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2010年8月19日 (木曜日)

「靖国神社」に参拝しない理由

 例年の終戦記念日前後や総理の靖国参拝などに関連して、不本意ながら靖国問題が取り上げられるが、同時に、戊辰戦争で賊軍にされた奥羽列藩同盟に列した藩や彰義隊に連なる多くの東北人にとって、複雑なものがある。
 読んで頂ければ理解してもらえるだろうが、反対意見があっても然りだ。
 先に、左翼勢力や中・韓の靖国批判に組するつもりはないことを断っておく。
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 最初にポイントに触れるが、靖国神社は「勝てば官軍の論理」で建立された神社で、古来からのおおらかな神道の精神に基づいた建てられ方をしていない。その証拠に、大鳥居をくぐると戊辰戦争で司令官だった長州藩の大村益次郎の巨大な像が鎮座しているが、正に薩長、特に長州藩のための神社ではないかと良識ある人は見てしまうのだ。

 東北地方は、
 仙台第二師団のガ島玉砕、第36師団(雪部隊)のニューギニア玉砕はじめ、戦没者の多い地域だが、「靖国神社に参拝すべきだ」とする意見には異を唱える人が多い。

 
 「朝敵は弔わず」、これは賊軍に対する明治政府の一貫した姿勢だった。
 東北(奥羽列藩同盟)の犠牲者をはじめ、、彰義隊、西南の役の西郷隆盛側などは靖国はもちろん、日本各地の招魂社(護国神社)にも祀ることはなかった。
 そして、薩長中心による富国強兵政策の一貫としての軍事強化推進が、その後の日清・日露・大東亜戦争につながったと見るのが自然だし、靖国はその精神的支柱として存在した。
 今なお、“明治政府(官軍側)は素晴らしかったと絶対視”し、賊軍とされた地域のインフラ整備の後回しなど、東北蔑視政策が続くかぎり、多くの東北人が心から靖国神社を参拝する気持ちにはならないだろう。  

 そこには、薩長が天皇を人質同然にした当時の、「天皇陛下=靖国神社だ。文句あるか」という、天皇の威光を利用するだけ利用した空気が流れているGosinkan01_2
 それに比して、京都守護職を務めた会津藩主・松平保容は、孝明天皇から辰翰を賜り、正に官軍 だった。
 明治26年12月5日松平保容公死後、辰翰の事実を知った明治政府は、この内容が公になれば、自分達が嘘で固めた歴史観根底から覆えるとあわてた
 そして、明治政府は密かに大金で譲渡するように圧力をかけたが、会津藩・松平家はこれを頑強に拒否した。
 何度でも繰り返すが会津藩側が官軍薩長土肥(明治政府)側が賊軍だったのだ
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 それに薩長や岩倉具視らの戦略による錦旗の偽造や、孝明天皇の毒殺説も有力だ。これが薩長は「(にせ)官軍」と言われる理由であり、偽(にせ)官軍が天皇陛下の威光を利用するために作ったのが「靖国神社」という図式になる。
 当時は、犯罪者集団の薩長の志士ら、後ろめたさを覆い隠すには、天皇陛下の威光を徹底的に利用する以外に無かったのだろう。

 だから、「靖国」問題には、常に胡散臭さが付きまとう。  
 「天皇陛下=御輿=正義」となり、天皇陛下まで利用するという、やりたい放題のことをやって誕生したのが明治新政府ということだ。
 まあ、共産主義と同じような手法の暴力革命維新)だから何でもありなのか
 それなら、そうだったと隠さずに認めればいいのだ。
 これが、今の人達が賛美し褒め称える明治維新、明治政府の汚いやり方だ。
 考え方を、どのように軌道修正すれば尊敬できるのだ。
 是非、教えて欲しい
 何が正しいかは、いつか歴史が証明すると期待している。

  
 父親はニューギニアからの帰還兵だった。
 遺族会に関連し、恩給欠格者、戦後強制抑留者問題等から、靖国神社には目と鼻の九段会館に山形県或いは地元代表として会議等で良く上京していた。
 用が済むと「千鳥ケ淵戦没者墓苑」参拝は習わしだったが、知る限り靖国神社を参拝したことは一度も無かった。
 昭和50年頃だが、なぜかと確認すると「靖国神社は官軍の神社だ
 俺にも賊軍にされた庄内藩の血が流れている」と意地を語った。
 靖国神社は、東北の賊軍への当てつけ明治政府が作った薩長のための神社だとも言った。
 それに、東北出身者で編制された部隊では、
   「靖国神社で逢おう」という言葉は戦場では無かったと言う。
 終戦で、「薩長支配は終わる。この戦争で裁かれるのは薩長だ」と思ったそうだ。
 この頃は拘りが薄いようだが、父・祖父らの世代は戊辰戦争は最近の戦いだった。
 このように、東北人の多くは、「靖国神社」と「戊辰戦争」は深く連動している。
 だからと言って、中国、朝鮮半島、左翼らの靖国論に与するつもりは全くない。
 

