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2010年5月 8日 (土曜日)

鶴岡市出身の佐藤鉄太郎のこと

 鶴岡市出身の佐藤鉄太郎のことは幾度か紹介している。
 佐藤鉄太郎は、日露戦争を勝利に導いた最大功労者の一人だ。
 http://z-shibuya.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-d998.html
 山形県人にも殆ど知られていない。
 戦争の話題をタブー視するあまり知ろうとしないのか、大人も知らない。
 学校の先生も知らないし、知っていても教えないのだろう。退官後には、郷里の鶴岡や酒田辺りの学校などで講演活動をした記録もあるというのに・・・
 佐藤鉄太郎は、その頃の海軍で「秋山か佐藤か」といわれた逸材だったが、Photo優しげな容貌とは裏腹に気性は激しく、第二艦隊参謀として常に強気の姿勢を一貫させていた。
 陸軍の東条英故(東条英機の父)と並ぶ戦史の大家として『帝国国防史論』を残している。「日本のマハン(米軍人で海洋戦略の古典的理論家)」とも称された。
  今、「坂の上の雲」がテレビ放送されているが、予備知識をもって観賞すると楽しみが倍加するものだ。
 その意味で、『「坂の上の雲」を101倍堪能する 日露戦争明治人物列伝』はお奨めだ。
 追加情報だが、司馬遼太郎は生前、坂の上の雲の映像化は反対していたという。理由は、この話しは戦争に勝って終わる内容だかららしい。
 日露戦争の勝利によって、変な自信を付けた日本軍は、この勝利の余勢を借りるかのように泥沼の戦争に入って行くのだからというが、分かるような気がする。
 佐藤鉄太郎のことを掲載した253~255頁を抜粋して紹介する。

