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2010年8月 2日 (月曜日)

なぜ「東北地方」と呼ぶのか

 なぜ、「東北地方」と呼ぶかご存じですか。Map_canvas_3
 
 古代から幕末まで、「征夷大将軍」という絶対権力者が「東北の地」を征伐する役目を担っていた。
 征夷大将軍の「」は、蝦夷(エミシ)の「」だ。

 古代律令国家の支配地域は、出羽国陸奥国の土地、エミシの土地を征服することによって拡大してきた。
 この「征夷大将軍」に代わって権力の座に就いたのが、薩長土肥を中心とした「明治政府」だった。

 東北地方は本当に「東北」に位置しているか。
 長く疑問に思っていた。
 首都東京から見た「東北地方」は、東北(45度)方向でも、北北東(22.5度)でもない。山形県の鶴岡や酒田市は、首都東京のほぼ真北にある。

 それでは、なぜ「東北地方」と言うのか
 京都、鳥羽・伏見の戦いから始まる「戊申戦争」において、侵攻する官軍側の進軍路、向かう方向、侵攻する方角を指していた。
 京都から主戦場となった会津は、ほぼ45度の東北に位置している。
 答えは、京都から45度方向が「東北」だった。
 さらに追加説明するなら、「東北」は陰陽道では艮(うしとら)、鬼が出入りする方角で、万事に忌み嫌われた方角だ。この縁起の悪いこの語を、薩長が意識的に使用したものであろう。実に、当時の薩長の意地汚さが見えてくる。
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 また、「東北の地」を「みちのく」と言うことがある。
 「道の奥」に由来し、古代国家の東山道と北陸道の奥地を指しているが、歌枕では陸奥にのみ用いて出羽には用いなかった。

 東北の地は長い間、大和朝廷から見て最果ての地、野蛮人が住む土地、或いは植民地としての土地、武力征服の土地と見られてきた。 
 そして、幕末、「薩長政権」に対抗した「奥羽列藩」の敗北が、近代の歴史に陰を落とす結果となり、ハンディを負うことになった。
 「奥羽列藩」の奥羽は「陸」と「出」の総称であり、ごく普通に「奥羽地方」や単に「奥州」と言えばいいのに明治政府はそれを避けた。
 そして、「戊辰戦争」で負けた東北地方は「賊軍」として、政治・経済・産業、地下資源の利益、道路、鉄道網、港湾などのインフラ整備など、全ての面で明治政府から東北蔑視、差別の対象とされ現在に至っている。

 現在でも、関西や東京の企業の労働者確保としての進出が目立つが、これら企業は、東北自体の生活基盤を安定させ発展に寄与することは少ない。
 「東北の後進性」は意図的に作られたのだ
 日清戦争、日露戦争、大東亜戦争時には、東北出身の兵隊は意識的に危険地帯に配備されている。当然ながら、指揮官、将校は薩長土肥出身が占めた。
 「一将功成りて万骨枯る」と言うが、万骨は東北の兵隊達だ。

 三大関所の一つ「勿来(なこそ)の関」は、中央から見て「こっちに来るな」と3seki_2言う意味だからひどい話だ。
 この考えは現代社会にもあるのだろうか。
 正式に質問すれば、誰でも「そんなものは、無い」、「負け組の被害者意識が強すぎる」と言うことになる。

 歴史に、「もし(IF)」は禁物だそうだが、これが逆だったら、東北地方にどんな歴史が形成されたであろうか。

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