賊軍となった庄内藩が、官軍の戦死者を手篤く祀った例を紹介する。
 ▼ 山形県鶴岡市清川(立川町大字清川)に戦死した長州藩兵の「清川官軍の墓」がある。地元民が弔ってきたが、昭和43年には長州藩出身の岸信介元首相によって顕彰碑が建てられた。
 ▼また、山形県新庄市には「戊辰戦争官軍之墓」がある。
 明治元年7月13日舟形口合戦で戦死した官軍4名の墓所だ。
 ▼そして、官軍についた秋田藩と庄内藩の「横手の戦」では、庄内藩は秋田藩戦死者を横手市の竜昌院に丁寧に埋葬し墓標を建立している。(詳細は下段に記載)
これが、敗者にも優しく手を差し伸べる東北人の自然な振る舞いだ。
 ▼酒田市の光丘神社の官軍墓地
  本殿裏手、境内の外に官軍墓地がある。
  戊辰戦争後、庄内地方に駐屯した約4千名の内、佐賀藩等1千余名が酒田に
  駐屯したが、約一年の駐屯中に8名の病没者を出した。
  日枝神社の厚意によりこの地に墓を建てた。

次に、官軍となった薩長庄内藩の戦死者を貶めた例を紹介する。
 ▼山形県遊佐町吹浦字三崎に「三崎峠戊辰古戦場」がある。
  ここは、秋田・山形県の県境で官軍と「庄内藩」の最後の戦いとなった場所だ。
 1868年(慶應4年)7/13~16亀田藩等西軍と三崎峠にて戦闘が勃発した。
 この三崎峠で戦死した庄内兵の遺体は、見せしめのために引き取ることを許されず長年放置された。そのため三崎は、無数の白骨が転がるという有様が長く続いた。
 戊辰戦争から50年近く経った大正3年(1914)、遺骨はようやく拾い集められることが許されたが、4ダース入り大型ビール箱二つが満杯になるほどだったという。
 拾い集められた遺骨は、供養した上で翌年秋彼岸、この地に埋葬された。
 供養塔はその時建てられたもので、無名の藩士たちの墓碑となっている。
 この話は祖母が良く知っていた。

 官軍(明治政府)は徹底的に東北に対して意地悪をしたのだ
 これが差別でなくて、何を差別というのだ。 

 前回“なぜ「東北地方」と呼ぶのか”と
 「明治政府は東北を蔑視し続けた
 更に、「勝てば官軍、負ければ賊軍」を記載した。
 今回は、東北人の「靖国神社」に対する感情を紹介している。

