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2010年7月に作成された記事

2010年7月31日 (土曜日)

スパイは「見えない戦争」だ。

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 ↑上の写真は日本海の沖合から見た鳥海山だ。
 何度か船で飛島方向に出掛けたことがあるが、鳥海山が見えるだけで安心感があった。漁師達ら船乗りからも、同様の感想を聞いたことがある。
 しかし、北朝鮮スパイは日本上陸の目標にしていた。

 スパイ活動は目に「見えない戦争」と言われ、世界各国は最高レベルの諜報合戦を繰り広げていると言われる。
 しかし、自国の防衛に関心が薄い日本人は知らない
 世界中のスパイ活動の最高の舞台は日本であり、機密情報も精密電子機器も手に入れ放題だという。外国から「いい国だ」などと持ち上げられても、本当の意味で信用されない理由が、これだというから情けない。それにマスコミも、在日米軍情報を簡単に垂れ流すので米国から信用されていない。

 これも全て、「スパイ防止法(国家秘密法)」がない筒抜けの国家だからだ。
 スパイ防止法(国家秘密法)が無いのは日本だけだという。
 これまで、自民は幾度も「スパイ防止法」を提案したことがあったが、民主、共産、社民ら野党によって潰されている。
 これらの政党がどのような性格、役割を持っているかを知ることが出来る。
 だが、自民内部にも反対した議員が8人もいた。
 それは1986.11.20のことだが、この8人の中に現在の谷垣禎一総裁と大島理森幹事長が名を連ねている。
 本当に笑わせてくれる日本の政治だ。
 いかに、国会議員までが、日本骨抜き政策「オレンジ計画」にはまっているか分かる。そして、このような国の防衛に怠慢な政治姿勢が拉致事件を発生させた。

 また、真の共産主義者は正体を隠し、体制内部で活動していることを忘れてはならない。それは、政治家、官僚、裁判官ら法曹関係、マスコミ、芸能関係者等だが、いざという場合、日本を貶め、敵対する国の利益のために動く。
 これが真のスパイの姿と言われる。
 思い浮かぶ顔ぶれ、政党があると思う。

 スパイと言えば、なんと言っても怖ろしいのは「北朝鮮スパイ」だ。
 北朝鮮は、共産革命思想に基づく暴力革命によって、朝鮮半島の統一を国家目標としている。その為に強力なスパイ活動を日夜行っている。
 特に、日本と朝鮮半島が地理的に近接し、かつ、約60万人の韓国・朝鮮人が居住していることから日本に協力者が多く、スパイ活動の重要拠点になっている。
 横田めぐみさんら拉致被害者も、この北朝鮮スパイの一員として諜報活動に従事している可能性が高いと言われている。

  「北朝鮮スパイ」の出入りに使われているのが、庄内海岸と言われている。
 山形県の庄内海岸が出入りに条件が良いとされる理由は
■海上から鳥海山が目標して向かうことが出来る。
■上陸する地点付近に民家が少なく発見しにくい。
■直ぐJR「吹浦駅」「温海駅」があり、大阪や東京のアジトに直行出来る。
■松林が続き、しかも砂地で不必要な物を隠し易い。

これまで、庄内海岸を利用し捕まった主なスパイ事件を数件紹介する。Blueline

▼「大寿丸事件」s37.7.24 山口県警察、警視庁、大阪府警察検挙
 この事件は、山形県下の海岸から密人国した
  北朝鮮工作員 滝川洋一こと 崔 燦寔 (当時44歳)
が、北朝鮮工作員の北朝鮮・日本間の秘密海上輸送ルートを作るため、在日朝鮮人を獲得して活動していたスパイ事件である。
 崔燦寔は、我が国の法政大学で学んだ経歴を持つ人物であるが、昭和35年6月ころに北朝鮮工作員として採用され、北朝鮮で約4ヶ月間のスパイ訓練を受けた後
 o 20トン位の船舶の購入と海上運搬事業の経営
 o 同船舶を使っての北朝鮮・日本間の工作員や物資の輸送
などの任務を帯びて、乱数表、無線機、工作資金等を携行して、昭和35年10月中旬ころ、山形県酒田市付近の海岸から密入国した。
 その後、北朝鮮であらかじめ指示されたとおり、大阪居住の帰化人に成り替わり、東京都内や埼玉県下にアジトを設け、在日朝鮮人を獲得して、船舶購入資金の調達、日本人名義での漁船の購入、船員の雇入れなどを行い、日本漁船の調達に成功し、「人寿丸」として漁船登録許可をとった。崔燦寔は、船員として雇い人れた日本人や在日朝鮮人とともに、昭和36年8月19日、「人寿丸」に乗り込み、下関港から北朝鮮に密出国した。
 北朝鮮で日本での活動状況を報告の後、山形県酒田港を拠点とする日本・北朝鮮間の貿易ルートの設定の任務を指示された崔燦寔は、昭和36年10月、乱数表、工作資金等を携行して、再び「天寿丸」で山形県酒田市付近の海岸から密入国した。
 崔は、その後実在の日本人に成り済まし東京都内に潜伏してスパイ活動を続けた。Blueline

酒田事件」s38.5.21山形県警察検挙
この事件は、山形県下の海岸から密入国した
  北朝鮮工作員 金氷錫こと 馬 今鳳 (当時42歳)
が、北朝鮮から帰国指令を受け獲得した工作員の親族2人とともに山形県下の海岸から密出国しようとした事件である。
 馬今鳳は、昭和13年、渡日して専修大学経済専科に入学した経歴を有し、終戦後、北朝鮮へ引き揚げた。その後、平壌市金策工業大学歴史数師兼教務副部長をしていたが、昭和36年2月、北朝鮮工作員として採用され、約6か月のスパイ訓練を受け、
 o 在日工作員の選定と獲得工作
 o 在日合法身分の確保
などの任務を帯びて、昭和36年8月15日、工作資金、偽造外国人登録証明書、無線機、暗号表等を携行して、酒田市十里塚海岸から密入国した。
 密入国後獲得した工作員数大の住居を転々としながら、日本の財界人、税務署等の幹部と広く交際があり、資力、活動力のある在日朝鮮入を物色し、商事会社社長の在日朝鮮人Aを獲得した。北朝鮮にその結果を報告したところ、「工作船を差し向けるので、獲得した人物の親戚の者2人を同伴の上帰国すること。」との指令を受け、昭和38年5月20日、Aの親戚の者2人とともに、乱数表、本国報告用の朝鮮語録音テープ等を携行して山形県酒田市十里塚海岸から密出国しようとした。
 山形県警察は、昭和38年5月21日、酒田市十里塚海岸で北朝鮮工作船の来航を待っていた馬今鳳らを逮捕した。馬今鳳は、昭和38年12月19日、山形地方裁判所酒田支部において、出入国管理令、外国人登録法違反で懲役1年4月の判決を受けた。

Blueline
温海事件」s48.8.5 山形県警察検挙
 この事件は、山形県下の海岸から密入国した
  北朝鮮工作員
   崔 光成 (当時45歳)
   余 興錫 (当時33歳)
が、在日米軍、自衛隊関係情報収集等を行おうとしていたスパイ事件である。
 崔完成と余興錫は、昭和48年8月3日、乱数表、暗号文書、工作資金、磁石付羅針盤等を携行し、山形県鶴岡市の通称葉山海岸から密入国した。山形県警察は、8月5日、密入国後、落着き場所に移動するために温海町早田海岸付近の国道を歩いていた崔光成と余興錫を逮捕し、現場付近の岩場に隠匿されていたゴムボートを押収した。
 崔光成と余興錫は、「北朝鮮遠洋運搬船『東海一号』の船員で、暴風雨と操船ミスのため沈没し、ゴムボートで日本に漂着したものだとして北朝鮮工作員であることを否認し、また、北朝鮮赤十字会も、「8月3日、佐渡渉海域で遠洋連絡船が遭難し、3人が行方不明となったので救援を依頼する。」との電報を発し、遭難を偽装しようとした。
 山形地方裁判所鶴岡支部は、
 o 暗号表に「自衛隊」「米軍」「基地」「工作員」など多数のスパイ活動を示す用語があること
 o 当時の気象状況は、暴風雨ではなく、救助信号の受信もなかったこと
 o 遭難したとしても海流からみて漂着する可能性がないこと
などから、両被疑者の主張を退け、崔光成と余興錫は、昭和48年11月2日、山形地方裁判所鶴岡支部において、それぞれ、出入国管理令違反で懲役1年、執行猶予3年の判決を受けた。

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2010年7月30日 (金曜日)

おくりびとの舞台「月光川」

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 山形県庄内平野の北部を流れる「月光川(がっこうがわ)」は、平成20年Photo_2映画『おくりびと』によって、「時の人」ならぬ「時の川」になったことがあった。
 特に、「朝日橋」辺りの河川公園が舞台となったことから、今も観光スポットとして注目を集めているという。
  この橋は、6年間毎日のように通学で渡った橋であり、感慨深いものがある。

 さて、約500年前の月光川の流れは、朝日橋辺りでは数本に分かれていた。
 これを一本にまとめたのは、遊佐・吉出村の佐々木義綱ら近隣の農民だった。
 更に約200年前、江戸中期の文化・文政期(1804年~1829年)にも、漆曾根、江地、宮田、北目、菅野谷地、野沢などでは蛇行していた流路を直線化する改修が行われた。Photo
 野沢村では、野沢川の流れを変えて、残った川跡を「古川(ふるかわ)」と呼んでいたという。
 高齢者は、その「古川」があった場所を知っているはずだ。分かると、遠い昔の庄内平野を想像することが出来る。
 
 遊佐町の平野は典型的な扇状地で、月光川が杉沢の山方面から平地へ流れ出る「平津」辺りから扇状に広がる土地だ。
 遊佐中あたりから、平野方向を見渡して欲しい。
 きっと、庄内平野の原風景が見えるはずだ。
 平野部は河川が運ぶ土砂を堆積してできた沖積平野と20107いわれ、この河川は三角州(デルタ)となって日本海に流れるはずだが、「砂州」(庄内砂丘、西山)が流れを変え河口は吹浦に集中した。

  さらに大昔は、庄内平野は内湾だった。
 これは、秋田県由利郡の伝承だが、
 「飽海郡に阿古之入江と称する南北二十里の江海がある」と伝えられている。
 しかし、いつ頃まで海だったかは、正確に分かっていないという。
 潮が引いたと思うと、再び洪水で海状態になったりを幾度も繰り返していたようだ。
 完全に陸地化したのは、飛鳥か、奈良時代なのか。
 「飽海」の地名は、いつまでも海だったことから来ているという。
 庄内平野の日本海寄りには、鳥海山麓から新潟境まで「砂州」(庄内砂丘)が発達し、河川が、それに堰き止められる形で「潟湖」が形成された。
 日本では青森県の十三湖、京都の天の橋立等は、陸地化する前の庄内平野によく似た地形と思っている。

 この月光川には、今も鮭が遡上しているようだし、今の季節には鮎が群れをなして泳ぎ回る姿を見ることが出来る。
 遊佐町の、遊佐小・中・高校は、いずれも月光川の近くにあるが、霊峰鳥海山とともに校歌に必ず入り「月光川の水清く」などと歌われている「母なる川」だ。

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 次に「遊佐荘大楯遺跡の成立」山口博之(山形県教育委員会)から引用させて頂く。http://www.yamagatamaibun.or.jp/kankoubutsu/kenkyuukiyou/kiyou_1/2003_yamaguchi.pdf
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  月光川という河川名称は、『日光川史』によれば明治八年(1875)の吉出村文書に見えるのが早い例であり、明治期以降の呼び名である。さらに、「吹浦川」「町川」「吉出川」などの呼称も見える44)。致道博物館所蔵の『正保絵図』には、上流比山地Syuunai_map_1区までは「祓川」、ここから地峡の隘路を抜けて平野へと流下すると「遊佐川」と見える。
 月光川名称の成立は、鳥海山の本地が薬師であることから、日光・月光の脇侍を鳥海山から流下する河川に仮託し、薬師信仰に連なる、宗教世界を構成することから成立したものであろう。字限り図によれば、大楯遺跡のすぐ北側には月光川が流下していた時期がある。大楯遺跡にかかわる河川交通にも重要であったという事実を確認しておきたい。この河川が吹浦へと連なり、湊と結びついていた。
 
 最後に、西通川は、船通川、船通堰とも呼ばれる開削堰である。開削時期を示す史料には恵まれないが、『月光川史』によれば、近世初頭の慶長六年(1601)から、元和八年(1622)までに運河として開削されたものと伝えている。また、日向川河口近くの土地に対しての、排水堰としても重要であった。西通川の流路である、遊佐町南山下から、酒田市六ツ新田までの約7㎞と、ここより東側には標高10m に満たない土地が続く。ここは容易に滞水する場所であったのは、先述の通りである。さらに、この場所には新田地名が広く分布し、開発が江戸期に入ってからであったことも指摘しておく。

月光川の流路は、近世初頭、慶長期(1596~1615年)に、吉出村の佐々木義綱が上野沢、大楯方面に流路があったものを吉出地区付近で一つにまとめたという。ここは、山地から平野部へと流下する、傾斜変換点とも言うべき位置であるから、ここでは流路の拡散が起こっていたものと思われる。江戸中期文化・文政期にも、漆曾根、江地、宮田、北目、菅野谷地、佐渡などでは蛇行していた流路を直線化する改修が行われている。大楯遺跡付近の明治期の字限り図を見ると、大楯集落の北側には、蛇行した河川の痕跡が明瞭である。こうした旧流路は、以上のような河川の改修によって生じたものと見ることも出来よう。

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2010年7月29日 (木曜日)

オレンジ計画と小学生の中絶

 「日本オレンジ計画」と小学生の中絶。2007051702
 一見、意味不明のタイトルにした。
 
 心ある人は、「日本はなんでこんな国になってしまったんでしょうね」、「最近の若者を見ていると心配ですね」などと、今の日本の現状を憂う人は少なからずいる。
 これには、「本当ですね。政治や教育に問題あるんですかね」と軽く受け流すようにしている。
 本音は一々、次のような説明をしても切りがないし、こんな計画があることを長々と話も出来ない。
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  アメリカの「日本オレンジ計画」更に「日本人獣化対策」をご存じだろうか。
 まず、失礼だが知らない方が殆どでしょう
  ウィキペディアでは、「日本オレンジ計画War Plan Orangeは戦間期(1920年代から1930年代)において立案された、起こり得る大日本帝国との戦争へ対処するためのアメリカ海軍の戦争計画である」と説明してある。
 「日本オレンジ計画」は日の丸は赤だが、色あせるとオレンジ色になる。つまり日本を色あせさせ、骨抜きにする計画だ。「日本人獣化対策」という怖ろしい計画があった。
  この「日本人獣化対策」は、ユダヤ人でフリーメーソンとされるマッカーサーが占領下で進めたもので、崇高な文化と道徳心を持った日本人を不道徳な獣にする計画だ。
 簡単に言うなら、「一つの民族をダメにする」遠大な計画だ。

  マッカーサーが、「獣化対策」の中で押しつけたものに「人工中絶」がある。
 日本国内で合法的に「堕胎」が可能になったのは、昭和23年(1948)に「優生保護法」が制定された時点からだ。
 そして、「日本人獣化対策」の効果は確実に実り?、
 小学生の子供たちまで「妊娠しても簡単に堕ろす」考えが広まっているという。
 事実、最近では小学生の中絶も珍しくないという。

 日本の中絶は公的報告件数が年間約30万件、実際はヤミ中絶が3倍もあり、年間約100万件もある言われる
 もし、これが全員、人間として成長していたらどうなのだろうか。
 そう考えるのは不謹慎なのだろうか
 なにも、小学生にまで子供を産めと言っている話ではない。
 
 ある団体は、「我々は戦後、今まで億人の日本人を処分した」と豪語した。

 下段の動画でNPO法人「天使のほほえみ」の鎌田久子さんの話を聞いて欲しい。
 鎌田さんのお話では、最近では、小学生の中絶が急増しているという。
 小学生の中絶は、子宮が破壊され二度と妊娠できなる可能性が高い。世界193カ国の中で、中絶を簡単に許しているのは日本だけだ。
 日本人を不道徳な獣に陥れてる「日本人獣化対策」は確実に実っている

 人口を本気で増やす計画なら、このような問題を根幹から見直す必要がある。
 「子ども手当て」による現金支給ではない
 まず、日本人をダメにするために、アメリカが戦後押しつけた法律や制度を再確認することだと思う。
 もちろん、その最たるものが「日本国憲法」であることは間違いない。
 この憲法を「不磨の大典」の如く利用している各種団体、共産党や社民党、民主党ら左翼勢力は一体何者なのか
 そこに隠された狙いは何なのか、国民は早く気づいて欲しい16001111s

■この「人間獣化計画」を発案したのはユダヤ人関連のフリーメーソンであるといわれている。
 超国家的勢力は戦争での経験に基き一番畏怖し恐怖した民族の、民族内部崩壊をさせなければまた同じ事を繰り返すと恐怖し、「人間獣化計画」を適用しようとした。ドイツのゲルマン民族と日本の民族にである!ドイツのゲルマン民族のゲッベルス宣伝相は、これに気づきこの「人間獣化計画」を受け入れなかったが、日本は受け入れてしまった
 このままでは、本当に絶滅の道を進むことであろう。

●「日本人に謝りたい」~あるユダヤ長老の懺悔~「人間獣化計画」から引用
愛国心の消滅悪平等主義拝金主義自由の過度の追求3S政策(Sports Sex Screen)・事なかれ主義無気力・無信念・義理人情抹殺・俗吏属僚横行・否定消極主義・自然主義・刹那主義・尖端主義・国粋否定・享楽主義・恋愛至上主義・家族制度破壊・民族的歴史観否定
 以上の19項目をつぶさに検討してみた場合、戦後の日本の病巣といわれるものにあてはまらないものがただの一つでもあるだろうか。否、何一つないのを発見されて驚かれるであろう。ゲッベルス宣伝相は、戦後の日本に対する予言者だったのであろう6_00か。
戦後生まれの人たちにはピントこないかも知れないが、これらは正常な人間の頭で判断すれば人類の文明の破壊につながるものであることは一目瞭然である。人間の純度を落とし、本能性に回帰させようというものである。
ゲッベルス宣伝相が警告を発した第二次大戦前の時点でどれだけの人がこれを真に人類の文明への挑戦として脅威的に受けとったかは分らない。しかし第二次大戦が終わってみると、日本へはこれら一連の風潮が忍者の如く忍び寄って完全ともいえるほどに定着してしまっていたのである。これらを戦後日本へ持ち込んだのは一体何者なのか。また、これらがこれほど完全ともいえる状態で日本に定着したのは何故か。  

平成15年度  10代の人工妊娠中絶件数・都道府県別
  総数 15歳
未満
15歳 16歳 17歳 18歳 19歳
全国 319 831 483 1 548 4 795 7 915 11 087 14 647
北海道 19 413 30 104 316 497 768 1 042
青森 3 569 4 23 61 111 163 171
岩手 4 669 7 17 62 106 155 213
宮城 7 931 12 36 118 236 300 449
秋田 3 367 1 13 39 97 127 171
山形 3 279 - 4 39 74 134 151
福島 7 159 4 27 116 294 417 314
茨城 5 346 7 31 86 126 216 355
栃木 5 575 8 30 94 147 225 248
群馬 5 098 7 20 59 101 147 205
埼玉 15 543 22 92 261 418 494 734
千葉 9 597 32 33 158 263 339 403
東京 29 143 22 100 265 467 725 1 123
神奈川 17 078 19 69 261 402 559 810
新潟 5 897 2 15 69 164 233 278
富山 2 498 6 14 40 82 74 77
石川 2 911 2 13 41 69 113 150
福井 1 817 - 6 24 47 49 73
山梨 1 425 1 2 21 28 34 59
長野 6 636 10 14 101 152 214 237
岐阜 4 958 9 16 71 100 175 217
静岡 8 106 13 55 151 233 294 329
愛知 16 000 35 129 284 447 557 632
三重 5 130 3 30 89 118 168 227
滋賀 3 273 7 19 57 81 150 145
京都 6 149 16 31 97 140 199 293
大阪 20 466 49 112 311 475 642 898
兵庫 11 666 21 67 173 258 373 503
奈良 2 055 5 12 31 49 50 98
和歌山 2 520 7 6 53 54 83 93
鳥取 2 432 2 11 29 70 108 142
島根 1 601 2 10 31 36 57 87
岡山 6 315 16 33 102 138 212 255
広島 8 032 17 24 144 221 279 343
山口 3 649 6 19 55 79 141 207
徳島 1 982 6 11 38 48 55 87
香川 2 948 5 20 57 88 92 132
愛媛 4 011 4 27 65 127 168 187
高知 2 705 6 26 43 69 108 122
福岡 18 748 33 99 297 478 700 937
佐賀 3 215 4 15 46 87 143 182
長崎 5 131 4 19 62 131 188 292
熊本 5 966 5 26 107 158 201 327
大分 4 180 5 15 49 87 135 208
宮崎 2 278 1 13 26 57 58 89
鹿児島 5 173 3 29 56 123 174 242
沖縄 3 191 3 11 40 82 91 110

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2010年7月28日 (水曜日)

象潟の「女傑・神功皇后」伝説

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 ↑上の写真は秋田県南端の象潟(きさかた)。
 田圃の中に点々と見える濃い緑色が島々だったが、1804年(文化元年)6月4日の大地震で、約2m隆起して古・象潟湖は陸化し消滅してしまった。Dewanokuni
 芭蕉の訪問は元禄二年(1689)のことで、これは芭蕉が眺めた景観ではない。
 一例だが、中央下の大きな緑部分に「蚶満寺」、その直ぐ下に能因法師が三年間隠栖した「能因島」があった。やや左上がTDKにかほ工場。

 芭蕉が「奥の細道」で訪問した最北の地、秋田県最南端の「象潟」には、「古刹・蚶満寺」「九十九島」「神功皇后伝説」など面白い歴史がある。
 直ぐ南に隣接の山形県庄内地方の歴史とも深く関連している。最も、ほぼ秋田県、山形県は「出羽国(でわのくに)」と呼ばれ、一つの国だった。今回は、三韓(新羅、百済、高句麗)を征伐した「神功皇后伝説」に触れる。
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 仲哀(ちゅうあい)天皇の妃、日本史上最強の女傑「神功(じんぐう)皇后」を架空と見るか実在と見るかは、今も意見が分かれる。
 根拠は、三韓征伐は四世紀とされるのに、夫の仲哀天皇の即位期間が192~200年とされ、余りにもかけ離れていること。それに、仲哀天皇の父は日本武尊であることや、神功皇后の超人的活躍などを上げるようだ。
 また、日本書記では神功皇后日巫女(ひみこ)としている。
 今のところ、否定意見が強いが考察するのも面白い。
 ただ、ここで神話を細かく詮索しては面白みがなくなるので拘らないことにしたい。

 さて、「神功(じんぐう)皇后」の陵墓は「象潟」にもあるとされる。   松尾芭蕉の「奥の細道」は、
  「月日(つきひ)は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年(とし)もまた旅人なり」
と始まるが、象潟辺りで
 「江上に御陵あり、神功皇后の御墓といふ。寺を干満珠寺といふ。この所に行幸ありしこといまだ聞かず。いかなるゆゑあることにや。」(岸辺に御陵があり、神功皇后の御墓だという。寺の名は干満珠寺というが、ここに神功皇后が来たという話は、いまだかつて聞いたことがないが、いったいどういうことなのか)というくだりがある。
 「奥の細道」のコース近くに住んでいたこともあるが、「江上に御陵あり、神功20107i皇后の御墓といふ---いかなるゆゑあることにや」、この箇所が随分と気にしながら育った。
 学校の先生は「芭蕉が分がらねのに、俺もわがらね」と話していた。

  神功皇后は、三韓征伐のときに暴風雨に遭って漂流し象潟にたどり着くが、身籠っていた神功皇后は象潟で男子を生み、象潟で半年暮らした。男子は後の応神天皇(在位270-310)になったという伝説があるが、当然、実話と見た方が自然と思う。

  そして、象潟には8世紀建立の「蚶満寺」という古刹がある。P1
 蚶方法師という僧が、「神功皇后」の霊夢を見て「皇后殿」を建立したのがはじまりだという。その後の853年(仁寿3年)慈覚大師が東北巡錫に来たときに再興し、「干満寺」と名づけ、その後1257年、北条時頼が訪れ、寺名を「蚶満寺」にした経緯があるという。

  幾度も立ち寄ったことがある古刹だが、次回の帰省では再度シッカリ訪問したい。

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http://www.mapion.co.jp/m/39.2177238888889_139.911445_7/

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2010年7月27日 (火曜日)

平田牧場の「とんや」酒田店

 都内のトンカツ店には、今年だけで10軒以上寄っているが、再訪問したいPhoto店は見つからない。口が贅沢になっているのだろうか。

  今月はじめ帰省した際、平田牧場(通称・ヒラボク)の酒田店「とんや」に家族で入る。気になっていた店だったが、今回がはじめてとなる。

 国道7号沿線、酒田市みずほ2丁目17-8「ガーデンパレスみずほ」1階にあるHiraboku_s
 昼1時を回っていたが、休日のせいか5~6人ほど入り口に並んでいた。入り口といっても、建物の中なので暑さ寒さの天候は気にならない。15分程待って店内に案内された。
 ほど良い空間とテーブル配置も動きやすい動線だ。
  肉類がダメな妻は牡蠣フライ、子供達も遠慮なしに2000円前後のランチを注文している。
 当方はバランスをとるために?、一番安い、平牧三元豚ロースかつ膳(キャベツ、ご飯、味噌汁、漬物)は980円にする。1070504
 浅漬けが直ぐ出されたので、ほどよい塩梅の漬け物をお茶でいただきながら待つ。
 次は、胡麻をスリコギで香りが出るまですってソースで混ぜて準備する。
 約10分で注文したものがテーブルに並べられた。
 キャベツ、浅漬け、ご飯、味噌汁はお代わり自由だ。
 全部お代わりをする。640x640_1070501
 店員がお代わりに素早く反応してくれるのがいい。場所によっては声を掛けにくい店もある。女性は特にそうだと思う。
 ご飯は勿論、全ての素材は庄内産だという。
 
  いざ、支払いの段でレシートを取ろうとすると、珍しく息子が自分で支払うという。
 息子にも、ボーナスが出たばかりだったことを忘れていた。
 「最初から払うと言ってくれれば、もっと高いのにしたのに」などと、いつものレベルの低い会話になる。
  レジでは、「ロビーでコーヒーを飲んで行って下さい」と声を掛けられる。
  1階ロビーで、暫しセルフサービスのコーヒーを戴くことにした。Dscn3990
 全員満足度は高いようだ。このコーヒーをクーポン券と見たら、更にお得感がある。
 最近では、親より旨いものを食べている子供達も☆4つを付ける。
 今度帰省したときも立ち寄ることになりそうだ。
 以前、中央区日本橋1-4-1 COREDO日本橋4Fの平田牧場(日本橋店)にも行ったが、やはり本場の酒田店が数段格上だ。

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2010年7月26日 (月曜日)

水運「西通川」遊佐~酒田間

 この話は、庄内の遊佐や酒田の皆さんしか分からないと思うが、この地域の考古学に関心ある方々には多少は参考になるかも知れない。
Nisidorigawa02 昭和30年代の昔話だが、
 「昔は遊佐から酒田まで川がつながっていて、船で米を運んだもんだ」と祖母に教えられた。

 遊佐町藤崎に祖母の従姉妹が住んでいて、スイカやメロンなどを作っていた。例年、夏の季節にはそれらをもらいにリヤカーを引いて出かけたものだ。
 行きは祖母をリヤカーに乗せて向かうと途中、藤崎手前の稲川辺りで「西通川(にしどおり)」を渡る。
 遊佐方面からは「万部通川」もあり、京田を経由して西通川につながっている。

 祖母は、この「船通川」を船で通ったことがあったかのような口ぶりだったが、いつ頃まで使用していたかは確認しなかった。自分は運搬車の荷台に乗りながら、船があったら便利だったことを示唆していたのだろう。
 最近は役割を終えて環境悪化が目立っていたが、遊佐町立西遊佐小学校の皆さんが「命あふれる西通川にしたい」と環境保全に努めている。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=58394700
 この「西通川(にしどおり)」は「船通川」とも言い、江戸時代初期・最上義光の時代(1601~1622)に開削された。このような大事業は力のある藩主がいないと出来ないそうだ。

 主に米など農産物の運搬水路だったが、もう一つの目的は、この当時、遊佐町稲川や北目地区は湿地帯で沼地が多く、西山寄りに溜まった水を排水させる機能も合わせ持っていたという。
 この目的あたりに、 飽和、だぶつきの海、或いは、中々水が引かずに飽きれた海と書く、飽海阿古之入江)を調べるヒントが隠されていると思っている。

 この話は、隣県秋田県由利郡の伝承だが、
 「飽海郡に阿古之入江と称する南北二十里の江海がある」と伝えられている。
 きっと、「官道」の「水駅(湊)」が「象潟」にあった時代か、それ以前の話と思う。
 象潟方面から飽海、遊佐方面にで向い、月光川河口の吹浦口から内海に入ると、今は陸地だが庄内は海で、南北二十里の江海が広がっていた様子が想像される。
 
 そう言えば、庄内より象潟の方がずっと古い歴史があるようだ。
 日本史上最強の女傑神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀(ちゅうあい)9年(200年)の三韓征伐のときに暴風雨に遭って漂流し象潟にたどり着くが、身籠っていた神功皇后は象潟で男子を生み、これが後の応神天皇(在位270-310)になったという伝説がある。
 庄内地方では、平安時代の804 年頃に出羽国府(城輪柵)が置かれた記録もあるが、象潟のそれに比べれば随分と新しい。

