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2010年8月に作成された記事

2010年8月31日 (火曜日)

鳩山前首相らの調整は失敗と見た

 鳩山前首相らの調整は失敗し、小沢前幹事長と菅直人総理の会談は行わな25い可能性が高いとみていたが、急遽午後5時15分頃から会談する動きがあるという。
 
 小沢氏は8月31日午前、衆院第一議員会館の事務所で側近議員に「準備もちゃんと万端進めてくれ」と指示し、臨戦態勢を崩さない構えをみせた。
 「菅直人首相と会う予定はあるか」との問いかけに対し、
 「いや、ありません」と答えたという。

 間もなく、民主党本部で会談が行われるが、果たして、小沢前幹事長は出馬を取り消すのか、いずれにしても、民主党の談合体質は明らかになった。
 二人が会談にこぎつけたのは、お互いの顔を立ててのことか、まだ、鳩山前首相らの調整が成功したとは言えない。
 31日夜、「仲介役」を買って出た鳩山氏は、周辺に「ボクはいったい、何だったんでしょうね」とぼやいたという。
 国民不在の、ギラギラした民主党の権力闘争であることに間違いない。
 さて、どっちに軍配が上がるのか、暫く面白い政治ショーが続く。

 それにしても、8月31日の新聞各紙は的はずれだった。
 「小沢氏不出馬強まる」(毎日朝刊)、
 「小沢氏不出馬で最終調整」(夕刊)、
 「小沢氏不出馬で調整」(産経)、
 「対決回避へ調整大詰め」(日経夕刊)、
 「小沢氏 代表選不出馬も」(読売朝刊)、
 「菅・小沢氏 対決回避へ調整」(夕刊)
 「小沢氏と対決回避も」(東京)
 などと、こんな調子だ。
 小沢氏の出馬の意志が固いことは、現場の記者は分かっていたはずなのに、各新聞は社の方針として、小沢を首相にさせたくないという、意地汚さが根底にあるらしい。
 
 今日8月31日の動きは「産経」が良く情報を提供していた。

  • 【民主党代表選】菅・小沢会談「午後5時から」 民主・江田氏
  • 【民主党代表選】首相と小沢氏は会談へ 菅陣営は首相一任 「人事、取引せず」
  • 【民主党代表選】首相の元に“主戦派”続々集結 岡田 前原 蓮舫…
  • 【民主党代表選】小沢氏、首相との会談予定「ありません」
  • 【民主党代表選】前原氏が激突回避の動きに「不透明な取引するな」と異論
  • 普天間移設・V字、I字の2案公表に、「地元の理解なく進まない」と外相
  • 【民主党代表選】三者会談で対立回避模索も小沢氏は「臨戦態勢」指示
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    ■三者会談で対立回避模索も小沢氏は「臨戦態勢」指示 2010.8.31 13:53産経
    菅直人首相と小沢一郎前幹事長が31日午後、民主党代表選(9月1日告示、14日投開票)への対応をめぐり会談する。鳩山由紀夫前首相と輿石東参院議員会長も同席し、対立回避に向け大詰めの協議を行う。これに先立ち、小沢氏は31日昼、国会内で鳩山、輿石両氏と3者会談を開き、対応を協議した。
     
    ■前原氏が激突回避の動きに「不透明な取引するな」と異論 2010.8.31 14:26産経
     前原誠司国土交通相は31日の記者会見で、民主党代表選をめぐり、菅直人首相(党代表)と小沢一郎前幹事長の会談で、小沢氏の出馬回避を探る動きがでていることに関し、「国民の目からみて不透明な取引をするべきではない。
     ポストを約束して一本化するのは厳に慎むべきだ。代表選をしても党が割れることはない」と強調、警戒感を示した。
     小沢氏を批判してきた蓮舫行政刷新担当相も会見で「『トロイカ』プラス1(輿石氏)が確定したとは思っていないので感想はない」と語り、不快感をにじませた。

    ■小沢氏、首相との会談予定「ありません」 2010.8.31 14:28産経
     民主党の小沢一郎前幹事長は31日午後、鳩山由紀夫前首相らとの会談後、記者団の 「菅直人首相と会う予定はあるか」との問いかけに対し、「いや、ありません」と答えた。

    首相の元に“主戦派”続々集結 岡田 前原 蓮舫…2010.8.31 15:37産経
    菅直人首相は31日午後、衆院第1議員会館の個人事務所で、9月1日告示の民主党代表選への対応をめぐり、菅陣営の主な閣僚、議員と協議を始めた。小沢一郎前幹事長との会談について、陣営の意思統一を図ろうとしているものとみられる。
     主な出席者は次の通り。
     ▽枝野幸男幹事長▽阿久津幸彦首相補佐官▽渡部恒三元衆院副議長
     ▽岡田克也外相▽長妻昭厚生労働相▽蓮舫行政刷新担当相
     ▽安住淳選挙対策委員長▽鉢呂吉雄元選対委員長▽北沢俊美防衛相
     ▽寺田学首相補佐官▽石井一副代表▽岡崎トミ子参院議員
     ▽土肥隆一党代議士会長▽前原誠司国土交通相▽野田佳彦財務相
     ▽玄葉光一郎公務員制度改革担当相(党政調会長)

    ■首相と小沢氏は会談へ
      菅陣営は首相一任 「人事、取引せず」2010.8.31 16:12
     前原誠司国土交通相は31日午後、衆院議員第1議員会館での菅直人首相と菅陣営の閣僚、議員との会合後、記者団に対し、同日中に首相と小沢一郎前幹事長の会談が行われると明言した。前原氏は「挙党態勢はしくが、人事の取引はしない(ことになった)」と語った。別の議員は、会合の出席者は対応を首相に一任したことや、会談は首相と小沢氏の2人だけで行われ、鳩山由紀夫前首相と輿石東参院議員会長が加わった「トロイカ体制」プラス1での会談にはならない-と説明した。出席閣僚の一人は「代表選の候補が一本化するかはまだ分からない」と語った。

    菅・小沢会談「午後5時から」 民主・江田氏 2010.8.31 16:20
     菅直人首相、民主党の小沢一郎前幹事長 民主党代表選をめぐり、菅直人首相と国会内で会談した江田五月前参院議長は31日、首相と小沢一郎前幹事長との会談が同日午後5時から行われるとの見通しを明らかにした。
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    民主党代表選を巡る主な経緯
    7月11日 参院選で民主党が大敗
      29日 菅直人首相が衆参両院議員総会で参院選大敗を陳謝、代表選出馬を表明
    8月 5日 両院議員総会で代表選を9月1日告示、同14日投開票と正式決定
      19日 小沢一郎前幹事長が鳩山由紀夫前首相のグループの研修会に出席
      23日 首相が衆参新人議員らとの懇談会スタート(~25日)、
           3年後の衆参ダブル選挙に言及
      24日 小沢氏が鳩山氏と会談、首相の政権運営に「大丈夫か」と疑問呈す
      25日 首相が鳩山氏と会談、「脱小沢」継続を伝達
      26日 小沢氏が鳩山氏と会談後、代表選出馬を表明。鳩山氏は小沢氏支援を明言
      29日 首相が鳩山氏と会談
      30日 小沢氏が鳩山氏、輿石東参院議員会長と会談
        31日  小沢氏、鳩山由紀夫前首相と輿石東参院議員会長も同席し会談。
                 前原氏が激突回避の動きに「不透明な取引するな」と異論
                 小沢氏、菅直人首相との会談予定「ありません」と答える。

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    山形県・酒田や鶴岡の処刑場

     以前、東京付近、つまり江戸の処刑場に関して調べてみたが、山形県庄内地方、庄内藩当時の処刑場のことも気になった。
     調べると江戸時代までは、今の時代では考えられないような罪で、簡単に処刑は執行されていた。現代社会に当てはめるなら、犯罪者の半数以上が処刑場送りではないかと思う。
    江戸時代の罪と罰一部
    親への傷害→磔か死罪
    主への傷害→晒し又は市中引廻しの上磔、死罪 Photo_2
    尊属への傷害→死罪
    師匠への傷害→死罪
    殺人強盗 →市中引廻しの上獄門
    傷害強盗→ 死罪
    追はぎ→ 獄門か死罪
    十両以上の窃盗→ 死罪
    十両未満の窃盗→ 重敲の上入墨
    空巣→重敲きの上入墨
    普通の詐欺→窃盗と同じ扱い
    依託品取逃がし→死罪
    官名詐称→死罪
    拾得物横領→過料


    酒田の刑場
     酒田の刑場は、旧・酒田西高校近くの酒田市北新町付近にあった。
     ここでの最後の処刑は、幕末、官軍と戦った庄内三烈士といわれた、
     ○ 佐藤桃太郎(遊佐町升川、佐藤藤佐の孫)、
     ○ 関口有之助(岡崎藩士)、
     ○ 天野豊三郎(幕臣)
     の3人だった。
     今町の刑場跡には受刑者の霊を弔う地蔵があり、首切り地蔵と呼ばれていたが、明治35年、「善導寺」境内に移され、現在は赤子(せきし)地蔵と名づけられ、子供たちの成長を願うお地蔵さまとして信仰を集めているという。
     また、処刑前に宿とした米屋町の九郎右衛門は、自分の菩提寺の林昌寺境内に髭髪(しゅはつ)碑(遺髪を埋めた碑)を建立して、3烈士の御霊を弔っている。
     また、「三烈士碑」は酒田市相生町2-4-20 妙法寺公園にある。
       ※碑の篆額は林董(ただす)(元外務大臣、旧幕臣・伯爵、佐藤藤佐の孫)

     最後に処刑された「佐藤桃太郎」のことは、荘内日報の「郷土の先人・先覚」ページに、詳しく紹介されている。

    嘉永元~明治2年 刑場に消えた3烈士の1人
      http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp181.html
       佐藤 桃太郎(本名は喜惣司、嘉永元~明治2年)
     遊佐郷升川村(現遊佐町)出身、三方国替えで活躍した佐藤藤佐の曾孫に当たり、祖父は江戸詰めの庄内藩医・佐藤然僕。
    桃太郎は通称で、本名は喜惣司。幕臣として旗本格。陸軍奉行・支配評定所の書物御用役。幕府解体のとき箱根などに転戦。敗れて庄内に脱出し、八ツ興屋(現・鶴岡市)に逃れてきた。しかし、捕えられて酒田に身柄を預けられ、明治2年4月21日、酒田で処刑された。19歳だった。一説には22歳ともいわれている。
    鶴岡の処刑場
     キリシタンが弾圧された江戸時代初期には、庄内藩でも1626年に200人以上の切支丹が追放され、1629年5月9日(寛永6年3月17日)に鶴ヶ岡髪谷地刑場で9人、酒田刑場で10人、鶴ヶ岡大山刑場で5人が、火あぶりや斬首によって処刑されたとの記録がある。
     「鶴ヶ岡髪谷地刑場」は、内川端の萱場牢から、荒町、般若町などを経て清川街道を江戸に向う途中の「赤川の渡し場」付近にあったとされています。

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    民主党代表選は密室談合だ

     民主党の代表選は、密室談合で決着する可能性が出てきた。News4511269_6
     今日31日午後に、菅氏と小沢氏の会談があれば代表選はなし。小沢氏が会談を蹴飛ばせば代表選ありか?。ギリギリの折衝は続く。
     民主党員やサポーター含めた代表選挙は、2002年9月以来二度目となる予定だったが、またも無投票で現職再選の可能性が高い。つまり、密室談合で総理大臣を決める環境を整えつつある。
     この動きを後押ししているのが、マスコミの世論誘導だ。
     「不透明だ」と談合批判の声もあるにはあるが声が小さい
     民主党代表「菅直人67%、小沢一郎14%」。この支持率の差を殊更に声高にして、総理は引き続き菅直人がいい、政治空白をつくっているときではないとした論調だ。

     かつてマスコミは、自民の総理の決め方を厳しく批判していたことがあった。
     民主党も「自民の古い体質の払拭」などと大見得を切っていたが、全て矛盾した動きだ。
     まあ左翼政党は、政権奪取前は出来もしない理想を高く掲げて国民を惑わし、政権を握ると矛盾した動きを見せるのは大きな特徴だから仕方ないか。
     その代表が沖縄で、更には高速無料化、高すぎるCO2削減目標、子供手当支給、八ツ場ダム、公務員や議員定数削減等々すべてだ
     もっと分かり易く言えば、左翼政党は「嘘を付く」ことも「手段の一つ」であり、革命、政権交代が成就すれば全て許されるという理屈で動いている。
     
     昨日30日昼過ぎは、小沢氏、鳩山氏、輿石氏の三者談合があり、その夜は、鳩山由紀夫前首相と菅直人首相が会談し、小沢一郎前幹事長を含めた「トロイカ体制」をで合意したという。「トロイカ体制」の具体的内容は見えてこないが、「小沢氏の代表選出馬中止」を条件に菅直人首相が「脱小沢」路線を止めることなのか。
     それに人事面で、小沢、鳩山、輿石らを党の要職に戻すことが考えられる。

      また、ここに来て目立ち始めたのが鳩山前総理の活発な動きだ。
     つい数か月前の参議院選挙直前には、「政治とカネ」問題で自浄作用を示すなどと、小沢、鳩山が揃って身を引いたのは何だったのか。総理経験者は引退するのが筋のような発言もしていたが、全てが、選挙に勝つため、国民を騙すジェスチャーだったことが明らかになった。それに鳩山氏は、「小沢さんの力で政権交代を実現させていただいた」、「総理大臣にもしていただいた」と、小沢氏への限りない恩義を語っている。
     この発想は「政党の私物化」そのものだと気づいていない。
     もっとも総理の椅子をカネで買ったとも言われているから仕方ないことか。それに「トロイカ体制」などと称し、数名に牛耳られた政党であることも念頭に置く必要がある。

     何度でも言うが、民主党は一貫性のない左翼政党であることを指摘してきたが、これからも、全ての面でこのような右往左往し、矛盾した政策は間違いなく続く。
     国民の多くは、昨年の衆議選で民主に大勝させたことを反省していると思う
     マスコミは、「菅直人67%、小沢一郎14%」と二人しかいないように比較させるが、国民に「どっちでもない」との選択肢を与えないところが実に恣意的だ。
     
     更に付け加えるが、マスコミと時の政権の意見が合致したときが、国民は一番不幸なときと言われている。
     国民はマスコミに誘導され易いし、政権は国民に支持されていると錯覚してしまう。
     太平洋戦争開始前がそうだったと言われている。

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    2010年8月30日 (月曜日)

    民主代表選告示を前にして

     今日発売の「週刊現代」は-小沢一郎VS菅直人、勝つのはどっちだ
    民主代表選「大どんでん返し」Thumb1
    ○小沢一郎「総理」の可能性大 
    ○怯える菅直人、政治とカンと人望「ゼロ」
    ○「悪魔の選択」-独裁者か解党か 
    ○それにつけても鳩山。松野頼久が説明
    ○菅の参謀・仙谷が掴んだ小沢の「急所」 
    ○「菅さんは大将の器じゃないし・・・」
    ○党内抗争の間に、日本経済狙い撃ちで頓死
     等とタイトルが踊っている。

     民主党代表選挙は、明後日、9月1日の告示を前に、再選を目指す総理大臣陣営と、立候補を表明した小沢前幹事長陣営が火花を散らしている。
      鳩山前総理も党分裂を懸念し裏工作しているが、菅首相と小沢前幹事長の直接会談が実現すれば小沢氏が降りる可能性があるし、無視すれば代表選での対決となる。
     いずれにしても、内閣や執行部人事の大改造など、最後の詰めが行われている可能性が高いが、こんなことで国民は納得するのだろうか。Images_2
     民主党の今の現状は、主義・思想の全く違う人達が政権奪取だけが目的で野合した結果であり、のたうち回る様子は、まるで臓器移植や輸血が失敗した患者が拒絶反応を起こした症状と似ている

     これに拍車をかけているのが、マスコミの世論誘導だ。
     民主党代表「菅直人67%、小沢一郎14%」。
     この支持率の差を声高にして、総理は引き続き菅直人がいいとした論調だ。
     単に民主の二人を並べれば、イメージからして当然の結果であろう。
     印象でしかみない愚かな比較だ
     きっと、左傾マスコミは自民党色が強い小沢一郎アレルギーがあるのだろう。
     しかし、巷には田中角栄から長年薫陶を受けた「小沢総理期待論」も相当に根強くある。さてどうなるか。
     「金融は待ったなしだ。政治空白が出来る。代表選をやっている暇があるのか」
     「内輪もめしている場合ではない」などの論調が多いが、これで選挙をしないで話合いで決めれば、談合と批判するはずだ
     実に、その場しのぎのいい加減なコメンテーターが多いことか。
     このような、矛盾する言動は厳しくチェックの必要がある。マスコミが時の政権を批判せず応援に回ったときが、一番怖ろしいとき常に警告しているが、それが今だ。

      今日の産経に、民主党の情けない現状を鋭く突いた論文があった。
     「大連立」の損得、早期解散の可能性など鋭い視点だ。
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      Sankeinewslogo

      「国民に信を問うのが誠実な選択
                        拓殖大学大学院教授・遠藤浩一  2010.8.30
    ■「政権交代」から1年が経った。
     1年前、民主党も、その後押しをする一部のメディアやジャーナリストも、ようやく有権者の判断で政権交代が実現すると騒ぎ立てた。
     このアナウンス効果は小さくなかった。
     少なからぬ有権者が、戦後初めての政権交代が実現すると思い込んだかもしれない。
     しかし戦後の日本政治は、これ以前に5回の政権交代(単なる内閣の交代ではなく政権を担当する党派が入れ替わること)を経験している。(1)第1次吉田内閣→片山内閣(昭和22年)、(2)芦田内閣→第2次吉田内閣(同23年)、(3)第5次吉田内閣→第1次鳩山内閣(同29年)、(4)宮沢内閣→細川内閣(平成5年)、(5)羽田内閣→村山内閣(同6年)である。
    政権交代はたびたびあった
     このうち(1)(4)と、昨年の麻生内閣から鳩山内閣への交代は総選挙の結果を受けてのものである。(2)も交代直後の昭和24年1月の総選挙で吉田茂率いる民自党が大勝しているから、民意の信認を得たといっていい。
     わが国は選挙による政権交代を、すでにたびたび経験してきたのである。
     ただし(1)(4)は野党が政権を勝ち取ったというより、選挙後の合従連衡によって政権が交代してしまったもので、発足当初から不安定要因を抱えていた。
     片山・芦田内閣は1年5カ月で、細川・羽田政権も11カ月で瓦解した。
     民主党政権はこの2つとは異なり、「政権交代」を争点として総選挙に臨み、圧勝して政権をもぎ取った。むしろ政権交代後に選挙で大勝した第3次吉田内閣同様、政権基盤は安定し、長期政権になるかに見えた。
    「政権構想」こそ求められる
     しかし1年弱政権を担当させてみて、有権者は民主党に圧倒的多数を与えたことを後悔した。それが参院選結果にはっきりとあらわれた。
     かくて、ねじれ国会の下、民主党は野党の協力なしには法案を成立させることが困難になった。政権基盤は一気に不安定になってしまった。
     そしていま、民主党では奇妙な現象が起こっている。
     昨年衆院選のマニフェストの取り扱いをめぐる対立だ。
     小沢一郎前幹事長・鳩山由紀夫前首相を中心とするマニフェスト原理主義派と菅直人総理などマニフェスト修正主義派が鍔迫り合いをしているそうな。しかし、そもそもこうした対立構図が成立するものだろうか? 
     参議院で民主党が多数派を形成していない以上、何が何でもマニフェストを実現しようとしても、土台無理な話である。
     にもかかわらず、マニフェストの完全実現を訴えるのは空論でしかない。
     他方菅総理は、衆参1年生議員を集めた会合で「3年間腰をすえてやりたい。3年後にダブル選挙でやればいい」と述べたという(23日)。
     このまま3年間「ねじれ国会」を続けるという宣言だが、これも政治家として不誠実ではないか。本気で腰をすえて政権を運営しようというのならば、連立の組み替えが求められる。
     党代表選で菅、小沢両派が対決するが、問われているのは、実は政策論争などではなく、政権構想なのである。
     麻生内閣が、ねじれ国会における政権構想を示せぬまま政権から追われたことを思いだすがいい。マニフェストを実現するためにも、あるいは今後3年間政権を担い続けるためにも、まずは政策をいかに実現するかという政権構想を示さなければならない。
     民主党内の2派は、いずれも根拠のない論点を打ち出して、対立しているかのように見せかけているだけである。「次の総理大臣」を選ぶ代表選としては、あまりにお粗末な実態ではないか。
    大連立は自民など保守に危険
     ところで、ねじれ国会を打開するための方途の一つとして「大連立」が取り沙汰されている。政権を握っている民主党にすれば利点は小さくないが、自民党側に立つと、懸念すべき点がある。
     第1に、仮に大連立が小沢氏に主導されるものになるとするならば、政界再編も同氏がイニシアチブを握ることになる。
     それでいいのか。
     第2に、現状で大連立が成ったところで左翼などノイジー・マイノリティーが、分不相応に自己主張を通す構造は温存される。
     第3に、自民党が真に反省せぬまま政権復帰することで、保守政党再建の芽が摘まれてしまいかねない。自民党ないし保守勢力全体にとって、これは危険な選択といわなければならない。
     要するに民主党にとっても自民党にとっても、早期に解散して国民の信を問い直すのが、最も誠実な選択である。
     その際、民主党は理不尽な再分配重視主義や空疎な国防・安全保障政策など見直すべきは見直さなければならない。
     他方自民党には分散した保守勢力を糾合して、民主党に対抗しうる受け皿を構築する責任がある。
     そのとき「自民党」という看板に拘るべきかどうか、今一度真剣に問い直すべきだろう。
     有権者も、昨年の政権交代の意味について自ら真剣に問い直さなければならない。

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    吉村昭の歴史を究める姿勢

     歴史をねじ曲げて、面白おかしくすることは絶対に避けるべきだという。
     このことは、天台宗僧、小説家、参議院議員であった今東光が、吉川英治の「宮本武蔵」や「新平家物語」等の作品を「歴史をねじ曲げた小説だ」と強く批判していたことを思い出す。
     最近では、酒田市出身の佐高信氏が、司馬遼太郎の作品を「上から目線」「英雄史観」などと厳しく批判している。
     小説家は、売るために大衆に迎合した作品に仕立てる傾向があるのだろうか。
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     このような傾向を、作家・吉村昭氏は「回り灯籠」や「ひとり旅」で、歴史小説を書く場合は「歴史を究める」姿勢が大切なことや、「勝者の歴史」になりがちだ
     歴史は、勝者によって強引に形作られる
     勝者の声は威丈高で大きく、敗者のそれは甚だ小さい
     と指摘している。

      吉村昭(1927~2006)の作品は、高校当時の昭和42年「高熱隧道」や「戦艦武蔵」に関心が向いて以来、よく読ませてもらった。
     この方の、歴史小説を書く際の取材力や突き詰める姿勢は、他の追従を許さない。
     正に作家職人だと思っている。
     黒部の「高熱隧道」の舞台には20歳代に幾度も足を運んだ。 
     母方の大叔父が若い頃、この現場でトンネル仕事に従事しており、厳しさを聞いていたので、小説と聞いたことを自分の目で確かめたかった。
     
     また、同氏の作品で、山形県遊佐町に関連する『暁の旅人』がある。
     この小説は、「初代陸軍軍医総監」に就任する松本良順の生涯を描いた。良順は、遊佐町升川出身の佐藤藤佐(とうすけ)の孫となる。庄内藩士・本間友之助と共に、庄内に入ったこともある。尚、良順はポンペとともに長崎大学医学部の創設者でもある。父親は順天堂を作った「佐藤泰然」。
     「順天堂と遊佐町の深い関係」 でも紹介したが、近代医学に貢献した人達だ。

    ■吉村昭著「回り灯籠」に「勝者の歴史」という項目がある。
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     倒幕につくした武家は勤皇の志士として美化され、月形半平太、鞍馬9784480814852天狗といった架空の人物まで創作され、幕吏は無能であり人材は乏しかったとされている。
     そのような幕府否定は、多方面にわたっていて、国旗の日の丸が、薩摩藩の作り出したものという説すらある。
     しかし、日の丸は、江戸時代、幕府の御用船が必ずかかげていた船印で、幕末に洋式船を竣工した薩摩藩が、外国船と区別するために日の丸を船印としたにすぎない。
     幕末の外交史の史実にふれてきた私は、その折衝にあたった幕吏の優秀さに感心する。
     ねばり腰で巧みに交渉をつづけ、国益を大きく損うことのない結着にみちびいている。欧米列強の武力は強大で、そのような武力を背景にした外国の外交官によく渡り合えたものと思う。その叡智にみちた努力によって、武力がないに等しい日本が、植民地化されずにすんだと言える。
     歴史は、勝者によって強引に形作られる
     勝者の声は威丈高で大きく、敗者のそれは甚だ小さい
     そのため歴史はゆがめられ、修正されるのは、歳月という時間の流れにたよるほかはない。終戦後、その修正は徐々に椎し進められ、明治維新の真の姿がおぼろげながらも浮び出ている。
     テレビに採り上げられている新撰組などは、勤皇の志士を容赦なく殺戮する極悪非道の集団とされていたが、今ではそれが時代の要請にもとづいて行動した者たちとされている。
     原子爆弾投下によって終結したあの戦争も、勝者によって形作られた歴史の縄でくくられて、身動きすることもできないでいる。その歴史に客観的な解釈が下されるのは、百年後か、それとも二百年、三百年たってからか。

     

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    2010年8月29日 (日曜日)

    武器で結びついた薩摩と長州

      今日8月29日、日曜日は、「龍馬伝」“薩長同盟せよ”がある。 
     坂本龍馬をあつかった英雄伝は、つくられた虚像だという。
    Ryomapic_03_2
     小説、ドラマでも、真実をある程度を知ることが大切と思う。
     作家・吉村昭は自書「ひとり旅」で、薩長は武器で結びついたもので、龍馬のことは史実ではないと一蹴する。

     龍馬はただの土佐の郷士(半農半士程度の身分)、あの当時、藩士ではない者が薩摩藩長州藩という、一つの国同士を仲介することは有り得ないと批判している。
     他の作家も、龍馬は精々武器商人グラバーの助手程度の役割と評価している人が多い。
     「亀山社中」も、グラバーと香港に本社があった「ジャーディン・マセソン商会」が武器を密輸するために作ったダミー会社とされる。
     そして、「大型蒸気船ユニオン号」は、名義を薩摩藩、実際の運用は長州藩、乗員は「亀山社中」という複雑な契約をとり、上手に「長州藩」に引き渡している。このようなことは、元々商取引の知識がない坂本龍馬の案ではないと言われる。
     なお、「ジャーディン・マセソン商会」 は、近年では「マンダリン・オリエンタルホテル」等の経営で知られる。

     このような歴史物は視聴者も、史実をある程度知っておくことが大切と思う。
     小説がドラマ仕立てになると、史実として見てしまう傾向が一層強く、それが、間違った人物像が定着することは、もっと怖い。
     そのいい例が、
     司馬遼太郎坂本龍馬、吉川英治宮本武蔵と言われ、新撰組も、戦後暫くは悪役でしか登場しなかったが、近年ようやく正しい評価を下されるようになったとされる。
     吉川英治の「宮本武蔵」には、今東光が歴史をねじ曲げた小説だ」と強く批判していたことを思いだす。

     作家の吉村昭は、「歴史を究める」こと、そして「定説をくつがえすのも、作家の務め」だと、暗に批判する。
     更に、「私は、史実というものはそのままなのドラマですと。ですから、史実を書いていると、それが小説になるのです。」と語る。
     昭和42年「高熱隧道」を発表以来の読者だが、吉村昭の徹底した調査力からして、当然ながら全面的に支持している。

    ■吉村昭著「ひとり旅」に
     「武器で結びついた薩摩と長州」という項目がある。
    ------------------------------引用-41qdmb3d0il__ss500__2
      長州藩もそのころ、下関海峡を通過する外国船を無差別に砲撃していたのです。
     これも先ほど言いましたように、尊王攘夷ですね。
     外国の勢力に負けないぞということを誇示するために、無差別に砲撃していたのです。
     それで、外国も怒ってしまって、アメリカ、オランダ、フランス、それからイギリスなど、連合艦隊が下関へ行ったのです。
     そして、長州藩と戦闘をしましたが、長州藩が惨敗。
     大砲や青銅砲なども随分持っていかれてしまって、今アメリカなどに展示されたりしていますけれど、そのようにして長州も全く負けた。 
     
     そのときに、井上馨(※長州藩)と桂小五郎(※長州藩医・和田昌景の長男、後に木戸孝允)が長崎に行きまして、グラバーというイギリスの商人と交渉して、「銃と大砲を輸入したいんだ、頼む」と言いましたGlabarのですが、そのころは長州征伐というのがありまして、幕府は長州だけには売るなと、外国商人に圧力をかけていたのです。
     それで、だれも長州藩の要求にこたえなかった。
     桂と井上は、たまたま長崎に来ていた小松帯刀(薩摩藩家老)のところに行ってなんとかして欲しいと。

