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2010年4月14日 (水曜日)

「新宿・歌舞伎町」はなぜ栄えた?

 日本一、いや世界一の繁華街、新宿・歌舞伎町がなぜ栄えたのかを考察したい。Photo_4
 やや長文となる。よって、関心の薄い方は別のサイトに移動して欲しい。
 地の利が良く、交通の利便性、飲料水が十分に確保された地は自動的に栄える。(他に気候や安全等もあるが・・・・)この諸条件を宿場町「内藤新宿」は、全てを合わせ持っていた。
 家康が江戸入城し、家臣の内藤清成がこの辺りを拝領し、甲州街道沿いにしい宿場が浅草町人によって開かれた。
 信州高遠藩・内藤家の下屋敷は「新宿御苑」となった。
 江戸城からほど近く、1653年には玉川上水が流れた。
 玉川上水の終点は「四谷大木戸」(現・四谷四丁目交差点)だが、甲州街道が延び、一つ目の内藤新宿は栄えるべくして栄えた。
 そして、人が集まり賑わえば遊女も必要になる。
 今も昔も同じ、自然の摂理、需要と供給の関係ともいえる。
 「岡場所」(非公認の売春宿)」と呼ばれる女郎屋街だ。
 江戸の「岡場所」は宿場町、品川、新宿、板橋、千住(コツ)の四宿だが、それぞれ繁盛した。
Naitoshinjyuku_relief
 内藤新宿は、現在では甲州街道と新宿通りが交差する辺りを言うが、実際は点ではなく、線の地域のようだ。
 右の模型写真は上が四谷方向、右が玉川上水、丁字路が追分であろう。
 昔は、「追分」辺りが内藤新宿の中心だった。
 岡場所の客筋は、
 旅人、江戸住人は勿論、近郊の農民、それに、杉並・堀之内の妙法寺参詣帰りに明るいうちから寄る客も多かったという。また、現在の四谷四丁目交差点にあった「四谷大木戸」が宵四つ(午後10時)に閉められるので、泊まり客が多かった。
 江戸城勤番の武士が遅刻しないよう、「追い出し鐘」も準備されていた。
 明治以降にも触れる。
  明治新政府は1872(明治五)年「人身売買禁止」と「芸娼妓解放令」を出したが、遊女達は行き場がない。
 そこで東京府は、旅寵屋に限定し「賃座敷」という遊女屋を認めた。
 1875(明治8)年当時、内藤新宿には37軒の貸座敷があり娼妓は200人近くいた。
 明治に入り新たな公娼制度が始まったことになる。
 明治12年ころの記録では、公認の遊郭は、吉原、根津、品川、新宿、千住、板橋の5ヶ所になっているが、根津遊郭は東京帝国大学が本郷に出来ると教育上まずいという理由で、明治21年東陽町洲崎に強制的に83軒が移転させられている。
 
 話は内藤新宿のことに戻るが、
 1918(大正7)年、甲州街道沿いから遊女屋(賃座敷)が、警視庁の命により牛屋の原(現在の新宿二丁目)に移された。
 その結果、四谷大木戸(現在・四谷四丁目交差点)から追分にかけて点在していた53件の賛座敷が、牛屋の原にまとめて引っ越した。
 花園神社は移転前からあった。
 この移転が、一大歓楽街誕生の切っ掛けになったとされる。
 交通機関のことにも触れるが、
 大正当時は新宿駅周辺はまだ閑散としていていた。
 まだ、新宿の中心は追分付近で京王線の終点は追分にあった。
 都営新宿線「新宿三丁目駅」横の「京王新宿三丁目ビル」が京王本社ビルだったが、東京空襲後西口に移った。Image0010大正から昭和初期は、神楽坂が山の手一の繁華街だったが、昭和4年頃になると新宿がその座を奪った
 ※右写真は昭和8年頃の追分付近。

 その理由は、関東大震災で新宿はあまり被害を受けなかったことと、交通の利便性が格段に向上したことにある。まず、山の手線、甲武鉄道、京王電鉄は開通していたが、更に、昭和元年に西武鉄道電車、昭和2年に小田急が開通し新宿の集客は一層高まった。
 遊郭のことに戻ると、
 戦後、GHQから「日本における公娼制度廃止に関する連合国最高司令官覚書」が出され、警視庁は1946(昭和21)年、公認の売春地帯を指定し、そこを赤線で囲んで営業を許可した。
 これが「赤線」のいわれだ。
 新宿二丁目の赤線も、このとき指定されもので、風俗営業の許可を受けた警視庁公認の私娼地域となった。
 また、新宿二丁目に隣接した現在の歌舞伎町辺りは非合法の売春地帯で「青線」と呼ばれ、ここでは娼婦が800人を超えていたという。

  更に1958(昭和33)年、売春防止法が施行されると、新宿二丁目の赤線は、飲食店、旅館、喫茶店、ヌードスタジオ等に商売換えすることになった。
 そして、売春家業として、徐々に隣接した歌舞伎町に足場を移して続けられ、現在の歌舞伎町が「性風俗の街」となったとされる。

 新宿・歌舞伎町の賑わいは、江戸の「内藤新宿」から始まったわけだが、移転先の決定、私娼の公認など警視庁が歌舞伎町の形成に深く関与している。
 警視庁は、この地の治安維持に責任を果たしたいと考えているとされる。
 例年、年末には、警視総監が陣頭指揮でパトロールする姿が報道されるが、これも治安責任を果たす心意気の一つと見ている。

警視庁四谷警察署ホームページhttp://www.keishicho.metro.tokyo.jp/4/yotsuya/pb/pb.htm
 四谷警察署の管轄区域を確認すると歌舞伎町1丁目一部を含め、新宿1~5丁目ほか、内藤新宿側を管轄していることがわかる。
 つまり、新宿警察署の管轄は歌舞伎町側となる。

Photo_6

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