 鶴岡の致道博物館の『正保二郡絵図』や文献を参考にして説明すると、

■「船通川」は、
 遊佐町南山下から、酒田市六ツ新田までの約7㎞に渡る直線の人工水路である。
 近世、この堰は遊佐地域の年貢を酒田の蔵屋敷に納める通路として利用されていた。
 ここを通る船は米一俵の運賃が八合であることから八合船といわれていた。
 遊佐方面から西通川を六ツ新田まで上った船は、日向川に入り、上藤塚から船通川を経て、新井田川、さらに鶴田橋に出て藩の米蔵に運び込んだという。
 もう一つ注目すべき点は、日向川が砂丘に突き当たる地域に滞水した水を排水する機能も存在した。
■日向川河口付近の滞水状況は、恒常的な潟湖となるかどうかははっきりしない。
 『正保絵図』にも潟湖の存在は記載されていない。
 しかしながら、『飽海郡史』には、天正11年(1583)~慶長 3年(1598)の頃、飽海郡の西南部は湿地であり洪水があれば、たちまち湖水を造り、谷地となり、湿地の植物である榛の木(ハンノキ)の林となって耕作に耐えなかった。
■さらに、隣県秋田県由利郡の伝承には、飽海郡に阿古之入江と称する南北二十里江海があり、阿久美(後世飽海)の名称は、之から起こったという所伝もあるという(日向川水害予防組合「日向川史」)。

Syuunai_han

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偽本尊=鰯の頭も信心から

 「鰯の頭も信心から
  イワシの頭のようなつまらないものでも、信心する人には尊く思うことを言う。
 物事を頑なに信じる人を揶揄するときもいう。

  さて、即興なぞかけで大ブレイクのお笑いコンビ「Wコロン」のねづっち(本名:根津俊弘)が創価学会の新聞「創価新報」に登場しネットで話題になっている。Images
 という。
 ねづっちは、「いつも御守りご本尊を携帯しています」つまり、信仰を深めることが仕事にも結びつくというわけで、「僕は1日1時間の唱題を続けています。
 どんなに忙しくても、いつも御守りご本尊を携帯して、執念で一時間やっています」という毎日だそうだ。
 東京都杉並区の男子地区リーダーでもあるという。
 本名は根津俊弘(1975年2月18日生まれ)、日野市出身、東洋大学法学部卒業
 同じ宗教の信者・久本雅美の働きかけで公開プロポーズして成功した。

■すでに常識的に言われていることだが、日蓮正宗から破門された「創価学会」では、宗門より御本尊が戴けなくなったため、平成5年以降、独自の本尊を発行している。
 この創価学会製・本尊は、日蓮正宗第二十六世日寛上人がお認(したた)めになった御本尊を、好き勝手に改ざん、大量にコピーした「ニセ本尊」と言われる。
 どんなにそっくりに作っても偽物は偽物で、それ以上でも以下でもない。
 つまり、「鰯の頭も信心から」と言うことだが、それを信じさせる面白い宗教だ。

 そしてまた、ねづっちのお笑いのネタがもう一つ増えた。

 ●「ねづっちと掛けまして何と解く」。「整いました!」
   「創価学会信者と解きます」その心は「信心(新人)の花が開きました」

 ●「創価学会と掛けまして何と解く」。「整いました!」
  「映画づくりと解きます」その心は「どちらも大作にお金を掛けます」

 ●「池田大作と掛けまして何と解く」。「整いました!」
  「亀田兄弟と解きます」その心は「挑戦(朝鮮)者です」

 ●「ニセ本尊と掛けまして何と解く」。「整いました!」
   「鰯の頭と解きます」その心は「信じることが出来れば何でもいいです」

ニセ本尊のニセ本尊たる所以
  http://www.geocities.jp/kokoronoshikumi/nisehonzon.html
 左が日寛上人の書写された御本尊で、右がそれを変造してコピーした学会製ニセ本尊
①は、日寛上人が認(したた)められた授与書きを削り取って改ざんした箇所
②は、梵(ぼん)字に加筆して、下の方まで伸ばしている
③は、題目の「経」の字に加筆して、線を太くし、下の方まで伸ばしている
④は、大増長天王の「天」の字に加筆して、線を太くしている

ねづっちは右側のご本尊を大切に携帯しているのだろうか。

Nisehonzon

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2010年7月25日 (日曜日)

日本兵が造ったナヴォイ劇場

 妻の父の兄、つまり伯父は昭和21年ソ連・シベリア抑留中に死亡している。
 義父は、「本来ならこの兄が家を継ぐはずだった。ソ連はとんでもね国だ」と、仏壇の軍服の写真を見上げた。
  http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/CombineDorei1.html
 終戦時、日本はポツダム宣言受諾に躊躇したことがソ連の参戦を招いたとされる。
 1945年8月9日から9月2日までの25日間に、ポツダム宣言に違反した 極悪非道のスターリンの極秘指令によって、戦争は終了していたのに、70万人以上の日本人捕虜がシベリア等に集団拉致され、奴隷として重労働を強制された。
 そして、移送途上で4万人以上、奴隷労働中に16万人以上が死亡した。
 
 一口にソ連に抑留されたと言っても、広大なソ連領土であり、日本兵捕虜は10カ所余りに分散させられた。
 この中で、気候などを含め比較的条件が良かったのが、「ウズベキスタン」だったと言われている。この「ウズベキスタン」には、約2万5千人の捕虜が送られた。
 首都「タシケント」にあるオペラ座“ナヴォイ劇場”は、この中の日本兵約250人の捕虜が造ったものだ。建築は全員が素人だった。
 しかし、かつて、マグニチュード8.0の大地震でタシケントの市街地が壊滅的打撃を受けたときもビクともしなかった。
 
 数年前、NHKで「わが青春のナヴォイ劇場」と題して、
 中央アジアを代表するオペラ座“ナヴォイ劇場”は日本人捕虜の強制労働によって、見事オペラ座を造り上げたという秘話を放送していた。
 まず、建築に素人だった20歳代の日本兵の研究心と器用さに驚かされる。
 また、当時の日本兵を尊敬するウズベキスタン人によって、日本人墓地はきれいに整備されているという内容だった。
 これらのことは下段の動画で詳しく紹介している。Runnningman_2
 きっと感動すると思う。
 
 7月24日、酒田市の女性建築家で
 「無題・休題-ハバネロ風味-」 というブログを配信している 方からのメールで、
  この“ナヴォイ劇場”に間寛平氏がアースマラソンの途中で立ち寄ったことを知った。
 この様子は「間寛平ブログ」でも紹介していた。

 因みに日本兵捕虜は、「ウズベキスタン」では 813人が亡くなり、10ヶ所の日本人墓地に分散埋葬されているという。
 寛平氏は、「タシケント」にも日本人墓地があることを知り墓参りをしたそうだ。
 いい話だ。
 
なお、「シベリア特措法」について追記すると、
 終戦直後に旧ソ連に連行され、強制労働をさせられた元シベリア抑留者の訴えが、ようやく国に届いた。7万~8万人といわれる生存者に1人25万~150万円の特別給付金を支給する特別措置法が、本年6月16日衆院本会議で可決成立している。

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「悪相」ぞろいの民主党

 7月25日の産経新聞のコラム「古典個展」は実に傑作だった。Ed_0

 立命館大学教授、加地伸行氏(73)は
 「『悪相』ぞろいの民主党
」と題して、文字通りコテンコテン(古典個展)に民主党の幹部を切りまくっていた。

 「無能の傲慢そのものという意味で悪相である。民主党議員には、そうした悪相の者が多い。いや、去年の政権担当以降、しだいに悪相になったと言うべきであろう。」、「彼らは〈民主主義〉原理主義に陥っており、選挙で当選した自分たちはなにをしても許されると勘違いしている。そこから傲慢となり、慎みを忘れ、顔が悪相に変化してきたのだ。」と切る。

 当ブログでも、民主党の体質、政治姿勢には辛口で臨んでいるが、加地先生には負けてしまう。
 忘れないように、ここに記録しておくことにする。

201725

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産経新聞 2010.7.25
【古典個展】立命館大教授・加地伸行
       「悪相」ぞろいの民主党

 今月の参院選のとき、どういう風の吹き回しか知らないが、私のところに民主党候補者推薦のはがきが舞いこんできた。もちろん、支持つまりは投票を求める文面であるが、その結びに至って、「伏して」お願いしますというところを「臥(ふ)して」ときた。
 気は確かか。これでは「寝ころがって」のお願いですよ。
 こういうのでも国会議員になろうというのであるから、ま、近ごろ風に言えば、立候補は就活(就職活動)の一つぐらいのつもりなのかもしれない。事実、その主張から見て、識見のある候補者などほとんどいなかったではないか。
 例えば、枝野幸男民主党幹事長。投票日の翌日であったか、各党幹部が出演した番組でこう発言した。税制の問題について(野党の)皆さんと話しあって案を作り、国会に提案いたしたい、と。
 私は耳を疑った。この発言は、中学校の生徒自治会レベル、いやそれ以下である。その職責にある者は、自分たちの知識と知恵とをしぼって、まず原案を作り、その原案を公的な会議において、審議してもらうわけである。
 この原案作成において、担当する責任者は、当然、識見をもって練りあげる、政権であるならば、政府・与党が己の政見をそこに反映できなければならない。もし原案を作れないとすれば、その職責に堪えうる能力がないということであり、そのときは恥じて辞職するのが常道、いや常識である。ところが、枝野某は平然と原案を野党といっしょに作ろうと言ったのである。これは、政権を担当する能力がないと自分で言っているのと同じではないか。中学校の生徒自治会でもそんなバカなことは言わない。
 枝野発言はこういうことだ。野党の野郎ども、お前らしっかり汗かいて働け。わStt1006072113007n1しはそのできあがりを待って実施し、政権を運営する。わしらは政府・与党としてな。そうなるよう「臥して」お願いしまーす、ということだ。
 私はテレビ画面上の枝野某の顔つきをつくづくと眺めたが、無能の傲慢(ごうまん)そのものという意味で悪相である。民主党議員には、そうした悪相の者が多い。いや、去年の政権担当以降、しだいに悪相になったと言うべきであろう。
 なぜか。理由ははっきりしている。
 彼らは〈民主主義〉原理主義に陥っており、選挙で当選した自分たちはなにをしても許されると勘違いしている。そこから傲慢となり、慎みを忘れ、顔が悪相に変化してきたのだ。
 政治資金規正法違反で疑われている小沢某、母親からの贈与を隠して脱税した疑惑が指摘されている鳩山某、カネにからんでの批判を受けている閣僚の仙谷某、荒井某等々、すべて傲慢という悪相である。では、菅直人首相はどうか。この人、悪相ではない。いや正確には今や悪相になるヒマがない。参院選に大敗し、自信喪失のおろおろした顔つきと化している。こういうのを貧相と言うのだろう。
 孔子は、相手のつらい立場(例えば喪中)などに接したときは、常に己の身心を正した。さらには「迅雷風烈(じんらいふうれつ)には(天の怒りと受けとめ容貌を改め敬(つつ)しみ)必ず変ず」(『論語』郷党篇)のような慎み深い人物であった。
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支持率も31.8%まで下落した

 そして、20%台は、もう直ぐだ。Photo_6
 臨時国会がはじまり、問題点が国民に晒されたら、間違いなく20%台に突入だろう。

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2010年7月24日 (土曜日)

元テロリストをVIP待遇

 大韓航空機爆破事件で115人を殺害した元テロリストを正にVIP待遇だっPhoto_2た。 
 外国メディアは、
 「日本は前総理が元テロリストに別荘を貸すとは
と、一致した見方をしているという。
 日本外交に、また一つ物笑いの種が増えた
 
 爆破事件発生は今から23年前の1987年11月29日。
 イラク・バグダッド発の韓国・ソウル行きの大韓航空便がインド洋上を飛行中爆破され乗客・乗員115人全員が死亡した。
 犯人は、日本人親子を装った北朝鮮の秘密工作員で「蜂谷真一(金勝一)」と「蜂谷真由美(金賢姫)」と判明する。しかし、男の工作員は青酸カリ自殺、金賢姫も同Photo_3様に自殺を図ったが失敗し、バーレン空港で捕まっている。
 二人とも日本名のバスポートを所持していたことから、日本の犯行に見せる計画だったことが判明。仮に金賢姫が自殺していたら、日本の犯行とデッチ上げられるところだった。
 爆破目的は、翌年、韓国で開催されるオリンピックの阻止。命令は、金正日朝鮮労働党書記の親筆であったことも判明。その後、韓国で死刑が確定したが特赦で釈放される。

 そして、被害者より殺人犯の人権を重視する多くの日本人は、彼女を「悲劇のヒロイン」と奉る。
 この理屈でテロ犯人を見るなら、よど号乗っ取り犯人の赤軍派はじめ、テロ国家と呼ばれる、イラク、イラン、アフガン、パキスタン、シリアなど世界中のテロリストも「哀れなヒロイン」ということになる。
 このような理屈が諸外国で通用するはずがない
 だからこそ、外国メディアは「前総理が元テロリストに別荘を貸すとは」という一致した見方になる。
 
 今回の訪日を振り返ると、
20日早朝、金賢姫が東京・羽田空港に来日した。
  政府がチャーターしたビジネスジェット機はトヨタの子会社の朝日航洋だった。
    羽田から自動車で避暑地、軽井沢の元鳩山総理の別荘でもてなし。
21日は、拉致被害者らと面会。
22日の昼すぎ、東京・調布飛行場から東京都江東区のヘリポートまで約40分かけて「遊覧飛行」。この夜は「帝国ホテル」に宿泊させている。
  都内のホテルは警備上問題だったのではないか。
23日午後3時半、羽田空港から日本政府のチャーター機で韓国に帰国させた。
 民主党は当初警備上の問題で軽井沢にしたと発表していたが、なんと拉致家族を手料理でもてなす都合からと変わった。
 勿論、滞在費用やギャラも大変な金額だという。
 
 何より、韓国政府に大きな借りを作ったことは、今後、どのような見返りに要求されるか分かったものでない。
 本当は、参議選選挙前の5月来日を計画していたこともバレ、それに、拉致被害者の写真確認も出来なかったなど、目的は何だったのか疑問を持たれている。
 ただ、民主党のパフォーマンスだけが目立った来日劇だった。
 バランス感覚の全くない民主党の今後を、益々憂慮する。

 拉致被害者家族会へ、どのような支援をするかとは別問題だ。

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Google_mapから北朝鮮消滅

 「Googleマップ」から北朝鮮の地図が消滅していることに気づいた。 
 今年はじめは見ることが出来たので、きっと、最近からだろう。
                 http://maps.google.co.jp/maps
 北朝鮮の元スパイ、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元死刑囚関連ニュースから、北朝鮮の地名が何度か出るので、どの辺りか調べようとしたら、地図が抜け落ちていた。
  Google からの情報では、
 「Google マップには、十分な地図情報が入手できないため、ほとんど情報を掲載していない国がいくつかあります。」
 と言うが、裏に何かあると思う。
 それは、政治的なものか、軍事的配慮なのか。
 
 因みに、ヤフーなど他の地図サービスは、ご覧のように閲覧出来る。

 なおGoogleは今年3月、中国から完全に撤退しているが、今度は中国の地図も消える可能性もあるのだろうか。
 それに、ロシアも一部消えているところがあるようだ。
 我が国は、
 たかが、地図情報も集めにくい国々に囲まれていることを改めて知った。

Photo

http://hyouhei03.blogzine.jp/.shared/image.html?/photos/uncategorized/2010/04/13/photo.jpg

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2010年7月23日 (金曜日)

十三秒後の「ベイル・アウト」

Title_top

http://www.jiyuushikan.org/jugyo/jugyo71.html
 「教科書が教えない歴史」から、このような真相が伝えられている。

 もう10年も前のことだが、平成11年11月23日、航空自衛隊のパイロット2名が、埼玉県狭山市の河川敷に墜落、殉職した飛行機事故があった。
 直ぐ近くの出来事であり、当然記憶がある。
 亡くなった2人の自衛官は、中川尋史さん(享年47)と、門屋義廣さん(享年48)。
 門屋さんは飛行時間6492時間、中川さんは5229時間と超ベテランだった。
 次の動画は「十三秒後のベイル・アウト」と題して、71a
 殉職した二人のパイロットが、一回目の「ベイル・アウト(緊急脱出)」から二回目に「ベイル・アウト(緊急脱出)」と告げるまでの13秒間に何があったか真相を伝える。
 きっと感動すると思う
 何も感じない人は朝日新聞と同レベルの方だ

  この事故を朝日新聞は、
 「東京・埼玉の80万戸で停電がおこった。埼玉の狭山で空自機が墜落して高圧線を切断したからである。これにより交通・ATMも乱れた。空自機の2乗員は死亡した」
 と、木で鼻をくくったような冷淡な報道をした。

■この事故の陰には、このような真実があった。

■「教科書が教えない歴史」から引用
  平成11年11月25日、殉職された中川さんと門屋さんの葬送式が航空自衛隊の入間基地飛行場地区で行われたが、遺族代表として、中川さんの弟さんが挨拶に立ちました。
 弟さんは、自衛隊関係者が「あと3秒早く脱出していたら助かっただろうが、そうすれば、民家に突入してしまっていただろう」と話すのを聞いて、声を詰まらせながら、次のように語りました。
 「私には自慢できるものがありました。小さい頃から憧れたパイロットを兄にもつということです。兄の死に遭遇し、今後はもっと自慢できるようになった」。
 また、門屋さんのお兄さんは、「今回の事故では、故人の尊い犠牲よりも都会の停電が大きくとりざたされた。わが国の防衛に命を懸けてきた故人は何だったのか、やるせなさを感じた」と言いました。

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都内唯一「道の駅」八王子滝山

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 道の駅「八王子滝山」は、平成19年4月1日に都内唯一の「道の駅」としてオープンしている。http://www.ktr.mlit.go.jp/kyoku/road/eki/station/road-station_knt.htmlDscn3995
 以前、八王子市に住む同僚から、「近くに道の駅が出来て便利だよ」と話には聞いていたが、最近まで行く機会がなかった。
 午前10時過ぎに到着したのに、駐車場はもう満杯状態。
 地産地消を看板に地域に密着した運営をしている「道の駅」は、どこも人気のようだ。

 中に入ると八王子市内はもちろん、近隣市町村で採れたての新鮮な野菜類、地Dscn3993酒、ネクタイ等の名産、お土産品がところ狭しと陳列していた。また、地元産の食材を使った食事を楽しむコーナーも準備されている。
  今回は、地元産のナス、キュウリなどのほか、山形県庄内産のニラ、山梨の信玄餅を購入する。
 ここは、地元産以外もいろいろ置いてあるようだ。
 作るところが見える、餅の売店では「ぼた餅」を購入する。
  山形県遊佐町の道の駅「ふらっと」にも「あんこ餅」が置いてあったが、道の駅は餅がNira定番かと思ったりする。

 庄内産のニラは、やや幅広でおひたし向きの柔らかさがある。
 当然、その日の夕食におひたしにしてもらった。
 ビールに良く合う。
 もし工夫するなら、ビニールの包みに「おひたし向き」とか「柔らかいニラ」などの記入を入れたらいいと思う。庄内産では「アスパラ」もあったが、せっかく置くのだから、陳列や販売方法を検討して、旬の物をもっと並べて欲しいものだ。
 Dscn3992_2

■「道の駅」の登録要領などを調べると、
  「道の駅」は地域の創意工夫により道路利用者に快適な休憩と多様で質の高いサービスを提供する施設で、平成22年3月1日現在で936駅が登録されています。http://www.mlit.go.jp/road/station/road-station.html
 とある。
 「道の駅」としての条件を満たせば、国土交通省から認可されるそうだ。
 出来れば都内でも、あと数カ所増やして欲しいものだ。
 きっと利用者は多いと思う。
■道の駅「八王子滝山」‎
 八王子市滝山町1丁目592(午前9時~午後8時) 042-696-1201

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2010年7月22日 (木曜日)

酒田市バラバラ殺人事件概要

 平成22年5月25日、新潟県村上市内山中でバラバラにされた遺体が発見された。
 この事件は酒田市内で兄弟間で発生、約70㎞離れた村上市葡萄の国道7号線側溝に遺体が遺棄され発覚する。そして、32歳の兄が容疑者として7月14日逮捕された。
 発生が郷里、そして兄が弟を殺害した事件でもあり衝撃を受けている。

 事件発覚後、約50日で犯人逮捕になり、関係者はホッとしているだろうが、狭い田舎のことであり、噂には尾ひれが付く。
 母親や親戚、友人らは心境いかばかりか。
 地域や親族で事前に防ぐ手立ては無かったのだろうか。
 それとも、地域社会に見放され、孤立した家庭は田舎でも増えた証なのか。

 遺体発見場所は、東京方面から新潟回りで酒田方面に向かう場合は必ず通行する場所でもあり、発覚当時から気になっていた。Photo_3
 犯人の絞り込みは、家出人捜索願や通称Nシステム、防犯カメラなどが決め手になったのであろう。
 既に公表されている情報に基づいて、概要をまとめてみた。
 郷里からは生々しい情報も入るが、これ以上は伏せる。

容疑者
  山形県酒田市錦町3丁目 雇用促進住宅錦町宿舎2号棟 
               アルバイト店員 土田崇(32歳)
被害者  
         同居の弟      無職 土田学(当時31歳)

逮捕容疑
 平成22年5月23日夕方ごろ、錦町の自宅で同居していた学さんとみられる遺体の首や両手首、両脚を切断し、同月25日午前2時ごろ、村上市蒲萄の国道7号脇の側溝内に捨てた疑い。殺人をほのめかす自供も始めたという。
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■家族は、母親(ドラッグストア)、兄(容疑者)、弟(無職)の三人暮らし。
  両親は容疑者が大学当時に離婚している。
 錦町3丁目には10数年前に酒田市住吉町から引っ越して来た。
 よって、小・中学は住吉町の学区内。
 ※↓のサイトには容疑者の中学当時の顔写真あり。
http://mytown.asahi.com/niigata/news.php?k_id=16000001007160003
■犯行動機は、殺害された弟の学さん(当時31歳)はうつ病を患っており自室に閉じこもりがちだった。また、「弟の母親への暴力をやめさせたかった」、「兄弟仲が悪かった」旨の供述をしている。
■弟の殺害や遺体の損壊は、母親が不在の際に行われたとみられ、殺害後、母親が弟の行方について尋ねた際は知らないふりをしたという。
■発見されていない頭部と両手首から先の部分は、7月20日、土田容疑者の供述に基づき新潟県内の新発田市の落堀川付近を捜索したが発見されていない。
■遺体の切断はのこぎりを使用したと供述しており、自宅からはのこぎり、包丁、ナイフが発見。自宅の風呂場からは血液の残留を示すルミノール反応が確認されている。
■容疑者は、2002年から市内のゲームセンターで清掃や機械の修理などのアルバイトをしていたが、事件発覚の5月25日以降も無断欠勤は無く変わった様子はなかった。
■容疑者は、市内の小~中学~高校を卒業し、新潟市内の大学にも進んだ。
 良く勉強の出来た学生だったという。

 追加情報
 弟を刺殺し、切断した遺体を新潟県内に捨てた酒田市錦町3丁目、無職の兄(33)に対し、新潟地裁は平成22年12月27日、殺人と死体損壊・遺棄の罪を認定し、懲役11年(求刑懲役18年)の実刑判決を言い渡した。
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  「村上市蒲萄地内における殺人・死体遺棄事件発覚当時の状況

1:事件の発覚 
 平成22年5月25日午前10時35分ごろ、新潟県村上市蒲萄の国道7号朝日トPhotoンネル付近において、車で通りがかった神奈川県内居住の男性会社員(58)が「蛇ノ沢洞門(じゃのさわどうもん)回転場」脇の側溝に、切断された人間の両足を発見し110番通報した。

2:現場付近の状況 
 発見現場は山形県境に近い山中の国道7号線と葡萄川が交差する付近で、周辺に住宅などはほとんどない。
 交通は自動車の交通量は多いものの歩行者の通行は全くない。側溝は、冬季に除雪車などがUターンできるよう道路東側に設けられたスペース「蛇ノ沢洞門回転場」の一番奥にあり、幅・深さ共に40センチメートルで水は殆ど流れていない。
 普段は車もあまり停まらない場所のようだ。http://portal.cyberjapan.jp/denshi/opencjapan.cgi?x=139.557875&y=38.401331&s=10000

3:遺体の発見状況 
  発見された両足はいずれもひざ付近で切断され、側溝に沿って平行にPhoto_5並んでいた。付近には布で包まれた男性の胴体部分であり同一の若い男性のものとみられ胸や腹などには複数の刺し傷があったが、頭部と両手首は発見されていない。

4:遺体の解剖結果 
 新潟大学医学部法医学教室において司法解剖の結果、胴体と両脚は同一の20~30歳前後の男性のもので、死因は胸や腹を刃物で刺されたことによる出血性ショックと認定した。
 男性の血液型はA型、身長は175~180センチメートルで、足のサイズは24・6センチメートル。死後3~5日経過したとみられる。
 刺し傷は体の前面に集中し、心臓や肺に達したものを含め心臓周辺Photo_6を中心に数カ所あったほか、左脇腹に1か所、胸に2か所、首付近に1か所あった。
 凶器は鋭利な刃物を使用して切断された可能性が高いという。胴体を包んでいた黄色の布には血液が付着しており、布の上からビニールひもで縛られていた。着衣などはなかった。入れ墨、手術痕、やけど、目立ったほくろ、注射の跡などはなし。

5:捜査方針等
○新潟県警は、死体遺棄並びに殺人容疑事件として、村上警察署に特別捜査本部を設置し刑事部長を捜査本部長として鋭意捜査を進める。
○現在、発見現場付近の住民や、現場を通行すると思われる運送会社などを中心に聞き込み捜査を実施中。
○被害者の発見されていない頭部と両手首の捜索や身元の特定を急ぐ。
○東北、北関東などの警察に家出人捜索願が出された男性からの身元確認を急ぐ。

6:その他
○頭部等の捜索
  男性の頭部や手首は別の場所に捨てられた可能性が高いことから、捜査員を70人に増員し、捜索範囲を現場から約20キロ離れた旧山北町の山形県境付近まで拡大し捜索を実施する。発見現場の蛇ノ沢洞門回転場と同様、道路脇で方向転換に使うスペースなどを重点的に捜索し、今後、海沿いまで範囲を広げる。
○関連情報
 新潟県村上市南町2丁目3−18
 村上警察署 特別捜査本部まで 電話0254-52-0110

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2010年7月21日 (水曜日)

起床合図は「足を見せろ!」

 昨日(7月20日)夕方のFM放送で面白いうんちくを披露していた。Flying8
 英国海軍の起床の合図は、「足を見せろ!」という話だった。

 かつて英国海軍では、「足を見せろ(Show a leg)」という号令が、起床の合図として使われたことがあったという。
 これは、帆船時代のある時期、水兵に夫人同伴を認めたことと関係がある。
 たとえ夫人同伴でも、勤務は平常どおり。水兵は決められた起床時間には起きなければならない。ただし、女性は別だったため、女性のふりをしてしらばくれて寝ている水兵もいた。そこで上官は、寝ているのが男か女か確かめるために「足を見せろ」と怒鳴って回ったわけだ。
 公認されて乗船している夫人は、支給されたストッキングをはくことに決められていた。
 だから、
 ハンモックから突きだされた足がむくつけき毛脛なら男、ストッキングをはいたふくよかな足なら女と簡単に判別できた。
 海軍の軍艦と言えば、女人禁制、男の世界といったイメージが強いが、こんなオツな計らいが通用した時代もあったという。
 
 因みに日本では、起床、食事、消灯はラッパで知らせるそうだ。
 起床は「総員起こし」と言い、替え歌も作られ、
 「朝だ~朝だ~みんな起きろ~♪起きなきゃ艦長さんに叱られる~♪」 

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2010年7月20日 (火曜日)

山形県の庄内海岸は拉致に深く関連

 「拉致問題」は、政治家は勿論、マスコミも国民も絶対に忘れてはならない。
 金賢姫元工作員の来日は、一見、拉致被害者家族会への支援の意味から意義深いと感じるものの、大韓航空機爆破事件の実行犯でPhoto_3もあり、来日に是非論がある。
 死刑囚を例外的に入国を認めた千葉法相、また、鳩山前首相の別荘を滞在場所にするなど民主党のパフォーマンスだけが目立つからだろう。
 それに、このようなことが拉致事件の解決に結びつくとは誰も思わないし、韓国政府に大きな借りを作ってまで、来日させる意義があるのか疑問がある。
 民主党にとっては、菅総理や千葉大臣が拉致実行犯の辛光洙の釈放を求める要望書に署名したこともあり、これを機会にイメージの挽回を図りたいのだろう。
 もし、どうしても逢わせたいなら、日本側が韓国に行けば簡単なことだ。
 民主党の足下は全部見られている。

 さて、拉致事件は、山形県庄内海岸も濃密に関連した場2_1所であることは地元の皆さんは、よもや忘れていないと思う。
 1984年に拉致被害者・山本美保さんの遺体が流れ着いたのは庄内海岸だった。

 庄内海岸に良く釣りに出かけたのは、昭和30年代後半からだった。
 しかし、その当時から北朝鮮の漁船そっくりの不審船が庄内海岸に出入りしている噂があった。釣りに出かけ夕方遅くなると、「北朝鮮から人さらいされるぞ」と注意されながら育ったものだ。人さらいが冗談ではないことは子供でも知っていたし、情報が少なかった田舎の人達も、日々の生活の現実問題として共産主義国家・北朝鮮の恐怖を感じながら生活していた。

