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2010年8月 7日 (土曜日)

勝てば官軍、負ければ賊軍

 「勝てば官軍、負ければ賊軍」、
 この言葉は「奇兵隊内閣」と称する、民主党の政治手法、民主党員の発言に強く現れている。言葉の裏には、敗者を徹底的につぶす思想があるようだ。Image0036_2
 敗者にも、優しく手を差し伸べる日本人の美徳は消えた。

 「東北の明治維新」尾崎竹四郎著(青森出身1915~2003)を読んでいる。
 約140年前の明治維新では、東北は明らかに犠牲者だった。著者は今も依然として残る東北軽視に対して怒りをこめて記述する。
 この本の「勝てば官軍、負ければ賊軍」の項から、第19代内閣総理大臣、原敬のことを紹介したい。

 幕末に、薩摩、長州の政府軍と戦って破れた東北地方の諸藩は、賊軍の烙印を押される。Hara
 盛岡の南部藩も同様だった。
 原敬は、南部藩家老の家に生まれた。しかし、平民として生きる決意をした。そして明治35年、46歳で故郷・盛岡から衆議院議員に立候補し当選する。
 妻に原敬が語っていた。
 「自分は61歳を限りとして、政治家生活を退くつもりであるが、もし、それ以上政治にかかわることがあれば、命はないものと思わなければならぬ」と。
 そして予言通り、大正10年(1921)11月東京駅構内で暴漢・中岡艮一(こんいち)に暗殺される。暴漢は高知土佐・山内容堂の藩士中岡精の長男。祖父・中岡正は維新の志士だった。
 原敬総理在任は1918年9月29日~1921年11月4日まで、平民宰相として、国政の最前線で活躍する日々だったが、志士の孫から暗殺された。
 民主党の小沢一郎元幹事長は、尊敬する政治家として原敬を挙げている。
-----------「東北の明治維新」から-------------
平民宰相・原敬、号は一山
 「かくして南部藩(盛岡)は滅びた。しかるに、天は、一人の復讐者・雪辱者を残した。健次郎(原敬)はこの時の無念さを、深く頭にきざみつけて、終生忘れなかった」
 前田藤山は『原政伝』にそう書く。
 原敬は、盛岡藩家老加判役という藩中の名門に生まれた。
 後年彼は、号して「一山」また「逸山」といった。
 西南薩長の勝利者、官軍が、奥羽をさして「白河以北一山百文」といった。
 原はこの嘲笑侮蔑のことばのなかからその号を選んだ。

 彼は、50年にわたる官界、政界の処世で、硬軟二つのあらゆる術策を講じながら、藩閥政府のなかを遊泳し、最後は藩閥内閣の寺内正毅政府がシベリア出兵の失敗と米騒動で転覆したあと、大正7年9月、はじめての政党内閣を組織した。
 奥羽が薩長に敗れ、盛岡藩が滅んで51年、半世紀の苦闘のすえ、原は天下の権を山県有朋ら藩閥の手から奪い返した---そう考えたかもしれない。

 その前の年、大正6年9月、当時、政友会総裁として政権を待っていた原は盛岡に帰った。明治元年からちょうど50年目である。このとき、旧盛岡藩士の人たちは、相集って「維新殉難50年祭」を挙行した。
 場所は、維新のとき家老楢山佐渡が自刃した報恩寺が選ばれた。
 このとき原が殉難の魂塊にささげた祭文は、「同志相謀り、旧南部藩戊辰戦没殉難者50年祭、本日をもって挙行せらる。顧みるに、昔日もまた今日の如く、国民誰か朝廷に弓をひく者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍、負くれば賊(軍)との俗謡あり、その真相を語るものなり。
 今や国民聖明の沢に浴し、この事実天下に明らかなり。諸子もって瞑すべし。余たまたま郷にあり、この祭典に列するの栄を荷う。すなわち赤誠を披樫して諸子の霊に告ぐ。大正6年9月8日 旧藩の一人 原敬

