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2010年7月30日 (金曜日)

おくりびとの舞台「月光川」

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 山形県庄内平野の北部を流れる「月光川(がっこうがわ)」は、平成20年Photo_2映画『おくりびと』によって、「時の人」ならぬ「時の川」になったことがあった。
 特に、「朝日橋」辺りの河川公園が舞台となったことから、今も観光スポットとして注目を集めているという。
  この橋は、6年間毎日のように通学で渡った橋であり、感慨深いものがある。

 さて、約500年前の月光川の流れは、朝日橋辺りでは数本に分かれていた。
 これを一本にまとめたのは、遊佐・吉出村の佐々木義綱ら近隣の農民だった。
 更に約200年前、江戸中期の文化・文政期(1804年~1829年)にも、漆曾根、江地、宮田、北目、菅野谷地、野沢などでは蛇行していた流路を直線化する改修が行われた。Photo
 野沢村では、野沢川の流れを変えて、残った川跡を「古川(ふるかわ)」と呼んでいたという。
 高齢者は、その「古川」があった場所を知っているはずだ。分かると、遠い昔の庄内平野を想像することが出来る。
 
 遊佐町の平野は典型的な扇状地で、月光川が杉沢の山方面から平地へ流れ出る「平津」辺りから扇状に広がる土地だ。
 遊佐中あたりから、平野方向を見渡して欲しい。
 きっと、庄内平野の原風景が見えるはずだ。
 平野部は河川が運ぶ土砂を堆積してできた沖積平野と20107いわれ、この河川は三角州(デルタ)となって日本海に流れるはずだが、「砂州」(庄内砂丘、西山)が流れを変え河口は吹浦に集中した。

  さらに大昔は、庄内平野は内湾だった。
 これは、秋田県由利郡の伝承だが、
 「飽海郡に阿古之入江と称する南北二十里の江海がある」と伝えられている。
 しかし、いつ頃まで海だったかは、正確に分かっていないという。
 潮が引いたと思うと、再び洪水で海状態になったりを幾度も繰り返していたようだ。
 完全に陸地化したのは、飛鳥か、奈良時代なのか。
 「飽海」の地名は、いつまでも海だったことから来ているという。
 庄内平野の日本海寄りには、鳥海山麓から新潟境まで「砂州」(庄内砂丘)が発達し、河川が、それに堰き止められる形で「潟湖」が形成された。
 日本では青森県の十三湖、京都の天の橋立等は、陸地化する前の庄内平野によく似た地形と思っている。

 この月光川には、今も鮭が遡上しているようだし、今の季節には鮎が群れをなして泳ぎ回る姿を見ることが出来る。
 遊佐町の、遊佐小・中・高校は、いずれも月光川の近くにあるが、霊峰鳥海山とともに校歌に必ず入り「月光川の水清く」などと歌われている「母なる川」だ。

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 次に「遊佐荘大楯遺跡の成立」山口博之(山形県教育委員会)から引用させて頂く。http://www.yamagatamaibun.or.jp/kankoubutsu/kenkyuukiyou/kiyou_1/2003_yamaguchi.pdf
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  月光川という河川名称は、『日光川史』によれば明治八年(1875)の吉出村文書に見えるのが早い例であり、明治期以降の呼び名である。さらに、「吹浦川」「町川」「吉出川」などの呼称も見える44)。致道博物館所蔵の『正保絵図』には、上流比山地Syuunai_map_1区までは「祓川」、ここから地峡の隘路を抜けて平野へと流下すると「遊佐川」と見える。
 月光川名称の成立は、鳥海山の本地が薬師であることから、日光・月光の脇侍を鳥海山から流下する河川に仮託し、薬師信仰に連なる、宗教世界を構成することから成立したものであろう。字限り図によれば、大楯遺跡のすぐ北側には月光川が流下していた時期がある。大楯遺跡にかかわる河川交通にも重要であったという事実を確認しておきたい。この河川が吹浦へと連なり、湊と結びついていた。
 
 最後に、西通川は、船通川、船通堰とも呼ばれる開削堰である。開削時期を示す史料には恵まれないが、『月光川史』によれば、近世初頭の慶長六年(1601)から、元和八年(1622)までに運河として開削されたものと伝えている。また、日向川河口近くの土地に対しての、排水堰としても重要であった。西通川の流路である、遊佐町南山下から、酒田市六ツ新田までの約7㎞と、ここより東側には標高10m に満たない土地が続く。ここは容易に滞水する場所であったのは、先述の通りである。さらに、この場所には新田地名が広く分布し、開発が江戸期に入ってからであったことも指摘しておく。

月光川の流路は、近世初頭、慶長期(1596~1615年)に、吉出村の佐々木義綱が上野沢、大楯方面に流路があったものを吉出地区付近で一つにまとめたという。ここは、山地から平野部へと流下する、傾斜変換点とも言うべき位置であるから、ここでは流路の拡散が起こっていたものと思われる。江戸中期文化・文政期にも、漆曾根、江地、宮田、北目、菅野谷地、佐渡などでは蛇行していた流路を直線化する改修が行われている。大楯遺跡付近の明治期の字限り図を見ると、大楯集落の北側には、蛇行した河川の痕跡が明瞭である。こうした旧流路は、以上のような河川の改修によって生じたものと見ることも出来よう。

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