 庄内海岸では、
  漁船の型をした不審船が、まるで高速船のように前を浮かせて、猛スピードで沖方向に立ち去るところを住民が目撃したり、西浜海岸の松林からスパイが隠したと思われる衣類やハングル文字の文書が見つかったこともあった。
 夜間には、沖合の不審船と灯火によるモールス信号で通信していた不審者がいたことも語られていたし、拉致事件という言葉が一般的で無かった当時から、海辺は「神隠し」に逢うと人々に怖れられていた。

2010730

 庄内地方の吹浦海岸辺りがスパイの上陸、あるいは脱出に便利なのは、海岸線に民家が殆どなく発見されにくいのだという。
 上陸地点として、海上から鳥海山を目標として向かうことが出来る。
 更に、吹浦駅が海岸近くにあることから、北朝鮮スパイが上陸して直ぐに駅に向かい、アジトが多い大阪や東京方面に直行出来る便利な地点だからという新聞記事が掲載された記憶がある。
 この記憶はほぼ間違いない。
 今思えば、地元民、マスコミ、警察、政治家らは、事情を皆知っていたのだ。
 事実、拉致と思われる事件も発生していた。
 それは、拉致被害者に認定されているかは知らないが、昭和40年代はじめ、海岸に近い村で23・4歳のある公務員が突然不明になった事件があった。
 父親は事情を知っていたので、拉致に間違いないと随分心配していた。
 このような話題を身近にして育ったら、とても北朝鮮を支持・支援する気持ちにならない。
 ところがだ。
 山形県庄内地方を地盤にしている自民党の実力者・加藤紘一議員の言動には、とても支持出来ないものがある。この方が保守系とは思えないものがある。
 北朝鮮から帰国した拉致被害者は、「北に返すべきだった」などの問題発言がその例だ。
 同氏は、北朝鮮と仲良くして日朝国交正常化の早期実現を指す「日朝国交正常化推進議員連盟」の顧問でもある。このあたりの感覚は、北朝鮮と親しいと言われる民主党の菅直人首相や社民の福島瑞穂代表らと価値観が同じなのだろう。
 同郷人として、恥ずかしいことと思っている
 同氏の経歴を見ると1954年(昭和29年)には麹町中学校に転校していることから、北朝鮮と海続きの危険は知らずに育ったのかも知れない。
 とにかく、改めるべきは改めて、拉致事件解決のために協力して欲しいものだ。
 それがダメなら、売国集団の民主や社民などの左翼側に行けばいい。

 日本に限らず、真の共産主義者正体を隠して保守の中で、共産化工作を行う輩が潜んでいると言われる。加藤氏は違うことを期待する。

 民主党の枝野幸男幹事長は、極左「革マル派幹部と覚書」報道に、7月20日「一般的な対応だ」と述べている。これが民主党の実態だ。

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日朝国交正常化推進議連盟 
 同議員連盟は、自民党の山崎拓元副総裁と公明党の東順治副代表、民主党の川上義博参院議員らが中心となって北朝鮮との交流を重視する議員を集めた超党派の議員連盟。2008年(平成20年)5月22日に設立総会を開き結成された。
  北朝鮮の核、ミサイル、拉致問題といった諸問題を解決するためには、日朝平壌宣言に基づき交渉を進めるべきとして、政府に働きかける一方、議連として訪朝するなどして、日朝国交正常化の早期実現を目指す。
 当初100名近い参加者を予定していたが、国民世論の反発によって参加を渋る代議士・議員も増え、実質的に70名余りの参加者に留まった。しかし、参加・表明こそしていないがこの考えに近い代議士、議員、元議員もいる。
 また、2008年自民党の加藤紘一元幹事長がテレビ番組で、北朝鮮から帰国した拉致被害者について「北に返すべきだった」などと発言 が問題となり、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」や被害当事者家族諸氏の神経を逆撫でする結果を招き激しい怒りを買った。

主な参加議員
会長:山崎拓(自民党、衆院議員、元副総裁)
顧問:加藤紘一(自民党、衆院議員、元党幹事長)
顧問:菅直人(民主党、衆院議員、党代表代行)
顧問:東順治(公明党、衆院議員、党副代表)
顧問:福島瑞穂(社民党、参院議員、党首)
顧問:亀井静香(国民新党、衆院議員、党代表代行)

副会長:衛藤征士郎(自民党、衆院議員、元防衛庁長官)
副会長:岩國哲人(民主党、衆院議員)
副会長:遠藤乙彦(公明党、衆院議員)
副会長:笠井亮(共産党、衆院議員)
副会長:又市征治(社民党、参院議員、副党首)
副会長:自見庄三郎(国民新党、衆院議員、党副代表)
事務局長:川上義博(民主党、参院議員)

幹事:中谷元(自民党、衆院議員、元防衛庁長官)
幹事:土肥隆一(民主党、衆院議員、元防衛庁長官)
幹事:山下芳生(共産党、参院議員)
幹事:山内徳信(社民党、参院議員)
会計監査:田野瀬良太郎(自民党、衆院議員)

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面白地名・無音(よばらず)

 山形県鶴岡市に、「無音」と書いて「よばらず」と読む地名がある。
 昨年5月、
 「鶴岡市無音(よばらず)で2009年5月24日、山形県猟友会鶴岡支部会員の50代男性がカラスを駆除するために発射した散弾が民家の窓の網戸を突き破り、台所にいた女子高校生(17歳)がけがをした事件で、散弾は田んぼの水面で跳弾し網戸を突き破ったとみられることが分かった。県猟友会有害鳥獣対策部が明らかにした」
 と新聞報道があった。
 このとき、「よばらず」と読む地名があることを、はじめて知った。

 「よばらず」は招かない交際しないの意味がある。
 地名の名付けは言葉遊び的に、「声を立てない」、「声をかけない」、そして「無音」と当て字されたのだろう。
 つまり、その村には「声をかけない村」、「近所付き合いの悪い村」を意味しているというのだが、自分たちの村をわざわざ「近所つきあいの悪い村」などと命名するだろうかと疑問が残る。
 ただ、村八分のことを調べた際、村八分は単に村内部だけのことではなく、村全体をもつまはじきにした例があったことを知った。

庄内地方の地名
 庄内地方の地名の由来を調べるのに便利だ。
 無音(よばらず)鶴岡市(藤島)
 『招(よ)ばらず。隣村との付き合いを好まなかった村』
 東栄の京田川左岸の村。よぶは招く、招待することで、よばらずは隣村との境を隔てて交際しないこと。よぶを呼ぶと解されて、よばわらずとも書かれた。
 無音はむおん、音をたてないことではなくて、ぶいんと読み、やはり交際しないことである。昔、羽黒山領で、他村と分け隔てがあったのであろう。
 とある。

酒田市の面白い地名
生石(おいし)、鵜渡川原(うどがわら)、柏谷沢(かしやざわ)、
古荒新田(こあらしんでん)、茨野新田(ばらのしんでん)、
遊摺部(ゆするべ)、四つ興野(よつごや)、注連石(すみいし)、
東風当田(だしあてだ)、輿休(おこやすみ)、注連石(すみいし)
こあら(旧・古荒新田)、局局(つぼねつぼね)、柏谷沢(かしやざわ)
砂越(さごし)

鶴岡市の面白い地名
五十川(いらがわ)、堅苔沢(かたのりざわ)、
葈畑(からむしばたけ)、我老林(がろうばやし)、三瀬(さんぜ)、
青龍寺(しょうりゅうじ)、
道形(どうがた)、手向(とうげ)、外内島(とのじま)、
新形町(にいがたまち)、茨新田(ばらしんでん)、
一日市通(ひといちどおり)、文下(ほうだし)、
矢馳(やばせ)、無音(よばらず)、早田(わさだ)
五十川俣(いそかわまた)、文下(ほうだし)、
朝暘町(ちょうようまち)、田圃興屋 (でんぽごうや)、
箕升新田(みますしんでん)、楪(ゆずりは)、手向 (とうげ)、
砂谷(いさごたに)、八ツ興屋(やつこうや)、押口(おさえぐち)
葈畑(からむしばたけ)

庄内町の面白い地名
廿六木(とどろき)、 主殿新田(とのもしんでん)

遊佐町の面白い地名
遊佐(ゆざ)、吹浦(ふくら)、女鹿(めが)、後藤寺田(ごとうじだ)、
直世(すぐせ)、落伏(おちふし)、舞台(ぶだい)

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速報、内閣支持率35%

 7月18日放送されたフジテレビ系報道番組「新報道2001」で、菅直人内閣支持率35%、不支持率53.4%と早くも危険水域に入った。
 臨時国会が始まれば、国民に醜態さらすことになり一層低下することだろう。

 昨日は、「総理経験者が長く議員にとどまるべきではない」などと、大見得を切って辞任した民主党・鳩山前首相が早くも翻意した。
 このような、未練がましい一貫性のなさが、民主党議員を代表している。

 そして「何一つ、まともな仕事が出来ない民主党政権」、
 「このままでは日本が沈没する」と国民もようやく気づきはじめた。
 支持率低迷は
■参議院選挙で敗北したのに誰も責任をとらない。
■落選した千葉法相を退任させないなど民意を尊重しない。
■あきれた詐欺用マニフェストの数々、
■ブレまくる政策(道路、教育、沖縄、公務員削減、国会議員削減等々)
 このような政権を支持する理由も聞きたいものだ。
 日本をダメにしたい「反日勢力」が支持しているのだろうか。
 こんな政権が長く続けば、確実に日本崩壊につながっていることは間違いない。
 衆議院で過半数を占める間は、国家解体の危険はまだまだ続くことになる。

Chousalogo

首都圏の成人男女500人を対象に電話調査
(7月15日調査・7月18日放送/フジテレビ)
あなたは菅内閣を支持しますか。支持する 35.0%

【問1】あなたは次の衆院選でどの党の候補に投票したいですか。

民主党 21.8%(↓) みんなの党 9.4%(↑)
自民党 17.2%(↑) たちあがれ日本 0.2%(―)
公明党 5.0%(↓) 新党改革 0.4%(↓)
共産党 1.8%(↓) 無所属・その他 0.8%
社民党 0.8%(↓) 棄権する 0.4%
国民新党 0.2%(↓) まだきめていない 41.8%
新党日本 0.2%(↑)
【問2】あなたは菅内閣を支持しますか。
支持する 35.0%
支持しない 53.4%
(その他・わからない) 11.6%
【問3】参院選で民主党が大敗。新たな連立の枠組みを模索する動きも出始めています。
あなたは、民主党はどの党との連立が望ましいと思いますか。
自民党 6.6% たちあがれ日本 1.0%
公明党 3.2% 新党日本 0.4%
共産党 1.6% 新党改革 0.0%
社民党 1.6% その他の政党 1.2%
みんなの党 14.6% 連立は組まず、政策ごとに部分連合する 51.2%
国民新党 2.2% その他・分からない 16.4%
【問4】 民主党の新たな連立パートナーとして名前の挙がっている、みんなの党や公明党は、連立入りに否定的な態度をとり続けています。あなたはどう思いますか。
評価する 55.8%
評価しない 34.4%
(その他・わからない) 9.8%
【問5】参院選の結果を受け、民主党の玄葉政調会長は、消費税増税を含めた税制改正の具体案について、「10年度中のとりまとめは困難」との認識を表明し、消費税論議が棚上げされる可能性も出てきました。
あなたはどう思いますか。
消費増税論議は進めるべき 58.8%
消費増税論議は棚上げするべき 36.0%
(その他・わからない) 5.2%

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2010年7月19日 (月曜日)

遊佐町の「刺し子」紹介

Photo_2

 エコ感覚が育てた山形県の「庄内刺し子」を紹介したい。

 昭和30年代のことだが、祖母が綿布の古着を集めては、良いところ切り取り2010719image重ねた布に一針ずつ刺し縫いして着物を作っていた。
 生地を丈夫にして長持ちさせたい思いが生み出した技法と聞く。
 幾何学的な文様になり派手になるが、何もそこまでしなくてもと子ども心に見ていた。

 この「刺し子」という技法が、なかなか風合いがあるものだと知ったのは、後に「総手刺しの剣道衣」を手に入れる話があってからだった。当然高額だったが、使えば使うほど味が出る。刺し子は一生物だ。

 さて、遊佐町の「刺し子」が「日本三大刺し子」の一つだという。
 最近では、「刺し子」とパッチワークを融合させPhoto_3た作品が、遊佐町吹浦の道の駅「ふらっと」などのお土産コーナーに置かれている。
 これを見ると、祖母が黙々と刺していたことを思い出す。

 「刺し子」の展示会が、19日付けの読売新聞に掲載されていた。平成22年7月19日(月)~7月22日(木)まで
  10:00~18:30 入場無料。
 “母の手の温もりにふれる東北の農民芸術の華展(刺し子)”とある。
 東京都千代田区有楽町2丁目10−1
 東京交通会館(有楽町駅から徒歩1分)で開かれる。 

東北農民の芸術「刺し子」19日から復元布織物など展示会
 古い布織物技術を復元する活動を行っている工房「出羽の噺砂」(山形県米沢市)が19日から22日まで、東京・有楽町の東京交通会館2階ギャラリーで、「東北の農民芸術の華展」を開催する。
 工房で復元した布織物など約200点を展示する=写真=。特に力を入れたのは、「刺し子」に関する資料。
 東北地方では、寒さを防ぎ、生地を丈夫にすることを目的に、木綿の糸で幾何学模様などを縫い込む刺し子の技術が発達した。模様の美しさや手仕事の温か
みがある刺し子は最近注目されており、若者にも人気となっている。
 3大刺し子と呼ばれる津軽こぎん刺し(青森)、南部蔵刺し(同)、庄内刺し子(山形)の明治から昭和初期にかけて作られた着物などを展示する。また、古い資料を参考にしながら復元された刺し子作品も展示、販売する。
 このほか、カラムシ織やゼンマイ織など、同工房が復元に取り組んでいる布織物やヤマブドウのツルで編まれたカゴなども展示されている。
 工房代表の山村幸夫さんは「刺し子は、女性が家族を思いながら針と糸で作り上げてきた庶民の芸術品。美しい手仕事の結晶を見に来てほしい」と話している。入場無料。
 問い合わせは、東京交通会館(03-3215-7962)へ。 

Photo

LLP(有限責任事業組合)遊佐刺し子ギルド 土門玲子
山形県飽海郡遊佐町遊佐字京田109-8
電話:0234-72-2238
http://www15.ocn.ne.jp/~itomaki/MyPage/frame_.html

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2010年7月18日 (日曜日)

庄内平野の「官道」はどこ?

 車での移動時は、各地の「道の駅」を利用する機会が多い。 Map_021
 2010年現在、全国に936箇所もあるという。
 「道の駅」には、その土地の情報が凝縮しているように思っている。この「駅」の歴史は古く、約1300年前の飛鳥時代まで遡る。

 大和朝廷が定めた律令制度によると、原則約16Kmごとに、宿泊・休憩・馬の乗り継ぎができる「駅」が作られた。そして、駅と駅をつなぐ道路を「官道」と呼んだという。 
 東北地方では、蝦夷が往来した古代の道路 「安倍道」を、「官道」として使ったらしい。
 当時の大和朝廷にとって、蝦夷対策として重要な城であった陸奥国府「多賀城」と出羽国府「城輪柵」を結ぶ「官道」の存在は「延喜式」に記載されている。
 
 この古代交通網「官道」は、庄内平野では正確な位置が判明していないらしい。Sakuat16
 ほぼ判明していることは「」名だけで、陸奥国府(現:多賀城市)→栖屋(すねや)駅(現:宮城郡利府町)→名取駅(現:名取市高館)→小野駅(現:柴田郡川崎町)→最上駅(現:山形市小白川町)→村山駅(現:東根市郡山)→野後駅(のじり)(現:大石田町駒籠)→避翼駅(さるばね)(現:船形町猿羽根)→佐芸駅(さき)(現:鮭川村真木辺り)→白谷駅(松山町成沢辺り)→飽海駅(現:平田町郡山、相沢川河口)→遊佐駅(現:遊佐、大楯)→象潟(きさかた)駅(現:象潟北) → そして秋田まで続くという。※「山形県の歴史」から

  酒田の砂越近くにあったとされる飽海駅(現:平田町郡山)は最上川右岸にあった。
 近くには、宝亀5年(774)に大和国飛鳥坐神社を勧請分祀したといわれる「飛鳥神社」もあり、信憑性が高い。
 この駅は、海路にも利用されていた「湊」だったらしく、新潟県村上市岩船の次の港は飽海駅で、最上川河口の潟湖(砂潟)の水駅だったという記録があるという。
 つまり当時は、今の砂越や飛鳥辺りまでは、潟湖(砂潟)だったということになる。

 本楯の「城輪柵」の場所は判明しているが、「遊佐駅」の場所は分かっていない。
 今のところ最有力は、月光川左岸の遊佐氏が拠点とした「大楯」辺りと推測する。
 隣には、「平津」という「」が付く「湊」を意味する地名も存在している。
 また、直ぐ北側の「舞台」という地名も気になる。
 「」が付く地名は海岸に近い高台で、地盤が良い場所を意味するという。
 
  話は戻るが、佐芸駅から飽海駅に抜ける官道に「与蔵峠」があるが、陸路ではこの峠を使って最上と庄内を往来していたことが推定されている。
 鮭を方言で「ヨウ」と言うが、これが語源との説もある。
 
 もし、庄内平野の官道が判明すれば、当時の「阿古の海」の広さも分かるだろう。現段階では、東側の山寄りの345号線沿いと想像するのが自然だ。この路線沿いには古い地名や神社仏閣が多く存在している。
 庄内町狩川駅の南側には「阿古屋」(あこや)という地名もある。
 片や平野地には、○○新田、○○興屋、○○曾根などの新しい地名が多い。
 官道や阿古の海のことは、
 考古学に携わる方には、是非、力を入れて調査して欲しいものだ。
 
 因みに東京都内の「官道」の駅は、乗潴(あまぬま)駅家(杉並区天沼付近)・豊島駅家(北区西ヶ原、御殿前遺跡=推定武蔵国豊島郡衙址)が確認されているという。

■鮭を方言で「ヨウ」と言う。(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%94%B5%E5%B3%A0
 与蔵峠は、もともと多賀城と城輪柵との間の連絡路の一つとして開削されたと推定され、最上地方と庄内地方を結ぶ古道として知られるが、専ら脇街道であり、歴史上メインルートであった時期はない。
 峠には「与蔵沼」があり、鬱蒼とした森の中に美しい湖面を湛えている。
 与蔵の名の語源は、昔、与蔵沼に夫婦とその子供与蔵が訪れた際、沼のヌシに断らずに勝手に魚をとって食べてしまったため、子供の姿が龍に変わってしまい、天に消えて行ったという当地に伝わる伝説によるものである。
 異説として、当地に息づく「鮭・鱒崇拝」の習俗から、鮭川村で鮭を表す方言「ヨウ」に語源を求める説もある。
■等高線がある地図「地図閲覧サービス

庄内地方の地名
 庄内地方の地名の由来を調べるのに便利だ。

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飽海駅があったとされる辺り

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面白地名「飽海」は阿古の海

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 酒田市松山地区(旧松山町)の、「眺海の森」に立つと庄内平野を一望ができるが、最上川の流れとともに、かつて、平野は海だったことをイメージできる。
 事実、最上川や月光川の河口に近い平野部は近年まで湿地帯だった。

 庄内平野北部を「飽海(あくみ)郡」という。Map_021
 以前は、遊佐町・八幡町・松山町・平田町が飽海郡だったが、三町は平成17年酒田市に合併し、今は遊佐町だけとなった。
 飽海は、「阿古の海(アコノウミ)」」が転じたといわれる。
 この根拠は、「秋田県由利郡には、飽海郡に阿古之入江と称する南北二十里江海があり、阿久美(後世:飽海)の名称は、之から起こったという」所伝もあるという(日向川水害予防組合「日向川史」)。

 庄内平野は南北約100㎞、東西約40㎞、殆どが標高20m以下の平坦地だが全般に地盤が弱い地域だ。
 平野面積は約53,000ヘクタール、内37,400ヘクタールが水田。平野は「扇状地」といって、最上川の河口に開けた平野部からなっている。
  地盤が弱いのは、庄内平野に今も流れる最上川や日向川、月光川などの河川が運ぶ大量の土砂が堆積して出来た土地だからで、このような平野を沖積平野と呼ばれている。 
 酒田は昔の文献に「砂潟」と書かれているが、日本海側では、「象潟」、「新潟」、「八郎潟」「十三潟」などが、この同例であろう。

 また、庄内平野は数千年前まで海だったが、次第に陸地になり、堆積物も泥質から砂質に変わってきたことが地質調査で判明している。
 しかし、陸地になるまでには長い歳月を要した。20107

 概ね2千年前から徐々に陸地になってきたと見られるが、弥生、古墳、平安時代に何処まで海だったかは不明だが、大小の湖沼群の存在が推定されている。
 その湖沼群は河川に繋がっており、大洪水があると庄内平野の大部分が長期間水没したという。事実、最上川の酒田付近には、東禅寺沼など近年まで、幾つかの沼が存在していた。 
Image0032
  庄内地方の古い伝承にも、「阿古の海」と呼ばれた巨大な内海があったと伝えられている。
 庄内町狩川駅の南側には「阿古屋」という地名もある。
 つまり庄内は、のような状態、あるいは潟湖(せきこ)のようなものが想像される。
 
 庄内平野の北部を飽海(アクウミ→アクミ)郡と言うが、これは阿古の海(アコノウミ)が転じたと言われる。
 そう言われれば、最上川両岸は、随分と海抜の低い土地のようだ。
  それから、その内海には島があったとも伝えられている。
  
 地名にも、蕨岡、藤島、米島、楸島、平津、海老島、豊岡、飛鳥(あすか)、郡山、等、島や丘、或いは湊だったと思われる地名が存在するがヒントになりそうだ。
 古来、「」は「湊」を現す地名と言われる。
 庄内町に「添津」という地名があるが、庄内海岸に「」の付く地名はないのに、庄内平野東側の山寄りに何カ所か見られる。

 「地名は土地の履歴書」と言われるが、これらを整理したら面白いことが分かりそうだ。
 また、蝦夷が往来したというい古代の道路を、律令国家になると「官道」として使ったというが、この「官道」は庄内平野ではまだ判明していないという。

 このような知識で、遠い過去の庄内平野の姿を想像するのも面白い。
 
■等高線がある地図「地図閲覧サービス

庄内地方の地名
 庄内地方の地名の由来を調べるのに便利だ。

■この情報は「最上川河口史」から
http://www3.ic-net.or.jp/~shida-n/b_tokita/b_tokita.html

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■鳥海山から庄内平野を見下ろす

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2010年7月17日 (土曜日)

今の庄内に欲しい人材

 麻生太郎元首相は、三島通庸の孫の孫に当たる。
 三島通庸の次女峰子は大久保の次男・牧野信顕伯爵に嫁ぎ、2人をもうけた雪子が嫁いだのは吉田茂だった。

 さて、鶴岡市致道博物館に移築されている「旧鶴岡警察署」の建物が、国の重要文化財に指定される運びになった。おめでたい話だ。O1
 すでに、旧東田川郡役所は指定されているが、これらの建物はいずれも、1874年(明治7年)に酒田県令に就任した三島通庸(みちつね)が明治新政府の権威を示すため、鶴岡 の大工棟梁・高橋兼吉(かねきち)に明治14年に建築させた擬似洋風の建物だ。
  三島通庸は、西郷隆盛の弟・西郷従道とは竹馬の友、大久保利通とは同志、後に「土木県令」「鬼県令」などと呼ばれ、最期は警視総監として没した豪腕の人であった。それでは、何故、新政府はこのような人材を庄内に送り込Nisima1んだのであろうか。

 それは当時の庄内の政治情勢にあった。鹿児島の西郷隆盛が明治10年の西南戦争で斃れる迄、三島県令の頭を悩ましたのは、庄内藩士族の動向であった。菅実秀(すげ・さねひで)ら庄内藩士族は西郷に傾倒する者が多く、鹿児島の西郷の元に庄内士族が数多く訪れて教えを乞うていた。また、ワッパ騒動と呼ばれる農民の抗議運動対策もあった。このような現状に、三島県令は薩摩人6人を従えて、着任して早々から次々と手を打った。弾圧ともとれる強い姿勢と、中央政府とのアクセスづくり、今で言うインフラの整備に力を注いだ。

 明治4年の版籍奉還で庄内藩は「大泉藩」と改称、明治4年7月廃藩置県が断行され「大泉県」となり、庄内藩は消滅し、大参事に松平権十郎、権大参事に菅実秀が任命された。同4年7月大泉藩は「酒田県」と改称し、三島が明治7年に酒田県令に就任すると、松平権十郎と菅実秀は退任する。三島が着任した翌年の明治8年に「鶴岡県」になり、さらに、山形県・置賜県と合併して「山形県」は現在の形となると、三島県令は新たに合併した鶴岡・山形県の県令に就任する。

 いよいよ、山形県は三島県令の独壇場となる。政策の中心は、道路や橋の整備と公共施設の建築であった。江戸当時の庄内や山形地域は、日本海と最上川を経由する舟運により京都・大坂と強く結びついていた。しかし、明治に入ると陸運が重視され、東京までの交通整備が急務とされた。つまり、地方と中央と直結させる手段としての道路整備であり、公共施設、箱物建築による行政基盤の整備に力を入れた。P1

  このような、明治新政府の権威を示す政策の一環から、西田川郡役所、鶴岡警察署などを洋風で建てたが、これを請け負ったのは、庄内藩御用大工・高橋兼吉であった。兼吉は1845年12月22日、鶴岡の代々大工の家に生まれた。大工を志し、東京で洋風建築を学んだといわれ、明治8年松ケ岡の蚕室を設計・施工、以後、旧西田川郡役所、旧清川学校、旧鶴岡警察署、同署大山分署、旧東田川郡役所、旧西田川郡会議事堂などの洋風建築だけでなく、荘内神社の社殿、湯田川の由豆佐売神社、善宝寺の五重塔など寺社建築も手掛け、庄内を代表する建築家と称えられた。明治27年7月5日50歳で没した。
 一方、三島通庸は1835年(天保6年)6月26日生まれで、1888年(明治21年)10月23日、警視総監在任中に53歳で死去している。警視総監在任中に死去したのは三島だけだ。

 明治初期、三島が県令として残した実績はあまりにも大きい。今の庄内に必要な人材は、三島通庸(みしまみちつね)http://www.touhoku.com/00x-50om-kaihatu-05.htm や高橋兼吉のような人ではなかろうか。将来をシッカリ見据えたいい仕事をしている。(単に道路や箱物を作ればいいという意味ではない)

庄内地方の重要文化財〔建物〕
■羽黒山正善院黄金堂  羽黒山正善院■水上八幡神社本殿  水上八幡神社 ■旧西田川郡役所  ■旧渋谷家住宅  ■羽黒山三神合祭殿及び鐘楼  ■月山神社出羽神社湯殿山神社摂社月山出羽湯殿山三神社社殿(旧日月寺本堂) ■旧風間家住宅 ■旧青山家住宅 ■金峯神社本殿        下の地図は、鶴岡市致道博物館付近

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「ニラの花」に目がない!