     小松帯刀(薩摩藩家老)は快諾し、分かった、薩摩の名義を貸しましょうと。
     それで、どんどん輸入なさいと。
     二人は大喜びして、そして長州藩は外国の銃砲、それから軍艦まで輸入したのです。
     その、薩摩が斡旋したということを、長州藩の藩主とその息子さんがお礼状を送っている、鹿児島に。ともかく斡旋していただいてありがたいKomatsu_tatewaki01
     薩摩藩と長州藩で幕府を倒すことに全力を挙げましょう
     そのような礼状が行っているのです。
     つまり薩摩と長州が結びついたのです。
     薩長同盟というと、坂本龍馬が斡旋したことになっているのですが、坂本龍馬は土佐藩藩士ではなく、郷士です。
     坂本龍馬が両方を仲介して薩長同盟を結ばせたといわれていますけれどもそのようなことは史実にないのです
     一人の人間が薩摩と長州、今のアメリカとソ連のようなものですが、それを中に入って
    話をつけるなどありえない。
     一番最大のものは武器なのです
     武器で合致してしまった。
     それで、この薩摩・長州が新鋭銃、新鋭の大砲、これを輸入して、そして幕府と対抗す
    る。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍は一万五千人、薩長のほうは四、五千なのですね。
     それで圧勝してしまったのです。


      

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    高齢者不明問題の考察 Ⅲ

     「数字は嘘を付かない」しかし「人間が数字に嘘を付かせることはある
     かつて、2~3年だが数字を扱う業務を担当していた当時を思い出した。

     「間違ったデータは、組織を崩壊に導くこともある」、大切な事務仕事なのだと、冒頭のように厳しく教えられたし、教えてもきた。
     基本となる数字が間違っていると、他のことまで影響し信頼が無くなる。
     ご商売の方は仕入れや売り上げデータであろうし、人数把握が必要な仕事では一人増えても、居なくても大変なことだ。

     その点でも市町村の住民基本台帳は極めて重要のはずだ41j5bfxy10l
     その地域の人口や世帯数などの情報は、地方交付税の算定基準、小選挙区の画定基準、また、国や地方公共団体による高齢者対策など様々な施策の立案・企画・推進に影響する。
     もし、デタラメなデータで高齢者対策を論じていたなら、余計な予算請求をしていた可能性もあるし、全てが、いいかげんな施策ということになる。この疑問、的はずれだろうか。
     
    酒田市では所在不明の100歳以上は587人
    山形市で所在不明の100歳以上は610人
    秋田市では戸籍上は120歳を超えている人が263人いた。
    能代市も戸籍上の120歳以上が263人
    大館市では100歳以上の住民登録35人に対し、戸籍があるのは194人
    鹿角市では100歳以上の住民登録10人に対し、117人の戸籍が残っていた。
    ○天理市は100歳以上の所在不明高齢者が100人いることが判明した。
    ○大和郡山市では206人の100歳以上の高齢者の戸籍上の生存が判明
     等々、公表の仕方はいろいろだが、不明者の数は、まるで大災害発生時、当初数名の犠牲者が、倍々で増加し、結局は数千人の犠牲者が公表されるようなものだ。
     全国の各市町村は、早急に実態を公表し、その対策を急ぐ必要がある。
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      厚生労働省は昨年(平成21年)、100歳以上の高齢者が9月15日時点で4万399人、東京だけでも4800人いると、高長寿社会を発表した。
     果たして、本当の生存者は何割の生存が確認されるのか。
     公表した数字の2~3割に減少する可能性もある。

      戸籍が生き続けている言い訳として
     「戦争時に死亡して届け出が出ていなかったり、海外に移住して届け出が滞っている、転居などの際に戸籍への記載が途切れたりした」などと、当たり障りのない例を挙げているが、当方は信じていない。
     また、「戸籍や住民登録は届け出主義なので、人の移動や死亡などを完全に把握するのは限界がある」との見方もあるというが、それなら別の対策を考えることだ。

     市区町村は、所在不明の高齢者の生死が不明の場合、100歳以上の高齢者は法務局の許可を得て戸籍を除籍する「高齢者消除」ができる。
     国民も、年金を不正受給していないことが分かれば、それで納得するのだろうか。
     「人間は数字に嘘を付かせることはある

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    2010年8月28日 (土曜日)

    地獄のニューギニア戦線・ビアク島

     今から約65年前の「ビアク島の戦い」のことは、約1万3千名の守備隊がBiaku_img002ほぼ全滅したために、日本側の資料も語り継ぐ者も少なく、あまり知られていない戦いだ。

     守備 隊の主力は青森、岩手、秋田、山形県の東北出身者で編成された陸軍36師団、歩兵第222連隊(秘匿名・雪3523、連隊長・葛目直幸大佐)の3、815名だった。
     今回、アメリカ側の資料が発見されたというニュースが報じられたので、内容をそのまま掲載する。

    ビアク島」米軍上陸前の資料発見、地獄のニューギニア戦線
     2009.12.31  産経新聞
     太平洋戦争のニューギニア戦線で、最大級の激戦地となったビアク島(インドネシア)の上陸(1944年)直前に米軍が作成した偵Biak_newguinea_news_2 察資料が、ワシントン近郊で発見された。作戦の総指揮をとったマッカーサー大将(当時)が作成を命じたもので、上陸地点の地勢や旧日本軍の防衛状況が、航空写真や詳細な地図を交えて解析されていたことが分かった。赤道直下のビアク島は、当時日本の絶対国防圏内にあり、歩兵第222連隊(青森)を主力とする日本軍将兵や台湾人軍属、インドネシア人兵補が、守備や飛行場設営に当たっていた。
     1944年5月27日に始まった米軍との戦闘で、日本軍は約1万人が戦死(戦病死を含む)する壊滅的な打撃を受けていた。発見された資料は、連合軍兵要地誌部が前線指揮官らに配布した地誌ハンドブックのうち、ビアク島を含むスハウテン諸島(ニューギニア島北西部)に関するもの。ワシントン近郊の古書店で、国防総省関係の放出資料からみつかった。
     資料は軍機扱いとされ、「敵に奪われる危険のある場合は廃棄せよ」の注意書きがある。作成責任者には、南西太平洋方面の連合軍総司令官だったマッカーサーをはじめ、戦後の日本占領で情報工作を担当したウィロビー准将(当時)らが名を連ねている。作成はビアク島上陸開始の約2週間前である5月12日付となっている。

     ビアク島の攻略目的として、資料は「軍事的な価値は、現存するものと今後の設営を含めた航空施設にある」と指摘。日本の統治下にあったパラオ諸島までの距離を明示するなど、同年6月に始まるサイパン島攻略を支援する目的という戦史の通説を裏付けた。
     航空写真や地図などは、島の全周にわたり日本軍の哨戒線や道路、飛行場の位置を詳しく示している。実際の上陸地点となったボスネク海岸など島の南東周辺については、上陸用舟艇の接岸に適した砂浜である一方、「身を隠すものがない」などの注意や、上陸直後に米軍を悩ませた高台が海岸近くに広がっていることを指摘していた。

     ビアク島 戦没者の遺骨は戦後約4000柱が収集された。インドネシア内務省は今月、新たに291柱の遺骨を現地で日本政府の関係者に引き渡していた。

    ビアク島からの生還
    http://www2.tbb.t-com.ne.jp/shibuya/

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    高齢者不明問題の考察 Ⅱ

     高齢者不明問題の発端となった「足立区千住5-20-10加藤宗現(そうげCrm1008080700008p2ん)さん111歳白骨化遺体事件」で、宗現さん名義で遺族共済年金を不正受給したとして、長女と孫が詐欺容疑で8月27日逮捕された。この事件は、年金不正受給や行方不明者などの現状と問題を、国民に提起した点で意義があると思う。

     まず、全国の合同納骨堂等の無縁仏と戸籍上で生き続ける不明数は正比例しているはずであり、年金不正受給を防止する意味でも、対策は喫緊だ。それに、年齢に関係なく身元不明遺体は、国内で年1千体を超すというから驚く。
     8月26日現在で、全国の市町村で100歳以上の不明者は271人に上ると報道された。しかし、この271人は誰も納得しないいずれ10倍以上の数次が明らかになる可能性がある
     また、調査年齢は、年金受給開始年齢に下げての調査が迫られる。

     また、都内最高齢とされる古谷ふささんは、明治30年生まれ113歳となるが、杉並区成田東5丁目の住民登録地に居住せず、所在確認されていない。それに、夫は都の公務員で昭和35年に死亡しているが、遺族年金にあたる「扶助料」が現在も古谷ふさの口座に振り込まれているという。
      それにしても、ふささんは何処に行ったのか、関係者は懸命に捜査中だろう。

     前回、「高齢者不明問題の考察と対策」でも触れたが、不明者は、孤独死、自殺、行き倒れなどが身元不明のまま処理され、戸籍だけが生き続けている可能性が高い。 
     仮に、古谷ふささんが死亡しているなら、三つのことが推測される。
      (1) 家族が死亡の事実を隠し続け、遺体は何処かに隠した。
     (2) 事件に巻き込まれたか、自殺し、事件も、自殺した遺体も発覚していない。
      (3) 晩年、一人暮らしか、旅先か、路上生活で、事故死か病死か老衰死した。
     一番可能性が高いのが(3)の孤独死による無縁仏だろう。当然、足立区の事件のように家族がひた隠して遺体も隠しり、廃棄した疑いも捨てきれない。
     しかし、その遺体(遺骨)が何処にあるのか、捜すだけでも大変なことと思う。
     照合するには、死亡時のデータと生存時のデータが必要だ。死亡時には指紋や歯形、DNA等は記録するだろうが、生存時のデータは病院や歯医者等に何か残っているのだろうか。家族は不明の段階で何故届け出しなかったのだろうか。別居していて、気づかない状況にあったのだろうか。
     孤独死であっても、身元が分かるものを所持していたり、住民登録の場所で死亡していれば、手がかりもあろうが、誰も知らないアパートや旅先の旅館、或いは路上、河原等で死亡した場合は、身元調査はできず無縁仏になる。
     これを専門用語で「行旅(こうりょ)死亡人」と言うそうだ。

     戸籍だけが生き続けている例は、次のようなケースも考えられる。
    ■大震災等の行方不明者、未把握の戦没者、空襲による死亡、外国移民者などで、かつ、遺族からの死亡届、行方不明届もなく、役所が抹消手続きが出来なかった。
    ■最近一番多いのは、路上生活者や独居老人の死亡のようだ。
    ■それに、東京都内を見回すと無縁仏を祀る寺院のなんと多いことか
     両国や千住の回向院は、無縁仏を弔うために建立されている。また、遊郭があった近くには、死亡した遊女や飯盛女の「投げ込み寺」がある。
     地方から売られて来た遊女は、死亡しても引き取り手がなく、殆どが「投げ込み寺」にムシロにくるまれ棄てられた歴史がある。3960
     荒川区三ノ輪の「浄閑寺」には昭和33年吉原が廃止されるまで、この寺やその近辺の寺に2万5千人にのぼる吉原遊女らが葬られたという。さほど昔の話ではない
     ところで、身売りした娘達の戸籍抹消はどうしたのだろうか。
     身売りには役場も協力したというから、身売りと同時に抹消した可能性もあるが、それとも残したのか知りたいものだ。
     もし、山形県や東北で不明事案が発覚すれば、出稼ぎや身売りされたまま、故郷に戻らず生死確認が取れないことも推測される。
     仮に昭和30年、15歳で身売りされたとすると、昭和15年生まれだから現在75歳となる。せめて、この年齢まで下げた調査が必要と思う。
     
     以前、山形の郷里で「この辺りは東京都と違って奴(やっこ、乞食)はいない」と自慢していたので、「この辺りにはいないだろうが、この辺りの人が夢破れ、身を潰して都会で路上生活している例が何と多いことか。無縁仏になっている人も多い」と教えたことがある。
     出稼ぎや集団就職、或いは、以前、身売りされ帰郷も出来ないまま音信不通となるか、或いは、家族間の諍いなどから連絡を取ろうともしない人は必ずいる。

     最後に、人身売買は当然法律で禁止されているが、警察庁の統計によれば、売春関連人身売買被害者数は、1955年には1万3433人であったが63年には4503人に減少している。しかし、暴力団関連の人身売買的売春は、現在でも後を絶っていない。

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    2010年8月27日 (金曜日)

    「死の商人」スネル兄弟

     革命や戦争前夜は、より高性能の武器を調達するため「死の商人」が暗躍する。
     今も昔も、これからも同じだろう。
     日本でも明治維新以降、このような人達に恰好の活躍の場を提供した。  
     
     日本の代表的「死の商人」として、坂本龍馬大倉喜八郎のことは以前記載した。Images
     「死の商人Merchant Of Death」とは、営利目的で敵味方を問わず兵器を販売する人物・組織への蔑称、転じて営利目的で兵器を販売し巨万の富を築いた人物・組織への蔑称だ。
     尊敬に値する人物かどうかは個人の勝手だが、チャンスをものにしたと評価する日本人は多い。商人国家だからだ。

     今回は、庄内藩や会津藩、米沢藩、長岡藩など奥羽越列藩同盟と取引があった「スネル兄弟」のことを紹介したい。遊佐郷・升川出身の佐藤藤佐(とうすけ)の孫、松本良順が仙台から江戸に逃れる際、スネルのバルカン号に乗せてもらったとの逸話もある。

     幕末、日本で暗躍した外人の「死の商人」は、西グラバーのスネル兄弟と言われる。長崎を拠点にした、トマス・B・グラバーのことは、日本人妻、グラバー邸や坂本龍馬との関係で有名だが、「スネル兄弟」のことは殆ど知られていない。やはり賊軍とされた側の協力者だからだろう。出身地も、ドイツ、オランダ、又はトルコ系ともいわれ、兄弟の容姿もよく似ていたので、写真もどっちか分からないという。

     「スネル兄弟」は、のジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell日本名・平松武兵衛)とエドワード・スネルEdward Schnellのことだが、日本名・平松武兵衛も兄弟が共有していたとも、名前は不明だが更に兄もいたという説もあるという。
     庄内藩と付き合いがあったのは、弟の「エドワード・スネル」と言われる。
     スネルは、米沢藩の記録では、「山師的商人で、年頃30歳前後、眉目清秀、実に美男子」とあるそうだ。

     庄内藩が幕末の戊辰戦争(1868~1869年)で、全戦全勝だったのは、近代的装備を揃えていたからと言われる。慶応4年4月、庄内藩は清川口、吹浦口、瀬場、羽黒、大網口に派兵し、国境を固め官軍を阻止した。この戦いを優位に進めながら降伏したことが、戦後処置が有利に運んだと言われる。
     当時、使用した銃はアメリカ製だった。
     庄内藩を資金面で支援したのは酒田・本間家で、当主の本間光美(こうび)はエドワード・スネルとの大量の武器取引の記録がある。Canvas1
     約定書には、
     短シャープ騎兵銃600梃、
     スプリングフィールト銃300梃、
     短エンフィールド銃70梃、
     シャープ騎兵銃弾60万発などとある。
     これらの銃は、南北戦争American Civil War, 1861~1865年)で使われた中古銃で、当時の日本に大量に輸入され、戊辰戦争の主力武器として使われことが知られている。
     つまり、アメリカの内戦・南北戦争が終結して3年後に勃発しているが、日本の内戦・戊辰戦争は、アメリカのお下がりの武器で戦ったことになる。
     因みに、1877年(明治10年)の「西南の役」当時は、世界中から武器弾薬が日本に集まり、世界で一番の銃保有国になった頃もあったそうだ。
     
     ウィキペディアに「スネル兄弟」の後年のことが書いてあった。
      兄・ヘンリーは明治維新後、1869年にカリフォルニア州に会津若松の人々約40人と共に移住した。サンフランシスコの北東にあるゴールド・ヒルに「若松コロニー」という名の開拓地を建設した。しかし、日本から持ってきた茶や桑などが育たず、1年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まった。1871年4月、ヘンリーは金策をしてくると言い、日本へと向かったとされるが、その後、彼がこの地へ戻ってくることは無かった。日本で秘密裏に暗殺されたとも言われる。弟は新潟から東京へ移り、そこで商会を開いた。1882年頃まで日本国内で活動していたが、それ以降の消息は不明。とある。

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    2010年8月26日 (木曜日)

    順天堂と遊佐町の深い関係

     順天堂と山形県遊佐町の深い関係を紹介したい。1213867193
     「順天堂大学」は箱根駅伝では、常に上位入賞し、その名は全国に知られる。この大学の創立は約170年前。医学部は順天堂医院、静岡、浦安、越谷、東京江東高齢者、練馬の6附属病院を擁する。東京では、文京区本郷と練馬区高野台の「順天堂」が特に知られ、どちらも、仕事では何度も訪問している。
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     この大きな大学や病院が、山形県遊佐町と密接な関連がある。
     この順天堂を作った「佐藤泰然」は、山形県遊佐郷・升川の佐藤藤佐(とうすけ)の長男。藤佐(とうすけ)は、1775年遊佐郷、升川・次郎佐ェ家で生まれている。
     藤沢周平の、庄内藩転封阻止を題材にした「義民が駆ける」で「三方国替え」のことが世間に知られるようになったが、この中心人物が藤佐(とうすけ)。転封阻止は1840年、67歳のときだった。

     このとき既に、長男・昇太郎(後の泰然)は長崎で西洋医学を学び、江戸に戻り天保9(1838)年、薬研堀の地(中央区東日本橋・薬研堀不動院内)にオランダ医学塾「和田塾」を開設している。順天堂は、ここが出発点日本最古の西洋医学塾とされる。
     1843年「和田塾」が、佐倉藩主・堀田正睦に招かれ、現在の千葉県佐倉本町81に移り、医学塾「順天堂」を開設。「順天堂」の「順天」とは”天道にしたがう”の意味。180pxjun_matsumoto

     そして、ここから多くの人材が育つことになる。
     特筆されるのは、佐藤泰然の次男・松本良順は明治6年「初代陸軍軍医総監」に就く。佐藤藤佐の孫に当たる。
     松本良順は咸臨丸の船医を勤めているが、同じ船に升川出身の鉄道の開祖・佐藤与之助(佐藤政養)も同船していたという。
     二人は、郷里のどんな話をしたのだろうか。
     また、松本良順は1868年戊辰戦争が勃発すると、師弟を伴い会津に向かい仮設の病院を設け負傷者の救護に当たった。
     これが朝敵に協力したことになり官軍に追われる。
     逃れるため山形や仙台に逃亡する。
     そこで、塩釜に武器商人、エドワード・スネルのバルカン号が来ていることを知り、この船で実父の住む横浜村に戻るが、ついに捕まり、1年余も幽閉され、明治3年放免される。B05_vol08_01
     そして、明治4年には明治政府の山形有朋に請われ軍医頭に、明治6年には「初代陸軍軍医総監」に就任する。尚、良順はポンペとともに長崎大学医学部の創設者でもある。晩年は大磯に住み、湘南発祥の地として大磯海水浴場を広めた。大磯照が崎に、初代陸軍軍医総監『松本良順』を顕彰する謝恩碑が立っている。

     松本良順の生涯を描いた小説がある。
     吉村昭著『暁の旅人』、司馬遼太郎著『胡蝶の夢』。
     遊佐町の人は勿論、庄内地方の皆さんには、特にお奨めだ。
     ただ、いずれの本も遊佐のことは殆ど出てこない。
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     このように、遊佐町に縁がある方々が歴史に名を残している。
      先に紹介した、「順仁堂」・遊佐病院佐藤国蔵先生も、順天堂二代目佐藤舜海(尚中)のもとで、医学修業書生として学んでいる。
     「順仁堂」は順天堂を倣ったものだろう。

    ■順天堂大学医学部附属順天堂医院
       東京都文京区本郷3-1-3  大代表 03-3813-3111
     
    ■順天堂大学医学部附属 練馬病院      
       東京都練馬区高野台3丁目1番10号 代表電話番号61n5amo9ql__ss500__303-5923-3111  

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    小沢氏民主代表選に立候補

    ■「血の雨が降る・民主党内ゲバ」(週間新潮
     ○小沢総理誕生で「大連立」なら石もて追われる人々
      ▼結局「小沢」は出るのか勝てるのか「ファイナルアンサー」
      ▼「小沢総理」誕生で「大連立」なら石もて追われる人々
      ▼「仙谷官房長官」が密かに描いた「前原擁立」裏切りの絵
      ▼「香港ディズニーランドに行こうかな」お暇な「枝野幹事長」
      ▼虎の威を借る「山岡賢次」副代表のゴマすりに同志も辟易
      ▼斥候をやらされた「荒井キャミ国家戦略相」と菅総理に隙間風
      ▼「小沢は諸悪の元凶」と罵った「渡部恒三」元最高顧問遺恨の源
    ■「小沢一郎生きるか死ぬか」三大オフレコ(週間文春
     ○菅「出馬する小沢の気がしれない」
     ○「小沢「菅は権力にしがみつく男だ」
     ○鳩山「小沢を追い込むと党が割れる」

     今日・木曜日発売の両週刊誌も、小沢氏の民主党代表選出馬が正確に読みとれない中で、ギリギリの記事を掲載しているようだ。Pn2010081901000644___ci0003

     しかし、「小沢氏、民主党代表選立候補」のニュースが午前8時半流れた。
     26日は朝から、小沢氏と鳩山前総理の会談があり、小沢氏は鳩山前総理に立候補の意欲を伝えたそうだ。
     鳩山前総理も、「同士の協力を得られるならば全面的に応援したい」と語ったという。

     来月9月14日(火)の民主党代表選をめぐっては、菅直人首相支持派、小沢一郎前幹事長支持派の両勢力が微妙な駆け引きが、マスコミや国民に注目されていた。
     民主党は「進むも地獄、引くも地獄」の状況の中で、今後、どのような展開を見せるのか。
     このドタバタ劇はけっこう面白い。
    ■立候補の背景に「挙党態勢」を巡る内ゲバがあるようだ。
     菅総理は挙党態勢はできている。選挙前から人事の取り引きなどできないとし、
     小沢前幹事長は、今の態勢は、参議院選挙に敗れた責任が明確になっていない。特に、仙谷官房長官、枝野幹事長など批判的な勢力の排除を求めたが聞き入れなかった。
    ■もし、菅直人総理が勝ったら、小沢の処遇を含め、政局はどうなる?
    ■それとも小沢一郎氏が勝ったら、菅直人の処遇?、総選挙?、大連立は?
     元々、政権をとるだけが目的で、思想も価値観も全く違う人達がむりやりくっついて出来た政党だ。水と油が一緒では、両方が加速的に痛む
     総理大臣だって、能力・資格がなければ、何回代わっても仕方ない。
     それに、政界はそろそろ「がらがらぽん」して再編も必要だろう。
     
     とにかく、これが政治三流国の姿だ。
     政治が三流なのは、選ぶ国民も三流に成り下がった証でもある。

    民主党代表選を巡る主な経緯
    7月11日 参院選で民主党が大敗
      29日 菅直人首相が衆参両院議員総会で参院選大敗を陳謝、代表選出馬を表明
    8月 5日 両院議員総会で代表選を9月1日告示、同14日投開票と正式決定
      19日 小沢一郎前幹事長が鳩山由紀夫前首相のグループの研修会に出席
      23日 首相が衆参新人議員らとの懇談会スタート(~25日)、3年後の衆参ダブル選挙に言及
      24日 小沢氏が鳩山氏と会談、首相の政権運営に「大丈夫か」と疑問呈す
      25日 首相が鳩山氏と会談、「脱小沢」継続を伝達
      26日 小沢氏が鳩山氏と会談後、代表選出馬を表明。
                  鳩山氏は小沢氏支援を明言

    --------------------------------
    小沢氏 立候Logo_nhknews補の意欲伝える 8月26日


     来月の民主党代表選挙で、民主党の小沢前幹事長は、立候補の意欲を周辺に伝え、26日、鳩山前総理大臣と会談するなど、詰めの調整を進めることにしています。

     来月1日の民主党代表選挙の告示を前に、鳩山前総理大臣は25日、菅総理大臣と会談し、「政権運営にあたって、小沢前幹事長に真剣に協力を求める必要があるのではないか」と進言したのに対し、菅総理大臣は「6月の代表選挙のあとに会いたいと思って連絡したが、会えなかった。その後、連絡は取っていない」と述べるにとどまりました。

     会談のあと鳩山氏は、「結論を言えば小沢氏に対してどういうふうに協力を求めるかということも、なかなか難しい話だということだ」と述べました。
     こうしたなか、山岡副代表らの勉強会のメンバーや当選1回の衆議院議員の有志は「党を立て直し、危機的な状況を乗り切ることができるのは小沢氏だ」として、それぞれ立候補を要請しました。これを受けて小沢氏は、「もう少し皆さんの意見を聞くなどして、結論を出していきたい。
     皆さんの期待に応えられ、自分の気持ちも納得がいく結論が得られたらいい」と述べました。こうした要請なども踏まえ、小沢氏は「ぶれずに進みたい」と立候補の意欲を周辺に伝え、26日、鳩山前総理大臣と会談するなど、詰めの調整を進めることにしています。これに関連して政府首脳は25日夜、記者団に対し「小沢氏が立候補して、選挙によって日本の政治に決着がつくのであればいいことだ」と述べました。
     菅総理大臣は、26日は当選1回の国会議員から政策についての申し入れを受けることになっており、こうした政策を政権運営に反映させることで再選に向けた支持を広げていきたい考えです。そして菅総理大臣と再選を支持する議員らは、来週30日にも選挙対策本部を発足させ、菅総理大臣自身が立候補にあたっての所信を発表する方針です。

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    2010年8月25日 (水曜日)

    「点字音譜の祖」佐藤国蔵

     この医師の話は小学校当時、担任のジュン先生からヘレンケラーの話と一緒に教わった。同じクラスに遊佐病院の子がいたので、一層記憶しているのかも知れない。
     ジュン先生は苗字を書かなくても、家は学校の隣だったし、この町の当時の人達は良く知っていると思う。

     「日本点字音譜の祖」と言われる、遊佐町出身「佐藤国蔵」医師をIndex_02紹介したい。
     これまで、いろんな偉い方々を見たり接する機会があったが、この先生のような方が本物の偉人、めったにいない尊敬できる人だと思う。

     本人も盲目に近い状態ながら努力し医師となり、盲人・障害者の世界に大きな足跡を残した。
     山形県遊佐町六日町の遊佐病院の基礎を築いた医師でもある。遊佐病院の中庭に銅像がある。

      「遊佐ゆかりの人々」:松本良一.菅原伝作著から多く引用させていただく。

      佐藤国蔵(くにぞう)先生は、慶応3年(1867)8月8日、遊佐郷六日町村、医師・佐藤意泉(いせん)の次男とPhotoして生まれた。
     父・意泉は、庄内藩の分家、松山藩主の御典医・佐藤伯全の三男で、医学修業の後、安政元年(1954)遊佐郷十日町村、佐藤多右ェ門方で開業、安政6年9月、遊佐町六日町村に家屋を建て開業する。
     以来「えしぇさま(意泉様)」の屋号は、そのまま155年後の今日に至っている。
     意泉は蘭方医学(らんぽういがく)を身につけようと決意し、文久、慶応の頃佐倉の順天堂に赴き順天堂二代目佐藤尚中松本順に師事したと思われる。
     順天堂に倣い、医院を「順仁堂」と名づけた。
       (※天堂病院の初代佐藤泰然、遊佐・升川の佐藤藤佐の長男

