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2010年8月26日 (木曜日)

順天堂と遊佐町の深い関係

 順天堂と山形県遊佐町の深い関係を紹介したい。1213867193
 「順天堂大学」は箱根駅伝では、常に上位入賞し、その名は全国に知られる。この大学の創立は約170年前。医学部は順天堂医院、静岡、浦安、越谷、東京江東高齢者、練馬の6附属病院を擁する。東京では、文京区本郷と練馬区高野台の「順天堂」が特に知られ、どちらも、仕事では何度も訪問している。
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 この大きな大学や病院が、山形県遊佐町と密接な関連がある。
 この順天堂を作った「佐藤泰然」は、山形県遊佐郷・升川の佐藤藤佐(とうすけ)の長男。藤佐(とうすけ)は、1775年遊佐郷、升川・次郎佐ェ家で生まれている。
 藤沢周平の、庄内藩転封阻止を題材にした「義民が駆ける」で「三方国替え」のことが世間に知られるようになったが、この中心人物が藤佐(とうすけ)。転封阻止は1840年、67歳のときだった。

 このとき既に、長男・昇太郎(後の泰然)は長崎で西洋医学を学び、江戸に戻り天保9(1838)年、薬研堀の地(中央区東日本橋・薬研堀不動院内)にオランダ医学塾「和田塾」を開設している。順天堂は、ここが出発点日本最古の西洋医学塾とされる。
 1843年「和田塾」が、佐倉藩主・堀田正睦に招かれ、現在の千葉県佐倉本町81に移り、医学塾「順天堂」を開設。「順天堂」の「順天」とは”天道にしたがう”の意味。180pxjun_matsumoto

 そして、ここから多くの人材が育つことになる。
 特筆されるのは、佐藤泰然の次男・松本良順は明治6年「初代陸軍軍医総監」に就く。佐藤藤佐の孫に当たる。
 松本良順は咸臨丸の船医を勤めているが、同じ船に升川出身の鉄道の開祖・佐藤与之助(佐藤政養)も同船していたという。
 二人は、郷里のどんな話をしたのだろうか。
 また、松本良順は1868年戊辰戦争が勃発すると、師弟を伴い会津に向かい仮設の病院を設け負傷者の救護に当たった。
 これが朝敵に協力したことになり官軍に追われる。
 逃れるため山形や仙台に逃亡する。
 そこで、塩釜に武器商人、エドワード・スネルのバルカン号が来ていることを知り、この船で実父の住む横浜村に戻るが、ついに捕まり、1年余も幽閉され、明治3年放免される。B05_vol08_01
 そして、明治4年には明治政府の山形有朋に請われ軍医頭に、明治6年には「初代陸軍軍医総監」に就任する。尚、良順はポンペとともに長崎大学医学部の創設者でもある。晩年は大磯に住み、湘南発祥の地として大磯海水浴場を広めた。大磯照が崎に、初代陸軍軍医総監『松本良順』を顕彰する謝恩碑が立っている。

 松本良順の生涯を描いた小説がある。
 吉村昭著『暁の旅人』、司馬遼太郎著『胡蝶の夢』。
 遊佐町の人は勿論、庄内地方の皆さんには、特にお奨めだ。
 ただ、いずれの本も遊佐のことは殆ど出てこない。
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 このように、遊佐町に縁がある方々が歴史に名を残している。
  先に紹介した、「順仁堂」・遊佐病院佐藤国蔵先生も、順天堂二代目佐藤舜海(尚中)のもとで、医学修業書生として学んでいる。
 「順仁堂」は順天堂を倣ったものだろう。

■順天堂大学医学部附属順天堂医院
   東京都文京区本郷3-1-3  大代表 03-3813-3111
 
■順天堂大学医学部附属 練馬病院      
   東京都練馬区高野台3丁目1番10号 代表電話番号61n5amo9ql__ss500__303-5923-3111  

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