 「ニラの花」の食べごろは短い。0_es
 地域にもよるだろうが、せいぜい7月中と思う。
 東京にいては、余程タイミングが合わないと食べることは出来ない。

 7月上旬山形に帰省した。
 途中、尾花沢の道の駅に立ち寄ったところ、「ニラの花」が5束程置いてあったので買い占め、妻の実家で、その日のうちに食べる。
 翌日、酒田市の山居倉庫隣の道の駅に行ったところ、6束あった。店員に確認したところ、「今年はじめて出たばかりだ」と言う。
 吹浦の道の駅でも同様だった。
 この辺りはスーパーより、生産者から直接運ばれる「道の駅」の方が、地の物が早く出回る地域のようだ。
 東京に戻る日は、まず朝9時開店の吹浦の道の駅に、次は10時開店の山居倉庫隣の道の駅で合わせて20束ほど購入して来た。
 それ位、家族全員が「ニラの花」に目がない。S_1

  「ニラの花」は「花ニラ」と呼ぶ地域もあるそうだ。
 ひょろひょっと細長く伸びた茎の先端に花が咲くが、右の写真のように蕾みのうちに茎ごと食べることが出来る。
 ニラ一株から数本しか採れない。
 子どもの頃は、良く畑に採りに行かされたが、一本一本採るのが面倒だったが、食べたい一心で我慢して採りにいったものだ。

 我が家では「おひたし」で、ショウガ醤油をかけて食べるが、普通のニラよりも、シャキシャキした食感があって、甘みと香りがほど良い。 

  今回は、かなり持ち帰ったが数日で無くなったので、都内でも売ってないかと探すがまだ見つかっていない。東京の人は食べる習慣がないのだろうか。
 行き付けの八百屋には、
 「市場に置いてあったらお願い」と頼んだというが、果たして購入出来るかどうか。

■「多摩湖畔日誌」英訳
 

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「鳥刺し」遊佐町のロケ地は

Photo

新宿バルト9で、映画「必死剣鳥刺し」を観てきた。Image_1
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-a662.html

 予想通り、映画には見覚えのある風景が多く映された。
 つい、連れに「ここ分かるか」などと、小声で言う。
 それくらい「鳥刺し」には、山形県遊佐町のある地域がバックに映されていた。スタッフはいい場所を見つけるものだと感心している。

 ただ、映画「おくりびと」では、直ぐ「月光川の朝日橋」と分かったが、「鳥刺し」では具体的に指示できないもどかしさがある。
 このような映画鑑賞が、邪道であることは分かっている
 しかし、映画を観ながらこんな会話が出来ることは、別の意味で楽しいものだ。

 この書き出しが、意味不明の皆さんには、若干の説明がいる。
 山形県鶴岡市羽黒町の月山麓に「庄内映画村」http://www.s-eigamura.jp/が作られ約10年になる。
 この映画村は、藤沢周平原作の「たそがれ清兵衛」、「隠し剣鬼の爪」、「蝉しぐれ」、「武士の一分」、「山桜」、「花のあと」、そして、アカデミー賞を受賞した「おくりびと」、また現在公開中の「鳥刺し」、「座頭市 THE LAST」などの数々の撮影に協力していることから、庄内地方の至る所が撮影舞台となった。

 今回の「必死剣鳥刺し」は、鶴岡市の「旧風間家住宅丙申堂」や「庄内映画村オープンセット」のほか、遊佐町界隈でもロケをしていると情報で知っていた。

 映画を観て「遊佐町野沢」辺りということは、映画に写る鳥海山の角度から分かるが、その撮影地点をズバリと示すことが出来ない。
 家屋などの目標になる人工物を撮影しないようにするカメラ位置が上手だ。

 きっと映画を観た地元の皆さんは、撮影場所探しをする人もいるだろうが、これらの情報で比較的簡単と思う。
 兼見三左ェ門の家族が憩う場所では、小さな祠も出るが野沢近くの「十一観音」と思うが断言できない。
 やや、映画の内容に触れるが、細い竹竿の先端に鳥もちを付けて、鳥を捕獲することを「鳥刺し」というが、兼見三左エ門(豊川悦司)がその技を子供達に見せる場所もこの辺りだ。「鳥刺し」のことをちゃんと知っている藤沢周平、そして監督や脚本家だからこそ、その技を剣の奥義として三左エ門(豊川悦司)を通して見せることが出来たということだろう。唯一この場面で、最後の殺陣で見せる「鳥刺し」の技を想像することができる。
 なお、この「鳥刺し」の技は琉球古武術で伝承されているという。

  再度、撮影地点のことだが、
 鳥海山麓の杉の木が伐採されて禿げ山になっているところが目標だM_1
 この禿げている場所は、遠くからも目立っている。
 これが見える角度で、正確な位置が分かると思う。
 「鳥刺し」の撮影場所も、
 映画「おくりびと」でチェロを弾いた場所のように、名所になることを期待しているが、祠などを荒らすことのないように願いたいものだ。
 朝日橋では、チェロを弾いたときの椅子が壊されたと聞いている。

 これらの情報、間違えていたらご指摘下さい。

■映画の感想は、このサイトにお任せする。
 『必死剣 鳥刺し』の作法とは
  http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-134.html

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地図閲覧サービス 2万5千分1地形図http://portal.cyberjapan.jp/denshi/opencjapan.cgi?x=139.90625&y=38.9375&s=10000
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2010年7月16日 (金曜日)

本楯の『善治日記の世界』

 山形県、特に庄内地方の皆さんはGoto_
 42年間の農民の記録『善治日記』をご存じだろうか。
  日誌を書いた後藤善治(旧姓伊藤)は、飽海郡本楯村大字豊原(現・酒田市本楯)の農家、伊藤巳之助(家号勘助)の二男として明治11(1878)年に生まれ、同じ村の後藤丹蔵家に婿養子に入った。http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp209.html

 日記は明治26年15歳から書き始め、1日も休まずに昭和9年まで42年間の長期にわたって書き綴っている。
 農作業や天候のことが中心だが、貴重な資料を残して昭和13年に60歳で亡くなった。

 横山昭男著「最上川と羽州浜街道」の207頁から211頁に
 「地域に生きる」『善治日記の世界』というテーマで紹介されている。
 文中には、親戚筋の名が幾度も記されている。
 そのまま引用し紹介させて頂く。 Toyoharai_mage0145_2

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 善治は、1878(明治11年月、豊原村伊藤巳之助(家号勘助)の二男として生まれる。勘助家は、豊富な家族労働に支えられ徐々に耕作地を拡大したが、明治 20年代に危機に直面する。
 負債の肩替わりや長兄の農作業従事不能による労働力構成の弱体化が原因であった。これは善治の高等科中退22歳)による労働力への転化と兄の就職(小学校訓導)、そして結婚による兄嫁労働の確保などによって乗り切り、以後兼業化による安定的経営へと向う。
 善治が作助家、市十郎家、丹蔵家の年雇510__3の若勢となる時期と重なっている。
 若勢の仕事は、冬の橇による肥引き、春の田打・田砕・田植え・草取り、秋の稲刈り、庭仕事が12月までつづく。ほかに、夏の馬草刈り・畠仕事、年間を通して藁仕事や馬の物切りなどがあった。これらの仕事も、大正期の耕地整理や化学肥料の普及によって、労働力配分が変わっていく。若勢は、雇用先の農事に従うだけでなく、若勢連中をつくり、江戸期から祝日のほか定休日を設けたりした。若勢宿で俵編みなどの共同作業や世間話をして情報交換する、若勢だけの世界を形成していた。
 1898年(明治31)年12月に善治が21歳で三軒目の若勢となった後藤丹蔵家は、大百姓多右衛門家の三男が分家独立した家で、二代目与蔵の代となり上昇しつつある新興農家であった。
 与蔵は婿養子として初代の成果を受け継ぎ、米の買い出しなどによる蓄積をもとに零細農から年雇(若勢)をかかえる経営までのしあがった。
 善治は若勢奉公を7年つづけたあと、1905(明治38)年、後藤与蔵の婿養子(二女吉江と結婚)となった。
 与蔵は穀物商酒類兼業の主役を善治に譲渡したが、実子次郎への家督を予想した思惑だろう。しかし1919(大正8)年の国鉄羽越締本楯駅開設による酒田商人の商圏拡大のなかで、1920(大正9)年酒類販売業廃業、米の買出しも縄の仲買いも廃業、丹蔵家は専業農家へ転進する。1925年(大正14)年善治のあとを次郎が継ぐという合意のうえ、与蔵の隠居、善治の家督相続となる。
 「善治日誌」は、明治農法の導入と定着の過程をあとづけている。
 善治が日誌をつけはじめる1893(明治26)年前後は、明治農法が庄内平野で本格的に開始される時期である。農法の軸をなす耕転整地過程の変化と稲乾燥過程の変遷が、生家勘助家、作助家、市十郎家、丹蔵家の場合と順次にわかる。微妙に変化する用語に新農法の導入と定着をみることができる。
 人力耕起にかわる馬耕は、労働生産性の飛躍的発展をもたらした。馬耕は、砕上、整地過程を含む犂耕体系であり、この過程の精緻化が労働生産力の発展をかなり相殺し、むしろ上地生産性、反あたり収量追求をめざし、稲作作業総体としては労働強化となった。ここにこの農法の限界があった。
 すなわち、
 丹蔵家の例から、明治30年代は馬耕の体系としての犂耕化の過程、より強められた稲作労働体系の構築過程であり、その完成を大正初期の耕地整理の展開と「ウネシキ」(畝立て)にみることができる。
 稲の乾燥過程は、乾田化をただちに馬耕導入に結びつけられないが、農民が「米商品生産者」として成長していく過程でもあり、畔立てから、畔立て・杭掛け併用、生掛け乾燥へと移行する。すなわち、地主制の仲長のもとで、地主・米穀商主導の米質改良のための稲の乾燥促進との関連で乾出化を試行した。
 この乾田化とその後の馬耕の体系化・普及は、生産力発展と小作米余剰、農民の取分の増加となった。農民運動の発展によって小作料率が低下すると、いかに有利に米を商品化するかという農民が多くなった。
 明治農法は、「稲乾燥準則」や「山形県移出米検査規則」などの強制だけでは定着しなかったこと、またその実際とのズレを「善治日誌」は語っている。
  --------------------------引用終わり
■「多摩湖畔日誌」英訳

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庄内平野の「郷野目堰」

 山形県酒田市上野曾根郷野目端を「郷野目堰(せき)」が今も流れている。Image0032_2
 庄内平野には、縦横無尽に灌漑用水の「堰」が流れているが、記録上この「郷野目堰」が一番古いとされる。
 至徳元(1384)年に開削されたというから古い。
 この辺りは、妻の実家や母の生家、親戚も数件あって、比較的詳しい。

  庄内平野の開墾は、712年に「出羽の国」が置かれた以降、柵戸と呼ばれる開拓者が入植し開墾が進められたという。当時は、比較的用水の確保しやすい沢や沼地周辺が水田として拓かれた。
 その後、灌漑用水の開削と治水が発達し、徐々に新田が拓かれてきた歴史がある。
 庄内平野の本格的開発は、江戸時代初期・最上義光の時代(1601~1622)に新田開発推進策によって、長大な用水堰が開削され多くの新田が開発された歴史がある。

 庄内平野の地名には、○○曾根京田新田○○新田、○○興野など新田開発に関連した名が多い。

 酒田市北平田に、漆曾根、中野曾根、牧曾根、曾根田、上曾根と痩せ地を意味する曾根の地名が残る。例えば漆曾根は『ウルシが植えられた石混じりの痩せ地』ということであろう。
 このような痩せた土地を、豊饒の海に変えたのが「郷野目堰」がはじまりと言える。この「堰」は、荒瀬川の観音寺一条辺りから分水し、城輪柵跡や新田目城近くを西流している。

 横山昭男著「最上川と羽州浜街道」によると、
 郷野目堰は南北朝時代の至徳元(1384)年、奉行「けんとう太郎」が郡中の人夫を動員し、自然堤防上に西流する堰を掘り荒地をおこし田畑とした。この堰は平安時代の出羽国府に比定される城輪柵跡や、同時代末期の出羽国留守所に比定される新田目城跡近くを西流し、中世には荒廃した旧出羽国府周辺を潤し、政所・安田・上曾根・中野曾根・漆曾根・牧曾根などの田畑を開拓するもとになった。510__4
 「けんとう太郎」は、安田に居屋敷を構える土豪で「安田殿」とも称した。安田殿は開発した新田を一条八幡宮に寄進し、武門の繁栄と五穀豊穣を祈願した。一条八幡宮は土豪の崇敬あつく、四季折々の祭礼には多くの信者でにぎわった。 一条八幡宮は土豪の崇敬あつく、四季折々の祭礼には多くの信者でにぎわった。
 近世初期には、堰の大幅な改修がおこなわれ郷野目堰周辺の集落は、元和九(1623)年の検地で大幅な村高の増加をみた。
 郷野目堰の開削が功を奏したのは、安田殿が堰を開削するのに必要な多くの農民を動員するだけの力量があったことによるもので、のちに曾根集落とよばれる地域の骨格は、このようにして成立した。
 とある。

Photo

新田開発の背景
 戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、各大名が国力(石高)を高めるため競うように米の増産や農地開拓に取り組んだ。しかし、食糧が増産され生活が安定すると人口は増加し、食糧が不足する結果になった。
 江戸時代の新田開発は、主食とする米が緊急に必要になった裏事情があった。

江戸の新田開発
 江戸初期から、五日市街道沿いに掘削された玉川上水の両岸が主だった。
 「五日市街道」の両側は、江戸初期から「田端新田」「大宮前新田」「中高井戸新田」「松庵新田」吉祥寺新田」「西久保新田」「関前新田」「保谷新田」「小金井新田」「砂川新田」などと村々が形成された。
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-1a22.html

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2010年7月14日 (水曜日)

宮崎県の「種牛」は何故大切?

 宮崎県の口蹄疫で、「スーパー種牛」の殺処分を巡り意見が分かれる。
 しかし、何故、ここまで意見が分かれるかの報道がない。

 国内の多くの「ブランド牛」の子牛は、宮崎県の「スーパー種牛」から生まれていることをお知らせしたい。
 例えば、松坂牛の約4割は宮崎県の「スーパー種牛」から産まれた子牛を買い付け、それを松坂で数年かけて独自の方法で育てたから「松坂牛」と呼ぶのだという。
 つまり、宮崎県の口蹄疫問題は日本のブランド牛全体の危機だ。

 さて、民主党の対応が遅れて拡散した口蹄疫問題だが、参議選も終了するとマスコミの報道も戻ってきた。正直なものだ。
 7月13日、
 東国原英夫知事:「移動・搬出制限を県独自で解除する可能性もある」
 山田正彦農相:「殺処分の代執行も辞さない」。
 口蹄疫問題で、民間種牛6頭の取り扱いを巡る「トップ会談」は、双方が従来の主張を繰り返すのみで、完全な物別れに終わった。
 この、民間種牛をどう扱うかは、地元農家の意見も割れている。
 高鍋町で三共種畜牧場を経営する薦田長久さん(72)は、宮崎県内唯一の種牛飼育者で、「種牛は県家畜改良事業団の種牛より原種に近く、子牛生産に欠かせない優れた母牛を生む」という。
 関係者は「和牛生産には種牛だけでなく母牛も重要。薦田さんの種牛を残してもらえれば、宮崎の畜産の復興は早くなる」と話す。

 果たして超法規措置はとられるのか。それとも全滅させるのか。

■以下の「ブランド牛」の子牛は、
 多くが宮崎県の「スーパー種牛」から生まれている。
○宮崎県=宮崎牛
○佐賀県=佐賀牛、伊万里牛
○三重県=松坂牛(子牛の4割は宮崎産といわれる)
○鹿児島県=鹿児島黒牛
○長野県=信州和牛
○長崎牛=五島牛、壱岐牛
○京都府=丹波牛
○滋賀県=近江牛
○茨城県=常陸牛
○兵庫県=神戸牛、但馬牛
○徳島県=阿波牛
○静岡県=静岡育ち

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民主敗北は消費税だけではない

 7月12・13日の調査で、内閣支持率は36%に急落したことが発Canvas_2表された。参議院選挙直後の調査であるから、一番民意が反映されている数値だろう。
  
 さて、民主党の負けは「消費税を提案したから」と、関係者の言い訳が多すぎる。「それだけでない。民主党の嘘つき体質が原因だ」と言いたい。
 なのに、原点から検証する姿勢が全く感じられない。

 「高速道路は無料化にする」、「子供手当ては直ぐ36000円支給する」、「財源は無駄を省けば10兆、20兆円簡単だ」などと、平然とテレビなどで公言していたことを国民は忘れない。
 一体幾つ嘘を並べれば気が済むのだ
 いざ予算を組む段になると、「景気が低迷している」、「マニフェストは衆議院の任期中に守ればいい」かのような誤魔化しの答弁に変わった。
 「10兆、20兆円簡単だ」と公言した事業仕分けも、約7千億円と中途半端。
 大見得切った「普天間基地は県外移転」も結局は自民案に戻る。
 赤松大臣は口蹄疫よりも「キューバのカストロ会談」を重視した。
 菅総理の「消費税はマニフェストと思っていただいていい」が、「まず議論を始めることだ」と変化させる。
 国民は民主党の誰の言葉を信じればいいのだ
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■法案は、国民よりも外国人を優遇する日本滅亡につながるような政策ばかりだ。
1:永住外国人地方参政権付与法案、
2:人権侵害救済法案、
3:靖国に代わる国立追悼施設の設置、
4:夫婦別姓案、
5:国会図書館法の改正案(恒久平和調査室の設置)

■民主党の支持母体を見れば、日本を敵視する怖ろしい団体ばかりだ。
1:部落解放同盟(解同)
2:在日本大韓民国民団(民団)
3:日本教職員組合(日教組)
4:日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)
5:在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)
 このような団体から支援された民主党議員のトップだった愚かな前首相、既に無能ぶりを見せる現首相、汚れたカネまみれの小沢元幹事長、激派テロ組織連合赤軍出身の千葉法務大臣等々、挙げればキリがないほどの問題が多い政党であることに国民は気づいた。

 当ブログでは「45議席以内」と予測したが、本音を言うと「よく44議席も取れた」と思っている。次は3年以内、いや早ければ年内にも予測される衆議院議員総選挙で民主党の議席を半減させることが目標だ。
 そして、日本を大切にする親日本派議員による二大政党の誕生を期待する。

内閣支持36%に急落、不支持52%、共同通信世論調査7.13
 共同通信社が参院選を受け12、13両日に実施した全国緊急電話世論調査で、菅内閣の支持率は36・3%と発足直後の前回6月調査61・5%から急落した。不支持率は52・2%に上った。
 首相の進退について「辞めるべきだ」との回答は15・2%の少数にとどまり「辞めなくてよい」が52・8%。財政再建や社会保障のための消費税率引き上げには「賛成」と「どちらかといえば賛成」を合わせた回答は52・5%と過半数だった。
 与党が過半数割れした参院選の結果に関しては「よかった」が29・4%で「よくなかった」の19・8%を上回った。「どちらともいえない」は49・2%を占めた。 政党支持率は民主党が31・7%、自民党が27・6%、みんなの党は16・3%だった。

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2010年7月13日 (火曜日)

参議選・タレント候補の当落

 いわゆるタレント候補にとっては参議選は厳しい結果となった。
 タレント候補として当選したと認められるのは、自民の女優三原じゅん子氏(比例区)ただ一人。
 スポーツ界からは、秋田県選挙区の元野球選手・石井浩郎氏、女子柔道金メダリストの谷亮子氏(34)ら数人にとどまった。
 特に、民主党から出馬したタレント候補が相次いで落選したことが目立つ。
 これなら次回からは、タレント達も二の足を踏むことだろう。 
 
自民党
・比例区~Photo_2happy01三原じゅん子
        神取 忍
・地方区~happy01石井浩郎       、
        田島みわ(麻生真宮子)、
        堀内恒夫        
民主党
・比例区~happy01谷亮子、
       happy01有田芳生、
        池谷幸雄、
        立入勉三(桂きん枝)、
        庄野真代、
        岡崎友紀子(岡崎友紀)           
・地方区~ 酒井芳枝(岡部まり)、
        長塚智広、
        原田大二郎
国民新党
・比例区~西村修(プロレスラー)
       敏いとう、
       江本孟紀
立ち上がれ日本
・比例区~中畑清、
みんなの党
・比例区~真山勇一
・地方区~河合純一氏(静岡選挙区)パラリンピック競泳金メダリスト

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読売新聞の気になる鳥海山写真

 読売新聞に掲載された鳥海山の写真が気になった。 201710

 2010年7月10日付け読売新聞の13版に、「五郎ワールド」という読売新聞特別編集委員、橋本五郎氏のコラムが掲載されている。
 きっと全国版と思う。
 10日の記事は、“「死の成熟」を共有する”がテーマで、6月30日90歳で亡くなった近藤道生さんと、今年4月21日亡くなった多田富雄さんのことが紹介されていた。
 失礼ながらお二人とも良くは存じ上げていない方々だが、背景に使用していた庄内平野の遊佐町辺りから撮影した鳥海山の写真が目に止まった。

 この鳥海山の構図は見慣れた方角で撮影地点まで指示できそうだ。
  同氏らと、何らかの関連があるのではと内容をつぶさに読むが、鳥海山のことは勿論、山形県や遊佐町、或いは酒田市のことなど一言も出てこない。
 著名な方の写真のバックに、このような写真があれば、この地域Image0029_1になんらかの縁のある方と思うのが当然と思うのだが、読売新聞や橋本五郎氏の意図が分からずにいる。

 もし、このような理由があるとご存じの方がおられたら教わりたいものだ。0_1_2

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2010年7月12日 (月曜日)

人間社会の「振り子の法則」

 「振り子の法則」は、人間社会にも当てはまると思っている。
 このような、いい話が簡潔にまとめられた小冊子を紹介します。

 「職場の教養」7月9日より
  職場の教養は社団法人「倫理研究所」の月刊誌です。
   http://www.rinri-jpn.or.jp/index-s.html
------------------------------
■『振り子の法則
 振り子は左に振れただけ、同じように右にも振れます。
 この現象を「振り子の法則」といいますが、この法則は人間の世界にも当てはまります。
 人を嫌えば嫌われ、威張っていると威張られてしまいます。Pendulum与えれば与えられ、親切にすれば、親切が返ってきます。自分の行為・行動が、そのまま自分の方へ戻ってくるのです。
 こうした「振り子の法則」を最もよく実感できるのが、自分自身がピンチに直面した時です。困った時や苦しい時に、親身になって相談に乗ってくれ、手を差し延べてくれる人と出会えるかどうかが、じつは私たちの人生を支えています。
 ここが運・不運の分かれ道であり、人生のターニングポイントとなります。
 人を助けたことも人に尽くしたこともない利己的な人のところに、どうして「正義の味方」が現われてくれるでしょうか。
 〈情けは人のためならず〉です。
 過去の善い行いが巡り巡って、現在の喜びとなります。
 今の言動に正比例して、明日の幸せが与えられると心しましょう。
 今日の心がけ……『善い行いをしましょう』
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勇気を与える言葉
 経理部に所属しているA子さんは、新入社員の頃、伝票の記載間違いや、電話のやり取りで行き違いが多く、自信を失いかけていました。
 しかし、先輩であるB子さんの言葉が、A子さんに勇気を与えてくれました。
 ある朝、職場全員の机を拭くために、流しでバケツに水を汲んでいると、出社してきたB子さんに、「A子さんは誰よりも早く来て掃除をするし、ゴミが落ちているとサッと拾うし、いつも感心しているわよ」と言われたのです。
 思いがけないB子さんの言葉に、A子さんの心に灯りが灯り、<自分のことを認めてくれる人がいる。一生懸命働こう>と気持ちを新たにできたのです。
 入社5年目の今、A子さんは、努めて後輩の良いところをを見つけて、伝えるようにしています。「自分では気づかなかった私の良いところを教えてくれたB子さん。美点を発見する彼女の心を受け継いでいます」とA子さんは言います。
 人は誰しも、認められるうれしいものです。職場において、「よし頑張ろう」という気持ちになるような言葉を、周囲の人にかけていきましょう。
 今日の心がけ…人の美点を見つけて伝えましょう。
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情報断食
 現代はインターネットなどにより、様々な情報を即座に得られます。そのようにして得た情報を、物事を判断する際の指標にする場合があるでしょう。
 情報には、共通に認識できる事象もあれば、発信者の人生観や倫理観の基づいているものもあります。虚偽の話が一人歩きしている場合もあります。
 ある事柄について調べる場合は、一方の視点だけでなく、他方のの視点も見ておくべきです。双方の主張を知ることで、捉え方によって、結論に大きな違いが生じるということを心得ておきましょう。
 また、多くの情報により混乱した時は、一度すべての情報をシャットアウトしてみることも必要です。冷静になる時間を持つことで、無駄な情報と生きた情報との峻別ができるようになります。
 自分で考え、自分で判断することの心がけによって、自信の行動力も高まったいきます。情報に一喜一憂せず、情報の洪水に流されることなく、自ら主体的に判断し、そして行動していきたいものです。
 今日の心がけ…判断力を高めましょう
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 会費は月額1万円で、一口に対して30冊を贈呈します。
 また、倫理法人会情報誌『倫理ネットワーク』を贈呈(隔月)します。
さらに、会員には、(1)倫理経営指導、(2)社員教育・朝礼指導、(3)富士教育センター(静岡県御殿場市)の各種セミナー受講費割引、などの特典があります。
 入会のお申込み、お問合せは最寄りの倫理法人会事務局へどうぞ。

全国47都道府県倫理法人会事務局の連絡先

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憲政史上初の「完全ねじれ国会」

第59条 【法律案の議決、衆議院の優越
 第1項 法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
 第2項 衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
 第3項 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。
 第4項 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて60日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。
第60条【衆議院の予算先議、予算議決に関する衆議院の優越
 第1項 予算は、さきに衆議院に提出しなければならない。
 第2項 予算について、参議院で衆議院と異なった議決をした場合に、法律の定めるところにより、両議院の協議会を開いても意見が一致しないとき、又は参議院が、衆議院の可決した予算を受け取った後、国会休会中の期間を除いて30日以内に、議決しないときは、衆議院の議決を国会の議決とする。

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 今回の参議選で、我が国の憲政史上初の「完全ねじれ国会」となった。
     ※最近マスコミでは「真性ねじれ国会」と呼んでいるようだ。
 当面、前掲の憲法条文が重要になる。

 自民政権当時のねじれは、まだ自民側が衆議院に3分の2以上の議席を有しており、「三分の二以上の多数で再び可決したときは」の条文に救われていた。
 しかし、現在の民主党に衆議院で三分の二以上の320議席はない。
 連立を組み311議席(民主党会派307、国民新党会派4)を確保しているものの、三分の二以上の議席数はない。
 つまり、極めて深刻なねじれ現象だ
 さてどうするか、当然、公明党やみんなの党との連立、あるいは自民との大連立を模索することになる。
 しかし、今の状況では簡単にはいかない。
 これまでの多数をバックにした強引な国会運営から、各党の反発は大きい。
 民主は、あまりにも多くの敵をつくり過ぎた

 法案成立には野党の協力が欠かせないが、にっちもさっちも行かなくなり、年内の衆議院の解散総選挙も考えられる。

 ただ、「ねじれ国会」は少数政党の意見に耳を傾け、議論を積み重ねる過程を重視する必要性から、民主主義らしいという意見もある。

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参議選・山形県選挙区の結果

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 民主は44議席と完全な敗北。
 間違いなく責任問題が出る数字だが、この責任は誰がとるのか。
 首相自身か、幹事長か、選対か、それとも?
 自民の51議席確保は勝利は勝利だが、個々の選挙区を見れば、接戦だったことが分かる。
 その代表が山形県で、全国でも有数の激戦区となった。
 最終盤には民主、自民の党首がそろって山形県入りし、公認候補への支持を呼び掛けていた。
 結果は、現職の強みを発揮した自民・岸氏が、民主・梅津氏に約4万1000票差をつけ3選を果たした。
 終盤に吉村美栄子山形県知事が、岸氏支持に回ったことも大きい。
 今回投票率は63.97%で、浮動票が当落を大きく左右したとみられる。

得票数
(率)
氏名年齢党派新旧代表的肩書

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263,987
(43.6%)

Yrye06xxxxxx001k_0

岸 宏一

70 自民 (元)厚労副大臣
222,942
(36.8%)

Yrye06xxxxxx003k_0

梅津 庸成

43 民主
(国)
(元)防衛省職員
88,238
(14.6%)

Yrye06xxxxxx005k_0

川野 裕章

50 みんな (元)米沢市議
30,348
(5.0%)

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太田 俊男

56 共産 党県副委員長

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2010年7月11日 (日曜日)

象潟や雨に西施が合歓の花

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 多摩湖畔に、合歓の花がいいアングルで咲いている場所があった。Photo
 思わず立ち止まり、シャッターを押しながら思い出したのが、
 「象潟や雨に西施が合歓(ねぶ)の花」。

 この句は、芭蕉が奥の細道で秋田県の南端・象潟で詠んだ句だが、芭蕉の句の中でも異国情緒を感じさせる句と思っている。
  山形県北端の象潟に近い土地で育ったことから、比較的早い時期にこの句を知った。中学頃と思うが国語の先生が、実に面白可笑しく解説してくれたのが頭にこびりついた。特に、西施が眉をひそめた「ひそみに倣う」格好を全員にやらせた場面は滑稽だった。
 このことは、合歓の花を見るたびに思い出す。

 この句の良さを知るには、2・3の予備知識が必要となる。
■まず、芭蕉が訪れた元禄二年(1689)当時は、象潟は潟、つまり湾だった。
 それが文化元年6月4日(1804年7月10日)の大地震で隆起し陸地となり、それB_11まで九十九島と呼ばれ、松島と並ぶ景観を一瞬にして奪ってしまった。
■次に、紀元前5世紀、春秋時代末期、呉越の時代、西施という、中国四大美人の一人といわれる女性がいた。
 杭州の西湖は西施が入水自殺の伝説から名付けられたと言われ、呉王は西施を溺愛して国を滅ぼしたと伝えられる。また、「ひそみに倣う」という故事は、西施が胸が痛くて眉をひそめたところ、その表情が美しく、宮殿の女性達で大流行したことが由来している。
 因みに中国四大美人は、西施、虞美人、王昭君、楊貴妃

 句の解説に戻るが、1342509
 芭蕉は湾だった象潟に舟を浮かべて、中国の西湖に思いをはせ、西湖で西施が入水した悲運を偲び、「松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し」と対比させた。
 そして、象潟の島々の合歓を見て、梅雨に濡れた合歓の花は西施が眠っているように美しいと
 「象潟や雨に西施が合歓の花」と詠んだと教わった。

 実に奥深い句であると知ることが出来る。
 今は陸地となり松島と比較できないが、もし九十九島が存在していたなNishikiら、きっと日本三景の一つとして栄えたことであろう。
 島の名残は小高い丘、中には古墳のような形になり、今も確認できるが、そこには松や合歓の木が盆栽のように茂っている。

 多摩湖は西湖に比べる程ではないが、湖畔には合歓の木が所々に見受けられ、今は花の季節だ。
 故郷の、日本海寄り国道7号線の吹浦辺りにも合歓の木が目立っていたが、芭蕉の句の奥深さを知ると句など簡単に詠めるものではない。

九十九島と呼ばれた頃の象潟

Kisakata

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日刊ゲンダイの参議選当落予測

 日刊ゲンダイでジャーナリストの野上忠興氏は、当落を予測している。
 どの程度、予測が的中しているか、明日になれば分かることだが。
 さて、あなたの地域は、どのように分析されているだろうか。 

 ゲンダイ的考察日記
 
大激戦区 21選挙区 最終当落予測 2010/07/10(土)
 11日に迫った参院選はまれにみる大接戦となっている。
 47選挙区のうち、まだ勝敗が見えない選挙区が21もある。
 この激戦区を民主、自民のどちらが制するかによって、全体の勝敗が決まってくる。
 (予想は政治ジャーナリストの野上忠興氏。◎当確、○当選圏内、△やや優勢、▲あと一歩)