     さて、明治16年(1883)国蔵は、父の志を継ぎ、東京に登り、順天堂佐藤舜海(尚中)のもとに草親を脱ぎ、医学修業書生として医学の道を歩き始めた。明治17年9Image0039月、東京大学医学部別課医学課程に入学する。然し、国蔵は別課医学二年の晩秋の頃から、視力に変調を覚え、その眼疾ははかばかしく回復しないため、ついに明治22年10月東京盲唖学校技芸科鍼治按摩専修科に入学する。
     そして、明治25年按摩科、翌26年鍼治科を卒業した。そして、点字学習に努力し、明治23年には文部省から点字選定委員会の一員に選ばれる。
     当時、盲唖学校はまだ正式な点字学習時代ではなかった。
     しかし、次第に点字の便利さが認識され、正式に採用されたのは明治32年であった。
    その間、国蔵は、点字の普及に懸命に努力した。
     当時、文部省では、祝日儀式用の「君が代」などの歌詞や音譜を定めようとしていた。国蔵はこの風潮の中で新しい音楽に心を傾けるようになっていた。
     明治26年4月15日、彼は東京盲唖学校技芸科誠治科を卒業した。
     しかし、医術開業試験に及第して医師にならねばならぬという不退転の決意は変わらなかったが、この試験に精魂を込めるだけの視力を回復していなかったことと、点字音譜に興味が湧いていたところであったので、同校技芸科ヴァイオリン科に再入学し、第四年に編入した。
     点字選定委員に選ばれた彼は、点字の改良と普及に力を集中したなかで、彼の本領は点字音譜の研究であった。ヴァイオリン科に籍を置いていた彼は、「点字唱歌の音譜綴り方」の編纂を思い立ち、点字音譜の研究に没頭した。
     そして、明治26年12月、ついに「国民唱歌集」小山作之助編纂)を点訳するに至ったのである。次いで、同17年3月、「点字唱歌の音譜綴り方」を著すに至る。
     「この二つの書は実に我が国における点字楽典の嚆矢である。
     蓋し、佐藤国蔵氏はこの時代の点字音譜における第一人者であり、氏のこの方面の造詣の深さを語るに充分である。」と「点字発達史」の著書・大河原欽吾氏は絶賛している。かくして、失明の苦痛に悩む盲人の心象表現に最も効果的な音楽教育の重要性に着目していた文部省は、国蔵の点字音譜を基本にして明治43年10月「訓盲楽譜」を発行した。彼のこの功績は盲人文化史に、永く伝えるに足る輝かしい業績である。([盲人に音楽を」による)
     国蔵は明治23年より同27年まで、点字選定委員として点字調査の傍ら「小学校唱歌集」の点字楽譜の創案にあけくれた。
     同28年3月漸くヴァイオリン科を卒業。
     そして、眼科治療と後期医術開業試験への再挑戦をはじめた。
     先づ帝人医科付属病院に入院。
     河本教授の手術を受けた。
     視力低下の悲しみを味わってから満6年、漸く新しい医術によって奇蹟的に視力を回復し、心機一韓医術開眼へかける初志貫徹に邁進した。
     先づ、湯島天神堂に佐藤舜海院長を訪ね、許しを得て、その医局に招ぜられ、医局で働きながら開業試験の準備に没頭。
     遂に同29年の春後期、医術開業試験に晴れて合格した。
     思えば、長い道のりであった。
     初志を貫徹した国蔵は、帰郷前に北里柴三郎先生の門を叩くなど多くの最新の医療施設を訪ね、当代一流の医家たちの教授を戴き、父・意泉を助けて順仁堂を継承する医家として心技を整えた。
     刻苦すること14年、明治30年の初夏、家族の待ち詫びる故郷に帰ることができた。
     いよいよ「いしぇさま(意泉様)」の若先生の活躍が始まった。
     彼は来診、往診の患者を診るだけでなく、教育や行政などの問題にも大きい関心を持ち、翌年より母校遊佐小学校の校医
     のち高瀬隔離病舎医となる。早速すすんで児童生徒、父兄に対する伝染病の勉強会をはじめた。遊佐村に衛生組合の結成に尽力。更には六日町に高砂夜学会を開設し、青年教育を図り、「国力の増強は個人が先づ裕福になることだ」と、和協貯金会を結成する等、帰郷後の彼の働きはまことに驚くばかり、流石、日本点字楽譜の始祖として面目躍如たるものがあった。
     然るに、同42年6月20日、「和協貯金三年記念会」の夜、会終えて帰宅、玄関先で心臓麻痺で倒れる。惜しみても余りある生涯であった。享年42歳。
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    ■山形県飽海郡遊佐町遊佐字石田7  順仁堂遊佐病院
                    0234-72-2522     院長 佐藤卓

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    2010年8月24日 (火曜日)

    唇があるのは人間だけ

     哺乳類で唇があるのは、人間だけだそうだ。Lip02o_2

     「くちびる」は、顔かたちをはじめ、表情、話をするとき、食事をするとき等々大切な要素がたくさんある。

     それにしても、唇にはどうして毛がはえないのだろうか。Servicefacialfeminization
    それは、「くちびる」は、消化器の一部として、顔に見える前端の部分がめくれた状態だからだそうだ。
     だから、口を閉じていても、外から赤い色の色素が見えていることになる。
     
     なお、「消化器」は、口から肛門までの管のことで、人間は食道、胃、腸などがあって複雑な構造になっているが、ミミズなどは単純に一直線になっている。
    Dd2_2
     それから、人の「くちびる」は、たくさんの小筋肉群の集まりでできていて、敏感な神経が発達している。
     「くちびる」の形の善し悪しは、男女とも大きな魅力の要素と思う。個人的には、大きすぎる唇は魅力を感じない。

     特に女性と顔を合わして話しをするとき、目の次に「くちびる」に目がいくのは自然なことだと思うのだが、他の人はどうなのだろうか・・・・・。
     それとも、「性的アピール」を感じているからか?。
     今度、自己分析しようと思う。
      

    他人なら 優しく出来ても 恋いはエゴイスト 寂しさで 抱き合うのさえ ときに臆病になるわ そう街は大きな鳥かごね みんな飛べない 歯痒ゆいのよ その唇 キスする場所間違えてる 心の傷なら そんなとこない

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    2010年8月23日 (月曜日)

    日本航空「ジェットストリーム」

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    遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、 はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、たゆみない宇宙の営みを告げています。満天の星をいただく、はてしない光の海をゆたかに流れゆく風に心を開けば、きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんでまいります。日本航空があなたにお送りする音楽の定期便ジェットストリーム。皆様の夜間飛行のお供をするパイロットは私、城達也です。

     「皆様の夜間飛行のお供をするパイロットは私、城達也です。」にはじまる、
     『JET STREAM』(ジェット・ストリーム)は、TOKYO FMのJAL広報番組だ。
       「ジェット気流」とか「ジェット噴流」と訳されるようだ。

     JAL(日本航空)は、22年1月に経営破綻している。
     この更生計画が、8月末にもようやく裁判所に提出される見通しになった。
     また、今年2月に上場廃止となっていたが、年内にも再上場を目指すそうだ。
     日本航空も、旧・国鉄と同じで、労働組合につぶされたようなところ。
     日航5労組は、「アカ組合」と呼ばれていた。
     左翼イデオロギー集団の労働組合は、資本主義、大企業、アメリカ帝国は敵であり、自社であっても平気で潰しにかかる。そして最後は、利用者や国民に迷惑をかける。
     この図式は民主党も同様だ
     ただ、政党は国家を潰しにかかるから被害は甚大になる。
     現政権の、国際的信用失墜から莫大な国家損失が起きていることは、ようやく国民にも知られてきた。
     「基地はいらない」、「高速は無料だ」などと現実離れの理想だけを掲げて、国民を惑わし政権を握ったものの、結局は何も出来ずに自滅している。
     解体の直前だ。
      そして、国家、国民だけでなく、諸外国にも大きな迷惑を掛けている。
     同盟国アメリカからは、民主党政権は“左翼政権”と位置づけられバカにされているのだから、全くお話にならない。
     左翼は、まず大きなアドバルーンを上げ国民を引きつける。つまり闘争テーマだ。
     現在は、「沖縄基地問題」、原水禁などの反戦運動、かつては「日米安保反対」、「成田空港問題」等があった。Jotatsuya
     しかし、いざ政権に就き、実行すべき立場になると急におとなしくなる。理想郷(ユートピア)と現実社会は全く違うことを知るからだ。「安保反対」「造反有理」のシュピレヒコールの声を、民主党議員の口からもう一度聞きたいものだ。
     もう口が裂けても言えないセリフだ。 
     おっと、テーマから大きくはずれすぎた。

     多くの中高年にとって、JALの「ジェットストリーム」は永遠だ。
     この「ジェットストリーム」の一回目は1967年7月から1994年12月まで、FM東Images京で深夜0時から放送されていた。
     そして、城達也は終了した2ヵ月後の、1995年2月25日に食道がんで逝去された。
     城達也のゆったりとしたナレーションで始まる「ジェットストリーム」に幾度いやされたことか。
     現在は去年4月から5代目の大沢たかおが担当している。

     初代の「ジェットストリーム」は我が青春と重なる・・・・・

    オープニング
     遠い地平線が消えて、ふかぶかとした夜の闇に心を休める時、
     はるか雲海の上を音もなく流れ去る気流は、
     たゆみない宇宙の営みを告げています。
     満天の星をいただく、はてしない光の海をゆたかに流れゆく風に心を開けば、
     きらめく星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、なんと饒舌なことでしょうか。
     光と影の境に消えていったはるかな地平線も瞼に浮かんでまいります。
     日本航空があなたにお送りする音楽の定期便ジェットストリーム。
     皆様の夜間飛行のお供をするパイロットは私、城達也です

    エンディング
     夜間飛行のジェット機の翼に点滅するランプは、
     遠ざかるにつれ次第に星のまたたきと区別がつかなくなります。
     お送りしております、この音楽も美しく、あなたの夢に、溶け込んでいきますように、
     日本航空がお送りした音楽の定期便、
     ジェットストリーム、夜間飛行のお供をいたしましたパイロットは私、
     城達也でした。
     また明日、午前0時にお会いしましょう

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    2010年8月22日 (日曜日)

    高齢者不明問題の考察と対策

     「高齢者不明問題」を考察してみるが、何か効果的な対策はあるだろうか。
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     高齢者不明問題は一気に全国に広まり、日本社会の暗部が露見した
     まるで国家による「うばすて山」の時代が到来したかのようだ?
     しかし、大変な社会問題のはずだが、国民もマスコミも受け止め方が冷静すぎる。それは、「高齢者なら死亡していても仕方ない」との感覚がどこかにあるからではないだろうか。
     これが子供が大勢不明なら、殺人、誘拐、猥褻、拉致と大騒ぎしているはずだ。
     
     ここで、結論のヒントを書いておくが、「高齢者不明問題」は、孤独死、自殺、行き倒れが身元不明のまま処理され、戸籍だけが生き続けている可能性が一番高い
      専門用語で「行旅(こうりょ)」と言う。
     旅行ではない。意味も近いようで遠い。
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     まず、今回の問題提起は、個人的には良かったと思っている。国民も何かに気づいたはずだ。
     かつての日本は、何処の家も三世代、四世帯同居が普通の形態だったが、ここ数10年で核家族化が急速に進み、高齢者だけの世帯が増加している。
     これは戦後、GHQ指導下で進められた「家父長制の解体」に起因し、いつかは、このようになると予測されたことだ。来るべき社会が確実に来たと見るべきだ。
     しかし、これが国家が衰退した末期症状であることに気づいている人は少ない。

    高齢者及び一人暮らし世帯の増加と要因
      ここ数10年で、年齢を問わず1人暮らし世帯が非常に増えている。
     高齢者が子供と離れて暮らしたり、元々子供のない人が高齢になった場合などだ。
     また、日本の65歳以上の高齢者は、約2500万人と言われ、一人暮らしは確実に増加する。これに拍車を掛けているのが、晩婚化、非婚化だ。
     これは、子供も配偶者もいない高齢者が自動的に増加することで、今以上に所在確認が困難になり、結果として、ひっそりと死亡しても誰も気づかないことになる。

    高齢者所在不明の考えられる形態
               (※
    他の分類方法もありそうだが、今は思いつかない
     (1)家族が死亡を隠し続ける
      足立区で発覚した事例のように、家族が年金受給を目的として消息を隠し続ける。
      遺体は持ち運んでいた大田区の事例のほか、何処かに隠した可能性が高い。
     (2)事件に巻き込まれた
        高齢者に限らないが事件に巻き込まれたが、事件も遺体も発覚していない。
       身よりが無ければ、戸籍は残る。  
      (3)身よりがない一人暮らしの人がひっそり死亡した
       路上生活者の死亡を含め、この形態が都会で増加しているという。
       身よりがない人は高齢者だけではない。それに、行きすぎた個人情報の保護が
     影響し、大家や不動産屋が店子の個人情報を把握していない例がある。
      中には保証人を必要としないアパート、マンションもある。
      つまり、ひっそり死亡した場合、遺体は身元不明者となる。住民登録があれば
     何か手がかりもあろうが、勤め先等の個人情報も全く不明の場合があるという。
      このような場合も、戸籍は残ることになる。  
     (4)自らの意志で姿を消した
       突然、自らの意志で姿を消して所在不明になり生死確認がとれない。
      今も何処かで生活しているかも知れないが、自殺遺体の未発見や行き倒れ遺体が
      身元不明で処理され、戸籍だけ生き続けている可能性が一番高い。
      これを行旅病人及行旅死亡人取扱法による「行旅死亡人(こうりょしぼうにん)」
     呼ぶ法律用語だ。(3)の一人暮らしの場合も含まれるが、身元不明遺体は、国内で、
      昨年1年間で、約1000人、過去25年間の累積で1万6765人にのぼるという。
      つまり、1万6765人以上の人達は戸籍では生き続けていることになる。
      今回、発覚したものは、ほんの一部。Jimg_2
      これが日本社会の現実だ
     
    高齢者所在不明の対策は
      悪意から発生した(1)(2)の事例は、事件として立件し世間に警鐘を鳴らす必要がある。
      しかし、(3)(4)の事例は深刻な社会問題だ。社会の構造が関連してくる。当面、行政による定期訪問が期待されるが、中には住民登録していない例もあり抜本的対策にはならない。
      ましてや、地縁・血縁社会が崩壊した現在、近隣などに期待することは無理だ。
      (かろうじてあるのは「職縁社会」(職業による結びつき)だけだそうだ)

     (1)抜本的対策として「国民基礎番号制度早期実現」
      
    政府が導入を目指す、「国民共通番号制度」の中間報告が今年6月にあった。
      これが実施されれば、高齢者の所在不明対策も方策も多少は講じやすくなる。
      さらに、効果を高めるには、指紋やDNA等個人識別データの導入を提案する。
       これが無いと、中途半端な制度になるおそれがある。
       骨だけになったらDNAだけが頼りだ。
      効果として、「失踪者の捜索」、「犯罪検挙と抑止」、「年金不正受給減少」などが
      ある。逆は、「導入時のコスト」、「個人情報保護問題」などが上げられる。

     (2)共通番号の利用範囲拡大(大前研一氏の主張と一致
       
    若年時からのデータ蓄積によって所在確認を容易ににする。
       パスポート、運転免許証、健康保険証、厚生年金手帳、印鑑登録証、医療情報や
      交通事故の履歴まで、すべての情報を一元化して、ICカードにして各人が持つ。
       国民は1枚のICカードで、すべての行政サービスが受けられることになる。

     (3)スウェーデンや韓国の基礎番号制度を参考にする
       基礎番号制度で、最も進んでいるのはスウェーデンと韓国だ。
       「税務、社会保障、住民登録、選挙、教育、兵役」まで、全てを共通番号で
       管理しているそうだ。よく、マスコミはスウェーデンの社会福祉制度を褒め称え
       るが、裏にはこのような制度でシッカリと管理していることを知ることも大切だ。
     
    むすび
      国家によって「家父長制」が解体された現在、国家が代わって家父長になって国民を世話する以外に手立てはない。それがイヤなら、「家父長制」が復活するように国家の制度を改める以外にない。

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    2010年8月21日 (土曜日)

    面白地名・遊佐町「唐船場」

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     ↑写真の左・中央付近が吹浦小学校。

     山形県遊佐町吹浦海岸近くに「唐船場」(とうせんば)という地名がある。
     場所は、国道7号吹浦バイパスとブルーラインが立体交差する辺りだ。
     ネット上の地図で「唐船場」を発見できたのは、グーグルだけだったTosenba

     もっと正確には、国道7号線とブルーラインの立体交差を十六羅漢方向に曲がると「吹浦小学校」があるが、この小学校の裏手に、旧道の「南光坊坂」がある。
     この辺りに江戸時代、外国船を見張る「唐船場」があったはずだ。正確な位置は知らない。

     この辺りは、鳥海山が噴火して溶岩が流れて盛り上がった「吹浦山」の一角だ。そして溶岩が海に流れ込んだ先端が十六羅漢がある海岸となる。Photo
     綾瀬はるか主演の映画「ICHI」のロケ地になった吹浦の「鳥海山大物忌神社」から見ると北側の高台に位置している。それに吹浦小学校も、昨年、松岡錠司監督作品の『スノープリンス 禁じられた恋のメロディ』の撮影が行われている。
     晴れた日には、日本海が遠方まで見渡すことが出来る。
     
     「唐船場」は、「唐船番所」或いは「唐船遠見番所」とも言われ、外Ichi国船を見張るために各地に設置された。最初は、江戸時代初期の家光の鎖国令に基づいて全国的に置かれたそうだが、日本近海に外国船が出没するようになった寛政年間(1789~1800年)に復活し、幕末まで機能していたようだ。

     因みに、庄内では、鶴岡市加茂今泉(加茂水族館近く)にも「唐船場」があったというし、宮城県石巻市の牡鹿半島では「唐船御番所公園」として整備されている。
     宮城県のように、「唐船場」があった場所を「見晴台」にするなど分かり易くすれば、歴史の勉強の場所になると思うのだが・・・・・・。
     
     また、山形県庄内海岸で北朝鮮不審船が問題になった昭和40年当時は、西浜海岸の松林近くに櫓を組んで、不審船発見の見晴台が作られたことがあった。

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    http://maps.google.co.jp/maps?q=%E9%81%8A%E4%BD%90%E7%94%BA%E5%90%B9%E6%B5%A6%E5%94%90%E8%88%B9%E5%A0%B4&hl=ja&tab=il&btnG=%E5%9C%B0%E5%9B%B3%E3%82%92%E6%A4%9C%E7%B4%A2

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    2010年8月20日 (金曜日)

    「死の商人」大倉喜八郎

     前回、坂本龍馬を「死の商人」と紹介したが、同業者に「大倉喜八郎」がいる。Ookura
     「鯉は 小さなたらいでは 育たんす」と言いながら、新潟から、幕末1853年18歳のとき、20両(今の約60万円)を持参し江戸に上った。

     大倉喜八郎は天保8年(1837)生まれ、幼名「鶴吉」、越後、蒲原郡新発田出身、一代で「大成建設」創業の他、サッポロビールホテルオークラ、東京経済大学、千代田火災海上(現あいおい損害保険)、日清製油(現日清オイリオグループ)、東海パルプ、川奈ホテル、帝国繊維、サッポロビール、リーガルコーポレーション、日本化学工業 、東京製綱、日本無線 、富士銀行、太陽生命、東京慈恵会医大病院、更には、神戸市「大倉山公園」寄付、新発田市「東公園」寄付などの、数々の創業・起業に成功し、国内数カ所の地名にまで名を残した。

     このような成功には、必ず裏がある
     坂本龍馬同様、どのように評価するかは個人の勝手だ。
     最近の日本人は、金儲けのチャンスを物にしたと評価する人が多い。
     金儲け上手が、立派な人、偉い人、尊敬される人との評価が定まった証だ。
     すっかり商人(あきんど)国家になってしまった。かつての、「一身を国家(藩)に捧げる」ことを美徳とした、侍国家の姿は消えた。

     金儲けの成功は「偶然」が重なったと、大倉喜八郎は後年述懐している。
     江戸に上って約10年、乾物業や金貸しなどをやって来たが今一つ不満だった。
     「早く大商人と言われる身分になりたいものだ」と情報収集に努めていた。
     ある日、喜八郎は横浜港に行くと、頻繁に黒船が来ることを知る。800pxhotel_okura_1_2006_05
     そこで、兵器の積み降ろしを目撃した。
     現場監督の日本人が、「どこの藩でも、洋式鉄砲や大砲を手に入れたがっている。そのうちに、でっかい戦が始まるぞ」と話す。
     これは、「必ず戦争が始まる」と直感する。
     そして、戦が始まれば「武器が必要になる」。
     約10年開いていた乾物屋をたたみ、
     八丁堀にあった「鉄砲商小泉屋(小泉屋忠兵衛)」で鉄砲のことを修行する。
     ここの見習いは5カ月で止め、神田・和泉橋通に「大倉銃砲店」を開業する。
     1867年(慶応3年)2月のこと。龍馬の亀山社中設立に遅れること1年半後だった。
     思惑通り、戊辰戦争が始まり、武器の需要は急激に高まる。
     
     前置きが続く。
     幕末「戊辰戦争」がはじまると、東北諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成した。
     しかし、形勢が悪くなると次々に同盟を離脱する藩が出た。
     最初に離脱したのは「秋田藩」、「新庄藩」、続いて「弘前藩(津軽藩)」だった。

     「弘前藩」は官軍側に着くと、箱館戦争の際には、函館を攻める官軍の前線基地の役割を担うことになる。更に、明治新政府から最後の闘いの場になった「函館戦争」に向かうように命令される。このとき、新式の銃が欲しい弘前藩は武器調達を、「大倉銃砲店」の大倉喜八郎に新式ライフル銃2千5百丁購入を依頼している。
     「大倉銃砲店」は、江戸・神田の和泉橋通りにあった。
     依頼に出向いたのは、津軽藩の西館平馬。

      大倉喜八郎は後年、「弘前藩」からの依頼に対して、
     「運試しにひとつやってみる。もしこれが失敗するようなことなら、自分に運がないのだと諦めるより以外にない」、「そこで私は自分の身代を残らず売り払って金にし、これでやっと注文だけの小銃二千五百挺と弾薬を整えることができた。それから横浜の亜米利加一番で独逸(ドイツ)の帆前船を一艘雇って、それに鉄砲弾薬一切を積みこみ、自分もその上乗りをして、いよいよ津軽に出帆することとした。」
     と語ったと言う。(尾崎竹四郎著「東北の明治維新」から)

     身代を残らず売り払い、自分も船に乗り鉄砲を運んだ武勇伝は広く知れ渡り、「大倉屋は金もうけ一本やりでなく、義侠心に富んだ男だ」という評判が定着した。
     以来、店は大きく発展、明治6年(1873)資本金15万円で「大倉組」を設立した。
     ここから数々の創業が始まった。
     坂本龍馬は、1867年(慶応3年)11月暗殺され夢は頓挫したが、喜八郎は、これを後継したかのように明治の世でも大きく羽ばたいた
     大倉喜八郎の名言「鯉は小さなたらいでは育たんす
    -------------------------------
    1853年(嘉永6年) 6月■アメリカ東インド艦隊司令官・ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航す。
    1855年(安政2年) 10月■安政の大地震が起こる。
    1857年(安政4年) 5月■下田条約調印。 1858年(安政5年)
                4月■井伊直弼が幕府大老の職に就く。
    1859年(安政6年) 6月■横浜が開港す。
    1860年(万延元年) 1月■幕府の軍艦・咸臨丸が太平洋を横断す。
    1862年(文久2年) 1月■坂下門外の変が起こり、幕府老中・安藤信正が負傷す。
    1863年(文久3年) 3月■将軍・徳川家茂が京都に上洛す。
               6月■高杉晋作が奇兵隊を結成する。
               7月■薩英戦争が勃発す。
    1864年(元治元年)6月■池田屋事件が勃発、新選組が一躍名を馳せる。
               7月■佐久間象山が斬殺される。蛤御門の変(禁門の変)が起こ
              り、薩摩・会津両藩VS長州藩が御所を囲んで激戦す。
    1865年(慶応元年) 5月■土佐勤王党の頭目・武市半平太が処刑される。
               6月或いは7月に
                坂本龍馬が薩摩藩の支援を得て、長崎に亀山社中設立。
    1866年(慶応2年) 1月■坂本龍馬の活躍で薩長同盟が成立す。
                 ■寺田屋にて坂本龍馬が幕吏らに襲撃される。
               6月■幕府が第二次征長の役を起こす。
               7月■14代目将軍・徳川家茂が病没す。
              12月■15代目将軍に徳川慶喜が就く。攘夷佐幕派孝明天皇崩御
    1867年(慶応3年)2月■大倉喜八郎、神田に「大倉銃砲店」を開業する。
               4月■亀山社中が土佐藩の支援を受けて、海援隊と改称
               6月■坂本龍馬が『船中八策』を作成す。
               7月■中岡慎太郎が土佐藩の支援を得て、陸援隊を結成す。
              10月■幕府が朝廷に大政奉還を奏上す。朝廷から討幕の密勅。
               11月■坂本龍馬・中岡慎太郎が見廻組に襲撃され暗殺される。
               12月■朝廷から王政復古の大号令が発せられる。
    1868年(慶応3年12月25日)(1868年1月19日)■三田の薩摩藩邸焼き討ち         
    1868年(慶応4年~明治元年)
              1月■鳥羽・伏見の戦いが勃発※戊辰戦争が始まる
              3月■江戸無血開城が成る
              5月■奥羽越列藩同盟が結成。
                ■上野で官軍VS彰義隊が戦い官軍勝利。
              8月■官軍VS会津藩軍の戦いが始まる。※会津藩降伏。
       明治元年9月8日■年号を明治へと改元し、一世一元の制を定める。
    1869年(明治2年) 1月■薩長土肥の四藩主が版籍奉還を上奏す。
    1870年(明治3年) 10月■土佐藩出身の岩崎弥太郎が「三菱」の前身
                   九十九商会の運送業を 始める。
    1873年(明治6年)  ■大倉喜八郎「大倉組」設立

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    2010年8月19日 (木曜日)

    「靖国神社」に参拝しない理由

     例年の終戦記念日前後や総理の靖国参拝などに関連して、不本意ながら靖国問題が取り上げられるが、同時に、戊辰戦争で賊軍にされた奥羽列藩同盟に列した藩や彰義隊に連なる多くの東北人にとって、複雑なものがある。
     読んで頂ければ理解してもらえるだろうが、反対意見があっても然りだ。
     先に、左翼勢力や中・韓の靖国批判に組するつもりはないことを断っておく。
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     最初にポイントに触れるが、靖国神社は「勝てば官軍の論理」で建立された神社で、古来からのおおらかな神道の精神に基づいた建てられ方をしていない。その証拠に、大鳥居をくぐると戊辰戦争で司令官だった長州藩の大村益次郎の巨大な像が鎮座しているが、正に薩長、特に長州藩のための神社ではないかと良識ある人は見てしまうのだ。

     東北地方は、
     仙台第二師団のガ島玉砕、第36師団(雪部隊)のニューギニア玉砕はじめ、戦没者の多い地域だが、「靖国神社に参拝すべきだ」とする意見には異を唱える人が多い。

     
     「朝敵は弔わず」、これは賊軍に対する明治政府の一貫した姿勢だった。
     東北(奥羽列藩同盟)の犠牲者をはじめ、、彰義隊、西南の役の西郷隆盛側などは靖国はもちろん、日本各地の招魂社(護国神社)にも祀ることはなかった。
     そして、薩長中心による富国強兵政策の一貫としての軍事強化推進が、その後の日清・日露・大東亜戦争につながったと見るのが自然だし、靖国はその精神的支柱として存在した。
     今なお、“明治政府(官軍側)は素晴らしかったと絶対視”し、賊軍とされた地域のインフラ整備の後回しなど、東北蔑視政策が続くかぎり、多くの東北人が心から靖国神社を参拝する気持ちにはならないだろう。  

     そこには、薩長が天皇を人質同然にした当時の、「天皇陛下=靖国神社だ。文句あるか」という、天皇の威光を利用するだけ利用した空気が流れているGosinkan01_2
     それに比して、京都守護職を務めた会津藩主・松平保容は、孝明天皇から辰翰を賜り、正に官軍 だった。
     明治26年12月5日松平保容公死後、辰翰の事実を知った明治政府は、この内容が公になれば、自分達が嘘で固めた歴史観根底から覆えるとあわてた
     そして、明治政府は密かに大金で譲渡するように圧力をかけたが、会津藩・松平家はこれを頑強に拒否した。
     何度でも繰り返すが会津藩側が官軍薩長土肥(明治政府)側が賊軍だったのだ
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     それに薩長や岩倉具視らの戦略による錦旗の偽造や、孝明天皇の毒殺説も有力だ。これが薩長は「(にせ)官軍」と言われる理由であり、偽(にせ)官軍が天皇陛下の威光を利用するために作ったのが「靖国神社」という図式になる。
     当時は、犯罪者集団の薩長の志士ら、後ろめたさを覆い隠すには、天皇陛下の威光を徹底的に利用する以外に無かったのだろう。

     だから、「靖国」問題には、常に胡散臭さが付きまとう。  
     「天皇陛下=御輿=正義」となり、天皇陛下まで利用するという、やりたい放題のことをやって誕生したのが明治新政府ということだ。
     まあ、共産主義と同じような手法の暴力革命維新)だから何でもありなのか
     それなら、そうだったと隠さずに認めればいいのだ。
     これが、今の人達が賛美し褒め称える明治維新、明治政府の汚いやり方だ。
     考え方を、どのように軌道修正すれば尊敬できるのだ。
     是非、教えて欲しい
     何が正しいかは、いつか歴史が証明すると期待している。

      
     父親はニューギニアからの帰還兵だった。
     遺族会に関連し、恩給欠格者、戦後強制抑留者問題等から、靖国神社には目と鼻の九段会館に山形県或いは地元代表として会議等で良く上京していた。
     用が済むと「千鳥ケ淵戦没者墓苑」参拝は習わしだったが、知る限り靖国神社を参拝したことは一度も無かった。
     昭和50年頃だが、なぜかと確認すると「靖国神社は官軍の神社だ
     俺にも賊軍にされた庄内藩の血が流れている」と意地を語った。
     靖国神社は、東北の賊軍への当てつけ明治政府が作った薩長のための神社だとも言った。
     それに、東北出身者で編制された部隊では、
       「靖国神社で逢おう」という言葉は戦場では無かったと言う。
     終戦で、「薩長支配は終わる。この戦争で裁かれるのは薩長だ」と思ったそうだ。
     この頃は拘りが薄いようだが、父・祖父らの世代は戊辰戦争は最近の戦いだった。
     このように、東北人の多くは、「靖国神社」と「戊辰戦争」は深く連動している。
     だからと言って、中国、朝鮮半島、左翼らの靖国論に与するつもりは全くない。
     

