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2010年8月13日 (金曜日)

橇木山(そりぎやま)の思い出

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 鳥海山近くの皆さんは橇木山(そりぎやま)のことを覚えていますか。
 簡単に言えば、山から木を橇で降ろす作業のこと。
 紹介は冬の季節がいいのだが、「遊佐の刺し子」の写Photo真から当時を思い出した。
 思い出したときに、直ぐ文章にしないと忘れる年齢になった。
 橇木山のイメージは、この写真で分かると思う。

 昭和30年代中頃の昔話だ。
 山形県遊佐町には、「橇木山(そりぎやま)」と呼ぶ風習があった。
 鳥海山の概ね3合目辺りの山麓から、毎日の煮炊きから暖房用の「」にする木を「橇(そり)」で降ろす作業だ。
 この薪にする樹木は「ブナ科」の「クヌギ」「コナラ」などが殆どだった。
 この木の切り出しは、稲の収穫が終わった秋口に、それぞれの村々に指定された山で行う。
 家々で必要な分量を、長さ概ね1m50cm程度に切り倒して積んで置く。当然、雪が積もれば隠れるから、積んだ木の上に長目の棒を差し、目印0039lを付けて置く。

 そして翌年の、鳥海山の天候が安定する1月下旬から2月上旬ころに、これを木の橇で降ろす。
 この降ろす作業を「橇木山(そりぎやま)」と言った。
 言葉の謂われは知らないが、字のとおり「山から橇で木を下ろす」ことと思う。
 この「橇木山」は子供の目からも、一番厳しく危険な作業で、「行きたい」と告げても、なかなか連れて行ってもらえなかった。
 近所の同級生から「橇木山に行って来たぞ」と自慢げに言われるのが悔しかった。
 ようやく許可が出たのは、小学校5年の冬だった。
 身長も150センチ位になり、何とか着いて来れると判断されたのだろう。

 行く数日前には、空の橇を1時間も引いて鍛えておけと言われた。
 当時、雪がよく積もった時代だった。
 空の「木の橇」を引くと言っても、雪道の坂道を登るのだから大変だ。
 雪深いところでは太股辺りまで埋まった。
 履く靴も長靴しかない時代だ。長靴の上に更に藁靴も重ねて履いた記憶もある。
 いよいよ出発の日は、みんな早起きだ。
 祖母からは、「朝飯はシッカリ食べろ。無理するな、吹雪で前が見えなくなBandoriっても、橇の轍(わだち)から外れるな」と、まるで戦地に向かうように注意される。
 また、新聞紙数枚を下着の上から腹巻きのように巻き、ハンドで締められた。衣類は、毛糸のセーターの上に厚手のアノラック、更にバンドリも付けて格好だけは本格的だ。
 祖父のものだったと言う、耳当て付きの帽子も被らせられる。
 そして、家に一個しかなかった白金カイロも持たされた

 祖母は、新聞を巻きながら、八甲田山で雪中行軍で助かった兵隊の話をしていたが、後に映画「八甲田山死の彷徨」で、緒方拳演じる兵隊が同じようにしていたことで、年寄りの知恵に改めて感心した。この遭難事件は明治35年発生で祖母の誕生年だが、東北各地には、「山を舐めたら怖ろしい目に遭うぞ」と言い伝えられていた。
 食料は、梅干し入りの塩漬け菜っぱの握り飯を腰に巻いて、朝6時前の薄暗いうちに、両親と三人で出発する。
 当初は、野沢村外れの万助道から鳥海山に向かってなだらかな傾斜が続くが、白井新田を過ぎて人家が全くない山の懐に入ると、景色も雪の深さも質も違って来る。
 雪の無い季節に来たことがあっても、真冬の白一面の山は恐怖さえ感じる。
 安全のため、村々で山に入る日を決め、大勢で行くようにしていたのだろう。
 近所の人から、「明日は山に行くぞ」と誘い合う声を聞いたことがある。
 山中で知った人に出会うと、「ほう、頑張ってンのー」など声を掛けられ一人前になった気分になる。
  そして、4時間も掛けて目的の場所に到着するが、案の定、切って置いた樹木は2m近い雪に埋まっている。これをスコップで掘り起こすのだから大変だ。
 「さあ、吹雪が来る前に積んで帰るぞ」と父親に言われ、懸命に掘り起こすMonotaro_3365905
 
 次は、橇に積むのだが、左右に崩れないようにシッカリ固定するにはコツがいる。
 近くでは、赤色塗装のパワーウインチで固定させる人もいるが、我が家には無かった。
 その点、父親は軍隊の工兵隊仕込みのロープワークは巧かった。 見よう見まねで覚えたが、今もやろうと思えば出来る。
それにしても、軍手での締め付けは手が凍えなかなか難しかった。
 最初は大人の半分ほどの量にされた。
 今度は山を降りるときの要領だ
 「事故は下りで起きるんだぞ」と注意される。
 まず、橇の足の左右の後ろに、ブナの小枝の部分を一塊りにして「凧の足」のように取り付け、これに足乗せてブレーキと左右に操縦する要領を教わる。
 右足に体重を乗せれば右ブレーキになり、橇は右に進む、左はこの逆だ。
 このコツは直ぐに飲み込めた。
 母親が先頭、父親が後ろになり挟まれて山を下る。
 「下り坂でもスピード出すな」と何度も注意される。

 事実、スピードを出し過ぎて、橇ごと谷に転落する事故は例年あった
 登りは4時間も掛かる距離だが、帰りは短時間で戻ることが出来た。
 家に帰ると疲れがドッと出た。
 一日に二度も行く人がいたが、感心して見ていたものだ。
 初めて行ったときは天候にも恵まれ、庄内平野、日本海の水平線Photo_2まで一望出来たが、緊張していたことだけが記憶に残っている。

 この「橇木山」も、昭和37・8年頃には無くなった。
 田舎の生活も、戦後の生活改善運動が進み、どの家庭でもプロパンガスの使用が一般化し、薪を使う習慣が一気に無くなったからだ。
 この生活改善運動で象徴的だったのが、台所の改善で、プロパンガスの使用と蛍光灯の設置から始まったように記憶している。
 影を作りにくい蛍光灯は、台所で調理する主婦の手元を明るくし喜ばれていた。
 また、囲炉裏は暖房を兼ねており、いろり端で煮炊きする生活も良かったが、プロパンガスの強い火力は料理のレパートリーも広がっていた。

 「橇木山」のことを今思うと、鳥海山の麓は「里山」として、ブナ林は人間生活と一体だった。ブナ林は、薪にする伐採程度で絶滅することはない。
 ただ当時、ブナの大切さに気づいている人は少なかったように思う。
 あるいは、今も少ないのかも知れない。
 ゴルフ場、スキー場などの開発で年々少なくなっているという。
  吹浦海岸の夏でも食べられる牡蠣貝も、美味い「刈屋の梨」も、米は勿論、その他の農産物も鳥海山のブナのミネラルが加味されている。
 その恩恵を一番受けているのは、その地域で生活している人達なのに、平気でブナ林を破壊する。人間の業を見る思いだ。

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