Blueline

【青森(改選1)】
▲波多野里奈 37 民新
△山崎  力 63 自元
大島幹事長のベタ張り、地元名門VSミス東京
どの調査も差は1ポイント以下という大接戦。互角だ。自民の山崎は、知事や国会議員を代々輩出している名門一家出身。対する民主の波多野は、ミス東京のアナウンサー。タイプが正反対のため、票の行方が読めない。青森は自民党の大島幹事長のお膝元。立場上、議席を落とせない。普通、幹事長は全国行脚するものだが、大島は青森にベタ張り。ただ、それがマイナスになっているとの声も。
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【秋田(改選1)】
▲鈴木 陽悦 61 民現
△石井 浩郎 46 自新
元プロ野球の石井浩郎5ポイントリード
終始、民主現職の鈴木が優勢といわれてきた。が、最終盤になって逆転。元ブロ野球選手の石井が鈴木を5ポイント程度引き離した。このまま石井が逃げ切るか。
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【山形(改選1)】
▲梅津 庸成 43 民新
△岸  宏一 70 自現
自民候補の高齢批判がネック
優勢と劣勢が行ったり来たりで最後まで読めない。世論調査も1~2ポイント差で、梅津優勢というところもあれば、岸リードというところも、3選を目指す岸は、自民県連が結束していないことと、高齢批判がネック。
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【茨城(改選2)】
○郡司  彰 60 民現
▲長塚 智広 31 民新
△岡田  広 63 自現
民主同士が最後の議席を奪い合う
自民の岡田はほぼ当確。2議席目を、民主同士で争っている。公認決定が遅れた長塚は、競輪選手の知名度で、調査の度に数字を伸ばしてきた。あと一歩だが…。
------------------------------------------------------------------
【東京(改選5)】
△小川 敏夫 62 民新
◎蓮   舫 42 民現
○中川 雅治 63 自現
 東海由紀子 42 自新
◎竹谷とし子 40 公新
▲小池  晃 50 共現
△松田 公太 41 み新
蓮舫、竹谷、中川は当確 残り2議席を民主、共産、みんなが争う
民主の蓮舫、公明の竹谷、自民の中川の3人は当選ラインを越えた。
残り2議席を3人で争う大接戦。3人のなかで、3ポイント差ながらやや優勢な戦いを進めるのは、民主の小川だ。
蓮舫が当選確実となったため、民主党都連と連合東京は、組織を小川にシフト。蓮舫の支持者にまで「なんとしても2人目を通さなければならないので、小川をお願いします」と電話攻勢をかけている。
みんな・松田と共産・小池の差は1~2ポイント程度。支持率が回復傾向のみんなの党が、最後に抜けるか。
------------------------------------------------------------------
【埼玉(改選3)】
▲島田智哉子 47 民現
△大野 元裕 46 民新
△関口 昌一 57 自現
△西田 実仁 47 公現
民主2議席独占の可能性強まる。公明まさかの落選も。最後の1週間になってもマスコミ各社の調査結果はバラパラ。4、5ポイント差に4人が団子状態の超激戦区だ。民主の2人は、県連の地域割りが成功。島田と大野が揃って2割弱の支持を得ていて、うまくいけば2議席獲得もある。予想外の苦戦を強いられているのが自民の関口だ。マスコミ調査で1位のデータもあるが、自民党本部は○ではなく△をつけている。公明にとって埼玉は最重点区だが、伸び悩んでいる。当選ラインは60万票といわれ、まだ55万票しか固めていない。残り5万票、ターゲットは自民票だ。1人区選出の自民県議に「来年の統一地方選で票を回すから」と協力を訴えているという。最後の1議席を自VS公で争う構図だ。
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【愛知(改選3)】
△斎藤 嘉隆 47 民新
△安井美沙子 44 民新
△藤川 政人 50 自新
▲薬師寺道代 46 み新
最後の1議席をデッドヒート
民主・斎藤と自民・藤川は決まり。ラスト1を民主・安井とみんな・薬師寺が競っている。調査では、ほとんどポイント差のない横一線だ。
安井と薬師寺は、ともに40代、インテリ系の働く母親。キャラがかぶっていることも、差が開かない原因。しかし、愛知は民主王国。労組も強い。一方のみんなは組織がない。金、土の残り2日間、民主の県連と党本部が総力戦でテコ入れすれば、2議席を奪う可能性は高い。
-----------------------------------------------------------------
【福井(改選1)】
▲井ノ部航太 36 民新
△山崎 正昭 68 自現
「自民王国」に数ポイントまで迫る
自民王国の北陸3県で、唯一の激戦区。元官房副長官というベテランの山崎に対し、民主の井ノ部は30代、元電通マン、IT会社取締役。対照的な対決構図に、有権者は揺れている。調査では2~6ポイント差で山崎が先行するが、ドンデン返しがあるか。
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【熊本(改選1)】
▲本田 浩一 43 民新
△松村 祥史 46 自新
小沢一郎が離島にまで 民主最重点区は1ポイント差
九州で当選が決まるのが最も遅くなりそうだといわれる超激戦区。どの調査も1ポイント差以内で横並び。民主は、公示後、菅首相、枝野幹事長だけでなく、鳩山前首相、小沢前幹事長までが熊本入りした。とくに小沢一郎は、誰も行かないような天草の離島で少人数の街頭演説をして、地元を驚かせた。小沢効果は相当にあったようだ。
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【長崎(改選1)】
▲犬塚 直史 55 民現
△金子原二郎 66 自新
元大物知事が民主現職にやや優勢か。衆参とも県内の全議席を民主が押さえているだけに、現職の犬塚が強いはずだが、自民の金子は衆院5期、県知事3期で知名度は上。終始、大接戦を繰り広げ、各社の調査も2、3ポイント差。しかし、終盤になって、2月の県知事選で自民系がダブルスコアで勝利した影響がジワジワ出てきた。金子ややリード。
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【鹿児島(改選1)】
▲柿内弘一郎 56 民新
△野村 哲郎 66 自現
民主先行が自民逆転に。数ポイント差ながら、世論調査では民主が先行してきた。しかし、民主党の支持率下落とともに、野村が柿内を逆転する調査も出ている。
前回07年の参院選では、民主優勢だったのが、最後に自民に逆転された。その差、2664票。3年前の二の舞を民主は恐れている。
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【京都(改選2)】
○福山 哲郎 48 民現
▲河上 満栄 39 民新
○二之湯 智 65 自現
 成宮真理子 40 共新
 中川 卓也 50 み新
小沢戦略を完全無視。前原国交相の度量が試される。公明党は自主投票、府の医師会は民主も推薦…。二之湯は頼みの組織票が離れ、なりふり構わぬ“ドフ板”選挙を繰り広げる。それでも支持は広がらず、決して磐石ではない。
民主は、踏ん張り次第で2議席独占もあり得たはずだが、反小沢派の頭目・前原国交相が率いる府連は、小沢の「2人区2人擁立」戦略を完全に無視。新人の河上の選挙に、まったく手を貸そうとしない。官房副長官として、ほとんど地元に帰れない福山が、優位に選挙戦を進めている。孤独な戦いを強いられた河上は、全国屈指の基礎票を誇る共産党の成宮や、公示1日前に出馬表明した、みんなの党の中川にもリードを許す苦しい展開だ。本当の前原は器の小さい男である。
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【大阪(改選3)】
△尾立 源幸  46 民現
▲岡部 まり  50 民新
△北川イッセイ 67 自現
△石川 博崇 36 公新
メディアが圏外扱いの岡部はトップ当選も。最後は無党派層と公明票の戦い。大混戦のまま投票日に突入しそうだ。
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【徳島(改選1)】
△吉田 益子 50 民新
▲中西 祐介 31 自新
民主党は新党頼み?!。仙谷官房長官のお膝元とはいえ、民主の吉田は、調査によっては、自民の中西に2~4ポイント差まで迫られている。ただし、自民党現職だった小池正勝が舛添新党から出馬したことで保守票が割れ、救われそうだ。
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【香川(改選1)】
△磯崎 仁彦 52 自新
▲岡内須美子 57 無新
民主・社民・国民の3党連立時代の象徴として擁立された無所属の岡内。社民離脱後も3党は揃って推薦しているが、運動は鈍った。世論調査では、5ポイント程度で自民の磯崎が先行している。
しかし、岡内は高松市の元副市長。踏みとどまって、最後の粘りを見せる。
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【愛媛(改選1)】
▲岡平 知子 52 民新
○山本 順三 55 自現
自民の山本が強いとみられているが、2ポイント差の接戦という世論調査もある。岡平は、民主公認とはいえ、昨年衆院選は、社民党公認で出馬している。民主と社民の地元組織の不協和音が、最後まで岡平の足を引っ張っている。ドンデン返しはあるか。
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【高知(改選1)】
△広田   一 41 民現
▲高野光二郎 35 自新
本来は保守王国。しかし、自民党元職の田村公平が立候補したことで、保守票が分裂。自民の高野は、民主の広田に5ポイント以上、離されていて、追いつくのは難しい。
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【神奈川(改選3)】
▲金子 洋一 48 民現
○千葉 景子 62 民現
○小泉 昭男 64 自現
△中西 健治 46 み新
民主現職2人のダブル当選に黄信号
中盤まで、自民の小泉と民主の千葉が抜け出し、残り1議席を、民主の2人目、金子とみんなの党の中西が激しく競い合う構図だった。
ところが最終盤になって、変化が起きている。民主の枝野幹事長が「秋の国会で、比例の議席を削減する」と発言したことに、公明党が怒り心頭。神奈川では、民主の2議席獲得を阻止するため、みんなの中西に乗るというのだ。
情勢コロコロ変化。神奈川の公明票は50万票ある。半分としても25万票が中西に入れば、中西が2位に躍り出る。千葉と金子、民主現職同士で3位争いすることになりかねない。ここで2議席死守しないと、民主の過半数はない。
---------------------------------------------------------------
【千葉(改選3)】
△小西 洋之 38 民新
▲道 あゆみ 44 民新
△椎名 一保 58 自現
▲猪口 邦子 58 自新
△水野 賢一 43 み新
まさかの自民2議席を許すのか。5人がしのぎを削る大接戦。ただし民主は、県連主導で擁立した小西が先行。道は小西に10ポイント、他の3人にも数ポイント後れを取っている。自民の猪口と椎名、みんなの党の水野の保守系3人で2議席を争う構図だ。3人の優劣は、各社の調査によって2、3ポイント以内で順位が入れ替わる。
まさかの自民2議席獲得はあるのか?民主票が道に振れれば、民主2議席も可能だ。
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【静岡(改選2)】
△藤本 祐司 53 民現
△岩井 茂樹 42 自新
▲河合 純一 35 み新
3人で2議席を争う大混戦。イス取りゲームだ。調査では、民主の藤本と自民の岩井が一歩リード。みんなの河合を3ポイント離している。しかし、投票率や無党派層の動向次第では、みんなの党の河合が議席を獲得する可能性もある。
河合は全盲のパラリンピック金メダリストで、県西部で知名度が高い。一時伸び悩んだものの、最終盤になって、みんなの党の支持率回復とともに、河合の支持も上昇している。
---------------------------------------------------------------
【鳥取(改選1)】
△坂野 真理 32 民新
▲浜田 和幸 57 自新
自公選挙協力で一転伯仲。調査では、民主の坂野が自民の浜田を3~5ポイント引き離し、優勢といわれてきた。しかし、終盤に入り、自民の地元選出、石破茂政調会長が「選挙区は自民、比例は公明」と公然と言い出したことで公明票が上乗せされ、浜田が息を吹き返しつつある。坂野が逃げ切るか。
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【島根(改選1)】
 岩田  浩 34 民新
○青木 一彦 49 自新
打倒・青木で立ち上がった民主の岩田。すごいことに5ポイント差まで追いついてきた。夫人ともども地元テレビ局のアナウンサー出身。知名度と清新さで、青木王国を突き崩せばヒーローだ。(日刊ゲンダイ 2010/07/10 掲載)

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パウル君はW杯スペイン優勝と占う

  サッカーW杯を占う、タコの「パウル君」が世界中から注目を集めているという。319486_c450
 これまでの占いは、全て的中…7戦全勝
 「パウル君」は、ドイツの水族館で飼われていることを後で知った。
 当初、ドイツが遊び程度で始めた占いで、エサを利用した「やらせ」と思っていたが、意外にもドイツの意に反する占いもした。パウル君は、準決勝の「ドイツ×スペイン」戦の占いで、ドイツ国民の意に反してスペインの勝利を占う
 そして占いの通り、スペインが勝利したことで、「パウル君」に対する信頼が一気に増した。ドイツのサッカーファンからは、「殺してしまえ」と罵声を浴びているそうだが・・。
  さらに、決勝ではスペイン3位決定戦ではドイツの勝利を予想しているが、まず3位決定戦は、ドイツ3×ウルグアイ2で下し、見事に当たった。
 さて、タコの「パウル君」、W杯終了後は何を占うのだろうか。

 もう一つ、サッカーW杯では確かな予測がある。
 「W杯優勝国は経済が成長する」というジンクスだ。
 
  サッカーW杯は、日本敗退後関心は薄らいだが、経済関係者からはまだまだ熱く注目されている。経済専門家は、スペインの優勝を願っているそうだ。
 スペインは欧州信用不安の震源地の一つ。
 世界経済の安定のためにスペインに頑張ってもらいたいと願う経済関係者は多い。

  深刻な財政危機などに直面している「PIGS」と呼ばれる国々だ。
 PIGSはポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインの頭文字をとったもの。
  スペインが優勝すれば経済成長率が高まり、財政赤字縮小にはプラスに働き、欧州信用不安の暗雲を吹き飛ばす可能性があると言われている。
 日本経済も、自律的回復にはほど遠い現状と言われ、他力本願、神風に頼る以外にないとされる。日本も恩恵を受けることが出来るだろうか。
 決勝は「オランダvsスペイン」、日本時間12日(月)午前3時半開始だ。
 この時間だと、参議選の結果も大勢が決定していることだろう。

 

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2010年7月10日 (土曜日)

「スパイ天国」と言われる理由

 「スパイ防止法」に反対するのは民主党
 それは日本国内で、北朝鮮、中国、ロシアなどのスパイの活動が制限されErp1007091330008n5るからだという。
 つまり、民主党は外国人を喜ばせる「外国人地方参政権付与法」や「子供手当て」は作ろうとするが、外国人スパイを規制する「スパイ防止法」は作らせない党なのだ。
 日本人として、おかしいと思わないのだろうか

 「スパイ防止法」は国を売る行為を処罰する法律だ。

  最近、スパイに関するニュースが多い。
 ロシアの「美人過ぎるスパイ」とか、米ロの「スパイ交換」など、面白く報じられている。
 改めて、スパイが暗躍していることを知ることが出来る。
 しかし、平和ボケの日本では、国民もマスコミも政治家も、今ひとつ反応が薄い。

 日本は、特に戦後「スパイ天国」と言われ続け、世界各国の情報が集まる日本には、世界中のスパイが集まって、日本を舞台にして日夜暗躍していると言われている。
 集まる第一の理由は、情報管理に関する国民の意識が極めて薄く、軍事、産業などの機密を簡単に入手出来る甘い国家だからなのだが、
 その大きな原因に、世界の中で国家秘密法、通称「スパイ防止法」がないのは日本だけという異常な国家だからだ。

 機密情報を外国に流出させた事例は、枚挙に暇無い。
 近年でも防衛庁職員が潜水艦の資料を中国に提供した事例。海上自衛隊の幹部が在日ロシア大使館武官への秘密漏えいした事例を思い出すことが出来る。
  それに、北朝鮮関連でも北朝鮮のスパイ工作員が堂々と出入り、物や機密だけでなく、人まで拉致していることは常識として知られている。
 
 このような事件を防ぐには、最低限「スパイ防止法」が必要で、まず国家機密を取り扱う防衛庁や外務省などの公務員の意識を改革することができるし、外国のスパイが堂々と日本で活動することを制限することが出来る。

 「スパイ防止法」の制定には自民党政権で幾度も頑張っていたが、北朝鮮や中国に加担する左翼政党の反対で廃案になっている
 このような、異常な政党が政権にあること自体が異常であることを国民は気づいているのだろうか。
 
■「スパイ防止法」の制定に反対した自民党議員もいる
 20年も前だったが、自民党は「スパイ防止法」の制定に力を入れた時期があった。
これに、朝日新聞は当然のように反対キャンペーンを張っていたが、なんと、自民党からも反対したとんでもない議員がいたのだ。
 それは、日弁連の代弁者と言われる谷垣禎一議員、
 毎日新聞OBの大島理森議員ら8名の自民党議員だった。
 そして時が流れ、この二人が、現在の自民党のツートップなのだから笑わせる。
 「スパイ防止法」は国を売る行為を処罰する法律だ。
 この制定に反対する自民党議員がいることも書き加えておく。

スパイ交換 異例の政治決着  7月10日 NHKニュース

 アメリカでスパイ活動を行っていたとして、ロシア人の男女10人が逮捕された事件は、冷戦後初めてのスパイ交換という異例の政治決着が図られました。
 この事件は、ニューヨークなどでロシア人の男女10人がアメリカの核兵器に関する違法な情報収集やマネーロンダリング=資金洗浄を行っていた疑いで逮捕・起訴されたものです。この事件で、米ロ両政府は水面下で調整を続け、この10人と、ロシアで欧米のスパイだとして拘束されてきた軍事専門家ら4人を交換することで合意しました。これを受けて8日、ニューヨークの裁判所で行われた罪状認否の審理で、10人はロシアのスパイであることを認めたうえで、国外追放処分を言い渡され、アメリカを離れました。一方、ロシアでこう留されてきた軍事専門家ら4人は、メドベージェフ大統領の恩赦を受けてロシアから出国しました。そして日本時間の9日夜、アメリカ司法省の報道官は、双方の身柄がオーストリアの首都ウィーンで交換されたことを明らかにしました。
 その後、アメリカを出国した10人はモスクワに、ロシアを出国した4人はイギリスの空軍基地に到着したことが確認されました。このように今回の事件は、米ロの良好な関係を維持したいという両国政府の意向を受けて、逮捕から10日余りで、冷戦後初めてのスパイ交換という異例の政治決着が図られました。

■【青山繁晴】「スパイ防止法」に答える![桜H22/4/9]

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真の「日本派」政治家に投票を!

 選挙では、真の「日本派の政治家」かを見定めて投票したいものだ。

 田母神俊雄氏は、「出でよ日本派の政治家」と題した自己のブログで、
 「日本にはいま、50万人以上もの中国人が住み、毎年1万人以上も増えているという。これらの中国人が、地方の人口3万人や5万人の町に集結したら、その町の市長などは、たちまち中国の意を体した人になってしまう。合法的に日本の町が中国人に乗っ取られてしまうのだ。」と警鐘を鳴らす。

  参議院選で民主党が過半数をとれば、「外国人地方参政権付与法案」は間違いなく成立する。この法案により、「中国日本自治区」も可能になる。Photo152605
 母国では選挙権がないのに、日本で選挙権を与えれば、ほぼ全員が投票に行くであろう。団結力は、北京オリンピック聖火リレーの際の長野市内での中国人の振るまいを思い出せば納得するであろう。
 まず最初に沖縄辺りに、「中国日本自治区」つくられる可能性が高い。そして、中国にとって一番邪魔な沖縄米軍基地反対運動の中核になることだろう。
 
 また田母神氏は、「日本の政治家には、中国派がいる、アメリカ派もいる。しかし、日本派の政治家が極めて少ないように思う。中国やアメリカへの過剰な気配りをやめて、真に我が国の国益を追求する日本派の政治家に出てきてもらいたい。」と主張する。

  評論家やマスコミなどは、日本の政治家を「親米派」、「親中派」などと色別することが多い。
 しかし、本当に必要なのは日本派」の政治家だという下りに賛同する
 明日の参議選では、真の「日本派」の政治家かを見定めて投票したいものだhttp://ameblo.jp/toshio-tamogami/entry-10569269913.html

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 出でよ日本派の政治家  2010-06-21  田母神俊雄

 我が国の国会では、どこの国の国益を守ろうとしているのかわからないような発言をする政治家が多い。
 外国人の地方参政権付与法案など、少し想像力を働かせれば、これによっていかなる事態が発生することになるのか判りそうなものだ。
日本にはいま、50万人以上もの中国人が住み、毎年1万人以上も増えているという。これらの中国人が、地方の人口3万人や5万人の町に集結したら、その町の市長などは、たちまち中国の意を体した人になってしまう。合法的に日本の町が中国人に乗っ取られてしまうのだ
 河添恵子氏の「中国人の世界乗っ取り計画」(産経新聞出版)によれば、カナダのリッチモンド市ではすでに人口の過半数が中国系になり町の景色、看板の文字、バスの車内で交わされる言語などは、すべてが中国に変貌しているという。もし、我が国で外国人の地方参政権が付与されることになれば、我が国にやってくる中国人はどんどん増加するであろう。そして、本国で選挙権を持たない中国人が日本国で選挙権を持つようになり、日本の街が中国の街へと変貌するであろう。北京オリンピック聖火リレーの際の長野市の状況を思い出しただけでぞっとする。
 外国人参政権法案は、菅総理も推進すると明言しているし、多くの中国派の政治家も頑張るに違いない。これに対して、保守派といわれる政治家はこの法案には反対すると思う。保守派といわれる人たちは、あまり中国が好きではなく、中国に対して毅然とした対応をすべきと主張する。彼らは中国よりはアメリカが好きで、日本の安全保障の根幹は日米安全保障条約だと考えている。それは、現在の日本がおかれた状況を考えれば最善の方策であると思う。
 しかし、日本の保守派といわれる政治家は、日本的な伝統文化を守ろうとするよりは、アメリカの言う通りにした方がよいと思っている人たちが多い。
 現在進行中の日本の政治、経済、金融、雇用のシステムのアメリカ化などには、全くの無頓着である。日本の国益を守るのではなく、アメリカとぶつかることだけは、絶対に避けようとしているのだ。たとえば核武装すべきではないと主張する人の多くは、それによって日米関係が悪くなるからという理由を挙げる人が多い。
 それらの人たちに私は質問をしたい。「それでは、アメリカが日本に核武装を薦めた場合でも、あなたは核武装に反対するのですか?」 と。
 どんなに困難なことでも、政府が総力を挙げて努力をすれば達成でき ないことは少ない。アメリカが反対をしても、それを説得するのは政治家や外交官の仕事である。これに挑戦する勇気がないから、失敗したくないという自己保身から、困難であるという理由をつけてやらない場合がほとんどだと私は思っている。だから我が国はいつまで経っても真の独立国になれないままである。55年体制化で自由民主党が綱領で目指した真の独立国家は55年後の今日でも未だ達成されていない。
 日本とアメリカは、それぞれ別個の独立国であり、日米の国益が一致するわけがない。日米は政治的には同盟国であっても、経済的な利害は対立することが多いのだ。アメリカの言う通りばかりしていたら、我が国が損をすることが多い。だから、我が国の国益を守るためには、アメリカに対しても必要な主張はしなければならない。もっとも、アメリカに守ってもらわなければならない現状を考えれば、我が国の対米主張にも限度があることは認めざるを得ない。
 自分の国を自分で守れなくては、強い主張も出来かねる。だからこそ軍事力、情報力を増強し真の独立国を目指さなければならない。
私のような主張は、しばしば反米だといわれることがある。しかし私はアメリカを敵視しているわけではない。
 私は反米ではなく親日であるだけなのだ。
 絶対に妥協するななどと硬直的な主張をしているわけではない。政治はリアリズムだから、どこかで妥協が必要なことは、私も十分に理解しているつもりである。しかし、真の独立国を目指す覚悟がなくて、世界の尊敬を受けることなど無理な話である。自分の国を自分で守ることが出来て初めて大人の国になったといえる。それが出来ないうちは子供のままである。日米対等などとは、とても現在の段階で言うことは出来ない。小学生が大人に向かって対等だと言っているようなものである。
 我が国の保守派といわれる人たちの大半はアメリカ派なのである。日本の政治家には、中国派がいる、アメリカ派もいる。しかし、日本派の政治家が極めて少ないように思う。中国やアメリカへの過剰な気配りをやめて、真に我が国の国益を追求する日本派の政治家に出てきてもらいたい。

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2010.7/7青山繁晴がズバリ!

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 「青山繁晴がズバリ!」は、
YouTube動画で直ぐにアップしてくれるので、最新情報で勉強することができる。

 関西テレビでは、「長年、中東問題をウォッチし続け、安全保障・外交の分野を専門に活躍する青山繁晴氏が、一回聞いただけではなかなか理解できない複雑な国際情勢から政治・事件・社会問題にいたるまで、様々なニュースを独自の視点でズバッと解説!これさえ見れば、あなたもニュース通になれる!」とアピールしている。
 いつもながら、国内外の政治情勢の鋭い分析だ。
 

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藤沢周平原作「必死剣鳥刺し」

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 藤沢周平原作の映画『必死剣鳥刺し』が、7月10日全国公開が始まった。

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 http://www.torisashi.com/
 映画撮影は、山形県鶴岡市の「庄内映画村オープンセット」の他、遊佐町野沢辺りでも撮影が行われたと聞いている。
 きっと、鳥海山をバックにした画面も期待される。 

 この『必死剣鳥刺し』は「隠し剣狐影抄」に収録された短編だ。
 かなり前に読んだが忘れたので、再度読み直す。

 藩のために主君・右京太夫の側妾を刺殺した剣豪、兼見三左ェ門だったが、そのために主君の恨みを買い、結局は城中でなぶり殺しにあうという内容だ。
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 刃先は津田の鳩尾(みぞおち)から肺まで深ぶかと入りこんだ。
 「・・・・・・・・」
 鳥刺し、と三左ェ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。
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 津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左ェ門の身体にあつまった。
 三左ェ門の巨躯は坐った恰好から、横転して畳にころがった。
 そして今度こそ動かなくなった。
 寒い冬が過ぎようとしていた。
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 久々に、この巧みな描写に感心する。
 豊川悦司が演じるのは、独自に編み出した必勝の剣「鳥刺し」を使う剣豪・兼見三左ェ門(かねみさんざえもん)。
 「必死剣鳥刺し」それは、必死必勝の剣。キャッチコピーは
 「その剣が抜かれる時、遣い手は半ば死んでいるとされる」。
 
 映画ロケは藤沢周平の出身地・鶴岡市の「旧風間家住宅丙申堂」や「庄内映画村オープンセット」のほか、遊佐町野沢近くの祠「十一面観音」界隈も使用しているという。

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 兼見三左ェ門が使う剣は、どのような秘剣だろうか。
  「剣を遣うときは半ば死んでいる」とは、どのような動きなのか。
 殺陣師の久世浩(65)は、平山秀幸監督とともに最も頭を痛めた場面だったという。
 下段に原作の最後の部分を引用してある。
 これを、豊川悦司がどのように演じるのか想像してみよう。
       (※時間に余裕があるとき、読んで下さい。)
監督:平山秀幸
脚本:伊藤秀裕
    江良至
原作:藤沢周平

豊川悦司(兼見三左ェ門)
戸田菜穂(妻・睦江)
池脇千鶴(里尾)
吉川晃司(帯屋隼人正)
村上淳(主君・右京太夫)
関めぐみ(側妾・連子)
岸部一徳(津田民部)
小日向文世(保科十内)
山田キヌヲ(多恵)ら。