    賊軍となった庄内藩が、官軍の戦死者を手篤く祀った例を紹介する。
     ▼ 山形県鶴岡市清川(立川町大字清川)に戦死した長州藩兵の「清川官軍の墓」がある。地元民が弔ってきたが、昭和43年には長州藩出身の岸信介元首相によって顕彰碑が建てられた。
     ▼また、山形県新庄市には「戊辰戦争官軍之墓」がある。
     明治元年7月13日舟形口合戦で戦死した官軍4名の墓所だ。
     ▼そして、官軍についた秋田藩と庄内藩の「横手の戦」では、庄内藩は秋田藩戦死者を横手市の竜昌院に丁寧に埋葬し墓標を建立している。(詳細は下段に記載)
    これが、敗者にも優しく手を差し伸べる東北人の自然な振る舞いだ。
     ▼酒田市の光丘神社の官軍墓地
      本殿裏手、境内の外に官軍墓地がある。
      戊辰戦争後、庄内地方に駐屯した約4千名の内、佐賀藩等1千余名が酒田に
      駐屯したが、約一年の駐屯中に8名の病没者を出した。
      日枝神社の厚意によりこの地に墓を建てた。

    次に、官軍となった薩長庄内藩の戦死者を貶めた例を紹介する。
     ▼山形県遊佐町吹浦字三崎に「三崎峠戊辰古戦場」がある。
      ここは、秋田・山形県の県境で官軍と「庄内藩」の最後の戦いとなった場所だ。
     1868年(慶應4年)7/13~16亀田藩等西軍と三崎峠にて戦闘が勃発した。
     この三崎峠で戦死した庄内兵の遺体は、見せしめのために引き取ることを許されず長年放置された。そのため三崎は、無数の白骨が転がるという有様が長く続いた。
     戊辰戦争から50年近く経った大正3年(1914)、遺骨はようやく拾い集められることが許されたが、4ダース入り大型ビール箱二つが満杯になるほどだったという。
     拾い集められた遺骨は、供養した上で翌年秋彼岸、この地に埋葬された。
     供養塔はその時建てられたもので、無名の藩士たちの墓碑となっている。
     この話は祖母が良く知っていた。

     官軍(明治政府)は徹底的に東北に対して意地悪をしたのだ
     これが差別でなくて、何を差別というのだ。 

     前回“なぜ「東北地方」と呼ぶのか”と
     「明治政府は東北を蔑視し続けた
     更に、「勝てば官軍、負ければ賊軍」を記載した。
     今回は、東北人の「靖国神社」に対する感情を紹介している。

    ■明治天皇が東北巡幸に際して、東北各地の官軍の墓だけを参拝させた
     この参拝を計画したのは薩長系の役人だった。天皇の御旗の元、薩長は戦死者に対しても差別を続けたことに、巡幸の有難味は半減したという。
     これは事実だ。Photo_2
    -------------
    東北の明治維新朝敵は弔わず」(尾崎竹四郎著)
     維新の栄光の影にたおれた、これら奥羽の朝敵、賊軍の数千の霊を招魂社で更に合祀することは禁ぜられた。招魂社は明治2年、維新の犠牲者を祭るために明治政府によって創建され、同12年、靖国神社と改称されたが、賊の汚名をさせられた奥Image0036_2羽の戦死者は、神に祭られることを許されなかったのである。
     東京の靖国神社はもちろん地方の招魂社(のちの護国神社)にも祭られなかった(大江志乃夫『靖国神社』)。
     靖国神社も招魂社も、無名の庶民の言を祭る庶民のためのものでなく、時の権力者の、官製のものであった
     奥羽戦争が終わってかれこれ10年の歳月を迎えようという明治9年、明治天皇は初めて東北を巡幸した。
     この巡幸は東北に恵沢をもたらすものとして謹記されているが、このとき、各地で官軍の墓には勅使を差遣して参拝させたが、賊軍の墓には勅使を出さなかった。
     勅使差遣の判断は明治天皇自身のものとも考えられないが、側近は日本を改革した薩長系の人間たちであった。彼らは天皇を掌中にし、錦旗をかつぎながら、なお奥羽の荒野に死んでいった賊の将兵には参拝を拒否したのである。
     明治維新も、裸にしてみれば、やはり、官と賊、藩と藩の仇敵意識がしつこくからみついていたいたこともわかる。
     それについて思いだす。
     敵味方の区別なく戦死者を祭る日本古来のしきたりに従った例--
     庄内藩は破竹の勢いで総督府軍と秋田軍を追撃し、横手城を攻略した。庄内の指揮官は松平甚三郎と酒井吉之丞、横手の城将は秋田の家老戸村十太夫の子大学、わずか20歳であった。父十太夫は秋田にいて藩の機務に参画して不在、若手ながら城を守っていだ。城兵は一握りにすぎな い。
     庄内軍から、しきりに流血を避け投降するよう勧告された。
     これを退けて大軍を迎えたが、わずか一日で落城した。
     翌日、庄内軍は城のあちこちに横たわる死体を集め、城北の竜昌院に運んで葬り、憎を呼んで読経、供養し、「佐竹家名臣戸村氏志士墓」と書いて標柱を建てて前線に立ち去った。標柱の背面には、「奥羽義軍葬埋礼拝感泣して過ぐ。惜しいかな、この人々の氏名を知らず。もしこれを知る者あらは、あきらかに追記せんことをこいねがう」と書きつけた。

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    2010年8月18日 (水曜日)

    ハナニラ(花韮)が美味い

     東京で「ハナニラ(花韮)」がようやく手に入った。Image0038
     7月はじめ、山形に帰省し久しぶりに食べた「ハナニラ」は昔懐かしい味だった。
     「ニラの花」に目がない、とブログにも載せた。
     (※東京は花ニラと呼ぶようだ。右は7月23日読売新聞・夕刊)

     昔、郷里のニラを植えた畑は、自宅から500メートルも離れていた。
     ハナニラが採取出来る季節は短く、タイミングを外すと伸びきって堅くなる。
     ハナニラが好きなことを知っている母親からは、採って来ることを良く頼まれた。
     一株から数本しか生えないので、摘み取るのが面倒だったが、食べたい一心で懸命に摘んだものだった。
     食べ方はいたってシンプル。
     沸騰したお湯に、塩を少々いれて、軽く茹でる。
     お湯から出したら、水に浸けて色止めする。
     その後、食べるまでの間、冷蔵庫で更に冷やすと旨さがアップする。
     「お浸し」は、ショウガを擦って乗せて醤油で食する。
     当然だが穂先も全部食べられる。
     他にニラ同様に、例えば「ニラ玉」や「ニラ炒め」でも合うはずだが、我が家は「お浸し」一辺倒だ。

     この「ハナニラ(花韮)」を
     東京でも探したが、この界隈では全く置いてなかった。Dscn3998
     苦肉の策で、近くの八百屋さんに特別注文した。
     依頼したのは、7月20日ころだったが、8月に入り「まだ出ていないようです」と連絡が来た。
     忘れないでいることに安心する。
     そして、先日連絡が来た。栃木産だった。
     山形県は7月に集中していたようだが、こちらは、今が旬なのかも知れない。
     10束ほどある。毎日食しても飽きない。
     鮮やかな緑色は食欲をアップさせ、ニラよりは柔らかくシャキシャキ感が実にいい。
     八百屋さんには、「またお願いします」と告げて来た。

    ■「多摩湖畔日誌」英訳

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    2010年8月17日 (火曜日)

    「城輪柵」日本最古の将棋駒

     山形県酒田市近郊の「城輪柵(きのわのさく)」内に、近い親戚があるImage0037
     この辺りは、庄内平野最古の郷野目堰など灌漑用の堰(せき)が縦横に流れ、子供の頃はこの堰でよくナマズなどを捕まえた。
     すると、川底や近くから「瓦や焼き物の破片」が邪魔になるくらい出る場所があった。破片には、意味不明の紋様があったが、何も知らずに捨てたり遊びに使っていた。
     まだ「城輪柵」が発掘される随分前のことだ。
     
     昭和50年頃だろうか、帰省の際立ち寄ると大々的な発掘中で、近隣の田畑一面が掘り起こされていた。発掘の広さは、右上の写真の数倍はあったと記憶している。
     伯父達も「全部、ほげらっでしまて、何も植えることデギネ」と嘆いKinowasaku2ていた。
     その後、ここから日本最古と言われる「将棋の駒」が出土したことは、東京でニュースで知った。それまでは、奈良県の興福寺出土駒が日本最古(1058年)とされていたが、酒田の出土駒の方が旧型だという。
     この「城輪柵」は、奈良時代末期に秋田城より移設された「出羽国府跡」と見られる古代の城柵跡だ。総面積は52万㎡あり一辺が約720mの四方形のようだ。駒込の六義園の一辺が400mだから倍近い。皇居の約3分の2だろうから、かなり広い。
     現在、政庁南門、東門などが復元され歴史公園として整備されている。
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      城輪柵遺跡から出土した将棋の駒には、「」と記してあり、今のところ日本最古だそうだ。この地に派遣された兵士達が、暇つぶしに遊んでいたものであろう。

     将棋の紀元は、古代インドや中国に成立したゲームと言われるが、「謎ジパング」―誰も知らない日本史-明石散人によると日本で創作された独自のゲームの可能性高いという。
     同書「日本最古の将棋駒 王様はいなかった?」の項で述べている。
     そして、「とかく日本に伝承される何事も、日本に始まったものはなく、中国・朝鮮・インドから伝わってきたとされがちな我々日本人。」
     と批判している。Contents_img
     日本独自だという理由は、長くなるので止める。

     因みに当方も、子供当時から良く将棋を指していた。
     今も、「将棋ゲーム」にアクセスすることがある。
     このソフトは実力が3段階に分かれ、一番強い「レベル3」はなかなか手強い。コンピューター側に駒を持たせると、隙を見つけて的確な場所に打って来る。今のところ、当方が勝ち越しているが、レベルを知るには丁度いいと思う。

    将棋ソフト「将皇」公開中
    http://www14.big.or.jp/~ken1/application/test/shogi.html

    Photo

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    語る資格が無いのはどっちだ!

    annoy歴史を語る資格が無いのは崔だannoy24c3c95b

     8月14日NHKで「日本のこれから、ともに語ろう日韓の未来」が放映されたが、韓国・済州島出身、在日映画監督の崔洋一(61)が、日本人の言論を封殺した。
     あの傲慢不遜な態度は益々敵を増やす。
     出身地の済州島は、朝鮮戦争が勃発する直前の昭和23~25年当時、ソ連の指導下で島民の殆どが共産党員や支持者になった。C_13
     つまり真っ赤な島になった。
     北朝鮮側と一緒だ。
     危機感を持った時の政権、李承晩(リショウバン)と支援する米軍によって島民の約3万人大量虐殺事件が発生した島だ。
     そして虐殺から逃れるために、日本に20万人前後が密入国したと言われる。
     日本に済州島出身の韓国人が多い理由がこれだ。
     一説には、事件前に28万人の島民は、1957年には3万人弱に激減したという。
     「済州島四三事件」と呼ばれているが、近年まで秘密にされていた
     この島出身で有名なのが、小沢一郎、和田アキ子、そしてこの監督だ。
     この人達が、密入国したかは知らないが、年齢からして親達はその可能性が高い。
     なお崔洋一は「徹子の部屋」で、父親は朝鮮戦争当時、後方撹乱左翼活動家だったと語っている。
     番組の様子に戻ると、
     日本人の古屋さん(27)は、「当時の日本人は韓国人が憎くて併合したわけではない。当時、世界は帝国主義列強の時代であり、植民地支配はあたり前だった。日本が韓国を併合したことはやむを得なかった」との極めて自然で丁寧な発言に対して、
     崔洋一
     「当時の日本のイデオロギーは、そういう方向に流れていた。国そのものがそうなっていた。だけど、36年間にわたる植民地支配がそれによって肯定されるという考え方(を持つ人)は、基本的に歴史を語る資格がない
     と、興奮しながら決めつけた。

     その後、ウェブデザイナーの古屋さんは、自らのブログで、
     番組には編集でカットされた別の部分があることを明らかにした。
     それによると、日本側出演者の1人が、日本と韓国は過去に恋人関係にあり、日本が浮気したから韓国が怒っているなどと発言。会場内では受けたものの、崔洋一が「歴史とはそいういうものでない!君はこの場所に一番場違いな人間だ!」と烈火のごとく怒ったという。大人げない男だ

     反日思想の持ち主は、相手の言論を一方的に封殺するという事実を証明した。
     特に問題なのは、このような番組を意図的につくるNHKの報道姿勢だ。
     崔洋一のような人物をメインに据えて
     韓国側の主張に重きをおいて構成している。バランス感覚がない。
     日本側も西田議員のような、それなりのコメンテーターを揃えるべきだ。

    古屋だけど質問あるPhoto_2
    古屋経衡さんのブログ
    アニオタ保守本流こと古谷(本名の「古屋経衡」)
    http://d.hatena.ne.jp/aniotahosyu/20100814
     
    http://d.hatena.ne.jp/aniotahosyu/20100814

     それにしても韓国人の整形好きには驚いた。
     中身より外見を気にする国民性であることが良く分かる
     
    西田昌司「自国の立場を理解できない者に歴史を語る資格はない!」

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    2010年8月16日 (月曜日)

    拉致事件と「安寿と厨子王」

     曾祖父は新潟県からの婿入りだった。Anjutozusiou
     小生が小学校1年のとき、78歳で死去した。 
     その娘である祖母は、曾祖父の生家に行くときは孫の小生が良く連れて行かれた。大叔父・母達の親戚は、新潟県の「府屋駅」、「村上駅」から歩ける距離で、いずれも海の近くだった。

     このような環境からか、新潟辺りの日本海が舞台の「安寿と厨子王」の話は最初に覚えた民話となった。
     ただ誰に教わったのかはハッキリしない。
     話は説明の必要ないほど有名だが、若干触れる。
     「越後の春日を経て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている。母は30歳をこえたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は14、弟は12である。」
     と始まる。
     「春日」は上杉謙信の居城があった春日山辺り、「今津」は今の直江津のこと。

     「安寿と厨子王」は人さらいの「山岡太夫」に騙され、姉弟は丹後の国の人買い「山椒大夫」に売られ、母親は佐渡島へ売られる。
     二人は奴隷として、「安寿」は海から塩汲み、「厨子王」は山に芝刈りや薪拾い。
     佐渡に渡り盲目になった母は、気がふれて毎日悲しげに、安寿恋しやホーラホイ、厨子王恋しやホーラホイ」と歌う。
     数年後、佐渡島から売られてきた娘が口ずさむ歌に安寿は驚く。
     「あんじゅ恋しや-、ずしおう恋しや-」と歌う。
     安寿が尋ねると、佐渡で歌う女の人がいたと知る。
     安寿は自分の身を捨てて、厨子王を山椒大夫のところから逃れさせる。
     そして出世し、丹後の国守となった厨子王は、安寿姫の仇討ちで人買いを倒し、母と佐渡島で再会する。
     
     曾祖父の生家近くには、も海水を汲んで塩を作る塩田、芝が多いも迫り、粟島佐渡島も間近に見える。Vol1_01
     話の舞台設定は全て揃っていた。
     そして、もし「自分が人さらいに逢ったらどうなるのだろう」と、安寿や厨子王に我が身を重ねた。

     北朝鮮による拉致事件の象徴的な事件として、新潟県下で発生した「横田めぐみさん拉致事件」がある。
     昭和52年(1977年)11月15日夕方、新潟市立寄居中1年だっためぐみさん(当時13)がバドミントンの部活動後に帰宅中、行方を絶った。
     両親の横田さん夫婦は、懸命に国民や政府に訴えたり、アメリカにお願いし、娘の消息を探す姿は痛ましい。
     「安寿と厨子王」の親子逆バージョンに思えてならない。
     「安寿と厨子王」は中世の昔話だが、朝廷は厨子王に仇討ちと再会のチャンスを与えた。しかし、これほど発達した現代社会にあって、拉致という非人道的行為に日本国家は指をくわえて傍観しているようにしか見えない。

     この国には、「国家の威信」はあるのだろうか。
     もし、この被害者がアメリカ人なら、数日後には第七艦隊の原子力空母が北朝鮮の沖合に浮かぶことだろう。
     何も戦争しろと言うのではない。
     「国家の威信」を堅持するとは、このような不撤退の決意を示すことだろう。
     国民は、形に現れた国家の決意を見て、政治家を信頼し国家に忠誠を誓うのだ。
     
     それにしても、横田さん親子は、 
     厨子王と母のように、いつの日か親子が抱き合う日が来るのだろか。
     何もしてやれないことも悔しい。



    Sansho the Bailiff (1954, Kenji Mizoguchi) [14/14]

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    2010年8月15日 (日曜日)

    池上彰の戦争を考える

     今日8月15日は「終戦記念日」。Ajiasin_2
     あの戦争は、
     日本だけが悪いのか?
     
    日本だけが
     反省すれば、それでいいのか。

     マスコミはこぞって
     「日本の侵略戦争のようだ。

     このような日には、なぜ日本は、当時の最強国英米を相手に戦争をする必要があったのか?
     タイと日本を除くアジア諸国は、白人に全て植民地にされた現実
     白人による、黄色人種は絶滅すべきだとする黄禍論(Yellow peril)や、当時の朝鮮や中国安全保障上の位置付けなど、もっともっと、当時の人達を思いやって議論すべきではないのか?255710_c450

      ただ、外国に謝ってばかりの国家に、国民がどうして誇りと自信を持つことができるのだ。当時の、アジア諸国の植民地の状態など、国民の殆どが知らない。
     まず子供たちに教えて欲しい。

     「テレビ東京」で午後7時から3時間「池上彰の戦争を考えるスペシャル」がある。
     これは、池上彰が「戦争日本責任論」を展開しながら、国民を洗脳する番組だ。
     見なくても、この方の反日姿勢から、どのような番組構成にするかは察しがつく。
     きっと、日本が徹底的に悪いことをしたと解説するはずだ。
     池上彰は、NHKを退職したジャーナリストだが、NHK当時から偏向番組を担当する反日勢力の一人だった。
     顔は穏やかだが、日本を貶める持論を淡々と展開する。

     番組に、「パックンマックン」のアメリカ芸人「パックン」がゲスト出演すImagesる。
     「パックン」は、「原爆投下や東京大空襲は明らかなアメリカの戦争犯罪」と勇気あるコメントをしている。パックンは、米コロラド州出身でハーバード大比較宗教学部卒業の秀才だ。
     きっと、アメリカ人がこのようなコメントをすることを、
     池上彰も予期しなかったことだろう。

     原爆投下は、誰が見ても一般人を大量殺害した戦争犯罪であることに異論ないはず。しかし、「悪いことをしたのは日本で、原爆投下されても仕方なかった」と主張する反日、左翼勢力は原爆投下を正当化する。
     左翼は、アメリカ資本主義、帝国主義は「」と位置づけているが、
      米製の「憲法9条」と「原爆投下」には同調する。
     これは、左翼の闘争に利用出来るからだ
     実にしたたかだ。 
     番組では「パックン」の重要発言に、池上彰は「黙殺」する可能性がある。
     池上彰は、どのような反応を示すか今日は観察しようと思う。
     そこで、池上が「アメリカ国民の多くは、原爆使用を正当化していますが、貴重な意見ですね」と意見を引き出すか、黙殺するかで反日姿勢はハッキリする。
     編集されて、全くスルーされることも予測される。

    マレーシアのマハティール首相は、
     「日本の戦争責任を問うならば、それより以前、非人間的な支配と収奪を続けた欧米の宗主国の責任はどうなるのか。日本が来たことで植民地支配から解放され近代化がもたらされた」と、痛烈に欧米諸国を批判した
     批判は日本の若者にも触れている。
     「日本の若者は西洋にかぶれている。わたしはかつて、これだけ多くの日本人が、髪を金髪に染めているのを見たことがない。そして日比谷公園に行くと、いつも音楽に合わせてダンスに夢中になっているのを目にする。わたしは古い人間なのかもしれないが、こうした出来事を理解できない」。そして、アジア諸国に対して、次のように呼びかけている。
    「もし、あなたの国がこんな文化のまねしたならば、あなたの国は衰退する。われわれが日本を注目するのは、日本の間違っている点を見て、そうした過ちを犯さないためだ」

    戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願
     1952年6月5日から全国一斉に、「戦争受刑者の助命、減刑、内地送還嘆願」の署名運動が開始されるが、全国的規模の一大国民運動となり署名は計約4000万に達したという
     これが当時の世相、日本人の普通の感覚だった。それが、
     65年経った今の日本国民、特にマスコミは何様なのだ
     親や祖父の時代の判断は全て間違いなのか。
     ここまで、精神的に思想的に劣化した日本国民に当時の侍(軍人)を批判する資格はない

    ■「池上彰の戦争を考えるスペシャル
        http://www.tv-tokyo.co.jp/ikegami_wars10/
    ○MC 池上彰○アシスタント 大江麻理子(テレビ東京アナウンサー)
    ○ゲスト
     長谷川京子、峰竜太、パックン、麻木久仁子、安めぐみ、大島優子(AKB48)
    ○VTR出演
     旧満州・・・  大橋未歩(テレビ東京アナウンサー)
     サイパン・・・ 増田和也(テレビ東京アナウンサー)

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    所在不明「100歳以上」242人

     「100歳以上」の所在不明問題は、足立区で111歳男性がミイラ化で発見され201008149978961nたことに端を発した。以後、杉並区の所在不明が続き、この問題は一気に全国に広まった。
     そして、8月15日発表した読売新聞の全国調査では242人に上まわったという。現在も、所在確認調査中の自治体もあり、数字は間違いなく伸びる。
     まるで、大地震などの災害のとき、死者数や行方不明者数が倍々に拡大するときと似ている
     この状況では、いずれ倍以上の不明者が発表される可能性もある。
     それに、年齢を下げての調査も迫られる。
     中には、出生届けも出していない子供も現実にいるのだ。
     また、密入国やオーバスティの外国人問題、年金不正受給と連動しており、問題の根は深い。国民の関心が高まっているうちに、一気に調査する必要がある。100歳以上は昨年9月時点で4万399人ということだが、取りあえずは全員に面接しての調査が急がれる。
     今なら、調査を受けるほうも嘘を付き難いことだろう。

     この大きな原因は、「家族制度の崩壊」と言われる。
     戦後、憲法、民法の改正による「家父長制」が解体したことで、いつかは、このようになると推測されたことだ。
     日本の「家父長制」は、天皇制ともつながり封建制度そのもので民主化の邪魔とされた。
     更に左翼政党が準備している「夫婦別姓制度」案は、この崩壊に拍車をかける政策だ。  
     
     「家族制度の崩壊」は、戦後の占領政策にさかのぼる。
     それは、マッカーサーが指導した「オレンジ計画」の中の「日本人獣化計画」だ。
     一口で説明するなら、日本民族を徹底的にダメにする計画だ。
     愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策事なかれ主義(Sports Sex Screen)、無気力・無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、家族制度破壊、民族的歴史観否定の19項目からなる。
     そして、全ての項目が、今の日本に定着してしまった。
     これらを、これ幸いと推し進めたのが日教組であり大手マスコミだ。

     ソ連が、共産主義を国民に浸透させる段階で、最後まで障壁となったのが「家族制度」だったという。それは何故か
     「家族制度」は共産主義と相反する小さな君主制」(封建制)だからだ。 
     中国共産党は、孔子の教えの中心である儒教は封建主義だとして文化大革命で徹底的に叩いた。
     余計な説明は必要ないと思う。
     
     付け加えると、日本も昔は「隣組」や「向こう三軒両隣」等のしきたりがあって近隣関係が緊密だとされる。それでは諸外国にはないかというと、例えば欧米では近隣とのパーティが盛んだったり、貧しい国々に行けば行くほど、助け合う濃密なコミュニティが形成されていると聞く。その様子は、狩猟等で生活している民族は獲物を分け合ったり、村長や祈祷師が村人と一体となっている場面をテレビや本でも知ることが出来る。Canvas1

     日本は、「オレンジ計画」にシッカリ染まり、相互扶助の精神は無くなった。 
     「親に孝養をつくそう(孝行)」「 自分の言動を慎む(謙遜)」「広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)」などの精神は消えた。これも、日教組が推し進めたものだ。 
     モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔日本人に謝りたい」を引用する。
     家族制度崩壊は、いろいろ指摘されるが、この論文で全てが納得される。
     そして、これを是正するには「憲法改正以外にない」と指摘する。
    ---------------------------------
              ■すばらしかった戦前の家族制度
     さて次に、我々ユダヤ人の理想のお手本となるべきものに日本が戦前誇った家族制度があった。面白い話を一つ紹介しよう。--(中略)--
     話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとしたとき、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。アルベール・トーマは、「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難であPhotoる。何故ならば、労働者は失業しても労働運動などする必要はない。家族が暖かく迎え入れてくれるからである。この家族制度をなんとかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」といっているのである。
     アインシュタインもまた来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。 かくの如く、日本の家族制度はこれまた類い稀な存在であったのだ。戦前の日本の家族制度にはとても及ばないが、現在世界中で一番この家族制度というものを強固に有しているのは我々ユダヤ人社会であろうと思う。この点、我々は常にそれを誇りとしている。ここでまた日本人にお詫びしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである
     具体的には、占領改革の時ニューディール派が行なったものである。
     前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわれる如く邪魔な存在だったのだ。家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのである。--〈中略〉--

     さて現在のユダヤ人社会では、戦前の日本にあったようなすばらしいものではないにせよ、家族制度というものは固持されている。恐らく世界一のものではなかろうか。
     親と子は、多くの場合同居している
     これは決して住宅難のせいではないのである。子は、年老いた親の面倒をよくみるのである。特に親孝行という言葉はもっていないが、将来できるかも知れない。また、親類づきあいも密である。安息日にはたいてい、どこかの親類と家庭で交わるのを普通とする。我々は戦前の日本の家族制度を見習いたいのである。ユダヤ人は、福祉ということはあまり考えない。これは家族制度のアンチテーゼだからである。
     福祉とはただ食わせるだけといえるかも知れない。
     老人ホームに例をとると、そこでの老人に保証されているのは餓死しないということだけである。生き甲斐というものは何も保証されていない。然るに家族制度の枠内の老人は子の成長、孫の成長を楽しむという生き甲斐をもつことができる。どちらがいいかは、議論の外であろう。日本では戦後、ニューディール派の改革で姦通罪というものが外されてしまった。これも家庭の不和を増長させる重大な要素であると考えられ、家族制度の破壊を狙ったのものであると私は考える。--〈中略〉--このへんのところは日本国憲法の内容と密接な関係があるので、そちらでまた述べることにする。
    --------------------------------

    日本人に謝りたい
     
    ~あるユダヤ長老の懺悔~
     
    第1章
    戦前の日本に体現されていた
    ユダヤの理想
    第2章
    二元論的思考法
    ~典型的なユダヤ的思考パターン~
    第3章
    日本人の知らない
    東京裁判の本質
    第4章
    日本国憲法は
    ワイマール憲法の丸写し
    第5章
    共産主義はユダヤ人が作った
    第6章
    GHQのニューディーラーの
    戦後処理計画の秘密

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    2010年8月14日 (土曜日)

    オレンジ計画とパチンコ

     パチンコに毒された日本人は何と多いことかPachinko
     パチンコ人口は1,450万人、年22兆9800億円だという。パチンコ店近くを通りがかると、広い駐車場は一杯で繁盛しているのが分かる。
     昨年12月末で1万1672店舗あるパチンコ店のうち、
    在日や帰化者の経営が7割とも言われ、この収益が、
    北朝鮮の軍備を支えているという。 

     北朝鮮の一年間の軍事予算約6500億円の内、約4500億円は日本で­チンコ屋などを経営する在日朝鮮人からの送金で支えられてい­る。
     つまり、「犯罪国家を支えているのがパチンコユーザーだ」と言われても仕方ない。しかし、中毒に掛かった日本人は止めることが出来ない
     この理由を、
     日本人をダメにするオレンジ計画」で説明出来る。
     Canvas1
     パチンコは1930年(昭和5年)、風俗営業第1号店が名古屋で許可されたのが始まりとされる。
     純粋の日本発祥の遊びだそうだ。
     その後、昭和17年には賭博性が強いとして全面禁止になるが、戦後、マッカーサーは朝鮮人が国に帰還する資金源として、パチンコ屋の経営を復活させた。
     朝鮮人は、これに飛びつき、利益が大きいことを知ると帰国しなかった。駅前の一等地に戦後からあるパチンコ店の殆どが不法占拠と言われる。
     軍歌が一切禁止されていた当時、パチンコ店だけは「軍艦マーチ」を流すのを認めたのもマッカーサーだ。
     
     これが、マッカーサーの「オレンジ計画」~「人間獣化計画」のはじまりだった。
     パチンコは、「犯罪としての賭博性」は勿論、「パチンコ依存症」「児童の車内放置」「在日韓国・朝鮮人の関係」「不正行為」「派手なデザインが近隣へ与える環境」など、問題が多い遊技なのに、誰も止めることが出来ない。
     街中に普通に「賭場場」が乱立していても、誰も不思議に思わない。それに、競馬などの公営ギャンブルは、「賭博」の代償として高額の国庫納付金を納めているのだ。
     国は、まず「パチンコ税」の導入を検討することだ。
     因みに、2006年から韓国ではパチンコが法律により全面禁止になった。

