« 平田牧場の「とんや」酒田店 | トップページ | オレンジ計画と小学生の中絶 »

2010年7月28日 (水曜日)

象潟の「女傑・神功皇后」伝説

1_8

 ↑上の写真は秋田県南端の象潟(きさかた)。
 田圃の中に点々と見える濃い緑色が島々だったが、1804年(文化元年)6月4日の大地震で、約2m隆起して古・象潟湖は陸化し消滅してしまった。Dewanokuni
 芭蕉の訪問は元禄二年(1689)のことで、これは芭蕉が眺めた景観ではない。
 一例だが、中央下の大きな緑部分に「蚶満寺」、その直ぐ下に能因法師が三年間隠栖した「能因島」があった。やや左上がTDKにかほ工場。

 芭蕉が「奥の細道」で訪問した最北の地、秋田県最南端の「象潟」には、「古刹・蚶満寺」「九十九島」「神功皇后伝説」など面白い歴史がある。
 直ぐ南に隣接の山形県庄内地方の歴史とも深く関連している。最も、ほぼ秋田県、山形県は「出羽国(でわのくに)」と呼ばれ、一つの国だった。今回は、三韓(新羅、百済、高句麗)を征伐した「神功皇后伝説」に触れる。
 225pxemperor_family_tree815
 仲哀(ちゅうあい)天皇の妃、日本史上最強の女傑「神功(じんぐう)皇后」を架空と見るか実在と見るかは、今も意見が分かれる。
 根拠は、三韓征伐は四世紀とされるのに、夫の仲哀天皇の即位期間が192~200年とされ、余りにもかけ離れていること。それに、仲哀天皇の父は日本武尊であることや、神功皇后の超人的活躍などを上げるようだ。
 また、日本書記では神功皇后日巫女(ひみこ)としている。
 今のところ、否定意見が強いが考察するのも面白い。
 ただ、ここで神話を細かく詮索しては面白みがなくなるので拘らないことにしたい。

 さて、「神功(じんぐう)皇后」の陵墓は「象潟」にもあるとされる。   松尾芭蕉の「奥の細道」は、
  「月日(つきひ)は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年(とし)もまた旅人なり」
と始まるが、象潟辺りで
 「江上に御陵あり、神功皇后の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなるゆゑあることにや。」(岸辺に御陵があり、神功皇后の御墓だという。寺の名は干満珠寺というが、ここに神功皇后が来たという話は、いまだかつて聞いたことがないが、いったいどういうことなのか)というくだりがある。
 「奥の細道」のコース近くに住んでいたこともあるが、「江上に御陵あり、神功20107i皇后の御墓といふ---いかなるゆゑあることにや」、この箇所が随分と気にしながら育った。
 学校の先生は「芭蕉が分がらねのに、俺もわがらね」と話していた。

  神功皇后は、三韓征伐のときに暴風雨に遭って漂流し象潟にたどり着くが、身籠っていた神功皇后は象潟で男子を生み、象潟で半年暮らした。男子は後の応神天皇(在位270-310)になったという伝説があるが、当然、実話と見た方が自然と思う。

  そして、象潟には8世紀建立の「蚶満寺」という古刹がある。P1
 蚶方法師という僧が、「神功皇后」の霊夢を見て「皇后殿」を建立したのがはじまりだという。その後の853年(仁寿3年)慈覚大師が東北巡錫に来たときに再興し、「干満寺」と名づけ、その後1257年、北条時頼が訪れ、寺名を「蚶満寺」にした経緯があるという。

  幾度も立ち寄ったことがある古刹だが、次回の帰省では再度シッカリ訪問したい。

Photo_4

http://www.mapion.co.jp/m/39.2177238888889_139.911445_7/

|

« 平田牧場の「とんや」酒田店 | トップページ | オレンジ計画と小学生の中絶 »

02 「うんちく」知ったかぶり」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 平田牧場の「とんや」酒田店 | トップページ | オレンジ計画と小学生の中絶 »