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『隠し剣孤影抄』藤沢周平著(文春文庫)
■藤沢周平著「必死剣鳥刺し」から最後の「七」より引用
 「村井、光岡」
 呼んだが返事がなかった。
 三左ェ門は立って、隣の近習詰所の襖の前まで行ったが、不意にそこで立ちどまった。
 そのときには、襖の外に異変を感じとっていた。
 三左ェ門は襖にむいたまま、静かに部屋の中を後にさがり、さがりながら刀の鯉口を切り、肩衣をはねた。
 「いかがした、兼見。誰かをよこさんか」
 執務部屋の中で、右京太夫のいら立った声がした。
 その襖ぎわまで後退すると、三左ェ門は、小声でお上と呼んだ。
 「石滑が来たかも知れません」
 「なに?」
 「斬りあいがはじまるかも知れません。物音を聞かれたら、打ちあわせたように、奥の出口から、外へ出て頂きます。そこに警護の者がおりますゆえ」
 「よし、わかった」
 右京太夫が立ちあがる気配がしたのと、近習部屋の襖がさらりと開いたのが、ほとんど同時だった。
 そこに帯屋隼人正が立っていた。
 そして考えたとおりに、近習部屋は空っぽだった。
 多分隼人正がどこかに立ちのかせたのだ。
 「そなたが、独心無名流の遣い手か。兼見と申すそうだな」
 隼人正は、しばらく三左工門を見つめたあとでそう言った。
 三左工門は黙っていた。
 「大きな男だの」
 「・・・・・・」
 「そこを通してくれぬか。右京太夫に話がある」
 「通すことはなりませぬ」
 と三左ェ門は言った。
 言うと同時に、皮膚から髪の中まで寒気が走りぬけて、三左ェ門は徴かに身ぶるいした。
 [ぜひとも談合したいことがある。通せ」
 「いや、なりませぬ」
 「わしと斬りあってもか」
 「いかにも」
 隼人正はじっと三左ェ門を見つめ、見つめながら、羽織をぬいだ。
 「では、通る」
 隼人正は刀を左手にさげたまま、部屋の中に入ってきた。
 「お手むかいしますぞ」
 三左ェ門は言うと刀を抜いた。
 同時に隼人正も抜き、鞘を捨てていた。
 すばやい動きだった。
 その瞬間、胸に垂れる髭が揺れて、宙に躍ったように見えた。
 隼人正は無造作に間合いを詰め、青眼から肩に打ちこんできた。
 すさまじい迫力を乗せた一撃だったが、三左ェ門はその剣をかわさずにはね上げた。
 その一合のあと、隼人正はすばやくしりぞいて、遠い間合いを取った。
 三左ェ門は追わなかった。
 青眼に構えをかためながら、相手の様子をうかがった。
 左腕のつけ根のあたりに痛みを感じたのは、その時になってからだった。
 うまくはねたつもりだったが、隼人正の俊敏な剣は、その前に浅く三左ェ門の肩口にとどいたらしかった。
 「お考え直しください、ご別家」
 三左ェ門は刀を構えたまま呼びかけた。
 「狂気の沙汰ですぞ、この斬り合いは」
 「いや」
 隼人正は薄く笑った。
 「邪魔する者は斬る」
 隼人正は、少しずつ間合いをつめてきていた。
 ---来る。
 三左ェ門は、隼人正が詰め寄るのにあわせるように、無意識にむかし、もっとも好んだ下段に構えを移していた。
 その構えをみて、隼人正は一たん足を引きかけたが、思い直したように猛然と断りこんできた。
 一閃の影が動いたように迅い動きだった。
 斬られた、と三左ェ門は思った。
 そう思いながら、三左ェ門は身体を沈めて、掬い上げる剣をふるっていた。
 はじかれたように、隼人正の身体が襖まで飛び、大きな音を立てた。
 三左ェ門の一撃は、隼人正の脇腹を深ぶかと斬っていた。
 隼人正は訝しむように三左ェ門を見つめたが、不意に刀をとり落とすと、膝をつき、だんだんに首を垂れて、ついに前に転んだ。
 そのまわりに、すぐにおびただしい血がひろがった。
 その姿をたしかめてから、三左ェ門は刀をおろし、右肩に手をやった。
 かわしも受けも出来なかった隼人正の一撃に、斬られたと惑じたのは間違っていなかった。
 肩をさぐった三左ェ門の指は、いきなり肉に埋まった。
 焼けるような痛みが、そこから全身にひろがって行く。
 眼が暗くなった。
 傷口を押さえたまま、三左ェ門はあたりを見回した。
 そして呻き声を途中でのみこんだ。
 三方の襖が開かれていて、いつの間にか、そこに大勢の人間が立っていた。
 人びとは黒く立ちならび、なぜか無言で三左ェ門を見つめている。
 「手傷を負い申した」
 三左ェ門は、ぎこちない微笑をうかべた。
 「どなたか、手を貨してくだされ」
 すると、聞き馴れた津田民部の声が、見たぞと言った。
 三左ェ門はそちらに顔をむけたが、黒い人影が眼に映るだけで、どれが津田かはわからなかった。
 「見ごとだな、必死剣鳥刺し
 三左ェ門は微笑した。
 微笑して、よろめきながら立っていた。
 いや、いまのは鳥刺しの秘剣ではござらぬ、と言おうとしたとき、津田が叫んだ。
 「兼見が、乱心して隼人正さまを斬ったぞ。逃がさずに斬れ」
 三左ェ門は、反射的に刀を構えた。
 刀はひどく重かったが、眼の前に殺到してきたものを斬った。
 ---乱心だと?
 横から斬りかかってきた者を、体を開いて斬って捨てながら、三左ェ門は必死に津田の言葉の意味を探ろうとした。
 背に痛みを感じ、振りむくと同時に斬り払ったが、刀は空を切った。
 そうか、おれに隼人正さまを斬らせるために罠を仕組んだのだ。
 そう思ったとき、三左ェ門は声をのんだ。
 ---お上だ。
 お上は連子を剌された恨みを、決して忘れたりはしなかったのだ。
 腹を切らせなかったのは、不仲の隼人正を始末する道具に使うためだったのだろう。
 生かして使うほうが、得でござります、と津田民部がすすめたのだ。
 ---無残だ。
 三左ェ門は自嘲の笑いをうかべた。
 いまごろ気づいた自分を嘲っていた。
 ぼろぼろに斬りさいなまれているのがわかった。
 それでも三左ェ門は限の前に立ちふさがる黒いものにむかって反射的に刀をふるっていた。
 刀は時おり肉の手ごたえを伝えた。
 限はほとんど見えなくなっていたが、三左ェ門は、部屋のどこかにいて、自分の最期をひややかに見まもってっている右京太夫の視線を感じた。
 その視線にあらがうように、三左ェ門は刀を構え、眼の前をよぎる影のような心のに刀を叩きつけた。
 だが鋼鉄のような男にも、ついに最後のときがきた。
 横から組みつくように突っこんできた刀に、腹を深くえぐられて三左ェ門はどっと膝をついた。
 そして立てなくなった。
 刀にすがるようにして斜めに身体をかたむけたまま、三左ェ門は動かなくなった。
 「しぶとい男だったが、やっと参ったか」
 津田民部が、三左ェ門の前に立ってそう言った。
 津田をたしかめるように三左ェ門の顔をのぞき、腰をのばすと三左ェ門が握っている刀を蹴ろうとした。
 絶命したと思われた三左ェ門の身体が、躍るように動いたのはその瞬間だった。
 三左ェ門は片手に柄を握り、片手を刀身の中ほどにそえて、槍のように構えた刀で斜めに突きあげていた。
 刃先は津田の鳩尾(みぞおち)から肺まで深ぶかと入りこんだ。
 「・・・・・・・・」
 鳥刺し、と三左ェ門は呟いたのだが、誰もその声を聞かなかった。
 津田の絶叫を聞いて、数本の刀身が、三左ェ門の身体にあつまった。
 三左ェ門の巨躯は坐った恰好から、横転して畳にころがった。
 そして今度こそ動かなくなった。
 寒い冬が過ぎようとしていた。
 野にはまだ雪が残っていたが、野を真直ぐに走る道は、黒く濡れて日に光っていた。
 里尾は鶴羽村のはずれに立って、野をわたり丘の右手に消えている道を眺めていた。
 風が寒いので、さっきから何度も、厄介になっている百姓家に引き返そうとしながら、そのたびに丘のむこうから叔父の三左ェ門があらわれそうな気がして、里尾はふんぎり悪くその場所に立ちつづけていた。
 里尾は懐に赤子を抱いていた。
 生まれて間もない男の子だった。
 三左ェ門の子である。
 細い脹や大きな口が、あまりに叔父にそっくりなので、里尾はながめているうちにおかしくなって忍び笑いを洩らしたりする。
 身ごもっていることを知ったのは、鶴羽村にきて三月ほどたったころだった。
 それから子供を生むまでの月日ほど、里尾にとってしあわせな日日はなかった。
 里尾がいる百姓家の人びとは親切で、子供を生むのに何の心配もいらなかった。
 生まれてしまうと、三左ェ門にその子を見てもらいたい気持が募った。
 それで時どき村はずれまで見にくる。
 「今日もいらっしゃらなかったのね」
 子供が泣き出したので、漸くふんぎりがつき、里尾は子供に囁きながら、野に背をむけた。
 迎えに行くと言った三左ェ門を、里尾は信じていた。
 その日が来たら、どんなにしあわせだろう、と思いながら、里尾は村の中の道をゆっくり歩いた。
 赤子は力強く泣きつづけていた。(本文より引用)

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2010年7月 9日 (金曜日)

酒田・日和山から将来を展望?

 「街が出来たのには理由がある」、
 「街が今のように変化したのも理由がある」と言われる。

 最近、同山に行く機会があった。
 日和山に向かう途中、かつて市内で一番賑わった本町や中町辺りを通り抜ける。
 シャッターが降りている建物は目立つが、比例して歩いている人が少ない。
 妻は22歳まで勤めていた街だが、その寂れ具合に驚いている。

 さて話は変わるが、先日、山形県参議選選挙区で優勢な陣営に加担する態度を決めた県知事を「日和見主義の吉村知事」と批判した。
 日和見主義とは、自信、確信を持てないとき形勢を見て有利なほうに付くという狡猾な考え方のことだ。
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-ba98.html

 この日和(天候)は、主に船乗りが船を出すかを決める際に海を見渡すことから由来している。そして、日和を見た高台を日和山と呼び、古い湊町に今も存在する。
 日和山(ひよりやま)は、日本各地80数箇所はあるといわれ、ネットでも各地の日和山を確認することが出来る。
 中でも由緒あるのは、かつて日本一栄えた酒田港を望む日和山
 現在は公園として整備され、往時の繁栄を偲ばせる石碑や銅像も数多い。
 酒田の歴史を見守り続けてきた日和山。
 そこからは酒田の今昔、そして将来も見渡せる人物がいるのかも知れない。

 その人物は、下関経由の日本海西廻り航路を開き酒田を繁栄させた河村瑞賢(1617~1699)か、それとも1689年の夏に酒田を訪れ「暑き日を海に入れたり最上川」と詠んだ松尾芭蕉(1644~1694)であろうか。それとも、今を生きる人材か。
 もし、ヒントがあるとすれば、瑞賢は海方向、芭蕉は酒田の街方向を見ている。
 
酒田の日和(将来)を見るヒントが日和山に隠されている?
 日和山には、芭蕉の銅像と、そこで詠んだとされる句碑がある。Dscn3965
 「暑き日を 海に入れたり もがミ川」
 「あつみ山や 吹浦かけて 夕すゞみ」
 元禄二年(1689)、奥の細道で酒田を旅した松尾芭蕉は、“不易流行”(ふえきりゅうこう)という教えを残している。
 「不易」とは変わらないこと、どんなに世の中が変化しても絶対に変わらないもの、変えてはいけないものを意味し、「流行」とは変わるもの、社会の動きや状況に従い変わっていくもの、或いは変える必要があるものを指す。
 そして、この両者が補足し合いながら発展していくことが、人であれ国であれ理想とされていると解されている。
 芭蕉は奥の細道の旅で一番気に入り、一番長い9日間も逗留した酒田のために、この言葉を残したのかも知れない。と、かってに思う。
 それでは、酒田で変えていけないもの、そして、変える必要があるものは何なのか。
 今は禅問答のようなことしか思いつかない。

街並みの変貌は酒田だけでない
 江戸時代~明治~大正~昭和にかけて栄えた街も、産業構造の変化、或いは人馬から鉄道更に車社会にと発展する過程で、時代から取り残された街が多くある。
 この発展過程で歴史的街並みを、発展の邪魔物として破壊し続けてきたところが殆どであり、その典型が東京と言われる。
 今、東京都民は失ったものの大きさにようやく気づき、後悔していると言われ、五街道の起点・日本橋の復活、江戸城天守閣の再建などが計画されている。
 また、街に取り残された歴史的な遺物を「街の資産」として、未来の街づくりに生かすために保全し活用する模索が各地で起きている。
 酒田市民は、どのような選択をするのであろうか。

日本各地の主な日和山
日和山 (山形県)-山形県酒田市。最上川河口・酒田港が展望出来る。
      公園として整備。敷地は3.8ha、内約2haが国有地で酒田市に無償貸与。
日和山(北海道)-小樽市(高島岬)日和山灯台
日和山 (北海道)-北海道登別市にある標高377mの山。
日和山 (石巻市)- 宮城県石巻市にある標高56.4mの山。旧北上川西岸。
日和山 (仙台市)-宮城県仙台市宮城野区にある標高6.05m。日本一の低山。
日和山 (名取市)-宮城県名取市にある標高6.3mの山。
日和山 (秋田県)-秋田県能代市にある標高30mの山。
日和山 (新潟県)-新潟市中央区東堀通十三番町、標高約27m
日和山 (石川県)-石川県鳳珠郡能登町にある標高29mの山。
日和山 (尾鷲市)-三重県尾鷲市にある標高301mの山。
日和山 (鳥羽市)-三重県鳥羽市の鳥羽駅南側にある標高68mの山。

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最新・菅内閣支持率は39%

 菅内閣は、昨日8日で発足1カ月を迎えた。Tky201007040330
 発足当初、何もしない政権に国民は60%もの高支持率を与えた。
 これに気をよくした菅内閣は、支持率の高いうちにと参院選に突入する方針を決定。

 しかし、このような姑息な考えに呆れたことや反日左翼政権であることに国民は徐々に気づきはじめ、一気に支持率に現れたとみる。
 一番低い調査は朝日新聞社によるものだが、7月3、4の両日実施した全国世論調査では、菅内閣の支持率は39%だという。さあ、20%台はもうすぐだ。

 当ブログでも、V字回復した支持率はV字で下落すると予測した。
  http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/vv-9151.html
このときは、投票日まで残り二週間で何パーセントまで下落するか。せいぜい40パーセント前後だろう。「民主失速」で、議席数は「50」以下とみた。
できれば45議席以下を期待する
と予測した。

 支持率の予測は当たっている。あとは、あさっての投票日を待つ以外にないが、45議席以下となり、菅総理は早期退陣だ。

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日本国家の滅亡につながる法案が待っている。
 民主党が過半数をとり政権が安定すれば、次の法案は国会で簡単に成立することになる。全て日本国家の滅亡につながる法案ばかりだ。
 なぜ悪法なのかは個々に調べて欲しい。
①永住外国人地方参政権付与法案、
②人権侵害救済法案、
③靖国に代わる国立追悼施設の設置、
④選択的夫婦別姓案、
⑤国会図書館法の改正案(恒久平和調査室の設置)


民主党の支持母体
 民主党の支持母体を知らないで、投票するようでは話にならない。
1:部落解放同盟(解同)
2:在日本大韓民国民団(民団)
3:日本教職員組合(日教組)
4:日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル派)
5:在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)
 全て日本を敵視する団体ばかりだ。
 本来の日本人なら、こんな組織の支持を受ける民主党と一緒になってはならない。

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経済は民主大敗とスペイン勝利?

  経済発展は、民主党の大敗とサッカーではスペインの勝利に掛かっている。

 W杯が世界経済を救う?
 経済関係者がスペインを応援するには理由がある。
 「W杯優勝国は経済が成長する」。
 これは単なるジンクスではなく、過去の例からも明らかな現象だという。

  サッカーW杯は、日本敗退後関心は薄らいだが、経済関係者からはまだまだ熱く注目されている。
 決勝は「ドイツvsスペイン」、日本時間12日(月)午前3時半開始だ。
 この時間だと、参議院選の選挙結果もほぼ大勢が決定していることだろう。

 スペインは欧州信用不安の震源地の一つ。対するドイツは財政が比較的安定していて、窮地に陥っている欧州各国の救世主的な存在に祭り上げられている。
 そんな両国が相まみえる皮肉なカードだ。
 優勝国は経済が発展する傾向があるだけに、世界経済の安定のためにスペインに頑張ってもらいたいと願う経済関係者は多い。

  この状態を待ち望んだのは、深刻な財政危機などに直面している「PIGS」と呼ばれる国々だ。PIGSはポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペインの頭文字をとったもの。
  スペインが優勝すれば経済成長率が高まり、財政赤字縮小にはプラスに働き、欧州信用不安の暗雲を吹き飛ばす可能性があると言われている。

 日本経済は、自律的回復にはほど遠い現状と言われ、他力本願、神風に頼る以外にない。
 12日は早起きして、民主党の大敗とスペインの勝利を確認する。

Yama

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2010年7月 8日 (木曜日)

日本の左翼と運動の歴史

 日本の左翼と歴史を調べていたら、なかなか良いサイトがあった。
 共産党や社民党は当然として、「民主党」が典型的左翼政党であることを、国民は知らされていないところがある。
 それは、民主党が党を締める要綱がない、政権奪取だけが目的の寄せ集めの臨時編成の党だからと言われている。
 つまり何でもありの、極めていい加減な政党なのだ
 国民を騙して、票を得るテクニックだけは超一流だ

 さて、間もなくある参議院選挙で左翼政権「民主党」が過半数なら、
  「人権侵害救済法
  「夫婦別姓法
  「外国人参政権
  などの悪法が、国会通過を待っていることを国民は覚悟すべきだ。
  この三法成立で、日本国家は解体に向かう。
 6月29日、千葉景子法相は、マニフェストに不記載でも選挙後、成立に向けた取り組みを変わりなく進める意向を表明した。3法案は民主党左派の悲願とされる施策だ。

  「国民が知らない反日の実態」から、
  http://www35.atwiki.jp/kolia/m/pages/841.html?guid=on#id_c3c604fb

団体・組織 参    考 
日本共産党 結党時からコミンテルンの下部組織。戦後も各界に32年テーゼを信奉する隠れマルキスト多し。
日本社会党(現、社会民主党 朝鮮労働党の友党。村山談話。その他反日活動多し。
民 主 党 民団が全面的にバックアップ。朝鮮総連や支那系組織も密かに支持。破壊活動はこれからが本番。
日本の左翼運動の歴史
左翼思想の日本への紹介
中江兆民(1847-1901)とルソー『民約論』 中江兆民(本名:篤介)は土佐藩の足軽出身で政府留学生として渡仏後ルソー『民約論』を翻訳し「東洋のルソー」と呼ばれたが、勝海舟を通じて西郷隆盛の話に心酔し、やがて西郷を直接知る頭山満と知り合って生涯の親交を結ぶなど、その思想は複雑である。
幸徳秋水(1871-1911)と平民新聞(1903発刊-1907廃刊)、大逆事件(1910) 幸徳秋水(本名:伝次郎)は土佐の有力な商家の出身で、同郷の中江兆民の門弟となり、やがて師の紹介した社会主義思想に傾倒して、堺利彦らと平民社を起こし平民新聞を発行、非戦論を経て急進的な革命思想(天皇制打倒)を抱くに至り、大逆事件に連座して刑死した。
無産政党の結成~社会民主党(1901)、日本社会党(1906)、労働農民党(1926)、社会民衆党(1926)、社会大衆党(1932)
堺利彦(1871-1933)と赤旗事件(1908) 堺は豊後の士族の出で『萬朝報』の記者となり、のちに社会主義者になって幸徳秋水とともに平民社を起こし平民新聞を発行。1906年に日本社会党(戦後の政党とは別)を結党し、1908年には赤旗事件(大杉栄・堺らが革命歌を歌いつつ赤旗を掲げてデモ行進し検挙された事件)を起こして入獄。1922年の日本共産党結成にも参加したが、活動方針を巡って講座派と対立し離党した。
安部磯雄(1865-1949)と日本フェビアン協会(1923)・社会民衆党(1926)・社会大衆党(1931) 安部は福岡藩士の子で、ドイツ・アメリカ留学を契機にキリスト教社会主義者となり、片山潜・幸徳秋水・河上清らと共に社会民主党を結党(1901)したが2日後に禁止された。1920年前後の大正デモクラシー期には穏健社会主義(右派社会主義)路線を明確に打ち出し、日本フェビアン協会を設立(1923)、さらに反共産主義の立場で現実的な議会政治を通じて社会改良を目指す社会民衆党を結成(1926)、委員長として普通選挙法(1925年成立)に基づく初の選挙となった昭和3(1928)年の第16回衆議院議員選挙に立候補し当選。昭和7(1932)年には全国労農大衆党と合同して戦前における最大の無産政党であった社会大衆党を結成(安部磯雄委員長・麻生久書記長)するなど社会民主主義者として活躍した。
杉山元治郎と労働農民党(労農党)(1926) 杉山は大阪泉佐野の小作農民の出で天王寺農学校在学中に受洗。賀川豊彦(キリスト教社会主義者で農民運動家)の影響を受けて共に日本農民組合(日農)を設立(1922年)。更に普通選挙法成立を機に議会政治を通じて農民生活の改良を目指す労働農民党を結成した(1926年)。しかし労農党の地方支部を組織する過程で共産党系活動員の浸透を許し、共産主義を目指す下部組織と反共産主義の幹部層が対立。幹部層は脱党して社会民主主義者の安部磯雄と合同で社会民衆党を結成(1926)、麻生久ら中間派も脱党して日本労働党(1926年)を結成したため、杉山は辞任(1927年)を余儀なくされ、労農党は左派に乗っ取られた。
コミンテルン指導下に日本共産党結党(1922 第一次、1926 第二次)
片山潜(1859-1933)とコミンテルンの接近 片山は岡山県の庄屋の出身で、アメリカ留学中にキリスト教社会主義者となり、社会民主党結成に参加。ロシア革命(1917)が起こるとマルクス主義に傾倒し、1921年にソ連に渡航。コミンテルン常任執行委員会幹部となり国外にあって日本共産党結党の指導を行った。1933年の片山の死に際してソ連は国葬の礼を持って生前の活躍を賞した。
コミンテルン22年テーゼ(方針書)と日本共産党結党(第一次結党 1922) 前年にソ連に渡航した片山潜の指導の下、コミンテルン日本支部として、1922年7月15日に堺利彦・渡辺政之輔・市川正一・徳田球一・山川均らによって結成。党の方針書(テーゼ)としてコミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示されたが、その内容(①君主制の廃止、②軍隊の廃止、③労働者の武装権、④朝鮮・中国からの撤退、⑤土地公有化など)のうち、①君主制の廃止、は日本では弾圧を招くとの反対があり、同テーゼは採択されるに至らなかった。
翌23年6月には早くも多数の幹部が検挙され、24年山川均の提議により解散し地下活動に入った。
日本共産党第二次結党(1926)とコミンテルン27年テーゼ(1927) 地下活動中の日本共産党の方針を巡って山川均(山川イズム:大衆運動を重視)と福本和夫(福本イズム:党の建設(再建)を重視)が対立し、福本が一時主導権を握って26年に共産党再建大会を開いたが、コミンテルン日本問題特別委員会が翌年に27年テーゼを発して福本・山川両氏を批判し渡辺政之輔の下で新体制を作らせた。同テーゼは、アジアにおける労働者・農民の階級闘争を呼びかけるとともに、日本の来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」であるとした。
労農党浸透工作と3.15事件(1928)、4.16事件(1929) 議会政治を通じて農村改良を目指す合法政党として労農党が結成(1926年)されると共産党員は各地の労農党地方支部に浸透し、昭和3(1928)年2月の第16回衆議院議員選挙に徳田球一・山本懸蔵など何人かの党員を労農党候補として立候補させることに成功。選挙戦の中で公然と「日本共産党」を名乗る印刷物を発行したため、田中義一内閣は選挙直後の3月に治安維持法に基づき共産党員および労農党員の一斉検挙に踏み切り(3.15事件)、労農党は一時結社禁止となった(その後再建し全国労農大衆党に改名後、社会大衆党に合同)。
なお、3.15事件の検挙者に東大・京大以下32校148名もの学生が含まれた事実は政府当局を震撼させ、①治安維持法強化と共に、②学生の思想を調査する機関として文部省内に「学生課」設置を招いた。(のち「思想局」に昇格)
翌29年4月には更に大規模な共産党員の検挙が行われた(4.16事件)。
コミンテルン32年テーゼと日本資本主義論争
コミンテルン32年テーゼ(1932)~絶対主義天皇制論・二段階革命論の提示 昭和7(1932)年5月コミンテルン執行委員会西ヨーロッパビューローにより『日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ(方針書)』が決定され、河上肇の翻訳で同年7月に『赤旗』に掲載され、戦前の日本共産党の綱領的文書となった。
同テーゼは日本の支配体制を、①絶対主義的天皇制、②地主的土地所有、③独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体として天皇制をみた。(ソ連の「ツァーリズム」に擬して「天皇制」という言葉を造語)そこから、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するための「ブルジョア民主主義革命」(反ファシズム解放闘争)であり、「プロレタリア革命」はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。
この32年テーゼは、講座派の指針となり、また徳田球一(戦後に共産党を再建した)や羽仁五郎(マルクス主義歴史学者。戦後に参議院議員となり国会図書館法前文を起草・GHQ焚書実行。元日教組代表)の指針となって戦後日本にまで大きな影響を及ぼした。
一例を挙げれば、羽仁五郎が委員長を勤めた歴史学研究会(歴研、歴史研究の学術団体)は戦後ずっと32年テーゼに示された絶対主義天皇制論を金科玉条とする戦後歴史学を展開し続け、それが否認されたのは漸く平成15(2003)年になってからである。⇒高森アイズ
また戦後に政治学者としてマスコミに持て囃され、現在も信奉者の多い丸山真男の根本的主張は「国民主権とは天皇制を打倒すること」であり、最近もそれに影響を受けた異様なNHKの世論誘導番組が放送されている。
講座派(日本共産党の思想基盤)~岩波書店『日本資本主義発達史講座』発刊(1932) 講座派とは、日本資本主義の性格規定と来るべき日本の革命形態を巡ってマルクス主義思想家を二分した論争(日本資本主義論争)において、日本資本主義の本質は軍事的半封建的段階にあるとして、来るべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」(第一革命)であると主張した論者達であり、戦前~戦後を通じて日本共産党の思想的基盤を為した。主な論者として山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、服部之総、山田勝次郎、大塚金之助らがいる。
労農派(社会主義協会(のちの日本社会党左派)の思想基盤)~雑誌『労農』発刊(1927) 労農派とは、日本資本主義論争において、明治維新は不完全ながらブルジョワ革命であり、日本における封建制は消滅しており、現下で国家権力を握っているのはブルジョワジーであるとして、来るべき革命を「社会主義革命」(第二革命)であると主張した論者達であり、のちの社会主義協会(日本社会党の最左派にして主流勢力)の思想的基盤を為した。主な論者として山川均、猪俣津南男、荒畑寒村、櫛田民蔵、土屋喬雄、大内兵衛、向坂逸郎(マルクス主義経済学者。戦後に向坂派社会主義協会を擁して日本社会党の最大のイデオローグとなる)、宇野弘蔵らがいる。
左翼思想の弾圧~国家社会主義への転向
赤松克麿と日本国家社会党(1932) 赤松は山口県の浄土真宗大谷派の住職の子でロシア革命の影響を受け日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任するが検挙され獄中で転向。労農党・社会民衆党(書記長)を経て、1931年に日本国家社会党を結成。天皇を中心とした一君万民の平等社会建設を唱えた。
佐野学・鍋山貞親の転向声明(1933)と大量転向 佐野は大分の西欧医学者の子で、赤松と同じく日本共産党第一次結党に参加し中央委員に就任。第二次結党にも参加し1927年に委員長に就任し党を指導。翌28年にはソ連に渡航してコミンテルン常任執行委員に選ばれたが、29年に上海で逮捕された。1933年に鍋山貞親と共に「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(一国社会主義運動)を行う」とする転向声明を出し、これを受けて獄中の多くの共産党員が転向した。
講座派の一斉検挙(1936) 政府当局は3.15事件以来、共産党検挙者に多数の学生が含まれ、学生・知識人層にマルクス主義が蔓延している事実を憂慮していたが、思想汚染の根源として、1936年7月遂に講座派の理論的指導者であった東京大学助教授山田盛太郎・平野義太郎、明治大学助教授小林良正ら32を治安維持法違反で一斉検挙に踏み切った(コム・アカデミー事件)。
労農派の一斉検挙(1937-8) 1936年にフランス・スペインで成立した人民戦線(共産党を含む左翼勢力の連合政権)に衝撃を受けて、翌37年から38年にかけて、日本共産党以外のマルクス主義者(主に労農派)の一斉検挙が行われ、日本の言論界からマルクス主義は消滅した(人民戦線事件)。
これらの事件は戦後、左派により「軍国主義者の思想弾圧」として糾弾され続けているが、当時は経済不況下でフランス・スペインのように現実に左派勢力によって国家が乗っ取られ、その背後にコミンテルンが暗躍している切迫した状況があった。言い換えれば、ソ連の思想侵略を防止するために日本は自ら思想統制を行わざるを得ない状況にあったのであり、それを戦前も戦後も思想侵略の手先であった日本の左派に糾弾される謂れはない。
敗戦と左翼運動の隆盛~現在まで
GHQによる左翼活動家の一斉釈放・左翼運動の支援(1945) 昭和20(1945)年8月末に進駐した連合国軍総司令部(GHQ)は、10月以降、治安維持法や特別高等警察を撤廃し、共産党員その他の思想犯を釈放。更に新聞・ラジオ・出版物等に強力な検閲を行って占領軍に不都合な事実や戦前/戦中の日本を擁護する言論を封じると同時に、皇室否定/廃止論を含む左翼的・反国家的な言論を奨励した。
日本共産党の再建(1945) 終戦後、まず昭和20(1945)年10月に機関紙「赤旗」を復刊。占領軍により釈放された徳田球一、袴田里見、志賀義雄、宮本顕治らによって12月1日に再建大会を開催。「32年テーゼ」を再び党綱領として採択。翌46年1月には支那より野坂参三が帰国。4月の衆議院選挙で日本共産党は初の5議席を獲得した。これにより日本共産党は占領軍を「解放軍」と規定した。
日本社会党の結成(1945) 戦前の無産政党のうち、労働農民党(左派・マルクス主義労農派)・日本労農党(中間派)・社会大衆党(右派・社会民主主義)など非共産党系の3派が合同して昭和20(1945)年11月に発足。右派の片山哲が初代書記長(のち委員長)に就任。翌年4月の衆議院選挙で93議席を得て、日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)に次ぐ第三党となり、更に新憲法下での初の衆議院選挙(1947年4月)で第一党を占めて、民主党(芦田均総裁)・国民共同党(三木武夫委員長)と共に片山連立内閣を組織した。しかし党内左派が公然と内閣の施政方針を批判するなど内紛が絶えず片山内閣は10ヶ月弱で瓦解した。日本社会党は、このあと民主党の芦田均を担いで芦田連立内閣に参画したが昭電疑獄が発覚し7ヶ月で内閣総辞職、第二次吉田茂内閣(民主自由党)が発足して、以降1993年に至るまで社会党が政権に参画することはなかった。
2.1スト中止(1947) 再建された共産党では革命実行(天皇制打倒)が公然と語られ、意に従わない学者や出版社に対して革命後にはギロチンに処する等と脅迫する党員も現れた。当時GHQは意図的に日本の左翼運動・労働運動の拡大を望んでおり、戦後の経済的困窮の中で、日本共産党は新設された労組に絶大な影響力を及ぼし始めた。
日本共産党は、1947年に入ると官公庁労組を中心とするゼネ・ストにより吉田茂首相(日本自由党)を打倒・日本を共産化する方針を公言するに至り、2月1日を期して無期限ゼネ・ストに入ることを宣言したが、限度を超えた共産党・労組の暴発を恐れたGHQは方針転換して1月31日になってマッカーサーの名で中止命令を出したため、ストは中止された。
GHQの方針転換(レッドパージ)(1950)と日本共産党所感派の武力闘争路線 1949年10月に中華人民共和国が成立すると米国の対日方針が大転換し、日本の保守勢力を再建し共産主義勢力を弱体化させる動きが出てきた。1950年に朝鮮戦争が勃発すると徳田球一など共産党幹部や言論界/官公庁/一般企業の共産主義者が一斉に公職追放され、徳田・野坂参三らは中国へ亡命した。
徳田らはスターリン・毛沢東の指示を受けて米軍を解放軍とする規定を廃止し、武装闘争路線を取って各地で巡査襲撃事件を起こし、日本が主権回復(GHQの占領統治終了)した3日後の1952年5月1日には血のメーデー事件を起こしたので、国民の共産党への支持は地に落ちて、衆参両院で議席ゼロでとなる時期がしばらく続いた。
徳田球一ら武装闘争路線をとった日本共産党の主流派を「所感派」といい、宮本顕治ら反対派を「国際派」という。
なお1952年7月には武装闘争を取り締まるために破壊活動防止法(破防法)が制定され日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。
1953年に徳田が北京で客死すると所感派は指導力を失い、1955年3月に宮本顕治が実権を握って日本共産党は合法活動路線に戻った。
安保闘争新左翼 自社55年体制がスタートした昭和30(1955)年頃から、武力闘争を否定した社会党・共産党に代わって「暴力革命」を闘争方針に掲げる新左翼運動が起こり、1960年や70年の反安保闘争を主導した。新左翼活動家のマスコミ・政党・官公庁・学界への浸透は非常に深いとされ、また日本赤軍その他の多くの分派が発生、各派の活動は現在も続いている。