     アメリカの「日本オレンジ計画」更に「日本人獣化対策」を簡単に紹介する。
     ウィキペディアでは、「日本オレンジ計画War Plan Orangeは戦間期(1920年代から1930年代)において立案された、起こり得る大日本帝国との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である」と説明してある。
     「日本オレンジ計画」は日の丸は赤だが、色あせるとオレンジ色になる。つまり日本を色あせさせ、骨抜きにする計画だ。「日本人獣化対策」という怖ろしい計画があった。
      この「日本人獣化対策」は、ユダヤ人でフリーメーソンとされるマッカーサーが占領下で進めたもので、崇高な文化と道徳心を持った日本人を不道徳な獣にする計画だ。
     
     もちろん、その最たるものが「日本国憲法」であることは間違いない。
     この憲法を「不磨の大典」の如く利用している各種団体、共産党や社民党、民主党ら左翼勢力は一体何者なのか
     そこに隠された狙いは何なのか、国民は早く気づいて欲しい
     パチンコユーザーも、北朝鮮を糾弾したいなら、まずパチンコを止めることだ

    ■この「人間獣化計画」を発案したのはユダヤ人関連のフリーメーソンであるといわれている。
     民族の内部崩壊をさせなければまた同じ事を繰り返すと恐怖し、「人間獣化計画」を適用しようとした。
     ドイツのゲルマン民族と日本の民族にである
     ドイツのゲッベルス宣伝相は、これに気づきこの「人間獣化計画」を受け入れなかったが日本は、受け入れてしまった。

    ●「日本人に謝りたい」~あるユダヤ長老の懺悔~「人間獣化計画」から引用
    愛国心の消滅悪平等主義拝金主義自由の過度の追求3S政16001111s(Sports Sex Screen)・事なかれ主義無気力・無信念・義理人情抹殺・俗吏属僚横行・否定消極主義・自然主義・刹那主義・尖端主義・国粋否定・享楽主義・恋愛至上主義・家族制度破壊・民族的歴史観否定
     以上の19項目をつぶさに検討してみた場合、戦後の日本の病巣といわれるものにあてはまらないものがただの一つでもあるだろうか。否、何一つないのを発見されて驚かれるであろう。ゲッベルス宣伝相は、戦後の日本に対する予言者だったのであろうか。
    戦後生まれの人たちにはピントこないかも知れないが、これらは正常な人間の6_00頭で判断すれば人類の文明の破壊につながるものであることは一目瞭然である。人間の純度を落とし、本能性に回帰させようというものである。
    ゲッベルス宣伝相が警告を発した第二次大戦前の時点でどれだけの人がこれを真に人類の文明への挑戦として脅威的に受けとったかは分らない。しかし第二次大戦が終わってみると、日本へはこれら一連の風潮が忍者の如く忍び寄って完全ともいえるほどに定着してしまっていたのである。これらを戦後日本へ持ち込んだのは一体何者なのか。また、これらがこれほど完全ともいえる状態で日本に定着したのは何故か。

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    2010年8月13日 (金曜日)

    徴兵制のある国・ない国

     間もなく終戦記念日(8月15日)。_h475_9784087713466naka1
     実際の終戦は、ポツダム宣言を受諾した9月2日のはずだ。
     それに、8月19日に開始した戦闘もあった。
     アリューシャン列島「占守島(しゅむしゅとう)」の守備軍2万5000人とソ連軍の戦いだ。
     作家・浅田次郎氏が、この占守島を舞台にした『終わらざる夏』を出版した。
     この方は、実にいいところに焦点を当てて書いてくれると思っている。
     ソ連による北海道占領計画も含め、このことは別の機会に紹介したい。
     
     まず、徴兵制のことを考えてみよう。
     この国は、原爆同様に徴兵制のことも議論も忌み嫌う異常国家だ。

     下段の世界地図を見れば分かるとおり、日本周辺は、徴兵制度のある国ばかりだ。
     今のところ、アメリカ軍の駐留と職業軍人として自衛隊による兵力が確保されているが、極めて不安定な位置づけにある日本の防衛体制だ。Europe_map

     8月12日の読売新聞によると、最近、ドイツでは徴兵制廃止の論議が起きているという。
     ドイツは、先の大戦では日本同様の敗戦国であり、軍事力を奪われたが、1968年より徴兵制が復活している。
     この当時は、中国の文化大革命、日本やドイツでも学生運動が盛んになり、東西の緊張も高まった時期だった。

     既にドイツは、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し東西一つの国になっている。
     近隣諸国との親睦関係も、日本の近隣諸国とは雲泥の差がある。
     ドイツの徴兵制は、徴兵か社会奉仕活動かを選択できる制度のようだ。
     日本のように、国の安全は他人まかせで、福祉を充実させろと叫ぶような国は、この方法はいいと思う。
     簡単には、「国家の安全に貢献する」か「社会福祉に貢献する」かの選択だ。
     それでも
     日本の左翼も若者も、「どっちもイヤだ」と言うのは目に見えている。
     そのくらい、わがままな国民になっている。

     とは言うものの、日本は「マッカーサーからプレゼントされた憲法」がある限り、
    徴兵制など採用されるはずがない
     そして、「日本崩壊」「皇統断絶」というの憲法に仕掛けられた時限爆弾は、シッカリと時を刻んでいる。

     現実は日本の隣には、日本人拉致国家、弾道ミサイル重武装国家、スパイ諜報国家、麻薬・偽ドル密輸国家、原潜や戦艦領海侵犯国家、北方四島不法占領国家、竹島、尖閣諸島領有権侵犯国家、排他的経済水域内侵害国家に囲まれているのに”のほほん”としている。何も出来ない国民だ

    徴兵制度の世界地図英語版Wikipediaより)
    凡例:

        軍隊を保有していない国家     志願制の国家     3年以内に徴兵制を廃止予定の国家     徴兵制を施行している国家

    Photo_3

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    速報「青山繁晴がズバリ!」

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     「青山繁晴がズバリ!」は、
    YouTube動画で直ぐにアップしてくれるので、最新情報で勉強することができる。

     関西テレビでは、「長年、中東問題をウォッチし続け、安全保障・外交の分野を専門に活躍する青山繁晴氏が、一回聞いただけではなかなか理解できない複雑な国際情勢から政治・事件・社会問題にいたるまで、様々なニュースを独自の視点でズバッと解説!これさえ見れば、あなたもニュース通になれる!」とアピールしている。
     いつもながら、国内外の政治情勢の鋭い分析だ。
     

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    橇木山(そりぎやま)の思い出

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     鳥海山近くの皆さんは橇木山(そりぎやま)のことを覚えていますか。
     簡単に言えば、山から木を橇で降ろす作業のこと。
     紹介は冬の季節がいいのだが、「遊佐の刺し子」の写Photo真から当時を思い出した。
     思い出したときに、直ぐ文章にしないと忘れる年齢になった。
     橇木山のイメージは、この写真で分かると思う。

     昭和30年代中頃の昔話だ。
     山形県遊佐町には、「橇木山(そりぎやま)」と呼ぶ風習があった。
     鳥海山の概ね3合目辺りの山麓から、毎日の煮炊きから暖房用の「」にする木を「橇(そり)」で降ろす作業だ。
     この薪にする樹木は「ブナ科」の「クヌギ」「コナラ」などが殆どだった。
     この木の切り出しは、稲の収穫が終わった秋口に、それぞれの村々に指定された山で行う。
     家々で必要な分量を、長さ概ね1m50cm程度に切り倒して積んで置く。当然、雪が積もれば隠れるから、積んだ木の上に長目の棒を差し、目印0039lを付けて置く。

     そして翌年の、鳥海山の天候が安定する1月下旬から2月上旬ころに、これを木の橇で降ろす。
     この降ろす作業を「橇木山(そりぎやま)」と言った。
     言葉の謂われは知らないが、字のとおり「山から橇で木を下ろす」ことと思う。
     この「橇木山」は子供の目からも、一番厳しく危険な作業で、「行きたい」と告げても、なかなか連れて行ってもらえなかった。
     近所の同級生から「橇木山に行って来たぞ」と自慢げに言われるのが悔しかった。
     ようやく許可が出たのは、小学校5年の冬だった。
     身長も150センチ位になり、何とか着いて来れると判断されたのだろう。

     行く数日前には、空の橇を1時間も引いて鍛えておけと言われた。
     当時、雪がよく積もった時代だった。
     空の「木の橇」を引くと言っても、雪道の坂道を登るのだから大変だ。
     雪深いところでは太股辺りまで埋まった。
     履く靴も長靴しかない時代だ。長靴の上に更に藁靴も重ねて履いた記憶もある。
     いよいよ出発の日は、みんな早起きだ。
     祖母からは、「朝飯はシッカリ食べろ。無理するな、吹雪で前が見えなくなBandoriっても、橇の轍(わだち)から外れるな」と、まるで戦地に向かうように注意される。
     また、新聞紙数枚を下着の上から腹巻きのように巻き、ハンドで締められた。衣類は、毛糸のセーターの上に厚手のアノラック、更にバンドリも付けて格好だけは本格的だ。
     祖父のものだったと言う、耳当て付きの帽子も被らせられる。
     そして、家に一個しかなかった白金カイロも持たされた

     祖母は、新聞を巻きながら、八甲田山で雪中行軍で助かった兵隊の話をしていたが、後に映画「八甲田山死の彷徨」で、緒方拳演じる兵隊が同じようにしていたことで、年寄りの知恵に改めて感心した。この遭難事件は明治35年発生で祖母の誕生年だが、東北各地には、「山を舐めたら怖ろしい目に遭うぞ」と言い伝えられていた。
     食料は、梅干し入りの塩漬け菜っぱの握り飯を腰に巻いて、朝6時前の薄暗いうちに、両親と三人で出発する。
     当初は、野沢村外れの万助道から鳥海山に向かってなだらかな傾斜が続くが、白井新田を過ぎて人家が全くない山の懐に入ると、景色も雪の深さも質も違って来る。
     雪の無い季節に来たことがあっても、真冬の白一面の山は恐怖さえ感じる。
     安全のため、村々で山に入る日を決め、大勢で行くようにしていたのだろう。
     近所の人から、「明日は山に行くぞ」と誘い合う声を聞いたことがある。
     山中で知った人に出会うと、「ほう、頑張ってンのー」など声を掛けられ一人前になった気分になる。
      そして、4時間も掛けて目的の場所に到着するが、案の定、切って置いた樹木は2m近い雪に埋まっている。これをスコップで掘り起こすのだから大変だ。
     「さあ、吹雪が来る前に積んで帰るぞ」と父親に言われ、懸命に掘り起こすMonotaro_3365905
     
     次は、橇に積むのだが、左右に崩れないようにシッカリ固定するにはコツがいる。
     近くでは、赤色塗装のパワーウインチで固定させる人もいるが、我が家には無かった。
     その点、父親は軍隊の工兵隊仕込みのロープワークは巧かった。 見よう見まねで覚えたが、今もやろうと思えば出来る。
    それにしても、軍手での締め付けは手が凍えなかなか難しかった。
     最初は大人の半分ほどの量にされた。
     今度は山を降りるときの要領だ
     「事故は下りで起きるんだぞ」と注意される。
     まず、橇の足の左右の後ろに、ブナの小枝の部分を一塊りにして「凧の足」のように取り付け、これに足乗せてブレーキと左右に操縦する要領を教わる。
     右足に体重を乗せれば右ブレーキになり、橇は右に進む、左はこの逆だ。
     このコツは直ぐに飲み込めた。
     母親が先頭、父親が後ろになり挟まれて山を下る。
     「下り坂でもスピード出すな」と何度も注意される。

     事実、スピードを出し過ぎて、橇ごと谷に転落する事故は例年あった
     登りは4時間も掛かる距離だが、帰りは短時間で戻ることが出来た。
     家に帰ると疲れがドッと出た。
     一日に二度も行く人がいたが、感心して見ていたものだ。
     初めて行ったときは天候にも恵まれ、庄内平野、日本海の水平線Photo_2まで一望出来たが、緊張していたことだけが記憶に残っている。

     この「橇木山」も、昭和37・8年頃には無くなった。
     田舎の生活も、戦後の生活改善運動が進み、どの家庭でもプロパンガスの使用が一般化し、薪を使う習慣が一気に無くなったからだ。
     この生活改善運動で象徴的だったのが、台所の改善で、プロパンガスの使用と蛍光灯の設置から始まったように記憶している。
     影を作りにくい蛍光灯は、台所で調理する主婦の手元を明るくし喜ばれていた。
     また、囲炉裏は暖房を兼ねており、いろり端で煮炊きする生活も良かったが、プロパンガスの強い火力は料理のレパートリーも広がっていた。

     「橇木山」のことを今思うと、鳥海山の麓は「里山」として、ブナ林は人間生活と一体だった。ブナ林は、薪にする伐採程度で絶滅することはない。
     ただ当時、ブナの大切さに気づいている人は少なかったように思う。
     あるいは、今も少ないのかも知れない。
     ゴルフ場、スキー場などの開発で年々少なくなっているという。
      吹浦海岸の夏でも食べられる牡蠣貝も、美味い「刈屋の梨」も、米は勿論、その他の農産物も鳥海山のブナのミネラルが加味されている。
     その恩恵を一番受けているのは、その地域で生活している人達なのに、平気でブナ林を破壊する。人間の業を見る思いだ。

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    2010年8月12日 (木曜日)

    鳥海山にブナを植える会

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     ブナ林は、大昔から人間生活と密着している。
     
     かつて、同じ職場に「鳥海山にブナを植える会」に参加している人がいた。
     年数回、その活動のために東京から鳥海山麓に出かけているという。
     当方が、鳥海山近くの出身と知り、ブナのことを熱く語られてしまった。

    Photo_2

     「ブナと人間社会」は縄文の昔から、切っても切れない関係があるという。
     ブナの原生林は自然の摂理、つまり循環サイクルがあって人間はその恩恵を受けながらその周辺で生活して来た。
     このことは、青森県の三内丸山遺跡などの発掘で証明されている。

     当然、人間だけではなくブナ林を頼りに生きてきた動植物も同じこと。
     ブナ林は、ドングリ、クリ、トチ、アケビなどの木の実、キノコやワラビなどの山菜の採取、更に、野兎などの狩猟の場所となる。
     また、ブナ帯を流れる清流には、イワナやヤマメなどのサケ科魚類が多く生息し、天然のアユやマスの遡上する地域でもあるという。

     そして、ブナの腐葉土層は、水を溜めるダムと言われ、腐葉土から栄養分をもらい受け、それが鳥海山一帯の豊富な湧水になる。
     この水によって、農産物の野菜や果物は勿論、近海の魚介類jまで美味しくなる。
     以前、「刈屋の梨はブナが育てている」と紹介したが、ブナの恩恵を一番受けているのが、これらを毎日食することができる地元の人達だ。

     「里山」という言葉の提唱者で、森林生態学者の四手井綱英(1911年11月30日~2009年11月26日)先生は『ブナ帯文化』という本の中で、
     「1937年(昭和12年)の春、最初に就職したのは、山林局の秋田営林局・本荘営林署であった。」、「平野部や山裾には暖温帯性の落葉広葉樹林といわれるクヌギ、アベマキの林やケヤキの大木も残っているが、ほんの少し山地に入ればそこは世界の北半球冷温帯特有のブナを主として、ミズナラの混じった森林が広く分布しているのである。
     このブナ林は鳥海山腹をくまなく覆っていたといってよい。
     山裾はいわゆる里山で、薪炭の生産のため二次林化したり採草地化した所も多かったが、少し奥地へ入るとヘクタール当たり数百立方メートルにもな461507るブナの原生密林もあり、疎立した大木林もあった。」
     と、鳥海山のブナ林を紹介したこともあった。

     しかし、鳥海山のブナが危機にあるという。
      特に戦後、鳥海山麓のブナ林が伐採され、茶色の山肌が見える所が多くなった。
     この、伐採された広大な跡には、スギやカラマツなどの人工林に変えられたり、チシマザサに埋まったりして、ブナの再生が不可能になっているという。
     
     この危機に立ち上がったのが鳥海山にブナを植える会だ。
     この会のことを、勝手に紹介させて頂くことにした。
     現在、会員数650名
     活動の輪が、もっと広がることを期待している。
     そして、
    ブナの大切さに気づいて立ち上がって欲しい。


    鳥海山にブナを植える会
    http://www.naruhodosya.co.jp/bunanokai.htm

    ■ 「なぜ今ブナなのか」 (PDF)
     会報37号 2008年1月 (PDF)
     ・・・会報の最新号をご希望される方は、事務局までお問い合せ下さい。
    ※PDF形式:閲覧する場合はAdobe Readerが必要です。
      Adobe Readerのダウンロード(無償)
      
       お問合せ先  鳥海山にブナを植える会 事務局
                 〒018-0133
                
    秋田県にかほ市象潟町字源藏潟1-26(須田方)
                Tel・FAX 0184-43-3549

                  メール choukaisan.buna@gmail.com
            

                  

    主な活動内容  
    1.植樹(地ごしらえ)  2.植樹後の手入れ(追肥、下刈り)  3.育苗(種取り、
    苗圃への移植、草むしりなど)  4.自然観察   5.講演会 
      年会費1000 円、入会金0円、会員数650名 Photo_3

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    2010年8月11日 (水曜日)

    遺骨は硫黄島だけでない!

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     硫黄島は1968年6月26日、小笠原諸島と共に日本に返還された。
     現在は、「小笠原村字硫黄島(いおうとう)」として東京都に属し、海上自衛隊硫黄島航空基地や米軍硫黄島通信所(Iwo Tou Communication Site)が置かれる。
     
     硫黄島の闘いは、近年クリント・イーストウッド監督の米映画「硫黄島からの手紙」によって、日米両国民にも広く知られるようになった。
     日米軍は昭和20年2月19日から、36日間の死斗を繰り広げ、栗林忠道中将以下、日本軍約2万人が戦死、日本軍の生還者は僅か1、023人だけだった。
     米軍側も21,900名が戦死し、日本軍との地上戦で唯一死者が上回った。

    Photo_4

     摺鉢山頂上に星条旗を立てようとしている6人の米海兵隊員の写真は、当時、米新聞の1面を飾り、米国民を熱狂させ、6人は「勇気の象徴」となったという。
     この構図は、後に「世界で最も美しい戦争写真」と讃えられ切手や銅像にまでなったが、日本にとって屈辱の写真だ
     最初に撮影したときは星条旗が小さかったので、後日やり直した疑惑もあるという。
     
     硫黄島には、今も1万3000柱以上の遺骨がそのまま残されたままで、遺骨収集は返還以来、長年の課題とされていたが、昨年の春ようやく予算化された。
     まず、滑走路下の遺骨を捜索・収集するために、調査費、約1億円が計上された。
      今日(8月11日)の新聞では、菅直人首相は「日本のために亡くなった皆さんの最後の1体まできちんと収集するのは国の責任だ」と強調したという。
     このように票と支持率のためには、シッカリとアピールするのは実に巧い。
     この計画は、昨年来決まっていたことだ。
     この発言のとおり、最後の一体のまで収集に力を入れ、南方の島々やシベリアなどの遺骨収集も継続する姿が見えたときに、改めて評価したい。
     硫黄島だけの、お茶を濁す程度の遺骨収集で終わったら、一貫性ない一時しのぎとして非難されることになる。
     左翼政党が一貫性のないのは分かっている。
     たいして期待はしていない。 
     前回、「戦没者・遺骨収集に広がる支援」でも紹介したが、遺骨収集が必要なことは硫黄島だけでないことをお知らせしたい。。
      65年前の太平洋戦争では、南方、シベリア地域などで戦死された方々の遺骨の多くが、未だに野ざらしで放置されたままだ。海外戦没者は約240万人と言われているが、約115万柱もの遺骨が海外に放置されている。
      日本領内東京都下の硫黄島の遺骨収集も、これまで出来なかったことが不思議だ。
     まずは世論を喚起して、他の地域の遺骨収集への弾みにして欲しい。
     間もなくお盆の季節だが、多くの犠牲のもとに、現在の平和があることを忘れてはならななどと分かったような発言を聞く。
     しかし、それは口先だけで戦死者のことは多くの日本人は忘れている

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    2010年8月10日 (火曜日)

    仮に5m海面が上昇したら。

     2010_zenkyuuheinennhi
     地球規模で異常気象が伝えられている。
     今年の暑さは半端じゃない。これには、いろんな条件があるのだろう。
     仮に5m海面が上昇したら、どうなるのだろう。 
     
     南極の氷の本体が融け、グリーンランドの雪の堆積面積は数年で約20%も減ったという。更に「永久凍土の融解」、「氷河の後退」など各地で異常事態が相次いでいる。
     一気に海面が上昇することは無いだろうが、50年、100年単位で見れば間違いなく深刻な影響が予測されている。
     東京も、わずか5~600年も前は、上野や日暮里辺りまで海だった。
     心配なのは庄内地方だ。
     全般に標高が低い地域だ。
     ほぼ全域の標高が判明しているので、海面5m上昇を想定し図示化してみた。
     何も不安を煽るつもりはないが、知識として知っておく必要がある。
     近くでは、新潟平野は下段の図のようになり、「佐渡島」は昔のように二つの島に分かれる可能性もある。
     佐渡は昔、渤海国と交易していた当時は二つに分かれていたという。

    海面が上昇したら
    http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/267_data/index15.html

    世界の天候 
     気象庁では、世界の天候の状況を、週別・月別・季節別・年別にとりまLogoとめて公表しています。下記各リンクより、公表されている天候のまとめ、図表等が閲覧できます。
     上の図2は"気象庁HP
     気象統計情報地球環境・気候世界の天候世界の気象統計データ
     http://www.data.jma.go.jp/gmd/cpd/monitor/index.html

    ヨーロッパ東部からロシア西部周辺にかけての顕著な高温について   [PDF形式:2.94MB 2010年8月6日掲載]

    米国東部の大雪について [PDF形式:580KB 2010年2月15日掲載]

    • 月の天候 --- 毎月14日頃更新
      > 月毎に、世界の天候や異常気象の状況についてまとめています。
    • 季節の天候 --- 3、6、9、12月14日頃更新
        > 季節毎に、世界の天候や気象災害の状況についてまとめています。
        > 冬は12月~2月、春は3月~5月、夏は6月~8月、秋は9月~11月を対象としています。
    • 年の天候 --- 1月14日頃更新

      Photo_5

    • Niigata_map_japan_2 

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    「ハイヒール」誕生の秘密

     ハイヒール誕生には面白い歴史があった。
     女性が足のラインを美しく見せるための道具の一つに、ハイヒールがある。Photo_2
     通勤電車などで、ハイヒールが良く似合う女性が向かいに座っていると、無意識のうちに、つい見とれていることがある。
     断っておくが、良く似合う方だけだ。
     だが、この、かかとの高い靴が作られたのには、ちょっと汚い歴史があった。
     ハイヒールの誕生は、17世紀のフランス・パリに遡る。
     それは、ファッションの流行からではない

     当時のパリには水洗便所など無いので、二階以上のアパートなどに住んでいた人々は、夜中に排泄物を窓から路地に投げ捨てていた
     とても日本では考えられないことだ
     このため、石畳の道路は糞尿で汚れており、これからの汚れからスカートを守るために、なるべく路面との設置面積が少ないハイヒールが発明されたのだそうだ。
     それから、欧米諸国の貴婦人が持っている日傘も、上から降ってくる糞尿から114189852_1ガードするために作られたと言われている。

     そう言えば、ヨーロッパ旅行をして来た息子が、イタリアやフランスの古い都市は「どこも小便臭い」と話していたことを思い出した。映画などで見る一見きれいに街は、どこも異臭が漂い参ったという。
     もし間違えていたら失礼だが・・・・想像はつく。
     
     また、イギリスでは上から投げ捨てられる糞尿による服の汚れを防ぐために、紳士用のトレンチコート(外套)と帽子が着用されるようになったそうだ。
     ヨーロッパ諸国の、衛生面の感覚は日本人からは考えられない。
     日本人は、本当にきれい好きな国民だ。
      因みに、貴婦人のはいている腰回りが膨らんだスカートも、ヨーロッパのトイレ事情があるという。
     どのように使うかは想像するといい。
     いや想像したくない。
     あまり考えすぎると、興ざめだ。

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    2010年8月 9日 (月曜日)

    長崎原爆投下は宗教弾圧?

    1

    今日8月9日は長崎原爆投下の日。Photo
     また、長崎のキリスト教信者が壊滅した日でもある。米国は建国以来、キリスト教宣教に力を入れて来たが手痛い事実だった。このことは、長崎出身の同僚がよく話していた。

     65年前の今日、1945年8月9日午前11時2分、長崎にプルトニウム原爆「ファットマン」が投下された。
     長崎市は当時の人口24万人のうち、
     約7万4千人が死亡した。
     この長崎の原爆投下で忘れてならないのは、2カ所のカトリック教会だと思う。
     長崎は、元々キリスト教信者が多い土地だ。
     信徒12,000人の内、8,500人が爆死したと推定される。
     「大浦教会」、「浦上教会」に参拝していた信徒は全員即死した。
     上段の長崎「平和祈念像」は長崎県南有馬町出身の北村西望の作品。
     ちなみに西望の作品は、警視庁警察学校に川路大警視の立像がある。

    大浦天主堂(長崎市南山手町5-3 )
     グラバー邸の隣26_1
     「日本二十六聖人殉教」の地でもある。
     大浦天主堂は、日本最古の現存するキリスト教建築物。
     正式名は「日本26聖殉教者聖堂(天主堂)」。
     名前のとおり、「日本二十六聖人」のために建てられた教会堂だが、慶長元年12月19日(1597年2月5日)秀吉の「キリシタン禁止令」によって捕縛され処刑されたのは、この場所だった。
     この26人の殉教のことは世界中に広く伝わり、1862年(文久2)6月8日、ローマ教皇ピウス9世によって聖人に加えられ、「日本二十六聖人」と称せられた。
     教会堂は殉教地である西坂を向いている。

    浦上教会(長崎教区カトリック浦上教会)Urakami CathedralF0196455_13332596
     「無原罪の聖母」が有名(戦後、頭部は瓦礫の中から発見)
     長崎市本尾町1-79
     浦上地区は長崎の北に位置し、キリスト教伝来当時からカトリック信者の多い土地だ。
     江戸時代には、厳しく、隠れキリシタンの摘発も行われた。
     檀家制度は、キリシタンの摘発を目的につくられた制度でもある。

     鎖国が終わり長崎が開港されると、欧米人が住み始め長崎港の近く1864年(元治元年)に「大浦天主堂」が建造された。
     大浦天主堂完成から1ヶ月後の元治2年(1865)2月20日、杉本ユリら浦上の潜伏キリシタン15名が訪問し、大浦天主堂に赴任したプチジャンA_01司祭(神父)に密会して
     「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、
     「サンタマリアのご像はドコ」と信仰を告白した。
     この教会のマリア像は、『信徒発見のマリア像』と呼ばれるが、この感動的信徒発見は、キリスト教史上奇跡とされる。
     
     間もなく明治時代に入るが、「浦上四番崩れ」と言われる宗教弾圧が続き浦上の信者は各地に配流された。そして1873年ようやく信仰の自由が認められた経緯がある。
     原爆投下も、宗教弾圧の一つ「浦上五番崩れ」と言われている。
     キリスト教国であるアメリカは、この事実をどう見ているのだろうか。

    原爆は「神の摂理」だと言う。これで長崎市民は納得するのだろうか。

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    2010年8月 8日 (日曜日)

    ランキングは「民主批判」が上位

     拙いブログに、ご訪問いただき有り難う御座います。 
     このブログは、昨年8月中旬に開始しましたので、間もなく1年になります。 
     最近では、毎日の訪問者数が300~800名、アクセス件数は一人の方が数ページに移動されるので、カウンターは訪問者数の数倍になるようです。
     中には、「お気に入り」に保存され、毎日のように訪問して下さる方もおられるようですが、特に感謝申し上げます。
     これからも、出来るだけ更新に努めてまいりますが、ご意見・見解が違っていてもご容赦下さい。また、忌憚のないコメントもお待ちしております。
     それでは、ここからの文章は「です・ます調」から、いつものように「だ・である調」に統一致します。
     ---------------------------------
     文章の書き方には、大きく分類すると「です・ます」調と、「だ・である」調の2種類あるように思う。
      普通は、企画・立案文書や報告文は「だ・である」調、挨拶文は「です・ます」調に使い分けているのが自然のようだ。
     単純に、「です・ます」は文章が丁寧になるからだろう。
     このようなブログが、果たして、どちらが適切なのか解らないが、他の方のブログを覗く限り、どちらかに統一してあれば、それでいいように思う。
     そのうち、ゆっくり考えてブログで紹介したいものだ。

