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2010年4月30日 (金曜日)

杉並区今川にあった処刑場

 今川家 今は今川の 観泉寺Sanmon

 東京都杉並区今川2丁目16−1には「観泉寺」という立派な寺院がある。                         
 杉並区「今川」の地名は、戦国時代の今川家に由来する。
 今川氏は、室町時代~戦国時代にかけて駿河国などを治めた大名だったが、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れたのち没落した。
 徳川家康と今川家とは縁が深い。
 家康が6歳当時、今川義元の人質として暮らした縁から、義元の子・今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、慶長19年(1614年)に江戸で没した。
 氏真の嫡孫今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって正保2年(1645年)に徳川家光から、井草村・鷺宮村・中村3ヶ村500石を知行地に与えられた。
 この知行地はけっこう広く、例えば井草村は現在の、善福寺、西荻北、今川、桃井、上井草、下井草、清水辺りも含まれるので、これが練馬区中村辺りまで含まれる知行地だから相当に広いことになる。
 杉並区善福寺にある井草八幡宮は今川家と関係が深い。
 今川家伝統の流鏑馬は、今も毎年ここで行われている。
 この地域は幕末まで、今川家知行地として続いた。

 屋敷の広さは、南は青梅街道、北は早稲田通り辺りまで「八町」もあったという。
 青梅街道に「八丁」という交差点名として名残がある。
 江戸時代の観泉寺は知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判権も与えられ、裁判は寺の門前で行われていた。
 裁判権が与えられていて、斬首の刑は、境内の北外れでの早稲田通り沿いで行われていたという。Ss_a
 場所は、荻窪警察署今川交番の反対側、現在は駐車場になっている辺りだ。家を建てるのは、皆、嫌がるという。
 
今川処刑場~杉並区今川の「観泉寺」は今川家の菩提寺だ。
 江戸時代は井草村・鷺宮村・中村界隈は今川家が統治していて、裁判権も与えられていた。当然、斬首の刑も行われていて荻窪警察署の今川交番の反対側の駐車場になっているあたりだ。

 江戸当時の処刑場はいろいろ調べたが、必ずしも全てではないと思ってする。例えば、国立府中インター付近にもあったという話を聞いている。
 もしヒントを教示して頂ければ調べたいと思うのだが・・・・。

 とりあえず、今川以外の、江戸にあった処刑場も掲載する。

小塚原処刑場~1651年(慶安4年)に創設。約220年の間に処刑された人は20余万人。当時は骨ヶ原と呼ばれたという。現在は荒川区南千住5丁目33番地の回向院別院。幕末には、橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎、梅田源次郎らが処刑された。
 ここでは約2万人、一日平均3人が処刑された。
鈴ヶ森刑場~1651年(慶安4年)に創設。品川区南大井2-5-6
伝馬町処刑場~中央区日本橋小伝馬町3-5 明治8年まで約270年間存続した。
板橋刑場~板橋区板橋3丁目15-10  JR板橋駅北側付近
八王子大和田刑場~甲州街道の大和田橋北詰付近。大和田交番の裏手。主に多摩地域の受刑者が処刑された。
浅草鳥越刑場~日本堤上り口にあったが、小塚原刑場に移転
芝高輪刑場~高輪の如来寺付近にあったが、1651年に鈴ヶ森刑場に移転した。
芝口処刑場(正式名不明)~港区三田3丁目7番8号付近
   鈴ヶ森の刑場が出来る以前は、芝の処刑場があった。江戸初期は、この辺りが東海道の江戸府内の境だった。

 この他のもあったら、教えて欲しい。

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