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ブランド牛の多くは宮崎生まれ

 最近、東北自動車道を往復したところ、東京方面に向かう牛や豚を満載した家畜運搬車がいつもより多く感じたのは気のせいだろうか。U00002738329l
 宮崎県の口蹄疫被害を他県や他国では、ビジネスチャンスと見ている人も現実にいることだろう。食用牛を、宮崎から離れた地域から購入したい気持ちは理解できる。

 さて、マスコミも、ようやく相撲問題一色から選挙報道に軸足を移してきた感がある。
 しかし、宮崎県の口蹄疫問題の報道はほとんどない。
 10年前の口蹄疫では35頭で終息させたが、今回は33万頭の殺処分でも終息させることが出来ないでいる。
 7月6日には、新たな口蹄疫感染牛が見つかり16頭が殺処分されているのに報道が少な過ぎる。マスコミが最大の力を発揮するときは、報道しないときなのだ
 このような場合、何かが隠されていると見たほうが自然だ

■何度も繰り返すが、口蹄疫問題は民主党の失政そのものだ。
 赤松大臣と民主党が引き起こした人災だ。
 特に大臣の 「ちまちましたことをやってたってしょうがない」 、「だから早く殺せって言ってるのに」 といった発言は、畜産業者の気持ちを逆撫でした。
 最近、赤松大臣から山田副農林水産相が格上げされたが、山田大臣も同罪だ。
 かつて、社会党左翼政権下で発生した阪神大震災のとき、そして今回の口蹄疫被害でも証明されたことは、反日左翼政権下では、国家が危機のとき、冷静、迅速な対策は出来ないということだ。
 元々、愛国心のない左翼政党が、国民のことを第一に考えないのは当然といえば当然なことだ。 
 
■宮崎県では口蹄疫問題発生以降、人々の移動や物流は制限され、商店街やストアは大打撃を受け、経済は壊滅状態に陥った。畜産農家は、牛や豚の全てが殺され、牛舎も豚舎も空っぽです。生活の糧もなく復興のめども立たない。
 畜産を辞めたとしても、他の産業もだめになっていて就職先もない。

 このような宮崎県の惨状を、他県や他国では、ビジネスチャンスと見ている人も現実にいる。万に一つも、口蹄疫が東北や北海道に飛び火したことを思うと、人ごとではないはずだ。
 しかし、「他人の不幸は蜜の味」と考える日本人に意外に多い。
 江戸の大火で、材木を買い占め一儲けした紀伊国屋文左衛門や河村瑞賢は、今も尊敬の対象にされている。
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-d660.html

■ ところで、「ブランド牛」と呼ばれる牛肉の子牛は、殆どが松坂や近江の土地で生まれ育った牛でないことをご存じだろうか。
 例えば、松坂牛の約4割は宮崎県の「スーパー種牛」から産まれた子牛を買い付け、それを松坂で数年かけて独自の方法で育てたから「松坂牛」と呼ぶのだという。
 つまり、宮崎県の口蹄疫問題は日本のブランド牛全体の危機なのだ。

■多くの「ブランド牛」の子牛は、宮崎県の「スーパー種牛」から生まれている。
○宮崎県=宮崎牛
○佐賀県=佐賀牛、伊万里牛
○三重県=松坂牛(子牛の4割は宮崎産といわれる)
○鹿児島県=鹿児島黒牛
○長野県=信州和牛
○長崎牛=五島牛、壱岐牛
○京都府=丹波牛
○滋賀県=近江牛
○茨城県=常陸牛
○兵庫県=神戸牛、但馬牛
○徳島県=阿波牛
○静岡県=静岡育ち

  口蹄疫は終わっていない。種牛精液の海外流出 2010.7/8(木)
 やまと新聞 http://www.yamatopress.com/
 自身のブログで、口蹄疫の危険性、政府の対応の甘さやマスコミ報道について積極的に発言されている泉谷しげるさんの公式ブログ「うびょーとんの未来日記」(やまと新聞号外が届いたとの記事があります)たとえ相手が政府やマスコミであっても、悪いものは悪いとはっきり明言。「前にも言ったがオレはハナからマスコミを宛てにしながらヤッてるワケじゃないし~自分を表明出来る此処で、ひとり勝手に宮崎・口蹄疫感染問題をアレコレ突っ込んでるンだが~基本は宮崎を愛し、応援しつづけたいのさ!」「宮崎を愛してこその行動でなければ、時間に負けて、口蹄疫感染問題はそれぞれの記憶の彼方に追いやられるだろうよ!」と語る。
 参議院選挙の公示から10日が経過し報道は選挙一色。口蹄疫問題はほとんど報道されなくなった。口蹄疫の新たな発生は終息に向かっていたかに見えたが、被害に遭われた畜産農家や飲食、物流、観光など宮崎産業の復興はこれからだ。そんな中、昨日宮崎県で口蹄疫疑いの牛が見つかり、同農場で飼育中の牛16頭の殺処分、埋却を5日未明に完了した。口蹄疫の疑いが見つかったのは6月18日以降初めての事だ。宮崎市は移動制限区域を11日午前0時に解除し、16日午前0時には県全域の終息確認とする方針だったが、農林水産省の防疫指針で原則として最後の殺処分完了から21日間は制限区域を解除できないと定められているので。終息確認は27日までずれ込むことになった。
 毎朝世話をした我が子同然にかわいがった牛や豚が全て殺され空っぽの牛舎、豚舎だけが残った。生活の糧がなくなり復興のめども立たない。「もう畜産は止めようかとも思ったけど、他の産業もだめになってしまったから、働く先もない」川南町は税収のほとんどが畜産農家からのものだ、しかし畜産農家がゼロになってしまった今、川南町の税収はほとんどない、その財政でどうやって町をたて直すのか「夕張より難しい」(宮崎県会議員)
 わが国の和牛は長い年月をかけて改良の努力を積み重ねようやく出来あがり、その品質は世界で絶賛されている日本固有の財産だ。そしてその種牛は日本の財産そのものであり、畜産農家や関係機関が協力して大切に守って来た我が国の宝である。
 しかし、近年この国民の財産である種牛の精液など遺伝資源が海外に流出し、日本に逆輸入されるケースが増えている。
 こうした状態を放置すれば、国産の優位性が保てなくなり、本当に日本の畜産は壊滅してしまう。農水省は、和牛精液の流通防止策を一刻も早く定めるべきである。先日テレビ番組で「口蹄疫は外国にとってはビジネスチャンスだ」と言ったコメンテーターがいる。日本の畜産は日本人の財産である。海外からの和牛逆輸入を奨励することは日本の畜産を崩壊を奨励するのと同じだ。苦労して作り上げた日本の和牛。その苦労をせずに精液だけを輸入して和牛が生産されている。日本の優れた技術を無尽蔵に垂れ流し、中韓にコピーされ安価に販売されたため日本の経済が混乱した。第一次産業でも同じことが繰り返されようとしている。
 しかし、根本は口蹄疫を二度と出さないこと、出てしまったら最小限の被害で止めることだ。そのためには感染ルートの解明が必要である。未だ解明されない感染ルート。宮崎の口蹄疫の発生・拡大状況には疑問がわく。
 その一つが、ウイルスの発生箇所。通常、突然豚舎のまん中で発生することは考えられない、口蹄疫ウイルスは感染力が非常に強く、ウイルスの侵入ルートに沿って発生するはずだからだ。 そして同時多発的に何キロも離れた場所で発生したこと。
口蹄疫発生直後から現地では
最初に口蹄疫の発生が出た水牛農家のすぐ近くの大手牛農場が、深夜にトラックでえびの市に牛を運んでいた。この農家は保健所の検査を最初数回断わった。深夜にトラックで運んだ運転手はその後自殺。
という噂が広まっている。

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2010年7月 7日 (水曜日)

勝ち馬に乗ったか吉村知事

 表題を、「勝ち馬に乗ったか吉村知事」にするか、20100702029jd
 「日和見主義の吉村知事」にするか、
 それとも「洞が峠を決めたか吉村知事」にしようかと、一瞬迷った。
 いずれにしても、どれも当てはまる。

 山形県酒田市に帰省中、参議選山形県選挙区で大きな動きがあった。
 かねてから、動向が注目されていた大江町出身の吉村美栄子山形県知事(58)が1日夜、自民党現職の岸宏一氏(70)への支援を表明した。
  吉村知事は、昨年1月、民主、共産、社民各党、連合山形、更に自民・岸氏の応援で当選しており、立場は微妙だった。

 当ブログでも、前日30日「山形県知事は誰を応援するのか」
   http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/cat38986902/index.html
と問いかけたが、その翌日にも決意を表明するとは思っていなかった。
  昨年、吉村知事を応援した民主党からは、「知事の立場の重みを考えるべきだ」などと反発の声があるという。 
 民主党の焦りまくっている様子が手にとるように分かる。
 県内には、菅首相、小沢元幹事長、枝野現幹事長らが集中的に応援に駆けつけていた。 
  民主党の和嶋未希県連会長は「終盤に来ての表明は本当に残念」と述べ、吉村知事に県連としての意向を伝えることを明らかにした。一方で「これまで培われた信頼関係は揺るがない」とも言い、民主党新人の梅津庸成氏(43)の選挙戦への影響を打ち消そうと懸命だという。しかし、先月末の情報では、自民党現職の岸宏一優勢が伝えられており、吉村知事は勝ち馬に乗ったと見るのが正しいと思う。

 最近は、民主49、自民49、公明9、共産4、社民2、みんな8との予測もある。
 菅民主党には厳しい結果が待っている可能性が高い。 
  そして、吉村知事は女性特有の直感から、自民・岸宏一候補が勝つと票読みした結果の応援であろう。
 更に、3年後には二期目の知事選と、民主党の舟山やすえ議員の参議院改選が重なる。このとき、吉村知事は、自民候補、民主候補、どちらに応援するのか。
 また、知事自身はどこから応援を受けるつもりなのかは、今後の政治情勢に委ねるつもりなのだろう。
 実にしたたかだ。
 結局は「理念なき左翼」の日和見主義とみた
 定まった考えはなく、形勢を見て有利な方に付くという左翼特有の考えだ。
 または、洞が峠で形勢を見た、「洞が峠を決め込む」ということか。

 「洞が峠を決め込む」とは、 両者を比べて自分に有利な方につこうとして形勢を見守ることを言うが、語源は戦国時代に、洞が峠で戦況をみた筒井順慶に由来する。
 1582年6月2日、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は新政権樹立のため諸将に協力を求めたが拒否された。
 頼みの綱は姻戚関係にある筒井順慶だけとなった。
 しかし、順慶は味方するようにみせかけて摂津、山城の境にある洞が峠に陣取り山崎合戦の戦況を見守り、明智光秀の敗色が濃くなって初めて秀吉方に味方した。
 このことから日和見(ひよりみ)主義を「洞が峠」とか「順慶流」というようになったという。

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急遽、山形県に帰省

 一週間ほどブログを休んでいた。
 7月1日急遽、郷里の山形県酒田市や遊佐町に帰省し、昨夜東京に戻った。
Dscn3979 ブログが頻繁に更新しているように見えるのは、出発前に当たり障りない情報を何点か記載し自動更新しているからだ。
 
 先月末、80を過ぎた母親が転倒し大腿骨を骨折したという。
 直ぐ命に別状ないが高齢者の骨折は、今後の生活の仕方を含め間違いなく致命傷になる。
 そんなことは言われなくとも当人が一番分かっていたようだが、事故は突然発生する。Dscn3980_2
 このような理由から、日中は病院で話相手になっていることが多く、また夜は夜で親戚・友人らとの交流もあり、パソコン類の文明の機器には一切触れない生活が続いた。

 「こんな素朴な生活が理想かな」と妻に言うと、「何もしないで酒ばかり飲んでいたら、それはいいでしょうね」とグサリと言う。Dscn3981

 それでも合間を見て、かねて気になっていた要所要所はチェックしてきた。酒田港、道の駅、旬のもの、日和山公園、海鮮市場、ヒラボク、おくりびとの撮影地、高速道路の進捗、参議選の近況、酒田の街並み等々だ。
 やはり、自分の目で確認しないと感想も批評もできないことばかりだ。そのうち、徐々に紹介していこうと思う。

 東京に戻る際は、いつものように郷里の旬のものが満載だ。
 根曲がり、カラダケ(唐竹)、ワラビ、スイカ、カボチャ、ニラの花、山ウド、夕顔、ミズ、サクランボ、もって菊、醤油の実、庄内米、日本酒等々、この写真の3倍の量はある。
 当分は郷里の旬を楽しむことが出来そうだ。
 母親には、「来月も来るから」と約束したが、今後、月に一回程度帰省出来るかどうか・・・・・。

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2010年7月 5日 (月曜日)

「立川」昭和20年から30年代-Ⅱ

「立川」-昭和20年から30年代
http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-7c9e.html
からの続き
          中野隆右(たかみち)編(ガイヤ出版)
第一章敗戦
第一節:駅前に広がる闇市 
第二節:闇市をつくった人々 
第三節:いわゆる第三国人とは
第四節:闇物資の出所
第五節:基地と横流し
第六節:犯罪が犯罪を呼ぶ世相
第二章夜の市長
第二節:基地の街の風俗
第三節:パンスケの語源
第四節:基地の女
第五節:夜の市長
第六節:中野喜介氏という人物
第三章軍 都
第一節:鉄道開通と飛行場の開設
第二節:運送業の始まりと祖父田郎
第三節:市制の施行と戦時体制
第四節:空襲
第五節:砂川というところ
第四章基地の街
第一節:基地で財をなした人々(1)~小佐野賢治氏と立川~ 
第二節:基地で財をなした人々(2)~くず鉄・繊維・闇の酒~
第三節:基地の街の酒場とアメリカンハウス
第四節:基地の営業許可http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2010-04-11-20
第五節:基地の街で流行る商売
第六節:基地が育てたジャズメンたち 
第七節:夜の市長と立川短大の設立
第五章競輪場
第一節:夜の市長と競輪場問題
第二節:パンパンと不正選挙
第三節:夜の市長のもうひとつの顔
第六章独立と復興
第一節:独立と復興
第二節:燃える川
第七章戦後の終焉
第一部:街の変貌
第二節:夜の街
第三節:選挙違反

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第二節
 闇市をつくった人々
  敗戦直後、昭和20年の日本は、戦時中に引き続き統制経済の下で配給制が敷かれていた。敷かれてはいたが、質、量ともに決定的に足りず、それだけで命をつなぐことなど思いもよらぬことだった。しかもそれは敗戦からのち、日を経るにつれて酷くなっていた。
 この状態は数年続いた。いや、歴史として振り返れば数年続いたに過ぎないが、その時代を生きる人々にとっては、それはいつ終わるとも知れぬことであった。
 白根氏は敗戦後バーテンとして勤務した米軍基地で、“こんな笑えない滑稽な話”を闇いている。
 「やはり基地に勤めていた私の知り合いから間いた話です。基地に働きに来た一般の労務者が、たまたま時間外に米軍の食堂へ行ったんだそうです。そうしたら食堂の人が休憩で誰もいなかった。見ると棚の上に何か知らないけれども饅頭みたいなものが置いてあったんだそうです。それは実は日本人の従業員の人が、ネズミが出るっていうんでネコイラズを仕込んであったものだったんです。それを知らずにその労務者は、パンか饅頭だと思ってそいつを食べて死んじやってね。そんな馬鹿なことがありました」
 そんな時代だけに、闇市では、前節で触れた嗜好品もそうだが、なんと言っても食料品が多く扱われた。敗戦の翌年から立川基地内で美容院の経営にたずさわり、現在も立川駅近くで美容院の営業を続けている住田義弘氏は、当時の闇市の姿を次のように振り返る。
 「当時は経済統制で一般には物がない時代でしたが、闇ではいろいろな物が手に入ったんです。たとえば闇市には、ぜんざいなどもありました。ただ、ぜんざいといっても砂糖が自由に手に入らない時代だったから、甘味は無かったんですよ。砂糖など、もちろん正規には手に入りませんでしたから。酒なども配給でしたが、実際に配給されるのは1カ月あたり五合くらいのもの。それでも配給があれば喜んだものです。米も統制だったので、寿司屋などでも米は客が持ち込むという体裁で営業していました。米でも野菜でもみんな闇。千葉や埼玉などから、みんな必死の思いでかついで運んできたものです」

 主食の米などまでもが、闇でなければ足りない。そこで近郊・近県の農家などから手に入れてくるわけだが、それが大変だったというのは、もちろん運ぶことについてだけの話ではない。なにしろ統制経済に違反する闇物資の取り扱いは、もちろん違法。これは厳しい取り締まりの対象であって、ばれればその場で没収されたし、当然処罰の対象となった。
 ただしひとくちに違法と言っても、取り締まりは物によって軽重があったようで、「米はうるさかったが、魚はあまりうるさくなかった」(住田氏)という。

いずれにせよ闇物資の取引は、その入手、搬送、そして取り締まりの目をかいくぐっての街への搬入と、どれもが苦労の連続であった。しかも当時の都市生活者にとっては、それ無くして生活は成り立たなかったのだ。
 このように苦労して街に運び込まれた闇物資は、あるものは運び込んだ人々の家庭で自家消費され、またあるものは闇市の店頭に並んだ。このように人口から出目まで違法行為によって支えられた市場を取り仕切っていたのは、前にも触れたように、平時には表舞台で活躍することはないアウトローたちであった。
   闇市をその営業形態から露天商と見れば、伝統的にはテキヤの扱いとなる。
事実そうしたケースもたくさんあった。だが、闇市を現実に取り仕切る面々が、昔ながらのテキヤの出身ばかりだったかというと、必ずしもそうではなかったようだ。では、彼らはどこから現れたのだろうか。
  当時の事情に詳しいさる事精通氏の話から、まずはその一例を探ってみよう。話は、日本の敗色が濃くなった大戦末期にさかのぼる。
 「日本の戦争不利で何か情勢が不安だと、世の中にそんな空気が伝わったころのことです。いつの世も同じですけれども、そのころにも愚連隊みたいな人たちがいました。若い血気さかんな人たちです。その当時は愚連隊とは言わず、義勇隊と呼んでいたんですが」
 ここで語っていただいた事精通氏-仮にA氏としよう-は昭和3年、戦後立川市と合併する砂川町の生まれ。戦時中は市内にあった日立の工場で「産業戦士」として働いていた。まだ十代のころのことだ。当時、軍都として栄えた立川には、立川飛行機“通称「立飛」”をはじめ、多くの軍需工場が稼動していた。ここで言う義勇隊は、こうした戦時下の工場で使われていた言葉のようだ。

  「戦時中、その義勇隊、つまりは愚連隊で、なおかつどうにも手がつけられないのは、満州のほうへ炭鉱送りにされた。でも、まあまあどうにか内地にいてもいいようなやつは、残っていた。ただ、それだけでは締まりがつかないのでボスを決めて、そのグループを抑えさせたわけですよ。戦争の終わりごろの立川飛行機の義勇隊の隊長、つまり立飛の愚連隊のボスは岡部さんでした。岡部さんは、あの当時にもう二十いくつかでしたが、戦争には行かず、立飛にいました」
 岡部さんとは、のちに市会議員となる岡部寛人氏である。混乱期の戦後の立川にあって、ある意味、市議会の要として活躍することになる。A氏の話は続く。
 「その岡部さんの兄弟分に、高松町で土建屋さんをしていた方がいました。この方は朝鮮出身の方です。その以前、立川にはいわゆるヤクザの組がありましたが、
戦争が終わるころには組長はもう年をとっておりました。それで終戦になると、ちょうど朝鮮入とか台湾入の方は三国人として有利な立場に立ったでしょう。
結局、この土建屋さんが、組の二代目の跡を継いで、それで作ったのが、立川の駅前から中武の角までの露天商街(闇市)。テキ屋の親分みたいなことをやったわけですね。今でこそテキ屋とか愚連隊というのははっきり分かれているけれども、あの当時はもう、ごっちゃでしたからね」
 立川における闇市成立のひとこまである。どんなことでも、その背景には必ず人の動きがある。教科書的には、「戦後、各地の焼跡には闇市が発生し・上で片付けられてしまう闇市の成立にも、各所、各所に必ず個別の事情、そしてそれを支える人の存在があった。

第三節 いわゆる第三国人とは
  ところで、ここでA氏の話に登場したご三国人について簡単に触れておこう。
明治43年の日韓併合条約で日本領とされた朝鮮“併合当時の正式な国号は「大韓」”は、昭和20年8月のポツダム宣言の受諾による日本の敗戦によって、独立を約束された。一万敗戦当時の日本には、2百30万人におよぶ朝鮮入が在留していたと言われるが、彼らの法的な地位については、実は、はなはだ曖昧なところがあった。
 米・英・中の連合国主要三国によって発せられたポツダム宣言では、その第八項において、日本の領土は、「カイロ宣言は履行されるべく」としたうえで、「日本国の主権は、本州、北海道、九州及び四国並に吾等の決定する諸小島に局限されるべし」と規定されていた。
 その二年前の昭和18年に、やはり米・英・中三国によって発せられたカイロ宣言では、「千9百14年の第二次世界戦争の開始以後に日本国が奪取し又は占領した太平洋におけるすべての島を日本国からはく奪すること、並びに満州、台湾及び膨湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還」とあり、また「暴力及び強慾により日本国が略取した他のすべての地域から駆逐される」とされた。
 すなわち、日本が明治以後周辺に拡張した領土のすべてはかつて帰属した国々へと戻されることとなったのである。
 加えて、このカイロ宣言は、「前記三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」として、朝鮮の独立について触れていた。では敗戦当時、現に日本国籍を有していた彼らの日本での法的地位はどうなるのだろうか。
 
  そもそも日中戦争以来八年間戦った中国は、もとより対日戦勝国であり、中国人は戦勝国民であった。そして今の今まで日本国籍を有した台湾系中国人もまた、中国人である以上当然のごとくみずからを戦勝国民と考えた。
 だが、同じ旧日本国籍保有者である朝鮮人の場合はどうか。彼らはたった今「解放」されたのであって、日本と交戦状態にあったわけではない。かといって「解放」された彼らが敗戦国民であろうものではなかろう。つまりは当事国でない「第三国」の人ではないか・・・。
 「三国人」、あるいは「第三国人」という呼称は、そもそもはこうした文脈で生まれた。それが別の意味合い“蔑称のような”をもって受け止められるようになるのは、もっと日時を経てのことである。
 ところで日本を占領した連合国サイドでは、彼らの存在は、どう受け止められていたのだろうか。日本占領の基幹を担ったアメリカは、昭和20年12月、東京のマッカーサー司令官に、「米国の在日難民に対する政策」として、次のような指令を送っている。

  最高司令官は、台湾系中国人と朝鮮人を軍事上の安全の許すかぎり解放民族(liberated people)として取り扱うべきである。彼らは本書面に使用されている『日本人』という用語には含まれない。しかし、彼らはいままで日本臣民(Japanese sub・Ject)であったのであり、必要な場合は、敵国民として取り扱ってもよい。彼らは、もし本人が希望するならば、最高司令官の定める規則によって帰還されうる。しかし優先権は連合国民の帰還に与えられる・・・台湾系中国人の帰還に関して、米国政府は中国政府と協定すべきである・・・台湾系中国人と朝鮮人は敵意のある日本人から保護すべきである。最高司令官は日本の行政機関が台湾系中国人と朝鮮人の帰還するまで、事実上、彼らの保護、安全そして福祉のための適当な措置をとるようにすべきである。(『米国の対在日朝鮮人占領政策』金太基より)
 
あるときは「解放民族」、必要な場合は「敵国民とはあまりにもご都合主義的で理解に苦しむが、そもそもアメリカの対日占領政策における台湾系中国人、朝鮮人の取り扱いの根底にはこのような曖昧さがあったのである。しかし、台湾系中国人も朝鮮人も、みずからを「戦勝国民」、あるいは「解放民族」としてとらえ、その処遇を求めた。
 そして、こちらは明らかに「敗戦国民」である日本人も、複雑な心情を抱えながらも、そのようにとらえていたのである。事実、当時の日本人の目には、次のように映っていた。
 「日本が敗戦になると、中国や韓国の人は戦勝国として特別待遇になったから、それこそ何をやってもよかった。闇のことなどでも、警察でも取り締まられなかった。省線の電車でも進駐軍の特別車両に乗っていた」(他出、住田氏)
 一方、先に引用した研究報告『米国の対在日朝鮮人占領政策』のあとがきで、韓国の研究者である著者は、占領政策の中での台湾系中国人と朝鮮人の位置付けとその変遷をこう分析している。

  解放民族としての法的処遇を要求する在日朝鮮人や台湾入と、在日朝鮮人や台湾人は依然として日本政府や警察の管轄下にあるという日本側との対立は、戦後初期から生じはじめますます激しくなっていった。GHQは、占領初期つまり1945年の段階まで在日朝鮮人の法的地位を明確にすることができず途方に暮れていたが、1946年の初め頃から、日本政府の上に君臨する日本の統治者として、そして日本政府の要求を受け入れ、「解放民族」で小数の異民族集団である在日朝鮮人に対して徐々に厳しい見方を持つようになった,その結果、日本政府の要求および占領上の都合で、在日朝鮮人を日本政府の管轄下におくため、「解放民族」=「外国人」としてよりも「敵国人」=日本人として取り扱う政策をとり始めた。

  ともあれ、「解放民族」となった彼らは、少なくとも敗戦当初において「敗戦国民」たる日本人とは違った立場で行動し得る。束の間の自由を得た、あるいは得ようとしたことは事実であろう。