『「坂の上の雲」を101倍堪能する 日露戦争明治人物列伝』
   失敗を成功へ転じた刹那の英断は剣術の極意にあり
      第二艦隊参謀 海軍中佐 佐藤鉄太郎
 日露戦争の海軍の使命が「ロシア艦隊の殲滅」とすれば、日本海海戦の佐藤の一瞬の判断がそれを可能にさせたといっても過言ではないだろう。
 また、その佐藤の進言を瞬時に受け入れた上村という艦長の存在も大きい。戦争がその時々の偶然に左右され、作戦通りに進行しないなかで、指揮官の一瞬の判断能力の重要性を痛感させられる。 
 その左右には加藤友三郎と秋山真之の姿があった。先頭Image0011を行く「三笠」への砲撃が一番過酷なのだ。しかし、それ以上に、日本側の砲撃は正確にバルチック艦隊を捉えていた。
 日本海海戦は戦闘時間30分で勝敗を決した。
 バルチック艦隊は旗艦「スワロフ」以下「オスラビア」「アレクサンドル三世」「ボルジノ」が火災を起こしていたが、対する日本側の艦船で火災を起こしている艦艇は見あたらなかった。
日本海開戦はこの30分で大勢を決したといわれている。
 この30分のために10年の歳月をかけて日本海軍は増強し、訓練してきたのだ。
 日本艦隊の正確な射撃と下瀬火薬によって、ロシア第一艦隊は火災を起こし、黒煙をあげていく。なかでも敵艦隊の先頭にある旗艦「スワロフ」の被害は甚大で、操行不能に陥っていた。
 重傷を負い人事不省のロジェストウェンスキー司令官は指揮権をネボガトフ第三艦隊司令官に委譲する。そして、午後2時50分。操舵不能の「スワロフ」は艦隊列から外れ、北へ北へと回頭していった。
 「三笠」艦橋にいた東郷、加藤、秋山貴之はこれを北方への逃走と誤解してしまう。
 連合艦隊第一戦隊は左90度に進路を変更させた。絶対に献をウラジオストックに逃がしてはいけない使命は勝利でなく、敵の殲滅にある。この しかし、東郷第一艦隊後続の第二艦隊佐藤鉄太郎参謀は「スワロフ」の回頭は単なる舵の故障と見ていた。
 司令長官の上村彦之丞も同意見である。
 その時、佐藤参謀は、ほんの一瞬、第一艦隊の信号旗を見落としてしまう。そして、その信号内容が左90度の回頭であったことを知って驚愕する。
 「第一艦隊は誤解している!」 佐藤の脳裏に、目の前で起きている複数の現実が同時に飛び込んで警告を発した。が、躊躇している時間はない。このまま直進すれば回頭運動をはじめた第一艦隊にぶつかってしまう。
 かといって、第一艦隊と同じ左旋回をとれば敵本隊から離れてしまい取り逃がす恐れがある。
 佐藤はパニックを起こしそうな自分を必死に抑え、冷静になろうとした。
 剣術の達人がみせた窮地の極地
 佐藤鉄太郎は「薩の海軍」のなかにあって佐幕派の出羽庄内藩の出身である。明治になって、会津藩を筆頭に佐幕藩出身者はつらい境遇にあった。佐藤は十三歳で海軍兵学校のジュニアコースに入る。将校時代には四谷文友館で伊庭想太郎から心形刀流を学んだ。
 佐藤が参謀になった頃、伊庭想太郎は心形刀流の極意を伝授した。「剣にかぎらず万策尽きて窮地に追い込まれたときは、瞬時に積極的に行動に出よ、無茶でもなんでもかまわない、捨て身の行動に出るのである」。これが心形刀流の極意であるという。
 この言葉が佐藤の脳裏を奔った。
 佐藤は司令官の上村に第一艦隊とは逆の面舵で敵の頭をおさえることを進言する。
 佐藤同様に「スワロフ」の行動を舵の故障と認めていた上村彦之丞という勇猛な司令官は、即座に決断を下した。
 第二艦隊は単独、面舵をとる。
 装甲巡洋艦で編成されている第二艦隊は無謀にも、敵戦艦隊に挑戦していくことになる。この佐藤と上村の機転と英断が日本海海戦を奇跡的な勝利に結びつけるのだ。
 ミドル級のボクサー軍団が手負いのヘビー級軍団に挑戦したのである。「スワロフ」にかわって先頭になった「アレクサンドル三世」「ボルジノ」に猛攻を加え炎上させていった。しかし、この佐藤と上村の英断は長く海軍の秘密とされたという。
 佐藤鉄太郎はその頃の海軍で「秋山か佐藤か」といわれた逸材だったが、優しげな容貌とは裏腹に気性は激しく、第二艦隊参謀として常に強気の姿勢を一貫させていた。
 陸軍の東条英故(東条英機の父)と並ぶ戦史の大家として『帝国国防史論』を残している。
 「日本のマハン」とも称された。
 逃げまどうロシア戦艦隊を挟み撃ち
 その頃、敗走するバルチック艦隊を追尾から攻撃していたのが出羽第三戦隊と瓜生第四戦隊だった。敵巡洋艦、特務艦、工作戦を炎上させて追走しているとき、上村第二艦隊から逃走してきた「アレクサンドル三世」「ボルジノ」などのロシア艦隊と遭遇する。
 午後4時30分過ぎ、巡洋艦隊と戦艦隊の無差別紙の遭遇戦が開始された。一転して苦戦を強いられることになった第三・四戦隊だったが、そこへ日本主力艦隊の東郷戦隊と上村戦隊が到着。
 形勢は逆転して「アレクサンドル三世」「ボルジノ」は断末魔の火柱をあげて傾いていく。
 そして、太陽も大きく傾いていく。

※「下瀬火薬」とは、
 大日本帝国海軍技師下瀬雅允が実用化したピクリン酸を成分とする爆薬(炸薬)である。日露戦争当時の日本海軍によって採用され、日露戦争における大戦果の一因とされた。なお、大日本帝国陸軍では黄色薬と呼ばれていた。

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コメント

広瀬火薬は下瀬火薬のはずです。

投稿: kenasa | 2016年7月29日 (金曜日) 午後 09時53分

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