« 「文春」と「新潮」は本日発売 | トップページ | 国旗、国歌を否定する議員達 »

2010年4月 2日 (金曜日)

男多数の街に誕生した吉原

 江戸は武士の街として開かれたが、生活物資供給のため商工業関係者が徐々に集まり、無秩序に街が拡大した。そこに、明暦3年(1657)の「振袖火事」で街がほぼ壊滅したことが再開発のきっかけになる。人口は急増し早々に百万都市になったが、江戸初期から圧倒的に男が多く、一説には、男65%、女35%だったという。
 すると当然のように、男達のはけ口と懐を目的にした遊女街が誕生する。
 これは、需要と供給から自然発生する最古の商売だ。

 現代社会でも、日本、外国関係なく軍隊等の男の集団組織がある近くに、必ずといっていいほど歓楽街が形成され、女達が集まるのと同じ理屈だ。
  つまり商売になるのだ。
 江戸では、まず麹町、鎌倉河岸、内柳町辺りに遊女屋が出現したが、その後、幕府は公娼制度を認め、「吉原」は、日本橋葺屋町(日本橋人形町)に作られた。これが大火の後1657年(明暦3)浅草寺裏の湿地の田圃ばかりの日本堤に移転することになる。
 これが「新吉原」で、移転の見返りとして広大な土地が与えられ夜間営業も認可された。新「吉原」は、周囲に幅5間の鉄漿溝(おはぐろどぶ)を巡らし、東西180間、南北135間。総坪数は3万坪弱もあった。昭和33年まで続くことになる。Photo_2

 ここには数千人の遊女の他、妓楼の従業員、商店、本屋・質屋・銭湯、芸事の師匠等、大勢が働く街が形成された。また、1765年には、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女(娼婦)が規制されるが同時に吉原の遊女増員が許可された。更に1842年には吉原以外での売春は禁止されるという歴史があった。
 
 江戸初期から昭和33年まで300年間に及ぶ遊郭街・新吉原の歴史は、江戸の街にとっては必要悪でもあった。
 残念ながら年齢的に利用体験はないが、昭和33年売春防止法が制定した約10年後に上京しており、当時を知る先輩方の自慢話は良く聞いたものだ。
 吉原は消えたが、明治通りの「吉原大門」の地名や街並に名残がある。
 なお、「吉原」の語源は、最初の土地が「芦の原っぱ」だったとも、遊廓を開拓した庄司甚内の出身地・吉原宿から付けられた説がある。
 そして最後に、最近、中・高生ら少女達による援助交際という名の売春Image0006を聞くと「吉原」の存在意義は、簡単には否定出来ないと思っている。もっとも、今のような規範の弛んだ時代では、吉原が有っても無くても、自然発生したのかも知れない。
 売春は、社会の問題点と裏側を形を変えて姿を現すのだろう。
 といって、「復活」という意見には、大きな反対運動が起きるのは確実だ。
 それを世間に納得させるだけの論陣を張れる男は、まずいない。
 援助交際の次は何が出るのか。
 「老女売春」、「アンドロイド売春」?、本当に何がでるか予想が付かない。

Photo_4

|

« 「文春」と「新潮」は本日発売 | トップページ | 国旗、国歌を否定する議員達 »

02 「うんちく」知ったかぶり」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「文春」と「新潮」は本日発売 | トップページ | 国旗、国歌を否定する議員達 »