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2010年8月27日 (金曜日)

「死の商人」スネル兄弟

 革命や戦争前夜は、より高性能の武器を調達するため「死の商人」が暗躍する。
 今も昔も、これからも同じだろう。
 日本でも明治維新以降、このような人達に恰好の活躍の場を提供した。  
 
 日本の代表的「死の商人」として、坂本龍馬大倉喜八郎のことは以前記載した。Images
 「死の商人Merchant Of Death」とは、営利目的で敵味方を問わず兵器を販売する人物・組織への蔑称、転じて営利目的で兵器を販売し巨万の富を築いた人物・組織への蔑称だ。
 尊敬に値する人物かどうかは個人の勝手だが、チャンスをものにしたと評価する日本人は多い。商人国家だからだ。

 今回は、庄内藩や会津藩、米沢藩、長岡藩など奥羽越列藩同盟と取引があった「スネル兄弟」のことを紹介したい。遊佐郷・升川出身の佐藤藤佐(とうすけ)の孫、松本良順が仙台から江戸に逃れる際、スネルのバルカン号に乗せてもらったとの逸話もある。

 幕末、日本で暗躍した外人の「死の商人」は、西グラバーのスネル兄弟と言われる。長崎を拠点にした、トマス・B・グラバーのことは、日本人妻、グラバー邸や坂本龍馬との関係で有名だが、「スネル兄弟」のことは殆ど知られていない。やはり賊軍とされた側の協力者だからだろう。出身地も、ドイツ、オランダ、又はトルコ系ともいわれ、兄弟の容姿もよく似ていたので、写真もどっちか分からないという。

 「スネル兄弟」は、のジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell日本名・平松武兵衛)とエドワード・スネルEdward Schnellのことだが、日本名・平松武兵衛も兄弟が共有していたとも、名前は不明だが更に兄もいたという説もあるという。
 庄内藩と付き合いがあったのは、弟の「エドワード・スネル」と言われる。
 スネルは、米沢藩の記録では、「山師的商人で、年頃30歳前後、眉目清秀、実に美男子」とあるそうだ。

 庄内藩が幕末の戊辰戦争(1868~1869年)で、全戦全勝だったのは、近代的装備を揃えていたからと言われる。慶応4年4月、庄内藩は清川口、吹浦口、瀬場、羽黒、大網口に派兵し、国境を固め官軍を阻止した。この戦いを優位に進めながら降伏したことが、戦後処置が有利に運んだと言われる。
 当時、使用した銃はアメリカ製だった。
 庄内藩を資金面で支援したのは酒田・本間家で、当主の本間光美(こうび)はエドワード・スネルとの大量の武器取引の記録がある。Canvas1
 約定書には、
 短シャープ騎兵銃600梃、
 スプリングフィールト銃300梃、
 短エンフィールド銃70梃、
 シャープ騎兵銃弾60万発などとある。
 これらの銃は、南北戦争American Civil War, 1861~1865年)で使われた中古銃で、当時の日本に大量に輸入され、戊辰戦争の主力武器として使われことが知られている。
 つまり、アメリカの内戦・南北戦争が終結して3年後に勃発しているが、日本の内戦・戊辰戦争は、アメリカのお下がりの武器で戦ったことになる。
 因みに、1877年(明治10年)の「西南の役」当時は、世界中から武器弾薬が日本に集まり、世界で一番の銃保有国になった頃もあったそうだ。
 
 ウィキペディアに「スネル兄弟」の後年のことが書いてあった。
  兄・ヘンリーは明治維新後、1869年にカリフォルニア州に会津若松の人々約40人と共に移住した。サンフランシスコの北東にあるゴールド・ヒルに「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。しかし、日本から持ってきた茶や桑などが育たず、1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。1871年4月、ヘンリーは金策をしてくると言い、日本へと向かったとされるが、その後、彼がこの地へ戻ってくることは無かった。日本で秘密裏に暗殺されたとも言われる。弟は新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた。1882年頃まで日本国内で活動していたが、それ以降の消息は不明。とある。

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