■明治天皇が東北巡幸に際して、東北各地の官軍の墓だけを参拝させた
 この参拝を計画したのは薩長系の役人だった。天皇の御旗の元、薩長は戦死者に対しても差別を続けたことに、巡幸の有難味は半減したという。
 これは事実だ。Photo_2
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東北の明治維新朝敵は弔わず」(尾崎竹四郎著)
 維新の栄光の影にたおれた、これら奥羽の朝敵、賊軍の数千の霊を招魂社で更に合祀することは禁ぜられた。招魂社は明治2年、維新の犠牲者を祭るために明治政府によって創建され、同12年、靖国神社と改称されたが、賊の汚名をさせられた奥Image0036_2羽の戦死者は、神に祭られることを許されなかったのである。
 東京の靖国神社はもちろん地方の招魂社(のちの護国神社)にも祭られなかった(大江志乃夫『靖国神社』)。
 靖国神社も招魂社も、無名の庶民の言を祭る庶民のためのものでなく、時の権力者の、官製のものであった
 奥羽戦争が終わってかれこれ10年の歳月を迎えようという明治9年、明治天皇は初めて東北を巡幸した。
 この巡幸は東北に恵沢をもたらすものとして謹記されているが、このとき、各地で官軍の墓には勅使を差遣して参拝させたが、賊軍の墓には勅使を出さなかった。
 勅使差遣の判断は明治天皇自身のものとも考えられないが、側近は日本を改革した薩長系の人間たちであった。彼らは天皇を掌中にし、錦旗をかつぎながら、なお奥羽の荒野に死んでいった賊の将兵には参拝を拒否したのである。
 明治維新も、裸にしてみれば、やはり、官と賊、藩と藩の仇敵意識がしつこくからみついていたいたこともわかる。
 それについて思いだす。
 敵味方の区別なく戦死者を祭る日本古来のしきたりに従った例--
 庄内藩は破竹の勢いで総督府軍と秋田軍を追撃し、横手城を攻略した。庄内の指揮官は松平甚三郎と酒井吉之丞、横手の城将は秋田の家老戸村十太夫の子大学、わずか20歳であった。父十太夫は秋田にいて藩の機務に参画して不在、若手ながら城を守っていだ。城兵は一握りにすぎな い。
 庄内軍から、しきりに流血を避け投降するよう勧告された。
 これを退けて大軍を迎えたが、わずか一日で落城した。
 翌日、庄内軍は城のあちこちに横たわる死体を集め、城北の竜昌院に運んで葬り、憎を呼んで読経、供養し、「佐竹家名臣戸村氏志士墓」と書いて標柱を建てて前線に立ち去った。標柱の背面には、「奥羽義軍葬埋礼拝感泣して過ぐ。惜しいかな、この人々の氏名を知らず。もしこれを知る者あらは、あきらかに追記せんことをこいねがう」と書きつけた。

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コメント

こういう事も含めて知っておかないとけないと思います。
靖国だけでなく、靖国に行くなら、ここもね、という形でやはり、総ざらえをかねての、いわゆる、賊軍とされて貶められてしまった人々の鎮魂社の設立は大事でしょう。
一応、安倍首相は、靖国神社境内にある、鎮魂社には参ったそうですが、それではね。
また、そのアクションの意味をマスコミは理解しないし伝えない。
今のままの靖国の有り方では、純粋に例えプロバガンダであったとしても、それを信じた人たちがいて、そこに祀られていると信じている、民草の英霊もおられるでしょうし、かまびすしい事甚だしい状態は問題だと思います。
もちろん、中韓の、性根卑しい批判には、反吐が出ますが。

投稿: しらす | 2014年1月31日 (金曜日) 午後 10時25分

感激しております。
私は「八重の桜」の会津若松市に居を持っております。
若松氏の歴史には当然貴方様のようなことが書かれております。
白虎隊が飯盛山で自刃しました。それを見た農夫が哀れに思い近くの寺に丁重に埋めました。しかしそれは官軍に知れ渡り、墓を掘り起こし彼らを元の飯盛山に当時のようにおけといわれた。
若松市内は戦場になり死体がいたるところに転がって、腐敗してきた。それでも寺に埋めることはならずと官軍に言われた。このようなことは舞著に暇がありません。今、原発で苦しんでいる人たちや津波で家を奪われた方々、3年になるのに酷い状態です。これが同じ日本なのだろうかと疑問に思います。拙いコメントで申し訳ありません。

投稿: 安達光義 | 2013年12月30日 (月曜日) 午後 02時34分

「東北人にとって...」は無いと思います。

これが事実であっても、わが国の為に命を捧げた英霊が祀られていることは事実です。

投稿: 東城 仁 | 2010年8月21日 (土曜日) 午前 09時42分

初めまして。鶴岡市に生まれ育ち、月山と鳥海山と庄内平野をこよなく愛し暮らしている者です。数日前に貴ブログに辿り着き、とても興味深く拝読させて頂いております。のほほんと生きて来た自分にとって、とても勉強になります。有難うございます。この度の靖国と戊辰戦争に関する記事、眼から鱗の気持ちで読ませて頂きました。関係する内容をもっともっと読み込んでいきたいと思っています。勉強不足の自分がこのように不躾にコメントさせて頂き、申し訳なく思います。
尾崎竹四郎著の「東北の明治維新」さっそく読みたくて探してみましたが、中々手に入りづらいようです。
ひとつお聞きしたいのですが、「今なお続く、“官軍(明治政府)を絶対視”した、東北蔑視政策が続くかぎり…」という内容について、もしよろしければもう少し詳しく御教授願えれば有難く思います。宜しくお願いいたします。

投稿: まこと | 2010年8月20日 (金曜日) 午前 12時35分

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