     さて、ブログは当初、日々の生活のリズムの中で感じたことや、郷里のことを題材にし、政治批判など生臭い話題は避けるつもりだった。
     ところが、間もなく、主義・主張、価値観が全く相反する左翼政権が誕生した。
     とても、安心して生活できるような政党ではない。 
     議員の中には、極左や日教組などの左翼団体などから国会に送り込まれた輩が多いことは、結党当時から知っていた。当然、国旗・国歌には反対する、党本部に国旗は掲げない、党大会では国旗を切り刻むという、昔ながらの左翼そのものだ。
     評論家・宇田川敬介氏は、「自民党がいやだから、極左・『革マル派』に票入れたことと同じだ」と評論していたが、全く同感だ。
     案の定、政権を握ると、
     民主党員が、大挙して中国訪問し、共産主義の軍門に下る忠誠心を示した。
     民主党は、中国共産党の「忠犬ハチ公」そのものだ。 
     以後、「民主党」の真の正体を知らせるために、この媒体を活用している。
     つい、ここで山形県鶴岡市に縁が深いハチ公の名前を出してしまった。 
     下段の人気ランキングは、過去一週間単位の訪問者順位だが、8月8日現在は、民主党批判が上位を占めている。この順位は、日々入れ替わるのが面白いと思っている。
       
    A_124_2
    ■「多摩湖畔日誌」の人気ランキング(平成22年8月8日現在)
    1位:菅総理が「君が代を歌わなかった」証拠
    2位:民主党が「山形新聞社に抗議」
    3位:民主党と極左「革マル」は一体
    4位:酒田市バラバラ殺人事件概要
    5位:民主公認・谷亮子の裏の顔
    6位:性豪、西武の堤、創価の池田
    7位:オレンジ計画と小学生の中絶
    8位:菅総理は「君が代を歌いたくない」
    9位:民主党の言う「総括」とは何か?
    10位:国旗、国歌を否定する議員達
    11位:九星(生まれ年と月)による相性
    12位:重点港湾43港(含む・酒田港)
    13位:藤沢周平原作「必死剣鳥刺し」
    14位:今日は広島に原爆投下された日
    15位:暴力団の支援を受ける民主党
    16位:江戸以外の諸藩の刑場

     


     
     

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    民主の嘘つきは左翼の体質だ。

     「左翼はとりあえず嘘をついて相手の様子を見る
     数を減らしたり、他にすり替えたりする
     
    この手法に沿って国民をダマすのが、社会主義国、共産主義国に移行する段階の常套手段だそうだ。
     ソ連、中国、北朝鮮などの共産主義国が、自国民、或いは外国をダマして来た数々の方法を知ると納得されると思う。

     
    左翼政党・民主党も同様で、実に一貫性がないことを観察して欲しい

     
    昨年の衆議選で見せた、「加減なマニフェストの羅列」がまず代表している。Fchw1
     国政をあずかる政党が、これでいいのかと思うが、
    左翼なら仕方ないと変な納得をしている。

     「嘘つきは泥棒のはじまり」だが、既に「政治とカネ」の問題では秘書に罪をなすり付けている。
     もう怖いものなしか。
     
      左翼政党・民主党の嘘つき体質は、いい加減なマニフェストで解っていたが、これ程とは思わなかった。
     「嘘つきは左翼のはじまり
    」と諺も変更が必要だ。
     泥棒よりひどい。泥棒のように三分の理はない

     まず、韓国政府から苦情があったようだ
     「元死刑囚・金賢姫の日本ヘリコプター遊覧を韓国は要請していない」という。

    ■民主の中井洽国家公安委員長は、予算委員会で各党から質問で「韓国側から、どこか1カ所でいいから観光旅行をさせてほしい」と要請があったと答えていた。
     多くの国民が見ていたはずだ。
     せいぜい、「本人の希望に応えた。理解して欲しい」程度の嘘なら許せるが、外国政府を持ち出した時点でダメだ。

    ■それから、菅直人総理大臣は、自民党の平沢議員に「2002年のラジオ番組で君が代斉唱を拒否した」と追及されたが、真っ向から否定していた。
     これも、作家で評論家の佐藤優氏は、全くの嘘偽りで「外交的にも深刻な問題だ」と糾弾している。
     選挙のときも、所得200万、250万、350万、いろいろ数字を変えていた。
     「現代ビジネス」に寄稿http://gendai.ismedia.jp/articles/-/973

    鳩山由紀夫前首相は、自身の資金管理団体の偽装献金偽装事件で、公判に提出した関係資料は裁判が終わったら国会への提出する約束していたが、これも実行していない。
     このような体質の民主党を支持する国民がまだいることが不思議だ。
     支持する人達も同様の嘘つき体質なのか
     
    それなら仕方ない

    金賢姫氏訪日時のヘリ遊覧、国家情報院が「要請」否定
     8月4日聯合ニュース
      http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100804-00000024-yonh-kr
     【ソウル3日聯合ニュース】
     大韓航空機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元北朝鮮工作員が7月に訪日した際、ヘリで遊覧したことについて、情報機関の国家情報院は3日、同院がこれを要請した事実はないと明らかにした。
     一方、「韓国政府レベルで要請があったかどうかは答える立場にない」としている。
     日本の中井洽国家公安委員長が同日の衆院予算委員会で、金元工作員や韓国側からヘリ遊覧など観光の要請があったと答弁したことに反論したもの。
     韓国政府筋も、「政府が要請した事実はない」と中井委員長の発言を否定している。
     金元工作員は日本政府の招きを受け、先月20日から4日間訪日。同22日に長野県・軽井沢の鳩山由紀夫前首相の別荘から最終日の滞在地となる東京都内のホテルまで、ヘリで移動した。

     今後大切なことは、嘘を看破した時点で決して相手を許さないことだ

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    2010年8月 7日 (土曜日)

    高齢者不明と家族制度の崩壊

     高齢者の所在不明問題は、家族制度の崩壊が原因だ。
     しかし、民主・社民・共産党などの左翼政党が準備している「夫婦別姓制度」法案は、更に、家族崩壊に拍車をかける政策だ。
     ただ、これはGHQの占領政策の延長線上にあることをお知らせしたい。 

     足立区で111歳男性がミイラ化で発見以降、全国で不明者続出し、100歳以上の高齢者の所在不明は6日現在、19都道府県で計75人を数え社会問題化している。
     この第一の原因は、「家族制度の崩壊」と言われる。
     「核家族化が進み、先祖を祀るといった宗教観が変わってきた。核家族はさらに核分裂し、法律や行政も都市型の高齢化社会に追いつけていない。日本社会がバラバラになっている」などと誰かが評論していたが、その原因には触れなかった。

     この「家族制度の崩壊」は、戦後の占領政策に端を発する
     それは、マッカーサーが指導した「オレンジ計画」の中の「日本人獣化計画」だ。
     一口で説明するなら、日本民族を徹底的にダメにする計画だ。
     愛国心の消滅、悪平等主義、拝金主義、自由の過度の追求、道徳軽視、3S政策事なかれ主義(Sports Sex Screen)、無気力・無信念、義理人情抹殺、俗吏属僚横行、否定消極主義、自然主義、刹那主義、尖端主義、国粋否定、享楽主義、恋愛至上主義、家族制度破壊、民族的歴史観否定の19項目からなる。
     そして、全ての項目が、今の日本に定着してしまった。
     これらを、これ幸いと推し進めたのが日教組であり大手マスコミだ。

     ソ連が、共産主義を国民に浸透させる段階で、最後まで障壁となったのが「家族制度」だったという。それは何故か
     「家族制度」は共産主義と相反する小さな君主制」(封建制)だからだ。
     余計な説明は必要ないと思う。
     民主、社民、共産党などの左翼陣営には、この家族崩壊に拍車をかける「夫婦別姓制度」を導入する動きがある。
     これは日本の家族制度にとどめを刺すことが目的だ。
     この機会に、国家を貶めるには、どんな政策があるか気づいて欲しい。
     外国人参政権を含め、このような政策は、ゆっくりと社会主義国向かっている。
     是非、納得して欲しい
     政党は、雰囲気や顔立ち、口の旨さで選んではいけないのだ
     
     付け加えると、日本も昔は「隣組」や「向こう三軒両隣」等のしきたりがあって近隣関係が緊密だとされる。それでは諸外国にはないかというと、例えば欧米では近隣とのパーティが盛んだったり、貧しい国々に行けば行くほど、助け合う濃密なコミュニティが形成されていると聞く。その様子は、狩猟等で生活している民族は獲物を分け合ったり、村長や祈祷師が村人と一体となっている場面をテレビや本でも知ることが出来る。
     日本は、「オレンジ計画」にシッカリ染まり、相互扶助の精神は無くなった。
     
     
    GHQによって否定された教育勅語の「12の徳目」は下段に記載した。
     「親に孝養をつくそう(孝行)」「 自分の言動を慎む(謙遜)」「広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)」などの精神は消えた。これも、日教組が推し進めたものだ。
     
     モルデカイ・モーゼ著・あるユダヤ人の懺悔日本人に謝りたい」を引用する。
     家族制度崩壊は、いろいろ指摘されるが、この論文で全てが納得される。
     そして、これを是正するには「憲法改正以外にない」と指摘する。
    ---------------------------------
              ■すばらしかった戦前の家族制度
     さて次に、我々ユダヤ人の理想のお手本となるべきものに日本が戦前誇った家族制度があった。面白い話を一つ紹介しよう。--(中略)--
     話がちょっととんだが、面白い話というのは、アルベール・トーマが来日し、日本へ階級闘争の激化工作をしようとしたとき、その前に立ちはだかったのが、日本の強固な家族制度だったのだ。アルベール・トーマは、「日本では家族制度が強固なため階級闘争、つまり労働運動の激化を仕掛けることは非常に困難であPhotoる。何故ならば、労働者は失業しても労働運動などする必要はない。家族が暖かく迎え入れてくれるからである。この家族制度をなんとかしない限り、日本へ階級闘争を持ち込むことは難しい」といっているのである。
     アインシュタインもまた来日した時、日光の金谷ホテルからドイツのユダヤ機関へ手紙を書いているが、その中に日本の家族制度の立派さを書いているのである。 かくの如く、日本の家族制度はこれまた類い稀な存在であったのだ。戦前の日本の家族制度にはとても及ばないが、現在世界中で一番この家族制度というものを強固に有しているのは我々ユダヤ人社会であろうと思う。この点、我々は常にそれを誇りとしている。ここでまた日本人にお詫びしなければならないのであるが、この日本のすばらしい家族制度を破壊したのは我々ユダヤ人なのである
     具体的には、占領改革の時ニューディール派が行なったものである。
     前述のアルベール・トーマの件でもお分かりと思うが、ユダヤ人がマルクス主義的変革を実行するためには、家族制度は国内の君主制といわれる如く邪魔な存在だったのだ。家族制度が「小さな君主制」としてユダヤ民族のマルクス主義的変革事業の邪魔になるということは、なにも今日昨日の問題ではなかったのである。--〈中略〉--

     さて現在のユダヤ人社会では、戦前の日本にあったようなすばらしいものではないにせよ、家族制度というものは固持されている。恐らく世界一のものではなかろうか。
     親と子は、多くの場合同居している
     これは決して住宅難のせいではないのである。子は、年老いた親の面倒をよくみるのである。特に親孝行という言葉はもっていないが、将来できるかも知れない。また、親類づきあいも密である。安息日にはたいてい、どこかの親類と家庭で交わるのを普通とする。我々は戦前の日本の家族制度を見習いたいのである。ユダヤ人は、福祉ということはあまり考えない。これは家族制度のアンチテーゼだからである。
     福祉とはただ食わせるだけといえるかも知れない。
     老人ホームに例をとると、そこでの老人に保証されているのは餓死しないということだけである。生き甲斐というものは何も保証されていない。然るに家族制度の枠内の老人は子の成長、孫の成長を楽しむという生き甲斐をもつことができる。どちらがいいかは、議論の外であろう。日本では戦後、ニューディール派の改革で姦通罪というものが外されてしまった。これも家庭の不和を増長させる重大な要素であると考えられ、家族制度の破壊を狙ったのものであると私は考える。--〈中略〉--このへんのところは日本国憲法の内容と密接な関係があるので、そちらでまた述べることにする。
    --------------------------------
    GHQによって否定された教育勅語の「12の徳目」
    1: 親に孝養をつくそう(孝行)
    2: 兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)
    3: 夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
    4: 友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
    5: 自分の言動をつつしもう(謙遜)
    6: 広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
    7: 勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)
    8: 知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)
    9: 人格の向上につとめよう(徳器成就)
    10: 広く世の人々や社会のためになる仕事に励
    もう(公益世務) 11: 法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
    12: 正しい勇気をもって国のため真心を尽くそう(義勇)

    日本人に謝りたい
     
    ~あるユダヤ長老の懺悔~
     
    第1章
    戦前の日本に体現されていた
    ユダヤの理想
    第2章
    二元論的思考法
    ~典型的なユダヤ的思考パターン~
    第3章
    日本人の知らない
    東京裁判の本質
    第4章
    日本国憲法は
    ワイマール憲法の丸写し
    第5章
    共産主義はユダヤ人が作った
    第6章
    GHQのニューディーラーの
    戦後処理計画の秘密

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    勝てば官軍、負ければ賊軍

     「勝てば官軍、負ければ賊軍」、
     この言葉は「奇兵隊内閣」と称する、民主党の政治手法、民主党員の発言に強く現れている。言葉の裏には、敗者を徹底的につぶす思想があるようだ。Image0036_2
     敗者にも、優しく手を差し伸べる日本人の美徳は消えた。

     「東北の明治維新」尾崎竹四郎著(青森出身1915~2003)を読んでいる。
     約140年前の明治維新では、東北は明らかに犠牲者だった。著者は今も依然として残る東北軽視に対して怒りをこめて記述する。
     この本の「勝てば官軍、負ければ賊軍」の項から、第19代内閣総理大臣、原敬のことを紹介したい。

     幕末に、薩摩、長州の政府軍と戦って破れた東北地方の諸藩は、賊軍の烙印を押される。Hara
     盛岡の南部藩も同様だった。
     原敬は、南部藩家老の家に生まれた。しかし、平民として生きる決意をした。そして明治35年、46歳で故郷・盛岡から衆議院議員に立候補し当選する。
     妻に原敬が語っていた。
     「自分は61歳を限りとして、政治家生活を退くつもりであるが、もし、それ以上政治にかかわることがあれば、命はないものと思わなければならぬ」と。
     そして予言通り、大正10年(1921)11月東京駅構内で暴漢・中岡艮一(こんいち)に暗殺される。暴漢は高知土佐・山内容堂の藩士中岡精の長男。祖父・中岡正は維新の志士だった。
     原敬総理在任は1918年9月29日~1921年11月4日まで、平民宰相として、国政の最前線で活躍する日々だったが、志士の孫から暗殺された。
     民主党の小沢一郎元幹事長は、尊敬する政治家として原敬を挙げている。
    -----------「東北の明治維新」から-------------
    平民宰相・原敬、号は一山
     「かくして南部藩(盛岡)は滅びた。しかるに、天は、一人の復讐者・雪辱者を残した。健次郎(原敬)はこの時の無念さを、深く頭にきざみつけて、終生忘れなかった」
     前田藤山は『原政伝』にそう書く。
     原敬は、盛岡藩家老加判役という藩中の名門に生まれた。
     後年彼は、号して「一山」また「逸山」といった。
     西南薩長の勝利者、官軍が、奥羽をさして「白河以北一山百文」といった。
     原はこの嘲笑侮蔑のことばのなかからその号を選んだ。

     彼は、50年にわたる官界、政界の処世で、硬軟二つのあらゆる術策を講じながら、藩閥政府のなかを遊泳し、最後は藩閥内閣の寺内正毅政府がシベリア出兵の失敗と米騒動で転覆したあと、大正7年9月、はじめての政党内閣を組織した。
     奥羽が薩長に敗れ、盛岡藩が滅んで51年、半世紀の苦闘のすえ、原は天下の権を山県有朋ら藩閥の手から奪い返した---そう考えたかもしれない。

     その前の年、大正6年9月、当時、政友会総裁として政権を待っていた原は盛岡に帰った。明治元年からちょうど50年目である。このとき、旧盛岡藩士の人たちは、相集って「維新殉難50年祭」を挙行した。
     場所は、維新のとき家老楢山佐渡が自刃した報恩寺が選ばれた。
     このとき原が殉難の魂塊にささげた祭文は、「同志相謀り、旧南部藩戊辰戦没殉難者50年祭、本日をもって挙行せらる。顧みるに、昔日もまた今日の如く、国民誰か朝廷に弓をひく者あらんや、戊辰戦役は政見の異同のみ。当時、勝てば官軍、負くれば賊(軍)との俗謡あり、その真相を語るものなり。
     今や国民聖明の沢に浴し、この事実天下に明らかなり。諸子もって瞑すべし。余たまたま郷にあり、この祭典に列するの栄を荷う。すなわち赤誠を披樫して諸子の霊に告ぐ。大正6年9月8日 旧藩の一人 原敬

     『原敬日記』に、この日のことを、
     「他にいかなる評あらんも知らざれども、余の観念を率直に告白したるなり」と書きつけている。
     また50年祭挙行の相談を旧藩関係者から受けたときのことを『日記に』、
     「当時戦死したる者は、もとより主家のために死を致せし者なり。また当時、誰も皇室に弓を引く考えなく、いわゆる真の勤王なりとて、奥羽同盟せしものなれば、今日においてその祭典を営むは彼らの言を慰むるのみならず、また風教の一端ともならんかとも思う」と記している。風教の一端とは、明治政府側の手によって書かれてきた維新史の訂正を、奥羽の立場から呼びかけたものかもしれない。
     大正元年、原内閣のとき、第一次世界大戦が終わり、講和が結ばれた。
     そのとき、論功行賞があった。
     講和会議の全権委員西園寺公望は公爵に、牧野伸顕は子爵、外相内田康哉は伯爵、蔵相高橋是清は子爵、海相加藤友三郎、陸相田中義一、そのほか関係大使に至るまで、男爵が授けられた。 
     しかし原は爵位を固辞した
     日本の歴代首相で名門出身を求めれば、それまでは西園寺が筆頭である。つぎは家老加判役の原敏となる。
     かつての下級武士が、元勲、功臣を自称し、栄爵に飛びついて特権の座に傲然とかまえる薩長の姿を、50年間みせつけられてきた原敬すれば、爵位にこおどりする人びとをあわれと思ったかもしれない。
     彼の爵位拝辞には、なり上がり者に対する軽蔑と薩長に対する抵抗がこめられていたろう。彼が権力的であった半面、自ら「平民宰相」と称したことは、維新の苦難に対する痛恨の思いがあったのでないか。
     原は安政3年の生まれ、明治元年は13歳のとき。少年時代の敗戦のくやしさが、一生、体内に燃え続けていたのかもしれない。
    -----------------------------------

    旧憲法下   新憲法下
    就任順 名 前 出身県 就任順 名 前 出身県
    1 伊藤博文 山口 32 吉田 茂 高知
    2 黒田清隆 鹿児島 33 片山 哲 神奈川
    3 山県有朋 山口 34 芦田 均 京都
    4 松方正義 鹿児島 35 鳩山一郎 東京
    5 大隈重信 佐賀 36 石橋湛山 静岡
    6 桂 太郎 山口 37 岸 信介 山口
    7 西園寺公望 京都 38 池田勇人 広島
    8 山本権兵衛 鹿児島 39 佐藤栄作 山口
    9 寺内正毅 山口 40 田中角栄 新潟
    10 原 敬 岩手 41 三木武夫 徳島
    11 高橋是清 東京 42 福田赳夫 群馬
    12 加藤友三郎 広島 43 大平正芳 香川
    13 清浦奎悟 熊本 44 鈴木善幸 岩手
    14 加藤高明 愛知 45 中曽根康弘 群馬
    15 若槻礼次郎 島根 46 竹下 登 島根
    16 田中義一 山口 47 宇野宗佑 滋賀
    17 浜口雄幸 高知 48 海部俊樹 愛知
    18 犬養 毅 岡山 49 宮沢喜一 広島
    19 斎藤 実 岩手 50 細川護熙 熊本
    20 岡田啓介 福井 51 羽田 孜 長野
    21 広田弘毅 福岡 52 村山富市 大分
    22 林銑十郎 石川 53 橋本龍太郎 岡山
    23 近衛文麿 東京 54 小渕恵三 群馬
    24 平沼騏一郎 岡山 55 森 喜朗 石川
    25 阿倍信行 石川 56 小泉純一郎 神奈川
    26 米内光政 岩手 57 安倍晋三 山口
    27 東条英機 東京 58 福田康夫 群馬
    28 小磯国昭 栃木  59 麻生太郎 福岡 
    29 鈴木貫太郎 大阪  60 鳩山由起夫  北海道 
    30 東久邇稔彦 京都 61 菅 直人 東京 
    31 幣原喜重郎 大阪  62    

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    2010年8月 6日 (金曜日)

    8月6日は広島原爆投下の日

     今日、8月6日は65年前、広島に原爆が投下された日だ。
     慰霊碑には「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と書かれている。
    F0166919_21103763 おかしな話だ。
     今日は、米国の野蛮で非人道的な行為を知る日でもある。
     しかし、米国は必ず真珠湾のことを言うだろう。
     ここに本音がある。日本蔑視政策で日本を追いつめたことや、被害規模も方法も全く違うのに・・・。

     アメリカは、広島と長崎に種類の違う原爆を落とした。
     広島は、ウラン235型原爆( リトルボーイ )、
     長崎は、プルトニウム型原爆(ファットマン)。
     なぜ、わざわざ違う種類の原爆を使用したのか。

     原爆投下は、「一般市民を、どの位大量虐殺すれば敵が戦意喪失するか」という人体実験だったというから、悔しい話だ。
     以前、米の公文書から明かになったことだが、念を押す意味で掲載する。
      戦後、我々は、日本軍は野蛮で非人道的で、F0166919_21254362正義の国は、米国はじめ連合国であったように教えられている。

     そして、「原爆投下は、日本が戦争という過ちを犯したために、その戦争を一日も早く終わらせるために原爆が投下されたのだ」、或いは「ソ連を威嚇するため」などと、左翼議員、学者、評論家、日教組先生らがマスコミと一緒になって宣伝している。

     昭和20年8月6日に広島にウラン235型を投下し約14万人が死亡
     8月9日に長崎にプルトニウム239型を投下し、約7万4000人が死亡
     わざわざ、性能や威力の違う原爆を投下して実験の場にしていた。

      二度の原爆投下は、アメリカで原爆開発のためのマンハッタン計画を担当した ロス・アラモス研究所の公式記録によれば、「史上二度の原爆実験に成功した」と書かれているという。
     当時の戦況は、日本の敗北は濃く、7月には降伏を伝えていたとされる。
     つまり、原爆使用の必要はないのに、アメリカは原爆を投下し一般市民を無差別大量虐殺したことは間違いない。
     日と米、どっちが野蛮で非人道的な国が分かると思う。

    原爆死没者慰霊碑
     慰霊碑
    には「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と書かれている。これはおかしな話です。Radha_binod_pal
      ラダ・ビノード・パル判事は言う。
     1952年11月3日、ラダ・ビノード・パル判事が碑文に疑問表明。「『過ちは繰返しませぬから』とあるのは日本人を指しているのは明らかだ。それがどんな過ちであるのか私は疑う。
     ここにまつってあるのは原爆犠牲者の霊であり、原爆を落としたのは日本人でないことは明瞭。
     落としたものの手はまだ清められていない。この過ちとは、もしも前の戦争を指しているのなら、それも日本の責任ではない。その戦争の種は西洋諸国が東洋侵略のために起こしたものであることも明瞭である。・・・」

    実験の担当部署と理由
      米軍には「兵士ではない一般市民を、どの位大量虐殺すれば敵が戦意喪失するか」という一つの作戦があるという。
     当時担当したのは、米国大統領直属の「心理戦争局」と呼ばれる部署だ。
     この部署は、黒人、日本人等の黄色人種を「絶滅」させるため、生物兵器を研究してきた研究所を、そのまま大統領直属の組織に編成したものであった。

    原爆使用は国際法違反
     ナチスによるユダヤ人の大量虐殺関係者は処刑されている。
     アメリカの残虐行為も当然、同等以上だ。
     しかしアメリカの残虐行為については、文明と正義の名の下に裁くとされた東京裁判においても、何の裁きを受けることもなく、被害者である日本人からも残虐行為の責任を追及されない。可笑しいと思いませんか。
     
    世界の目
     最近になって、米国の指導者層の中にも、原爆被害に目を向ける人々が現れてきた。近いうちに、オバマ大統領が二つの被爆地を訪れる可能性もある。そのとき「安らかに眠って下さい過ちは繰返しませぬから」と触れたとき、整合性が出ることになる。

     8月6日の原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)には、国連の潘基文(バンキムン)事務総長、米国政府を代表するジョン・ルース駐日大使らが参列した。
     
     

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    死の商人「坂本龍馬」

     英雄伝は、つくられた虚像が多い。
     小説やドラマであっても、真実をある程度は知っておくことが大切だ。
     作家・吉村昭は「ひとり旅」で、薩長は武器で結びついたもので、龍馬のことは史実ではない。龍馬はただの郷士、藩士ではない者の仲介は有り得ないと批判している。

     死の商人(Merchant Of Death)とは、営利目的で敵味方を問わず兵器を販N159880869984_7227_2売する人物・組織への蔑称だ。
     けっして、尊敬に値する人物や組織ではないと思っている。
     しかし、金儲けのためなら手段を選ばない日本人にはチャンスをものにしたと高く評価する人も大勢いる。最もこのような姿が、世界から「商人国家(あきんどこっか)」に成り下がったと揶揄される原因だ。
     かつての、誇りある「(さむらい)国家」の面影は消え去った。

     さて、NHK大河ドラマ『龍馬伝』もいよいよ佳境に入ったようだ。
     別に熱心に見ているわけではない。それに、
     官軍側の自慢話、作り話には特別関心ない。
     8月8日の放送は「狙われた龍馬」、15日は「亀山社中の大仕事」、22日は「侍、長次郎」、29日は「薩長同盟せよ」と続く。
     この辺りは、実話に基づいて脚本してあると思うが、どのように作られているか確認しようと思う。このような歴史物は視聴者も、史実をある程度知っておくことが大切と思う。Ryomapic_03_2
     ドラマであっても、史実として見てしまう傾向が強く、そして、間違った人物像が定着することは、もっと怖い。

     坂本龍馬は明治維新の立役者、第一功労者とされるが、それは、薩長を同盟させたことと言われている。そして、この「薩長同盟」によって、幕府側が敗北している。 

     龍馬は1865年、長崎市伊良林2-7-24に武器密輸商社亀山社中」(後の海援隊)を設立、翌年には、それまで犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩を同盟に導いた。
     普通はあり得ない同盟だ。
     このような場合は必ず裏がある
     それが、大量の武器密輸。 
     8月15日のNHKドラマ「亀山社中の大仕事」では、下関戦争に負けて、喉から手が出るほど武器が欲しい長州藩に、7300挺のライフル銃を密輸する話になると思う。31dsmmfbv4l__sl500_aa300_
     通常なら、あり得ない大量の武器売買の話だ。
     作家の吉村昭も、「ひとり旅」で、薩長は武器でむすびついただけ、龍馬が斡旋した史実はないと、暗に司馬を批判している。

     薩長の同盟は、国家転覆を狙った大量の武器密輸が関連している
     この時点では、龍馬は単なる売国奴
     所詮、私利私欲で動いた人物と見ている
     快男児なとではない。
     武器弾薬の密輸の背後では、常に、フリーメーソンメンバーで武器商人グラバーが暗躍している。
     長崎の有名な観光地になっている「グラバー邸」の主だ。
     「日本二十六聖人殉教」で有名な大浦天主堂(長崎市南山手町5-3 )の隣にある。

     戦争や革命の裏にはフリーメーソンありと言われるのは常識だ。
     そして、坂本龍馬が暗殺されると、土佐藩の後藤象二郎が海援隊(亀山社中)を手に入れ「土佐商会」と名を改める。
     更に、同郷の岩崎弥太郎が「土佐商会」を譲り受け、「土佐商会」は「九十九商会」-「三川商会」-「三菱商会」と名を改めている。S0114l
     当時の「三菱」のメイン事業は武器取引で、その後の西南戦争、日清戦争、日露戦争で膨大な利益を上げた。
     つまり、坂本龍馬、岩崎弥太郎らは、日本の混乱に乗じて金儲けした正真正銘の「死の商人」だった。
     なお、長崎のグラバー邸は、かつては三菱重工業のものだったことも知っておいて欲しい。
     これで、どのような関係か納得されると思う。

     付け加えると「三菱」は今でも、日立東芝と並んで、戦車、戦闘機、武器の生産、売却に力を入れている会社だ。
     断っておくが、軍需産業、防衛産業は、それなりに必要と考える一人だ。
     しかし、坂本龍馬や岩崎弥太郎を尊敬に値する人物として見るなら、このような真実も合わせて知ることが大切と思う。
     それに、彼らは当時は大変な犯罪者だ。
     革命が成功すれば、過去の犯罪行為は全てチャラにするという左翼の原理は正当化すべきでない。

     また今の龍馬像は、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が作り上げたものだ。
     吉川英治が、剣禅一如を目指す求道者の姿を小説にした「宮本武蔵」と同じだ。
     いずれも、虚像、誇大評価、脚色しすぎだ
     本当に評価される人物なら、今頃、一万円札に使われているだろう。

