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2010年7月26日 (月曜日)

水運「西通川」遊佐~酒田間

 この話は、庄内の遊佐や酒田の皆さんしか分からないと思うが、この地域の考古学に関心ある方々には多少は参考になるかも知れない。
Nisidorigawa02 昭和30年代の昔話だが、
 「昔は遊佐から酒田まで川がつながっていて、船で米を運んだもんだ」と祖母に教えられた。

 遊佐町藤崎に祖母の従姉妹が住んでいて、スイカやメロンなどを作っていた。例年、夏の季節にはそれらをもらいにリヤカーを引いて出かけたものだ。
 行きは祖母をリヤカーに乗せて向かうと途中、藤崎手前の稲川辺りで「西通川(にしどおり)」を渡る。
 遊佐方面からは「万部通川」もあり、京田を経由して西通川につながっている。

 祖母は、この「船通川」を船で通ったことがあったかのような口ぶりだったが、いつ頃まで使用していたかは確認しなかった。自分は運搬車の荷台に乗りながら、船があったら便利だったことを示唆していたのだろう。
 最近は役割を終えて環境悪化が目立っていたが、遊佐町立西遊佐小学校の皆さんが「命あふれる西通川にしたい」と環境保全に努めている。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=58394700
 この「西通川(にしどおり)」は「船通川」とも言い、江戸時代初期・最上義光の時代(1601~1622)に開削された。このような大事業は力のある藩主がいないと出来ないそうだ。

 主に米など農産物の運搬水路だったが、もう一つの目的は、この当時、遊佐町稲川や北目地区は湿地帯で沼地が多く、西山寄りに溜まった水を排水させる機能も合わせ持っていたという。
 この目的あたりに、 飽和、だぶつきの海、或いは、中々水が引かずに飽きれた海と書く、飽海阿古之入江)を調べるヒントが隠されていると思っている。

 この話は、隣県秋田県由利郡の伝承だが、
 「飽海郡に阿古之入江と称する南北二十里の江海がある」と伝えられている。
 きっと、「官道」の「水駅(湊)」が「象潟」にあった時代か、それ以前の話と思う。
 象潟方面から飽海、遊佐方面にで向い、月光川河口の吹浦口から内海に入ると、今は陸地だが庄内は海で、南北二十里の江海が広がっていた様子が想像される。
 
 そう言えば、庄内より象潟の方がずっと古い歴史があるようだ。
 日本史上最強の女傑神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀(ちゅうあい)9年(200年)の三韓征伐のときに暴風雨に遭って漂流し象潟にたどり着くが、身籠っていた神功皇后は象潟で男子を生み、これが後の応神天皇(在位270-310)になったという伝説がある。
 庄内地方では、平安時代の804 年頃に出羽国府(城輪柵)が置かれた記録もあるが、象潟のそれに比べれば随分と新しい。

 鶴岡の致道博物館の『正保二郡絵図』や文献を参考にして説明すると、

■「船通川」は、
 遊佐町南山下から、酒田市六ツ新田までの約7㎞に渡る直線の人工水路である。
 近世、この堰は遊佐地域の年貢を酒田の蔵屋敷に納める通路として利用されていた。
 ここを通る船は米一俵の運賃が八合であることから八合船といわれていた。
 遊佐方面から西通川を六ツ新田まで上った船は、日向川に入り、上藤塚から船通川を経て、新井田川、さらに鶴田橋に出て藩の米蔵に運び込んだという。
 もう一つ注目すべき点は、日向川が砂丘に突き当たる地域に滞水した水を排水する機能も存在した。
■日向川河口付近の滞水状況は、恒常的な潟湖となるかどうかははっきりしない。
 『正保絵図』にも潟湖の存在は記載されていない。
 しかしながら、『飽海郡史』には、天正11年(1583)~慶長 3年(1598)の頃、飽海郡の西南部は湿地であり洪水があれば、たちまち湖水を造り、谷地となり、湿地の植物である榛の木(ハンノキ)の林となって耕作に耐えなかった。
■さらに、隣県秋田県由利郡の伝承には、飽海郡に阿古之入江と称する南北二十里江海があり、阿久美(後世飽海)の名称は、之から起こったという所伝もあるという(日向川水害予防組合「日向川史」)。

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