 『原敬日記』に、この日のことを、
 「他にいかなる評あらんも知らざれども、余の観念を率直に告白したるなり」と書きつけている。
 また50年祭挙行の相談を旧藩関係者から受けたときのことを『日記に』、
 「当時戦死したる者は、もとより主家のために死を致せし者なり。また当時、誰も皇室に弓を引く考えなく、いわゆる真の勤王なりとて、奥羽同盟せしものなれば、今日においてその祭典を営むは彼らの言を慰むるのみならず、また風教の一端ともならんかとも思う」と記している。風教の一端とは、明治政府側の手によって書かれてきた維新史の訂正を、奥羽の立場から呼びかけたものかもしれない。
 大正元年、原内閣のとき、第一次世界大戦が終わり、講和が結ばれた。
 そのとき、論功行賞があった。
 講和会議の全権委員西園寺公望は公爵に、牧野伸顕は子爵、外相内田康哉は伯爵、蔵相高橋是清は子爵、海相加藤友三郎、陸相田中義一、そのほか関係大使に至るまで、男爵が授けられた。 
 しかし原は爵位を固辞した
 日本の歴代首相で名門出身を求めれば、それまでは西園寺が筆頭である。つぎは家老加判役の原敏となる。
 かつての下級武士が、元勲、功臣を自称し、栄爵に飛びついて特権の座に傲然とかまえる薩長の姿を、50年間みせつけられてきた原敬すれば、爵位にこおどりする人びとをあわれと思ったかもしれない。
 彼の爵位拝辞には、なり上がり者に対する軽蔑と薩長に対する抵抗がこめられていたろう。彼が権力的であった半面、自ら「平民宰相」と称したことは、維新の苦難に対する痛恨の思いがあったのでないか。
 原は安政3年の生まれ、明治元年は13歳のとき。少年時代の敗戦のくやしさが、一生、体内に燃え続けていたのかもしれない。
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旧憲法下   新憲法下
就任順 名 前 出身県 就任順 名 前 出身県
1 伊藤博文 山口 32 吉田 茂 高知
2 黒田清隆 鹿児島 33 片山 哲 神奈川
3 山県有朋 山口 34 芦田 均 京都
4 松方正義 鹿児島 35 鳩山一郎 東京
5 大隈重信 佐賀 36 石橋湛山 静岡
6 桂 太郎 山口 37 岸 信介 山口
7 西園寺公望 京都 38 池田勇人 広島
8 山本権兵衛 鹿児島 39 佐藤栄作 山口
9 寺内正毅 山口 40 田中角栄 新潟
10 原 敬 岩手 41 三木武夫 徳島
11 高橋是清 東京 42 福田赳夫 群馬
12 加藤友三郎 広島 43 大平正芳 香川
13 清浦奎悟 熊本 44 鈴木善幸 岩手
14 加藤高明 愛知 45 中曽根康弘 群馬
15 若槻礼次郎 島根 46 竹下 登 島根
16 田中義一 山口 47 宇野宗佑 滋賀
17 浜口雄幸 高知 48 海部俊樹 愛知
18 犬養 毅 岡山 49 宮沢喜一 広島
19 斎藤 実 岩手 50 細川護熙 熊本
20 岡田啓介 福井 51 羽田 孜 長野
21 広田弘毅 福岡 52 村山富市 大分
22 林銑十郎 石川 53 橋本龍太郎 岡山
23 近衛文麿 東京 54 小渕恵三 群馬
24 平沼騏一郎 岡山 55 森 喜朗 石川
25 阿倍信行 石川 56 小泉純一郎 神奈川
26 米内光政 岩手 57 安倍晋三 山口
27 東条英機 東京 58 福田康夫 群馬
28 小磯国昭 栃木  59 麻生太郎 福岡 
29 鈴木貫太郎 大阪  60 鳩山由起夫  北海道 
30 東久邇稔彦 京都 61 菅 直人 東京 
31 幣原喜重郎 大阪  62    

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