     なお、幕末「死の商人」と言われた人物は、
     龍馬のほかに新潟・新発田出M_7身の大倉財閥の創立者大倉喜八郎(1837-1928)の名が上げられる。
     大倉財閥は、日清戦争、日露戦争で莫大な利益をあげ、日露戦争後に多くの企業を興した。
     大日本麦酒(現 アサヒビール)、帝国劇場、東海紙料(現 東海パルプ)、日本化学工業、帝国製麻(現 帝国繊維)、日本製靴(現 リーガルコーポレーション)、日清製油、札幌麦酒(現 サッポロビール)、ホテルオークラ大成建設日本無線などが有名だ。
     坂本龍馬も明治も生きていたなら、このような人物になった可能性が高い。
     さあ、どう評価するかは、皆さん次第だ
     
    龍馬はフリーメイソンだった

    1853年(嘉永6年) 6月■アメリカ東インド艦隊司令官・ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航す。
    1855年(安政2年) 10月■安政の大地震が起こる。
    1857年(安政4年) 5月■下田条約調印。 1858年(安政5年)
                4月■井伊直弼が幕府大老の職に就く。
    1859年(安政6年) 6月■横浜が開港す。
    1860年(万延元年) 1月■幕府の軍艦・咸臨丸が太平洋を横断す。
    1862年(文久2年) 1月■坂下門外の変が起こり、幕府老中・安藤信正が負傷す。
    1863年(文久3年) 3月■将軍・徳川家茂が京都に上洛す。
               6月■高杉晋作が奇兵隊を結成する。
               7月■薩英戦争が勃発す。
    1864年(元治元年)6月■池田屋事件が勃発、新選組が一躍名を馳せる。
               7月■佐久間象山が斬殺される。蛤御門の変(禁門の変)が起こ
              り、薩摩・会津両藩VS長州藩が御所を囲んで激戦す。
    1865年(慶応元年) 5月■土佐勤王党の頭目・武市半平太が処刑される。
                坂本龍馬が薩摩藩の支援を得て、亀山社中を設立。
    1866年(慶応2年) 1月■坂本龍馬の活躍で薩長同盟が成立す。
                 ■寺田屋にて坂本龍馬が幕吏らに襲撃される。
               6月■幕府が第二次征長の役を起こす。
               7月■14代目将軍・徳川家茂が病没す。
              12月■15代目将軍に徳川慶喜が就く。攘夷佐幕派孝明天皇崩御
    1867年(慶応3年) 4月■亀山社中が土佐藩の支援を受けて、海援隊と改称
               6月■坂本龍馬が『船中八策』を作成す。
               7月■中岡慎太郎が土佐藩の支援を得て、陸援隊を結成す。
              10月■幕府が朝廷に大政奉還を奏上す。朝廷から討幕の密勅。
               11月■坂本龍馬・中岡慎太郎が見廻組に襲撃され暗殺される。
               12月■朝廷から王政復古の大号令が発せられる。
    1868年(慶応3年12月25日)(1868年1月19日)■三田の薩摩藩邸焼き討ち         
    1868年(慶応4年~明治元年)
              1月■鳥羽・伏見の戦いが勃発※戊辰戦争が始まる
              3月■江戸無血開城が成る
              5月■奥羽越列藩同盟が結成。
                ■上野で官軍VS彰義隊が戦い官軍勝利。
              8月■官軍VS会津藩軍の戦いが始まる。※会津藩降伏。
       明治元年9月8日■年号を明治へと改元し、一世一元の制を定める。
    1869年(明治2年) 1月■薩長土肥の四藩主が版籍奉還を上奏す。
    1870年(明治3年) 10月■土佐藩出身の岩崎弥太郎が「三菱」の前身
                   九十九商会の運送業を 始める。

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    2010年8月 5日 (木曜日)

    菅総理は「君が代を歌いたくない」

    Minsyuto

     菅総理は「君が代を歌いたくない。確かにそう話した。
     一国のトップの総理大臣なら、最低限、国旗・国歌を尊重して欲しい。
     そう願うのは可笑しいのか。異常なのか

     「そりゃ、可笑しいよ」と、失笑されるような日本になってしまったのか。
     菅直人総理は確かに言った。
     「日本の国歌は、元気がなくて・・・・・」

     佐藤 優氏を全面的にバックアップする
     -「菅総理が「君が代を歌わなかった」証拠-と、情報を発信した責任がある。
     よって、拡散させていただく。
    ---------------------------------
     ■菅直人首相よ、あなたが君が代を歌いたくないと言った証拠はある!■
       http://gendai.ismedia.jp/articles/-/973
    人間としての良心を問う 佐藤 優 Photo_3

     米朝外交。作家・元外務省主任分析官。1960年生まれ。同志社大学新学部卒業後、外務省に入省。ロシア大使館、国際情報分析第一課などで情報活動に従事し、「外務省のラスプーチン」の異名をとる。2002年に背任容疑で逮捕。著書「国家の罠」で鮮烈デビュー。「自壊する帝国」で大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞を受賞。国際ニュース分析官ロシア大使館、国際情報分析第一課で情報活動に従事したインテリジェンスの第一人者、佐藤優。公開情報を分析することで真実が見えるというプロ中のプロが、国際ニュースの読み解き方を明かす。
    ------------------------------------------------------------------
    菅直人首相は、まともな人間としての良心をもっているのだろうか
     8月3日の衆議院予算委員会の平沢勝栄衆議院議員と菅首相のやりとりに関する以下の報道を読んでそう思った。
     低姿勢を続けていた菅直人首相が3日の衆院予算委員会で久々に「イラ菅」ぶりを発揮する場面があった。
     まずは平沢勝栄氏(自民)。首相が国旗・Plc1008032003017p1_2国歌法案に反対票を投じたことを念頭に平沢氏が「2002年のラジオ番組で首相は『君が代を歌いたくない』と言った」と指摘すると、首相は席に着いたまま、「証拠を出してください」と大声をあげた。
     平沢氏が「みんなから聞いている」と畳み掛けると、首相は「こういう場で、そこまで言うなら、誰がどういう根拠で言ったか、そのテープでもいいからちゃんと出してください」と反撃した。(8月3日asahi.com)
     菅首相よ!それならば筆者が証拠を出そう
     きちんとした物証だ。
     菅首相が君が代を歌わなかった問題について、「誰がどういう根拠で言ったか」というイラ菅の大声に対する筆者の回答は次の通りだ。
     作家で元外務省主任分析官の佐藤優が、2010年6月5日付「SANKEI EXPRESS」紙にこう書いた。重要な事柄なので、あえて全文を正確に引用しておく。
    <6月4日の民主党両院議員総会で、菅直人副総理が民主党代表に選出された。これで来週初め、菅氏が日本国内閣総理大臣に就任する。社交辞令で「おめでとうございます」と言いたいところだが、そういうわけにはいかない。筆者には、菅総理の誕生に関して、どうしてもひっかかる点があるからだ。それは、「君が代」をめぐる問題だ。

    君が代を歌わない
     ミッキー安川さんは、RFラジオ日本で人気番組を何本かもってImage_12いた。そのうち深夜に放送される「朝まで勝負」では、深夜0時の時報が鳴るとともに、ミッキーさん、スタッフとゲストが全員立ち上がり「君が代」を斉唱する。この番組に筆者が初めて出たとき、ミッキーさんがこう言った。
    「あんたクリスチャンだよな。俺の番組では『君が代』を歌うけれど、問題ないよな」
    「問題?」
    「いや、歌いたくないならば、無理しなくていいから。ただ起立だけはしてほしいんだ」
    「ミッキーさん、僕は日本のキリスト教徒ですよ。『君が代』を歌うのは当たり前じゃないですか。キリスト教徒だからこそ、目に見えないものに対する畏敬の念をもっています。天皇様の弥栄をお祈りするのは、当たり前じゃないですか」
    それを聞いて、ミッキーさんはにっこり笑った。そして、こう言った。
    「政治家でも『君が代』を歌わない人がいるんだよ」
    「誰ですか」
    「例えば、菅直人さんだ。この番組のゲストで来てもらったんだけど、『君が代』は歌いたくないと言うんだ。俺は、それはわかったから、俺たちが『君が代』を歌う間は、立っていてくれと頼んだ」
    「それでどうなりましたか」
    「ちゃんと立ってたよ。ただ、俺は菅さんの態度は立派だと思うんだ。自分の信念で『君が代』を歌いたくないと思うならば、歌わないというのは、周囲の雰囲気に合わせて、ほんとうは歌いたくないと思っているのに、義理で歌うよりは政治家としてずっと誠実だよ」
     ミッキーさんは、寛容と多元性を尊重する日本の保守思想を体現した人だった。それだから、菅直人氏の「筋の通し方」を尊重し、かつ評価したのだ。
     内閣総理大臣は日本国家を政治的に体現する。菅氏も総理として「君が代」を唱うことになると思う。それは、「君が代」が国歌であると法律に定められているからだ。しかし、菅氏の世界観において、「君が代」はどういう位置を占めているのだろうか?

    日本国家の本質
     日本国家の根本は祭祀共同体である。目に見える制度や法律ではなく、目に見えない高天原の神々によって、日本は支えられている。南北朝時代の南朝の忠臣・北畠親房は、わが国の本質について、「大日本者神国也(おおやまとはかみのくになり)」と述べた。当時、京都には軍事官僚(足利尊氏一派)による北朝がたてられていた。これに対して、親房、そして「悪党」と呼ばれた楠木正成たちは、奈良の吉野に逃れた後醍醐(ごだいご)天皇による南朝を命がけで支えた。
     参議院選挙の結果がどうなろうと民主党は権力を手離さない。民主党という巨大な権力の器の中に、超越的なものに対する畏敬の念を欠いた、合理的計算で理想的社会を構築することができると考える人々が、官僚と手を組み、イタリアのムッソリーリ首相が理想としたファッショ体制が、知らず知らずのうちに形成されるのではないかという不安を筆者はもっている。この不安が消え去るまでは、菅直人新政権に対し、「おめでとうございます」と言うことを差し控えたい。
     筆者がこのことについて、公の場で述べたのはこれが初めてではない。
     ミッキー安川さんは、2010年1月18日に逝去した。その追悼文を筆者は1月23日付「SANKEI EXPRESS」紙に寄稿した。そこではこう書いた。
    <ミッキーさんの深夜の番組では、零時の時報が鳴るとともに、番組の参加者全員が立ち上がって「君が代」を歌う。ゲストでも、例えば菅直人さん(現副総理兼財務相)は、「歌いたくない」と言う。そこでミッキーさんは、「それじゃ歌わなくていいけれども、いっしょに立ってくれ」と言ったら、菅さんは立ったまま君が代を聞いていたという。ミッキーさんは、菅さんを非難せず「自分の信念を通すのはいいことだ」と言っていた。

    菅首相よ、正直になりなさい
     筆者は、ミッキー安川さんを信頼している。菅氏が、ミッキー安川さんに「君が代を歌いたくない」と言ったのは事実と筆者は考えている。平沢勝栄氏が指摘した事実関係について、誤認はないと思う。
     菅氏よ! よく思い出してみおることだ。かつてRFラジオ日本の番組で、ミッキー安川さんに「君が代を歌いたくない」と言ったという事実が本当になかったのだろうか?
     RFラジオ日本の録音記録を引きだして、勝負をして勝てると思っているのか?
     政治家として重要な資質は正直であることだ。平沢勝栄氏の質問に対して、「こういう場で、そこまで言うなら、誰がどういう根拠で言ったか、そのテープでもいいからちゃんと出してください」と開き直り、誠実に対応しようとしないのか?理解に苦しむ。

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    木曜は「文春」「新潮」発売日

     毎週木曜日は、「週刊文春」と「週刊新潮」の発売日だ。
     今週は、4日水曜日に発売されている。

     この雑誌社はいずれも老舗で、ともに「新聞・テレビが報道しない記事」が多い週刊誌というスタンスで信頼性が高い。
     
     もし、これらの雑誌社まで、左翼政党、創価学会などの宗教団体、右翼や暴力団、日教組、また日本を敵視する外国におもねるような記事を書くようになったら、それこそ日本はおしまいと感じるだろう。
     逆に見るなら、既成の大手マスコミは、それくらい影響を受けている。
     また、「週刊現代」や「週刊ポスト」が女性ヌードを掲載して売り上げを伸ばしたあとも、「女性ヌード」はなく、通勤時など人前でも安心して読める雑誌だ。
     毎週どちらかを、気分次第で読むようにしている。
     Blueline
    ■「週刊文春
      発売日:毎週木曜日。価格:350円
      http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/
    ▼ワイド大特集 私は見た!今だから語れる「時代の主役51人」

    100819

    Blueline
    ■「週刊新潮
     発売日は毎週木曜日、価格は320円。
        http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/

    ▼「菅」総理と「仙谷」官房長官の赤い系譜
    ▼ 「川島なお美」「中井美穂」から「櫻井翔」「東山紀之」まで通う芸能人御用達「痩身クリニック」に覚醒剤原料
    ▼  【ワイド】向日葵の咲く迷宮

    20100804_2

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    2010年8月 4日 (水曜日)

    重点港湾43港(含む・酒田港)

     集中的に整備する「重点港湾」43港に、山形県酒田港も選ばれたという。
     まず、関係者はホッとしたことであろう。Sakataph01_3
     この「重点港湾」という言葉は、港湾法の「重要港湾」に似ているが、実は昨年12月、民主党が政治主導を世間に示す意味合いから出てきた言葉だ。
     簡単に言うなら、民主党が票集め目的に、その地元に恩を着せる政策の一つと見ている。

     「重点港湾」に指定した港には、「投資先を絞り込み、港湾の国際競争力を高める」と謳い文句にあるから、指定されれば国家予算が重点的に配分される。
     酒田港のライバル港は、新潟港や秋田港であろうから、競争力を高める意味でも今回の指定は重要だった。
     しかし、選定基準が、「原則11」、「一定の取扱貨物量」等の選定基準から、まず外れることはないと見ていた。
     唯一の弱点は、酒田港の2007年の貨物取扱量は337万トンで、103港のうち60位であることと、定期コンテナ船は週1便の釜山航路だけということだった。
     決定までの一連の報道を見ていると、前原国交省、県知事、酒田市長ら関係者が自分の手柄の如くアピールしていることが気になる。
     この指定は、ほぼ常識的なもので、殊更アピールするほどでなかろう。
     この決定までは、各自治体が執拗な陳情合戦を繰り広げたことであろうが、
     報道などからは、関係者の民主に媚びたイメージが強すぎる。最近の陳情は、民主党支持を迫る「踏み絵」の場になっているとの見方が一般化している。
    Minato_map_canvas
     「港」は、古くは、河川の河口や湾や入り江といった船の停泊に都合の良い天然の地形が港として使われていた。やがて桟橋や岸壁が作られ、海運の発達によって船の規模が拡大するとともに施設は充実され、沖に突堤を突き出すようになる。

     酒田港も、同様のプロセスをたどり、主要交通網が鉄道に奪われる明治までは、「日本海時代」の拠点港だった。
     今回、秋田港や酒田港などが「重点港湾」に指定されたことで、日本海側の玄関港機能がより強化され、発展につながることが期待される。
     なお、新潟港は港湾法による「特定重要港湾」のため、今回の「重点港湾」指定から除外されている。

    港湾法に言う「港湾区分」は、
    特定重要港湾~重要港湾の中でも国際海上輸送網の拠点として特に重要な港湾
    重要港湾~国際海上輸送網または国内海上輸送網の拠点となる港湾など
    地方港湾~重要港湾以外で地方の利害にかかる港湾
    56条港湾~港湾区域の定めがなく都道府県知事が港湾法第56条に基づいて公告した水域
    避難港~小型船舶が荒天・風浪を避けて停泊するための港湾
    -----------------------------------
    ■重点港湾に酒田港、県、市、企業歓迎 知事「環日本海物流盛んに」
                               (2010年8月4日  読売新聞)
     全国の重要港湾103港のうち、新規の直轄港湾整備事業の着手対象となる「重点港湾」の43港に3日、県内唯一の重要港湾である酒田港が選定された。昨年12月に示された国の方針に対し、県や地元の酒田市、港湾関係者が続けた要望活動が結実。関係者は今後の整備促進や、国指定のリサイクルポートとして関連企業のさらなる集積を期待している。
     「重点港湾」の選定は、前原誠司国土交通相が進める国の直轄公共事業の「選択と集中」の一環として行われた。
     選定されれば国の予算が集中的に投入されるが、選定外となれば、新規事業を国の事業として実施できなくなるなど、港湾整備が停滞すると懸念されていた。選定作業は、貨物の取扱量実績や地域の拠点性などを基準に進められていた。
     前原国交相は「1県に1港」との方針を今年6月に示していたが、酒田港の2007年の取扱量は重要港湾103港のうちで60番目と低水準。選定対象は約40港と想定されており、選ばれるかは不透明で、吉村知事や地元・酒田市の阿部寿一市長、港湾関係者などは国交省や民主党本部に要望活動をしていた。
     この日の発表を受けて、吉村知事は、「山形県にとって大変に喜ばしい。酒田港に貨物を集めて、環日本海物流を大いに盛んにしたい」と歓迎。阿部市長も、「高速道路の無料化を追い風とし、県内企業の酒田港利用促進を図りたい」などとするコメントを発表した。
     酒田港の活性化や北東アジアとの貿易促進などに取り組む東方水上シルクロード貿易促進協議会(酒田市)の新田嘉一会長は記者会見で、「『重点港湾』に選定されるかどうかは庄内、山形県にとって死活問題だった。知事が先頭になってがんばってくれた」と喜んだ。酒田港に立地する企業も今回の選定を歓迎する。酒田港で石炭などを輸入している酒田共同火力発電(酒田市)の中野正幸・管理部部長は、「船が大型化していく中で、それに対応できる岸壁の強化や航路の浚渫(しゅんせつ)工事などは欠かせない。港湾整備が滞れば、我々の事業にも支障が出かねなかった」と安堵(あんど)の表情を浮かべた。

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    果たして「左回り」で若返るか

     この理屈で成功しても失敗しても責任は負いかねる。
     70歳の人が40歳位になるかも知れない。
     
     人間は生命として誕生の瞬間から細胞の右回り始まっているという。
    Photo_2
     つまり「右回りで老化が始まる」だから「左周りの運動や行動をすると若返る」という。
     なるほど、
     これを「左回り健康法」というらしい。
     顔のシワを伸ばして、シワになるのを遅らせるようなものか

     この話は、聞いたのか、本からなのか、忘れたが面白いので紹介する。当方は眉唾と思っているが、信じている人もいる。
     無意識なのか、グランドの駆け足、皇居や多摩湖のジョギングは左周りの人が多いし、競馬、競輪、競艇は全て左周りだ。
     フィギュアスケートのトリプルアクセルの回転も殆どそうだ。
     そう言えば、
     自然界でも、地球の自転・公転、台風の目は左回りしている。

     健康法の具体的な動きは、立ったまま「左回転」の運動をするだけでいいらしい。
     体の回転、腰回しなど意識して左に回してみましょう。
     回転椅子に座り、左回転してもいいらしい。
     回しすぎて、目を回したり、腰を痛めたりしないように。
     本当に効果があるか、保証も、万が一は補償も出来ない。Photo

     それから、人が作った物は「右周り」していることが多い。
     時計、ねじ、扇風機、回転寿司、脱水機の回転、遊園地の乗り物など、今度回転するものに気を付けて観察しようと思う。
     これは、きっと右利きの人が多いからだろう。
     また、右回りか左回りか一瞬分かり難いときがある。
     手を握り親指が向いた方向でもわかるが、文字の「」と「」でも認識する方法があるので、画像にした。

    ■「回る人影http://www.procreo.jp/labo/labo13.html
     利き腕があるように、脳にも利き脳があるという。
     画像の女性が「右回り」に見えるか「左回り」に見えるかで、左脳派か右脳派か分かるそうだ。
     右回りに見えたら「右脳派」、左回りに見えたら「左脳派」らしい。
     右脳は「左手の運動、音楽感覚、空間構成」
     左脳は「右手の運動、計算処理、時間連鎖的思考」に関連している。http://www4.famille.ne.jp/~kin/check/check.htm

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    2010年8月 3日 (火曜日)

    菅総理が「君が代を歌わなかった」証拠

     菅直人総理大臣が、「君が代を歌わなかった」証拠資料を紹介する。Plc1008032003017p1
     後は、テープ記録や、関係者の証言を得ることが出来るかだ。

     平沢勝栄衆院議員(自民党/東京17区)は、8月3日午前9時40分から予算委員会で質疑に立った。
     この際、菅直人総理大臣に対して、国旗・国歌に関する見解を質問した。


    ■平沢議員は「ミッキー安川氏の番組で君が代拒否した菅総理を追求
     菅直人総理が、ミッキー安川氏が担当していたRFラジオ日本の『朝まで勝負』という番組は、開始と同時にゲストとスタッフ全員が立ちあImage_12がって『君が代』を斉唱することになっていたが、ある日ゲストで出演した菅直人氏は歌うことを拒否したという。
      ミッキー安川氏は、君が代斉唱を拒否した菅直人氏を逆説的ではあるが、正直だとして評価したという。
     これに対して、菅総理は「違う、違う
     「証拠を出せ、小中学校の時からそのような場面で歌っている。」
     と激昂し反論していた。
     それならと、
     何か参考になるサイトがないか探したところ、ここにあったので紹介したい。
     自国の国旗・国歌を否定する総理大臣を、諸外国ではどう見ているのだろう。

    この動画は、株式会社アール・エフ・ラジオ日本 さんによる著作権侵害の申し立てにより削除されました。(手回しがいい)
    横浜本社 〒231-8611 神奈川県横浜市中区長者町5丁目85番地
                                 明治安田生命ラジオ日本ビル
    東京支社 〒106-8039 東京都港区麻布台二丁目2番1号 麻布台ビル
    演奏所 東京支社、横浜本社 (廃止)小田原支局
    代表取締役社長 新井修一郎


    ------------------------------引用--
    2010/06/07  「【佐藤優の地球を斬る】「畏敬の念」欠く新政権に不安
      http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/print/politics/politicsit/400350/
     6月4日の民主党両院議員総会で、菅直人副総理が民主党代表に選出された。
     これで来週初め、菅氏が日本国内閣総理大臣に就任する。社交辞令で「おめでとうございます」と言いたいところだが、そういうわけにはいかない。筆者には、菅総理の誕生に関して、どうしてもひっかかる点があるからだ。それは、「君が代」をめぐる問題だ。
    筆者は、ミッキー安川さん(本年1月18日に逝去。ちなみにこの日は筆者が50歳になった誕生日だった。だから筆者はミッキーさんの命日を一生忘れない)から、菅氏の「君が代」に対する姿勢について、こんな話を聞いたことがある。
    君が代を歌わない
     ミッキー安川さんは、RFラジオ日本で人気番組を何本かもっていた。
     そのうち深夜に放送される「朝まで勝負」では、深夜0時の時報が鳴るとともに、ミッキーさん、スタッフとゲストが全員立ち上がり「君が代」を斉唱する。この番組に筆者が初めて出たとき、ミッキーさんがこう言った。
     「あんたクリスチャンだよな。俺の番組では『君が代』を歌うけれど、問題ないよな」
     「問題?」
     「いや、歌いたくないならば、無理しなくていいから。ただ起立だけはしてほしいんだ」
     「ミッキーさん、僕は日本のキリスト教徒ですよ。『君が代』を歌うのは当たり前じゃないですか。キリスト教徒だからこそ、目に見えないものに対する畏敬の念をもっています。天皇様の弥栄(いやさか)をお祈りするのは、当たり前じゃないですか」
     それを聞いて、ミッキーさんはにっこり笑った。そして、こう言った。
     「政治家でも『君が代』を歌わない人がいるんだよ
     「誰ですか」
     「例えば、菅直人さんだ。この番組のゲストで来てもらったんだけど、『君が代』は歌いたくないと言うんだ。俺は、それはわかったから、俺たちが『君が代』を歌う間は、立っていてくれと頼んだ
     「それでどうなりましたか」
     「ちゃんと立ってたよ。ただ、俺は菅さんの態度は立派だと思うんだ。自分の信念で『君が代』を歌いたくないと思うならば、歌わないというのは、周囲の雰囲気に合わせて、ほんとうは歌いたくないと思っているのに、義理で歌うよりは政治家としてずっと誠実だよ
     ミッキーさんは、寛容と多元性を尊重する日本の保守思想を体現した人だった。
     それだから、菅直人氏の「筋の通し方」を尊重し、かつ評価したのだ。
     ミッキーさんは、寛容と多元性を尊重する日本の保守思想を体現した人だった。
     それだから、菅直人氏の「筋の通し方」を尊重し、かつ評価したのだ。
     内閣総理大臣は日本国家を政治的に体現する。
     菅氏も総理として「君が代」を唱うことになると思う。
     それは、「君が代」が国家であると法律に定められているからだ。
     しかし、菅氏の世界観において、「君が代」はどういう位置を占めているのだろうか?

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    もっと「民主党」に関して勉強を!