第四節 闇物資の出所
   ところで、闇市について語るならば、当然、そこで流通していた闇物資について語らねばなるまい。当時間で流通していた物資には、前節までで触れたように米軍から流出した物資や、近郊農村などからの食料品以外に、実はもうひとつの大きな流れがあった。
 それは、旧日本車の軍需物資である。
 戦時中の日本は国民は窮乏していたが、なにしろ戦争遂行のために商工省を解体し、軍需省という役所が設置されていたくらいで、車は多くの物資を確保していた。また敗色が濃くなり、本土決戦が射程に入ってくると、文字通り、国内生産の比重は、すべてが民需から軍需へと移っていた。
 それらの膨大な物資は、どこへ行ったのか? 前節で語っていただいたA氏が戦後の立川基地で垣間見た光景を語る。
 「立川の飛行場はアメリカの被害には全然遇っていなかったでしょう。だから、すべての資材なんかみんなあったわけですよ。終戦後もそっくり残っていたわけですよね。それを車は全然取りにこないで、そのままになっていた。私たちがたまたま基地の残務整理でアメリカ軍に徴用されて使役に出た時、ある倉庫をのぞいたら、新品の日本車の飛行服とか、飛行隊の半長靴だとか、日本刀だとかがかなり残っていました。それはもう必要のないものだから、山積みにされていましたよ。日本はもう何もない、何もないと言っても、やっぱり飛行場あたりには結構あったわけです。それはそれなりの設備が整っていたし、資材もあった。それがいずこかへみんな消えている」
 軍が各所に確保していた物資の中には、戦後配給されたものもあり、私も軍用品の雑嚢が配給になったことを記憶している。
 だが、中には戦後所在不明となったものも多く、いわゆる「隠匿物資」として全国で大きな問題を引き起こすことになる。敗戦後の昭和21年から内務政務次官として隠匿物資の調査にあたった世耕弘一代議士は、後に次のように書きのこしている。
  ちょうど、この時、机の上に積み上げられている書類に、ふと私の目は止まったのである。
-それは、日本軍が本土決戦を行うために蓄積して置いた、あらゆる物資がそのまま残されている『明細報告書』である。
 私はハッとしてむさぼるように、その書類に目を通した。
 「これだ、これだ、この書類の通り全部が温存されていなくても、このばく大な物資を民間に放出すれば、日本人のニケ年間の生活は保証出来るゾ……」
私は書類の一頁一頁をめくるたびに、心の中でそう叫んだ。
 そこで早速、私は部下に命じて詳しくこの物資を分類検討させた。その結果、当時の物価に換算して六千億円の残存物資があることを確認した。
この当時は大型タオルを一枚50銭、ダイヤモンドは1カラット2千円(現在は20万円以上)と見積もったのであるから、現在では当時の諸物価の十倍としても六千億円というばくだいな物資である。
   『未発表・隠匿物資摘発の報告書』人物往来 特集  昭和31年12月10日号)
  文中、現在とあるのはこの手記が雑誌に掲載された昭和31年当時のことだ。
平成の現在では、いったいいくらになるものだろうか。とにかく途方もない金額でる。世耕代議士は、次にこれらの物資の現状把握に入る。ところが、次に大変な難問題にぶつかった。残存の軍需物資の種類、数量は一応確認してみたものの、物資は全国に分散保管されていて、果して現物はあるのか、どうか、これの確認方法をあれこれ考えた末、全国の府県知事に指令して物資を確認させようと思った。そこで、すぐさま内務省の幹部にこのことを相談したが、てんで問題にしてくれない。仕方がないから、私は内務政務次官の名で各府県知事に文書で照会したが、なんと一県も物資のあることを報告してこない。ただ、申し合わせたかのように、左様な物資は最早ありませぬ、という至極簡単な返辞ばかりである。
  役人に任せておいてはらちが空かないことを悟った世耕代議士は、「よし、官僚が協力しないのなら、民間人を動員して、とにかく当たってみよう」と、独自の調査に乗り出した。世に言う『世耕機関』である。
 この過程で世耕代議士は、占領軍司令部のマーカット少将から呼び出され、「自分の方で現物を確認しているものでも三千億円近くもある」と告げられている。
  旧軍需物資は終戦直後日本政府が、どうせ進駐軍が来たら没収されるのだからとして、現地で自由に処理させたのである。ところがマッカーサー元帥から指令が出て、旧日本軍需物資は、そのまま保存を命ぜられた。それであわてて散在したのを取り集めて、あらためてリストを作り、政府から司令部へ提出したのである。それがざっと三千億円くらいにのばった。
  その後、この『世耕機関』は隠匿物資の摘発に乗り出すが、その手記によると、隠匿の中には、かなり大掛かりなものも多かった。
   こういう物資の隠匿者は来年の三月は危機だといわれたのに、・・・・街には食に飢え、裸足で歩いている人がいるのに、何十万足という軍靴を、山村の私設倉庫に隠して、ただひたすらに私利私欲の盲者になっている有様であった。
また、この外に毛布やキャラコ綿布など当時の物価にして数十億円にのぼる物資が、暴力と権力を背景にして、一部の悪徳者たちによって保有されていた。
  これらの摘発に際しては、「ある時は大金庫の中で調査しているうちに締め込まれたり、大倉庫の中にはおり込まれたり」といったことがたびたびあり、それは「まるで西部劇じみた嘘のような冒険」の連続だった。そして、「まったく私自身が殺されなかったということは不思議なくらいであった」と述懐している。

  これらの隠匿蔵物資は、「旧軍の物資を終戦のドサクサまぎれに、その関係者や軍需会社が横領して隠匿しているものが主」だったが、中には「マ司令部が進駐と同時に一旦差し押えた旧軍関係の物資のうち、日本国民に適当に処分配布せよと命令して日本政府へ返還したのをそのまま官僚が悪用したもの」もあったという。
 ところで、旧日本車の物資の中には、空襲の激化が予想されるようになった際、被害を避けるため軍の倉庫から周辺各所へ分散保管されたものもあった。「軍都・立川」においても、この物資の「疎開」は大規模に行われていた。
 立川の場合、飛行場の周辺部の農家の蔵などへ、軍の依頼によって預けられている。ある家はリヤカーのタイヤ、ある家へは缶詰、あるいは戦闘機の椅子といった具合に分散収容されたのである。袋詰めの食料が預けられた家では、蔵にアリがわくといったこともあった。
 ちなみに、砂川の我が家では、砂糖をお預かりしていた。これらの物資は官物であり、「いずれ軍から連絡があるまで保管せよ」ということであったから、どの家も律儀に保管していた。そのうち軍そのものが解体してしまい、これらの物資は、取りに来る人がいなくなってしまった。
  もっとも、中には敗戦後になって軍人が家に現れ、持って行ったものもあったようだが。前出のA氏は、この辺の事情をこう語る。
 「戦後になって、関係者も何もかもみんな分散しちゃったでしょう。だから、その関係者で、どこに何か隠匿してあると知っていた人は、自分で必要なものだけ取って、軍のトラックか何かを利用して、そのまま田舎へ帰っちゃったなんていう話も聞きます。農家のほうは預かったわけだから、軍から来たと言えば、別にそれをいやとは言えない。だから集めて、どこかヘドロンしちゃったわけです。たとえば自分の家へ持ち帰ったとか」
 もちろん、回収に現れる人がなかった場合も多く、それらはいずれかの時点で、預かり主の農家自身が処理することになった。ちなみに我が家の場合、預かっていた砂糖は、食品問屋へと消えた。いずれにせよこれらの膨大な物資がその後どう処理されたかは、預かった家の人以外、(あるいは持って行った人がいた場合、その人以外)知る由もないのである。
結局、闇市に流れたものも幾分かはあったと考えるべきかもしれない。

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2010年7月 4日 (日曜日)

モクリ・コクリがくるぞ

 山形県遊佐町吹浦には「アマハゲ」という珍しい伝統行事がある。Image1_file0110000417132428431_3
 言うことを聞かない子供には、「アマハゲが来るぞ」と叱る。

 これと同じような意味合いで使うのだろう。
 宮城県では子供を戒めるときに、「モクリ・コクリがくるぞ!」と叱る言葉があるという。その証拠に、仙台市太白区八幡5「来迎寺」に「モクリコクリの碑」がある。
 「モクリは蒙古」、「コクリは高句麗」で、いずれも恐ろしい外敵という伝承だ。

 既に、文字の並びからも想像出来るように、鎌倉時代に起きた元寇(元軍・高麗軍。文永の役(1268)と弘安の役(1274)の総称)のことを指している。
 「元寇」の主戦場となったのは福岡県辺りだが、「ムクリ・コクリがくるぞ!」の戒めの言葉は、A_1壱岐・対馬・北九州辺りの日本海側の人達に、永遠の恐怖感を植えつけた。
 「モ」と「ム」の違いは方言からだろう。
 それが、太平洋側の宮城県にもあるとは、攻めて来た痕跡があるのだろうか。
 それとも、この土地からも参戦して戦死者が出たのだろうか。
 今回は、そんな疑問と、
 「コクリ」は高句麗軍、つまり朝鮮軍も一緒になって攻めてきたことを知らせたい。

 なお、山形県遊佐町に伝わる「アマハゲ」のルーツは、ロシア人が船の難破で日本海岸に漂着した外人(白人)だと年寄りに教わったが正確には知らない。
 それから、埼玉県高麗郡には1300年前の奈良時代に、高句麗から高麗王若光一族が渡来しているが、年代が違うので元寇とは関連ないと思われる。
 但し、立場は微妙だったことが推測される。

 

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2010年7月 3日 (土曜日)

民主党 迷走と裏切りの300日

 ようやく、読売新聞も民主党の正体に気づいてくれたようだ。
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  緊急出版、読売新聞政治部編集の「民主党 迷走と裏切りの300日」が6月25日発売された。
 民主党の「正体」を暴く!
 この党に本当に政権担当能力はあるのか?
 権力内部の暗闘を描いた緊迫の政治ドキュメント。

 国民の期待を裏切り、「政治とカネ」「普天間」という二つの問題に翻弄されて迷走を続けた鳩山政権。追い詰められた首相は窮余の策として、小沢幹事長と刺し違えて退陣することを決断したが……。 これで本当に民主党は再生するのか? 鳩山政権の266日間、さらに菅首相誕生までを追った緊迫の政治ドキュメント。

  歴史的な政権交代で誕生した鳩山政権はわずか266日間でついえた。(中略)「野党と与党では見える世界が違った。
 野党の時は、選挙に勝つためにできるかわからない発言をしたり、約束をしたりしてしまう。本当に政権を取った時にやれるかやれないのかをしっかり考えないと、結果としてできなければ国民にうそをついたことになる」あきれたことに、それが政権・与党8か月半の最大の教訓だというのである。(中略)いかに民主党に政権担当能力が欠けていたかを物語っている。
    鳩山から菅へ、「小沢支配」は終わるのか?

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2010年7月 2日 (金曜日)

菅首相の原点はマルクス思想か

 「婦人運動家・市川房枝のマルクス思想遺伝子は、菅直人首相に引き継がれてC_eaいる」と言われる。
 産経新聞で面白い本が紹介されていた。
 「幸福の科学」の大川隆法氏を支持するかしないかは別にして、同氏著の「菅直人の原点を探る」を紹介したい。

 内容は、“市民運動家”の本音とは?
  「北朝鮮は夢の国ですよ」「ソ連や中国、北朝鮮っていうのは、もう「理想の国」ですよ。平等が完成された、人類の理想像ですよ」
 などだが、一部を抜粋して紹介する。

 市民運動や市川房枝の秘書活動を通じて政治家を志したという菅直人首相の横顔が浮かび上がる。

市川房枝(1893~1981年)のメッセージ(一部抜粋)
若き菅直人に与えたマルクス思想的影響
――市川先生におかれましては、日本の政治において、婦人参政権運動を主導されまし た。婦人の地位向上に尽くされ、多大な功績をあげられたと思います。
市川 ええ。ありがとう。
――市川先生の下で、政治家としての人生をスタートした菅直人氏が、このたび、首相 となられました。当時、市川先生の目からは、菅直人氏が、どのような人物にみえてお られたのでしょうか。
市川 あの青年がねえ。総理大臣まで行きましたか。はあ。あの若い人がねえ。でも、好青年でしたよ。なんだか熱心な人でしたね。まあ、私どもの手伝いを一生懸命してくれましたよ、うん。 何度も落選されていましたが、ゼロから政治家を目指されていたのでね。市民運動家として政治家を目指されていたんだと思いますよ。
ああ、ここは、何なんですかねえ?
――市川先生はご自分が亡くなられていることは、ご存知でしょうか。
市川 はあ? いや、そう?
 いや、年を取りまして、ぼけましたし、身体は不自由で すが……。
今、「なくなった」とおっしゃったんですか。死んだって?そんなはずは……。いや、長生きはしましたよ。そんなことが分からなくなってしまうほど、ぼけたのでし ょうかねえ。うーん。
――市川先生が、菅首相に薫陶された教えというものは、おもに何だったのでしょ うか。
市川 強く言っていたのは、「不平等社会は、やっぱり、なくさなきゃいけない。すべ ての人間が平等に取り扱われる世の中をつくらなきゃいけない」ということです。そし て、「政治家の仕事は、お金持ちや社会的地位の高い人間からいじめられている弱い人 を護ることだし、お金持ちからお金を取って、貧しい人に再配分することである。弱い ものいじめをしている権力のある人に対し、抵抗運動として“政治敵ゲリラ戦”をする のが、政治家としての正しい姿勢だ」というようなことを基本的に教えていたと思います。
――それは、マルクス思想とつながる考え方でしょうか。
市川 んー、そうですね。まあ、基本的にはそうかな。私の時代には、ずいぶん流行り ましたのでねえ。いちおう救済の思想だと思いましたよ。「マルクス思想があれば、宗教はなくてもいけるかな」と思っていましたよ。だって、「マルクスの思想が、貧乏な人や、不平等な社会を救済してくれる」っていう んなら、マルクスがいれば、神様、仏様は要らないじゃないですか。
北朝鮮は夢の国で日本は悪い国
――市川先生は、日本の安全保障や外交について、どのようにお考えでしょうか。
市川 「何十年もたったのに、まだ米軍基地がある」ということは、「日本が支配され ている」ということですからねえ。それは、帰ってもらわないといけませんわねえ。
――市川先生は、米軍が日本各地に基地を置いていることの目的や意味については…。
市川 日本が負けたから、アメリカは日本を占領し続けているんじゃないですか。
――米軍が日本の自衛隊との連携を深めて日本近海の防衛体制を強化したり、あるいは、韓国、台湾とも連携を取って……。
市川 アメリカが、アジアに干渉するのは間違いですね。
――ただ、北朝鮮では核爆弾の開発を……。
市川 えーっ? 北朝鮮は夢の国ですよ!なんてことを言うんですか、あなたは。
――北朝鮮は、今、経済が破綻しており、国民が非常に飢えて,北朝鮮は、今、経済 が破綻しており、国民が非常に飢えています。
市川 それは、日本が悪かったのでしょう。
北朝鮮の人にもすごく迷惑をかけたと思うので、今、貧しいのなら、一生懸命、支援し てあげないといけないでしょうね。
――数多くの日本人が拉致されています。
市川 そんなこと、北朝鮮がするわけないじゃないですかぁ! 北朝鮮は、「夢の国、 理想の国」だから、自主的に向こうに移り住んだりしたんですよ。
――いや、金正日も認めております。
市川 金正日って何ですか。金日成じゃないの?
――金日成の息子で、今の最高指導者です。その金正日が、日本人を拉致したことを認 めています。
市川 ふーん。ちょっと、よく分からないけども、北朝鮮はいい国だし、日本は不平等 な国だから、日本人はみんな北朝鮮に逃れていきたいでしょうね。
――菅首相も、北朝鮮による拉致問題の解決については、尽力すると言っています。
■菅首相は「左翼」と呼ばれる理由は……
市川 ソ連や中国、北朝鮮っていうのは。もう「理想の国」ですよ。
――ソ連が崩壊したのはご存じですか。
市川 ソビエト連邦が滅びた? えっ?……ソビエト連邦が滅びた? なんで?アメ リカに滅ぼされたの?
――いえ、自壊しました。ソ連の崩壊は、共産主義が失敗した実例です。
市川 ソ連みたいな国が滅びるなんて、神も仏もないじゃないですか。
――そもそも、ソ連は宗教を禁じていました。
市川 うーん、でもマルクス主義があれば、宗教はなくてもいいでしょうね。
――市川先生は、失礼ながら、あの世におりながら、あの世のことをご存じない?
市川 いや、私は長生きして、ぼけているのは分かりますが、あなた、嘘をついて、年寄りをいじめるのはやめてください。
――本日は、このへんで、終了させていただきたいと思います 。
ありがとうございました。
大川隆法 「政治家必ずしも、死後、よからず」ですね。菅さんも、おそらく、同じよ
うな考えでしょうね。言っていることは、
要するに「基本的には、マルクスや毛沢東が神仏の代わりである」ということです。これが、菅首相の政治の原点であり、菅政権が、「左翼政権」と言われる理由ですね。
高杉晋作(1839~1867年)のメッセージ(一部抜粋)

 菅首相の故郷・長州の志士である高杉晋作は、武士や庶民の混成部隊・奇兵隊を発案した人物。「奇兵隊内閣」を名乗る菅政権への思いを聞いた。
■「菅奇兵隊内閣」はけっこう短命?
――菅新政権では「騎兵隊内閣」という命名がなされましたが。
高杉 奇兵隊と言うのは、基本的には、侍ではない人なのだろう?寄せ集めの軍隊で正規軍と戦うというものだったから、まあ、「奇兵隊内閣」というのは、“四民平等型戦略部隊”という意味かな。
――菅政権はなんのために騎兵隊内閣と名乗っているのでしょうか。高杉先生との違いは?
高杉 長州は、倒幕に入ったけれども、最初は、朝敵にされたり、幕府の敵になったりして、色々と、さんざんな目に遭った。そのなかで、戦いを挑み、明治維新という革命をおこしたので、その「革命を起こした」というところを取って、自民党政権から民主党に移った“革命”を明治維新になぞらえて言っているのかなと思うがね。
そして、おそらくは、民主党政権が「寄せ集め状態」であることをもって奇兵隊と言っているのかな。そういう混成部隊が民主党なので、“奇兵隊”が天下を取ったような気分でいるんだと思うけどね。
でも、これ、短いなあ、やっぱり。この政権はもたないよ。
基本的に、内容がないわな。今どき、共産主義革命のようなことをやろうとしているんだから、この日本も落ちぶれたものだね(笑)。世界では終わってるようなことを、やろうとしてるんだろ?
菅の頭のなかには、日比谷の年越し村だか何だか知らないが、あれがあるんじゃないか。彼は、「最小不幸社会を目指す」と言っているけど、職にあぶれた失業者に、炊き出しをしたり、毛布を出したりすることを、政府の仕事だと考えているんじゃないかな。
菅には、きっと、終戦のころの餓鬼霊のようなものが、たくさん憑いているよ。
――サイパン島で死んだ日本兵の霊が、菅首相を指導しているというか、守護霊だそうです。(『国家社会主義とは何か』参照)。
高杉 それは、きっと被害意識の強い人だろうねえ。でも、きっと、ほかの霊も、たくさん寄ってきているよ。今では時代遅れになった人たちの霊が、この人に取り憑いて、もう一回、社会主義革命、共産主義革命を日本で起こそうとしているように見えるけどね。
菅政権のもとで日本は貧しくなる
高杉 だから、アメリカのような、ああいう競争と市場主義の国は嫌いなんだろうな。
基本的に、彼の頭のなかにあるのは、戦後の復興期のようなものだね。「配給制の平等」というか、割り当てをして、平等に暮らすようなことだから、それは、いわば“最低生存生活社会”だろう。彼は、そういうことを頭のなかに描いているので、きっと、この国は、経済的には、もっと貧しくなるだろうね。豊かな生活を望んでいなくて、「金持ちは、みな悪人だ」と思っているんだろうね。そそらく、金持ちいじめを徹底的にやるよ。金持ちの票は少ないからね。だから、これは、まあ、「戦後復興内閣」だろうね。イメージとしてはそんな感じかな。
――「奇兵隊内閣」という名前を使うのは許せいないということですね。
ああ、そうだね。彼は、かなり貧しい社会を前提にしているね。豊かな社会では、基本的には、共産主義や社会主義は成り立たないだよ。彼は、富が生まれない社会をつくろうとしているんじゃないか。
菅首相は敬愛が分からない
――今、支持率が高まっていますが、これについては、どう思われますか?
高杉 デフレとか、この前の経済不況のあおりとかで、国民に、未来への不安、将来への不安のようなものが広がっているので、それとマッチングして見えているんだろうね。
高齢社会の老人たちを救う社会をつくるつもりでいるんだろうね。「年寄りに、市場での競争のような、自由競争や能力競争をやらせるわけにはいかないんじゃないですか」と、たぶん、そう考えているんだと思う。
――菅首相は、今、「強い社会保障」など、いろいろなことを言っていますけれども、彼の一番の問題点はなんでしょう。
だから、経済がまったくわかっていない。“振り付け師”がついていて、その振り付けどおりにやっているだけであって、内容は、全然、解っていないだよ。去年、「官僚を抑えて、政治主導の政治をする」と言いっていたわりには、中身が空っぽで、実は、官僚に全部、支配されている。
財務省がやりたいのは、「国際の額を減らして、税金をもっと取りたい」ということだ。財務官僚は、「『増税しても、増えた税収を社会福祉に使えば、経済は成長する』という理論で、菅先生、行きましょう」と言って菅を焚き付け、国民を騙そうとしている。まあ、魔法のような話なので、菅は「それなら、わしの願いと、まったく同じだ」と考えて、踊らされているんだね。
これは、完全に“社会党政権”だね
この内閣は、要するに、「中流以上の国民が不幸になる内閣」だね。一番不幸な人のところには、手を差し伸べるけれども、うまくいっているところについては、もう少し不幸になってもらって、誰もが平等になる社会を目指しているんだね。これで、経済はたぶん縮小するだろうし、不況は長引くだろうし、大企業は、財務体質のいいところもけっこう潰れていくだろう。
菅政権は“自覚なき”左翼政権
高杉 菅さんは、日本で社会主義革命をやろうとしているわけだが、社会主義の本質を知らないんだね。理系頭脳の人の場合、理論的にやれるもののことが、美しく見えるんだよ。
それから、二番目の弱点は「外交」だね。間違いなく、この人の頭は、まだ東西の冷戦が終わっていない時代の頭だと思うね。でも、基本的には、またしても、アメリカが彼に引導を渡すんじゃないか。鳩山のときと同じだと思うよ。この民主党政権だと、アメリカのほうがだんだん距離を取ってきて、「もう、ばかばかしくて相手にできない」という感じになってくるだろうと思う。
そのため、この政権は、次に、軍事的にも変なことを、きっと言い出すだろうな。彼らは、自分たちを「左翼」とは認識していないんだよ。左翼と認識していない左翼であり、「民主主義をやっている」と思っているわけだ。だから、このへんが、中国や北朝鮮と一緒なんだよね。中国や北朝鮮は、自分たちの国を民主主義の国だと思っている。そこが、共通認識としてまったく一緒なんだね。
マスコミが期待?菅氏の社会主義革命
高杉 この人は、経済、軍事、外交は、基本的には駄目だろうと思うし、本質的に素質がないと思うね。市民運動家としては、出世しすぎたんだよ。政治家を長くやったために、ここまで上がったんだが、こんなに出世をしてはいけなかった。小党で、「一部の人たちの利害を代表して意見を言う」というぐらいでよかったと思う。
「鳩山は、個人の資質が悪かったので八ヶ月半で駄目になったけれども、菅だったらいけるのではないか」というのがマスコミだよ。次の実権だろう?
その裏にあるのは、マスコミだよ。自民党政権を、何十年も批判してきたので、「マスコミの力で政権交代をやった」と言われたくて、自分たちが“明治維新”を起こしたような気持ちになって喜んでいるわけだ。
ただ、鳩山政権が予想に反して短く終わってしまったので、「鳩山は、ぼんぼんだから駄目だったのだ。本当の社会主義革命ができるのは、菅ではないか」ということで、まあ、待望論が出ているわけだね。
――最後に、「革命の心」「革命の要諦」について、お教え願えれば……。
高杉 まあ、革命の要諦はだねえ、いろいろな規制や取り締まりなどを打ち破ることだね。いずれにしても、菅政権は、「戦後復興期内閣」のようになると思われる。お金をばら撒く先を欲しているので、失業者や倒産する会社、それから、働かない高齢者がたくさん出てくることを、実は望んでいると思うね。まあ、やらせてみたらいいが、まずは、「増税でも、金の使い方によっては、経済成長ができる」と言っていることの嘘がバレるのに、一年はかからないと思うね。こうしたなかで、幸福の科学のほうは、宗教改革、精神革命を進めて、「あの世がある」ということを認めさせていく宗教運動をきちんとやらなければいけないし、教育改革もやらなければいけないということかな。
やはり、戦後体制の総決算が、再度、必要だね。
うん。でも、そんな簡単なことではないと思うよ。

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2010年7月 1日 (木曜日)

出た!マスコミによる投票依頼

         ついに出た。奥の手。
     前代未聞のマスコミによる投票誘導

      http://www.yamatopress.com/c/1/1/2741/
         日刊ゲンダイ7月1日号
 
民主党政権下では、マスコミは何をやっても許されるのか。

 
  日刊ゲンダイ7月1日号は一面トップの見出しで、
 「もう一度民主党へ投票を」
 「争点は消費税ではない民主党の議席数だ」
 「民主党過半数実現で政権交代完成」
 国民生活第一の政治が本当に始まる
 との見出しを掲載。
 前代未聞のマスコミによる投票依頼だ。

 しかしだ。これに手を付けると、127747030511
 民主党・蓮舫候補が、「SHIWAKE2010」と書いた深紅ののぼりと、「蓮舫ビラを配布しています」と染めたのぼり十数本を並べ立ててアピールしたこととも併せて着手する必要がある。
 当局はどうでるか。
 もし、ゲンダイが身を切って、合わせ技を狙ったとしたら、奥が深い。それともブラックユーモァか。

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日本の政治を安定させ元の自公連立のデタラメ政治でドン底まで衰退した国と国民生活を再生させるために、選挙民は民主党一本に投票する必要があると報じた。
 こんなことが許されていいのか
 日本の将来を決める国政選挙の結果を誘導しようとする日刊ゲンダイを厳しく処分すべきだ。
 民主党がこのことにどのような対応をするのか、日刊ゲンダイは即時全ての新聞を回収すべきであり、国民は断固抗議すべきだ。
  これは許されるレベルではない、公正な選挙と言う選挙の根幹を揺るがし、国民の権利である投票権を侵害する重大な問題だ。

第146条 何人も、選挙運動の期間中は、著述、演芸等の広告その他いかなる名義をもつてするを問わず、第142条(文書図画の頒布)又は第143条(文書図画の掲示)の禁止を免れる行為として、公職の候補者の氏名若しくはシンボル・マーク、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者を推薦し、支持し若しくは反対する者の名を表示する文書図画を頒布し又は掲示することができない。
 前項の規定の適用については、選挙運動の期間中、公職の候補者の氏名、政党その他の政治団体の名称又は公職の候補者の推薦届出者その他選挙運動に従事する者若しくは公職の候補者と同一戸籍内に在る者の氏名を表示した年賀状、寒中見舞状、暑中見舞状その他これに類似する挨拶状を当該公職の候補者の選挙区(選挙区がないときはその区域)内に頒布し又は掲示する行為は、第142条又は第143条の禁止を免れる行為とみなす。

公職選挙法によってスタッフや支持者が候補者を特定、連想させるユニフォームなどを着て選挙活動を行うことは厳しく禁じられてい

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山形県民はもう騙されないぞ!

 参議選山形県選挙区は一人区だが、民主党候補の苦戦が伝えられている。
 民主党の小沢一郎元幹事長は6月29日、菅直人首相は30日と連続して山形県入りしてテコ入れを謀った。
  そして、いずれも注目すべき発言を残している。
 29日小沢元幹事長は、鶴岡市内で「公約は守るべきだ」、
 「必ず私が微力を尽くし、約束通り実現できるようにする
 と、9月の代表選で復活する意気込みを見せた。

 また、30日菅直人首相は、山形市内で
 消費税率を引き上げた場合の低所得者対策について、「年収300万、400万円以下の人には(消費税の)税金分だけ還付する方式か、食料品などの税率を低い形にする」と述べたという。
 この年収は、青森では「200万とか300万」、秋田では「年収300万とか350万」と行く先々で変えるところが、ダマすのが旨い「ダマ菅」と言われるところだ。
 信用できない男だ
  山形県民の平均年収は正確には知らないが、農業や中小企業が多い地域であり、「年収300万、400万円」は、殆どがこの年収に収まると思ってのことだろう。
 しかし、選挙用リップサービスで、山形県民をだませると思ったら甘い。
 民主党のマニフェストは、嘘つき公約だったことは衆院選でバレバレだ。
 数の論理を優先させるためには、嘘八百を並べても票が欲しい民主党には怖ろしいものを感じている。
 田舎に行けば行くほど、地域のしがらみから人物本位で選ぶ傾向が強いが、政党政治の日本では個人より政党の意向が優先する。
 「人物がいい」などと、日本を破滅に導く左翼政党候補者に投票してはならない。
 本当の左翼は、本性を隠して良い人になりすまして接近して来る。

消費税上げで首相「年収2百~4百万以下還付」(7/1読売新聞)
  菅首相は30日、山形市内などでの街頭演説で、焦点となっている消費税率を引き上げた場合の低所得者対策について、「年収300万、400万円以下の人には(消費税の)税金分だけ還付する方式か、食料品などの税率を低い形にする」と述べた。
 菅首相が、税金の還付対象となる具体的な年収の水準を示したのは初めてだ。
 税金の還付対象について、首相は同日、青森市での街頭演説では「年収200万円とか300万円」、秋田市内での演説では「年収300万円とか350万円以下」と述べた。これに関連して、政府高官は同日、「(食料品などに)軽減税率(を適用する)より税金還付方式の方がスムーズではないか。所得税と住民税の非課税世帯の人が(低所得者ほど税負担が重くなる)逆進性で苦しまないようにしないといけない」と語った。
 菅首相が想定している具体的な制度は不明だが、
〈1〉所得税を支払っている人には一定の所得制限を設けたうえで、一般家庭の標準的な消費税の負担額を所得税額から控除
〈2〉所得税の支払い分だけで控除しきれない部分は、給付金として還付するなどの給付付き税額控除を想定しているとみられる。さらに、所得税の課税対象となっていない世帯(夫婦・子2人)の年間所得325万円以下の低所得者については、消費税の支払い分をそのまま還付することが念頭にあるとみられる。
 また、首相は消費税率の引き上げについて、街頭演説で「10%くらいは検討しましょうと自民党が最初に提案した。それを参考にして大いに議論していこうじゃないか」と述べ、参院選後に与野党協議を始めるよう改めて呼び掛けた。

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韓国のトイレ情報

 下世話な話で申し訳ない。 
 韓国旅行が好きな友人から、「韓国は旅費は安くて料理も旨いし、観光地なら日本語も通じるから楽しいよ。」と教えられた。
 一度は行ってみたいと思っている。
 同時に、「トイレだけは日本のようにはいかないから」と注意された。

 整形美容が常識と言われる韓国は、表面を整えることには関心あるが、トイレのようなところに気を遣わないところが国民性なのだろう。
 韓国のトイレ事情は、まず、
韓国の公衆トイレの数は非常に少ない
 トイレを見かけたら、まだ大丈夫と思っても用を足しておく。
 それに、公衆トイレにはトイレットペーパーは置いてないと思った方がいい。
韓国のトイレは紙を流してはいけない
韓国のトイレには日本語で、「便器に紙を流さないで、バケツAaz_0に捨てて下さい」と書かれているところが多い。
 一流のホテルやレストランなら流しても問題ないそうだが・・・。
韓国のトイレは男女一緒や大も複数使用になっているところが多い
 かなり余裕がある場所でも一緒になっていることが多いという。
 気になるのは最初だけだというが・・・・・・。

 あとは、下段の写真で想像して欲しい。
 気が重くなった。

21213

Toilet01

Toilet03_2

Kan_toilet

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