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2010年7月16日 (金曜日)

本楯の『善治日記の世界』

 山形県、特に庄内地方の皆さんはGoto_
 42年間の農民の記録『善治日記』をご存じだろうか。
  日誌を書いた後藤善治(旧姓伊藤)は、飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市本楯)の農家、伊藤巳之助(家号勘助)の二男として明治11(1878)年に生まれ、同じ村の後藤丹蔵家に婿養子に入った。http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp209.html

 日記は明治26年15歳から書き始め、1日も休まずに昭和9年まで42年間の長期にわたって書き綴っている。
 農作業や天候のことが中心だが、貴重な資料を残して昭和13年に60歳で亡くなった。

 横山昭男著「最上川と羽州浜街道」の207頁から211頁に
 「地域に生きる」『善治日記の世界』というテーマで紹介されている。
 文中には、親戚筋の名が幾度も記されている。
 そのまま引用し紹介させて頂く。 Toyoharai_mage0145_2

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 善治は、1878(明治11年月、豊原村伊藤巳之助(家号勘助)の二男として生まれる。勘助家は、豊富な家族労働に支えられ徐々に耕作地を拡大したが、明治 20年代に危機に直面する。
 負債の肩替わりや長兄の農作業従事不能による労働力構成の弱体化が原因であった。これは善治の高等科中退22歳)による労働力への転化と兄の就職(小学校訓導)、そして結婚による兄嫁労働の確保などによって乗り切り、以後兼業化による安定的経営へと向う。
 善治が作助家、市十郎家、丹蔵家の年雇510__3の若勢となる時期と重なっている。
 若勢の仕事は、冬の橇による肥引き、春の田打・田砕・田植え・草取り、秋の稲刈り、庭仕事が12月までつづく。ほかに、夏の馬草刈り・畠仕事、年間を通して藁仕事や馬の物切りなどがあった。これらの仕事も、大正期の耕地整理や化学肥料の普及によって、労働力配分が変わっていく。若勢は、雇用先の農事に従うだけでなく、若勢連中をつくり、江戸期から祝日のほか定休日を設けたりした。若勢宿で俵編みなどの共同作業や世間話をして情報交換する、若勢だけの世界を形成していた。
 1898年(明治31)年12月に善治が21歳で三軒目の若勢となった後藤丹蔵家は、大百姓多右衛門家の三男が分家独立した家で、二代目与蔵の代となり上昇しつつある新興農家であった。
 与蔵は婿養子として初代の成果を受け継ぎ、米の買い出しなどによる蓄積をもとに零細農から年雇(若勢)をかかえる経営までのしあがった。
 善治は若勢奉公を7年つづけたあと、1905(明治38)年、後藤与蔵の婿養子(二女吉江と結婚)となった。
 与蔵は穀物商酒類兼業の主役を善治に譲渡したが、実子次郎への家督を予想した思惑だろう。しかし1919(大正8)年の国鉄羽越締本楯駅開設による酒田商人の商圏拡大のなかで、1920(大正9)年酒類販売業廃業、米の買出しも縄の仲買いも廃業、丹蔵家は専業農家へ転進する。1925年(大正14)年善治のあとを次郎が継ぐという合意のうえ、与蔵の隠居、善治の家督相続となる。
 「善治日誌」は、明治農法の導入と定着の過程をあとづけている。
 善治が日誌をつけはじめる1893(明治26)年前後は、明治農法が庄内平野で本格的に開始される時期である。農法の軸をなす耕転整地過程の変化と稲乾燥過程の変遷が、生家勘助家、作助家、市十郎家、丹蔵家の場合と順次にわかる。微妙に変化する用語に新農法の導入と定着をみることができる。
 人力耕起にかわる馬耕は、労働生産性の飛躍的発展をもたらした。馬耕は、砕上、整地過程を含む犂耕体系であり、この過程の精緻化が労働生産力の発展をかなり相殺し、むしろ上地生産性、反あたり収量追求をめざし、稲作作業総体としては労働強化となった。ここにこの農法の限界があった。
 すなわち、
 丹蔵家の例から、明治30年代は馬耕の体系としての犂耕化の過程、より強められた稲作労働体系の構築過程であり、その完成を大正初期の耕地整理の展開と「ウネシキ」(畝立て)にみることができる。
 稲の乾燥過程は、乾田化をただちに馬耕導入に結びつけられないが、農民が「米商品生産者」として成長していく過程でもあり、畔立てから、畔立て・杭掛け併用、生掛け乾燥へと移行する。すなわち、地主制の仲長のもとで、地主・米穀商主導の米質改良のための稲の乾燥促進との関連で乾出化を試行した。
 この乾田化とその後の馬耕の体系化・普及は、生産力発展と小作米余剰、農民の取分の増加となった。農民運動の発展によって小作料率が低下すると、いかに有利に米を商品化するかという農民が多くなった。
 明治農法は、「稲乾燥準則」や「山形県移出米検査規則」などの強制だけでは定着しなかったこと、またその実際とのズレを「善治日誌」は語っている。
  --------------------------引用終わり
■「多摩湖畔日誌」英訳

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