     これを機会に、民主党のことを勉強しませんか
     テレビ、新聞などでは教えてくれませんImages
     好き嫌いは別にして、当分はこのような方々が日本の舵取りをしているのです。

     評論家・宇田川敬介氏は、「自民党がいやだから、極左・『革マル派』に票入れたことと同じだ。」と評論する。
     つまり、共産党より更に左の極左が政権に入ったことになる
     そして、
     「菅直人内閣」は、小沢・鳩山が排除されて、ちょうど「旧社会党左派」=「極左」の人達が中心の政権が出来上がってしまったと憂慮する。
     支持政党には、どのような経歴と思想を持った人達が集まっているかを知ることは極めて重要だ。

    民主党が如何に危険かということを、国民は知って欲しい。
    ●旧社会党の極左連中である職員が民主党の職員としてなだれ込んで、そのまま裏で民主党を牛耳っている。N9q6yhqd
    ●国家公務員ではない民主党の職員が政府職員として鳩山政権発足後より入っている。
    ●内閣官房専門調査員という国の「中枢中の中枢」に「新左翼系過激派集団」である「日本社会主義青年同盟」=『社青同』のメンバーである民主党職員20数人の中から、9名が入り込んでいる。
    ●日本国家破壊のための法案を上程させるために影で動いている。
    ●数々の労働組合を支持組織として持つ民主党が声高に叫ぶ「企業献金全廃」は、自分たちの支持組織からの献金を温存させるための目くらましに過ぎない。
    ●そもそも労働組合というものの活動費は、サラリーマンの給与から天引きされる「組合費」である。民主党はこの「組合費」という表に出てこない財布からカネが回ってくる。
    ●民主党とは、旧社会党左派(過激派)+自民党田中派(経世会)
     自民党の一番汚い金権腐敗政治集団と売国、国家破壊政治組織の集団が集まったようなもの。
    ●小沢・鳩山が排除されて、ちょうど「旧社会党左派」=「極左」の人達が中心となる政権が出来上がってしまった。
    枝野幸男(幹事長)→JR東日本・松崎明(革マル派最高幹部)から献金。
    仙石由人(官房長官)→左翼の弁護活動、社民党の福祉瑞穂と同じ事務所だった。
    原口一博(総務大臣)→「がんばろう日本」(マル青同=マルクス主義青年同盟)から献金。
    菅直人(首相)→学生時代、それほど革新ではなかったが、後に市川房枝の影響を強く受ける。その市川房枝から賜った言葉は「権力に反する事、『反権力』こそが、あなたの権力になります」
    ●参院選でも極左が民主党候補者として出ます。↓
     JR総連、JR東労組には革マルが相当浸透と政府答弁書
     民主党はJR総連候補を公認。

    ■【宇田川敬介】政治放談「民主党政権の闇」[桜H22/6/8]

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    民主党と極左「革マル」は一体

    A_124

    民主党と極左集団革マル派(日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派は一体だ。
     8月3日、平沢勝栄衆議院議員(自民党)は予算委員会で民主党に関係を追及したが、菅直人総理は、これを否定しなかった。

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     国鉄が民営化し全国組織として「JR総連」、JR東日本では「JR東労組」が誕生した。このJRの労働組合が、国労・動労時代から、殺人集団、革マル派ら極左集団との結び付きが強いことは周知の事実だ。8d219c45s
     民主党を支持する国民も、これらを知っていての応援だろう。
     いかに、国民全体が左傾化しているかが分かる。

      月刊「新潮45」は、「枝野幹事長が交わした『魔の契約』として」8月号に掲載していた。
     枝野氏が覚書を交わしたのは、警視庁公安部が革マル派のJR内秘密組織の幹部と判断している、JR東労組大宮支部の執行委員長だ。枝野幹事長は、覚書で「私はJR総連及びJR東労組の掲げる綱領(活動方針)を理解し、連帯して活動します」などとしている。

     平沢勝栄衆議院議員(自民党)(東京17区)は、8月3日午前中、予算委員会で、これらの質疑に立った。
    ■金賢姫元工作員の来日と鳩山別荘の利用や東京ヘリクルーを追求
    ■革マル派と枝野氏、日教組と民主党の関係を追求
    ■ミッキー安川の番組で菅氏は、君が代拒否した菅総理を追求
     菅直人総理が、ミッキー安川氏が担当していたRFラジオ日本の『朝まで勝負』という番組は、開始と同時にゲストとスタッフ全員が立ちあがって『君が代』を斉唱することになっていたが、ゲストで出演した菅直人氏は歌うことを拒否したという。
      ミッキー安川氏は、君が代斉唱を拒否した菅直人氏を逆説的ではあるが、正直だとして評価したという。 
     これに対して、菅総理は、「証拠を出せ、小中学校の時からそのような場面で歌っている。」と反論した。証拠はここにあった
     さて、国民はどちらを信用するか。
     国旗を簡単に切り刻む党の総理大臣を信用出来るかだ。
    2010年7月17日発売『新潮45』
    2010年5月11日に閣議決定された政府答弁書

    K4015000

    枝野幹事長が交わした『魔の契約』
    月刊「新潮45」8月号
    1:枝野氏は1996年、JR東労組大宮支部執行委員長のA氏との間に「『第41回衆議院議員選挙』立候補予定者の推薦に関する覚書」を交わした。
    2:A氏は2002年、同僚を脅して退職に追い込んだとして、警視庁公安部に強要の疑いで逮捕された人物である。当時の朝日新聞東京版によると、警視庁は「A容疑者がJR東労組内の『マングローブ』と呼ばれる革マル派組織の幹部で、事件の中心人物とみている」
    3:A氏らは、他の組合の人間とキャンプに出かけて交流した同僚を罵詈雑言の限りをつくして恫喝、脅迫し、組織を挙げた陰湿、冷酷ないじめで退職に追いやった(浦和電車区事件)。
    4:革マル派は、共産主義革命を起こすことを究極の目的とする極左暴力集団であり、これまでも殺人など多数の刑事事件を起こしている。JR総連とJR東労組内には、影響力を行使し得る立場に革マル派活動家が相当浸透している(枝野氏もサインし、閣議決定された今年5月の政府答弁書)
    5:枝野氏とA氏が交わした覚書では、「わたし(枝野氏)は、JR総連及びJR東労組の掲げる綱領(活動方針)を理解し、連携して活動します」とある。
    6:枝野氏の資金管理団体は、この覚書が交わされた96年から4年間で、JR総連とJR東労組から計404万円の資金提供を受けている(※私の過去エントリを参照願います)
    7:96年以降、枝野氏はJR総連の大会、集会などにたびたび出席しており、特に06年11月には「えん罪・JR電車区事件から4年~7名の完全無罪をかちとる」埼玉連集会で講演している。最後の講演はまさにA氏のための活動といえる。
    8:今回の参院選では、JR総連に所属する田城郁氏が民主党の公認を受けて比例代表で立候補し、当選している。新潮45の記事によると、田城氏は「公安当局が革マル派の事実上のトップとみている松崎明氏の運転手を務めた人物で、松崎氏の”側近”と目される」
    ----------------------------------
      「第41回衆議院銀選挙」立候補予定者の推薦に関する覚書
    次期第41回衆議院銀選挙にあたり立候補を予定する、枝野幸男氏とJR東労組東京地本本部とJR東労組大宮支部は、推薦にあたり、次の通り覚書を取り交わします。
                         記
    1 立候補予定者はJR東労組東京地本本部とJR東労組大宮支部が20107提示する下記の項目について確認する。
     ①わたしは、JR総連及びJR東労組の掲げる綱領(活動方針)を理解し、連帯して活動します。
     ②わたしは、地域に密着した交通網拡充のため全力を挙げて取り組みます。
     ③わたしは、平和憲法とりわけ憲法9条を守り、恒久平和を希求する運動に全力を挙げて取り組みます。
    2 JR東労組東京地本本部とJR東労組大宮支部は選挙活動について協力する。
    3 JR東労組東京地本本部とJR東労組大宮支部および立候補予定者は、本覚書にもとずき、誠実に履行する。
    1996年8月24日
                      JR東労組大宮支部執行委員長  ■■■■  印 
                       衆議院議員選挙立候補予定者 枝野幸男 印

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    面白地名・鶴岡市の「古郡」

     山形県鶴岡市の「古郡(ふるごおり)」は歴史のロマンを感じさせる地名だ。
     正に「地名は土地の履歴書」だ。Photo_2

     7~8世紀に律令制が整備されていく過程で、北海道を除く全国を60余りの「国」に区割りし、その「国」を数カ所の「郡」で区分していた。
      山形県や秋田県辺りは、「出羽(いでは)」と呼ばれたが、これは「越の国」(新潟の上越市)からの出先としての「出端(いではし)」の意味だという。(※「越の国」の国分寺跡は未発見)
     和銅2年(709)7月1日、律令政府は諸国に命じ、蝦狄(えてき)を成敗するための兵器を、「出羽柵(いではのき)の「征狄所」へ船100嫂運送したと記録がある。

     しかし、この「出羽柵」の正確な場所が分かっていない。
     現段階では、この鶴岡市「古郡」が最有力視されている。
     「古郡(ふるごおり)」は、藤島町が鶴岡市と合併する前は、「東田川郡藤島町古郡」だったが、現在は「鶴岡市古郡」と地名変更されている。

     「出羽柵」の近くには、船100嫂を停泊できる「潟湖」があったとみられる。
     庄内平野はかつて「潟湖」だったところだが、当時の潟湖の広さが分かっていない。
     現在の「古郡」は最上川から10㎞ほど離れているが、直ぐ近くには「池神社」、「皇大神社」の古い社殿があるのが面白い。

     また、『続・日本紀』によると、和銅7年(714)から養老3年(719)までに、東海・東山・北隆三道の民が4度にわたって出羽国に移され、累計1200戸に及んだという。
     庄内は、「出羽郡」「田川郡」と「飽海郡」となり、更に「陸奥国」に属していた「最上郡」、「置賜郡」の5郡で「出羽国」となり、ほぼ現在の山形県の広さになった。

     更に180年も経った頃、、
     『日本三代実録』の887年(仁和3年)5月20日の条に、「国府は出羽郡井口地にあり」とあるが、「井口国府」とは、酒田市の「城輪柵」とする見解が有力だそうだ。

     当時、朝廷と蝦夷の抗争がこの辺りで頻繁にあったものと推測されている。
     明白なのは、朝廷側が侵略、それに蝦夷側が抵抗していたもので、アメリカの西部開拓当時の白人とインディアンの抗争と同様であろう。
     アメリカでは「西部劇」というが、日本の場合は「東北劇」か。
     そんな映画を鶴岡の映画村で作って欲しいものだ。

     追われる判官・義経を応援したい気持ちを「判官贔屓」という。
     これは、義経に寄せる東北人の心情とされるが、その心の奥には「滅び行く蝦夷に対する心情」が交差しているとの話を聞いたことがある。

    海面が7m上昇した東北の地形は
    http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/special/267_data/index15.html

    Photo

     

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    2010年8月 2日 (月曜日)

    面白地名、酒田市生石「登路田」

     山形県酒田市生石(おいし)に「登路田(とろだ)」という面白い地名がある。
     「地名は土地の履歴書」と言うが、正にそのとおりの地名だ。
     静岡県静岡市の「登呂遺跡」と関連している。
     いずれも、稲作水田の遺跡が発見されているが、残念ながら静岡の「登呂遺跡」のように有名な場所ではない。

     「登路田」の由来は、「ドロ田」「トロトロした田」、つまり低湿性の水田だという。
     大昔は、「たんぼ」を「どろ田」とでも呼んでいたのだろうか。
     山形県庄内平野にある酒田市生石の「登路田」からは、縄文時代晩期(紀元前1300年~紀元前950年)の稲作水田の遺跡が発見された。
     「生石2遺跡」と呼ばれている。
     昭和60年、発掘調査したところ、縄文晩期の土器とともに、福岡県の弥生時代前期の遠賀川(おんががわ)系土器が発見されているところから、稲作技術とともに九州から伝わったものと推測されている。
     酒田市生石の「登路田」は東側の山寄りの345号線沿いにあり、庄内平野でも早目に陸地化した場所だったと思われる。
     以前は何度か車で通りがかったが、別の道路が良くなってからは通行していない。

     それに「生石(おいし)」もまた面白い地名だ。
      大沼浩編著 『荘内地名辞典』では 『石材の産地としての伝播地名』とある。
     東平田の山寄りで、矢流川が下り、生石神社が祭られている。生石は、地名として近畿・中国地方に見られ、古く人名にもある。ここの生石は、石材の産地といわれ、神社の勧請による伝播地名であろう。


      因みに、縄文時代は今から約1万6500年前に始まり、約2千3百年前に終わった。
     その約1万3千年間を 「縄文時代」と呼ぶ。
     かなり長い期間だ。
     縄文時代には土器の製作と矢の使用が始まり、ムラが作り始められた。
     縄文時代の「縄文」は、土器に縄の模様を入れた時代を基準にしている。

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    政府は東北を蔑視し続けた。

     東北地方が、どのような差別を受けて来たかご存じですか。
     前回“なぜ「東北地方」と呼ぶのか”と記載したので、この続きも紹介したい。

     薩長土肥中心の明治政府は、どのように東北を蔑視したか列挙する
    ■官軍の戦死者を祀るために、明治2年「東京招魂社」(靖国神社)を建立した。
      ※勝者の論理で造られた神社であり、東北の戦死者は祀らなかった。
      その後各地の招魂社(護国神社)にも祀ることはなかった。
      日清・日露戦争で、東北から戦争に出征した戦死者も祀るようになったが、靖国神社に積極的に参拝する東北人は少ない。(特に賊軍にされた藩出身者)
    ■明治天皇が東北巡幸に際して官軍の墓だけを参拝させた。
      この参拝を計画したのは薩長系の役人だった。
        天皇の御旗の元、薩長は戦死者に対しても差別を続けたことに、巡幸の有難味は半減したという。
    ■参議・木戸孝允は、「東北辺十が十愚者のみ」と東北を差別した。
    ■明治政府は、東北を「白河以北、一山百文」と差別した行政が執られた。
    ■明治政府は、東北各県の県令・知事は薩長土肥の出身者を充てた。
     東北では、土地を治めるお偉方(支配者)は、他国からやって来ると思っている。
     事実、今でも地元から巣立った人材より、中央から呼び寄せる傾向がある。
    ■佐賀出身の鍋島幹青森県知事は、東北民衆は「無神経の人民」と評し、リコール運動が起きた。
    ■東北地方の地場産業を育成しなかった
     東北の豊富な地下資源を、政府と癒着した政商(藤田組、古河家、三菱、五代家など)に払い下げた。山形県では、鶴岡の「油戸炭鉱」(1957年2月閉山)や尾花沢の「福舟鉱山」は三菱鉱業に払い下げた。この意味でも、TDK創業者・齋藤憲三が、秋田県にかほ市に地場産業として育てたことは評価される。安易に誘致することではない。
    ■東北の凶作にも関わらず「一村千人を殺しても苦しからず候」と納税を厳命した。
    ■戦争では、東北出身の兵隊は一番厳しい戦場に送られ戦死者が続出した。
    ■軍隊の指揮官、将校は薩長土肥出身者が殆どを占めた。
      「一将功成りて万骨枯る」と言われるが、万骨は東北の兵隊達だった。
      そして、手柄、功労は、これら指揮官に持って行かれた。
    ■東北の娘達の身売りは、行政機関も協力していた。
      東北地方から遊郭に売られる娘達の人身売買に行政が関与していた。
    ■近年も、出稼ぎ、集団就職など安い労働力が提供される地とされる。
     
     このように、蔑まされた地域からは、当然の成り行きとして、左翼的傾向Oshin_3shotを持つ人々が育成される。
     かつて、NHKドラマ「おしん」で、渡瀬恒彦演じる共産主義者が「おしん」と逃げ回る場面があったが、橋田壽賀子先生は山形県の置かれた実情を熟知しているからこその脚本と見ていた。
     東北地方の選挙の難しさは、このような背景もある
     
     また、戦前の東北は、凶作で生活は窮乏し、子ども達の環境も最悪を極め、教師達も左翼傾向が強まり生活綴方運動をすすめ、北方性(ほくほうせい)教育が普及した。
     戦後は、山形県山元村(上山市)で無着成恭指導による『山びこ学校』の文Yamabiko集となって復活し、東北の惨状が世間に知られるようになった。
     特に、江口江一少年の「母の死とその後」は文部大臣賞を受賞、映画化され全国からファンレターが殺到し、綴方の注文も多かったというが、江一少年は一切断り昭和42年5月31歳で亡くなった。山形県人の性格・資質がよく表れている。
     また、
      元会津藩・柴五郎は10歳で戊辰戦争を体験するが、『ある明治人の記録』(会津人柴五郎の遺書)の中で、 
     「後世、史家のうちには、会津藩を封建制護持の元凶のごとく伝え、薩長のみを救世の軍と讃え、会津戦争においては、会津の百姓、町民は薩長軍を歓迎、これに協力せりと説くものあれど、史実を誤ること甚だしきものというべし百姓、町民に加えたる(薩摩、長州の)暴虐の挙、全東北に及びたること多くの記録あれど故意に抹殺されたるは不満に堪えざAa300_るなり。」
     と明治政府を酷評した。 
     柴五郎は戊辰戦争直前、親戚に預けられ戦乱を逃れるが、祖母、母、兄嫁、姉、妹は戊辰戦の際自刃している。
     官軍(薩長)は会津城下に侵攻すると鬼畜と化して、町人、百姓、婦女子も殺傷していたことを記録している。
     
     敗者に優しく手を差し伸べる日本人の美徳は、この薩長の仕打ちによって消え去った。そして、負けた相手を容赦しない勝てば官軍の血は、今も色濃く流れている。
     この遺書は、薩長支配に対する東北民衆の偽らざる心情が表現されていると思う。

     最後に、明治26年12月5日「会津藩」松平保容公死後、孝明天皇から賜った辰翰の事実を知った明治政府は、この内容が公になれば、自分達が嘘で固めた歴史観が根底から覆えるとあわてた。
     「会津藩」こそが官軍だったのだ。

     【ご宸翰】
           「堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、内命を下せしところ、
           速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、右一箱これを遣わすものなり」文久3年十月九日Gosinkan01


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    なぜ「東北地方」と呼ぶのか

     なぜ、「東北地方」と呼ぶかご存じですか。Map_canvas_3
     
     古代から幕末まで、「征夷大将軍」という絶対権力者が「東北の地」を征伐する役目を担っていた。
     征夷大将軍の「」は、蝦夷(エミシ)の「」だ。

     古代律令国家の支配地域は、出羽国陸奥国の土地、エミシの土地を征服することによって拡大してきた。
     この「征夷大将軍」に代わって権力の座に就いたのが、薩長土肥を中心とした「明治政府」だった。

     東北地方は本当に「東北」に位置しているか。
     長く疑問に思っていた。
     首都東京から見た「東北地方」は、東北(45度)方向でも、北北東(22.5度)でもない。山形県の鶴岡や酒田市は、首都東京のほぼ真北にある。

     それでは、なぜ「東北地方」と言うのか
     京都、鳥羽・伏見の戦いから始まる「戊申戦争」において、侵攻する官軍側の進軍路、向かう方向、侵攻する方角を指していた。
     京都から主戦場となった会津は、ほぼ45度の東北に位置している。
     答えは、京都から45度方向が「東北」だった。
     さらに追加説明するなら、「東北」は陰陽道では艮(うしとら)、鬼が出入りする方角で、万事に忌み嫌われた方角だ。この縁起の悪いこの語を、薩長が意識的に使用したものであろう。実に、当時の薩長の意地汚さが見えてくる。
    Dewanokuni_2
     また、「東北の地」を「みちのく」と言うことがある。
     「道の奥」に由来し、古代国家の東山道と北陸道の奥地を指しているが、歌枕では陸奥にのみ用いて出羽には用いなかった。

     東北の地は長い間、大和朝廷から見て最果ての地、野蛮人が住む土地、或いは植民地としての土地、武力征服の土地と見られてきた。 
     そして、幕末、「薩長政権」に対抗した「奥羽列藩」の敗北が、近代の歴史に陰を落とす結果となり、ハンディを負うことになった。
     「奥羽列藩」の奥羽は「陸」と「出」の総称であり、ごく普通に「奥羽地方」や単に「奥州」と言えばいいのに明治政府はそれを避けた。
     そして、「戊辰戦争」で負けた東北地方は「賊軍」として、政治・経済・産業、地下資源の利益、道路、鉄道網、港湾などのインフラ整備など、全ての面で明治政府から東北蔑視、差別の対象とされ現在に至っている。

     現在でも、関西や東京の企業の労働者確保としての進出が目立つが、これら企業は、東北自体の生活基盤を安定させ発展に寄与することは少ない。
     「東北の後進性」は意図的に作られたのだ
     日清戦争、日露戦争、大東亜戦争時には、東北出身の兵隊は意識的に危険地帯に配備されている。当然ながら、指揮官、将校は薩長土肥出身が占めた。
     「一将功成りて万骨枯る」と言うが、万骨は東北の兵隊達だ。

     三大関所の一つ「勿来(なこそ)の関」は、中央から見て「こっちに来るな」と3seki_2言う意味だからひどい話だ。
     この考えは現代社会にもあるのだろうか。
     正式に質問すれば、誰でも「そんなものは、無い」、「負け組の被害者意識が強すぎる」と言うことになる。

     歴史に、「もし(IF)」は禁物だそうだが、これが逆だったら、東北地方にどんな歴史が形成されたであろうか。

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    民主党の言う「総括」とは何か?

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     民主党議員はよく「総括」という言葉を使う。

     この「総括」という言葉から、連合赤軍の「浅間山荘事件」を知っている年代には、空恐ろしい記憶が蘇ってくるはずだ。
     連合赤軍は、「総括」という名のもとに仲間を何人も殺している
     赤軍派だけではない。
     当時、学生運動や左翼運動には「総括集会」は付き物だった。
     民主党は、当時の左翼運動の体質を間違いなく引き継いでいる。
     このことは気づいていたが、産経新聞に先に指摘されてしまった。

      「今は亡き中川昭一元財務相が当時、怒りに震えながら吐いた言葉が忘れられない。「総括ってなんだ。自分たちが選んだ総裁に自己批判しろって言うのか。そりゃ自己否定じゃないか。何の意味があるんだ。そもそもいつから自民党は左翼政党になったんだ!」
    「大辞泉」(小学館)によると、「総括」とは
     (1)個々のものを一つにまとめること。全体をまとめて締めくくること。
     (2)労働運動や政治運動でそれまでの活動の内容・成果などを評価・反省すること」-とある。
     永田町の「総括」は明らかに(2)の方だろう。
     かつて連合赤軍は「総括」と称して凄惨な私刑(集団リンチ)を行い、多くの犠牲者を出した。永田町の総括も基本的にこの集団リンチと変らない。つい先日まで礼賛し、こびへつらっていた相手を親の敵のごとく突き上げる。どんなに自己批判しようが謝罪しようが、容赦せず、倒れるまでいたぶり続ける。」

     これで民主党が、本物の「左翼集団」であることを知ることができる。
     日本を貶める集団であることに間違いない

    K4015000_2

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    【政治部デスクの斜め書き】産経新聞
      「総括」という名の集団リンチ この嵐が吹き始めると   2010.8.1
     「歴史的」と自賛した政権交代から10カ月余り。もはや今の民主党に当時の輝きは見いだせない。所属議員の怒りと困惑、そして狼狽の表情。はて、どこかで見たような気がするな…。そう、落城前夜の自民党政権とそっくりではないか。----中略--
     今は亡き中川昭一元財務相が当時、怒りに震えながら吐いた言葉が忘れられない。
     「総括ってなんだ。自分たちが選んだ総裁に自己批判しろって言うのか。そりゃ自己否定じゃないか。何の意味があるんだ。そもそもいつから自民党は左翼政党になったんだ!」
     「大辞泉」(小学館)によると、「総括」とは、「(1)個々のものを一つにまとめること。全体をまとめて締めくくること(2)労働運動や政治運動でそれまでの活動の内容・成果などを評価・反省すること」-とある。永田町の「総括」は明らかに(2)の方だろう。
     かつて連合赤軍は「総括」と称して凄惨な私刑(集団リンチ)を行い、多くの犠牲者を出した。永田町の総括も基本的にこの集団リンチと変らない。つい先日まで礼賛し、こびへつらっていた相手を親の敵のごとく突き上げる。どんなに自己批判しようが謝罪しようが、容赦せず、倒れるまでいたぶり続ける。
    ------中略-----
     それでは、菅首相はどうすればよいのか。
     消費税増税発言が信念に基づくならば決して曲げぬことだ。決して妥協しないこと。そして決して謝らないこと。それで「付いていけない」という人には党を去ってもらうしかない。それでも騒ぎが収まらないならば、衆院を解散して国民に「信」を問えばよい。首相にそんな「覚悟」と「気迫」があるかどうかを、国民はいつも凝視しているのだから。(石橋文登)

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    2010年8月 1日 (日曜日)

    民主党が「山形新聞社に抗議」

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     左翼は「言論を弾圧する」、「国民の人権を蹂躙する」。 
     これは左翼のお家芸とも言える。

     左翼団体が「人権を弾圧するな」、「言論の自由がある」、「民主主義国家だろう」などと騒ぐ姿は東京では日常茶飯事だ。左翼のデモや集会を見たり参加した人は、言いたい放題の左翼の発言を知っていると思う。
     しかし、左翼が一旦権力を握ると、直ぐ国民の「言論弾圧・統制」「人権を蹂躙」する側に回る。これは、左翼の世界共通の姿と言われる。
     例は、共産党政権の中国や北朝鮮に「言論の自由」など、あらゆる自由が制限されてることを見れば分かる。

     最近、山形県で良い事例があった。
     民主党山形県連(会長・和嶋未希衆議院議員)は、7月23日山形新聞社の参議院議員選挙での報道が不公平だと文書で、同社寒河江浩二常務取締役編集局長宛てに抗議したという。
     左翼は、何か気に入らないと直ぐ抗議訴訟を起こし相手をけん制する
     
     保守系政党には無い常套手段だ。
     この手法は、創価学会も同様にとる
     今後よく観察したらいい。100%間違いない。100%だ

     嫌がらせのために、抗議、告訴を行うのは、左翼や宗教団体、特に創価学会の常套手段だ。そのために専属弁護士を雇い、組織力で集めたカネで、糸目を付けずに訴訟を起こす。仮に敗訴しても相手が懲りて、次回からはその団体の取材や報道を控えるようになるという図式だ。

      今回、民主党が問題にした山形新聞の記事は次の二点、
    ■7月15日(木)付け、「直言」欄に掲載された「民主が狙う“国家解体”」と題した上智大学名誉教授・渡部昇一氏(鶴岡出身)の寄稿に対して、民主党山形県連幹部は、「国家解体という表現は刺激的で一方的過ぎる。いかがなものか」と抗議。
    ■7月7日(水)付け、小泉進次郎衆議院議員(自民党)の記事で、「閣僚経験者や党幹部ではない小泉氏を写真付きで扱う一方、民主党の応援弁士には同様の扱いがなかった。均衡を欠いている」と抗議。

      マスコミの偏向報道の恩恵を受けてきた民主党が、選挙で敗北すると、マスコミに抗議するという。実に左翼政党らしいと見ている
     マスコミ関係者も国民も、そろそろ気づいて欲しい。
     今後間違いなくエスカレートする。
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      山形新聞に民主県連が抗議 参院選小泉議員の扱いに不満 
      7月29日
      http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100729-00000005-jct-soci
     民主党の山形県連が、山形新聞社に対して報道が「不公平」だとする抗議文を出していたことが分かった。参議院選挙の応援弁士についての記事などが「均衡を欠いている」と主張。一方の山形新聞社はこれに反論、「抗議を受ける理由はない」としている。
     抗議文は2010年7月23日に、山形新聞社に届いた。民主党山形県連会長の和嶋未希衆院議員によると、和嶋議員名義で、同社寒河江浩二常務取締役編集局長宛てに送られたという。
    ■「他党の応援弁士も均等に載せるべき」
     民主党は文書の中で山形新聞の2つの記事に抗議。1つは、参院選挙期間中の7日付け夕刊1面に掲載された自民党・小泉進次郎衆院議員来県の記事。応援演説をする小泉議員を取り上げた記事で、聴衆に囲まれる小泉議員の写真も付いている。民主党にも応援演説に訪れた議員がいたものの、同様の扱いが無かったので均衡を欠いているとしている。
     2つめが、15日付け夕刊に掲載された「直言 民主が狙う『国家解体』 選挙で隠した危険法案」という寄稿記事だ。上智大学名誉教授の渡部昇一氏の記事で、外国人の地方参政権、夫婦別姓制度、人権侵害救済法案の3つを、「国家の解体を促進する法案」として紹介している。和嶋議員は、
     「寄稿の主旨は理解しているが、過激すぎる。夫婦別姓など、国民的な議論が起きていることは知っている。だからこそ、多様な意見を掲載するべきなのに、これと相対する意見が見あたらない」
     と主張。紙面の均衡にも配慮するのが「公平公正な報道ではないでしょうか」とする。7日付け小泉議員の記事についても「公平ということなら、人気があるとかではなく、他党の応援弁士も均等に載せるべき」としている。
    ■「正確・公正をモットーに紙面づくりをしている」
     民主党山形県連は、7月17日の常任幹事会で、山形新聞に公平な報道を求める抗議文を送ることを決定。同日、記者会見でも発表したという。山形新聞はJ-CASTニュースの取材に対して、
     「正確・公正をモットーに紙面づくりをしており、今回も偏った報道はしていないので、抗議を受ける理由はない」
    とファックスで回答。公選法を順守して選挙報道紙面を作っているとし、今後の編集方針についても「変化はない」としている。同紙は、発行部数約21万部。県内では50%以上のシェアを誇っている。

    Yamashinbun

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    民主党は「自業自得・因果応報」

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     「参院で過半数を失った与党・民主党が国会運営に四苦八苦している」

     このような民主党に、ピッタリの言葉がある。
     「自業自得」、「因果応報」、「身から出た錆」、全て自分達が撒いた種だ。
     野党時代の振る舞い、言動、政権を奪取してから最近までの傲慢な国会運営。
     全て、左翼特有の身勝手な論理で、他の政党の誹謗中傷、揚げ足取り、困らせるための「反対のための反対」を繰り返していた。
     これまでのことは、「静かなる多数派」であるサイレント・マジョリティ(Silent Majority)はシッカリ見ている。
     まずは、「天に唾」した物は、自分に返って来ることを学ぶことだ。
     そして、暫くは苦しんで丸くなったほうがいい。
     当面は、代表選がある9月14日までだ。

      8月1日、産経新聞にも厳しい記事が掲載されていた。
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    fromEditor】 罪重い「欠陥憲法」の放置 2010.8.1
      因果応報とはよくいったものだ。
     参院で過半数を失った与党は国会運営に四苦八苦している。
     記者会見で、国会同意人事について聞かれた仙谷由人官房長官は「(野党に)頭を下げてお願いに回らなければならない」と平身低頭だった。
     しかし、彼が野党時代に政府が提示した日銀総裁案を「大蔵省出身だから」という理由だけで葬り去った張本人だったのを世間は忘れていない。
     日銀総裁に限らず、民主党は参院で多数を握った平成19年から昨年まで衆院で同意された28人もの人事案を参院でひっくり返した。同意人事は、衆院の優越規定がなく、衆参両院の同意が不可欠だからだ。
     28人の中には、「天下り」もゼロではなかったが、大量の不同意は民主党の権勢を誇示するための道具だったといってよく、理由も大半は言いがかりでしかなかった。官房長官が、過去を反省し「頭を下げて」と言うのであれば、まずは党利党略で不同意にされ、プライドを傷つけられた28人に頭を下げるべきだろう。政治家として、というより人間として当たり前の話である。むろん、衆参ねじれを受けて、政府・与党が四苦八苦しているのは、国会同意人事だけではない。秋の臨時国会では、郵政関連法案をはじめ数多くの法案が提出される予定だ。野党の足並みがそろえば、いわゆる与野党対決法案は葬り去られる運命にある。
      憲法では、首相指名と不信任案、予算案議決、条約の承認を衆院の優越として特記しているが、法案が参院で否決されれば、衆院で3分の2以上の賛成で再議決する以外、与党に打つ手はない。
     憲法41条は国会を「国権の最高機関」と規定するが、その割に、条文は欠陥だらけだ。上院(参院)と下院(衆院)の権限がほぼ同等なのは、議院内閣制を採用している国では日本のみといっていい。
     首相が持っている衆院解散権の記述すら曖昧で、衆参の議決が異なった場合に設置される両院協議会も唐突に条文中に出てくるだけ。早い話が、衆参ねじれの常態化を想定していなかったのだ。
     憲法の欠陥を利用して政権を窮地に陥れた民主党が同じ立場に立たされたことを面白がっているだけでは建設的ではない。責任は、民主党のみならず、欠陥憲法を長年にわたって放置し続けてきた全政党にある。小紙では、今後も積極的に憲法問題をとりあげるとともに、国民的な憲法論議を活性化させる道筋も探っていきたい。(政治部長 乾正人)

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