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2010年7月16日 (金曜日)

庄内平野の「郷野目堰」

 山形県酒田市上野曾根郷野目端を「郷野目堰(せき)」が今も流れている。Image0032_2
 庄内平野には、縦横無尽に灌漑用水の「堰」が流れているが、記録上この「郷野目堰」が一番古いとされる。
 至徳元(1384)年に開削されたというから古い。
 この辺りは、妻の実家や母の生家、親戚も数件あって、比較的詳しい。

  庄内平野の開墾は、712年に「出羽の国」が置かれた以降、柵戸と呼ばれる開拓者が入植し開墾が進められたという。当時は、比較的用水の確保しやすい沢や沼地周辺が水田として拓かれた。
 その後、灌漑用水の開削と治水が発達し、徐々に新田が拓かれてきた歴史がある。
 庄内平野の本格的開発は、江戸時代初期・最上義光の時代(1601~1622)に新田開発推進策によって、長大な用水堰が開削され多くの新田が開発された歴史がある。

 庄内平野の地名には、○○曾根京田新田○○新田、○○興野など新田開発に関連した名が多い。

 酒田市北平田に、漆曾根、中野曾根、牧曾根、曾根田、上曾根と痩せ地を意味する曾根の地名が残る。例えば漆曾根は『ウルシが植えられた石混じりの痩せ地』ということであろう。
 このような痩せた土地を、豊饒の海に変えたのが「郷野目堰」がはじまりと言える。この「堰」は、荒瀬川の観音寺一条辺りから分水し、城輪柵跡や新田目城近くを西流している。

 横山昭男著「最上川と羽州浜街道」によると、
 郷野目堰は南北朝時代の至徳元(1384)年、奉行「けんとう太郎」が郡中の人夫を動員し、自然堤防上に西流する堰を掘り荒地をおこし田畑とした。この堰は平安時代の出羽国府に比定される城輪柵跡や、同時代末期の出羽国留守所に比定される新田目城跡近くを西流し、中世には荒廃した旧出羽国府周辺を潤し、政所・安田・上曾根・中野曾根・漆曾根・牧曾根などの田畑を開拓するもとになった。510__4
 「けんとう太郎」は、安田に居屋敷を構える土豪で「安田殿」とも称した。安田殿は開発した新田を一条八幡宮に寄進し、武門の繁栄と五穀豊穣を祈願した。一条八幡宮は土豪の崇敬あつく、四季折々の祭礼には多くの信者でにぎわった。 一条八幡宮は土豪の崇敬あつく、四季折々の祭礼には多くの信者でにぎわった。
 近世初期には、堰の大幅な改修がおこなわれ郷野目堰周辺の集落は、元和九(1623)年の検地で大幅な村高の増加をみた。
 郷野目堰の開削が功を奏したのは、安田殿が堰を開削するのに必要な多くの農民を動員するだけの力量があったことによるもので、のちに曾根集落とよばれる地域の骨格は、このようにして成立した。
 とある。

Photo

新田開発の背景
 戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、各大名が国力(石高)を高めるため競うように米の増産や農地開拓に取り組んだ。しかし、食糧が増産され生活が安定すると人口は増加し、食糧が不足する結果になった。
 江戸時代の新田開発は、主食とする米が緊急に必要になった裏事情があった。

江戸の新田開発
 江戸初期から、五日市街道沿いに掘削された玉川上水の両岸が主だった。
 「五日市街道」の両側は、江戸初期から「田端新田」「大宮前新田」「中高井戸新田」「松庵新田」吉祥寺新田」「西久保新田」「関前新田」「保谷新田」「小金井新田」「砂川新田」などと村々が形成された。
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-1a22.html

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