。
■近年も、出稼ぎ、集団就職など安い労働力が提供される地とされる。
 
 このように、蔑まされた地域からは、当然の成り行きとして、左翼的傾向Oshin_3shotを持つ人々が育成される。
 かつて、NHKドラマ「おしん」で、渡瀬恒彦演じる共産主義者が「おしん」と逃げ回る場面があったが、橋田壽賀子先生は山形県の置かれた実情を熟知しているからこその脚本と見ていた。
 東北地方の選挙の難しさは、このような背景もある
 
 また、戦前の東北は、凶作で生活は窮乏し、子ども達の環境も最悪を極め、教師達も左翼傾向が強まり生活綴方運動をすすめ、北方性(ほくほうせい)教育が普及した。
 戦後は、山形県山元村(上山市)で無着成恭指導による『山びこ学校』の文Yamabiko集となって復活し、東北の惨状が世間に知られるようになった。
 特に、江口江一少年の「母の死とその後」は文部大臣賞を受賞、映画化され全国からファンレターが殺到し、綴方の注文も多かったというが、江一少年は一切断り昭和42年5月31歳で亡くなった。山形県人の性格・資質がよく表れている。
 また、
  元会津藩・柴五郎は10歳で戊辰戦争を体験するが、『ある明治人の記録』(会津人柴五郎の遺書)の中で、 
 「後世、史家のうちには、会津藩を封建制護持の元凶のごとく伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎、これに協力せりと説くものあれど、史実を誤ること甚だしきものというべし百姓、町民に加えたる(薩摩、長州の)暴虐の挙、全東北に及びたること多くの記録あれど故意に抹殺されたるは不満に堪えざAa300_るなり。」
 と明治政府を酷評した。 
 柴五郎は戊辰戦争直前、親戚に預けられ戦乱を逃れるが、祖母、母、兄嫁、姉、妹は戊辰戦の際自刃している。
 官軍(薩長)は会津城下に侵攻すると鬼畜と化して、町人、百姓、婦女子も殺傷していたことを記録している。
 
 敗者に優しく手を差し伸べる日本人の美徳は、この薩長の仕打ちによって消え去った。そして、負けた相手を容赦しない勝てば官軍の血は、今も色濃く流れている。
 この遺書は、薩長支配に対する東北民衆の偽らざる心情が表現されていると思う。

 最後に、明治26年12月5日「会津藩」松平保容公死後、孝明天皇から賜った辰翰の事実を知った明治政府は、この内容が公になれば、自分達が嘘で固めた歴史観が根底から覆えるとあわてた。
 「会津藩」こそが官軍だったのだ。

 【ご宸翰】
       「堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、
       速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり」文久3年十月九日Gosinkan01


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コメント

木戸孝允の「東北辺十が十愚者のみ」は、どこから引用されたのですか。詳しく教えて下さい。

投稿: ごじょっぱり | 2014年9月16日 (火曜日) 午後 05時06分

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